たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

共に生きる

2014年01月28日 22時59分59秒 | 祈り
心が揺り動かされてきついことはわかっていながら、自死遺族の集いのスタッフ研修に行ってきた。
妹との突然のお別れが自死によるものであった、そこに捉われ続けるのはもうやめようと出かける道すがらの電車のなかでふと思った。なぜだかはわからないが、先に天に召された、神様がそのように導かれた。

病気によるお別れを経験した方々も関わっていることを知って少し驚いた。
大きな喪失体験。それは病気によるお別れでも、事故によるお別れでも、突然のお別れを受けいれていくのはそんなにかんたんなことではない。時間がかかる。
なかなか一般的には理解されないと思うが、忘却ではない、乗り越えるものでもない。共に生きていく。悲しみ、つらさ、苦しみ、尽きぬ色んな思いと共に私はこれからも生きていく。
共に生きることを『御巣鷹山と生きる』から教えていただいた。
父・母・妹-三人の命と共に私はこれからも生きていく。


今の混乱状態にどう決着がつくのかわからないが、どうにもよくわからないのでもう少し、納得できるまでがんばってみよう。
妹の分まで生きるという大切な役割があることを忘れなければきっと大丈夫。守ってくれている。



専門家の研修に行って感じ続けた違和感、その正体がわからない。当事者という立場との距離感が埋まらない。自分にできることがあると思う。発信すべきことがあるはずだ。あせるまい。ゆっくりいけばいい。
無理に素直な気持ちをねじふせようとしたり、フタをしようとがんばる必要なんか全然ない。
企業社会の中でこの姿勢はかなり苦しいが、がんばれわたし、ふんばれわたし。
こんなに一生懸命生きている。胸はって歩いていこうよ。いつも見守られている。


お子さんを亡くされた方々のお話をきかせていただいた。
自分の母を思う。母にとっては自分が産んだ子との突然のお別れ。
大波におそわれて、どんな心の葛藤がおきたのか。
私にはことばにすることができない。身震いしてくる。
たぶん病気になることでしか生きられなかった。それは母自身だけが知っていることで
子供の私にはわからない。
わかるのは、心のなかでたたかい続けながら一生懸命生きてたんだということ。
教えてくれたことをつないでいくのがわたしの役割だと思う。
今は具体的に何をすればいいのかまだわからないが、きっとできることがあるはずだ。
信じ続けよう。きっと導かれる。



『木靴の樹』ストーリー(1990年公開映画パンフレットより)

2014年01月26日 16時27分07秒 | 映画『木靴の樹』
19世紀末。北イタリア。

パティスティは、ドン・カルロ神父のたっての勧めで、息子のムネクを小学校にあがらせる決意をした。「子供を学校にやるなんて聞いたら、みんなが何て言うだろうか・・・?」

 農村は貧しく、パティスティ一家が他の数家族と一緒に小作人として住みこんでいるこの農場の土地、住居、畜舎、道具、そして樹木の一本一本に至るまで、ほとんどすべて地主の所有に属し、小作人があげる収穫の2/3が地主の物となる。

 秋になって最初の霧が出ると、冬支度がはじまる。とうもろこしの計量の日が来ると、けちのフィナールは、例年のように、馬車のひきだしにいっぱい小石をつめこんで計量をごまかした。その年の収穫は豊作だった。地主は蓄音器を買った。

 ルンクの後家さんは、夫に先立たれた後、洗たく女をして6人の子供たちを養っている。牛の世話と耕作は長男のぺピアーノとアンセルモおじいちゃんがうけもち、上の女の子ふたりは村にいって洗たくの注文をうけてくる。ペピーノはまだ15歳だが、力がある。この冬から彼は、トウモロコシ製粉工場の力仕事をつとめ、家計を助けることにした。

 けちのフィナーレが息子のウスティを叱りつけ、つかみあいの親子喧嘩をするのは日常茶飯事で、喧嘩するだけのたいした理由はないのだった。

 ブレナー一家のマッダレーナは、美しい娘だった。紡績工場につとめている彼女は、ある夕方、工場で知り合ったステファノ青年に送られて家路を帰ってくる。これは彼女のひかえめな意志表示である。彼女の両親も、農場の人々も何も言わない。ふたりの交際は、みんなに認められたのである。

→まだ続きます。

春の嵐のように

2014年01月26日 15時34分45秒 | 日記
1月下旬ですが、季節の変わり目が突然やってきかたのように、急にあたたくなり今は春の嵐が吹き荒れています。

私自身も変わり目なのか・・・。

ほんとうの事実関係と自分が納得できるかたちでの決着となるのか、
今週わかるはず。納得できないまま終わるかもしれません。

自分の色々を整理してみると無我夢中でやってきたので、グチャグチャ状態です。
まずは棚卸をきちんとやらなければと思います。

年始早々、自分を否定されるような話が突然降ってきてから、今いろんなおかしいことの狭間で翻弄され状態。
自分はこれからどうなっていくのだろう。

ドライすぎる仕組みについていくことができていません。
すごく苦しいですが、ふんばろうと思います。
それからほんとうに気持ちを切り替えて、新しい一歩へと踏み出していくことになるのだろうと思います。

なんともいいのようのない中途半端な状況なので、中途半端な力のない文章しか書けていません。


新しい一歩へと・・・

2014年01月24日 23時12分57秒 | 日記
年明け早々の大混乱から3週間近くがたち、ようやく今日上と話をして事実関係がわかったようなわからないような・・・。人によって言うことが違うので、すっきりしないがたぶんこういうことだったのだろうという概要はたぶんわかった。
間の会社は結局何もしていないようなので、当事者同士で話を進めるしかない。
おかしな仕組みだが・・・。
どうやら当初私に話をした人はちゃんと理解していなかったようでそれほど極端な話の流れのつもりではなかったようだが、どこで何が起こっているのかわからなかった。
私を否定したわけでも傷つけようということでもなかったようだが、突然降ってわいたことで混乱した、振り回された。
そういうドライなシステムにのっかっていることに変わりはなく、おそかれ早かれこういう時は訪れた。もう少し後になって突然知らされたらもっときつかっただろう。
先方の都合だが私の中でも見切り時だった。
神様が与えてくれた良いタイミングなんだ。

10年以上本当にいろんなことがあった。あり過ぎて退屈する暇がなかった。
すごくがんばってやってきて頼ってくださる方もたくさんいるので、皆さんショックだったり、
惜しんでくださったり、残念だねと言ってくれたり・・・。
私の仕事の質は高かったし、人の二倍も三倍もの量をこなしながら、誰にも言うことなく勉強と両立させてもきた。
私は自信をもって歩いていけばいいんだ。
悔しくないと言えばウソになる。でもどこかで終わりにしなければならなかったし、その時が気がついたら向こうからきていた。

家賃あるので苦しい。
不安だが、複雑な人間関係を構築していかなければならない所はきついが、
私の力を必要としてくれる所があればやってみたい。
人から教えられたりエネルギーもらえたりするような所でやってみたい。

間の会社が何もできていないので、これからどう動くのかまだわからないが、
新しい一歩へと、なにかとっかかりを見つけたい。
勇気をもって踏み出していこうではないか。

プリンス・エドワード島まで、英語喋れないのに1人で行ける私なら、
慶応義塾大学の通信教育を十数年かけて卒業した私なら、
働きながら国家試験に受かった私なら、
きっと大丈夫・・・。

ためこんできたものの整理がまだまだ終わらない。
あせらず行こうではないか・・・。

写真は春のプリンス・エドワード島、銀の森屋敷のリンゴの木です。

考え続ける

2014年01月23日 22時40分33秒 | 日記
ヘンだあと思って、ヘンに蓋をできなくって、自分に嘘をつけない。
表情に出てしまう。
これ以上、無理なんだあとあらためて実感しています。

これからどう生きていけばいいのか考え続けます。

生きていくのってむずかしい。

「どんな闇夜もやがて朝が来る」

希望を持って生きたいですね。

河合隼雄・小川洋子 『生きるとは、自分の物語をつくること』より_西欧一新教の人生観

2014年01月22日 16時26分30秒 | 河合隼雄・小川洋子 『生きるとは、自分の

河合隼雄・小川洋子『生きるとは、自分の物語をつくること』96-98頁より抜粋(平成23年3月1日、新潮文庫)

小川:『源氏物語』のなかにも「物の径」みたいなものが出てきます。

河合:そうですね。物の径なんていうのは実体があるわけじゃない。近代的解釈をすれば、見た人の心の中にあるんです。夕顔の心の中にも、源氏の心の中にも物の径がいて、それが実体化して見えてくるというわけやね。

小川:その物の径が死の世界へ導く水先案内人になっている。でも彼らの暮らしぶりを見ていると、引っ張って行かれるみたいな雰囲気がありますよね。

河合:今はそういうのがない分、大量殺人とか大量の死亡事件とかが起こるわけですよ。昔は何百人もの人が一挙に死ぬなんて、天変地異でもなければなかった。戦さだってほとんど死んでない。

小川:昔は一対一の死ですよね。

河合:ところが今は1人の人間が一度に大勢の人を殺せる。飛行機なら何百人死ぬ。


小川:私は、人が大勢一度に死ぬということに対してどうしても素通りできないものを感じるんです。自分でも理屈がつかないんですが、人が大勢死んだ場所に、つい吸い寄せられて、アウシュビッツにも行きました。去年(2005年)の夏は、御巣鷹山の日航機事故から20年でした。関連本が書店に出たのですが、あの一日朝日新聞がどういうふうに事故を伝えたかというドキュメントの本があったんです。(『日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時』1990年、朝日文庫)。その巻末に、乗客乗員の氏名・年齢・住所、乗っていた目的が、それぞれ一行で書いてありました。今だったらたぶん、個人情報保護法で出せないと思うのですが、それを、一日中でも読んでいられるんです。

河合:いや、そうでしょうね。

小川:そこには何の感情も込められていない。たとえば「何の何某(四十幾つ)、会社員、東京での出張の帰り」というように書いてあるだけなんです。

河合:でもその一行は、全部一つ一つの物語を持っているんですね。

小川:そうなんです。何冊もの本を読んだような気分になりました。

河合:それぞれそれまでの人生の物語がある。亡くなった五百二十人それぞれの物語の終着点が一致して、一緒に命を失ったわけです。昔はこんなことはなかった。なぜ最近は起こるかというと、それは神様がコンピュータを導入したためじゃないかと思いますよ。

小川:神様も技術を進歩させてるわけですね。

河合:ええ、そうとしか考えられないですね。

小川:墜落機に1人で乗っていた小学生の男の子がいました。夏休みに、甲子園に桑田と清原の試合を観に行くというので、お母さんがその子を1人で乗せたんです。

河合:堪りませんね。

小川:そういう事実を、一行一行読んでいくと、抜け出せなくなります。


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一年前のちょうど今ごろ、たまたま本屋さんの平積みの中から手に取った一冊でした。
このあと、わたしはとりつかれたように、美谷島邦子さんが書かれた『御巣鷹山と生きる』(新潮社)、『日航ジャンボ機墜落-朝日新聞の24時』と立てつづけに読むことになります。その時の日記は後日書ければと思いますが、母の一周忌を前に、わたしの心の中の大きな転機となりました。


今を生きる私たちは亡くなった命の重さを真摯に受けとめてつないでいく責任があると思う。
うまくいえないが、目先の利益だけに捉われて動くのもういい加減やめてほしい。
人が人じゃなくなる。悲し過ぎる。

ひとりひとりかけがえのない命。

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『日航ジャンボ機墜落-朝日新聞の24時』297頁より

 事故から三日後の8月15日午後、墜落現場の生存者救出地点の近くで見つかったボイスレコーダーは、次のように機内の会話を記録している。それは操縦不能に陥った日航123便を、何とか立て直そうとする乗務員の32分間に及ぶ苦闘の記録であった。
(ボイスレコーダーは、約30分間のエンドレステープで録音されている。以下の記録のうち・・・は判断不能部分、」””は人口合成音を示す。なおパーサー、スチュワーデスら
客室向けのアナウンスも、録音されている部分を再現したが、地上との交信部分は、一部を除き省略した)


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涙が止まりません。
1人でも多くの方が読まれるといいなと思います。
ようやくこのことを書かせていただきました。

ようやく雨が降りました-

2014年01月22日 11時01分51秒 | 日記
年末からリンパ線にずっと痛みを感じていました。
年明けに歯医者さんに行ったら、歯は大丈夫、その奥のリンパ線では、と言われました。
昨日ようやくかかりつけの内科で話したら、リンパ線は腫れていない、肩こり過ぎだと言われて
笑ってしまいました。

1・5人分、二人分、連日10時間、ずっと働き続けながら勉強もしてきたのですから、疲労が蓄積しているということですね。

急にぱったりと全てが途絶えてしまうとかえってきついので、休みながらボランティアしながら新しい道を探していければいいなあと思っています。
家賃あるので苦しいところですが・・・。そこがいちばんの問題。

まずは来週、書類上の明確化。どうなりますやら・・・。

書きたいことはあふれかえっています。
ぼちぼちといきます。

Now there is a bend in it.
I don,t khow what lies around the bend,
but I,m going to believe that the best does.

『Anne of Green Gables』L.M.MONTGOMERY

少し晴れ-

2014年01月21日 10時56分58秒 | 日記
わたしのことを心配してくださり、ありがとうございます。
自力で確認して、少しわかってきました。
いままでにわかったことが本当に事実ならば、残念ながら事実のようですが
ちょっと吐き気しそうです。
人は完ぺきではないので、わたしにも色々と至らない点はあった。
自ずと人に不快感を与えていたことも多々あっただろうとは思うが、????
これ以上傷つくようなことはもういいなあ。

収入が途絶える大いなる不安と背中あわせですが、母の三回忌を前に、
これからの生き方を模索する時が自ずとやってきたのだと思います。

良い方向に導かれていくように、父・母・妹が見守ってくれていると信じていきたいと思います。

祈り続ける

2014年01月19日 12時14分08秒 | 祈り
「2012年2月某日 18時36分新幹線の駅にて

母が突然逝ってしまったらしい。
クリニックに先ず連絡したら警察か消防を呼んでくれということで警察を呼んだら死因が特定できないということで連れて行ってしまったらしい。それ以上のことは今わからないのでどう受けとめればいいのかもわからない。
統合失調症で向精神薬をのみつづけてきたということはどうなのだろう。
大きく影響しているのだろうか。
あまりにもあっ気なく、突然の幕切れで落ち着かない。
またしても試練の局面だ。
なにをどう考えればいいのかわからないが尊厳は守りたい。
まだ実感がないし、週末であまり眠っていないところへまたもや突然のことなので正直かなりきつい。立ち向かうしかない。」



「2012年2月某日

今日は祝日、友引、外は晴れて陽射しがあるところはあたたかい。こうして今母の通夜を待っている。不思議な感覚だ。あれほど心の負荷をずっと長い間感じ続けて、背負い続けていつ終わるかわからないが後数年続くものと思っていた。急に幕が下りた。
あまりにも突然であっ気なく、どうしていいのかわからない自分がいる。

母にとってどんな人生だったのか。
それは母が引き受けることだ。」



「2012年2月某日

郷里は夕方から雪になった。すごく寒い。
母の葬儀を終えて今新幹線の中。あまりにもあっ気ない突然の幕切れで実感がない。
自分をどうしたらいいのかわからない。
あれほど憎んだり、恨んだり、もがきにもがいてきた日々。
私たち家族のことを結局私はどう受けとめればいいのだろう。
母と妹が教えてくれたことをしっかりと受けとめ、自分を信じてこのまま進むしかない。
それにしてもそれにしても、不意打ちをまたもやくらった。
人に迷惑かけたくない。
病院には行きたくない。
その意志を見事に貫いて逝ってしまった。
最後に少し苦しんだのかもしれない。
顔と手を強く打ちつけたあとがあった。Y君は救急車を呼べばよかったと悔やんで自分を責めている。それでチューブをつながれたりするのは母の本意ではなかったのだろう。あっという間に逝ってしまった。自分が張り切って建てた家で、家にいたいとがんばり続けて本当にそのとおりになって、それでよかったのかもしれない。
やさしい息子に世話してもらって、社会的ストレスを受けることなく過ごして、病気になったことでMちゃんの自死をまともに背負わなくてすんだし、母にとってはよかったのかもしれない。
それは母だけが知っていることだ。母の分は母が背負う。
それが人の一生なんだ。子供として私とY君は真面目にやって逃げなかった。
責任は果たせたと思う。がんばって78年間生きて幸せな人生だったと思いたい。

父の急逝から一年半。
気づいたら両親がいなくなっていた。
子供の頃こんな時がくるなんて考えたことなかった。
親が死んじゃうなんて・・・。

時は過ぎゆく。
やりたいことをやっていこう。
人生は短い。
あっという間だ。」



不意におとずれた母とのお別れから、もうすぐ丸二年になろうとしている。
納骨も終わり、父・母・妹の三人で眠りについているのだが、今だ実感がない。
信じられないというのが正直なところだ。


母に病気の症状が現われるようになった頃、わたしにもきつい言葉の数々が向けられたので
辛かったことを今も体がおぼえている。それは病気がそうさせていたのだと今だから思えるが
その頃は精神医学の知識が皆無でなにがおこったのかわけがわからなかった。
ただこのまま一緒にいては自分がわけわからなくなりそうだ、そんな感じが漠然とだがあった。
だから逃げた。
妹も一緒に連れていくべきだったのか、そう考えるときりがないのでやめよう。


母との最後の会話は前年の11月。
学会が郷里の近くであったので出席するために帰省していた。
お別れする時、「お母ちゃん人に迷惑かけんように一生懸命がんばっとるけど、
最後はたのむね」というものだった。
母のなかで何か予感があったのか・・・。
その時初めて心を病むことの奥深さに気づかされた。
そういうことだったのか。
母は母の世界の中で、毎日一生懸命に生きてきているんだ。
自分はずっと大いなる思い違いをしていたことに気づかされた。


今はただ安らかであれと祈りながら、私が一生懸命に生きる。
きっと転換期なんだ。ずっと迷っていたのが向こうからやってきた。
そう思えばいい。
不安だらけ、心細さとのたたかいだがふんばれ、わたし。
きっと望む方向に自ずと導かれていくと信じよう。信じるしかない。

『東北学/文化と震災からの復興』=5-6回目

2014年01月18日 13時59分21秒 | 東日本大震災
2012年9月29日慶応義塾大学 日吉キャンパス公開講座 
赤坂憲雄「東北学、新たなステージへ」レジメより

民族芸能の背後には、宗教が見え隠れしている。

 あまりに当たり前なことではあるが、伝統的な民俗芸能はみな、地域の神社や寺と結びつき、その祭りや行事の一環として組み込まれ、受け継がれてきたのである。三陸の鹿踊り、剣舞、虎舞などむろん例外ではない。その掲げるテーマは死者への鎮魂・供養、魔除けや厄払い、収穫の祈願と感謝といったものであり、それはまさしく日本人であるわれわれにとっては宗教的な行為そのものではなかったか。宗教をタブーに囲ったうえで、民俗芸能について、その復興について語ることはできないにもかかわらず、いや、だからこそ、明治以降の日本人は習俗/信仰のはざまでアクロバットに演じてきたのではなかったか。その結果として、欧米人からは「無宗教」「無神論」といった蔑みや誹りを受けてきたのである。

それにしても、東日本大震災はわれわれ日本人にたいして、人間がいかにして自然の荒ぶる力に向かい合うべきなのか、という根源的な問いを突き付けている。生や死について深く考えることが求められている。あの南三陸町水戸辺の鹿子踊が、その供養碑に「この世の生きとし生けるものすべての命の供養のために踊りを奉納せよ」と刻まれていたことを思い返すのもいい。おそらく、みちのくに暮らす人々は、生きとし生けるものたち、人間ばかりか鳥獣虫魚さらには草木の類にいたるまで、いや、死者や、神仏・精霊など「眼には見えないものたち」までも含んだ、共生の世界を創ってきたのかもしれない。科学技術や経済力によって、すべての自然災害を防ぐことはできないことを思い知らされた。むしろ、人は自然への畏敬を忘れることなく、新しい人と自然との敬虔なつきあい方を学んでいく必要がある。防災から減災へ。それはたぶん、日本人が受け継いできた芸能や芸術、そして文化のなかに、すでに準備されている思想や哲学のかけらであったにちがいない。

五感や想像力を研ぎ澄ますために、これまでは宗教が突出した役割として果たしてきたが、これからは芸術文化がそのある部分を担うことになるはずだ。芸術が仲立ちとなって、五感や想像力を研ぎ澄ますことによって、「眼にはみえないものたち」の世界とのコミュニケーションをはかりつつ、自然への畏敬の思いを育て、人と自然との関係、あるいは人と世界との関係を新たに紡ぎ直してゆくのである。



それにしても、被災地にはそこかしこに宗教的なるものが転がっていた。
くりかえすが、神憑りの話を弄んでいるのではない。われわれはきっと、二万人近い震災の犠牲者たちとともに、これからの人生をいかに生きていけばいいのか、という問いとは無縁に生きていくことはできない。子どもたちにも伝えねばならない。死者を悼むことは、生き残った者たちにとって何よりも崇高な、かけがえのない仕事であることを。

 東北の民俗芸能の多くが、生きとし生けるものたちすべての命を寿き、供養するために演じられてきたことの、深々とした意味を問い続けたいと思う。「打つも果てるもひとつの命」(「原体剣舞連」)という、宮沢賢治からのメッセージをかたわらに置きながら。
 
 さて、芸術や文化なしに、われわれは豊かな復興や再生を語ることはできない。


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ようやく書き終わりました。
大震災から2年と10カ月、原発事故も起こった複合的な大災害、
私たちはこの大災害から本当に学ぶことができているのだろうか。
目先のことだけに捉われて物事は進んでいないだろうか。
なにか大事な忘れ物をしていることに気づかないまま、違う方向へとどんどん進んではいないだろうか。
生まれ変わっていく大きな転換期なのに、何かが違う。何が違うのかわからないが、何かすごくヘンだという感じがずっと続いている。
何が違うのだろう・・・。
大震災の後の「がんばろう」の大合唱にずっと違和感を感じ続けた。
その正体はなんだろう。