たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「わたしたちはなぜ安保法案に反対するのか」集会レジメより

2015年08月30日 15時25分44秒 | 日記
「今の大きな政治の分岐点は、安倍さんたちは、国民の幸せは国家の安泰と抑止力があってこそ守られると考えているようですが、憲法や私たちの考え方は、一人ひとりの幸せが束になって国の本当の幸せの姿があると考えるのです。

 平和は力づくでは実現できないことは、イラク戦争やアフガニスタンの現実をみるだけでもわかります。「集団的自衛権」とは結局のところ「他国防衛権(義務)」のことであり、共同戦争体制づくりに他なりません。

 古代キリスト教の神学者であり、哲学者であるアウグスティヌス(354年~430年)が10数世紀前に、こうした言葉を残しています。
 「希望には二人の娘がいる。ひとりは怒りであり、もう一人は勇気である。」
 人間としてのまっとうな怒りを持ち続け、それぞれの持ち場でできることをやっていく勇気を持って発信し行動し、この時代の希望を創りだしていきましょう。」

(「ふくしの立場から、戦争法案に反対する」立教大学 浅井春夫教授のレジメより引用。)


 自分にできることをやろうとがんばってみたら、当事者同士はなかなか厄介でグダグダになっています。収入の道が途絶えたまま希望が見えず、なおさら自信を失い気持ちが落ち込んでいます。
でもまだ一個人としてだけでもやるべきことがあるので、もう少しだけがんばってみようと思います。またよけいに希望がみえなくなるだけかもしれません。動けば動くだけそんなことの連続で打ちのめされ続けています。
本当に希望は見えてこないのか。見えてこないと私は立ち直っていくことができません。
今の社会はなにかしら、おかしなものに覆われているような気がしてなりません。
弱い立場の人だけが負荷を負うように全部うまーくできているのは、なんともやりきれません。怒り-誠実な怒りを大切にしたいです。




『エリザベート』七度目の観劇(2)

2015年08月29日 15時23分39秒 | ミュージカル・舞台・映画
キャストが発表されてこのチラシを手にした時には待ちどおしくてなりませんでしたが、気がついたら三カ月の公演はあっという間に終わっていました。

『エリザベート』の終わりと共に本当に夏が終わったかのように急に涼しくなりました。
また暑さがぶり返すときついですね。妹・父とお別れとなった9月の半ばはどちらもすごく蒸し暑い日でした。このまま涼しくなってはいかない気がしますがどうでしょう。

8月20日(水)夜の部観劇からまた少し思いつくままに書いてみたいと思います。

トートダンサーのお一人の岡崎さんのブログを読んでいたら本当にハードであったことがよくわかりました。でもそんなことを舞台では感じさせず、よりクオリティ高く舞台の世界観を創り上げていました。
トートダンサーの皆さんが創り上げていた世界は、ひとつの芸術として成立していたと思います。シシィをトートの下へと踊りながら連れ去っていく場面、ルドルフを追い詰めていく場面、ハンガリー訪問でトートの「闇が広がる」の後マントを翻してトートに従い吹雪の音と共に去っていく場面、コルフ島の場面、ゾフィー旅立ちの場面・・・。オペラグラスを使っているとなかなか全体を観ることができませんでしたが、素晴らしかったです。映像にならないのが残念ですが、目に焼き付けました。
衣装どうやって着るんだろう。何気に毎回気になりました。


トートダンサー、宝塚では黒天使とした登場し、トートに従うと同時に黒子の役割も果たしつつ舞台をひっぱりました。初演の、ダンスの名手五峰さん率いる黒天使たちのダンスを今も忘れられません。


結婚式の翌朝シシィが皇太后ゾフィーに「なんて寝坊なの」と最初に叱られる場面。
ゾフィーに従って女官たちが現れ、ゾフィーのシシィに向けられる厳しい言葉の一つ一つにうなづきながら「皇后の務めは自分を殺して全て王家にしたがうこと♪」と歌う時の振付の雰囲気に、シシィを精神的に追い詰めていく感じがよく現れていました。
アンサンブルの皆さんのダンスが見事にそろっていて、毎回毎回怖いぐらいの気迫を感じました。こんな所にまだ十代のシシィが一人でほうり出されたら恐怖ですらあったであろう空気感をより高めていたと思います。素晴らしかったです。


シシィが精神病院を訪問する場面で、自分をエリザベートと思いこんで「ひざまづきなさい」と命令するヴィデンシュ嬢。今回は傘も何も持たずシシィに向かって投げつけるスカーフと簡素な花の冠?だけでした。演じる真瀬さんの狂気ぶりとシシィとのスカーフをはさんでのシシィとのやりとりが毎回少しずつ違いました。狂気ぶりが進化していき、コルセットで体をがんじがらめに縛りあげなければならないシシィに孤独感を知らしめる存在となりました。
最後は落ち着き解放されるような表情でルキーニに守られながら病院の中に戻るヴィデンシュ嬢と「自分の手に入れたものはなに?孤独だけよ♪」と打ちひしがれながら歌うシシィ。二人のエリザベートの対比も毎回見応えがありました。
ヴィデンシュ嬢の演技がよくないとシシィの孤独がより伝わってこないので、真瀬さん素晴らしかったです。


前回もちょっと書きましたが、退屈したウィーン市民たちがカフェでだらけで皇室ニュースにうんざりしている場面。なぜか毎回初演雪組を思い出します。女性だけで、男性だけが登場する場面の退屈きわまりない雰囲気がよく出ていました。
男性アンサンブルのみなさんの歌のクオリティが毎回高かったです。


プレビュー初日から完成度の高さを感じましたが、プリンシバルとアンサンブルのコーラス、両方の歌と演技のクオリティがより高まってこそ、曲のもつ素晴らしい世界観が表現され舞台全体の完成度がより高まります。


コルフ島の場面。シシィが大好きだったパパ、憧れていたパパと、パパみたいになりたかったのになれなかったシシィとのデュエットがより美しく切なく響いてきました。大好きなパパも去っていって、シシィはより孤独になりました。

シシィがフランツに最後通告を突きつける場面。扉に背を向けて机に戻るシシィとショックを受けながら扉を離れていくフランツ。扉を挟んで背を向けるタイミングがきれいに同じでした。出会った時は幸せ感に満ちていた二人の心がまだ完全には離れていないのに、シシィは「私の命委ねるそれはわたしだけに♪」と自立していく。さみしいけれど人はみんな一人なんですね。最期はみんな一人で旅立っていかなければらならない。


それにしても、ルキーニに手渡された銃をぶっぱなした瞬間に躍動し始めた少女のシシィ。
少しずつ歳を重ねていく花ちゃんの演じ分けはあっぱれというより他なく、どこにも違和感なく晩年までを生き抜く姿は皇后そのもの。毎回涙を流しながら全身でエリザベートを体現していくエネルギーは半端ではなかっただろうと思います。一路さんを観ていた時も思いましたが、すごく努力をしているんだろうけれど、努力しています感なく、余裕で演じているように感じさせるところにプロ意識を感じます。

まだまだ書きたいですが今日はここまでにします。





秋のプリンス・エドワード島への旅から帰国後の日々

2015年08月28日 18時38分03秒 | プリンスエドワード島への旅
観劇日記を書きたいところですが、頭の中グダグダで書けないでいます。
自分の居場所がひとつ見つかった、大事な役割があるのかなと思ってボランティア活動を頑張ろうとしたけれど、また頑張り過ぎてしまった結果、収入ないまま疲弊の上塗りで傷つくことになっただけなのかもしれません。話が大きすぎて私の身の丈を超えていたようです。

今の社会の中で何を信じればいいのかわからないし、何をしたいのかわからないし、何をすればいいのかわからないし、どこを目指していけばいいのかわからないし、結局頑張ろうとすればするほど思いは空回りし続けるだけで、どこにもたどり着くことができません。
どこかに信じられるものがある感じが全くしません。

何をしたいの?どうだったらいいの?自分がわからないのだから、人にたずねられてもわからないです。
一生懸命やったことが、また結果的に自分を疲弊させただけになってしまったかもしれません。妹の分まで精一杯生きて生きたいという思いは空を舞い続けています。
少し旅に出て心を休めたいのが本音です。
なんかやっぱり社会への幻滅しかないです。

過去を振り返って自分を責めても時間は戻ってこないけれど、あれはいったいなんだったんだろうとか、あんな会社でがんばらなければよかったと思う結果になったこととか、まだ受け入れていくのに時間がかかるし、どこに行っても結果的に自分が傷つきます。これ以上傷つきたくないと思うと、孤独なまま、もう社会へ戻っていくことはできないような気がします。

どうして不信感でいっぱいで、社会へ戻れなくなってしまっているのか、それだけのプロセスを踏んで、それだけの理由があるからですが、それを人に説明してわかってもらうのがすごく大変。それでさらに社会から孤立していくことになります。苦しい日々・・・。


秋のプリンス・エドワード島から帰国した日の自分に帰ってみたいと思います。
一生懸命に働いていた時のいやーなものがよみがえってきてしまう感じもありますが、旅の時間は本当に幸せでした。母とのお別れも訪れで、父・母・妹-三人の納骨をすませてからの旅でした。

「2012年10月27日(土)

PEIから帰って一週間。まだ少し夢の中にいる。行く前は煮詰まり過ぎていて頭と心が限界だった。よくもちこたえていたと思う。色々なことがあった。もうずっと先まで行けないのかと一時は思った。こうしてまた行くことができた。
13日夜半、島の空港の灯りが見えて来た時には、ああまたこの島に来れたんだなあ、とじいんとこみあげてきた。
懐かしい場所に帰ってきたような、ゆるやかに時間が流れるPEIはやはり特別な場所だ。こんなに心が休まる場所は他にない。
ゆるやかに連なる丘、キラキラと輝く入江、緑、赤土、灯台、高い空、遠く流れる雲。
心のエネルギーをチャージできる。なんだかわけもなく幸せ感に満たされて、生きててよかったなあと思えるのだ。
また行きたいと思う。
次回はハリファックスに二泊してルーネンバーグも訪ねたい。
2-3年おきにPEIに行く。そのために働く。そういうライフスタイルもあっていいと思う。
PEIは私の人生の一部になって行く。
自分を責め続けていてもどうにもならない。私が幸せだと感じる時間を二人分もつこと。
それでいいんだとようやく素直に思えるようになった。
原発事故で避難してる方々や被災地の方々に申し訳なく思ってしまった。
自分にできることを見つける努力もし続けたいと思う。社会の中での役割・・・。
それよりも地震のないPEIに家を買って住もうかな・・・!?」

写真はキングス地区、南海岸沿いの風景です。
心の宝物。

名残惜しくて

2015年08月26日 23時27分32秒 | ミュージカル・舞台・映画
『エリザベート』本日千穐楽。チケットを持っているはずもありませんでしたが、午後都心の某所でずっと過ごした後、6時過ぎに日比谷に行ってみました。
カーテンコールが盛り上がり、その後記者会見もあったりしたのでしょうか。
劇場からまだ次々と人が出てきていて、片づけは始まっていませんでした。
熱気が外にまであふれているような雰囲気でした。
食事をしたくて地下に行ってみると、出待ちの人、人・・・。
トートダンサーの方三人(間近に拝見するとがっちりした体つき感じました)、古川さん(マスクしていましたが美しいお顔、スッと背が高く足長い)、子ルドの池田君、朝隈さん、お見かけしました。
終わってしまったのになんだかこれからも当たり前のように続いていく感覚。

来年の上演が発表されました。
フライヤーをさっそく持ち帰り。
その頃わたしなにしているんでしょう。
元気にまた会えるのでしょうか。
人生やり直せるといいなあ、やり直せるのだろうか。
今は全くやり直せる感じがしません。
不安を抱えながら、でもシシィは孤独の中を強く生き抜いたんだと言い聞かせながら、
名残惜しくて、また携帯で劇場前で写真撮ったりしていました。
もう同じもの何度も撮っているんですけどね。

あの歌の世界観は時がたっても変わらない。時の流れと共に聴く人、観る人に訴えかけるものが違ってくる。観る人の心の成長と共に感じ方も変わってくる。普遍性を持つ作品のすごいところです。この作品、やっぱり大好きです。そして今回特に世代が若くなってエネルギーあふれる舞台でした。

七度目の観劇日記の続きはあす以降に書ければと思います。




『エリザベート』七度目の観劇(1)

2015年08月24日 23時45分10秒 | ミュージカル・舞台・映画
8月20日(木)夜の部観劇しました。18時30分開演。満員御礼。

エリザベート:花總まり
トート:井上芳雄
フランツ:田代万里生
ルドルフ:古川雄大
ゾフィー:香寿たつき
ルキーニ:山崎育三郎
少年ルドルフ:大内天


 私自身の楽と共に急に涼しくなり秋がやってきました。夏が終わろうとしているのに人生のやり直しはみえません。明日の夜のイベントのためにバタバタとメールに追われています。またニュースになるかも・・・。
それはさておき、明日の昼の部で花ちゃんシシィと井上さんトートの組み合わせは最後なんですね。あっという間の三カ月でした。
最後の観劇は四回しかない組み合わせの貴重な三回目だったようです。
いい意味でいちばん落ち着きます。

ツッキーが6月の二回の観劇で小ルドたぶん見納めとなったのが残念です。
山崎さんルキーニ、オールバックにしてぐっと男っぽく声も太くなった感じで舞台にさらに安定感を与えていました。ミルクの場面の市民の扇動ぶりがさらに力はいっていて、7月に観た時にはまだルキーニとしてふらふらしてる感じもあったのですが、成長しました。
声色を場面によって変えていたのがさらに自然に狂言回しの役割と溶け合ってようやく落ち着いた感がありました。
高嶋さんとは違う、これはこれで新しいルキーニ。
歌唱の安定感とキッチュで客席を巻き込む間の取り方はさすがだと思います。

花ちゃんシシィの強さと孤高さが高まった分、田代さんフランツとの関係が厳しくなっていくのがより早く鮮明にわかるようになっていたかったです。
二幕最初のハンガリー戴冠式の後でフランとがシシィの肩に大丈夫か、といった雰囲気で手を置くのに対して、シシィが大丈夫よ、あなたなんていなくても平気よぐらいの雰囲気になっていて、さみしいものがありました。その後シシィがフランツに対して心を開いていく場面はないだけにひんやり感が増しました。フランツは最後まで体をはってシシィを守ろうとしただけに切ないですね。
悪夢の場面で、トートからルキーニにナイフが渡されようとする時の叫びは、「刃物だー!」でした。観るたびに耳に残る台詞と音が違いました。

体操室でトートがシシィを壁に追い詰めて迫っていく場面。杖をはさんで追い詰めて、杖を落としたトートの手をシシィががっちりとつかんで二人でしばらく腕を組んだまま目ではりあって、
それからトートがあきらめたかのように腕を下ろすと、シシィは「あなたとはまだ踊らない」と凛として言い切り、出ていっていう仕草をします。この場面、井上さんは花ちゃんがどう出てくるかわからない緊張感と戸惑いが本当にあったのかな。舞台の上で役者が本気できそいあっているなんてすごい空気感ですね。

思い出すままに少しずつ書いていきたいと思います。
今日はこれで終わりです。

「花總さんシシィに思う」の記事が最近ずっとこのブログのアクセスNO.1です。
ありがとうございます。

カフェの場面を観るたびに雪組初演の空気感をなぜか思い出します。
こんな話はまた次回に。













終わりはない

2015年08月22日 23時22分26秒 | 祈り
遺族、英語でなんというのかネットで調べてみると、the bereaved family

ビリーブ:事故・死などがO1(人)からO2(近親)を奪う

アメリカ英語では、survivor ともいう

英検一級の語彙。そんなことはどうでもいいですが、ビリーブが過去形になって過去分詞として
familyを修飾しているので、近親を奪われた人、という意味になる、のかな?たぶん。

古いものがまだまだグチャグチャあるので、少しずつどんどん捨てていきたくて、古い手紙を整理していたら、また妹からの手紙と再会しました。
たぶんお別れの二カ月ぐらい前の夏。
手先が器用だった妹は自分の服を手作りしていました。
この手紙は、私にスカートを作って送ってくれたのに同封されていたもののようです。
22年前のもの。妹が作ってくれた洋服の中で年齢に合わなくなった物は、一枚のワンピースだけ残してリサイクルショップに送りました。だからどの洋服に同封されていた手紙なのか思い出すことはできません。
こんなに何度も手紙がきていたんだ。

うつ病で苦しいこと、不安が強いことが書かれている。公立病院に通院して薬をだしてもらっていた。病気になってしまった自分にひどく自信を失っている。担当医に励まされたようだ。
この先生は知っているのだろうか。患者が旅立ってしまったことを。
私に手紙を書くことで苦しい気持ちが少し楽になっているとある。
胸えぐられる。
なぜ私は見捨ててしまったのだろう。なぜ私はもっと受けとめてやらなかったのだろう。
なぜ私は話をちゃんときいてやろうとしなかったのだろう。
今さらおそい。
まさか旅立ってしまうなんて思わなかった。そんなに苦しんでるなんてわからなかった。
何にも知らなかった。心が病気になるなんて知らなかった。考えたこともなかった。
今さらおそい。

なぜ妹が先に逝って私が残っているのかわからないけれど、遺された私は精一杯生きるしかない。
これからどうやって生きていけばいいのかわからなくて苦しい時は続いている。
何を信じればいいのかわからなくて希望がみえないのだけれど、自分を信じて精一杯生きるしかない。
魂がやすらかであってほしい。そして見守り続けてほしい。進むべき道に導いてほしい。
心の中で祈り続ける。自分がこの世にあるかぎり、遺族に終わりはないのだとあらためて思う。



『レディ・ベス』の母、アン・ブーリンが凋落していく分厚い小説を図書館で借りて読んでいる。ドロドロの利権争い。人の世はいつになっても同じかとため息がでる、うんざりしてくる。
こんな中をベスは運よく生き延びられたものだ、本当に。人のたくましさを信じたいと思う。

思いははるか遠くに

2015年08月21日 18時38分45秒 | 祈り
ちょうどあと一か月で妹の22回目の命日を迎えようとしていることもあり、先に逝ってしまった家族への思いがなんだか尽きないような感じになっているこの頃です。父が旅立ったのは2010年の9月。母が旅立ったのは2012年の2月。帰省して母の様子を見るたびに、「この人はなんのために生きているのだろうと」、自分の中で問いかける私がいました。いなくなってしまったから思えるのかもしれませんが、母が生きている、それ自体に意味があったということなんだろうと思います。先に逝ってしまった娘(妹のことです)を思いながら、自分に家で暮らし続けて最期を迎えたいとがんばった母。そのことを理解できたのはいなくなってしまってからでした。
家族って、血のつながりってなんでしょうね。答えはありません。

人生やり直しの時。迷いながらいろんなことをがんばってきました。ばらばらだったビーズがつなぎ合わされ、集約される時が訪れるのでしょうか。人はそう言ってくれますが、自分では全くそんな感じがしません。気持ちを現わすことのできない書類に自分をさらけ出して、アピールしていくのが本当に下手だし苦手です。やりたくありません。でもやらないと仕事は見つけられません。苦しいところです。

大震災と母とのお別れの後、気持ちが大きく揺れ惑うようになった私がいました。

「2012年4月14日(土)雨and寒い

アン・セミナーで、3章を読み終えて帰ってきたところだ。一年前と比べると、けっこう原文を読めるようになってきている。最近はインターネットからダウンロードした朗読も聞いている。読めば読むほど、きけがきくほど奥が深く、アンへの心の旅は果てしない。こうしてもうすぐ○○歳になろうというシングルのおばさんがアンに夢中になっているなんて、人から見れば気持ち悪いだろうな。でも、人がどう思うかなんてどうでもいい。大切なのは自分の感性だ。何が大切かだ。モノを書きたいという漠然とした思い。怒り、母のこと、妹のこと、大学を通信で卒業したこと、国家試験に受かったこと。今はばらばらにみえるビーズをつなぎあわせられないだろうか。
組織の意味のわからない都合に振り回されている場合ではない。どうしたら組織に属さないで食っていけるのだろうか。今の職場環境は、私の感性ではこれ以上無理だ。あり得ない。さっぱりついていけない。自分を生かしきれていない気がする。意味不明なことに徒らに消耗することばかりで、その先の展望はない。
これからの時間でやりたいこと、本を書きたいこと、哲学を勉強したい、旅に出たい、自死遺族に少し関われたらいいかな。自分の経験値から発信していきたいし、なにかそうしていかなければならない気がする。誰かに求められているわけではないし、必要とされているわけではない。ただ自分で勝手にそう思い込んでいるだけだ。
人はどこかの組織に属して生きているものだが、属さないでは生きていけないものだが、それにしても、組織に働く力ってなんなのだろう。得体の知れない何か。
私が感じている気持ち悪さ、違和感を共有できる人があると少し違うのかな、という気もする。
それにしても、それにしても、中井先生の『つながりの精神病理』に書かれていることがしみじみ実感できるこの頃だ。
母と妹がおしえてくれたことを還元していく、発信していく。今ここで留まっている場合ではない。ここは自分の場所ではない。何ができるのか、何をすべきなのか。
誰がなんといおうと自分の感性を信じるしかない。おかしいものはおかしい。
気持ち悪いものは悪いんだ。何かがおかしい。日々いろんなことを感じる、考える。
何がおかしいのか、ねじれているのか。民間レベルでがんばっている人たちがたくさんいるのもまた事実だ。でも国としてどこに向かっていくのか。みんなどうやって生きていくのか。
一人一人がちゃんと考えないでどうする。怒り。一人で怒ってたってしようがないという人もいるが、怒りはおさまらない。このままでいいはずがない。怒りについてこれからも考えていこう。」

乳幼児精神保健学会のW先生が、誠実な怒りを持つもの同士、静かに手をつなぎ合っていきましょうね、と仰ってくださいます。大切にしたいきたいと思います。

『エリザベート』終わってしまいました

2015年08月21日 00時15分59秒 | ミュージカル・舞台・映画
8月20日夜の部。貴重な最後の観劇も、あれこれと考えながら観ていたら、長いはずの3時間余りの舞台が今日もあっという間に終わってしまいました。
私にとって一番落ち着く組み合わせ。
城田さんトートを観たあとで、井上さんトートを観るといろいろと違うところに気がついて、
それぞれに個性があるので、どちらが好きかは人それぞれ。

やっぱり若い人たちが創り上げている舞台。重い話なのに、ビジュアルは少女漫画の世界。
エネルギーにあふれているし、トートダンサーのダンスがよりハードになっている?
振り付けは変わっていないと思いますが、場面場面ですごいハードなダンスをしているなとあらためてわかりました。千秋楽に向けて、よりエネルギーを集中させている感じが伝わってきました。
映像化しないなんて、もったいなさすぎ。

花ちゃんは本当にあっぱれ。より強く、場面によっては積極的で男前だと感じました。
井上さんトートの場面によっては少し戸惑っている感じの雰囲気と好対照で、さらに二人の
呼吸がはりあいつつも合っている感じがしました。
本当に不思議。舞台に立って衣装を着ると、エリザベートスイッチが入るんですね。
カーテンコールの、満足感にあふれた素の笑顔を思うと本当に不思議です。
井上さんもカーテンコールの表情に満足感を感じました。

書き始めるときりがありません。あす以降にまたぼちぼちと。

これで最後なんだなあと思うと帝劇の前を離れがたかったです。
写真なんてもう何度もとっているのに、同じやっぱり携帯で撮ったりして・・・。
(なかなかSDカードから取り込むのが億劫でアップできていませんが。)
名残惜しいけれどこれで私の夏は終わった感じがしています。
夜になると短い命を惜しむかのように鳴くせみの合唱の合間に、秋の虫の音色がきこえてくるようになりました。

ボタンのかけちがえのような年月を断片的に短い言葉で人にわかりやすく説明するのはすごく
むずかしいことなんだとわかってきました。私には無理だし、私よりもすごいヘン体験をしている人たちがいっぱいいるようなので私のことなんかたいしたことないのかもしれません。
でも10年以上の日々は長すぎました。
自分が馬鹿だったんだと悔やんでも、自分の甘さを責めても仕方ない。
それはそれとして消化していきながら、どうやってやり直せるのだろう。
まだやり直せるのかな。もう少しの辛抱なのかな。
疲れました。しばらくぼうっと何にも考えずに休みたいのが本音です。
そんなわけにはいきませんが・・・。

「私の命委ねる、それはわたしだけに♪」

ひとはみんな旅立っていく時はひとり。
花ちゃんはエリザベートの人生を生き切りました。
棺の上の表情がが崇高でした。



『眠られる夜のために(第二部)』_6月19日より

2015年08月19日 23時10分15秒 | 本あれこれ
「もしあなたが、いまちょうど、生涯の荒涼とした暗い時期の一つに臨んでいるのなら、将来のいろんな計画に手をつけたり、または、いまさらどこを改めようもないのに、過去のことをふり返って思いわずらったりしてはならない。むしろなにか実際的な仕事を企てるがよい。そのことがあなたを十分忙しくさせ、無益な期待の苦しみをあなたから取り去ってくれる。そうしているとある日突然、あなたがまだその仕事をすっかり終えない間に、あなたが願っていた心の変化が訪れてくる。」

(ヒルティ著、草間平作・大和邦太郎訳『眠られる夜のために(第二部)』岩波文庫、143-144頁より。)


眠られぬ夜のために〈第2部〉 (岩波文庫)
ヒルティ
岩波書店

どこまでも尽きない思い

2015年08月18日 18時25分02秒 | 祈り
色々な思いが交錯しながら今日もこうして生かされていることにまずは感謝。
最期はみんな人なのだけれど、人は所詮孤独な存在なのだけれど、一人で生きていくことはできない。支え、支えられるでどうにかこうにか生き延びている日々です。
これから具体的にどこへ向かっていけばいいのか、何を目指していけばいいのか、
答えはみえません。
もう少しこのまま進んでみます。

「1995年2月25日(日)

(フォーカシング)合宿から二週間、ずっとテンションの高い状態が続いていたけれど、ようやく疲れが出てきたようだ。思いっ切り夜ふかしをしたりしたせいもあって、かなり睡眠不足。なのに夢ばっかりみて、ぐっすり眠れない。これはつらい。気のもちようだけどね。
ひとりでいると、いろんなものがぐるぐる回って、頭の中でひとりで喋っているの。
いけないなあ。ほんと、ひとりでいることに向いていないよなあ。たぶん、人一倍淋しがり屋。そのくせ、ひとりで気ままにすごしたい。
どちらもわたし。青くさいんだよなあ、いつまでたっても。
割り切ろうとするんだけど、ほんとは割り切るのがいやだから、ひとつひとつ悩んでいる。

これからも、どこにってもジレンマに苦しみながらいくことになるんだろう、わたし。
それでいいじゃないか。それがわたし。いろんなわたしをあるがままに受けとめていきたい。
これはすごく大変なことだ。目をそむけたいことだってあるんだもの。
ずっと長い間勘ちがいしてきたような気がする。自分を知ることは、自分の性格について悩むこではない。口下手だっていいじゃあないか。そんなことじゃあなくて、あるがままの自分を身体で感じること、かな。受けとめていくことかな。そうすれば自ずと変わっていくし、進む方向もみえてくる。いろんな自分をあるがままに受けとめていくことがカウンセリングの第一歩だという。

わたしがこうして悩むことは、妹からのかけがえのない贈り物だと思う。
ただ、無意味なことはなにひとつないとすれば、わたしがいろんなことに気づくために必要だったにしてはあまりに大きな代償だ。
背負っていくには重すぎる。だれかにちょっともたれかかりたいと思っている。
だが、日常生活を送るには、そんな思いを自分でしっかりガードせざるを得ない。
眠るのがこわいなと思ったり・・・、どれもほんとのわたし。
わたしがだれかの人生を背負うことはできないし、わたしの人生をだれかに背負ってもらうこともできない。厳しいことだが、これは事実だ。
それぞれ、ひとり分・・・。ようやくこんなことに気づくなんて。妹の人生をわたしが背負うことはできない。
ただ受けとめていくだけだ。こんなに苦しい思いを教えてくれたことに感謝。

この体の中には、まっすぐに伸びていこうとする木がある。大丈夫だと思う。
会社にいけば会いたくない人もいるし、悪口もいいたい。
将来のことを考えると、経済的にやっていける自信がないので不安だ。
やはり伴侶はほしいし。ただなかなか自分からはふみだせない。
いろんなことにも、いろんな人にも慣れるまでにものすごく時間がかかる。
このつらさはこれからも続くだろう。
悩みながら迷いながら、生きているのはわたしだけじゃないサ。
あの会社、そろそろ疲れてきちゃった。
「将来のことを考えなさい」という母のことばが重い。
カウンセラーになりたいとはっきりおもっているわけではないし・・・。
ただ、自分のために勉強したい。

庭の梅の花が開いた。
三国志のテーマがみえないが、ちょっとやろうか。
書いたら少し楽になった。
雪景色の下にかくれている春の芽を無理にさがそうとすると、雪景色がダメになっちゃう。
雪景色は、雪景色のままに眺めていようよ。」

魂が安らかであれと祈りつつ、高い空から見守っていてほしい。

プリンス・エドワード島の雲は遠く遠くぐんぐん流れゆく。