たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

アンデルセン『絵のない絵本』-第25夜

2024年03月15日 11時25分27秒 | いわさきちひろさん

「「きみにフランクフルトの一情景を話してあげよう。」と、月が言いました。「わたしはあの町では、とくに一つの建物を観察したのです。それはゲエテの生まれた家でもなく、また皇帝の戴冠式を祝って、その肉をあぶってごちそうしたという牡牛の角つきの頭蓋骨が、いまでも格子窓から突きでている古い議事堂でもありません。それは狭苦しいユダヤ人街の片すみの、緑色に塗られたみすぼらしい平民の家なんです。それがロスチャイルドの家だったのですよ。

 わたしは開いていた戸口から、のぞきこんでみました。階段にはあかあかと灯(ともしび)がともっていました。そこに、灯をともした大きな銀の燭台をもた下男たちが立ち並んで、輿(こし)に乗せられて階段を降りてきたひとりの老婦人の前に、低く頭を垂れていました。この家の主人は、帽子をぬいで立っていましたが、その老婦人の手をとってうやうやしく接吻しました。それは主人の母親だったのです。

 彼女はむすこと下男たちにあいそうよくうなずきました。それから人びとは、狭い暗い小路の中の一軒の小さい家へ、彼女を運んでいきました。彼女はそこに住んでいたのです。そこで彼女は子どもたちを生み、そこから彼女の幸福の花が開いていったのでした。

 もしじぶんがこの卑しめられた小路と小さい家を見捨てたなら、おそらく幸福もむすこたちを見捨てのだ。-これがいまでは彼女の信念だったのですよ。」

 月はそれ以上は語りませんでした。今夜の月の訪問は、あまりに短すぎたのです。それでもわたしは、その狭い、卑しめられた小路の中の老婦人のことを、考えずにはいられませんでした。

 彼女のただの一言で、光り輝く家がああ、テームズ河畔にできたでしょう。ただの一言で、別荘だって、ナポリ湾の岸辺に立ったでしょうに。

「もしわたしが、むすこたちの幸福の源になったこの貧しい家を見捨てたら、そのときはたぶん、幸福もむすこたちを見捨てるだろう!」

 こんな考えは、迷信です。しかし、もし人がこの話を知り、この絵を見るとしたら、それがどんな迷信だかを知るためには、「母親」という二字をその下に書いておくだけで、じゅうぶんでしょうよ。」

 

 

 

ロスチャイルド犯罪家族:数世紀にわたる犯罪の詳細な年表|あかいひぐま (note.com)


『ゆきのひのたんじょうび』

2022年09月20日 00時14分16秒 | いわさきちひろさん
『あめのひのおるすばん』
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/7b3923bae3d2b15a33a3bb88d7fdfb62





「もう ひとつ ねると
 ちいちゃんの おたんじょうび

 おかあさん
 わたしが うまれたとき
 ゆきが ふってたって ほんと?

 わたしは いつつになるのよ
 ろうそくだって ごほん いっぺんに
 けしちゃうんだ

 でも きょうは ともだちの おたんじょうび
 それで かーどを かいてたの

 いってまいりまあす ぽち きょうは ついてきちゃ だめよ

 はい ぷれぜんと
 かーども はいっているのよ

 ろうそくが
 いっぽん にほん
 さんぼん よんほん
 ゆれてます

 わたしの ときは もう ひとつ おおい

 ふっ 
 たいへん
 まちがっちゃった

 あーらら あらら
 ちいちゃんたら けしちゃった
 ひとの ろうそく けしちゃった

 じぶんの
 たんじょうびじゃないくせに

 もう みんな きらい ぽちも きらい

 どこかへ いっちゃおう

 あーあ つまんないの だれとも あそびたくない

 なんだか さむくなってきた やっぱり おうちに かえろうか

 あら おかえりなさい
 おたんじょうびかい たのしかった?
 おともだち たくさん きてたでしょう
 みんなで ないして あそんだの

 ちいちゃんたら どうして そんなに げんきがないの
 さあ あしたは あなたの おたんじょうび

 おたんじょうびなんか きらい
 あたしは なんにも いらないの だあれも きてほしくないの

 おほしさま おほしまさ

 あしたの おたんじょうびには
 なんにも いらないって おかあさんに いったけど
 ほんとは ひとつだけ ほしいものが あるの

 あした 
 まっしろな ゆきを ふらせてね
 わたしの うまれたひみたいに

 あっ
 やっぱり ふった
 ほんとに ふった

 すごーい

 おかあさん
 みてー

 さあ ゆきの たんじょうびです

 あかい ぼうしと
 てぶくろだって
 おかあさんから もらったの

 ちいちゃん おめでとう おたんじょうび おめでとう

 みんな きました

 みんな すき
 ぽちも すき
 おかあさんも すき
 おたんじょうび だあいすき」


「武市八十雄とコンビを組んでの楽しい絵本づくりは1968年から毎年1冊のペースでおこなわれ、病状の悪化する直前の73年までに『あめのひのおるすばん』『あかちゃんのくるひ』『となりにきたこ』『ことりのくるひ』『ゆきのひのたんじょうび』『ぽちのきたうみ』と六冊をつくりあげた。気力もイメージもどんどんわいてくる本で、生きていればもっともっと新しいものへ挑戦しながらつづけていけたのにと惜しまれる。

 それまでの絵本の常識は、受け手が子どもだということを一面的にとらえていたためか、なんの絵か、なにをどうしているところががすぐわかる絵がしきりに描かれていた。どこを開いても、そこに示されている状況はきわめて明快なものである。しかしちひろたちがつくったこの新しい絵本は、そうではない。一面にじんだ画面であったり、ポツンとなにかが置いてあったり、子どもがうしろをむきっ放しであったりする。そこで示そうとしているものは、さびしさとか不安とか期待とかいうものにたいするいかにも子どもらしい気持ちのゆらぎ、流れというような、いわば不可視的な心理の描写である。いかに子どものこととはいえ、人間の精神的な部分は子どもでは決して表わすことはできないものだが、ただのおとなでもできないだろう。

「あれはみんな私の思い出というか、心のなかにあるものです」とちひろはいうが、まったく子どもの心理と重なりあいながら、かつ、それを客観的描写できるおとなでなければならない。それはまさに、いわさきちひろの資質そのものであったといっていいだろう。児童文学者でもなかなかここまでは踏みこむまい。そういう心理だけをあつかっても、物語が成立しないということもあるだろう。だからこのシリーズは、子どもの文化のまったく新しい世界をきりひらいたといっていい。

 従来の絵本の常識であれば、ちひろの描く一見不安定な画面は、絵本の画面として不適格なのではあるまいか。子どもの笑顔をこのへんにのぞかせてくれとか、空っぽの金魚鉢だけがポツンと画面一杯にあるのは困るとか、注文の出るところだろう。しかし、武市はあえてそれをめざし、絵本にしたのである。たいへんな冒険であっただろうし、いまとなってはたいへんな先見だと驚嘆する。

 少女のころ父親から野球のルールを習ったちひろと、とりわけ野球好きの武市とのあいだで、野球用語を使いながらこの絵本のすすめ方を考えたという話も、たいへん興味深いものである。」

(滝いく子『ちひろ愛の絵筆-いわさきちひろの生涯-』労働旬報社、昭和58年8月1日第一刷発行、203-204頁より)




『あめのひのおるすばん』

2022年09月17日 00時11分28秒 | いわさきちひろさん


「おかあさん どこまで いったか みてきて

 だあれも いない おへやなの

 すぐって いったのに まだかしら

 ど・れ・み・ふぁ・そ・ら・し・ど
 ど・し・ら・そ・ふぁ・み・れ・ど

 あまだれも うたってる
 そうだ ゆび なめちゃ いけないって

 おはなが ぬれて なんだか ふしぎ
 なんだか

 ぴりりん ぴりりん かくれても だめ きこえちゃう

 こどもの おさかな
 おかあさんの おさかな
 いまの でんわ おかあさんかしら

 だんだん くらく なってきた
 おかあさん は・や・く

 わたしの おねがい おまどに かいた

 あっ おかあさん あのね あのね

 でんわ なってよ もう いちど
 おるすばんだって できたんですもの」




「絵本づくりには熱海ホテルが仕事場になった。ホテルの窓から雨にけぶる海を見ていた武市八十雄の頭に、突然、雨の日というイメージがうかび、ちひろがすかさず「それ、それにする。おるすばんっていうのどうかしら」といって、『あめのひのおするばん』は一瞬にして決まってしまった。たいていはこの調子で、仕事場にむかう車のなかなどでテーマがきまってしまうのだった。

 ホテルの仕事部屋では、あまてていわゆる物語絵本のようなストーリーを組みたてないようにしようと気持ちをおちつけるのだが、話しあって制作にかかっても、想っていることと描かれて出てくるものがちがうのである。

 ゆき詰って重苦しい沈黙がつづき、しばらく休もうということになって、それぞれの部屋で一時間ばかり昼寝をすることにした。武市は眠れないのでテレビをひねってみると、ちょうど「しのび泣き」というフランス映画をやっていた。古いテレビで、画面はいわゆる雨の降る状態になっていて、そのうるんだ感じが、この絵本づくるのなかで探っていた心の感じにピッタリなのであった。一時間たってちひろの部屋にいくと、なんと彼女も同じ映画を観ていて、同じような啓示をうけていた。

「あの感じなんだ、あれでいこう」

 気持ちとイメージがピッタリ一致したあとのは仕事は一気にすすめることができた。しかし、絵の制作にあたっては、ちひろにも思いがけないほどの大胆な方法がとられ、ともどいとおそれのたいへんな冒険の連続であったようだ。

 ひちろは器用な人で微妙なところを細かく描くのが上手だったが、武市は今度から太い筆で大きく描くことをすすめた。

「こんな太い筆で描けるかしら、描いたことないけど大丈夫かしら」とちひろは不安がったが、彼は力づよくいった。「あなたほどの技術のある人なら、大丈夫です。技術に走らないで心で描きましょう」

 そのときちひろは「武市さんのいうことをよくきくふしぎな心境の絵かき」になっていたのである。彼女はいわれるままに太い筆を握り、立ったまま低い台にむかって前かがみに腕をのばして描いた。このはじめての経験に彼女は驚き臆病にもなっていた。技術的な大胆な冒険もした。ぼかしやいにじみはそれ以前からの技術だったが、太い筆を使うようになってから絵に勢いがのってずいぶんちがう感じが出るようになった。先に紙に水をぬっておいてそのうえに絵の具を落としてそのにじみを生かす、「たらしこみ」の方法も使った。自然乾燥は時間がかかるのでドライヤーを使ってみた。するとすぐ乾くからそのうえにまたすぐ次の色を流し込んでいく。何回でも洗っては流し込む。紙はボロボロにふやけてくるが、だんだん複雑ないい色があらわれてくる。ちひろはひじょうに喜んで、熱心に意欲的に種々の実験をくり返した。

 例によって二人は雑談をはじめ野球の話や子どものころのことなどしきりに話した。そのときちひろは子どものころ、絵を描く紙がなくて、紙を揉んで描いたことがある、とふと漏らす。

「しめた。それをやってみよう」と武市がのり出す。「画用紙を揉んでシワクチャにしてそのうえに描いてみよう」

 面白そうだ、とちひろものってくる。シワ紙にあやめを描き、色を重ねて塗っていき、まわりを取り去って花のかたちだけ残して製版する。「おはながぬれて、なんだかふしぎ、なんだか」と言葉の添えられた、不思議な厚みと色彩をもつあやめの絵はこうしてつくられたのである。

 ちひろがせっかく描きあげた絵を「洗ってみよう」と武市がいう。水道でジャージャー洗っていると途中でとても面白い部分があらわれてくる。そこでストップ!大急ぎでドライヤーをかけ、そのうえにまた絵の具を流し込む。洗うときもちひろが筆でさっさと撫でるのをみながら、急所をとらえて「ストップ!」をかける。そのかけどころで、絵のイメージはガラリとかわってくる。ふたりの呼吸がピッタリとあわなければできない作業である。

(略)

 しかし、実験はしながらもどんなでき上がりをみせるかはわからなかった。それがわかったのは校正刷りが出てからである。ちひろはそこにあらわれたもののすばらしさに感動し、大いに自信をもったのである。二作目からは、どういうふうに描けばどういう効果があらわれるかをすっかり納得し、計算もせず楽な気持ちで描くことができるようになった。

 絵本はこうしてホテルにこもった数日のうつに描き上げられ、このシリーズの他の本もほぼこのぺ^スで描かれている。

 これらの絵本は従来のようなストーリーの面白さを追うものではない。一種の心理描写のようなもので、小さな子どもの留守番の心ぼそさとか、生まれたばかりの赤ちゃんがお母さんといっしょに病院から帰ってくるのを待つ心境をテーマにした『あかちゃんのくるひ』など、子どもの真理の動きをリアルに描き出したものである。

 絵を描く段階ですでに作中の子どもの気持ちの流れのようなものははっきりとできているのだが、絵ができ上がったあとで、より象徴的で鮮明な言葉をつける。なるべく多くを語らず、ギリギリ心理を伝えるに足るだけの小さなつぶやきを添えるのである。制作のあいだ、二人は童心にかえり、絵本のなかの子どもになりきって、その心の動きを追うのである。

 それは二人とも、かつて経験したことのないほどの不思議な時間だった。作中の心理的進行にはちひろの幼児経験が大いに生かされているが、子どものころ、働きに出ていた母親の帰りを毎日待ってすごしたその体験が、これら絵本に多くあらわれる「待つ」というモチーフにつながっているのかもしれない。」

(滝いく子『ちひろ愛の絵筆-いわさきちひろの生涯-』労働旬報社、昭和58年8月1日第一刷発行、198-202頁より)














『ちひろのひきだし』より-「キエフの町かど」

2022年08月13日 00時33分54秒 | いわさきちひろさん


『いわさきちひろ作品集7』より-「わたしのソビエト紀行」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/5035689dfb18f9bcde5058592ad3279e

「モスクワからルーマニア、黒海の方向にむかっておよそ八百キロのところに、千年の歴史をもつ古都キエフがあります。豊かな水をたたえたドニエプル川のほとりにあるこの年は、起伏にとんだ地形に、古い寺院の建物がならび、ポプラやマロニエ、柳などの木々があふれるように繁っているそうです。

 母がキエフを訪れたのは1963年7月のことでした。この年、モスクワで世界婦人大会が開かれ、母はこの会議に参加する日本代表団の一人として約40日間、ソビエト各地をまわる機会にめぐまれたのでした。

 母にとってこの旅行は戦前に「満州」へ渡ったことを別とすれば、はじめての海外旅行でした。会議への出席をはじめ、レセプションや見学など忙しいスケジュールのなかで、どれだけ自由な時間があったかはわかりませんが、会議中の講演者や、その話に熱心に耳をかたむける人びとの姿をスケッチしたり、一人団体行動から離れて言葉も通じない町へのりだすなど、あらゆる機会をとらえて、いくらか自由奔放に、自分の時間をつくりだしていたにちがいありません。

 実際、この旅行のスケッチは相当の数にのぼり、同時に生き生きとして優れた作品が多いのです。やはり、手のかかる夫や息子の面倒をみる必要もなく、出版社の仕事からも解放された喜びが絵のなかにも表れていたのでしょう。

 画家にとってスケッチというのは心の日記のようなものです。その時どきに、何に目をとめ、どのように感じたかが絵のなかからにじみでてくるのです。


 キエフではかなり多くのスケッチがあります。樹木の間からみえる古い建物のたたずまい、板のあるロマンチックな風景、公園のベンチでくつろぎ、いねむりし、語り合う老人たち、街を行く人びと・・・。そして、(この)石の建物に腰をおろした老夫婦。決してハイカラな部類の人びとではないのに大胆な色の服を無造作に着て、水玉のスカーフをしているー。母の目はまず服装の色をとらえ、それから、建物と、この二人のかもしだす雰囲気に心ひかれたのでしょう。

 ソビエトスケッチの数かずをみていると、私には何もかも忘れてスケッチをするのが楽しくてしようがないという母の姿がみえてくるような気がします。もっともホテルに帰れば、私あての絵はがきに「しっかり勉強して下さい」と書くのを忘れなかった母なのですがー。」


8月8日はちひろさんの命日でした。
1974年(昭和49年)8月8日代々木病院で逝去、病名は原発性肝ガン。
脳血栓で倒れた母文江さんよりも早い、55歳での旅立ちでした。




「一番かわいそうなのは子どもだと思うんです。
 どこが犠牲になるかというと一番弱い者が犠牲になる。
 それを思うと胸が痛くて、……。
 いわさきちひろ 1972年」

  (ちひろ美術館公式ツィッターより)

『ちひろのひきだし』より-「あっ おかあさん あのね あのね」

2022年07月09日 00時05分46秒 | いわさきちひろさん


「ある雨の日、女の子は生まれてはじめて、たった一人でお留守番をすることになりました。

 彼女は風船に「おかあさん どこまでいったか みてきて」と語りかけ、子猫と遊びながら「すぐっていったのにまだかしら」とつぶやくのです。

 だれもいない部屋のなかで、おもちゃのピアノをたたき、雨だれの音に耳をすませます。庭のアヤメの花は雨に触れて不思議な色に光ります。

 突然の電話の音に思わずカーテンの後ろにかくれてしまう彼女。

 街の家いえには灯がともり、女の子の心に少しずつ不安が広がります。

 「わたしの おねがい おまどに かいた」曇った窓ガラスにむかって指を走らせる彼女。するとー

 「あっ おかあさん あのね あのね」。彼女はお母さんの胸にしっかりと抱きつくのです。

 (この絵はその場面です。)お母さんの肩から顔をだしてこちらをみつめている女の子の小さな胸はいろいろな思いでいっぱいなのでしょう。バックの色はその思いと喜びをせいいっぱい語っているように思います。

 母が初めて文もかいたこの絵本『あめのひのおるすばん』は、日常のなにげない一コマに目を向けながら小さな女の子の微妙な心の動きを、十数点の絵の静かな流れと詩のような短い言葉でしっとりと美しく描いた作品です。

 絵本といえば物語にさしえのはいったものと考えられていた時代に、『あめのひのおるすばん』は絵本界に新風を吹きこんだ一冊でした。絵と言葉が一体となって、絵本でなければあらわせない世界がそこに生まれたのです。

 私は母がこの作品を制作している時のことをよく覚えています。

 「新しい絵本の時代が始まるのよ」と語りながら、せっかく塗った色を水で洗い、また色をつけたり、それまで使わなかったような太い筆をつかったりして、悪戦苦闘しながらも、表情は未知の世界に船出する人の輝きに満ちていました。それはこの絵の色の輝きにも匹敵するものでした。」


『ちひろのひきだし』より-「ガキ大将のお弁当」

2022年06月29日 13時35分00秒 | いわさきちひろさん


「私は決して偏食の子どもではなかった。人参もピーマンも好きだったし、肉も魚も嫌いなものはなかった。

 ただ、少し変わっていることといえば、蕪(かぶ)の葉のぬか味噌漬けがやたらと好きなことぐらいだった。こまかく刻んであたたかいごはんの上にのせ、しょうゆを少したらして食べるのは、その歯ごたえと舌ざわりとかおりが微妙に調和してなかなかの味なのである。

 私の行っていた幼稚園は、全部で4-50人という家庭的な小さなところだったが、その中で私は、何事も率先して走りまわり、チャンバラをし、木に登り、穴を掘り、ガラスを割り、生傷の数もどの子どもにも負けなかった。しかし、そこにも私に張り合う乱暴者のガキ大将が一人いた。彼は、みんなに恐れられていたのだが、私は正義の味方として、ただ一人毅然と彼に立ち向かう男であった。もっとも私にも年下の子分が何人かいたことを思うと、彼から見れば、私は全く許せないガキ大将だったのかもしれない。

 朝から遊びまわって腹ペコになった私にとって、お弁当の時間は何よりも楽しい一時だった。食事の前のお祈りの時-この幼稚園はカトリック系だった-私はうす目をあけて、先生がお祈りの終わりを告げる言葉を今か今かと待ち続けていた。そして誰よりも早くカチャッという音をたてて弁当箱をあけるのが楽しみだった。

 私のお弁当はいつも色とりどりであり、時にはおかずで図形が描かれていることさえあった。そしていつも、そのおかずのどこかに例の蕪の葉の漬け物が入っていた。母の絵を楽しむことなどほとんどなかった私だが、このお弁当は毎日楽しみだった。

 ところがある日、例のガキ大将が私のお弁当をのぞき込み、「なんでェ、女の子のお弁当みたいにちゃらちゃらしてさ」といって笑った。彼の弁当箱の中をのぞくと、それは黒一色だった。しゅうゆをつけたノリが、ごはんの上に一面敷きつめられていたのだ。彼は追い討ちをかけるように、「これが男の食べものだ」と胸を張った。私は反論するどころか、全くそれこそ男の食べものだと感心してしまったのである。

 その日、私は母にあしたからのお弁当は蕪の葉以外のものは入れないでくれと主張した。翌日、一面緑のお弁当を期待してあけた弁当箱には、いつもよりいくらか緑のスペースは広かったものの、やはり楽しげにいろいろなおかずが並んでいた。私は再び母に、こういうものでは男として困るのだといい、翌朝のお弁当詰めを監視することにした。

 その日、私はお弁当の中身を確認して、意気揚々と小さなバッグを肩からさげて小走りに幼稚園に向かった。バッグの中では弁当箱がカタカタと快い音をたてていた。

 いよいよ待ちに待ったお弁当の時間がきた。私はガキ大将をそばへ呼び、おもむろに一面緑の弁当を見せた。彼は何もいわずに黒一色の弁当を食べ始めた。私も緑一色の弁当を食べ始めた。

 ところが、一口食べたとたん、蕪の葉以外の味が口の中に広がった。私の弁当は二段重ねの構造になっていたのだ。下にごはんが詰められ、その上に、いつものようにいろいろなおかずが敷かれ、再びごはんの層があり、その上に蕪の葉がのせられていたわけだ。私はいささか不服ではあったが、その味はなかなかのものだった。

 こうしたお弁当を何回食べたかはもう忘れてしまったけれど、母のことだから、蕪の下のおかずもいつものように楽しく飾られていたにちがいない。

 うちも、決して裕福な家ではなかったが、少しでも栄養をつけさせようという母の気持ちは、今考えてもうれしいものである。そして、あのガキ大将がどんな気持ちで私のお弁当をながめていたかを思うと、少し胸が熱くなる。」




『ちひろのひきだし』より-「水の精・オンディーナ」

2022年06月22日 00時35分11秒 | いわさきちひろさん


「「緑の森にかこまれた深い湖がありました。湖は高い山の雪どけ水をたたえて、しいんと静まりかえっていました。岸辺の木陰では小鳥たちがしきりにだれかを呼んでいます。

『おいで、おいで、オンディーナ。きょうもいっしょに歌いましょ。』
 
 するとさあっと水を分けて美しい娘が現れました。・・・」

 この絵の娘はこうして湖上に姿を現した水の精・オンディーナです。

 「にじのみずうみ」という物語は、オートリアとの国境に近いイタリア北部に伝わる民話で、アルプスの山間(やまあい)にあるカレッツァ湖という小さな湖が舞台となっています。付近は樅(もみ)の木の大木がおい茂り、雪で覆われた山の頂きを映す湖水はどこまでも澄みきっているということです。

 ところで、母はとても旅の好きな人でした。大きな仕事机のうえには旅のガイドブックや各地の美しい写真のはいった本がよくひろげられており、列車の時刻表は必ず机の横におかれていました。もっとも、いつも仕事に追われていた母はなかなか気ままな旅に出るというわけにはいかないようでしたが、旅のプランを立て、写真をみながらその土地へ想いを馳せるだけでもずいぶん楽しそうでした。

 この小文を書くために、母の蔵書のなかから『世界文化地理体系・21・イタリア』という本を取り出してみました。ページをめくっていくと時おり四つ葉のクローバーがはさまっていました。気に入った風景や建物の写真のあるところにはさんでおいたのでしょう。カレッツァ湖の写真はありませんでしたが北イタリアの湖の写真のあるページにもちゃんとはいっていました。

 そういえば子どもの頃「四つ葉のクローバーを見つけると幸運がくるのよ」と母にいわれながら、いっしょに道ばたにすわりこんでいたことを思い出しました。」








『ちひろのひきだし』より-「美登利」

2022年06月17日 08時48分54秒 | いわさきちひろさん




「樋口一葉の「たけくらべ」は明治時代の華やかに賑わう色街を舞台に、そこに住む少年少女の悲喜こもごもとした生活を生き生きと描いた名作デスが、美登利はその主人公の少女です。

 将来、花魁(おいらん)となることを定められた美登利は勝気で驕慢(きょうまん)で多感な少女としてこの物語に登場してきます。その美登利もほのかな恋を感じ一人の女性としての自分を自覚してゆきます。そしてある日、少女時代に別れを次げるかのようになじみの桃割(ももわれ)の髪を解き大島田の髷(まげ)を結うことになります。

 この絵は大島田を結った美登利の姿です。総(ふさ)つきの花簪(かんざし)の華やかさとはうらはらに、髪の背後にはわずかですが深い闇が描かれています。それは花魁としての人生を暗示しているのでしょうか。表情はかたく自分の行く末を見つめているようにもみえます。母は、この絵をどのような気持ちで描いたのでしょう。

 わずか24歳で逝去した一葉は、母と妹とみずからの生活をささえるために筆をとったのですが、その精神は気高く「われは人の世の痛苦と失望とをなぐさめんために生まれ来つる詩の神の子なり」と述べています。

 母はこの一葉の純粋な誇り高い精神に共感し、それを愛していました。

 (この)美登利の表情のなかに、一人の若い女性の凛と張りつめた純粋な強い精神の輝きをみる人は多いでしょう。そこには母がとらえた一葉が感じられるとともに、母自身の精神をもかいまみることができるように思われるのです。「たけくらべ」は、母の少女時代の愛読書の一つでした。」

『いわさきちひろ作品集7』より-「宮沢賢治と私(「花の童話集」によせて)」

2022年05月16日 12時14分36秒 | いわさきちひろさん


(『母のひろば』64号1969年9月童心社)

「私の娘時代はずっと戦争のなかでした。女学校をでたばかりのころは、それでもまだ絵も描けたし、やさしい美しい色彩がまわりに残っていて、息のつけないような苦しさはなかったのですけれど、それが日一日と暗い、おそろしい世の中に変わっていきました。そんなころに私ははじめて宮沢賢治の作品にふれたのです。

 草がぼしゃぽしゃはえていたり、青いりんごの色に暮れていく山なみ、むこうの丘に黒ぐろと消えてのこっている松の群、日本の東北の山野のなつかしい草穂が、私の胸をうってせまり、素晴らしい交響楽のゆたかな音のなかにいる時のように、私にはもう外のものはなにもきこないような気がしました。

 ある日のこと「お姉さんは宮沢賢治の話しかしない」と一つ年下の妹が軽蔑をこめて私の話をさえぎりました。それは食事の最中でしたが、私は急に食欲をうしないました。私は家の人と顔をあわす食事どきなど、きまって宮沢賢治の話しかしなかったそうです。宮沢賢治の話がそんなにゾッとすることだとは考えられなかった私には、それはショックなことでした。そして以後、家の中では、私はひそかにその作品を読み返しているだけになりました。

 あんなに命のように大せつだった宮沢賢治も年月がたっていまはもう冷静にみられるようになりましたが、20年の童画家生活のなかで、私はまだ一度もその作品のさしえを描いたことがなかったのです。はじめのうちは彼の作品が素晴らしすぎて手も足もだせないと思っていたのですが、いまこうして童心社からたのまれてみると描きたい気持がむらむらとおきて、そんな謙虚なことはいっていられなくなりました。たいていの人は私と宮沢賢治は異質で(もちろん私のていどがひく過ぎるという意味でしょうが)どうなることかと懸念されるようですけれど、私が若いときから宮沢賢治が好きだったということは、通じるところがあるからだとそこは自信をもちます。私ふうに好きなように描いたので、それが私にはうれしくてなりませんでした。この本は私の大せつな宮沢賢治です。」



『いわさきちひろ作品集7』より-「人生はバス旅行ではない」

2022年05月15日 21時46分13秒 | いわさきちひろさん



(『月刊ほるぷ』1969年8月号ほるぷ出版)

「(これから、どんなお仕事をなさるご予定ですか。)
 
 やっぱり子どもたちのために、いい絵本を描いていきたいということかしら・・・。

 集団教育がさかんになると、たとえば絵本を見て涙ぐんでしまうようなデリケートな子どもは、どうしても無視されがちで、「集団からはみ出した子」として問題児視されたりしsます。それは大変な間違いで、そういう子は集団に入らなくても、いろんなことを見て感じているのですね。松田道雄さんが、”人生は、一生バス旅行じゃあるまい、そういうデリケートな子どもは、将来、世の中を美しくするための仕事をするだろう”と、ある本に書かれていますが、私も本当にそう思います。そして、そういうデリケートな子どもは、案外多いんじゃないのでしょうか。『赤い鳥』の復刻に見られるように、よい本は必ず、長い年月を生きつづけることができるものです。自分が小さいとき読んだ絵本を、結婚するとき、生まれてくる子のために持っていく、というような、そんな絵本をつくっていきたいですね。」