5月27日に三越で開かれていた『モンゴメリと花子の赤毛のアン展』に行ってきました。
モンゴメリさんと村岡花子さんの生い立ちには、色々と共通点があるんですね。
『赤毛のアン』との出会いは、高校生の夏、昭和29年7月20日発行の村岡花子訳『赤毛のアン』(新潮文庫)でした。
原題は、『Anne of Gables』(グリーンゲイブルズ農場のアン)。
『赤毛のアン』と翻訳のタイトルがなったのは、花子さんの娘さんの発案によるものという紹介もありました。
手元にある本を見ると、帯に「フジテレビ系放映中」とあります。テレビアニメで放送されて
いた頃でもあるんですね。
夢中になって、シリーズ10巻を読破し、モンゴメリさんの自叙伝『険しい道』を繰り返し、繰り返し読みました。モンゴメリさんの教員生活を送りながら、詩や小説を書き続ける姿に憧れ続けました。
18歳で銀行に就職してからも海外に行くなど夢のまた夢のようで、いつかプリンス・エドワード島に行きたいと思いながらも全く現実感はありませんでした。
家族の中がざわざわしてくるようになって、いつの間にか『赤毛のアン』は心の奥の方にしまいこまれていきました。
母の病気と妹との突然のお別れ。必死に生きる日々でした。
モンゴメリさんの孫のケイト・マクドナルド・バトラーさんが、モンゴメリさんはうつ病のため睡眠薬の過剰摂取で自殺したと正式に発表したという記事を数年前に雑誌で偶然読みました。この記事を読んだ後、あれほど繰り返し繰り返し読んだ『険しい道』を手放しました。二度と『赤毛のアン』に触れることはないと思いました。
(今手元に持っている『険しい道』は、インターネットの中古販売で購入したもので、高校生の私が読みこんだものは、どなたかが大切にしてくださっていればと思います。)
再会したのは、英会話「『赤毛のアン』への旅」を偶然みたことがきっかけでした。
それから、原書で読むセミナーに参加するようになり今に至ります。
仕事量オーバーワーク状態のきつさもかなり限界に来ていた頃で、振り返ってみると土曜日の午後早めの時間に都心に出るのはきついものがありました。忙しさから申し込んだつもつもりが実は申し込んでいなかったのに、申し込んだつもりで単語帳が届かないと連絡して主催されている方に迷惑かけたこともありました。(今さらですが申し訳なかったです。)
体はきつかったですが、原文を読むことは私の心の糧になっていきました。
心のお休み時間を求めて2009年7月には初めてプリンス・エドワード島への旅にも出ました。大手旅行会社の個人プランを利用して、往復は一人、現地の日本人ガイドさんがお世話をしてくださいました。
この時、モンゴメリさんが『赤毛のアン』と『アンの青春』を書いた家の跡で、ジェニー・マクニールさんにたまたまお会いしました。
(ジェニーさんの夫のジョンさんは、モンゴメリさんを育てた祖父母のひ孫にあたります。
JTBパブリッシング、松本侑子著『赤毛のアンのプリンス・エドワード島紀行』41頁を参照。)
おぼつかない英語で声をかけさせていただいて本当に失礼でしたが、マクニールさんが話してくださった中に、ジャーナルという言葉が繰り返し出てきました。モンゴメリさんはこの家でジャーナルを書いたということを話してくださったのだと思います。そのジャーナルが今回展示されていて、大きな日記帳のことだったとようやくわかりました。マクニールさんは、一緒に写真も撮ってくださいました。
プリンス・エドワード島の穏やかな景色は、ささくれだった心のエネルギーを満たしてくれました。(そろそろ旅日記を載せて行こうと思いながら、なかなかです・・・。)
テレビを処分してしまったので、『花子とアン』のドラマは観たことがありませんが、
オープニングで毎回プリンス・エドワード島の美しい景色が映るとのこと。
そう私に教えてくださる方には、島に行けば本当にそんな美しい景色が広がっていますよ、
と答えています。
気がついたら長くなっていました。
今さらどうでもいいことですが、三越で洋食器販売の仕事をしたことがあります。今回行った三越だったかどうかはよく思い出せませんがたぶんそうだったと思います。妹とのお別れが訪れる前、愚かだった頃のことでした。