たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『日本株式会社の女たち』(6)

2014年11月09日 21時56分26秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
「昼夜、公私を問わない猛烈な働き方が社会を豊かにする、という大目標があった高度経済成長期。」

(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、111頁より引用しています。)

『日本株式会社の女たち』より(5)

2014年10月28日 16時06分08秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
 米国系化粧品会社の日本法人「エイボンプロダクツ」の大熊映子マネージャー(36)は、入社後、上司の面接を受け将来の希望を聞かれた。同社には年に一度直属の上司が部下全員に人事考課の結果を説明し、将来の向上に何が必要か、昇進の希望があるなら何をすべきか助言する仕組みがある。部下のキャリアアップは、「管理職の義務」なのである。大熊さんは、英語力を強化するよう助言され、週二回ほど、仕事のあとで語学学校に通った。会社から8割の授業料補助が出た。
「こんなふうにして欠点を補い、何を次にすべきか考えているうちに管理職になっていた、ということです」と言うのである。

 ここには、形式的に回ってくる異動希望を前に立ちすくむ、(日本の上場企業の主任)大川のような姿はない。残業も「しないほうが当り前」。仕事が残れば仕方がないが、残業が毎日のように続くとすれば、それは管理職の仕事の配分が悪く、一人に偏り過ぎているか、一つの部に集中しすぎているか、または、仕事の割に人員が少なすぎるか、いずれかが原因というのである。こうした点を是正するのも管理職の責任になる。

 どれだけ周囲の人に自らを合わせ、どれだけ長い時間を会社のために費やすかより、一定の時間でどれだけ効果を上げられるかが問われる。「知恵の勝負」である点、より厳しい要求とも言えるが、同時に、家庭責任を果たしたい人間でも「知恵」があれば昇進は可能、ということでもある。

 まず女性をあらかじめ競争の圏外に振り分け、次に有り余る男性たちを競わせ、競争についていけない部分を振るい落していく人海戦術風の戦後日本の人事管理では、会社はひたすら自分の要求を一方的に設定して、これについてこられない人間はただ置いておけばよかった。同じ水準の多数の人間の中から、会社の規格により適した人間をえり分けるだけなら、この方式で十分だったのかもしれない。作れば買ってくれる米国などの大市場があったから、常に会社の外の情報に触れ新しい市場の創出に神経を使う必要もない。特に管理する側に人間の配分を計画的に行う近代的ノウハウが備わっていない職場の場合には、いつも近くにいてくれて呼べば駆けつける長時間会社滞在型の社員は確かに便利である。

 しかし、こうした従来の「管理」の前提となる条件は、今や大きく変化してしまった。中でも、看板だけでは人を集められず、良い人材を早急に育てねばならない新しい企業の場合は、こんな慣行を続けてはいられない。

 さらに、「女性も昇進できる制度」は、①日本人の男性②社命への無条件服従③自己主張しない家族、の三条件を満たさない人でも昇進できる評価制度を意味する。そして、この三条件を持たない労働力が、現在の日本では急速に増えているのである。


(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、114-117頁より抜粋して引用しています。)

竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』より(4)

2014年10月17日 16時58分50秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
「だれも休まず、だれも病気にならない、という「希望的観測」のもとに人員が配置されている組織は、だれも産まない、だれも子供を育てない、というどこにもない人間を前提にした組織である。このような架空の人間像を支えているのは専業主婦の存在である。しかし、この前提でさえ、今は空洞化しつつある。実態はすでに、既婚女性の半数以上が働いている時代なのである。」


(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、148頁より引用しています。)


「銀行の上司から、育児休暇を取るな、と言われた女性がいる、と言っておられたが、日本の会社は権利を目一杯主張し、代わりに義務もきちんと果たす、という仕組みではない。経営と個人が甘え合う関係で成り立っている。全面的にすべての権利を主張されても会社は困る。その女性にも問題がある。

 結局、彼は、中間管理職なのだ。企業の既成の仕組みを壊すことなく女性を適応させなければ、彼は立場がないのだ。育児休業制などの新しい制度ができても、その制度の活用を裏打ちするための関連制度の整備がなければ新制度は利用できない。しかし彼らには、女性を正当な一員として迎え入れることのできるような組織へと全体を改革する権限は与えられていない。それなのに「管理職」として、彼女たちを「適応」させたり「活用」したりしなければならないのだ。日本企業は、言われているほど下から上への提言で成り立つボトムアップ方式ではない。上の与える枠内で、上が聞きたがるような知恵を献策することは奨励されても、上司の思惑を超えて、枠組みそのものの変更を提案するには、よほどの能力や人脈がなければ不可能だ。改革の権限も与えられず、企業のトップや政治家たちから、ただ「女性の活用」を申しつけられるばかりなのが中間管理職なのだ。

 銀行の労務政策に詳しい「銀行労働研究会」の志賀寛子さんは、こうした業界の状況をこう分析する。

 銀行は本音では、便利に使えて給料の安い大量の若い女性を必要としている。しかし、そんな女性を引きつけるには、もはや育児休業など母性保護制度を敷くしかない。つまりは人集めのための目玉商品だ。かといって額面通りに受け取られて、長く居坐られては、賃金をたくさん払わなければならない。だから、育児休業制より、いったんやめてもらって賃金を安く押さえられる再雇用制を導入するところが多い。確かに、長くいてほしい女性もいないわけではない。これは、極端に語学が出来たり飛び抜けて特技があり、たくさん給料を払っても損はないというごく一部の女性に限られる」
 
 結局大多数の女性社員が、仕事か出産かの二者択一を選ばされる事態は変わらない、と志賀さんは指摘する。

 働く女性が子供を産めない今のような労務政策が続く限り、労働人口は今後減少傾向が続くだろう。長時間労働要員としてより、知識や創意にすぐれた人材を発掘する面からも、女性を真の意味で「活用」することは、ますます避けて通れなくなる。それなのに、こんなふうに、問題を先送りし、とりあえず小手先の手直しのようなことをしていてすむのだろうか。
 

(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、151-153頁より引用しています。)


竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』より(3)

2014年09月16日 21時45分44秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
「雇用機会均等法に対する当時の経済界の激しい危機感と、「日本経済は女性を使うことで成り立ってきた」との冷静な指摘は、一見矛盾するように見える、しかし、この二つの立場は、実は同じことを言っているのかもしれない、と私は気づいた。
 
 女性は家庭にいてほしい。しかし、これだけでは正解ではない。同時に、外で働いてもらわなければ困るのである。ただし、男性と変らない質の仕事をより安い賃金でこなし、好況時には登場するが不況の際には黙って退場してくれる限りは。さらに、働く合間に子供を育てて労働力も再生産してくれなければならない。「均等法」への財・官界のアレルギーは、こうした便利な「資源」を失うことへの不安だったのではないか。

「男女平等」は、近代社会では、ごく自然の「建前」である。それを法制化することに、近代の高等教育を受けた知識人であるはずの財・官界の人びとが、(「女性が職場に進出すれば日本経済はだめになる」との危機論が続出したことなど)強い調子の反対意見を、しかも公然と述べるというのは、おそらく、単に「頭が古く」「差別意識が強い」からだけではない。女性差別や男女分業は「経済的」であり、「発展の土台」である、といった世界観があってこそ、彼らは恥ずかしいと感じることもなく、近代社会の「建前」に正面切って反論することができたのではなかろうか。
 
 この世界観は、「女の時代」の80年代にも、「少産化」で母性保護が突然浮上し始めた90年代にも、世代を超えて引き継がれていることを、私は知った。メーカーに勤める団塊世代の大卒男性社員は、「女性差別が日本を維持している」と公言した。「単純な事務作業を引き受け、夫の長時間労働を我慢しながら、老人介護を無料でこなして税金の支出を抑える女性がいなければ、日本の経済はつぶれる」と言うのである。若手社員も必ずしも例外ではなかった。ある20代の既婚男性社員は、「仕事以外のすべてのことを妻が引き受けてくれるから、僕は仕事ができる。男女分業や女性差別が悪いと言われようと、この仕組みに頼らざるを得ない」と言い切った。

 男女分業待望論は、男らしさ、女らしさを求める過去へのノスタルジアだけから来るのではない、「経済効率化のための必要悪」として、企業社会にしっかりと息づいているのである。「男女平等」が当然の常識のように語られ始めた現在も、いったん企業社会に足を踏み入れると、人々は手近な「効率」を求めて本卦帰りしてしまう。

 しかし、「男女分業」は、本当に経済的で効率的なのだろうか。「会社は男の場所」との思い込みとは逆に、女性はすでに、被雇用者の四割近くを占めている。それなのに、女性に働きにくい仕組みを温存しておくことが、はたしてなお「効率的」なのか。」


(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、10‐12頁より引用しています。)

竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』より(2)

2014年05月17日 10時52分50秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
「91年大手金融機関を退職した橋本綾子(27)の場合 「周囲を見ても、意欲的でモノを考える女性ほどやめていくような気がしました。
88年、総合職として採用され、都市開発の企画事業に携わり、金融機関同士の研究会のまとめ役もこなした。米国人の研究者を夫に持ち、明るい元気の良い話ぶりからは、よく言われる「疲れ切って脱落した総合職」の姿はうかがえない。

「仕事では恵まれ、職場も特に悪いわけではなかった。でも、我慢できなかったのは、あの会社が”コブラ村“だったことです」
テレビでインドの村のドキュメンタリーを見た。コブラのたくさん出る村で、毎年かなり多くの死者が出る。が、村人たちは一向に手を打とうとしない。昔からこうだった。コブラは神様の使いだ、仕方がない、とあきらめている。そして、毎年だれかが噛まれて死んでいく。
あ、これはうちの会社だ、と思った。

 夜遅くなっても、上司が帰宅するまでだれも帰らない。仕事がなくても、律儀に待っている。そんな風習は健康に悪い。会社の役に立つわけでもない。ただ、社員の保身と、上司の満足に役立つだけだ。橋本は、何度か直属の課長に改善を進言した。同僚や男性社員にもちかけた。が、だれも乗らなかった。「これまでそうだったから、仕方ない」と言うのである。こうやって長時間労働は保たれ、過労死も出るのだな、と思った。

 そんな組織に、自分の一回しかない人生を全力投球するのが馬鹿らしくなった。それが、退職の最も大きな原因だった、と彼女は分析する。「総合職」一期生の彼女は、その性格ばかりでなく、存在そのものが「改革」の旗手だった。入社後、女性といえば一般職という職場に

「総合職」としてやってきた彼女が、「女性の役割」である朝の掃除当番を引き受けるかどうかは大きな焦点だった。「女性だけが掃除とはおかしな風習だ」とは感じたが、短大卒の先輩社員の希望にしたがって、橋本は当番を引き受けることにした。その結果、橋本は一般職女性たちの支持を集めることができた。女性社員たちが抱く小さな不満を、男性社員に正面きって伝えるパイプ役として、「総合職」の彼女が機能し始めたのである。

「当時の女性社員の立場といったら、明治時代の不平等条約のときの日本みたいでした」。
橋本は、わずか数年前を振り返って苦笑する。制度そのものが女性に不利で、男女は対等の競争ができない状態だった、と言うのだ。「総合職」であっても、女性は外回りができない。渉外はあくまでも「男の仕事」だった。橋本たち総合職は、女性社員も外部と折衝できる仕事につけるよう上司に働きかけた。最初、得意先は驚きを隠さなかった。官公庁や大手企業を担当した同期の女性の中には、「男の人どこ?」と言われた例もあった。しかし、実績ができ、慣れてくると、逆に親しみを持ってくれるケースも増えた。
(略)

 しかし、二年後に入社してきた第二世代「総合職」の動きは、橋本にはつらかった。第一世代の努力で、形の上では、総合職の男女の格差は解消していた。第二世代たちはこの事態を、第一世代の女性たちの結束の成果であるとは知らない。社員間の競争の中で、第一世代の女性を押さえて、自らが優位に立とうとする第二世代の動きが目立ち始めた。
目に見える格差がなくなり、後輩たちは、次の新しい土俵へ向けて男性社会を改革するより、既成の土俵の上で、女性同士の競争に勝ち抜くために男性と手を結ぶことを考え始めたかのように橋本には思えた。

 残業や休日ゴルフなどの会社丸抱えの生活は、家庭と仕事の両立を一方的に迫られる女性たちにとって足かせだ。増える女性総合職の力で、次はその会社機構の改善を、と意気込んでいた橋本は、肩透かしを食った気分になった。

「私の退職は性急すぎたかも。でも、後輩の総合職女性を見ているうちに、コブラ村にいれば、結局は女もコブラ村の気風に染まるしかないんじゃないか、と思えてきたんです。そんな場所のために、人生の貴重な時間を使うのが空しくなってしまったの」
 
「コース別人事管理」の建前の裏にはりついた根強い「性別人事管理」に、川崎は混乱し、白井は絶望し、橋本は会社そのものへの関心を失った。そこに見えたのは、「女には厳しい男の世界から脱落した」総合職の姿ではない。むしろ、男女双方に納得のいく透明度の高い評価の方法を持たず、従来の手法からの脱皮もできないまま「習慣」に頼り続けようとする会社組織の無気力に対する、意欲的な女性たちの根深い軽蔑の感覚のように思えた。」

(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、29‐32頁より抜粋して引用しています。)

竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』より

2014年05月13日 14時43分02秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
「1991年は、一般職の人気の盛り上がりが話題になった年だった。
「総合職」に失望して「一般職」を選んだ女性たちは、それで満足なのだろうか。「男性社会の鋳型に無理やり適応しなくてすむ身の丈に合った仕事」を見つけることができたのだろうか。
 
 都内の大手都市銀行支店で働く三浦弘美(28)は、海外為替を扱う部署で、伝票の処理などを扱う「一般職」だ。(略)彼女のいる支店には、コース別人事制度ができて以来、通算四人の総合職女性が配属され、全員が2-3年で退職していった。

 仕事は、三浦たち一般職女性と全く同じだ。最初の総合職は、国立大学の理科系の学部を卒業した女性だった。事務作業が不得意で、作業中にふと考え込んでしまうため仕事が進まない。(略)

 共通しているのは、どれも極め付けのブランドを卒業していることだった。性格な計算とマニュアルへの忠実さが要求される「一般職」の仕事になぜ大学のブランドが必要なのか、三浦には理解できなかった。
 
 男性総合職の場合、卒業大学が同じだという先輩社員が、飲みに連れ出して悩みを聞き、職場の引き立て役になるが、彼女たちにはそんな支援の手も差し伸べられない。
(略)しかし、年期の入っている三浦たちの方が、能率や生産性では勝っているはずなのに、給料は後輩の総合職の方がはるかに高いというのだ。
 
 86年、四年制の有名私大を卒業し大手商社に就職した井田(26)は、あえて一般職にあたる「事務職」を選んだ。金融・証券界は、幹部候補社員を「総合職」、補助業務を「一般職」と呼ぶことが多いが、多くの商社では、前者を「一般職」、後者を「事務職」と呼ぶ。
 
 大学の会社説明会にやってきた商社の人事担当者は、井田の卒業年次から初めてコース別人事を導入すると説明し、「これからは女性の時代。一般職でも活躍できる」と力説した。
 
 井田が一般職を選んだのは、総合職に不安があったからだ。総合職コースは、長時間労働ですべてを企業に縛られる、との印象があった。結局は、疲れ果て、使い捨てられるのでは、と不安だった。86年。雇用機会均等法が施工された年である。「会社も変わる時代。一般職でも能力を発揮できるのでは」。そんなときめきも覚えて、一般職に応募したのが失敗だった。
 
 入社時には「総合職」採用の同期の男性と同じ額だった給料が、二年目から差がつき始めた。数年たてば、男性の3分の2になると先輩女性から聞かされ、これは合わないぞ、と思い始めた。仕事は男性社員の補助だったが、たまたま残業の多い部署に当たったせいか、帰宅は毎日終電だ。先輩の一般職女性は、30過ぎのベテランなのに、新入社員の男性の補助業務ばかり。一方、彼女の同期の男性たちは次々と昇進していく。上司の中には、有能で尊敬できる人もいないではなかった。しかし多くは、生活面の自立ができておらず、中には銀行のキャッシュカードすら使ったことがない上司もいた。

 「会社の仕事ばかりで、他のことはすべて奥さんに頼んでいるようなんです。会社では、奥さん代わりに、雑用をみんな一般職女性に押しつけてくる。そのために一般職が必要なんじゃないか、と思えるくらいです。」
 
 総合職への転換を申し出た女性の同僚は、上司に露骨に不快な顔をされ、断念した。仕事はいくらやっても補助の域を出ない。面白くなくて当たり前。しかい、責任はないから、楽といえば、楽だ。おもいあまって転職の相談をした井田に、上司は、「この会社に来る人は、女性は男性の補助、という古風な労務慣行が好きで入ってくるんだよ」と言った。
 
 井田の体験談を、大手商社三井物産の一般職女性(23)に取材した際、ぶつけてみた。彼女は、「雑用の多さに嫌気がさすこともあります。でも、やめようか、と思う頃にボーナスがどっさりくるので、ま、もう少しやろうか、という気になって・・・」と明るく答えた。若い男性社員がいる部署では、昼も夜も会社で一緒にいるわけだから結婚の機会もある。結婚すれば仕事をやめられる。いまの職場に、若い男性社員がいないのは計算外だった。しかし、上司は理解がある。コーヒーを一般職に入れさせずに飲みたい人が自分で入れる制度にするなど、職場を改善してくれた。その意味で恵まれていると思う。仕事のあと職場の全員で、お酒を飲みにいったり遊びにいったりするのが彼女の楽しみだ。

 「でも、あまり会社からの注文が多いと、一般職の女に仕事への生きがいだの会社への貢献だの要求する方がおかしい、という気になります。一生懸命やったって同じですから、女は」。

 「将来」が存在しない一般職の女性は、今を陽気に生きる。明るい絶望とでも言える軽やかさがそこにあった。「一生懸命やっても同じかどうか、やってみなければわからないんじゃないの」という私の問いに、彼女はぽつりと答えた。

 「有能で素晴らしい女性先輩もいるんです。その人、子会社で常務になって、新聞にも出たんです。でも、待遇は『事務職』つまり一般職のまま。給料は本社の同年配の総合職男性の半分程度なんですよ」。」

(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、33-38頁より抜粋して引用しています。)