たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『夜と霧』より_生きる意味を問う_続き

2015年06月30日 21時51分56秒 | 本あれこれ
「強制収容所にいたわたしたちにとって、こうしたすべてはけっして現実離れした思弁ではなかった。わたしたちにとってこのように考えることは、たったひとつ残された頼みの綱だった。それは、生き延びる見込みなど皆無のときにわたしたちを絶望から踏みとどまらせる、唯一の考えだったのだ。わたしたちは生きる意味というような素朴な問題からすでに遠く、なにか創造的なことをしてなんらかの目的を実現させようなどとは一切考えていなかった。私たちにとって生きる意味とは、死もまた含む全体としての生きることの意味であって、「生きること」の意味だけに限定されない。苦しむことと死ぬことの意味にも裏づけされた、総体的な生きることの意味だった。この意味を求めて、わたしたちはもがいていた。

 苦しむことはなにかをなしとげること

 苦しむことの意味が明らかになると、わたしたちは収容所生活に横溢(おういつ)していた苦しみを、「抑圧」したり、安手のぎこちない楽観によってごまかすことで軽視し、高(たか)をくくることを拒否した。わたしたちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようとは思わなかった。わたしたちにとって、苦しむことはなにかをなしとげるという性格を帯びていた。詩人のリルケを衝き動かし、「どれだけ苦しみ尽くさねばならないのか!」と叫ばせた、あの苦しむことの性格を帯びていたのだ。リルケは、「やり尽くす」というように、「苦しみ尽くす」と言っている・・・。
 
 わたしたちにとって、「どれだけでも苦しみ尽くさねばならない」ことはあった。ものごとを、つまり横溢(おういつ)する苦しみを直視することは避けられなかった。気持ちが萎え、ときには涙することもあった。だが、涙を恥じることはない。この涙は、苦しむ勇気をもっていることの証(あかし)だからだ。しかし、このことをわかっている人はごく少なく、号泣したことがあると折りにふれて告白するとき、人は決まってばつが悪そうなのだ。

 たとえば、あるときわたしがひとりの仲間に、なぜあなたの飢餓浮腫(ふしゅ)は消えたのでしょうね、とたずねると、仲間はおどけて打ち明けた。
「そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ・・・・」

(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、131- 132頁より)

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今日は月末でした。
新幹線で火災が起きたり、箱根の大涌谷で噴火が起こったりと落ち着かない日でした。
次の場所と出会っていくために動き始めましたが、なかなかにエネルギーが要ります。
心が少し動くものはお金がまったくついてきません。一番の壁。
今日出向いたところは、まったく話にならないぐらいについてこないので、悲しくなってしまいました。人が足りないところは予算がつかないから人を充足できない。人を充足できないところは予算がつかないから人が足りないまま。
なんだか負のスパイラルを感じただけで希望がみえず、すごく悲しい気持ちになってしまいました。涙が出そうなぐらいがっくりきてしまいました。
いつ終わるのかわからないことを続けていくのはきびしいです。
心から休むことがないままなのできついです。
気力が続いていくのか。この日々に終わりがくるという感じが全くしません。
こうして動こうという気力が生まれてきただけ前進ですが、険しい道のりのあとにはまた険しい道のり。想いはいろいろとあれど結局おれてしまいそうな・・・。

「それでも人生にイエスと言う」

『エリザベート』の場面の数々。「わたしだけに」「闇が広がる」

心の中で繰り返しながらの一日でした。


夜と霧 新版
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房

『夜と霧』より_精神の自由

2015年06月29日 14時17分43秒 | 本あれこれ
「では、人間の自由はどこにあるのだ、あたえられた環境条件にたいしてどうふるまうかという。精神の自由はないのか、と。人間は、生物学的、心理学的、社会学的と、なんであれさまざまな制約や条件の産物でしかないというのはほんとうか、すなわち、人間は体質や性質や社会的状況がおりなす偶然の産物以外のなにものでもないのか、と。
そしてとりわけ、人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないのか、このような影響には屈するしかないのか、収容所を支配していた生存「状況では、ほかにどうしようもなかったのか」と。

 こうした疑問にたいしては、経験をふまえ、また理論にてらして答える用意がある。経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の列はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういったことはあったのだ。

 強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟の間で、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。

収容所の日々、いや時々刻々は、内心の決断を迫る状況また状況の連続だった。人間の独自性、つまり精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」被収容者へと焼き直されたほうが身のためだと誘惑する環境の力の前にひざまずいて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するか、という決断だ。

 この究極の観点に立てば、たとえカロリーの乏しい食事や睡眠不足、さらにはさまざまな精神的「コンプレックス」をひきあいにして、あの堕落は典型的な収容所心理だったと正当化できるとしても、それでもなお、いくら強制収容所の被収容者の精神的な反応といっても、やはり一定の身体的、精神的、社会的条件をあたえればおのずとあらわれるもの以上のなにかだったとしないわけにはいかないのだ。そこからは、人間の内面にいったいなにが起こったのか、
収容所はその人間のどんな本性をあらわにしたかが、内心の決断の結果としてまざまざと見えてくる。つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

 かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが怖れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」

 この究極の、そしてけっして失われることのない人間の内なる自由を、収容所におけるふるまいや苦しみや死によって証していたあの殉教者のような人びとを知った者は、ドストエフスキーのこの言葉を繰り返し噛みしめることだろう。その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、と言うことができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。

 そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようがかんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。

 おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖(ぎょうこう)に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。」

(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年、みすず書房、
109-113頁より)
 

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訳者あとがきに、典拠となっている本のドイツ語のタイトルは、『・・・それでも生にしかりと言う』、「心理学者、強制収容所を体験する」というほどの意味だとあります。

ようやく今この本にたどり着いて、心に深く沁みこんでくる、そういう自分でいられることに
感謝したいと思います。妹との突然のお別れによって自責の念に苦しんできた20年近くの日々、そして突然居場所をなくし権力に誹謗中傷されることとなって結果はあまり実らなかった混乱による苦しみの日々。結果はどうであれ、権力との闘いは私自身の尊厳を守るために必要なことだったのだとようやく少し思える。一般的には、早く忘れて、気持ちを切り替えて、と言われる。でも私の中ではそうでない。死力を尽くした、頭のてっぺんから足の先まで全身のエネルギーを振り絞った日々を忘れることはない。妹が背中を押してくれていると信じ続けて、きっとこれでいいんだと信じ続けてがんばった日々。わたしがずっとその場所にいたかったかどうかは別のこととして、自分のために言うべきことをいわないまま引き下げることは
私の中でありえなかった。この苦しみもまたやがて私の体の一部となり、心の糧として生きていくことになるだろう。そう信じ続けて、ようやく一歩踏み出し始めた日々。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、気持ちが上がったり下がったりしながらの日々。次に私を必要としてくれる居場所はあるはずだと信じ続けよう。自分を信じ続けよう。心はいつだって自由でいることができる。世の中捨てもんじゃない、って思えような出会いがあるのかわからなくて不安。信じることしかできない。


夜と霧 新版
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房

『夜と霧』より_生きる意味を問う

2015年06月28日 22時11分15秒 | 本あれこれ
「生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともに、がんばり抜く意識も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人びとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼らが口にするのはきまってこんな言葉だ。「生きていることにもうなんにも期待がもてない」こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。


 ここで必要なのは、生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考え込んだり言語を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく応える義務、生きることが各人に課す課題を果たす責務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

 生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で応えることもできない。ここにいう生きることとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたったの一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。具体的な状況は、あるときは運命をみずから進んで切り拓くことを求め、あるときは人生を味わいながら真価を発揮する機会をあたえ、またあるときは淡々と運命に甘んじることを求める。だがすべての状況はたったの一度、
ふたつとないしかたで現象するのであり、そのたびに問いにたいするたったひとつの、ふたつとない正しい「答え」だけを受け入れる。そしてその答えは、具体的な状況にすでに用意されているのだ。
 
 具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみをひきうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。」


「旧版訳者のことば

 著者ヴィクトール・E・フランクルはウィーンに生まれ、フロイト、アドラーに師事して精神医学を学び、ウィーン画医学医学部神経科教授であり、また同時にウィーン市立病院神経科部長を兼ね、臨床家としてその識見が高く買われているばかりでなく、また同時に理論家として、精神分析学のいわゆる「第三ウィーン学派」として、また独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では知られていた人である。また戦後はアメリカ合衆国およびラテンアメリカ諸国によく招聘され、各地で学術講演をする他に、ジャーナリズムでも精力的に活動していた。

 このような少壮の精神医学者として嘱目され、ウィーンで研究をしていた彼は、美しい妻と二人の子供にめぐまれて、平和な生活が続いていた。しかし、この平和はナチスのオーストリア併合以来破れてしまった。

 なぜならば、彼はユダヤ人であったから。だたそれだけの理由で、彼の一家は他のユダヤ人と共に逮捕され、あの恐るべき集団殺人の組織と機構を持つアウシュヴィッツ等に送られた。そしてここで彼の両親、妻、子供たちは或いはガスで殺され、或いは餓死した。彼だけが、この記録の示すような凄惨な生活を経て、高齢まで生きのびることができたのである。」

(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年 みすず書房、
129-131頁より)

夜と霧 新版
ヴィクトール・E・フランクル
みすず書房

緊張の中で・・・

2015年06月28日 14時01分37秒 | 祈り
先週の金曜日の昼間に書いたものを載せきれていませんでした。
毎回長文ですみません。
よろしかったら読んでください。

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いつも頭の中のコンピュータがフル稼働しているような日々に別れを告げました。ようやく今まで知らなかった世界に一歩踏み出してみようかというエネルギーが生まれてきたので踏み出しみようとしています。すり減った心が十分に回復できているわけではないので、私大丈夫かなってすごく不安です。人はみななぜか大丈夫って言ってくれるのですが、私自身がなかなか大丈夫って思えなくって不安と緊張でいっぱいです。
混乱によってすり減り回復途上にあることは話せないので苦しいところだなあと思います。
今振り返ってみると連日長時間労働の超ハードワークの日々で、どれだけの仕事量を自分がこなしてきたのか思い出すと頭がくらくらしてきます。やれたのは何年も同じ会社にいて勝手がわかっていたからでしょう。
そこを新しく踏み出していくのはやっぱり大変。一歩出せるまでが大変。
でも、あのままハードワークの日々が続いていたら、たぶん体をこわしていましたね。だからこれでよかったんだと思えるような日々が私を待っていると信じたいです。
何年も同じ会社にいるのも苦しいことでした。始まりの頃は余裕があってむしろ楽しかったのに、社会の流れと共にどんどん息苦しくなっていきました。
雇用形態がすごく複雑になっていって、それに伴う膨大な量の書類を連日作成して、人と人との間の仲立ちになって調整をしたりしながら、自分自身も正規雇用ではないのでどこまで本当に自分は安全なのかわからない不安をいつも心の隅っこに抱えながらの日々でした。結果的に自分は安全ではなかったということがわかりました。心のどこかでいつも小さい不信感とまではいわないまでも心配、不安を持ちながらの働き方は健全ではありませんでした。振り返ると完全オーバーワークの日々も含めて苦しいことの連続でした。こんな異常な状況の中でよくやっていたものだとあらためて思います。生活があるので、自分から別れを告げることはとうとうできませんでした。そうしたら残念なことになってしまいました。だからといって自分が一生懸命にやったことを悔やんでしまっては自分が可哀想すぎますね。これはこれだったんだと思います。
楽しいことだってあったし、すごく社会勉強をさせてもらいました。
ただ冷静に振り返ってみて、吐き気がしそうなほどに大変でした。
インフルエンザにかかって、タミフルをのみきったらあとはまだ熱があってフラフラでもおでこに冷えピタを貼って会社に行き、トイレで吐きながらも仕事をしたこともありました。他にも具合が悪くなったことがなんどかあります。
他に人がいなかったので仕方ありませんでした。私の責任感でした。そんな思いまでしてやってきたのに、正規雇用ではなかったために終わるとき
全てゼロになりました。何もなかったのと同じことになってしまいました。
その悔しさを鎮めて回復していくためには、ちょっと無理しても新しい場所をみつけて行くことが必要なのかな。新しい場所に行ってみて、私自身がどう感じるかが大事だというアドバイスをもらっています。私の心が動くような場所との出会いが待っているでしょうか。緊張しています。

先日書き切れませんでした。20年前の私と出会い直します。
すでに他界した両親への批判をしている記述があります。必ずしも適切ではない表現もありますが、そのまま書きます。妹とのお別れを受け入れずにもがいていた20年前の私が書いたこととして読んでいただければと思います。そんな私が今こうして今も生かされている。なぜだかわからないけれど妹の分まで生きるという役割を与えられているのだと思いながら日々を生きています。

「1995年11月12日(日)

寒くなってきた。まだ風邪をひいたままなのか、空調が悪くてすっかりのどをやられてるし、なんだか身体がだるかったり、今ひとつの調子だ。通勤だけで疲れるし、さっさと寝ればいいものをねつけないとこわいのでぼうっと起きていたり・・・。
以前ほどには無理が効かなくなっている自分にはがゆいものを感じないではいられない。最近は疲れてしまうことの方が、無理を越えてさっさと帰りたいと思ったり・・・いいのか、悪いのか・・・。
昨日はすごーく久し振りの(大学の通信教育の)試験を終えて、なんにもしたくないので、ぼんやりしている。単位になるといいな。
ほんとに勉強も自分へのプレッシャーというよりはもっと楽しめるといいのに・・・。
ひとりでいると、いろんなものが頭の中をぐるぐるとまわってしまう。疲れるんだからよせばいいのに、ことばを組み立てはないではいられないのだ。
まだまだ青くさいね。未熟だね。
どんどん自分に自信がなくなっていって、何者なのかみえなくなってしまう。
とろいわたしっていう意識。どこにいっても人に対して自信がない。口下手コンプレックス。新しいことにも、人にも慣れていくのにうんと時間がかかってしまう。こんなことでこれからもずっと社会生活を営んでいけるのだろうか。
自分なりにがんばろう、なんとかなるサって思うといつも思い浮かぶのは父と母の顔・・・。あの二人の子どもであることが恐ろしいのだ。
もう帰ってこないMちゃん、大バカヤローと思ってしまうのだ。
子供の苦しみを知っているのかよ、と思ってしまうのだ。
もっときちんと責任をもってほしかった。親なら、子供がひとりで歩く
力をもてるように導いてほしかった。人と接していくことを、ちゃんとおしえてほしかった。こんなふうに今だに人と付き合えないなんてどうかしてるよ。
閉鎖的なのはもういやだよ。
わたしはおそまきながら気づくことができたからいいけど、気づかないまま
自分で自分を追いつめて逝ってしまった妹。親なら、親なら責任をもってほしかった。やることがズレてるよ。肝心なことがわかってないよ。
枝葉末節にばっかりとらわれてないで、大事なことをおしえてほしかった。
自分の親のようにはなりたくないと思っている自分が恐ろしい。あんな家族のこと、だれにも言えないよ。ほんとは人が好きなくせに新しい人間関係を求めているのに、臆病になってしまう。
わたしは、なにに縛られているのだろう。
もっと楽になりたい。解き放たれたい。父と母に似ていることに気づく度に
たまらなくいやになる。
もっと、自然に気負わないで生きたい。
ほんとにほんとにわけがわからなくなってしまう。
ほんとは割り切るなんていやなんだ。いやだけどそうしないと自分がつらいからそうしてるんだ、なんて思ってることを純粋というのだろうか。
ただ、自分で自分を追いつめ、閉鎖的になることだけはよそう。
考え込んでばかりではつまらない。希望を捨てないでサ、心の扉をあける
努力を続けよう。
また、カウンセリングの先生にお話をきいてもらえば少し楽になると思う。」

20年前の私でした。
なぜ妹が逝って私が生き残っているのか、その答えはどこにもなかったです。
まだ実感がないけれど父も母もお星さまになりました。
私に与えられた時間を一生懸命に生きるのみです。

『Rudolf THE LAST KISS』(2)

2015年06月27日 22時22分30秒 | ミュージカル・舞台・映画
「ルドルフの生まれたオーストリア帝国をさして、「ドナウ帝国」という呼び名がある。帝国の都ウィーンが位置するのもドナウ河の畔ならば、帝国が支配していたのもドナウ河流域の様々な地域だった。

 現在の国名を挙げただけでも以下のようになる。スロヴァキア、ハンガリー、クロアチア、
セルビア、ブルガリア、ルーマニア、モルドヴァ、ウクライナ。今でもウィーンを出発して終着駅の黒海にまで至るドナウ・クルーズがあるが、一週間あまりもかかる長旅だ。しかもその昔、オーストリア帝国の領土はチェコ、ポーランド、スロヴァニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、イタリア等にまで及んでいたのだから、ため息が出てしまう。

 つまりは、いわゆる「多民族国家」という国家形態だ。言語や文化を異にする様々な民族が、強大な支配者の下に結びあわされた恰好で、中世や近世のヨーロッパでは珍しくなかった。また「強大な支配者」とはいっても、実質的な統治力の持ち主というよりは、精神的な権威という側面の方が強かった。国が大きくなればなるほどその隅々まで支配できるわけもなく、結局ある程度は各地方に任せざるを得ないのが実情だった。

 ところが19世紀にもなると、多民族国家は時代遅れの産物と見なされるようになる。近代のヨーロッパでは、一民族・一言語・一文化を標榜する「国民国家」が新時代の政治体制として大手を振るい始めた。あるいはそれに触発され、今だ国家を持てずにいる民族は、旧来の支配体制を脱して自分たちで国家を作ろうと運動を起こした。そしてこの民族運動がもっとも盛んになった場所こそ、オーストリア帝国に他ならなかった。

 こうした状況を前に、オーストリア帝国はどうしたか。19世紀半ば以降、皇帝の地位にあったフランツ・ヨーゼフは、アメとムチの作戦に出る。ムチとは民族運動の弾圧、ただしこれはあくまで一時的処置であり、ことを根本的に解決できるわけではなかった。弾圧された民族の恨みは倍増し、さらにはオーストリア帝国の弱体化を秘かに目論む他のヨーロッパ列強が彼らの背後で暗躍すれば、事態はいっそう悪化しかねない。

 ではアメとは何かといえば、各民族の言い分を聞くことだった。ただしあまりにも甘い顔をすると、帝国そのものの統治が機能不全に陥り、各地で新たな国家が誕生しかねない。また一つの民族を優遇しすぎると、他の民族から文句が出てくる。・・・といった具合に、19世紀半ば以降のオーストリア帝国は、いずれ倒壊しかねない家屋のような状況を呈していた。少なくとも帝国の維持を願うならば、皇帝といえども下手に手出しできなかったのである。その最中の1858年に生を受けたのが、ルドルフだった。」

(2012年公演プログラムより引用。)

 

 エリザベートは登場しないこの舞台のプログラムをこうして読んでみると、マリーは登場しない『エリザベート』で描かれているのはこういうことなのか、と理解が深まるところがあったり、でもルドルフの描かれ方は少し違っているのかなと思ったり。2012年と2015年の現在とでは、世界も日本も、そして私自身も状況が違っていて、たかが三年、されど三年という感じがしています。

フランツとルドルフの対立、ルドルフとステファニーのすれ違い、ルドルフとマリーとの心の通い合い。逃げ場を求めてルドルフがウィーンの酒場で遊びにふける場面、ルドルフが苛立って煙草を吸う場面など、ひとつひとつがおもかったなという印象が残っています。

一幕の終わりは、マリーに背中を押されたルドルフが、世界を変えられるような大きな夢にあふれている希望のある場面だったと思います。
二幕はルドルフとマリーを囲む燭台の灯がひとつひとつ消えていって、二発の銃声が鳴り響くという終わり方だったと思います。

同じこと書いていますが、やっぱり切なすぎて、生きていてほしかったというのが素直な思い。もし彼が生きていたら今世界はどうなっていたでしょうね。
私が自ら人生のピリオドを決めてしまったことを否定するのは、妹の死を否定することになってしまいますが生きていてほしかった。

一生懸命に生きた、熱い命が伝わってくる舞台だったと思います。


カーテンコールで井上さんの、はっ、という掛け声と共にキャスト全員が、そろって客席に向かって歩いて頭を下げてくださいました。
初舞台は大学生だった井上さんが、帝国劇中を背負うまでに成長された姿は感慨深かったです。


生きるってむずかしい。
あっちにうろうろ、こっちにうろうろ、試行錯誤と手探りの連続。
ルドルフが生きた時代も今も変わることなく時間は流れていきます。
悠久の時の流れの中で与えられた命を生きていく。
みんな一人一人大切な命。
その命を生きていくということは、とりとめもなく大変なことなのだとあらためて思うこの頃です。




(写真はげきぴあからの転用で、2012年7月16日のトークショーの様子。)









 

雨の夜のつぶやき

2015年06月26日 23時44分25秒 | 日記
すり減った心が回復して落ち着いてきているのかなと思いましたが、
やはり怒りと悔しさのマグマが消化しきれていないうちはどうしようもないのだと
わかりました。
むずかしいです。
がんばろう、がんばろうとしてきましたが、自分の生活を守ることは
もう無理なのかもしれません。

雨の夜のつぶやきでした。
観劇日記は、またあす以降書きたいです。

『Rudolf THE LAST KISS』

2015年06月23日 22時45分34秒 | ミュージカル・舞台・映画

2012年7月28日(土)、帝国劇場で観劇しました。

 ルドルフ(オーストリア皇太子):井上芳雄
 マリー(男爵令嬢):和音美桜
 ステファニー(皇太子妃):吉沢梨絵
 ターフェ(オーストリア首相):坂元健児
 ラリッシュ(伯爵夫人):一路真輝
 フランツ・ヨーゼフ(オーストリア皇帝):村井國夫


手帳をみると、青山のカフェで開かれていた吉村さんの「フランスの美しい村」の写真展」に立ち寄った後、17時30分開演の舞台に行きました。
暗い内容だけど、熱い舞台だったと感想を書いています。

5月と6月に『エリザベート』が上演されたあとでした。
『エリザベート』でルドルフを演じた三人(平方さん、古川さん、大野さん)と
初代ルドルフの井上さんとのトークイベントがあったりで、盛り上がって
いた頃でした。トークイベントの動画をみると、井上さんが初舞台から干支が一回りしましたと話されていて、あっという間にそんなにたってしまったの、っていう感じでした。

『エリザベート』を観に行った際に、帝劇の地下の楽屋入り口付近で
井上さんをお見かけしたことがあります。
腰を低くして、前かがみになって、ファンの女性の方に背の高さを合わせて
話をされていた姿が印象に残っています。

平日は職場の長時間労働となによりも言葉にいいようのないストレスが
体がよじれてしまいそうな感じでつらくてたまらない頃でした。
(今その頃のつらさを思い出すといっそうつらくなります。)
土曜日に東京に出るのはつらいかなと迷いながら、
『エリザベート』からの流れで観劇しました。

井上さんの舞台を観るのは、2000年のルドルフ以来だったと思います。
休業されていた一路さんの歌を聴くのも何年ぶりだろうという感じで、
なんだか懐かしい人にあったような気分でした。
私が仕事をしながら通信教育で大学を卒業し、そのあともなにかと勉強を
続けたりの超ハードな日々を送り、観劇からすっかり遠ざかっていた間に、
井上さんはミュージカル界をけん引するプリンスに成長されていました。

ハプスブルク帝国の力に翳りが見え始め、悲しい結末を暗示するかのように、
華やかなブルク劇場の皇帝がいる前で一人の女性が引き金を引いて自殺してしまう場面から、舞台は始まったと思います。
この女性を演じられていたのはどなたなのかな。
アンサンブルの皆さんの歌とダンスがすばらしかったことを思い出します。

二つの銃声が鳴り響いて幕が下りるラストはやりきれなくて、なかなか
肯定することはできないかなと思いました。
ルドルフが生きていたら、世界はちがっていたのではないだろうか、もったいない、本気でそう思いました。
世界が混沌している現在なおさらそう思います。

中途半端な書き方ですが、今日はここまでにします。


写真はげきぴあからの転用です。


6月の空の下での徒然

2015年06月23日 13時56分20秒 | 祈り
昨日は夏至だったんですね。一年で一番昼間が長い日。
今日からまた少しずつ短くなっていくのはほっとします。
夕暮れの陽が沈んで行く頃に部屋に一人でいるのはよくないので、
一度外に出たら、真っ暗になるまで部屋には戻らないことにしています。
人の一日のサイクルの中で、ブルーモウメントの時間が一番気持ちが
沈みがちで部屋にいるのがよくないことは、中井久夫先生の本にもたしか
書かれていたと思います。
陽が短くなっていけば、部屋に戻る時間も早くなっていくので、
そういう意味でほっとしています。
去年の今頃はかなり辛かったことを思い出します。
朝から荷物をもって放浪して、股関節を痛めてしまって、
なんだかどん底でした。
それから一年が過ぎ、もう混乱は終わったのだから早く抜け出して
次のことを考えなさいと人から言われても、
そんなに簡単に抜け出せない。
どうやって抜け出せばいいのか、
安心して相談できるところもないまま、
今だにぐるぐると回っています。
自分のしてきたことは無駄ではないと思いたかったのに、
社会の流れは逆行しているのでなんだか言葉がみつからずに、
どう位置づければいいのか
やっぱりわからないまま時間は過ぎています。
話が大きすぎるのでむずかしいです。
自分の無力さを感じるばかりです。
いろいろと思いはあれど、私が今思いのあることは、家賃を払って
自分を食わせていかなければならない者にはやれないことばかりなので、
所詮自分には無理なんだとあきらめのような気持ちをもってしまって
います。
遠からずフルタイムでの社会復帰を目指していくしかないので、
平日の当事者の会には行けないですね。
行政がやっているので、どうしても平日の、しかも午前中だったりします。
むずかしいところです。

一人で考え込み始めてしまうと、自分は社会のどこからも必要とされて
いない存在なんだと、どんどん惨めに思えてきてしまいます。
自分はやり切った、無駄ではなかったと言い切ることができずに
もやもやしているのでなおさらです。
妹はこうやって、もっともっと強く自分を追い詰めていってしまったのかな。
私にはわからないですね。私がそこまでいくことはないはずですね。
ふっと瞬間的によぎったりすることが何度もありますが、私にはあり得ないと
思います。
妹の死を否定するわけではないけれど、私にはあり得ない。
シシィが歌っているように、「生きてさえいれば♪」です。

私は、私に与えられた時間を生き抜いていく。
ここまで生かされていることに感謝しながら、ここまで生き抜いてきた
自分をほめてあげながら、生き抜いていく。
妹の分まで生き抜いていくこと。それが私の役割。
そこがぶれないかぎり、私は大丈夫なんだと言い聞かせます。

花總さんのブログをのぞくと、麻路さきさんと息子さんとのスリーショットのお写真が。
星組の男役で背が高くて男前だった麻路さんよりも、いつの間にか、
息子さんの方が背が高くなっていてびっくり。
麻路さんは憧れの男役さんのひとりでした。
花總さんが書かれているように、時の流れは恐ろしいです。
たしか東宝の『エリザベート』初演の頃に生まれた息子さんなんですよね。

その間私は何をしてきたんだろうなんて思ってしまってはいけないですね。
妹と母のことを受け入れられる自分になりたい一心で、一生懸命に生きてきたんです。
ただ、雇用形態が悪かったために評価されるどころか、権力によって誹謗中傷
される結果となってしまいました。
その悔しさと怒りがまだ深く沈殿していて、自分は間違っていたのかなと
責めたりしています。
悔しいけれど過ぎた時間は戻ってはきません。
まだ取り戻せる、やり直せるだけの時間が私にはあるはずです。
小さな希望の灯りを見つけていきたいですね。
希望の灯りに出会いたいです。
カウンセラーのY先生がおっしゃいました。
「死にたいという話にも希望はある。希望がなければ人の話を聴くことはできない」と。

20年前の自分の日記を振り返るつもりで書き始めましたが、
すっかり長くなってしまいました。
またあらためます。

写真は、6月のプリンス・エドワード島。
遠く遠く、ぐんぐんと雲が流れていきます。
きれいですね。
またいつか行きたい。生きてさえいればきっと行ける。





『エリザベート』二度目の観劇(2)

2015年06月22日 18時43分19秒 | ミュージカル・舞台・映画
「一人息子のルドルフが死に、末娘のマリー・ヴァレリーがフランツ・サルヴァートルと結婚すると(1890年7月31日)、シシィはこの世にほとんど執着がなくなってしまった。

 1891年10月、コルフ島に念願の別邸アキレイオンが完成したが、ときどき滞在するだけでやがてこれにも飽き、
売り払ってしまおうなどと考える。ひんぱんに地中海を周航し、北アフリカにまで足を延ばすのはいいとして、根が人づきあいを避けての旅だから、その姿はいかにもおぼつかなく落ちつきがない。さながら漂白の鴎といった趣きである。

 シシィの晩年(1890年代)は、大部分ウィーン以外の地で過ごされた。ウィーン滞在は年間合計しても二、三週間にしかならなかった。もちろん皇妃としての務めなど一切かえりみず、政治にもすっかり関心を失って、つのるメランコリーに鬱々としていた。

 陸路は専用のお召し列車、海路は帝室の豪華ヨットで彷徨を重ねる。それは逃避行以外の何ものでもなかった。若いころのように敵対する環境から逃れたいのならまだしも、晩年のシシーは自分自身から-魂の不安から-逃れたかったのである。好んで荒海に乗り出し、ずぶぬれになるのもいとわず漂流したのも、そうした不安を鎮めたいという願いの現れだったろう。

 (1898年9月10日)、「皇妃暗殺さる」の報はもちろんヨーロッパじゅうにセンセーションを蒔き起こし、身内に深いショックを与えたが、シシィをよく知る身内は内心ほっとさせられもした。心身ともに衰弱した不幸な女性にとって、死は救いのように思われたからである。
げんにマリー・ヴァレリーは言っている。
「母のかねがね望んでいたことが、やっと到来しました。
あっという間に、苦痛もなく、診察も受けず、不安にさいなまれもせず身まかったのですから」と。

 フランツ・ヨーゼフはシシィ死去の報に愕然とし、マリー・ヴァレリーが駆けつけるとさすがに涙を流したが、決して取り乱しはしなかった。ルドルフが情死したときもそうだったように、ほどなく平静を取りもどし、三日後にはまた執務に打ち込んでいた。だだし、その皇帝にして次のせりふがあった。主席副官パール伯爵にもらしたものであるー
「私がシシィをどれほど愛したか、そなたにはわかるまい」

(マリールイーゼ・フォン・インゲンハイム 西川賢一訳
『ハプスブルクの涙』集英社文庫、1996年発行より)


ルドルフの棺にすがりながら、トートの姿をみたシシィは「あげるは命を、死なせて」と頼みますが、トートは「まだ私を愛していない」と拒みます。そして棺の上で、シシィをあざ笑うかのようにのけぞってみせます。トートのひんやり感と頽廃的な感じがかもし出されている感じがします。

ルドルフ亡き後、逃避行の旅を続けるシシィが女官たちに、こっちよさあ早くついていらっしゃいといった感じの仕草をする時の、黒い手袋をした手つきに、なにか人生を急いでいるような鬼気迫る焦燥感が現れていて印象的でした。喪服の上に、黒い扇子と日傘がシシィの服装。

トランクをもった女官たちは、身がもたずにふらふらになりながら必死にシシィについて行こうとすることを現わす振付が流れるようになっていて、みんなで倒れてしまいそうな雰囲気がよく出ていたと思います。

シシィの中に内在化されていた、あがないきれない死への彷徨。それをトートという擬人化した存在として登場させて恋愛物語としているところが『エリザベート』の魅力ですね。

人はだれもみんないつも死と隣り合わせ。死も含めて生なんだと、私自身が家族との突然の別れを三回経験して思います。シシィだけじゃない。みんなそう。この作品の普遍性はそんなところにあるのかな。でも、ビジュアルは少女漫画の世界。やっぱり豪華絢爛な世界に浸りながら観たいですね。


娼婦館のシーンで、マデレーネを演じているのはどなたかなとプログラムをみると可知さんなんですね。大変な役どころだと思います。
女官から民衆、娼婦まで何役もこなされるアンサンブルの方々はすごいです。

狭い舞台装置の上で、だれか落っこちたりしないかなと少し心配しながらの二度目の観劇でした。

現実に戻ってニュースをみれば、社会のカオスに言葉がないこの頃。
足の先から権力に吸い上げられた健康なエネルギーを取り戻して、やりおなすことができるのかな。一カ月後にはもう少し笑顔になれるのかな。
今は全く自信がありません。

今日もまたちょっと気持ちがつらい感じになっていて、自分のことと重ね合わせて書いているので、観劇日記というよりは徒然日記になっているかもしれません。

『夜と霧』を読み始めました。
希望を失わなかった人が生き延びた。
希望が見えなければ前を向いていきていくことはできない。
希望をみつけたいです。


シシィが自分の手で育て多くの時間を共に過ごした末娘のヴァレリーが、幸せな結婚生活を送ったというのは気持ちが救われます。


舞台写真は東宝の公式フェイスブックよりお借りしました。


花總さんシシィの結婚式。手前が尾上さんルキーニ。




城田さんトートと尾上さんルキーニ。





『エリザベート』二度目の観劇からの徒然の

2015年06月21日 21時42分34秒 | ミュージカル・舞台・映画
ハンガリー国王の戴冠式を終えたフランツとシシィを乗せた馬車の手綱を
トートが引いている。民衆が讃えているのはシシィで、フランツの表情は
客席からはほとんど見えない、というのが今までの演出でした。
今回は抽象的になり、馬車は登場しません。
皇帝夫妻を乗せた舞台装置の棺が回転して、馬の引くための鞭をもった
トートが登場し、鞭を打つ音で馬車を引いていることを表現しています。
手足の長い井上さんが足を組んで登場してくる姿は舞台に映えます。
こんな美しいトートが待っていてくれるなら、死もこわくないのかも。
宝塚初演の一路さんトートを観た時にそう思ったことを、
井上さんトートを観ながら思い出しました。
妹とのお別れから二年だったので、わたしそんなことを思ったりして
いたことを思い出しました。

一カ月後は城田さんトート初。
井上さんとはかなり雰囲気が違うみたいなので楽しみです。
その間にわたし、新しい小さな一歩を踏み出すことができるでしょうか。
花ちゃんシシィにエネルギーもらって、わたしが本来持っている健康な
心のエネルギーを取り戻すことができているでしょうか。

一年前はほんとうに『レディベス』に助けられました。
弱い立場のわたしを傷つけるために、権力が本気で牙をむいてに
向ってきました。
それに屈するまいと、小さな体の全身のエネルギーをふりしぼって
がんばってしまいました。そのために消耗したエネルギーは半端な
ものではありませんでした。
普通に生活しているだけでそんなものに出会うことがなかった時は
知らなかったですが、牙をむいた権力が放つマイナスエネルギーは
半端なものではありませんでした。
一生懸命にやってきた時間が、意図的な誹謗中傷によって否定され、
心はずたずたになりました。
報われないまま、納得できないまま、わたしのもっている引き出しを
総動員して、それでもここまで回復してくることができました。
起こったことは事実でまだ消化しきれていませんが、忘れることも
目をそらすこともできません。
これからどうわたしの血肉として、生きていくことができるでしょうか。

花ちゃんシシィの歌う自由ということばが、繰り返し頭の中を
巡っています。「自由に行きたい、ジプシーのように」
貴族でありながら自由奔放な生活を送るパパに少女時代の
シシィは憧れます。フランツと結婚したら世界中を旅することが
できると夢みます。
「皇帝に自由などないのだ、皇后にも等しく重荷が待っている」と
言い聞かせるフランツのことばを、16歳のシシィは
わかっていませんでした。
シシィを宮廷の規則でしばろうとする皇太后ゾフィーとの闘いに
勝っても心の中には虚しい風が吹いている。
コルフ島で、亡きパパと再会したシシィは
「パパみたいになれなかった、今からではもうおそすぎる」と、
過ぎた日を思いながら語りかけます。

なんのしがらみもなく、生活の心配もすることなく、なにもかもから解
き放たれて自由になりたいと、シシィでなくても、日常生活を営む
わたしたちも願う瞬間は数限りなくおとずれますね。
もちろん皇后ほどの縛りはわたしたちにはありませんが、
でも同時にほんとうに自由になれたら、わたしたちは逆に不安に
襲われるかもしれません。
好きなことしていいんだよ、やりたいことやれるんだよ、そう言われると、
いろいろと思いはあれど、何からしていいんだかわからなかったりします。
わたしたちはたいていはどこかの集団に属していて、その集団の規則に
沿って動き、集団が決めてくれることをやっているだけのほうが楽だったり
もします。自分で全部決めていかなければならないのはすごくきびしいこと。
帰属集団がなくなってしまうと自分の立ち位置がわからず、社会から
取り残されている感ですごく不安になってしまっているのが、今のわたしです。
あらたな帰属集団を見つけていくことが社会復帰。
でももう危ない集団には近寄りたくないので、できればあらかじめ安全だと
いう確信を持てるところに入りたい。でもそれを見極めるには一度属して
みるしかないんですよね。それをやれるだけのエネルギーが
わたしに戻ってきているでしょうか。
ほんとうはその前に少し心から気ままに過ごしたいです。
権力との闘いにずっと緊張してきたので、心おきなく解き放たれたいです。
でも希望の灯が小さくていいので見える、あたらな帰属集団を見つけないと
不安で心おきなく、自分を解き放ってあげることはできないんですよね。

組織のしがらみというのは、ほんとうに人を縛りつけるとわたしは
感じながら生きてきました。どこらへんで折り合いをつけていくのか、
うまく折り合いをつけられそうな出会いがあるのか。
生きていくことは難しくて、試行錯誤の連続。
年齢が高くなってからの帰属集団の変更はけっこう大変です。
わたしがおかしいと知ってしまったことは全部事実なので、
そのわたしでやれるのでしょうか。
同じようなおかしいことにまた出会ってしまった時に耐えられるだけの
エネルギーが戻ってきているでしょうか。
静まってきてはいますが、まだ怒りと悔しさがフラッシュバックして
しまう機会はたくさんあるのでわかりません。
少なくとも会社という帰属集団は当分おそろしくてだめそうです。
でも会社でなくても、違う意味でやっぱりそれぞれむずかしいんだ
ということもわかってきました。

『エリザベート』から訪問してくださった方には、なんのことかわかならい
ことを書き連ねていて申し訳ないです。
昨日の余韻を持ちながら、今日はフォーウインズのセミナーに参加した
帰り道で、こんなことをつらつらと考えていました。

ようやくプロモーション映像が公開されました。
一ヶ月間繰り返しみてしまいそうです。
励みになります。

(舞台写真は城田さんトートと花總さんシシィ。
 東宝の公式フェイスブックよりお借りしました。)