たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

決断できず・・・

2015年11月30日 23時58分56秒 | 日記
 私が望んでいた人が大切にされるあったかい場所に出会うことができたような感じがあります。闘いを経験したということも安心して話すことができました。学びがありそうなので、少しボランティアしてみたいと思います。ただ、臨床経験のない私がそれでごはんを食べていくことはできません。家賃を払って自分にごはんを食べさせる手段をみつけなければなりません。そこをどうクリアすればいいのか、今は思考がとまっています。

 こういう猶予期間の補償ぐらいあってもよかったのに、あるべきだったのに、使い捨てにされました。やり方がひどくてやっぱり悔しいです。しかも社会の仕組みとしては間違っていないということがわかり、行政の限界を思い知らされました。司法も正義ではないことがわかりました。

 闘ったことを一生懸命隠すようアドバイスされるけれど、自分に嘘をつくことができない私はそれもできずで苦しくって仕方ないです。社会への怒りと悔しさがまだまだある私がどうやってごはんを食べていけばいいのか。最重要課題をクリアすることができないまま、ボランティアしてみたいと思ったのでまたずるずると時は過ぎていきます。公的機関の求人票をみて応募するとか、っていう気力はわいてきません。ほんとちょっとでも稼いで自信を取り戻すことができれば気持ちもちがってくると思うのですがどこに安心してあてを求めていけばいいのか、行政への不信感が根強い私にはわかりません。闘いも終わったわけではないのでこのまま帰りたくはないという気持ちにもなりましたが、どうすればいいのかほんとうにわかりません。最重要課題をどうクリアすればいいのか、思考がとまっています。

 私が疲弊して抑うつ状態にあることにすぐ気がつかれたようです。別に悪いことじゃなくて自然な反応です。

 明日から師走ですか。社会から取り残されたままの私は人が忙しい、忙しいって言っているの辛いです。かつての私もそう言っていましたが・・・。冷え込んできました。明日はお茶会がありちょっと遠出になります。なのにこうしてまた夜更かししています。一晩休んだ頭で明日また考えることにします。モネ展、途中まで書いていますが明日以降にアップしたいと思います。今日はこれでおしまいです。おやすみなさい。

明日は・・・

2015年11月29日 23時26分03秒 | 日記
 明日は乳幼児精神保健学会のW先生がボランティアから始めてみたら、と勧めてくださった病院に見学ということで行ってみます。一番近い駅から徒歩4分ってあるけれど、迷わずに予定時間に合うように行けるかな。そこからしてエネルギーを使います。面接に行くわけではないけれどやはりなんとなく緊張します。そこで先の見通しが何も持てなかったら実家に引き揚げるかどうか、決断をしようと思います。なにしろ家賃負担はおもいです。なにが支出一番大きいって家賃。これで家計簿の支出額がみるみるがっと上がります。

 なんかこれで終わるの悔しいし、闘いもまだ続いているのでやり残し感が残ってしまうことになりますが、基本的生活の維持を背負ったままこれ以上持ち出しばかりでは大変なので決断しなければなりません。冷蔵庫、洗濯機、小さいけど食器棚・・・荷物をどうするのか、処分するのも大変です。いずれにしろ大変。すごくむずかしいところです。仮にあと2-3カ月このままがんばったとして、こういうゴールにたどり着くって言う者が何もない状況で今の生活を続けていくことは無理です。

 いろいろ想いはあれど大会社から使い捨てにされただけでなにもできないまま終わるのでしょうか。結局どこにいっても家賃あるのでどうしようもない感じになって話にならず相手にされません。想いばかり空回りし続けています。

 すごくきつい経験をしたので、気をつけないとついネガティヴな話をしてしまいます。しかも普通じゃあ体験しないきつい話。だから普通の場ではいやがられます。社会で起こっている現実の一部なのだけれど、私のストレスがどうしてもまだまだ強いから怒りを込めたきつい話し方になってしまっているみたいだし、たいていは何を言っているんだろうっていう感じになってしまいます。あんまり話しちゃいけないことなんだなあってあらためて思います。安心して話せる場がない、話してもややこしいのでなかなか理解されない苦しさ。ずっとこんな中でもがいている私がいます。社会の一部で現実としてあることなのだけれど、自分に身にふりかかってこないとなかなかわからない大変なこと。仕方ないですね。私だってこんな展開になっていくと全く思っていなかったし、こんなに大変なことだとも思っていませんでした。

 来年の見通しがなにも立たないまま今年が終わっていくのでしょうか。このまま、社会のどこにも必要とされない存在のまま終わっていくのでしょうか。私の経験には社会への問題提起がいくつも含まれているので言い続けていくことが大切ですが、それを普通に理解してもらうのはすごく難しいのでなんだか孤立してしまいます。自死遺族という立場だけではない私になり、どちらもひっくるめての私になりました。その私でこれからどうやって生きていけばいいのか答えはみえてきません。家賃オモイッス!!

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若松英輔 ‏@yomutokaku · 11月27日
芸術にふれ、心がふるえる。私たちが覚えておかなくてはならないのは、その感動がどこから来たかではない。どんな絵を見て、どんな音楽を耳にし、どんな言葉にふれてなのかすべて忘れても構わない。けっして忘れてはならないのは、その、ゆれの感覚である。そのとき、光が胸を貫いたときの感触である。


苦しい日々を思い出す

2015年11月29日 15時14分12秒 | 祈り
 派遣はどれだけ働いてきても一か月前に通知されればそれで終わり。「そんなもんだとわかってやってきたんでしょ」「派遣先を追いかける?そんなこと普通はしないよ」。社会一般からのこんなことばにずいぶん傷ついてきました。
なぜ働いてきた人の「自己責任」だけになってしまうのか?本当にそれでいいのか?社会への問いかけは続いています。労働紛争までいくつもりなんて全くありませんでしたが、声をあげたらそうならざるを得ませんでした。社会への怒り、行政への不信感は根強く、「普通」に社会に戻っていくことはもうできそうにありません。そもそも社会のいう「普通」がわからなくなっていますが・・・。

 こんなことをまたもや気力が失せた25日、フェイスブックにいったん書いてはみたものの、削除しました。やはりブログでないと落ち着かないのでこうしてまた書き直しています。私が心から自信を取り戻して社会に戻っていくことができるようになるまで時間が必要なんだと感じています。一年余りかけてすり減ったエネルギーを回復していくには、同じように一年ぐらい必要なんだということだと思います。ヘンに隠したりしないですむ、ありのままの私でいられる場所に出会いたいです。でもそれはすごく難しいこと。これ以上家賃負担を背負いながら辛抱して新たな居場所探しを続けていくのは無理です。引き上げるか否か決断しなければと思いながらずるずるときていて、また月末を迎えます。

 生活があるので自分から辞めるって言えなかったばっかりにこうなるしかなかったのか。たしかにこれで社会の仕組みはあっているので私は何も言う権利をもっていないところを声をあげてしまいました。そうしたらすごい権力との闘いになってしまいました。心の傷は思ったよりも深いことに事あるごとに気づかされます。自死遺族としての大きな喪失体験、家族との死別、それだけではない私になってしまいました。

 いつの日かまた明るい気持ちで仕事に取り組める日が私に訪れるのか。今は全く自信がありません。いつしか仕事は私の中で苦しみになっていました。ずっと昔銀行で働いていた時も忙しすぎて苦しかったけれど、13年働いた会社も完全オーバーワークと組織替え、数字・数字に振り回されて本当に苦しかったです。よくがんばったと思います。次の足場が見つかるまでの補償もなく、働いてきた人だけが不利益を被っている。なんかそんな社会がおかしいです。

 これで終わっていくのも悔しいですがもたなくなってきました。振り返ってみると本当によくない会社にいたんだと思います。誤解されることを承知でありのままの私を振り返ってみようと思います。震災とお別れが続き、その後は混乱で年賀状はすっかりどうにかなってしまったままです。おせち料理とかクリスマスとか、社会から孤立している私には応えます。

「2012年8月19日(日)

 朝からドカッと暑いが、青空にただようように浮かぶ雲は秋。風もどことなく涼しい。Y市の自死遺族の会に行こうかなとも思ったが結局挫折。そんなに無理しなくていい、と自分に言い聞かせる。ずーっと残業しているし、家ではPDF化も続行しているのでかなり疲れている。いつ今持っている物をあきらめて避難民となる日がくるのだろう。不安ばかり先立っても仕方ないが、ついついそんなことばかり考えてしまう。原発がさらなる地震におそわれて、放射能がばらまかれたらもうおしまいだ。地震が続いているのでついつい不安になる。(会社のあった場所)あたりに活断層があるかもしれないというニュースをみた。私たちはいつ大きな自然災害に見舞われてもおかしくない国に生きている。宇宙レベルで考えると恐ろしいのでやめよう。

 もうすぐ9月がやってくる。妹も父も突然いなくなってしまった。まだ強烈な蒸し暑さの残る9月がやってくる。報じと納骨がある。受け容れがたいが向き合わなければならない。心なしかイライラしている自分がいる。
この上に職場のイライラがのっかるのだから、かなりきつい。自分の背負っている荷物をこのまま、背負い続けながら普通に生活していくのはかなりきついなあ。あまりにもイライラし過ぎていて、社会的常識に欠ける奴なのかな、とジレンマを感じる。私のイライラにはちゃんと理由があるのだが、まあそのりゆうを話す機会はないし、あったとしても理解されないだろう。自死遺族であることも、まあ働いているかぎりは公にすべきではないだろう。
東北に行きたい。腰を据えて哲学書を読みたい。“怒り”について考えたい。(ネガティヴな感情はたくさんのことを教えてくれる。)今思っていることのうち、どれほどのことをやり遂げられるだろう。旅はせめて旅はできるだけ50代前半で行っておきたい。そのためには働くしかないか・・・。

 感覚を開いて、見え過ぎてしまうと今の社会はかなり息苦しい。でも閉じてしまってはいけない。開いたり閉じたり、そのバランスが難しいが、開こうとする心をなくしてはならない。闘いの日々は続く。ヘタっているが負けてはならない。正面から相撲をとってもどうにもなrないが、孤独な闘いを私は続けていこうとしている。がんばれよ、私。まだ少しそういう若さは残っている。」


 遠い異国の地で一日一日を生き延びている人たちがいるのに、震災は終わりではないのになにもできない私がいます。二人分働きながら職場では一言も明かすことなく取った国家資格を生かしながらやっていく道に出会えるでしょうか。

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若松英輔 ‏@yomutokaku · 11月26日
日々繰り返される、復讐の連鎖を、理性の言葉だけで語るな。理知で解明できるような口ぶりで悲劇などという言葉を使うな。泣いている人の姿を見て、世は悲しみにあふれているなどというな。悲しみの底にいる人は、泣くことすらできないのである。悲しみが深まるとき、人は、涙すら奪われるのである。







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『モネ展』より_ヨーロッパ橋・サンラザール駅

2015年11月28日 13時38分46秒 | 美術館めぐり
「モネ「サン=ラザール駅他_光への挑戦

 モネは環境世界や風景の微妙な様相を、できるだけ忠実に具体的に表現することに努力を惜しまなかった。印象に全幅の信頼感が置かれていたのである。印象はただ単に目に映るところの印象にすぎなかったのではなく、モネが実際に体験した気分や雰囲気がひとつになった全身体的で全感覚的な印象だったというべきだろう。大気の様相や光の状態が彼にとって大切だった。モネの独特の絵画<世界>は、人間が気分づけられた存在であること、人間が独特の雰囲気的世界でさまざまな印象を抱きながら生きていることをさし示してくれる。人間がそこに身を委ねながら生きている世界と人間の生活がそこで営まれている土地は、さまざまな変化と様相を見せている。風景は生きているからである。

 モネのパリ、サン=ラザール駅の連作は広く知られているが、画家オーギュスト・ルノワールの息子で映画監督として知られるジャン・ルノワールが父親を回想しながら著した『わが父ルノワール』のなかで、モネがサン=ラザール駅で機関車の蒸気に感動し、ちょうどいい光の具合を選ぶため、汽車の出発を遅らせたいと言ったというエピソードを記述している。モネにとっては発車の際、一杯にたちこめる煙の風景はまるで夢のようなうっとりする眺めだったのである。モネは見るのか見えないのかといった瀬戸際の光のドラマに熱中したのである。

(ジャン・ルノワール『わが父ルノワール』日経ポケットギャラリー、1962年刊より)

 モネはサン=ラザール駅の鉄骨ガラス張りの大屋根のもとに姿を見せ、発車する列車や到着する列車に目を見張ったにちがいない。プラットホーム、乗客の姿、たちこめる噴煙、駅舎、かなたの風景などが、この駅を主題とした連作において描かれている。噴煙ほど劇的な効果と印象をもたらしてくれるものはなかったのだろう。

 蒸気機関車に時代の姿、文明の象徴を見ることができるのだが、モネはそれよりもむしろ噴煙や光と影に、独特の雰囲気をかもし出している風景に熱中している。噴煙は浮かび漂う雲であり、霧のようなものだ。噴煙によってものが見えなくなってしまう。彼は噴煙や霧という、空間に特別の彩りを添えてくれるものに強い関心を示している。すべては光次第なのだ。

 彼の画業は光と大気によって花開いたといえるだろう。モネにとっては、大気も外光もこのうえなくみごとなヴェールだった。」

(山岸健著『絵画を見るということ』NHKブックス、186-187頁より)


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クロード・モネ 《ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅》
1877年 油彩、カンヴァス 
Musée Marmottan Monet, Paris

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 私が昨日観賞したのは《ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅》でした。1850年代にサン=ラザール駅は鉄骨とガラス張りにより近代化されました。その駅からヨーロッパ橋をみているという作品でした。音声ガイドによれば、モネは絵を描くために、一張羅を着て駅長に会いに行き、列車を止めて、客を駅に入れずに、石炭をたかせたとか。汽車は絵の左端の方に描かれ、主役はゆらめく光の中でもうもうと立ち上る蒸気でした。近代化した駅の熱気、汽車の蒸気に心躍らせたモネの躍動感が伝わってくるような作品でした。左端に描かれた汽車も間近でよく観ると細部まできちんと描かれていましたが、モネの作品はどれも不思議と少し遠くから観ると美しいのです。睡蓮を描いた作品群は、作品に囲まれた中で椅子に坐ってゆっくり眺めるとさらに美しさを増しました。モネの描いた風景は今も生き続けているのです。








マルモッタン・モネ美術館所蔵モネ展

2015年11月28日 00時10分52秒 | 美術館めぐり
 またまた気力が失せてしまった感があるので、心のエネルギーを満たすべく東京都美術館のモネ展に行ってきました。金曜日の夜は20時まで開館しているので午後2時ごろに着いても時間を気にすることなくゆっくりと堪能することができました。ただ人は多かったですけどね。

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http://www.tobikan.jp/exhibition/h27_monet.html

上記モネ展のサイトより転載させていただきます。

「マルモッタン・モネ美術館には、印象派を代表する画家クロード・モネ(1840-1926)の、86歳で亡くなるまで手元に残したコレクションが所蔵されています。本展は、息子ミシェルから同美術館に遺贈されたこのモネ・コレクションを中心に、約90点をご紹介するものです。子供たちの成長を記録した作品や友人ルノワールによるモネ夫妻の肖像画、旅先の風景画、白内障を患いながらも描き続けた晩年の作品などを通して、モネの豊かな創作の世界に迫ります。

晩年のモネは、光の変化に伴って移り変わる水面を見つめつづけました。ジヴェルニーの庭を描きながらも、睡蓮や太鼓橋の形態は次第に抽象化されていき、色彩溢れる画面が生み出されていきます。ときに荒々しい筆触をみせる最晩年の充実した作品群は、モネの眼を通した水の庭を体感させてくれるでしょう。」


クロード・モネ 《ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅》
1877年 油彩、カンヴァス 
Musée Marmottan Monet, Paris

クロード・モネ 《睡蓮》
1903年 油彩、カンヴァス
Musée Marmottan Monet, Paris

クロード・モネ 《バラの小道、ジヴェルニー》
1920-22年 油彩、カンヴァス
Musée Marmottan Monet, Paris

http://www.ntv.co.jp/monet/highlight/

上記サイトより転載させていただきます。

 クロード・モネ(1840-1926)は、生前に成功した画家で、晩年のものを中心に多くの作品を最期まで手元に残しました。これらは息子のミシェルが相続しましたが、その後、ミシェルの遺志でマルモッタン美術館に遺贈されました。その数およそ150点。モネが晩年に何度も取り組んだ「睡蓮」や「日本の橋」だけでなく、10代後半で描いたカリカチュア(風刺画)や30代から40代の風景画も含まれ、モネの画業を辿ることができる画家本人によるプライベート・コレクションです。この特別な作品群を譲り受け、マルモッタン美術館は、「マルモッタン・モネ美術館」と名称を変えました。

本展では、このモネ・コレクションから選りすぐりの約90点を展示。うち約7割がモネ自身の手によるもので、ほかにはモネ自身が収集した作品やモネ愛用の品をご紹介します。マルモッタン・モネ美術館だからこそ実現できた“究極のモネ展”、どうぞご期待ください。

《ヨーロッパ橋、サン=ラザール駅》東京展 10月20日(火)~12月13日(日)展示

1912年、72歳になったモネは右目に違和感を覚えます。白内障を患っていたのです。少しずつ目に映る色も描く色彩も変化していきます。失明を恐れて手術を拒否していたため症状は悪化し、1915年には、「赤が泥のような色に見える」と話しています。1922年になると、右目は光しか認識できない状態となり、左目も読み書きが難しい状態にまで悪化、ついに手術を決意します。

 本展では、モネが白内障を患い始めた1912年以降に描かれた作品も多く出展されます。悪化する白内障のためか、モティーフは少しずつ輪郭を失い、色調は鮮やかで大胆なものへと大きく変化していきます。その力強い筆遣いからは、色感を失う恐怖を抱えつつも、衰えることがなかった絵画制作への情熱が伝わってきます。

 さらに、本展ではモネが晩年使っていた黄色のメガネが展示されます。ある眼科医は「白内障の手術後、世界が極端に青みがかって見えるのを嫌って黄色いレンズを使用した可能性が高い」と指摘しています。

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 詳しいことは明日書けたらいいなと思いますが、パリのオランジェリー美術館で過ごした、モネの睡蓮の絵に包まれている幸せ感に満たされた時間を思い出したひとときとなりました。

 1926年に86歳で亡くなったモネは86歳までキャンパスに向かい続けました。最晩年の作品群は、花や木の輪郭はほとんど描かれておらず間近でみるとなにが描かれているのか分からないのに、なぜか遠くから観るとふりそそぐ光のゆらめきと輪郭がわかり美しかったです。ジヴェルニーの自宅の庭の「日本の橋」「しだれ柳」「バラの庭から見た家」の連作は、同じ景色なのに季節や時間によって光のゆらめき、色合いが全く違っていました。70代で二番目の妻と次男に先立たれた失意の中で2年間は絵を描くことができなかったモネは、再び筆を採ってオランジェリー美術館の睡蓮の絵を描き上げました。そんなモネの生命の息吹を感じました。キャンパスに向かったモネがそこにいるような、対話しているような時間でした。

まだまだ書きたいですがおそくなったので今日はこれでおしまいです。
読んでくださりありがとうございました。





音声ガイド



展示作品リスト










『就職・就社の構造』より_揺らぐ日本型就職システム_奥村宏(3)

2015年11月27日 10時28分13秒 | 本あれこれ
 「はじめに会社への入口と出口がつながっていると言ったが、その間の会社の中での経歴のあり方ももちろんつながっている。そこで大きな特色になっているのがゼネラリストとしてさまざまな職種を経験し、その間に一段ずつ出世していくという昇進の仕方である。多くの日本の大企業ではそういう経歴をたどって出世し、やがて定年退職するというのがたてまえになっている
  
 そこで新入社員を人事部が一括採用したあと、かなりの期間をかけて社員教育を行って、その後に各職場に配置する。(略)新入社員を白地のまま、会社人間に適したように教育するのが新入社員教育のあり方とされている。
  
 日本の会社には社是や社訓があるのが普通だが、そこで強調されるのは社風ということである。新入社員を早くその会社の社風に慣らせることが必要だが、いうまでもなく社風は会社ごとに違うから、こうした教育によって、会社人間はその会社にしか通用しない人間になっていく。そのかわり社内のいろんな職場を経験させて、ゼネラリストになっていく。ここでゼネラリストというのは、どんな会社にでも通用するゼネラリストという意味ではなく、その会社の内部だけのゼネラリストである。

 ゼネラリストとしての会社人間は転勤をくり返すことで出世するが、やがてその会社でしか通用しない人間になっていく。そこで人材斡旋会社で「あなたは何ができますか」と聞かれて、「部長ならできます」と答えたという笑い話が生まれる。いうなれば社内の地位は高いが、手に職のない人間ができていく。

 もうひとつ日本の大企業で強調されるのは規律を守るということだが、これは会社の組織を守るためであると同時に、大量生産、大量販売に適した人間を作るためである。大量生産、大量販売は総じて20世紀の大企業システムの原理になっているが、日本ではとりわけ高度経済成長期以後これが徹底していた。そこで強調されたのが規律を守るということであり、その結果画一化された会社人間が生まれてくる。
 
 このようなゼネラリストに適した会社人間、そして大量生産、大量販売に適した画一化された人間、そういう人材が日本型就職システムによって採用され、教育されていく。

(略)
 
 日本の大企業が全国一斉、人事部一括採用をしかも大量に行うようになったのは昭和30年代からのことである。(略)なによりも大学卒の大量採用は高度経済成長時代になってからであり、それは私の言う法人資本主義が確立した頃とほぼ同時期である。

日本経済の高度成長とともに若年労働力が不足し、当初は中学卒の不足が問題になったが、やがて高校卒、そしてさらに大学卒にまでそれは及んでいった。1970年代の石油危機のあと、日本の大会社は「減量経営」につとめ、新規採用人数も一時的に減らしたが、80年代になると、大量採用を復活し、会社間での採用競争が激しくなった。

 80年代の大量採用競争の中でそれまでの買い手市場から売り手市場に変わったと言われた。一方でのバブル経済、他方での労働力不足にせまられて大会社は一斉に新規採用競争に走り、とりわけ金融、証券、サービス分野などの大会社がその競争を激化させていった。
 
 こうして一斉、一括、大量採用はますます激化していったが、一方で新規採用した者が短期間で転職するという傾向が強まり「第二新卒」という言葉が流行するようになった。それまで会社についての十分な知識もなく、どんな仕事をするのかも分らないまま就職した若者が、会社にはいったとたん失望し、選択を間違っていたと転職するのはある意味では当然のことであった。そして労働力不足によって転職市場が開かれたことがこういう傾向をさらに強めた。ここで会社側は一斉、一括、大量採用という日本型就職=採用システムを強化することで、逆にこのシステムは裂け目をみせはじめたのである。
 
 こうして日本型就職システムが裂け目をみせはじめた80年代からやがて90年代に入るとともに平成不況が押し寄せてきた。
 
 そこでまず起こったことは新規採用のストップ、あるいは大幅減少であった。(略)
 
 こうして90年代に入って大学生の就職戦線は一挙にきびしくなり、就職難が大きな社会問題になってきた。もちろんこれは不況によって企業が採用人数を減らしたためだが、しかし同時に構造的な変化が起り、日本型就職システムが続けられなくなったためでもある。
 
 構造変化はまず出口=退職のところにあらわれた。終身雇用が崩れはじめたのである。(略)90年代の不況が進行するなかで、かなりの大会社がホワイトカラー、しかも中間管理職層を対象に早期退職を勧め、出向や系列会社への派遣という形で事実上の首切りをやりはじめた。
 
 こうして出口が変われば入り口も変わらざるを得ない。従来のような一斉、一括、大量採用、そしてゼネラリスト養成というやり方を反省せざるをえなくなった。
(略)
 
 さらに企業経営者、あるいは人事担当者がこれまでのようなゼネラリストはいらないと言いだした。というのも大量生産、大量販売というやり方が行き詰まってきたからである。大量生産、大量販売方式にはゼネラリストが必要であり、画一的な人材が適していたが、もはやそういう時代ではなくなった。「これからはスペシャリストが必要だ」と言いだしたのである。
 
 こうなるとこれまでの日本型就職システムは揺らいでくる。スペシャリストを採るには人事部一括採用では駄目である。独創的な人間はこれまでのやり方では集まらない。
 
 (略)管理職がこれまで肥大化していたのが日本の大会社の特色だが、今後それは縮小されていくだろう。とすれば管理職のための従来型の日本型就職システムはもはや主流ではありえなくなる。
 
 こうして、法人資本主義のもとで会社本位主義の原理によって行われた日本型就職システムはいま崩壊しようとしている。偶然によって「天職」を選ぶという、人間にとってはあまり幸せでないこのようなやり方が崩れることは歓迎すべきことではあるが、その転換のためには犠牲が伴うことも否定できない 最後に、これまでの日本型就職システムで果たした大学の機能は、ただひとつ選別機能だけだったとすれば、それはさびしいことだが、今後このシステムが崩れるとあらためて大学のあり方が問われるだろう。大学とは何をするとことなのか、ということが問われているが、これは18歳人口の減少という大学の経営危機以上に大きな問題である。」

(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行、38-44頁より引用)。

 高度経済成長期が日本人にとってなんだったのか、考えるべき時にきていると思います。残念ながら大きな組織の意思決定権をもつ男性たちはとっくに死んでいるはずの高度経済成長期の幻影を今も追いかけていると思わざるを得ません。大会社が生き残っていくために一生懸命に働いてきた人が犠牲になっています。年に一度の株主総会が開かれる日の朝は、人事・総務部が赤い絨毯を引き、三台あるうちの1台エレベーターをとめて株主たちを丁重に迎え入れていました。その光景をみるたびに株主への利益還元のために自分は二人分働らかなければならないのかという言葉に言いようのないストレスを感じたことが今も鮮やかによみがえってきます。会社は誰のものなのでしょうか。そんな疑問を抱かざるを得ません。私なりの社会への問いかけが続いています。

就職・就社の構造 (日本会社原論 4)
クリエーター情報なし
岩波書店

これ以上無理だなあ・・・

2015年11月26日 11時13分53秒 | 日記
 一週間前ようやく気力を取り戻し、体勢を立て直し、あたらな居場所を求めていった場所でしたがやはりダメでした。またもや冷たーい「お祈り通知」。社会への怒りと行政への根強い不信感を抱き続けているわたしには到底無理だったと思います。争いを経験してしまうと、どうしても立場が弱くへりくだらなければならないことに耐えられません。一生懸命に感情を殺して無色透明人間のふりをしようとしましたが、自分に嘘をつくことができないので無理でした。

悪辣な権力との全身のエネルギーを振り絞った闘いは本当に疲れました。心のエネルギーが枯渇しました。社会に発信する機会をこの夏幾度か得たことでなんとか自分のキャパシティの中におさまってきましたが、ちゃんとおさまるまでにはまだまだ時間が必要なのだと感じています。これ以上家賃かかるばっかりではもう無理なので家に帰ろうかな。本当に考えなければいけません。乳幼児精神保健学会のW先生がボランティアからやってみたらと勧めてくださった精神科の病院に来週見学に行ってみることにしました。私の経験と力は必要とされるでしょうか。

 ただ生活家賃あるのでボランティアだけというわけにはいかないので、どうしましょう。私がやりたいと思うことでご飯を食べていくことはできない。そのハードルを超えることは、家賃負担を抱えている限りやはり無理なんだなあと思います。

詳しいこと、ご興味あればこちらもご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/aozoratomidori/e/7453a62517448b6f3de8559a1c2b9eef

さびしんぼの毎日の中で一年前を振り返る

2015年11月25日 18時08分08秒 | 日記

ある派遣社員の体験〰元派遣社員酒井桂さん〰

この記事を久しぶりに読み返していました。朝日新聞に掲載されたのは去年の5月23日。ユニオンに加入し、労働委員会に「不当労働行為救済命令申立書」提出して13年間働いた会社(派遣先)との闘いが始まろうとしていた頃でした。朝日新聞をとっている友人がすぐに紙面を郵送してくれました。

この頃は闘いになっていかざるを得ないことを全くわかっていませんでした。ユニオンに加入する前、3月6日の最終出勤日は労基署に「助言・指導」の申し立てをしていた時だったのでひっそりと立ち去りました。1人でごちゃごちゃがんばっていた2ヶ月の間話をきてもらっていた会社のシニアの方に「新聞の記事になるような人はみんな終わってからやっているんだからがんばって」と励まされました。その半年後に本当に自分のことが新聞記事になるなど全く思いもよりませんでした。

去年の秋、労働弁護団の院内集会で話をする自分の姿がNHKのニュースで流れ、連合通信と共同通信の取材を受けたのが記事になりました。それまで経験したことがないことの連続で緊張しっぱなしの日々が続いていました。会社側の弁護士が私を弱らせるために書いた誹謗中傷だらけの答弁書に負けまいと必死でした。すでに心のエネルギーが枯渇していたのに、全身でエネルギーをふりしぼっていたので満身創痍、ふらふらでした。それでも歯をくいしばっていた頃でした。

この時お会いした記者さんに今お会いすると、「本当に疲れていましたよね」「あの時と比べるとすごく元気になってよかったです」と言われます。たった一年前のことなのにもっと時間が過ぎたような気がします。

今の自分からは考えられませんが派遣切りにあった当事者として社会に顔を出していく勇気など、全くありませんでした。院内集会で話をしないかという話をユニオンからいただき、迷った末勇気を振り絞ってやってみようと思いましたが、会場に入ったらNHKのテレビカメラが入っているのをみてふるえあがっていました。当事者3人の中で私の話した映像が翌朝流れることになったと当日の夜知らされました。派遣法改正の要である事務派遣は私一人でした。

一年前の今頃もう少し社会を顔をだしていく勇気があったら・・・と時々思うことがあります。でもその後の自分を考えると十分すぎるぐらいよくやったとも思います。ちっぽけな、なんでもない1人の人間の闘い。社会の中ではなんでもないことかもしれませんが、私の人生の中ではすごいことでした。

私自身は報われませんでしたがささやかでも、私のしたことが社会への問題提起になるようです。先週黒塗り文書の件で、連合通信の取材を受けました。改正後の派遣法で、今後雇用安定措置の義務が発生するとき、労働局が本当に労働者の雇用を守るために動くのかという問いかけになるという記者さんのお話です。ここまででもやる人はほとんどいないそうなので、たいしたもんだと自分をほめてあげたいと思います。

どうして一生懸命に働いてきた人が悪者みたいになって、辞めなかった自分がいけなかったんだって社会から言われて、自分でも辞めなかったことを責め続けなければならないのか。使い続けてきた会社にはなんにも責任ありませんを社会が許してしまうのか。今もやっぱりわかりません。

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 一昨日フェイスブックにこんな記事を書きました。社会のどこにも必要とされていない孤立はやはり辛いものがあります。何日も人に会わずに過ごしていると自分が何者なのかわかなくなってしまいそうです。でも働いていて忙しい人達に迷惑かけちゃいけないというヘンにいじけた気持ちが働くので誰にも声をかけることができません。コミュニティハウスに顔を出すことでなんとか救われています。

 今日は都心で分かち合いの会に参加させていただきました。そこではお別れの話をするのですが、お別れの話をしながら、社会への怒り、行政への不信感が自分の中に根強くあることをあらためて感じました。会社で働く人に戻ることはもうできないだろうと思います。自死遺族と労働紛争、両方の当事者となった自分に何ができるのか、何をすべきなのか、孤立感の中で問いかけ続けています。

 なにかしたいのに、なにかできるはずなのに、なにもできていない。
そんな、どうしようもないもどかしさを感じています。生きることはこうすることが絶対に正しいという答えなどどこにもない、とりとめのないことの連続なのだと思います。まだまだ思うところはありますが、頭を使い過ぎていて疲れている感があるので、今日はこれでおしまいです。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。


『過労死等防止対策推進シンポジウム東京』に参加しました

2015年11月24日 20時45分15秒 | 日記
 ファイスブックにオリジナルで書きましたがどうにもぎこちなく、ブログに書きなおすことにしました。 

 お昼前に通信社の取材を受け、お昼をご一緒してと、きちきちのスケジュールにしてしまい、少し遅れて拝聴しました。休憩時間に、昨年Y市自死遺族の分かち合いで知り合った女性と偶然会うことができて嬉しかったです。旦那さんの自死を巡って、労災の認定を求めて労基署を相手に行政訴訟を起こされました。官僚制機構を相手に争うということがどれほど心身のエネルギーを消耗する大変なことか、わたし自身もよくわかったのでどうされているかと気になっていました。来月地裁での予定がきまっているとのこと。応援傍聴に行くことを約束しました。がんばっていただきたいです。

後半のパネルディスカッションのお話からメモったことを書いてみたいと思います。休憩時間に来場者が記入した質問シートに基づいて、前半で講演をされた3名の方が答えるという形式でした。特に言葉が耳に残ったことを断片的に書きとめました。そんな中からの羅列です。

・パワハラと長時間労働の土壌は同じだと言える。表裏一体。
・企業のトップのメッセージが大きな影響を与える。ここを変えていく必要がある。
・パワハラをした人の研究が必要。パワハラ的な業務指示によって業績が上がることがある。Aさんにパワハラした人はBさんにもパワハラする。パワハラしてはいけないことなのにやってしまうことに問題がある。
・コンビニの店員の小さな間違いを許すななど許容度の高い社会になっていくことが大切。

・労働の質にも注目していく必要がある。労働時間は短くても多重業務で負荷がかかることも多い場合、定量化か難しい。変則的な勤務、出張が多い、ノルマがきつい、期限が決まっている等。不規則性としてたとえば月末だけ長時間労働になり、月平均の労働時間では過重労働ではないが、月末だけストレスが高くなる。こうした状況においては、労働時間のインターバルをきちんと取り、睡眠の質をあげることが重要。


 最後に過労死ご遺族の方4名が登壇されました。20代のお子さんを自死で亡くされたお母様がお二人、お父様がお一人、40歳の旦那さんを過労死で亡くされた女性がお一人でした。

 みなさま何年も闘い続けて、労基署の労災認定を勝ち取られたようでした。ようやく認定を勝ち取っても亡くなった人が戻ってくることはありません。家族を死なせてしまった苦しさをずっと背負っていかなければならないのです。私自身が自死遺族という立場であることと、会社を相手に労働紛争とならざるを得なかったことのどちらも、当事者のご苦労がより深く偲ばれるだけに、涙が流れてしかたありませんでした。

 労基署で過労死と認定されるには申請者側(ご遺族)に立証責任があるため、ほとんどの人が泣き寝入りせざるを得ないという家族会代表中原さんのお話でした。私自身の経験から深く頷きました。13年派遣で働いた会社から正当な理由なく契約を打ち切られた際、一人で労働局・労基署を奔走しても結局ほとんど意味がなくユニオンに加入しました。

 その後会社側と争いとならざるを得ませんでした。(私が追いかけたかったのはもちろん働いてきた会社でしたが、派遣の場合は働いてきた会社=派遣先の責任が行政のどこにも現れてきませんでした。)争いになった時、私が作成してきた膨大な書類やメールなど働いてきた足跡はすべて会社にあるので、違法状態だったことを示すための証憑を私が揃えることは、会社側に対して圧倒的に不利な状況でした。

 はじめて労働局を一人で訪れた時、職員の方に「行政は公平な立場だから労使双方の話をきかなければならない」と言われました。でも私自身の経験を重ね合わせながら思います。

 そもそも会社側に対して労働者の立ち位置は弱いのです。そこへさらに何重にもゲタをはかせて、違法だった労働の実態を証明するための証憑を労働者側が揃えなければならないという、果てしない苦労を強いる仕組み自体がおかしいのではないかと思います。 派遣法改悪、労基法見直しと目先の効率性にとらわれてばかりいては社会全体として生産性が落ちるばかりで、貧困の拡大、社旗保障費の削減、介護報酬引き下げ等、負の連鎖は止まらないと思います。

 弱い立場の労働者をほとんど守れない労働局、労基署の役割とはなにか。そもそも労働法制とは何のためにあるのかという労働者の根源的な問いかけに、日本株式会社は真摯に答えるべき時ではないかと思います。働く人を大切にする社会へと転換していかなければ日本は本当にダメになってしまうという危機感を持たざるを得ません。

秋の夜、雨の音を聞きながら・・・

2015年11月24日 00時02分05秒 | 日記
何日もほとんど人と話さない日が続いていくと話すエネルギーを失ってしまいます。でもその分、不安定な心のエネルギーをたまっていくので書かずにはいられません。さっき少しだけのつもりがフェイスブックで書き始めたら思いがけず長くなってしまいました。それを今すぐここに紹介することはできないのですが、もう少し先に載せてもいいのかなと思います。若松英輔さんのいう書くとはまさにこういうことなのか。書き始めると止まらなくなる私がいます。

明日も明後日も何にも予定はないんです。モネ展観に行きたいなとか、W先生がやってみたらと紹介してくださった病院のボランティア勇気をもって明日こそは電話してみようとか考えているばかりで、こうしてまた夜更かししています。

気持ちが落ち着かなくってきついです。
鉄筋コンクリートのマンションでも隣の生活音とか電話の話し声とか聞こえちゃって、そういう生活環境に疲れちゃっています。
家賃負担を気にしないですむ家に帰りたいです。
ためこんだ荷物をきれいさっぱりにしてから出直したいです。
でもそんな時間は許されないんですよね。

社会から孤立したさびしんぼの毎日。
だれからも必要とされていないさびしんぼの毎日。
本当はそんなことなくって十分社会の役に立つことしているんですけどね、
収入途絶えたままなの恐ろしくなってきたし、自己肯定がさがったままなのでついついそんな風に思ってしまう私がいるのです。

家に帰るかどうか決断する潮時なのに、ずるずるときています。
まだまだため込んだモノが整理しきれず断捨離は続いていきます。
いろいろと書きたいとおもっていたような気がしますが、フェイスブックに書き連ねてしまったので、きょうはこれでおしまいです。

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若松英輔 ‏@yomutokaku · 18時間18時間前
心にあるものを書こうとしても、きっとうまく行かない。むしろ人は、書くことによって心に何があるのかを知るからだ。自意識が捉え得る、心の表層ではなく、思いが届かない場所にある何かをどうにか言葉にするのが書くという営みだろう。真の祈願も悲願もそうした秘所に隠れているのではないだろうか。