たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

わすれな草

2013年07月28日 13時04分51秒 | 祈り
また少し私の過去の振り返りにおつきあいください。

2005年8月に急な思いつきで3泊5日のカナダ・バンクーバーへの旅を強行しました。
オリンピックの開催に向けて、ウィスラーという広大なスキー場では準備が進められている頃でした。

JTBの個人向けパックを利用して往復は一人旅。
(カナダへの旅はいつも個人旅行です。英語圏なので、ツアーでなくてもしどろもどろの英語で毎回なんとかなる!?)
成田空港に到着して、飛行機を降りた途端湿気を帯びたもあっとした空気に、くらったきてその後気分が悪くなってしまった思い出があります。
写真も旅日記もなく、現地で合流した当時カナダ在住の中国人女性とも、私の英語があまりにひどいのにうんざりしてしまったのか、その後音信不通になってしまいました。
それでもその後のハードな日々に向けて、しばし心のお休みの時間となったのでした。
カナダから帰って来る時は、いつも成田行きの搭乗口で、「帰りたくない―!」と心の中で繰り返します。でも帰る場所があるからこその旅ですね。

「短かったカナダでの滞在は、終わりに近づいている。
ゆるやかな時間は終わり。
現実だけが私を待ちうける。
私は立ち向かわなければならない。
疲れ切った私の顔が、少しゆるやかになったようだ。
束の間の心のお休み。
疲れるが旅はやめられない。
いろんな所に行ってみたい。
さわやかな緑の空とお別れ。
日本に帰るのは、本当に辛い。
でも、きったまたくる。

無理をしているが、無理をするのももう限界にきているが、へこたれてはいられない。
生きている限り、生きるのだ。

ハードな毎日が待っている。
ゆるやかな時間は終わり。
がんばれ、がんばれ、と私に言わなければならない。
がんばりすぎずにがんばれ、私。

さようなら、カナダの空。
きっとまたくる。

2005年8月20日、AM11:01 バンクーバー空港にて」

4年間をかけて卒業論文を書いて慶応大学を無事卒業し、1年間カウンセリングスクールに金曜日の夜通い続けた後でした。カウンセリングスクールで、ソーシャルワーカーの国家資格があることを知り、当初試験に合格することが最終目的ではなかったのですが、なぜかやってみよう、やらなければならない、そんな思いに駆り立てられて、同年の4月より専門学校の通信教育を始めていました。

最初の頃はまだぼちぼちという感じでしたが、手帳を見ると、翌週末の3日間は、精神医学・精神保健福祉士援助技術論・社会福祉原論のスクーリングに出席しています。

その後、2007年1月末の国家試験受験まで、レポート提出、スクーリング出席、施設での実習、国家試験受験対策講座出席と、己に鞭打って身をすり減らすように期間限定の無理を重ね続けていくことになります。
レポートを一つ書き終えると気分転換にスパに通っていました。そこでマッサージを受けると、あまりにも私の体が疲れているのでマッサージ師の方に驚かれたことがあります。コンタクトの検診のために眼科に行けば、ご自分の体にかなり無理をさせているんじゃないですか、と言われました。
それでも、途中でやめるという選択肢は私にはあり得なかった。当時の上司がすごく厳しい方で、きつかった。でも職場には全く一言も事情を話すことなく、スクーリングや実習で休むためその前後にはさらに多くの業務量をこなしながら、全てをクリアし、試験にもぎりぎりのところだったようですが、合格しました。試験の10日ぐらい前には、職場で具合が悪くなってしまって、それでも登り始めた階段を降りることはもうできませんでした。

必死でした。そこまでしないと自分のことを許せないでいる私がいました。
今自分であらためて考えてしまうとやはりどうしても辛いのですが、妹が突然旅立ってしまう、10日ぐらい前だったと思います、電話がかかってきました。その時死にたいと考えることもあると、死にたい気持ちをきいていました。今思えば、あれが「生きたい」「お姉ちゃん、助けてよ」、最後のメッセージだったのではないか、それなのに私はずいぶんひどい言葉で突き放してしまいました。その時の自分の言葉は、カウンセラーの先生にだけお話しています。他には誰にも言えない。人に言うのが辛いので、自分の胸の中だけにしまい続けます。1994年9月、弟から旅立ってしまったという連絡を受けた時の、真っ白な時間を今でも忘れることはありません。私があんなことを言わなければ・・・。私はなんていうことをしてしまったんだろう、取り返しのつかない後悔に、自分を責めて責めて責め続ける、のたうちまわるような日々の始まりでした。手紙やはがきも何通かきていました。でも、妹に苦手意識のあった私はほとんど答えてやろうとしませんでした。今も私の荷物の中に手紙もはがきもそのままにありますが、読み返すことはまだできません。

その頃の日記を読み返すと自分で自分のことですが、心が痛くてたまりません。
もう少し先に載せていきたいと思います。ブログに載せて共有することで、引き受け続けられる私でいられるように思います。

今年自死遺族の会に行って始めて知ったことですが、遺族の方の誰もがまさか本当に死ぬなんて思わなかった、とおっしゃるそうです。自分の近くでまさか、まさか本当に、です。専門家の自殺予防の研修に出席すると、死にたいサインは必ずある、ということを言われるのですが、本当に死なれてしまった家族にはきついことだと思います。家族だからこそ、近くにいるからこそ、そんなこと言われても本気にはできない。人の営みにマニュアル通りにはあり得ないですね・・・。

なぜなのか、なぜ自分の妹なのか、いまでも信じられないような、そしてなぜ?の答えはどこにもない、長い間探し求めてきたけれどどこにもないということがわかるまでにずいぶんと時間がかかってしまいました。

今年の2月、母の一周忌の後で遺品整理をしていたところ、母の衣類の中に混じって妹の身分証明書など細々としたものがまとめられた箱がありました。その中には日記もあって、旅立ちの年の5月から数日前まで書かれたものでした。姉に・・・を相談したら、・・・と言われたので、・・・することにした、というような記述もあって、私にはかなり辛い代物でした。今さらこんなものに出会ってしまうのか、自分を責める気持ちが湧きあがってきてしまってまともに読むことはできませんでした。

記述からはうつに取りつかれていた様子がうかがえ、冷静に考えれば電話がかかってきた時に私が何を言っていても、結果はもう変わらなかったのかもしれません。でも誰に何をどう言われても、自分を責めることをやめることはできなかった。

国家試験の合格通知書を見た時に、始めてようやく自分を許せるような気がしました。

気がつけば合格の年から6年が過ぎてしまいました。
だからといって職業に結び付けられているわけでもなく、今だ具体的にどこに向かっていけばいいのかわからない私がいます。

中高生の自死のニュースに心が痛みます。原発事故で避難していて一時帰宅した人がそのまま命を絶ってしまうのは心が痛みます。職場が大きな通りに面しているので日中度々救急車のサイレンを耳にします。その度に、今この瞬間どこかで困っている人がいる、私に手伝えることはないだろうか、心の中でそう思っている私がいます。
でも、家賃を払い自分の暮らしを守っていくためには、おかしいなと思うことがたくさんあっても今はこの場所で働き続けるしかない。

そこにどんな意味があるのかはわからないけれど、フォーウインズ(乳幼児精神保健学会)に入会しており、年に数回のセミナーに出席し続けています。22日(日)も事例検討のセミナーに参加し、深く心に残る学びの時間となりました。フォーウインズに参加するようになって、ロバートソンフィルムを通して、身体記憶ということを学ぶようになってから、自分は子供を産むことなく年を重ねてしまったけれど、乳幼児を見かけると、みんなに愛されて健やかに育っていきますように、と心の中で祈るようになりました。

自分に与えられた役割を探し続ける気持ちを失わないように、これからも歩き続けていきたいと思います。

まとまりのない、重い話におつきあいくだり、ありがとうございます。

写真は、春(6月)のプリンス・エドワード島です。
走る車の中から撮っているのでぶれていますが雲がすごいです。



私自身を励ますために『赤毛のアン』から引用したいと思います。


Now there is a bend in it.
I don,t know what lies around the bend,
but I,m going to believe that the best dose.

今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるか分からないけれど、
きっとすばらしい世界があるって信じているわ。

 L.M.MONTGOMERY
 松本侑子訳『赤毛のアン』第38章、441頁(2000年発行、集英社文庫)より。


恋人たちの小径には、わすれな草の花が咲いていました。





『赤毛のアン』最終章-前向きに生きる力

2013年07月20日 21時42分36秒 | 『赤毛のアン』
 次の日の夕方、アンは小ぢんまりとしたアヴォンリ-の墓地へ出かけていった。マシューのお墓に新しい花をそなえ、スコッチローズに水をやった。そして彼女は、この小さな墓地の穏やかな静けさを心地よく思いながら、薄暗くなるまで、佇んでいた。ポプラの葉が風にそよぎ、そっと優しく話しかけるように、さやさやと鳴った。思うにままに墓地に生いしげっている草も、さわさわと揺れてささやきかける。アンがようやく立ち上がり、≪輝く湖水≫へ下っていく長い坂道をおりる頃には、すでに日は沈み、夢のような残照の中に、アヴォンリーが横たわっていた。それはまさに、「太古からの平和がただよえる故郷」だった。クローヴァーの草原から吹く風は、蜂蜜のようにほの甘く、大気は、すがすがしかった。あちらこちらの家々に明りが灯り、屋敷森をすかして、ゆれていた。遠くには、海が紫色にかすみ、潮騒の音色が、絶え間なく寄せてはかえし、かすかに響いている。西の空は、日の名残にまだ明るく、柔らかな色合いが微妙に混じり合っていた。池の水面は夕空を映して、さらに淡く滲んだ色に染まっている。このすべての美しさに、アンの心はふるえ、魂の扉を喜んで開いていった。
「私を育ててくれた懐かしい世界よ」アンはつぶやいた。「なんてきれいなんでしょう。ここで生きること、それが私の歓びだわ」

 丘を半分ほどおりていくと、すらりとした青年が、口笛を吹きながら、ブライス家の木戸から出てきた。ギルバートだった。彼はアンに気づくと、口笛をやめ、礼儀正しく帽子をとってあいさつをした。もしアンが、立ち止まって手を差し出さなかったら、彼はそのまま無言で通り過ぎていっただろう。
「ギルバート」アンは顔を真っ赤にして言った。「学校を譲ってくれて、ありがとう。お礼を言いたかったの。本当に親切にしてくれて・・・。感謝していることを知ってほしかったの」
 ギルバートは、さし出されたアンの手をしっかりと握った。
「アン、別に親切というほどのことじゃないよ。何かして君の役に立ちたいと思ったんだよ。僕たち、これからは友だちになろうよ。前に君をからかったこと、もう許してくれたかな?」
 アンは笑って、手を引っこめようとしたが、彼はまだ握っていた。
「池の船つき場に上げてもらった時には、もう許していたのよ。でも自分では気づいていなかったの。なんて頑固なお馬鹿さんだったのかしら。それに、思い切って白状すると、あれ以来、ずっと後悔していたの」
「僕たち、大親友になれるね」ギルバートは見るからに嬉しそうに言った。「君と僕は、いい友だちになるために生まれてきたのに、アン、その運命を君が邪魔してきたんだよ。僕らはお互いに、いろいろなことで助けあえると思うよ。勉強は続けるんだろう?僕もだよ。さあ、家まで送っていくよ」
 アンが台所に入って来ると、マリラは、好奇心の塊のようになってアンを見つめた。
「アン、小道を一緒に上がってきたのは、誰だい」
「ギルバート・ブライスよ」アンは、顔が赤くなっているのに気づいて、うろたえた。「バリー家の丘であったのよ」
「門のところで三十分も立ち話をするほど、ギルバートと仲良しだったとは知らなかったね」
 マリラは冷やかすように笑った。
「今までは仲良しじゃなかったわ、競争相手だったもの。でも、これからは仲良くした方が賢明じゃないか、ということになったのよ。本当に三十分も話していた?ほんの二、三分だと思っていたわ。でも、マリラ、五年間も話さなかった分を、取り戻さなければならないのよ」

 その夜、アンは満ち足りた気持ちで、長のらく窓辺にすわっていた。風は桜の枝をそよそよと優しく揺らし、薄荷(ミント)の香りをアンのもとまで運んできた。窪地の尖ったもみの上には、満天の星がまたたき、いつもの方角に目をむけると、ダイアナの部屋の灯が森をすかしてちらちらと輝いている。
 クィーン学院から帰って、ここにすわった晩にくらべると、アンの地平線はせばめられていた。しかし、これからたどる道が、たとえ狭くなろうとも、その道に沿って、穏やかな幸福という花が咲き開いていくことを、アンは知っていた。真面目に働く喜び、立派な抱負、気のあった友との友情は、アンのものだった。彼女が生まれながらに持っている想像力や、夢みる理想の世界を、なにものも奪うことはできなかった。そして道には、いつも曲がり角があり、そのむこうには新しい世界が広がっているのだ!
「『神は天に在り、この世はすべて良し』」アンはそっとつぶやいた。


 L・M・モンゴメリ 
 松本侑子訳『赤毛のアン』第38章、(2000年発行、集英社文庫)より。

 
 長い引用になりましたが上記の場面を、松本侑子さんの「『赤毛のアン』の謎とき-英文学と幸福の哲学」の講座に参加して、先生の朗読で聴きました。マシューのお墓に花を供えたアンが静かに心揺れ惑い、最後にはこの場所で生きていこうと決意する場面、そして一番最後の窓辺にすわっている場面は大好きで元気をもらえるので、原文と翻訳をノートに書いていつも持ち歩いています。そして朝の通勤電車の中で、職場が近くなった頃に必ず読んで電車を降りるのが日課になっています。今日は、原書のペーパーバックに目をやりながら、先生の美しい声で聴いてあらためて心に深く入ってきました。ちょっと涙が出そうになりました。


 冒頭のブラウニングの詩と最後を飾るブラウニングの詩「ピッパが通る」の紹介、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』からの引用の場面(第5章、アンの生い立ち)の紹介、『赤毛のアン』の幸福の哲学-いつも夢と希望をもって生きるアン、衣食住を丁寧に堅実に生きるマリラ、家族を愛する・いつも味方でいるマシュー、地元の活動に参加・地域の一員となるリンド夫人-、ロバート・バーンズ作詞のスコットランド民謡「わが恋人は赤い赤いバラにのせて」を流していただきながらアンにゆかりの場所の写真のスライドショーも拝見し、幸せなひとときでした。モンゴメリに『赤毛のアン』を称賛する手紙を送ったマーク・トウェインは、独学で英文学を学び、アンには数多くの引用があることを理解して読んでいたというお話もうかがいました。



 マシュー・マリラの兄妹と、アンは血のつながりがないからこそ、一緒に暮らしていく中で互いを思いやり慈しむ心が生まれ本当の家族になれたのかもしれない、そんなことをふと思いました。血のつながりってむずかしいですね。

 これからもこのブログに母や妹のことを書き続けていくつもりです。自分の中にたまっているものがたくさんあって外に向かって表現していきたい、まだまだ書き足りない、そんな思いが強いからです。
 
 でももう自分を責めたり、因果関係を追い求めたりすることはこれ以上やめようと思います。十分過ぎるぐらいにのたうちまわってきました。自分の感性を信じて、その分まで一生懸命に生きていこうと思います。私はまだ出会うべくして出会うべきもの(人)にまだ出会っていない、これからまだ幸せになれる時間はある、そんな気持ちになれた一日でした。


 松本侑子さんは、著書の中で最終章をこんなふうに紹介されています。


「進学、就職といった人生の岐路において、思いがけず不本意な結果になっても、今ここで生きることに最善を尽くす・・・。そうすれば、いつかきっと最善の収穫が返ってきて、次なる未来の扉は自然に開かれるだろう、すべては天の神が守り、導いてくださる・・・。アンはそう信じて、また前向きに生きていこうと決意するのです。
 こうして長編小説『赤毛のアン』は、神へ信頼と感謝、未来への希望に満ちあふれた明るさのなかで、静かに幕を下ろしていきます。」

 松本侑子著『赤毛のアンへの旅-秘められた愛と謎』、(NHK出版、2008年発行)より。

 
写真は、春のプリンス・エドワード島、バルサム・ホロウ・トレイルの中を流れる小川です。
長い文面を最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。

中井久夫著『「つながり」の精神病理』

2013年07月15日 10時17分53秒 | 中井久夫著作『「つながり」の精神病理』他
中井先生の著書は、専門的なことがでてくると私の勉強不足もあり、難しくて簡単には読みこなせないのですが、語り口が優しくて心が救われ、またそういうことだったのか、と気づきへとつながることがたくさんあります。

私自身の記録と合わせて少しずつ書いていきたいと思います。


「2012年4月某日(母とのお別れから2ヶ月後です)

人は色々言ってくれる。
話せばアドバイスをくれる。
けれど、自分の中ではそんなにかんたんじゃないんだということが、昨日の(エンカウンター)グループのあとでわかった。中井先生の『「つながり」の精神病理』を読み始めた。ようやくわかった。ことばでは説明しきれない、何か目には見えない、一つ一つはささいなことでしかないようなことで、病になるし、自殺へとさそわれる。日常の積み重ねってそういうものだ。
自分は当事者でなくても、そこに身内として関わるしかなかった者の、その思いもまたことばでは言い切れない。
人にはなかなか理解されない。
色々なことが絡み合った現実。そんなに簡単ではない。


父・母・妹、それそれに自分の人生にツジツマがあったのだとすれば、そこに好むと好まざるとに関わらず生まれてしまって、関わらなければならなかった私にとって、どんな意味があったのだろう。

受け容れたいと必死になってきた私の人生はこれからどうなっていくのだろう。
結婚も出産も逃してしまった私の人生にとって結局どういうことだったんだろう。
答えのない模索が始まってしまった。」



『「つながり」の精神病理』(ちくま学芸文庫)からの引用

フクちゃんとサザエさん(119-121頁)

 小学四年以降になると子どもには知力や親の経済力等による選別の圧力がいやおうなしにかかってくる。
 やがて、親のほうにも、子の教育費の負担と、老いてくる自らの親の面倒と、自分の職場での責任増大(あるいは家庭経営の複雑さ)がのしかかってくる。

(略)

 親子のきずなが、親子の成長の足を引っ張る形を取るのは、こういう転換期であると私は思う。親子の分離がうまくいくかどうかを決める因子の一つには、こういう時期に、親子が現状にしがみつき、さらにはもっと以前の状態に戻ろうとするかどうかによる。
 親子のきずなが幼年時代にどうであったかということも重要であるが、それは大人になるまでに修正される機会がいくらでもある。
 そういえば、「サザエさん」の家族構成は現実にめったにないような構成であって、あれは、うまく、転換期的な年齢の構成人員がいないようになっている。そのためにか、かなり不自然な家族構成なのだが、読者は、あまり気づかないようだ。その家族構成には不安もそそるものがないからである。(略)世代間境界が不鮮明であるが、ある序列はあって、しかも世代間のギャップが最小になるようになっている。そして、思春期の少年少女がいない。登場人物の年齢を十年上げてみると「サザエさん」の世界は成り立たないのである。
「フクちゃん」になると、おじいさんとフクちゃんの二人である。祖父と孫二人だけの所帯はかなり悲惨なはずだが、漫画は生活的なことが一切出てこないようになっている。祖父と孫という自立が問題でない二人世界での永遠のたわむれがある。」


→まだまだ続きます。
 写真は、春のプリンス・エドワード島の緑と赤土です。
 本文とのつながりはないですが、私自身がほっとするので載せています。




プリンス・エドワード島の夏の夕暮れ

2013年07月14日 12時36分15秒 | プリンスエドワード島への旅
プリンス・エドワード島の夏(7月)は、9時を過ぎても明るいので、キャベンディッシュに泊まると、晴れていればゆっくりとサンセットを楽しむことができます。


『赤毛のアン』の舞台、アヴォンリ-村のモデルとなったキャベンディッシュ(北海岸)のサンセットを始めて見た時には、赤い土の荒削りな崖と紺青色の海とだいだい色の夕陽、銀色に輝くようにみえる海にゆっくりゆっくりと陽が沈んて行く様子に、夢の中にいるような心地でした。


宿から海辺まで、緩やかな丘をくだって、また登って、私の足で20分ほど歩くとようやく銀色の海が見えてきます。





だいだい色の陽が赤土を照らしながら沈んでいきます。





夏といっても夕暮れになると風が冷たくて寒いので、ずっと海岸で過ごすのはちょっと大変なのですが、他では見られないであろう美しい光景に、名残惜しくてとっぷりと暮れてしまう少し前までねばりました。







'We are rich,'said Anne staunchly.

'Why,We have sixteen years to our credit,
and we,re happy as queens,and we,ve all got imaginations,more or less.
Look at that sea,girls-all silver and shallow and vision of things not seen.
We couldn,t enjoy its loveliness any more if we had millons of dollars and ropes of dianmonds.

 
   ANNE OF GREEN GABIES   L・M・MONTGOMERY


「私たちだってお金持ちよ」アンは、はっきりと言った。この十六年間を立派に生きてきて、女王様みたいに幸福だわ。それにみんな多かれ少なかれ、想像力を持ち合わせているもの。ねえ、あの海を見て。一面が銀色に輝く光と影と、そして目には見えない幻に満ちているわ。たとえ何百万ドル持っていても、ダイヤモンドの首飾りを何本も持っていても、あの海の美しさをもっと愉しめるということはないのよ。」


松本侑子訳『赤毛のアン』(集英社文庫)、第33章「ホテルの演芸会」より引用させていただきました。

この場面は、映画『赤毛のアン』にも描かれています。



モンゴメリさんの最期は自死によるものであったと2008年にカナダ政府が公式に認めたという雑誌の記事をたまたま読んだ時には、自分のことに引き寄せて考えてしまい辛くって、高校生の頃から20代の始めてかけてあれほど好きだった『赤毛のアン』、繰り返し繰り返し読んだ自叙伝『険しい道』を自分の中で封印し、二度と読むことはあるまいと思いました。
でも、「3か月トピック英会話」がきっかけで『赤毛のアン』と再開し、今は松本侑子さんの原文で読むセミナーにも参加し、大切な心の支えの一つとなっています。

『赤毛のアン』の原文を、難易度が高いですが翻訳を頼りに読んでいると、モンゴメリさんは心からこの作品を楽しみながら書いたんだろうなということが伝わってきます。

プリンス・エドワード島=『赤毛のアン』ばかりではないのですが、島を訪れると今もモンゴメリさんの描いた世界が息づいているように感じます。





『東北学/文化と震災からの復興』(1)

2013年07月07日 15時34分26秒 | 東日本大震災
「2013年1月某日

人が生きていく営みーそれは、先に逝った命、今生きている命、これから生まれてくる命をひっくるめて命なんだと思う。

河合隼雄さんと小川洋子さんの対談集を読んであらためてそう思った。
日本の祭りには、そうした命への鎮魂がこめられている」



2012年9月29日―11月17日
慶応義塾大学日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう」を受講しました。

9月29日の3時限目、赤坂憲雄「東北学、新たなステージへ」のレジメより引用したいと思います。

「<1>はじめに民族芸能が復活を遂げた。(2011年5月の時点で)

 被災地では、いまだ生き延びることがテーマであった震災から2か月も経たぬ時期に、民族芸能の復活への動きが始まっていた。わたし自身は5月の末に、南三陸町の水戸辺というムラではじめてそのことを知った。あのときの驚きは忘れられない。

水戸辺は志津川湾に面した、小さな港をもつ漁村である。十数メートルの高さの津波に呑み込まれて、ムラはほとんど壊滅に近い被害を受けた。多くの人々は高台に逃げて、命だけは助かったが、何もかも失った。ところが、ムラの男たちは海辺から数キロも流された瓦礫の山のなかに分け入り、それぞれの思い出の詰まったものを探し続けたのである。そして、かれらがついに見つけたのは、水戸辺に伝承されてきた鹿(シシ)踊りの衣装と太鼓だった。それを洗い清め、仲間たちを集めて、避難所で踊った。仲間内から二名の犠牲者があったらしい。まさに鎮魂の踊りとなったにちがいない。避難所に暮らしていた人たちは、ほっとしたように涙をこぼした、という。

 それから、水戸辺の鹿踊りはあちこちに呼ばれるようになった。神社に奉納したり、ムラの行事や何かで、踊ってきたのである。すべての道具や衣装が見つかったわけではない。ニュースに触れた人々からは支援として道具類が届けられたようだ。

 気がついてみると、水戸辺の鹿踊りのように震災から数カ月で復活を遂げていった民族芸能は、けっして少なくはなかった。三陸の沿岸部にかぎっても、鹿踊りのほかに、剣舞や虎舞などが早い時期に復興している。メディアの片鱗に、明るいニュースのひとつとして取り上げられているのを見かけることが多かった。たしかに、廃墟のなかで演じられている民族芸能はインパクトが強い。しかし、どこでも後継者不足で、存続すら危ぶまれていたはずの民族芸能がそうして、むしろ華々しく復興する姿には、どこか意外の感を拭うことができなかった。
なぜ、民族芸能は復活を遂げていったのか。それが大切なテーマのひとつになった。」


受講中のわたしのメモ書きから


「鹿踊り→なぜシカではなく、シシと読むのか?

 激しく体をぶつけ合って太鼓を打ち鳴らす。
 山と海にはさまれた小さな漁村(南三陸)
 だから、漁村なのに鹿。
 昔は炭焼きで生計をたてていた。
 エネルギー革命で、漁業へ転換。

テーマは鎮魂。
被災地ですぐに復興した。
全ての失われた命のためにすぐになすべきテーマだったから。
人間が狩猟によって食べる物をシシという。
生きとし生けるもの全ての命のためにこの踊りを奉納する。
生きとし生けるもの全てに感謝をこめて建てたのが鹿踊り供養塔。
中尊寺建立の思想につながる。
鯨の供養塔もあちこちにある。
日本独自の文化。
全てを使いつくし、命をつないだ。その動物たちへの感謝。」

→まだまだ続きます。
 わたしの中で、『生きるとは、自分の物語をつくること』、そして『御巣鷹山と生きる』へ とつながっていきますが、 結びつくまでにまだかかります。


秋のプリンス・エドワード島_ビクトリアB&B

2013年07月07日 13時56分23秒 | プリンスエドワード島への旅
ハロウィン・パーティの写真をもう少し載せてみたいと思います。

小雨が降る中、ヴィクトリア村を通過した時のものです。



シーズンオフで閑散としていましたが、建物が可愛くて、楽しくってついつい何枚も撮ってしまいました。



B&Bもクローズですが、こんな風に通りすぎる人の目を楽しませてくれていました。



風が強いのでお人形が倒れてしまっていて、直してきました。



秋なのに緑と花もあふれていて、プリンス・エドワード島って不思議です。
写真家の吉村和敏さんがブログに書いていらっしゃいますが、「特別な場所」な感じがあります。

まとまった旅日記はもう少し先になります。

書きたいことがたくさんあって、平日は10時間労働の日々なので少しずつです。

こうしてあらためて写真を眺めていると私自身、幸せ感がよみがえってきます。