たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

ミュージカル『モーツアルト』(1)

2014年11月28日 17時35分28秒 | ミュージカル・舞台・映画
ちょうど一年前は『レ・ミゼラブル』の凱旋公演大千秋楽を見届けたのと同じ11月27日、帝劇で『モーツアルト』を観劇しました。

一年前と自分の状況はすっかり変わりました。
クロをシロだと言っているものにクロだと認めさせるためのはかりしれない困難な道のりを歩み続けている中で、生きていくことは本当にむずかしいなとあらためて感じる舞台でした。
筋を丁寧に追って理解しようとしながら観ていたので、けっこう頭を使いました。
いろいろと思うものがあるので少しずつ書いてみようと思います。

『エリザベート』『レディベス』を創り上げたクンツェさん、リーヴァイさんの作品。
演出は小池修一郎さん。

ヴァルフガング・モーツアルト:井上芳雄
レオポルト(モールアルトの父);市村正親
ナンネール(モールアルトの姉):花總まり
コンスタンツェ(モールアルトの妻);平野綾
ヴァルトシュテッテン男爵夫人:香寿たつき
コロレド大司教:山口祐一郎
コンスタンツェの母:阿知波悟美
コロレドの部下:武岡惇一
シカネーダー(劇場の支配人):吉野圭吾


宝塚出身の方、『レ・ミゼラブル』や『レディベス』に出演されていた方々がたくさんいて、贅沢なキャスティングでレベルの高い舞台だったと思います。

井上さんを初めて観たのは、一路真輝さんが主演をつとめた2000年の東宝『エリザベート』初演のルドルフ役。
当時のパンフレットには、「東京芸術大学声楽科に在学中、応募者1000人のオーディションの中から選ばれた。180センチの長身とソフトで甘いマスク。期待感いっぱいの新人」と紹介されています。
それから『モーツアルト』など数々の舞台に出演されているのを知りながら、私が勉強と二人分労働の日々が数年にわたって続いたために観ることはありませんでした。
(有楽町界隈で井上さんらしき人を見かけたことはあります。2012年の『エリザベート』を観にいったとき、たまたま帝劇の楽屋前でもお見かけしました。エリザベート出演者の入り待ち・出待ちをしている女性に背をかがめて丁寧に話をされていました。)

2012年7月に『ルドルフ・ザ・ラストキス』を観劇したとき、堂々と帝劇を背負って主役をつとめる役者さんに成長されたんだと感慨深いものがありました。
そして今回の『モーツアルト』、5回目だそうですが、モーツアルトが夭逝したのと同じ35歳になったのでモーツアルト役をこれで卒業されるとのこと。わたしにとっては初観劇になります。
ルドルフとはキャラクターが違いますが、生きづらさを抱えているという意味で通じるものがあるように思いながら観ていました。すごくむずかしい役・・・。
これまでの井上さんの役者人生の積み重ねがそのまま、神様から与えらえた有り余る才能をもてあまし、周囲のおだてに弱く観ているものにもどかしさを感じさせる、神童と呼ばれた子供時代の影アマデと共に苦悩しながら生きるモーツアルト像にそのまま表現されていたと思います。
モーツアルトはスニーカーをはいて自在に舞台を飛び回る演出、井上さんの長い手足が映えていました。
常にモーツアルトの影のように一緒に舞台に登場するアマデはセリフも歌も一切ありませんが、子役ちゃん(女の子)の仕草と表情だけの演技も素晴らしかったです。


宝塚の雪組でエリザベートを演じた花總まりさんとルドルフを演じた香寿たつきさんが、同じこの舞台に立っているというのもなんとも感慨深いものがあります。

花總さん演じるナンネールは、弟がプリンス、自分はプリンセスと呼ばれ才能がありながら、女性であるが故に弟を陰で支えた役。大きな発散できるような見せ場も歌もなく、辛抱のいるむずかしい役です。
花總さんは金髪がよく似合っていて可愛らしく、10代の頃ははつらつとしている雰囲気をよく出されていたと思います。市村正親さん演じるモールアルトの父レオポルトと二人で歌う場面に、この舞台は、モーツアルト一家の葛藤の物語、親子の葛藤の物語でもあるんだと感じました。
花總さんがこういう役を演じられるのは初めてだと思いますが、よくこなされていると思います。モーツアルトがウィーンに行ってしまったあと、ピアノに向かう神童モーツアルトのお人形に目隠しをして歌う場面など、切なくてたまりません。


香寿たつきさんのヴァルトシュテッテン男爵夫人、豪華なドレスを美しく着こなされて、歌と演技の安定感は見事でした。5月にセレブレーション宝塚では長い髪を束ねて男役に戻っていたのはうそのよう。どの舞台でも安心して観ていられます。「星から降る金」のナンバーが心に残ります。


まだまだ書きたいですが今日はここまで。
写真は初日の囲み取材の様子、東宝の公式ツィッターより転用しています。





「子どもたちの悲しみに寄り添う」

2014年11月27日 10時38分03秒 | グリーフケア
また長くなりますがよろしかったら読んでください。

2014年11月9日(日)
講演会『子どもたちの悲しみに寄り添う
~ダギー・センターモデルから学ぶ遺族支援~』
講師:ドナ・シャーマン、通訳:岩本喜久子

ダギー・センターとは?
「いのちってなに? 死ってなに?」
不治の病の床にあった9歳の少年ダギー・ターノの問いかけに応えてエリザベス・キューブラー・ロスは『ダギーへの手紙(アグネスチャン訳、佼成出版社)』を書きました。そのやりとりに接して深く心を動かされた看護師のべバリー・チャッペルによってダギー・センターは、1982年オレゴン州ポートランドに設立されました。
ダギー・センターは、大切な人を亡くした子どもたちとその家族が、それぞれのペースで悲しみに向き合い、癒されるように、ピアサポート・モデルを開発し、現在米国内だけでなく世界各地で500以上の機関がこのプログラムに基づいた活動をしています。
ドナ・シャーマンさんは、1983年からダギー・センターの活動に加わり、1991年よりCEOとしてセンター全体の運営に関わる一方で世界各地で精力的に研修を行っています。(チラシより引用しました。)

最初に主催者より挨拶有。
2011年3月にダギー・センターに行ったことがきっかけで、今回が4回目の研修。
事故死・自死・・・子供との関わりが抜け落ちていた。
子どもに選んでほしい。子どもたちが、「おじさん、また来るよね」ということはないが、一緒に遊んでくれた大学生に「お兄ちゃん、また来るよね」という。(今日も男子学生が数名きているが)、この「お兄ちゃん、また来るよね」が大切。

ここから、通訳を方の話を通して私が記録をとった範囲で、ドナ・シャーマンさんのお話をまとめてみました。足りなかったり、理解がちょっと違っていたりする点があることをご了承ください。


親の死は子どもに大きな影響を与える。
まちがったことをしてしまうと、その子のその後の人生に大きな影響を与える。レジリエンスを子どもはもっていると言われているが、全ての子どもに同じような回復力があるとは限らない。
子どものリスクの要因を正しく理解しておくことは大切。

子どもの死別の体験の研究は、確実に増えてきている。
これまでわかっている七つの要素をあげてみる。必ずしもこうではないが、死別体験をしていない子どもよりも、死別体験をした子どものリスクは、3倍から10倍の割合で高い。

①うつの症状が高い。

②身体的な問題が起こる。病気になりやすい。免疫力がグリーフは影響すると言われている。免疫力が下がって、風邪をひきやすくなったり、注意力散漫でケガをしやすくなったりする。
こんな女の子がいた。ジャングルジムから落ちてしまったと言って、足にギブスをしてダギー・センターに来たその女の子は、それまで少しも楽しそうじゃなかったのに、その日はとても楽しそうだった。それから数か月後に、その女の子とドナさんとの会話で、最初にジャングルジムから落ちたと言ったのはウソだったとわかった。実は女の子は自分でジャングルジムから落ちた。お父さんが亡くなってから、回りが自分に優しくしてくれなくなったのでケガをすれば優しくしてくれると思って、女の子は自分からケガをした。

③学校の成績が落ちる。(日本とアメリカでは仕組みが違うかもしれないが)同じ学年をもう一回繰り返さなけければならなくなる。

④不安感が強くなる。大人も体験しているが、一度交通事故・地震で怖い体験をすれば不安になるのは当然のこと。

⑤自信がなくなる。

⑥自己コントロール力の低下。自分ではどうしようもなくなるという気持ちが強くなってしまう。
⑦将来に対する希望が持ちづらくなる。自死を考えることもあることが、過去の研究から理解できる。他者との関係が持ちづらくなる。薬・アルコールへの依存が現われる。こうした子どもたちをサポートしなければリスクは高くなる。

死別だけではなく、離婚・親が刑務所に入る、といった喪失も社会にはある。喪失体験を隠そうとしてしまうグリーフ。自分を守るためだが、いい結果をもたらさない。
子どもと向き合う努力が大切。そういう仕事は大変でしょ、とよく言われるが、ダギー・センターに来た親や子どもから毎日学んでいる。

ドナさんは、1979年大学卒業後、NGOに所属し、カンボジアの難民キャンプに配属された。難民キャンプで生まれて生活している子どももいた。難民の体験を集めるのはドナさんの仕事で、同じ年齢の通訳と一緒にカンボジア人から話を聴いて集めた。その後、ベトナムの難民キャンプに移動し、同じように体験を集める仕事をした。

ダギー・センターでは、辛い体験をした人々が、自分の体験を語る。語ることによって何らかの意味を見い出す。そのお手伝いをするのが私の仕事。
死別を体験した人に、「早く忘れなさい、前に進みなさい」と社会は言うがそうではない。共に生きる。乗り越えるのではなく・・・。先ず、話を聴くことが大切。
レジリエンス=再生する力・人間の回復力。
研究結果では、その体験の意味を見い出せたとき、なぜ自分がそういう体験をしたかを見い出せたとき、人は回復していく。回復していく力を見い出せたとき、人は回復していく。

子どもたちにも、自分の力を見い出せるよう導いていくことが大切。
グリーフ・サポートをしている専門家の側が、サービスを提供しているという姿勢が多くみられる。そうではなく、私たちが死別体験をした人たちから学ぶべき。
PTG(トラウマのあとの成長的体験)。成長には痛みが伴う、という研究結果がある。

ドナさんが初めて来日したのは阪神淡路大震災の後。あしなが育英会から、ダギー・センターのような場所をつくりたいと招かれたのは最初。(神戸にはあしなが育英会によって、レインボーハウスが設立されました。)
大切な人が亡くなれば、みんなが集まるのはどこの国も同じ。

サービスの壁となることの例として、例えばオクラホマ州で爆弾によってたくさんの人々が亡くなった時、多くの団体が押し寄せるが必ずしも有益な団体とは限らない。自分たちのサービスを知られたい、募金を集めたいという団体もある。

カンボジアの難民キャンプ時代、ある団体が寄付金集めのためとして撮影に来たことがあった。NG0は国連からお金が出ているので、本来関係ないはずだが・・・。NGO同士で競争があるのは事実。あるNGOが難民キャンプのごみ箱に団体の名前を載せて自分たちの宣伝に利用するという場面があった。災害の後、寄付金を集めた団体の運営者が現場に行った後、五つ星ホテルに泊まるのはよくあること。

9.11の後、専門家が押し寄せ過ぎたので帰したということがあった。
専門家と言われる人たちが、”死”に関するクラスをとっていないのが現実。ドクターたちは、実践の中で模索しながらやっている。
死について話さない。そういう環境の中に私たちはいる。
学んでいない専門家が悪いわけではない。
遺族たちは、模索しながらやっているドクターから、こうした方がいいよ、とアドバイスされているのが現実。専門家がやってはいけないことで辞書が一冊作れるぐらい、まちがって行われていることが現実には多い。「亡くなった人の写真を片付けなさい」「亡くなった人に関わる物を片付けなさい」など。

3.11の後、長期的展望のないことが多い。たくさんの寄付金を集めた団体がいつの間にかプログラムを終了しているということがあった。一年後にはメモリアルがあった、二年後・三年後の節目にもあったが、長期的にはなかなか行われない。

コネチカット州の学校襲撃事件の後、遺族に対する嫌がらせがあったことも事実。善意で集められたテディ・ベアが送られてくる一方で、首の切られたテディ・ベアの入った箱が送られてくるなど、ということがあった。全ての人に良心があるわけではないのが現実。

子どもたちにとって、死別そのものだけではない。学校生活に影響が出るなど、色んなことにつながってくる。

今アメリカではグリーフを疾患とする流れが大きくなっているが、それはいいことではない。
DSMⅤ(アメリカ精神医学会の診断基準、第5版)が出るまで、グリーフをどう扱うか議論されてきた。DSMⅤに載せられている診断基準は、私たちには当たり前の反応として理解できるもの。
診断基準があると、抗うつ薬が処方されてしまう、ということが起こる。
WHOによれば、40秒に1人がうつによる自死で亡くなっていると報告されている。2020年には20秒に1人と言われている。
抗うつ薬が増え、うつが増えると自死は増えていく。
薬を批判しているわけではない。何か正しくやっていないことがあるのではないか。

アリゾナ州の大学の研究で、12週間グリーフを体験した子どもたちの行うプログラムを追う、という研究を6年間にわたって行った。その研究で、参加者たちは自分たちの話したいことを話せなかったという報告がある。プログラムに12週間という制限をもうけるのは問題ではないか。
誰かがわかってくれていると感じている子どもたちはポジティブ反応。誰かがわかってくれていないと感じている子どもたちはネガティヴ反応があった。①誰かがわかってくれていると子どもたちが感じること。②自分の体験を話せると子どもたちが感じること。この二つが子どもたちへのサービスの基本。

2009年にダギー・センターの建物が放火された。今も犯人は捕まっていない。家族を失った人たちと同じ体験をドナさんはした。決してこういう悲劇的なことがあってよかったということではない。前向きな気持ちになる時、否定的な気持ちも同時にあることを忘れてはならない。

これまで講義をしたり、賞をいただいたりしてきたが、出会う家族・子どもたちが先生であり、私は生徒であることをあらためて思う。話を聴かせていただく、ありがたい体験をさせてもらっているという気持ち。喜びには悲しみが伴う。












「大草原の小さな家」への旅_ミネソタ州ぺピン歴史博物館(2)

2014年11月26日 09時23分11秒 | 「大草原の小さな家」への旅
「馬小屋から父ちゃんが帰ってきたとき、父ちゃんはしばらくさしかけ小屋にいたが、やがて棒切れを腕いっぱいかかえてはいってきた。
「母ちゃん、これは朝飯に使う薪だよ」といって、腕にかかえたものをストーブのそばにおろした。「ほし草のかたい棒だ、きっとよく燃えるよ。」
「ほし草の棒?」と、ローラが思わず大声をあげた。
「うん、そうだ」といいながら、父ちゃんはストーブの上のあたたかいところに手をひろげてかざした。「ほし草がさしかけ小屋にあってよかったよ。いま吹いているあの嵐の中じゃ、とても草なんか運んでこられないからな。葉っぱを一枚ずつ口にくわえてくるかどうかしなけりゃね。」
 そのほし草はまったく棒のようだった。父ちゃんは一本一本よってしっかりこぶを作った。
とにかく木の枝とほとんど同じかたいものにした。
「ほし草の棒だって!」と、母ちゃんは笑った。「このつぎの工夫はなんですかね。父ちゃん、あんたにまかせておけば、なんとかかならず道をつけなさね。」

ローラ・インガルス・ワイルダー作、鈴木哲子訳『長い冬』下巻、岩波少年文庫、1955年初版、33-34頁より引用しています。)



上の写真が、「ほし草の棒」です。
他にも開拓時代の日用品が展示されていました。





















ローラさんとインガルス一家のポスター写真が貼ってありました。




雨の日の朝

2014年11月25日 08時03分44秒 | 日記
こんな雨の日の朝は少し気持ちが落ち着きます。
住環境が本当によくないので、早く移動したい気持ちが強くなってきています。
真夜中に人が訪ねてきて大声で朝方まで話しているのが全部聞こえてくるし、咳払いも電話の話し声も全部聞こえてくる・・・。ということは私の音もかなり聞こえているわけで、生活時間帯が丸わかり、そろそろ耐えられなくなっています。長時間労働の時は向いている部屋でしたが、少しゆっくりしたいとなるととても落ち着かない環境でした。
でも次の動きが決まるまで、身動き取れないですね、残念ですが・・・。
都心のたくさんの人がこういう環境で暮らしているんですね、今さらですが・・・。
すごく人間らしくない、なんとかしたいです。

連休中に学会で郡山に出かけましたが、前の晩がそんな状況だったので、かなりの睡眠不足状態でした。なんとかがんばりました。内容はいろいろと学びのある、実り多いものになりました。またあらためたいと思います。

一昨日の夜、都心に帰ってきて、人が多すぎるとあらためて思いました。

やっと追い風が吹き始めてきましたが、まだ終わるわけではないので身動きとることはできません。これからどこでどうやって生きているのか、答えは簡単ではありません。

あんな所で一生懸命働いてきた自分が本当に馬鹿でした。
貴重な40代を過ごしてしまいました。あまりにもあっけない終わり方を納得できまでには、
もうしばらく時間がかかりそうです。

エネルギーが尽き果てています。
落ち着いたら心から少し休みたい。そういう余裕が持てる終わりになることを今は目指しながら、出直していくためにひたすら古いモノを捨て続けていきます。
すごく苦しいですが、今はまだ我慢の時です。
どこまでがんばれるか、次は見えてくるのか自分自身すごく不安ですが、できるだけわくわく脳で行きたいと思います。


井村君江著『ケルト妖精学』_フェアリーランドへの道(3)

2014年11月24日 13時43分07秒 | 井村君江著『ケルト妖精学』
「一世紀のローマの詩人ルーカンは、その著『ナルサリア』の中で、「ケルト民族は現世とは別のもう一つの世界の存在を信じている」と書いているが、古代から今日に至るまでケルト民族が思い描くこの異界の位置は、かなりはっきりした方角を持っている。日本においても例えば「竜宮」は海の底、「黄泉の国」「根の国」は地下、「高天が原」(たかまがはら)「葦原の中つ国」は天空、「極楽」「西方浄土」は西の空の彼方というように、古代の他郷・異界の法学はおおかたは定まっており、その位置は天と地という垂直方向に存在している。(略)

 ケルト民族は二つの方角に異界を位置づけた。一つは「水を越えた海の彼方」(波の下の国を含む)であり、もう一つは「土の下に広がる地の底の国」(丘の中腹、湖や水の底を含む)である。もちろんケルト民族が移住し広がっている地域によって、想定する場所には違いがある。概してスコットランドでは山や森、湖や井戸、ウェールズでは岩や丘の中や海の底に楽土(エリジウム)があると信じられているが、こうした方角はその土地の持つ自然や土地の特色、そして住民の気質などによるところが多いようである。

 アイルランドの場合には、そうした土地の外的条件のほかに、歴史的に見てローマやゲルマンの侵入がなかったために、古代民族の遺跡が破壊されずに人家近くにもそのまま残っており、それらにまつわる伝説・民話が豊富に伝わっているという事実がある。さらに宗教的に見れば、紀元432年頃、キリスト教をこの地にもたらした聖パトリックが牧童としての経験から、民間に残っていた土俗信仰の必要を知っており、これを排斥しなkったため、イギリス本土では邪教の神、異教の神々、デヴィルやデーモンとみなされて否定された妖精たちが、この地では同じ憂き目を見ずにすんでいることである。こうした二つの特殊事情は、彼らの持つ他郷意識に大きく作用したものとして大切な要素であろう。

 では何故ケルト民族の考えるフェアリーランドが、「海の彼方」と「地下」という二つの領域に決まっていたのであろうか。現世とは別の世界であるフェアリーランドを思い描くのに制限はないはずであるが、何故この二つの方角にケルトの人々は別世界の存在を信じたのであろうか。この原因を考えるためにはまず、妖精が派生してくる淵源を辿る必要がある。

 要請が生まれてくる種々の源を大きく次の六つにまとめてみた。

(1)自然、天体、元素の精霊
(2)自然現象の擬人化
(3)卑小化した古代の神々
(4)先史時代の祖霊、土地の霊
(5)死者の魂
(6)堕天使

 自然の森羅万象の中に象徴を見たり、嵐や大風、洪水、落雷など不可思議な自然現象に恐れを感じ、それら目に見えるものに自分と同じ人間の形を与えて安堵するという心理作用は、科学的因果関係を見る力を持っていなかった古代人に共通した傾向である。

 しかしこの章では、(1)は扱わずに、また(6)の堕天使も、キリスト教思想が入ってからのものであるので、ここの論旨から外れよう。(3)の小さくなった古代の神々(神話)、(4)の先史時代の祖霊と土地の霊(歴史)、(5)の死者の魂(宗教)の三者は、ケルト民族の場合特に互いに密接な関係を持ちながら、異界観を結成していった要因であると思うので、この点から考えてみたい。」


(井村君江著『ケルト妖精学』18-20頁より引用しています。)

秋のプリンス・エドワード島への旅_黄葉と緑

2014年11月21日 17時49分37秒 | プリンスエドワード島への旅
こんな日、心は秋のプリンス・エドワード島へと帰りたくなります。
モンゴメリさんが『赤毛のアン』を書いた家の跡のお庭の木々。
この場所に行くと、今もモンゴメリさんの心が息づいているような感じがします。



恋人たちの小径の遊歩道(バルサムホロウ・トレイル)を流れる小川です。


木漏れ日の美しい秋の日

2014年11月21日 17時06分51秒 | 祈り
自死遺族の会に参加させていただきました。
頭の中がフル稼働したので、終わってからはまた一か月ぶりにちょっと贅沢なパスタランチ。
お茶を何杯でもお替りできるので、ゆっくりと5杯はいただいてしまったと思います。
大きな窓から、木の葉が黄色く秋色に色づいた木々にあたたかな陽射しが降り注いでいる
様子を眺めながら、久しぶりにゆっくりと昼下がりの時間を過ごしました。
連休中に出席する学会で正式な発表者ではないですが、伝えたいことを伝えようとするためにはどうしても資料が必要で、パソコンとにらめっこして資料を整理し続けた疲労もあって、
緩やかな時間は久しぶりでした。

そんなにもう話さないつもりで参加させていただきましたが、色々な方のお話を聴かせていただいていると、歴史が長い分どうしてもやはりたくさんの思いがあふれかえってきてしまって、自分のことを話さずにはいられません。
本当に人それぞれで、比べっこするわけでも、批判しあうわけでもなく、ただ自分の思いを語るだけ。語ることで自分の気持ちに気づいたり、整理されていったりします。

21年の月日をあらためて思います。
これでもかこれでもかと自分を責め続けた苦しい日々を思い出します。
ここまできて、ようやく今までばらばらだったビースがつながってきたような気がします。
理屈では説明のつかない感覚ですが、混乱の先が見えてきたのは、本当に妹が守ってくれているような、ねえちゃんがんばれよ、と背中を押してくれているような感じがあります。
ずっとずっと長い間苦しかったですが、逃げないで向き合い続けてきました。
混乱が終わったら、ようやく自分自身のために幸せを求めていい。自分を許していい、そんな時が訪れたように思います。
妹の30年の人生にどんな意味があったのか、自分で納得して逝ったしまったのか、
それを私がわかったら自分が楽になれるのではないかと長い間その答えを追い求めてきたけれど、答えがどこかにあると思ったけれど、答えはどこにもない。思いは空を舞い続けて、どこにもたどり着くことができませんでした。
妹の分は妹自身にしかわからない。母の分は母自身にしかわからない。私の分は私自身が知っている。苦しみや悲しみが消えることはないけれど、折々にどうしても思い出してしまうし、自分を責める気持ちがまた湧き上がってくることもある。こんな私で、これからもひたむきに歩いていきたいと思います。

人によっては無駄な時間を過ごしていると映るようですが、それは事情を知らない方の仰ること、気にしないようにしようと思います。
ためこんできたものを捨てる日々が続いています。
過去の自分と出会い直し捨てていく作業は、自分の中から悪い気が抜けていくような感覚があります。妹とのお別れの少し前の愚かだった頃を思い出させるものを、デジタル化して現物は捨てました。これ以上こういうものを抱え込んだままでは、もう一歩も前に進むことはできずに苦しかったんだとあらためて気が付きました。
かなり整理できてはきましたが、まだまだ抱え込んでいるものがあってグチャグチャ状態。
今年は捨てる作業で終わってしまいそうです。捨てる作業は頭を使って考えるので疲れますが、やり遂げていこうと思います。そしてできれば、お隣の咳払いまで聞こえるような住環境からもさよならしたいですが、これはむずかしいかな・・・。

気がついたらまた長くなってしまいました。
今は、妹に見守っていてほしい、導いてほしいと祈るばかりです。

道は続いていくと信じて・・・

2014年11月20日 10時12分28秒 | 祈り
大きなポイントを経て、混乱の終わりが少しずつ見えてきたようです。
まだ強硬なものが立ちふさがっているので終わっていくのは簡単ではありませんが、
頭のてっぺんから足の先まで、全身で緊張し続ける日々はようやく終わりを
告げたと考えてよさそうです。
10か月余りよく辛抱しました。このままいつ終わるのかもわからないまま年を越して
続いたら、壊れてしまいそうでした。おかしくなってしまいそうでした。
なんとか間に合いました。
苦しい日々が続きましたが、ここまできてようやく少し気持ちが楽になってきまいた。
次の道が具体的にまだ見えてこないので不安が大きいですが、きっと大丈夫。
妹と両親が守ってくれています。

「1995年9月9日(土)

ふいに秋がやってきた。
今年の夏は、最高に暑かったらしいが、わたしの中では、昨年の夏の暑さほど
いやな夏はなかったし、ほどよく暑さを満喫した短い夏だった。
普通の夏だった。その夏が通り過ぎて行く。
いつの間にか、セミの声がスズムシかなんか、秋の虫の声に変わっている。
仕事再開のために、少し動き始めた。
Macの練習をしながら、仕事の依頼を待っている。
面白いけど、ひどく疲れる。
今ひとつ話が決まるか否か、中ぶらりんの状態だ。
考えても仕方ないか。
事務は向いてないんだよね。かといって他になにができるわけでなし、
どうなることやら。
成り行きまかせだ。
そろそろ家に帰らなければならないが、予定を決められない状態だ。
実家は、時々帰るにふさわしい場所になってしまった。
新しい自分に出会いたくて、こちらに出てきて7年。
ずいぶんたくさんの時が流れたように思う。
銀行員時代のような自分には戻りたくない、という思いだけが私を支えている。
行き詰まりの多い状態が続いているが、ほんの一歩ずつでも前に進んでいると思う。
自分をさほどダメな奴だと思うこともないし、
淡々と進んで行こう。
毎晩のように夢をみる。
起きるのがひどくつらいし、ぼうっとしている。
青空が眺められるこんな日は、なんにもしないでぼうっとすごしてもいいんじゃないかとおもってしまう。」

高倉健さんが旅立たれました。
健さんの語る声を思い出しています。
「駅」「鉄道員(ぽっぽや)」「居酒屋兆治」「幸福の黄色いハンカチ」
私がスクリーンで観た健さんは不器用さを愛したくなるような人間像を演じられていました。

人はいつかみんな旅立っていくのだとあらためて思います。
自分のその時をリアルに考えるのはまだおそろしい。
今はただ謙虚に、大切に、一生懸命に、一日一日を生き抜いていくことが大切なんだと思います。先に逝った人たちの分まで今を生きることが、今ここにいる者の役割。
謙虚でなければいけません。傲慢になっていはいけません。

最近はパソコンの電源がとれて、インターネットがフリーでつながるお店が増えました。
平日の昼間、背広を着た人も着ていない人も、パソコンをやっている姿を多く見かけるようになりました。会社に行くことが仕事ではなくなってきつつあるのかもしれませんね。
わかりませんが、働くこと、勤めることの意味が少しずつ変化してきているような感じもします。
私は書類整理や資料のまとめのために、日曜日は近くの店で8時間、月曜日は3時間、火曜日は6時間ほど長居してがんばってしまいました。
集中して頑張りすぎる程頑張ってしまうところのあるのが私です。
こうやって会社でも働いてきました。
落ち着いてきたら、少し心を休ませて、精神医学を勉強し直しながら少しずつやれそうなことをやっていきたいと思っています。


色々と・・・

2014年11月18日 14時09分51秒 | 日記
詳細を書くことはできませんが、ようやく少し風向きが変わりつつあります。
先のことを考えるとすごく不安もよぎりますが、妹の導きにしたがって進んでいけば
きっと大丈夫だと思います。守ってくれていると信じ続けます。
色々と起こってきているので、足元を見失わないように気を付けながら進んで行きます。

守ってくれていると信じて・・・

2014年11月16日 13時50分16秒 | 祈り
本当に寒くなってきました。
長時間労働しているときにはわからなかったですがなんとも落ち着かない住環境で、
精神的にこたえています。冬を乗り超えられるのか心配です。
古いものを全部洗い流して、できれば環境も変えて生き直していきたいと思います。
でも今はまだたくさん古いものを抱えている状態で、混乱が終わらないので、
身動きとれません。なんとかトラブルにならないように気をつけながらやっていくしかないです。
ここまできてようやく少し風向きが変わってきたような感じになってきました。
ようやくです。ここまでくるまでの道のりも並大抵のことではないきついことの連続。
すでに満身創痍な状態。身体がもつのか自分自身でもちょっと不安。でもまだまだ色々とやらなければならないことがあります。
本当に丸ごとの私でぶつかっていかないと乗り越えられないむずかしい、困難なこと。
これからどうやって自分にごはんを食べさせていけるのかがみえてこない不安を抱えています。
それでも今は混乱をやり抜くことが自分に与えられた役割なんだと思います。

なぜ妹が先に逝って、私は今ここに、こうして生きているのか。
同じ母から生まれて同じ家で暮らしていたのになぜ違うのか。
その答えはどこにもない。どこかにあると思って探し続けたけれどどこにもないということがわかった。ただ宇宙的な大きな流れの中で、神様がそういうふうに決められた。

思想家の若松英輔さんの講演を聴いた時に、お話の中で、スピリチュアルなものは人間にとって必要、それがキリスト教でも仏教でも太陽でも自然でもいい、正確ではありませんがそんな内容のお話があったと思います。
若松さんは、生後四週間で洗礼を受けたカトリックだそうです。
私は特定の宗教をもってはいませんが、どこかに神様はいて役割が決められているような気がします。因果関係、理屈では説明のつなかいことが現実にはたくさんあります。

私は今妹の導きにしたがって歩んで行けばいいんだと信じ続けます。
このブログに書いた過去の自分にエネルギーをもらったりしています。
きっと道は開けてくると信じ続けます。

混乱の内容を説明して人にわかってもらうのは結構大変。
表面だけ聞くと、何言っているの、わかってやってきたことじゃないの、自分が悪いんじゃないの、と言われても仕方ないといえば仕方ないこと。
でも知っている人は知っている、私が心の血を流しながらひたすら歩き続けてきたことを。
乗り越えられたときには心から自分をほめてあげよう。

「1995年9月6日(水)

(大学の通信教育の)リポートがひとつ書きあがったせいか、ぼうっとしている。
真夏にコツコツとやっていた疲れがでたのだろう。できあがってみればいつもの如く、こんなものか、って感じだけど、行き着くまでにはすごく時間がかかった。さあ、テストの準備をしよう、っていう気にはまだならない。

生活の基盤となる仕事もなくって、あせりはじめている。
できるだけ、自分にプラスになるようなことをしたいけど、なにを習得するにしても時間がかかってしまう。こんなわたしを受け入れてくれるとことはないものだろうか。

らせん階段をのぼる如く・・・。
あの純粋な気持ちはどこへいってしまったのかい。
じっとしていればいい、どうすればいいのかわからない時は・・・。

今が苦しみの時だと思う。
きっといいことだってあるにちがいない。
いいきかせている。
テーマがみつからないから、苦しいのだと思う。
きっと、大きいのかもしれない。それさえ見つかれば強いものが生まれるだろうに。

毎晩のように夢をみるので、目がさめた時、疲れてぼうっとしている。
ぐっすり眠りたいなあ。とにかく眠ることだ。
自分は人よりそんなに劣るわけではないし、ダメな奴でもない。
人と話すのがTELだけだし、いつかかってくるのかわからないTELを待つのにもすっかり疲れてしまった。ただ、それだけだ。
しばらくぼうっとすれば、また元気がでると思う。
Mちゃんが夢に出てくるのが、とても苦しい。
もう帰ってこない者にまだとらわれているわたしだ。」



春のプリンス・エドワード島、オーウエル・コーナー歴史村です。
またいきたいな・・・。