『モネ連作の情景』上野の森美術館-モネのアトリエ
クロード・モネ
《ヴェトゥイユの教会》
1880年、ヴェトゥイユ
50.5 × 61.0
サウサンプトン市立美術館、
モネ 連作の情景 - 芸術広場 (geijutsuhiroba.com)
(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)
クロード・モネ
《ヴェトゥイユの教会》
1880年、ヴェトゥイユ
50.5 × 61.0
サウサンプトン市立美術館、
モネ 連作の情景 - 芸術広場 (geijutsuhiroba.com)
(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)
クロード・モネ
《モネのアトリエ》
1874年、アルジャントゥイユ
50.2 × 65.5
クレラー=ミュラー美術館、オッテルロー
(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)
レンブラント・ファン・レイン「フローラ」
1654年頃 油彩/カンヴァス
ティツィアーノの影響が感じられる、サスキアがモデルと言われたが10年以上前に他界していた、という解説でした。
「レンブラントが描き続けた妻サスキア-
最愛の妻サスキアは、レンブラントにとって最も創作意欲をかきたてるモデルだった。婚約して3日目の素描から始まり、花の冠をつけた女神として、あるいは宝石を身につけて着飾った貴族のように、と次々と妻を描いていった。
『夜警』の制作中に、妻は寝込んでしまったが、レンブラントは病床の妻さえも描き続ける。そして『夜警』の完成とほぼ同じ時期に、サスキアは30歳で亡くなる。『夜警』に描かれた謎の少女も、サスキアがモデルだとする説は根強い。レンブラントはサスキアの死後は、その面影を継いだ息子ティトウスを描き続けることになる。」
(『週刊世界の美術館-アムステルダム国立美術館』より)
「連作-移りゆく光のドラマを描く
50代に入り円熟期を迎えたモネは、しだいにただ一瞬の「印象」を切り取るだけでなく、その「印象」が変化するさまをもとたえ、絵画として表現したい、と考えるようになる。そこから彼は、同じモティーフを、しかも視点を変えずに描いて何枚もの絵画を完成させるという独自の方法、つまり「連作」を編み出した。描かれるモティーフ、そしてそれをとらえる視点は同じでも、早朝から夕方へ、春から冬へと、時間帯と季節に応じて、その光景の「印象」は刻々と変化する。そのとき、田園地帯の積み藁のようななにげない風景でさえも、光のドラマの舞台となる。巨匠の眼と筆は、このドラマを克明にとらえて放さない。」
(『西洋絵画の巨匠モネ』より)
クロード・モネ
《エトルタのラ・マンヌポルト》
1886年、エトルタ
メトロポリタン美術館、ニューヨーク
(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)
クロード・モネ
《ラ・マンヌポルト(エトルタ)》
1883年、エトルタ
メトロポリタン美術館、ニューヨーク
(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)
「妖精の住処
アイスランド
2023年10月10日01時48分撮影」
「銀河のともし灯
東京都、三宅島
2019年6月27日00時12分撮影」
「天の川の渚
京都府
2022年11月19日00時00分撮影」
「夜明けのリフレクション
オーストラリア、タスマニア島
2024年1月13日16時56分撮影」
クロード・モネ
《ヴェンティミーリアの眺め》
1884年、ボルディゲラ
グラスゴー・ライフ・ミュージアム(グラスゴー市議会委託)
(画像は『モネ連作の情景』公式ツィッターより)
カーレル・デュジャルダン
(1626-1678)
《モッラ遊びをする人々》
1660-1670年
油彩、カンヴァス
73 × 75 ㎝
(公式カタログより)
「カーレル・デュジャルダンによる本作品の主題はたいへん珍しいものである。これは「モルラ」、イタリアでは「モッラ」と呼ばれる遊びを表わしているように思われる。ふたりが興じているこの遊びは、その起源を古代にまで遡ることができ、ふたりのプレイヤーそれぞれが1本かあるいは複数の指を伸ばして手を上げると同時に、お互いの指の数の合計を大声で告げるものである。偶然性よりも駆け引きが問題となる遊びである。この作品では、鑑賞者の方を振り返り自分の目を指し示す兵士が相手の作り話に対する抗議を暗示していることから、大声で叫んだゲームの結果が口論を引き起こしたようだ。かつて「兵士の物語」という、モッラ遊びに関するすべてのことが排除されたタイトルが付けられたことからもわかるように、この作品の主題はとても奇妙であると同時に議論を呼んだ。
ヘラクレス(画面前景左)と、ウェヌスとアモル(石棺の下)を表しているであろう、古代のレリーフの存在は、主要画面と関連付けて解釈されるべきだろうか? 危険なのは、逸話性に陥り、この作品本来の質を正当に評価しないことである。古代の痕跡が至る所に存在しているローマのような都市において、17世紀の同時代人たちにはありふれた光景であろう。永遠の都で、盆を持っているこの女性は取るに足らないものであろうか?斑岩の石棺(古代ローマでは皇帝の石とされていた)は、一時期パンテオンにあったものかもしれず、もちろん帝国の衰退と時の経過に思いを馳せるきっかけにもなるが、同様に「黄金の世紀」における古代の遺産についての新たな問題を提起するであろう。
そんなふうに、カーレル・デュジャルダンのこの作品はバンボッチアンティ(イタリアで活動したオランダの画家仲間で、特に、風俗場面を描いた)の逸話的な枠組みに縛り着けるよりもむしろ、過ぎ去った古代と新しい時代の邂逅の場面という観点に立って見た方がより価値がある。過去は圧倒的で脅迫的なものだろうか?石棺は、「死を想え」という警句から遠ざかり、過ぎ去ったローマの偉大さに基づくルネサンスの大いなる伝統に含まれている。この絵の中で、まずもって古代ローマの記念碑の美しさが問題になっていると思わない者などいるだろうか?」
ウィレム・ドロスト
(1630頃‐1680以降)
《バテシバ》
1654年
油彩、カンヴァス
101 × 86 cm
署名、年記あり
(公式カタログより)
「17世紀オランダで描かれた裸婦像の中で最も美しいもののひとつであり、ウィレム・ドロストの傑作でもある本作品はレンブラントに多くを負っている。ドロストの師匠であるレンブラントは、本作品と同じ1654年に《バテシバ》(ルーヴル美術館蔵)を制作している。このふたつの作品はともに同様の内省的な雰囲気と、聖書物語の主要な登場人物であるヒッタイト人ウリヤの妻で、ダヴィデ王との不貞を余儀なくされる(『サムエル記下』)美女パテシバに焦点を絞っている。
真っ暗と言ってもいい闇の中から姿を現わし、再び自分の元へ来ることを命じるダヴィデからの手紙の結果を熟慮する若い女性は鑑賞者の方を見つめているようだ。実際、ドロストのこの作品はその複雑さで有名である。レンブラントが同主題に与えた深い人間味を彼女がもっていないにしても、彼女の姿は明らかにその影響下にある。今日もなお、この作品は際立つ官能性の表現と見られるが、疑問を孕んだ作品でもある。実際、細部では明らかに解釈者の理解を超えている。つまり、若い女性のイヤリングはドロストによって、垂直ではなく斜めに垂れて描かれている。腕の悪さか?それとも遠近法の間違いか?・・・このことはレンブラントと弟子たちの大きな研究テーマを思い出すならば、意味が掴める。その研究とはカンヴァス上に「動き」を再現しようというものである。パテシバのイヤリングの処置は明らかに彼女が振り返っている最中であることを示唆している。
彼女は、その視線が示すように、おそらく向かって左から右に頭をひねっている。思うに、ドロストは鑑賞者をじっと見つめるパテシバを我々に示そうとしたのではない。当時の構想は、この聖書の登場人物の誘惑者としての特徴について展開させることだったようである。彼は我々に芝居の劇作法の原則に従って彼女を示そうとしたのである。その原則とは、つまり、観衆と役者を隔てる「第4の壁」を破ることにより、両者の意図的な相互作用こそなものの、観衆の視線のもとで演技を行うことである。
この仮説はこの作品をルネサンス期ヴェネツィアの高級娼婦と結びつけることを拒絶させ、このイメージが内に秘めた重要性、つまり、同心円状というこの構図の基本的な側面を浮かび上がらせる。まさにそれによって、この作品は普遍的な重要性をもっている。その上、ドロストは女性の手の中に手紙を描くことで、彼の同時代人が聖書主題に近付きやすいようにした。現代の考古学的な視点からすれば、パテシバは楔(くさび)形文字が書かれた、土でできた板を持っていなければならず、「紙の手紙」は異様に見える(これは古代エルサレムの情景なのである)。しかし、17世紀の画家にとって、このモティーフは古代についての信用できる資料の欠如を自身の想像力によって一時的に解消する必要があったということをわかりやすく説明している。」