たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

週末

2013年09月28日 21時49分43秒 | 日記
昨日(27日(金))は、朝日カルチャーセンター新宿の『ミュージカル「レ・ミゼラブル」を楽しむために参加、吉原光夫さんと川口竜也さんのお話が楽しくてあったかくてあっという間の90分でした。

今日(28日(土))は松本侑子さんの『大草原の小さな家』を原文で読むセミナーに参加するために朝日カルチャーセンター新宿へ。

それぞれに心が満たされる時間を過ごすことができましたが、新宿のあまりの人の多さには疲れますね。数週間ぶりで行って、工事で駅の様子が少し変わっていると、コンタクトレンズを弱めにしていることもあり(近くが見えずらいので)、雑踏の中でわけがわからなくなりそうでした。
こんな機会がなければ足を運ぶことはありません。
大震災の直後吉村和敏さんの講演会のために池袋に出かけた時もあまりの人の多さにおそろしくってたまらなかった記憶があります。
人が集中し過ぎてるなあ・・・。考えてしまいます。

大震災の後、近場は別ですが、電車に乗って出かける時には、懐中電灯・携帯ラジオ・簡易トイレ・保温シートを持たないと電車に乗ることができなくなりました。必然的に荷物がいっそう重くなるのでなおさら疲れますが、いつ何時何が起こるかわからないことがわかったので、そうしないと気持ちが落ち着きません。

『赤毛のアン』の登場人物たちも『大草原の小さな家』のローラたち一家も、電気・ガス・水道もなく、自給自足で食料を保存し冬は暖をとって日々の暮らしを営んでいました。大震災の後の計画停電で、なにもかも電気にたよって生活していることを思い知らされました。次なる震災や大きな自然災害に備えて食料の備蓄も言われています。私も少しずつやっています。
今の生活を今すぐ切り替えることは到底できませんが、アンやローラの日々の暮らしぶりをあらためて見つめ直してみる、松本先生の最後のお話と共に本当に考え直していかなければと、と思いました。


ささやかなブログに訪問してくださりありがとうございます。
また詳しいことは後日書ければと思います。
3連休が2週続いた後なのであっという間の週末になりそうです。

写真は夏のグリーン・ゲイブルズの前で、赤毛のアンです。



秋の始まり_徒然

2013年09月23日 13時16分01秒 | 日記
今日は秋のお彼岸。ここ数日蒸し暑かったのが涼しくなりました。
ベランダの鉢植えの月見草が気がついたら今年もたくましく花を咲かせています。
すごい生命力です。

20年前の今日は告別式だったようが気がします。
写真の前におはぎを供えて合掌、安らかであれと今はただ祈るのみです。
三人で仲良くやっているかな、おばあちゃんも一緒かな。
私と弟が一生懸命生きるから見守っていてね。

昨日整骨院に行ってマッサージをしてもらいながら、宇多田ヒカルさんの話がでた時に思わず気持ちが入りすぎて涙を流してしまいました。大変なことを背負うことになりマスゴミにも傷つけられ辛いだろうと思います。どれほど受け容れていくのが大変か・・・。時間をかけて乗り越えていって、またすばらしい歌声をきかせてくれることを祈りたいと思います。

今少しずつこれまでの時間を振り返りながら古いものを整理する(=捨てる)作業をずっと続けています。休日だけなのでほんとに少しずつです。
振り返ってみると、20年間いろんなことをやってきてよくがんばってきたんだあと思います。
自分をほめてあげてもいいかな。


手帳の記述から、振り返りにしばしおつき合いください。



2012年9月15日(土)夕方の新幹線で帰省、蒸し暑かった。
2012年9月16日(日)父の三回忌法要と三人の納骨、お墓に入ることの意味を始めて知った。
2012年9月17日(月)父と母と妹の遺品整理、衣類を捨てるものとリサイクルに出すものに分けたのみ。疲れるもんだ。
2012年9月23日(日)断捨離継続中。なかなか疲れるがとにかくモノを減らしたいのでがんばっている。でもなかなか減らないな。本もがんばって読む。色々とがんばる。

2011年9月16日(金)休暇取得、夕方の新幹線で帰省。
2011年9月17日(土)父の一周忌。暑い。
2011年9月18日(日)暑い。かなりへばっている。午後早い新幹線で戻る。
2011年9月19日(月)市の自殺対策フォーラム聴講。疲れていて辛かった。Mアナウンサーの話が心に残る。

父の一周忌は終わった。疲労だけがどっと残ってほとんど休みだったという気がしない。
被災地ボランティアで感じた熱い思いも、自分だからできることが、やるべきことがあるんじゃないかという熱い思いもどこにも受け容れられず空回りし続けている。何故なんだろう。そういう集まりに行っても結局誰とも共有できないまま帰ってくる。人の考え方や感じ方って本当にそれぞれなんだ、とあらためて思うこの頃だが、しっくりとくる場に出会うことがないのは何故なんだろう。
それでもMちゃん(妹)が逝ってしまったあと、のたうち回るような思いでたどり着いた今をとめることはできない。どこにもたどり着けないかもしれないが、自分がいるべき場所をさがし続けるしかない。どうやって生きていくのか、これからどうあるべきなのか、”命”を一人一人が考えないと結局日本は変わらないと思う。

2011年10月5日(水)-11月2日(水)毎水曜日18時50分から20時50分、いのちの電話の公開講座出席。

2011年10月5日(水)いのちの電話一回目ー心のケアと傾聴、平日の夜、そこに行くこと自体大変だし、自殺という言葉を繰り返しきくのもきつい。やっぱり働きながらは無理だなあ。

2011年10月11日(水)いのちの電話二回目ーいのちの電話、きつかった。休み明けに早退。早くもへばり。自殺の話を疲れた状態できくのもきついし、気持ちはあっても時間的にとてもやれそうにない。自分の内側にある何か熱いものと現実とのギャップについていくことができない。現実はとてもへんちくりんで不快だ。

2011年10月19日(水)いのちの電話三回目ー自死遺族のケア、前半の終わり頃、苦しくなって動悸がしそうになってきた。でもがんばった。はじめて当事者と一対一で話をした。私は自死遺族なんだ。その立場は永遠に終わることがないんだと思う。

2011年10月21日(金)なんとなくいつも不安で落ち着かない。自分の居場所をどこに求めればいいのかわからない。今はここで辛抱するしかない。でも私は上手く立ち回れるわけではなく、ネガティブな感情が顔に出る。こういう人間は生きづらいよな・・・。

2011年11月6日(日)人は本当に色々だ。思いはあふれているがなかなか上手く表現できず、人に伝えられてもいない。今はじっと辛抱だ。会社にいると爆発しそうになるが、こらえるしかない。『赤毛のアン』とプリンス・エドワード島を心の逃げ場所として進んで行こう。「きつい時はがんばろうね。きっとみえてくるものがある。」カウンセラーのY先生からの励ましだ。



森真一『自己コントロールの檻』-感情マネジメント社会の現実(講談社選書、2000年発行)の161頁より以下引用です。


「さきに、社会全体が一つの大きなマクドナルドの店舗のようになりつつあると述べた。そして今、社会全体が「能力主義」や「雇用流動化」と称して、正社員を非正社員へと置き換えつつある。その典型的存在が、派遣社員である。この派遣社員を中心に、新たな合理化のあり方と感情マネジメントとの関連性、および心理学が「能力主義」への合理を取りつけることで新たな合理化を推進している」


私がずっと感じ続けている違和感の正体のヒントがここにあるかもしれません。卒業論文を書いた際に読み切れなかった一冊です。あらためて読もうと思います。卒業論文のこともまだまだ先になりそうですが、書きたいと思っています。


私が住んでいる地域の駅周辺にはファースト・フードのコーヒーチェーン店がたくさんあって本を読むために利用しますが、マニュアル通りの心のこもっていない言葉かけが多いですね。心がこもっていないことを敏感に感じてしまってすごく違和感があります。


先日はじめてアメリカに行ってみて、日本の「甘え」、わび・さびといった曖昧の文化をもっと考えていこうと思いました。



上の写真は春のオーウエル・コーナー歴史村です。



ケープ・トライオンです。

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ポイントプリムの灯台です。
(以前にも同じ写真を載せているかもしれません。)

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ヴィクトリア村の灯台です。きれいですね。
春の島への旅日記もいずれ載せたいです。

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秋のプリンス・エドワード島_ロウアー・ベティック

2013年09月23日 10時21分10秒 | プリンスエドワード島への旅
このささやかなブログに訪問してくださる皆さまありがとうございます。

また写真だけですが秋の島を少しご紹介します。

2012年10月の旅では、モンゴメリさんが教えた3つ目の学校、ロウアー・ベティックにも行きました。写真はそのワンルームスクールです。クローズで外観のみです。
寒かったので、なんとも淋しい感じがより伝わってきました。


この写真は、プリンス地区へのドライブの帰り、ロウアー・ベティックに行く前にお昼をとったレストランのお庭です。サマーサイドの近くでした。本当にきれいですね。





旅日記の続きはまた来週に、「大草原の小さな家」への旅日記はその後で載せようと思います。

よろしかったら引き続きおつき合いください。


秋の空に祈りをこめて

2013年09月21日 10時17分02秒 | 祈り
「1994年10月24日(月)

 ずいぶん長い時が過ぎたような気がする。寒くなった。疲れてしまった。いろんなことに・・・。Mちゃんが逝って1カ月。こんなにつらく悲しいことはもういやだと思う。逃げられるものならば逃げ出したいと思う。でも、あの子はもう帰ってこないのだということは向き合わなければならない事実だ。本当に不憫なことをしたと思うと、今も胸がつぶれそうな思いでやりきれない。それでも、少し時間がたったらかようやくこうしてノートに書けるのだ。わたしがどんなに自分を責めたとて、なんの解決にもならない。
いつも思ってあげることしかできないのだ。
いろんなことを思った。
家族ってなに?血のつながりってなに?
理屈ではわりきれない、どうしようもないことっていっぱいある。
理不尽なものだ。強くなれるのが大人か・・・。
生きていくってすごいことだ。上手くいえないがいろんな意味で大変なことだ。
今はまだなにをしていいのかわからない。
たくさん書きたいのだが疲れてしまった。
またね」


20年前の私が必死で自分に向かって語りかけている文章です。
このあともポツポツと日記を書くことで、私は自分の気持ちを整理していました。
捨てるつもりで昨年読み返しました。でも捨てきれなかった。
読み返してみると、なにか記録として残しておかなければならないような気持ちに勝手にかられました。自分のことなのに自分で心が痛くてたまらなくなったり。
その日を境に自分の中でそれまで必死に積み上げてきたつもりのことが音を立てて崩れ落ち、
生きなおしの日々が始まった。
それから20年、こうしてまだぐずぐずとしているのですから何も進んでないといえば進んでいない。ただ生きる時間がそれまでよりも深くなった。いろんなことを教えてもらった。そんなことがなければ出会っていないであろうこととたくさん出会ってきた。
今はただ感謝の気持ちで思い続けたいと思います。
信じられないといえば信じられない。でもほんとなんだ・・・。

これからも日記を載せていくつもりです。こうしてブログに載せていくことでやっと捨てられるかもしれません。

20年前の今日は朝からもっと蒸し暑かった。
ラジオをつければ(テレビは処分してしまったので)お月見だとあっちでもこっちでも一昨日でしたか、騒がしかったですが、この季節の満月とススキの穂をみるたびに毎年とても嫌な気持ちになります。
その一週間ぐらい前に、なぜか通りがかりの商店街で売っていた人形焼きをふと実家に送ってみようという気持ちになり、買って送りました。人形焼きを見るたびに今もいやな気持ちになってしまう私がいます。

アルバイトから帰って、夜弟から電話があって、それからのひとつひとつを今も鮮明におぼえています。泣いて泣いてこんなに涙がでるものかと思うぐらいただただ泣いて、でもお腹はすくし、眠くもなるしそんな自分に腹が立ってしまったり、自分が生きているんだと実感させられたり、その日のことは私がこの世とお別れする日まで忘れることはできないだろうと思います。
背負いながらも自分の感性を信じて、私自身の人生を一生懸命生きていこうと思います。

現実には毎日忙しく働くだけで、なんだか世の中の仕組みはへんてこだなあ、なにか根本的にちがっているなあ、自分にはあわないシステムだなあと思いながらも、これからどこに向かって進んでいけばいいのか相変わらずわからない。母のこともあって必死でカウンセリングスクールに通い、ソーシャルワーカーの国家試験にも合格しました。だからといってなんでもない。生活があるのでなかなかきびしいかな。でも自分に与えられた役割をさがし続ける気持ちを失わないようにしたいと思います。

おもたい話におつきあいいただき、ありがとうございました。






祈り

2013年09月16日 20時23分49秒 | 祈り
明日で父との突然のお別れから3年になります。早いものです。
突然、自分を守ってくれていた大きな柱がなくなってしまったような、なんとも足元がおぼつかない、心もとない思いで気がつけば3年がたちました。

手帳で振り返ってみると、3年前の今日(16日)は木曜日で、週末近くへロヘロになっていた頃(朝は電車で熟睡)、いつもどおりお昼を食べ終わって午後の仕事が始まったばかりの1時頃だったと思います。父が入院中の病院から携帯に電話が入って、今日か明日で危ないと言われて意味がわからず信じられず、どきどきしながら派遣会社の有給休暇は半休がないので丸一日休暇扱いにしてもらい、新幹線に乗る用意をするため急ぎ職場を後にしました。とても蒸し暑い日だったことをいまでもおぼえています。

酷暑と言われた2010年夏、私自身はホットフラッシュに悩まされ、職場も電車も冷房がきつくて体が冷え切り、外に出れば熱風、びしょびしょのくさい汗が出て、仕事は相変わらず忙しく、きつい日々が続いていました。

今振り返れば80代後半で入院中、いつ何が起こってもおかしくなかったのに、危機感がほとんどなかった。自分の親がいなくなってしまうなんて考えられなかった。

8月の第四週目の日曜日、父が会いたがっているという弟からの連絡にようやく重い腰をあげて
日帰りで帰省しました。日曜日はお休みの地域包括支援センターのワーカーさんに無理を言って家にきてもらい、父と母の今後のことを相談してから、入院中の父に会いに行きました。「バイバイ、また10月に会いに来るからね」、手を振って帰ろうとしている私を見つめる父の瞳はとてもさみしそうでした。私は本気で考えていました。涼しくなったらまとめて休みをとってまたあらためて帰省しよう、母を往診してくれるお医者さんをみつけなければ・・・なんとかしなければ・・・、ひとりよがりだったのかもしれませんが、その時は必死にそう考えていました。

お別れの5日前の日曜日、病院から電話が入っていました。
父がベッドから落ちたけれど、弟と連絡がつかない。ワーカーさんに連絡して無理を承知で家に様子を見に行ってもらい、最悪のことを考えてしまって新幹線に乗る準備をしようとしていたところへ、弟と連絡がついたとワーカーさんから連絡が入ってほっとしていました。
後から考えればこの時からざわざわしていたのに、危機感はもてなかった。

駆けつけた時は酸素マスクをつけていて意識はもうなかった。でもほんの一瞬うっと声をあげて必死に目を開けて私を見つめた。私を認識できていることがわかりました。その一瞬がなかったら、私はまた後悔で自分を責めることになったかもしれません。
若い頃大きな病気をしていたことを、レントゲン写真で先生から説明されるまで知らなかった。長い間親子だったのに知らなかった・・・、気力で生きてきたんだ・・・。

翌17日(金)、母の往診のことで町医者に行っていて、でも待ち時間が長くって気になるから抜け出して病院に行ったら、私と弟を待っていたかのように、だんだん脈が落ちていって、静かにお別れとなりました。涙を流して最後まで一生懸命にがんばり続けた姿を弟と二人で見届けました。よくがんばったね、よくがんばったね。なんどもなんども顔をなでてあげました。



子煩悩な人でした。幼い頃、本当に大事に育ててもらいました。
なにがどこで間違っていて妹と母のことがあったのか、その答を探し求めてもどこにもない。
まだあまり考えたくはないけれど私の人生にも終わりはいつかやってくる。その時まで一生懸命生きていこうと思います。

妹とのお別れの日もまもなくやってきます。

父と母と妹と、三人で見守っていてね、幸せになれるようにみまもっていてね。

今はただ静かに祈りたいと思います。













「大草原の小さな家」への旅から帰国しました

2013年09月14日 17時33分08秒 | 「大草原の小さな家」への旅
2013年9月10日(火)の夕刻、無事に最終訪問地のロサンゼルスから帰国しました。カラッとした所から帰ってくると涼しくなっているとはいえ、蒸し暑い・・・。

翌11日(水)の朝は-16時間の時差と疲労をたっぷりとひきずったままなんでもないような顔をしていつものように職場へ。静かにパソコンの前でたまった仕事を黙々とこなしていきます。
頭クラクラ、目はチカチカ、山のようなメールをみているだけで吐き気がしてきましたが、周りの人たちは月曜日から働いているし、海外に出かけることが日常になっている職場環境なので、11時間あまり飛行機にゆられてフラフラ状態でいることは表に出さないように、心の中では必死でした。

お昼のパスタは、水で流しこむようにしていただき、夜は空港から送ったスーツケースを受け取るためにいつもよりは早目に帰宅。宅配の業者さんに無理をいって夜の9時頃配送してもらい、無事受け取り。一気に洗濯をすませます。

3日間でたまっていた仕事は片づけ終わり、連休初日。また体に無理をさせてしまったなあというのが正直な実感です。

でもこの機会を逃したらたぶん生きている間に行くことはないであろう所をめぐる旅だったので、いろいろな学びもあり貴重な機会だったと思います。

旅日記と写真のアップはまだまだ先になりそうですが、4日目のアメリカ南部ミズーリ州マンスフィールドのローラと夫のアルマンゾが後半生を過ごし最期を迎えた家とお墓を訪れた時がいちばん深く心に残っており、まとまりが悪いですが少し書きたいと思います。


「2013年9月7日(土)

6時30分:起床
8時10分:ホテル出発(私が少しおくれた)

車でローラとアルマンゾが暮らした家に向かう。
およそ3時間。
車窓からは豊かな丘陵地帯が広がっている。
ローラが作品の殆んどを書き最期を迎えた家は、ほとんどがアルマンゾの手作りでこじんまりとしているが使いやすそうであたたかさに満ちた、とても居心地のいい空間だった。(立ち去りがたい。)145センチのローラの高さに合わせた調理台、ダイニングルームの揺り椅子、ローラの書斎の机と椅子、一休みするためのソファもローラのサイズに合わせて小ぶりで使い勝手がよさそうだった。オットマンも足元にちゃんとあった。

客間の暖炉の石はローラが農場から見つけてきたもので、アルマンゾはレンガを考えていたがローラはこれがいいといって譲らなかったそうだ。ジフテリアにかかって足が不自由になったアルマンゾの杖、ラグもアルマンゾの手作りだそうだ。
台所と居間の間は、台所でつくった食べ物をそのまま渡し、食べ終わればまたそのまま食器を受け取れるような造りになっていて機能的。居間のランプも手作り。客間のお客様を迎えるテーブルと椅子も手作り。窓からは目の前に広がる農場の景色が眺められるようにローラはカーテンをかけなかった。

2階にはあがれなかったが、娘のローズのために小さな階段がしつらえてあった。
寝室のローラの三面鏡、アルマンゾの洋服ダンス、ベッド、全て手作り。
姉のメアリが盲学校に行くために乗った汽車の絵が寝室の壁にかけられていて感動。
トイレとバスタブも小ぶりだが備わっていた。



ローラとアルマンゾの木造の家



目の前の広大な農地もローラたちのものだった。



農場内の風景



隣の博物館では、農地を買うための100万ドルをしまっていたペン箱、ローラが護身用にもっていたリボルバー銃など、ゆかりの品々をみた。
博物館も感慨深かった。
父さんと母さんの結婚証明書、幌馬車で移動しながらも大事にもっていたんだ。盲目のメアリの写真と点字の手紙、手作りの品。写真からは聡明さが感じられて感動。
妹のキャリーとグレイスの写真も、それぞれに意志の強そうな顔立ちだった。

父さんと母さんの前向きに生きる力、不屈の精神、自ら人生を切り開いていく力、それらはローラ達姉妹にしっかりと受け継がれ、ローラの娘ローズへとつながっていった。言葉に言い尽くせぬ感動。

ローラとアルマンゾがサウス・ダコタ州のデ・スメットを離れ、マンスフィールドを目指して40日かけて移動した際に乗った馬車(WAGON)の3/4のレプリカも博物館で見た。

自らの人生を自らの手で切り開き、数々の困難を乗り越えていったローラの強さ。アルマンゾを愛し愛されながらも寄りかからず(ローラは結婚式で当時としては珍しく「夫に従う」という言葉は言わなかった)、自らの人生を生き抜いたローラの不屈の精神に触れることができた。素晴らしかった。父さんと母さんのもとで育てられたからこそのローラの人生だったんだと思う。うまく言えないがすごい人だったんだと肌で感じることができた。

ジャーナリストだった娘のローズが当時よく売れた小説によって得た収入でローラとアルマンゾのために買った「石の家」も同じ農地内にあった。電気が通り、近代的な設備で家具も高価。とてもお金をかけられているが居心地の良さは木造の家にはかなわない。二人は8年間暮らしたが、最初の家に戻って最期を迎えたそうだ。納得。


娘ローズが建てた石の家の案内板



二人のお葬式が挙げられた教会は現在はない。建て替えられた教会の外観のみ見学。
最後にローラとアルマンゾ、ローズが眠るお墓にお参り。造花が飾られているところがアメリカらしい。この下で眠っているんだなあと思うと感動がこみあげてくる。二度とくることはないと思うので立去りがたく、手を合わせて墓石をなでてお別れした。


写真は撮れなかった分心に焼きついた、最もローラの生き方に触れることができた一日だった。
たくましく二つの世界大戦も生き抜いて90才で人生を全うしたローラに出会えてよかった。手を合わせながらお礼を言った。

父さんと母さんは特別しっかりとした家庭を築いた人たちだったんだろうと思う。父さん・母さん・メアリがこの世を去り、ローラは晩年にさしかかって人生を振り返った時物語として書き残しておきたくなった、その気持ちに触れることができた。
精一杯生き抜いた人生だったと思う。ローラの子孫は絶えてしまっているが、こうして受け継がれていくんですね。

中学・高校生の頃だったと思うが家に帰ってテレビをつけると、いつもローラをやっていた。台所では母が夕食の仕度。そんな光景も今もおぼろげに思い出す。色んな事が起こり、父も母も今はもうこの世にいない。自分と重ね合わせて考えると涙が出てきてしまった。私も一生懸命生きなくっちゃ。

妹の遺品の中にあった(妹の手作りの)小花模様のスカートをはいた。一緒に旅をして、一日を過ごすことができてよかった。急に思い立ってスーツケースに入れたがよかったと思う。



                              ミズーリ州セントルイス泊」



長い文章におつき合いくださり、ありがとうございました。


夏の終わりの徒然

2013年09月03日 22時43分05秒 | 日記
明日から一週間、「大草原の小さな家」のローラの足跡をたずねるツアーに参加してアメリカへの旅に出ます。

派遣社員ですが、社員並みというよりは社員以上に働いており、一生懸命やる分だけ同じ類のことをやっている隣の部署の社員や派遣社員に苦笑されたりしながらも真面目に働く日々です。
月初は書類が集中する時期で休みをとるのはかなりきついのですが、前倒しでクリアできることはクリアし(月曜日は11時まで働いてしまいました)、あとは人に頼んでなんとか無事に休みをとれる状況になりました。
旅の前はいつものことですが、休みをとるのに本当に疲れてしまって、こんなことなら休むのをいっそやめようかと思ってしまうぐらいです・・・(笑)


明日は成田エクスプレスに乗り遅れないようにしなくちゃ・・・ドキドキ・・・。

一週間部屋を空けることへの不安との闘いも心の中であります。
人からみればおかしいかもしれませんが、3.11の時、電車がとまってしまって一晩帰宅できず、近所に知り合いがいないので、ちょっと様子をみてほしいと頼める人もいないことにあらためて気づかされて、その時の心細さ、不安、恐怖を体が覚えてしまいました。
大丈夫・大丈夫、と言いきかせます。


まだまだ蒸し暑い季節の変わり目。

色んな事がめぐります。

94年は突然妹との別れが訪れました。

2010年は突然父との別れが訪れました。

夏の最後の土日、冷房疲れと外気の蒸し暑さで脱水症状を起こして立ち上がれなくなったこともありました。2006年精神保健福祉士の国家試験合格を目指して勉強を始めた2年目、己に鞭打って無理に無理を重ね続けていた頃でした。近所の神社のお祭りでくりだした子供みこしの「ワッショイ・ワッショイ」をききながら部屋を暗くして寝込んでいました。

今年はなんとか元気に「ワッショイ・ワッショイ」をきくことができました。


この時期に旅に出ようとするのは不思議な感覚です。

無事に行って帰ってきたいと思います。
色々と書きたいことがあり、気になることもたくさんありますがまた帰ってきてからです。




20年以上前イギリスへ一人旅に出て、スコットランドのエジンバラにも行きました。

『赤毛のアン』の主人公たちはスコットランド系、モンゴメリさんもスコットランド系です。
(8月24日の松本侑子さんのアンセミナーでお話をうかがいました。)

妹との突然のお別れが訪れようなど思いもせず、今思えばとても愚かな自分がいてその頃のことはあまり思い出したくなく、写真もかなり捨ててしまいましたが捨てきれないものもあって、スキャナーでよみとってみました。古い写真ですが、よろしかったらご覧ください。


シェイクスピアの故郷、ストラットフォード・アボン・エイヴォンのエイヴォン川です。


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エジンバラの風景だったと思います。

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いつかこの旅のことを書くかもしれません。
明日も蒸し暑くなりそうです。
無事な一日となりますように・・・。