たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

少しずつ・・・

2014年05月30日 22時19分58秒 | 卒業論文
やっと金曜日の夜になりましたね。
今週もパソコンを持ち歩きながらさまよってしまいました。
平日の居心地の悪さにまだ慣れません。時間かかりそうです。
人にどう見られているのかなんてどうでもいいことを、ついつい過剰に気にしてしまいます。

昨日は下見としてこんなことがなければ足を踏み入れることはなかったであろう場所に行ってきました。もう少し先に私自身のための本番が待っています。棚卸をしながら、色々と勉強になります。こういう機会を与えられたのだと思うようにします。

どんな結果に落ち着くことが本当に望ましいことなのか、実はまだ私自身がよくわかっていません。わからないまま進んでいきます。


気持ちがほんの少し楽になってきたせいか、胃の痛みがずっと止まらなかったのが少しずつやわらいできました。薬を飲んでいれば大丈夫だとかかりつけの内科の先生が仰るので大丈夫でしょう。


『赤毛のアン』の最終章を思い出します。
「そして道には、いつも曲がり角があり、そのむこうには新しい世界が広がっているのだ!」(集英社文庫、松本侑子訳より)。

きっと無駄なことは一つもないと信じて進んでいきます。

卒業論文の参考資料を整理していると、色々な感情が入り混じっていた自分を思い出してしまい、苦しさもよみがってきたりしてきりがありませんが、また引用してみます。

よろしかったらおつき合いください。



「「OL」とはいったいどのような女性を指すのか。
まず、職業。OLと言えば、一般には事務職従事者をイメージする。「サラリーマンとOL」というふうにサラリーマンの対句として、工場のラインで働くいわゆるブルーカラーの従業員ではなく、オフィスの中で働くホワイトカラーの女子従業員の意に使われることが多い。しかしこの場合、販売や営業職従事者、あるいは研究者や技術者は果たして「OL」なのかどうか。次に職種。1986年の均等法施行以来、幹部候補の総合職社員と、総合職を補助する一般職もしくは事務職社員という職種区分が広く用いられるようになった。
 
 通常、ノンキャリア組の一般職女性をOLと呼ぶが、キャリア組の総合職女性は、果たして「OL」なのかどうか。これと関連することではあるが、階級も問題である。ふつうOLは、肩書きを持たない社員を指すことが多いが、女性の係長、課長、あるいは部長は果たして「OL」なのかどうか。さらに属性、とくに年齢。一般にOLというと若い女性を想像するが、たとえば、50代の女性も「OL」と呼びうるのかどうか。その上、最近では雇用形態の多様化も考慮に入れなければならない。つまり、OLは正社員に限るのだろうか。それとも派遣や契約社員、パートタイムで働く女性も「OL」なのかどうか。
 
 ひとまず「OL」とは、正社員として現在及び将来にわたって管理的責任を持たずに、深い専門的もしくは技術的知識を必要としない一般事務的、もしくは補助的業務を行う女性とする。(略)OLという言葉からは通常若い女性をイメージするが、ここではとくに年齢で制限するようなことはしていない。OLと呼ぶには年をとりすぎている年齢とはいったい何歳のことなのか一致した見解があるわけではなく、また、「若くないOL」、あるいはそのようなOLになる可能性が、OLの生活実感上、非常に大きな意味をもつのではないかと考えるからである。」

(小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』中公新書、1998年発行、7-11頁より抜粋して引用しています。)



「われわれはどんなことも、腕を伸ばすことさえ、自分では始められない。だれも神経や筋肉に命令を与えてそれらを始めるわけではない。そうではなく、運動がひとりでに始まるのだ。われわれの仕事は、その運動に身をゆだねて、これをできるだけうまく遂行することである。だから、われわれはけっして決定はせず、つねに舵をとるだけである。猛りたった馬の首を向けなおす御者のようなものだ。しかし、猛りたつ馬でなければ首を向けなおすことはできない。そして、出発するとはこのことだ。馬は活気づき、走り出す。御者はこの奮起に方向をあたえる。同様にして、船も推進力がなければ舵にしたがうわけにはいかない。要するに、どんなしかたでもいいから出発することが必要なのだ。それから、どこへ行くかを考えればいい。

(アラン著、串田孫一・中村雄二郎訳『幸福論_人生における微笑の役割』白水社、1990年発行、74-76頁_宿命より引用しています。)






雨があがりました

2014年05月27日 10時08分20秒 | 卒業論文
このようなブログへの訪問ありがとうございます。

こうして色々と整理していると、十数年間を精算するには、自分自身の気持ちの中でも
時間がまだまだ必要なんだとあらためて思います。振り返ると色んな思いがあふれてきてしまいます。

本当にいろんなことがありました。
二人分ぐらいの業務量をこなしながら、大学の通信教育の卒業論文執筆、夜間のカウンセリングスクールの受講、精神保健福祉士の国家試験受験のための通信教育(専門学校)、そして試験合格、心の血を流しながら過ごしてきた日々でした。

もうしばらく先に大きな山場が待っています。
そこでどんなことに結実していくのか、見えかけているようでまだ見えてはきません。
私の十数年間は何だったんだろう、ということにおそらくならないだろうという感じが漠然とですがしています。でもまだわかりません。

自分の気持ちの中できちんと精算できないと次に進むことはできないですね。
歯がゆいですが、今は断捨離しながら少しずつ気持ちの整理をしている日々です。

どんな結果になっても一生懸命に働いてきた、仕事の内容はともかく、自分で納得できるように働いてきた、その点において悔いはありません。

平日の居心地の悪さは続いていますが、妹と両親が守っていてくれると信じて今はこのまま進んでいくしかありません。

いろんな方が少しずつ背中を押してくれたり、情報をくれたり、感謝しています。
一生懸命働きながらあちらこちらに種をまいてきたことが、これから少しずつ芽を出してくるでしょうか。出てくると信じ続けます。

誰もが年齢を重ねていきますが、そのことがマイナスになってしまうというのは悲しいものがありますね。特に一般事務職はそうなのか、専門職であっても同じなのかはよくわかりませんが、同じ所に長く働くというのは難しいものだということも、あらためて実感しています。
長くいる間に忘れてしまっていました。


卒業論文の資料からひろってみました。



「若さは、日本社会一般においてのみならず、職場でも女性に積極的な価値をもたらすものであるらしい。若い女性が職場の男性に「ちやほやされる」状態を、ある商社勤務のOLは次のように説明してくれた。

「遊びにお誘いがしょっちゅうかかる。テニス旅行に行ったり、スキーに行ったり。そういうの・・・無理しなくても金曜日には何か予定が入るし。口コミでくるのよ、そういう話が」
 しかしそのような誘いは、入社後何年か経つとこなくなることが多いという。多くの男性社員の注意が、新しく入社した女性たちに向けられるようになるからである。

(略)
 OLたちは、言葉使いなどを通して年功による上下関係を律儀に守っていたが、こと男性との関係については、若いほうが優位に立つ逆上下関係が成り立っていた。すなわち、年次が上のOLを先輩として立てつつも、立てる方も建てられる方も若さに価値が置かれていることを十二分に意識していたのである。若さを尺度とする逆上下関係が、複雑で難しいOL同士の関係をさらに複雑で難しいものにしていたのは言うに及ばない。

 若さという指標でOLを計ろうとすることも、彼女たちが任されている仕事の性質と無関係ではない。OLが担当する仕事が単純で反復的であればあるほど、年を経るごとに身につけることができるさまざまなスキルや経験が意味を持たない。あるテレビドラマの中のベテランOLのセリフに、「40歳過ぎて誰にでもできる仕事をしていると、年をとっていてすみませんと男性みんなにあやまらなければいけないような気になる。自分の席にかわいい女の子が座っていたらってみんなおもっているんだろうなと思う」というようなのがあったが、単純反復作業をしている場合には、若さとか魅力といった要素の比重が大きくなりがちなのであろう。

 (略)
 実際に男性が2、3年の差で新人の女性ほどちやほやするのは、単に男性からみた場合、新人の方が目新しいという要素が大きいらしい。(前述の)銀行マンの説明によれば、
「だって目新しいというのは、あきるじゃん。次にまた自分の知らない人が入ってきたら、今度はこっちはどんなかなって好奇心、持つだろう。そういうのは新しいほうがいいんじゃない」。
 
 なぜ「あきる」のが男性であり、「あきられる」のが女性であるかという大きな問題はあるものの、この見方によれば新人女性がちやほやされるのは、通常考えられているように若い女性ほど魅力的だからというわけでは必ずしもないことになる。むしろ、来る日も来る日も長い時間を共有しなければならない職場環境に原因があると考えることができる。」


(小笠原祐子『OLたちのレジスタンス』中公新書、1998年発行、45-48頁より抜粋して引用しています。)




旅の思い出 _ モントリオールへの旅(1)

2014年05月26日 23時01分52秒 | モントリオールへの旅
2002年のお正月はカナダのモントリオールで迎えました。
年末年始にかけて一週間程、一人で極寒の地に出かけました。
ただ行って帰ってきただけの旅ですが、ささやかな旅日記を載せようと思います。

まだ卒業論文を書く準備の真っ最中だったこともあり、長い休みを使ってしまうのは
どうかなとも思いましたが、職場は、年中人が海外に行ったり、帰ってきたり。
そんな中でずっと留守番していると、自分も時には外に飛び出したくなってしまい、思い切って行ってきました。

航空券だけをJTBに手配してもらい、日本人女性がカナダ人のご主人と二人で経営しているB&Bを自分で予約しました。

気がついたら終わってしまっていた職場に働き始めてまだ6カ月ぐらいの頃でした。
仕事納めの日、朝荷物を持って出勤し、夕方掃除などが済んだあと、そのまま成田空港に向かいました。
そういうことも含めて自分の中で整理をしていきたいと思います。

よろしかったら読んでやってください。


「2001年12月28日

日本時間の19時00分、成田空港出発、エアカナダ、AC0004便、バンクーバー行き

バンクーバー乗り換え、およそ3時間 AC3112便でカナダ時間の23時過ぎにモントリオール着(バンクーバーとの時差は3時間)

taxiでB&Bへ。外は雪景色。
時差ですっかり体がおかしくなってしまった。
エコノミー席の長旅、疲れる。
こちらに入ってからの荷物検査はきびしい。
会社からの直行。
Hardだ。
いい男をみつけてくるなんて大見得をきってしまった。」


モントリオールの空港に着いた時、時計はバンクーバー時間の午後7時のまま。
時差が+3時間あるということを全くわかっていませんでした。
空港の中が暗いのが不思議で、到着してしばらくたってから気がつきました。
広い広いカナダ、今思えば笑ってしまいますが、初めてのカナダ行きで
国内で時差があるということに考えが及んでいませんでした。
日本にいると、国内で時差があるという感覚は全くないですものね。


機内アナウンスがあったのかもしれませんが、聴き取れていなかったですね。
日本-カナダ間は、日本人の乗務員がいるし、機内アナウンスはフランス語・英語・日本語の三ヶ国語で案内がありますが、国内線に乗り換えれば、当然のことながら日本語のアナウンスはありません。
とても緊張していたことを思い出します。

写真は何点かあったのですが、断捨離していて捨ててしまったみたいです。
絵葉書が美しいのでスキャンしてみました。













少し宇宙へ・・・

2014年05月23日 10時41分12秒 | 日記
ずっと今の混乱のことや、気がついたら終わっていた職場のことがぐるぐると頭の中を回っていても疲れてしまいますね。
かといってまだ終わることができず、次の道もみえてこないので、不安な感じで
だらだらと過ごすこともできないでいます。
でも平日が終わったので、緊張から少し解き放たれてしばしほっとしています。


エリザベス一世の若き日々を描いた『レディ・ベス』は、ガリレオが天体観測をする前の時代の物語でした。


2009年秋の慶応義塾大学日吉キャンパス公開講座の資料から少しひろってみました。
テーマが、天文学(天からの文を読み解いてみよう)でした。


「地球に住む私たちが属するのは太陽系の属する天の川銀河で約1000億個の恒星の集団、
近くの銀河にマゼラン銀河、アンドロメダ銀河がある。
銀河団が宇宙。天の川は多数の星が集まった領域である(ガリレオの発見)。

太陽は現在50億歳、太陽の寿命は100億年、私たちの太陽が2倍重かったら、
人類を待たずして太陽は燃え尽きていた。
もしも太陽が2倍重かったら10億年で太陽は燃え尽きていた。(重いほど早く燃え尽きる。)

太陽が地球のまわりを周っている(日周運動)。
日周運動は地球の生物の生命のリズムをつくっている(体内時計)。
地球が太陽のまわりをまわっている(年周運動)。
地球は23.4°傾いてまわっている。
年周運動は季節と暦をつくっている(星座が季節によってちがってみえる。)
もし地球が傾いていなかったら、もし地球が自転していなかったら、夏と冬しかない、
生命は存在できない。」



村山斉著『宇宙は何でできているのか_素粒子物理学で解く宇宙の謎』
(2010年9月30日発行、幻冬舎新書)より引用します。


「地動説を唱えたガリレオ・ガリレイが初めて空に天体望遠鏡を向けたのは、1609年のことでした。昨年(2009年)が「世界天文年」とされたのは、その400周年を記念してのことです。
 
 ガリレオは手製の望遠鏡で、木星の周囲にも地球のまわりを回る月と同じような衛星が4つあることを発見しました。木星のまわりを衛星が回っているなら、地球が太陽のまわりを回っていてもおかしくないーそう考えたことは、のちに彼が天動説を捨てて地動説を唱えた根拠の一つとなりました。その意味でも、400年前にガリレオが空に望遠鏡を向けたのは、人類にとってまさに歴史的な瞬間だったと言えるのです。」


「太陽系は「天の川銀河」の片隅にありますが、この銀河は地球の軌道の約10億倍の大きさ。
さらに天の川銀河はほかの銀河系と一緒に「銀河団」を形成しており、その銀河団は天の川銀河の1000倍程度の規模です。
 もちろん宇宙には、そういう銀河団がほかにもたくさんあります。それらをすべてひっくるめたのが、宇宙です。」


「そもそも「素粒子」とは、読んで字のごとく、物質の「素」となる粒子のことです。
リンゴや人間や富士山や天体といった物質をどんどん細かく分けていき、それがもともと「何でできているのか」を考えるのが、素粒子物理学だと思ってもらえばいいでしょう。
 あらゆる物質が「原子」の集まりであることは、みなさんもご存じでしょう。たとえば「水」という物質は、水素原子と酸素原子が結合してH2Oという「分子」を形づくり、その分子が集まってできています。
 これまでに存在が確認されている原子は118種類(この原子の種類のことを「元素」と呼び、それぞれ質量が異なります)。物質世界の多様性を考えると、元素の数は驚くほど少ないと言えるでしょう。私たちの身の回りに存在するすべての物質は、ある程度までバラバラにすると、必ずそのどれかになるわけです。」


今日は松本侑子さんの『赤毛のアン』を原文で読むセミナーで、第35章「クイーン学院の冬」から読みました。プリンス・エドワード島の美しい風景描写を楽しむことができるのも、太陽の恵みがあればこそ、そんなことを時にはとりとめもなく考えてみるのも考えてみるのもいいかもしれません。

こんな景色も太陽があって、地球が回っていて、四季があればこそですね。
生かされていることに感謝しながら生きるって大切だと思います。
なんだかとりとめもない感じにおつき合いくださり、ありがとうございます。









「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(6)

2014年05月21日 14時30分17秒 | 東日本大震災
「向き合う、ということ Iさん

2014年5月6日からの続き

 家の見学を終えると、安藤さんは船を出してくれた。小さめのボートに、大勢で乗り込む。リアス式の港は小さく見えるが、漕ぎ出すとすぐに視界には大きな海が広がった。小さな浜があるので、そこで泳がせてくれるという。歩いては行けない場所なので、ちょっとしたプライベート・ビーチだ。浜辺に近づくと、地元の海と同じ太平洋側とは思えない程に水が透明で、みんな興奮していた。僕はすぐに船を飛び降りて、海を満喫した。泳ぐには少々寒い気もしたが、気合いの問題だ。安藤さんは特別に、捕って生かしておいたウニを割って食べさせてくれた。頂くと、ウニのおいしさだけが口の中に広がった。表現が妙だが、普段口にするウニは、薬の味がどうしても鼻につく。そういう余計なものがない、本物のウニ、ウニだけの味だった。一度浜辺に上がると、サンダルを忘れたことを後悔した。ちくちくと刺さる。刺さる?浜をよくよく見ると、それは岩ではなく、貝殻が幾重に重なったものであった。貝塚なのか、それとも貝で地層が出来たのか、それにしては殻の形が残っているなと思い、安藤さんに聞くと、この貝の壁は加工した牡蠣の殻を積んで人が作ったものだと教えてくれた。ここ30〰40年程のものだと言う。地震で半分程くずれてしまったとも語ってくれた。半分になっても、高さ3m、横幅はどこまで続いているのかよくわからない、それほどのものである。この海がどれほどのものをもたらしてくれたのか、この海でどれほどの人が生きてきたのか。今は静かで美しい海を見ながら、その壮大さに思いを馳せずにはいられなかった。

 宿に戻る道すがら、安藤さんは自分の仮設住宅も見学させてくれた。仮設住宅はテレビで見た通りの箱上の住居で、風通しがよくないとか、物音が響いてしまうとか、よく聞くことを安藤さんも語っていた。しかし、安藤さんのことばと、実際に足を踏み入れたことからそれらを実感することができた。安藤さんは、君のアパートよりもずっとひどいだろう、と言っていた。一見すると、調度品は大差ないようにも思った。だが壁に触ると安藤さんの言う通りだとわかった。壁が薄い、薄い、危ない。つまり、仮設住宅は僕の思っていたよりずっと、圧倒的に頼りないのである。なんとなく、いや、何もかも弱々しいのだ。さすがに僕のアパートは中で暴れても壊れはしないだろうが、仮設住宅は本気で体当たりすれば壊れてしまいそうだ。いや、多分壊れる。震災の後、早いところで二カ月ぐらいで仮設住宅は整い始めたはずである。仮設住宅は被災した方のひとまずの安息になると、僕はニュースを見て思っていた。良かった良かったと。だがこのとき、余震はまだ大きなものが続いていた。弱々しい仮設住宅の中で余震を耐えるのはどんなにか不安だったろうか、と思わされた。」

(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)

******

まだまだ続きます。

自分を信じて・・・

2014年05月20日 14時33分15秒 | ミュージカル・舞台・映画
詳細を書くことはできませんが、ここまできてようやく少しずつ自分自身に納得、
気持ちが方向転換していけそうな局面に辿り着けたといったところでしょうか。
まだまだ終わりません。
悔しい気持ちや心残りの部分も正直まだあります。
ただ、何が正しいことなのか、何が正義なのか、わけわからなくなってしまいました。


だれもが一度きりの人生で、この世を旅立つ時は自分一人だけです。
生かされているという謙虚な気持ちを忘れて、傲慢になり、自分の立場を守るために、嘘をついたり、弱い立場の人をいたずらに攻撃したり、そんな生き方をしてはいけません。
そんな生き方は、いつか自ずと自分に跳ね返ってくる、漠然とですがそんな気がします。


私には妹の分まで生きるという大切な役割があります。
そのことを忘れずに自分の感性を信じて、自分を大切に生きていきたいと思います。
私にはまだ生き直せるだけの時間があります。
今はまだこれからのことが具体的にみえないけれど、きっと、きっと、大丈夫。
妹が導いてくれると信じつづけます。


自分の中で後ろめたさがあるような、そんな生き方はしたくない。
心から今そう思います。


母とのお別れの後の手帳から。

「2012年4月15日(日)

母の夢をみた。恐ろしい夢だった。
私の中で、母のことをそれほどかんたんには消化できないだろう。
時間が必要だと思う。
もがきにもがき続けてきた日々がある。
どう受け取ればいいのか今はわからない。
ただ、妹も母も私の分を引き受けてくれたのかもしれない。
私の代わりに、悪いものを体にうけてくれたのかもしれない。
そう思うと、私は無駄に生きることはできない。
一生懸命、マジメに生きなければならない。」



心のエネルギー補給に『レディ・ベス』というミュージカルを観ました。
4,000円のB席は残念ながら、すぐ前の人で売り切れとなりました。残念。
私が購入したのは、9,000円の補助席。
S席のすぐ後ろなので見やすくてお買い得でした。

チューダー朝の物語なのに、歌詞がとても身近に感じられ、共感できるものが多かったです。

ガリレオが天体観測をする前の時代
(ガリレオが自作の天体望遠鏡で人類史上初めて月面を観測したのは1609年)、
天動説が唱えられていた時代。
エリザベス一世(1558-1603)が戴冠するまでの若き日々を描いた物語で、恋人としてロビンという架空の人物が登場します。吟遊詩人という設定です。
彼のように自由に生きることは現実にはあり得ませんが、心が自由であることはできます。
ヘンなものに縛られてはいけません。
そんなことや自分を信じることの大切さなど、あれこれと考えながらの観劇でした。
宝塚出身の人もたくさん出演しているし、安定した舞台でした。


しばらく前には『ラブ・ネバー・ダイ』というミュージカルも観ています。
少し先になりますが、またあらためて書いていこうと思います。
舞台は生きもの。
役者がそろって、完成度の高い舞台は心のエネルギーをもらえます。


平方さん、古川さん-フェリペ王子二人のチケットホルダーをもらい、終わってからお見送りイベントもありました。
平方さんフェリペ王子と、ロビンの仲間3人組。
育三郎さんロビンの挨拶もあったし、幸せな時間でした。
こんな時間も必要ですね。
こわれちゃう。


『レディ・ベス』19日(月)の夜の部は、終演後4人のキャストの方々が観客を見送ってくれました。(東宝の公式ツィッターより転用しました。)


『ちひろのことば』より「ゆきのひのたんじょうび」(1972年12月)

2014年05月18日 16時22分51秒 | いわさきちひろさん
「もう秋もふかまってきました。この絵本を武市さんの案でごいっしょに考えだしたのは今年のはじめだったので、ほとんど一年中この本のことを考えて暮らしていたことになります。

 絵を描く時間はたかがしれていますし文章をみんなで考えるのもそうはかかりません。それなのにどことなくこの本のことを考えていたのは、この本を考えていると、なにかほっとして楽しかったからだと思います。他の仕事をすませた後この絵本のゲラ刷りを繰ってみたり、言葉のことを考えているとき、まだ私には、することがあるんだという、生きがいみたいなものを感じていました。

 この世の中にひしめきあって長く暮らしていると、時には疲れてしまい、もういつ死んでもいいと思ったりするのです。まだ年とった母も生きていますし、息子も一人前とはいえないのに「私がいなければいないでなんとかなるでしょう」とこう思うのは、これは私が病気のせいかどこか気弱でさびしくなっているせいでしょう。

 男子が一歩外へ出ると七人の敵がいるそうで、私は女子だからそんなことはないと信じておりましたが、女も一人前になると二、三人の敵はいるようです。本当の敵なら勇ましく立ち向かえるのですが、敵であろうはずのない人がときどき舌を出したり、足をすくったりするので本当に心臓がドキンとして冷や汗をかいてしまいます。

「みんな仲間よ」私は自分の心にいいきかせて、なつかしい、やさしい、人の心のふる里をさがします。絵本の中にそれがちゃんとしまってあるのです。そして私が描きかけている絵本のなかにも。だから、私は一年中頭のどこかでいつも絵本のことを考えているにちがいありません。この“絵本のしあわせ”が、みんなの心にとどくように、もし私が死ぬまでこうして絵本をかきつづけていけたとしたら、それは本当にしあわせなことです。」

(いわさきちひろ『ちひろのことば』講談社、昭和53年11月10日第一刷発行、64-65頁より引用しています。)


20歳前後の実家に暮らし、地方銀行で働いていた頃、
いわさきちひろさんが大好きで、繰り返し繰り返し読みました。
小さな本です。
断捨離するつもりでしが、できそうにありません。
宝物としてもうしばらく大切に持ち続けようと思います。


いわさきちひろ
本名松本知弘。
三人姉妹の長女。東京府立第六高卒。戦後昭和46年共産党に入党。
50年(昭和25)松本善明と結婚。
童画の世界で多くの作品を生み、人々に深い感銘をのこしてきた。
1974年(昭和49)原発性肺ガンのため死去。55歳。


若い頃はわかりませんでしたが、大家族の中で仕事をしながら主婦としての役割も果たされて55歳は早すぎましたね。
私が21歳の頃に自費出版した童話集はちひろさんの命日にちなんで88冊つくりました。


生きていくことは本当に大変でむずかしい。
明日何が起こるか誰にもわかりません。
一日一日精一杯です。


今回の混乱で大きな山場を間近に控えて不安と緊張の中にいます。
「過去のことを考えても仕方ない。今置かれている状況の中で最善を尽くす。」
加入している団体の方の言葉です。私の力になってくれます。
信じて先ずは精算できるようにがんばります。
自分の甘さを悔やんでも仕方ありません。
これからのことに目を向けていこうと思います。
きっとやれることがあるはず。
一人でいると、どうにかなってしまいそうですが、今は我慢の時。


こうしてちひろさんの本を読み返してみると、懐かしい場所に心が帰ったみたいな感じです。しばし休まります。
もう少し落ち着いてきたら、ちひろ美術館に20年ぶりぐらいに行ってみようと思います。











竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』より(2)

2014年05月17日 10時52分50秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
「91年大手金融機関を退職した橋本綾子(27)の場合 「周囲を見ても、意欲的でモノを考える女性ほどやめていくような気がしました。
88年、総合職として採用され、都市開発の企画事業に携わり、金融機関同士の研究会のまとめ役もこなした。米国人の研究者を夫に持ち、明るい元気の良い話ぶりからは、よく言われる「疲れ切って脱落した総合職」の姿はうかがえない。

「仕事では恵まれ、職場も特に悪いわけではなかった。でも、我慢できなかったのは、あの会社が”コブラ村“だったことです」
テレビでインドの村のドキュメンタリーを見た。コブラのたくさん出る村で、毎年かなり多くの死者が出る。が、村人たちは一向に手を打とうとしない。昔からこうだった。コブラは神様の使いだ、仕方がない、とあきらめている。そして、毎年だれかが噛まれて死んでいく。
あ、これはうちの会社だ、と思った。

 夜遅くなっても、上司が帰宅するまでだれも帰らない。仕事がなくても、律儀に待っている。そんな風習は健康に悪い。会社の役に立つわけでもない。ただ、社員の保身と、上司の満足に役立つだけだ。橋本は、何度か直属の課長に改善を進言した。同僚や男性社員にもちかけた。が、だれも乗らなかった。「これまでそうだったから、仕方ない」と言うのである。こうやって長時間労働は保たれ、過労死も出るのだな、と思った。

 そんな組織に、自分の一回しかない人生を全力投球するのが馬鹿らしくなった。それが、退職の最も大きな原因だった、と彼女は分析する。「総合職」一期生の彼女は、その性格ばかりでなく、存在そのものが「改革」の旗手だった。入社後、女性といえば一般職という職場に

「総合職」としてやってきた彼女が、「女性の役割」である朝の掃除当番を引き受けるかどうかは大きな焦点だった。「女性だけが掃除とはおかしな風習だ」とは感じたが、短大卒の先輩社員の希望にしたがって、橋本は当番を引き受けることにした。その結果、橋本は一般職女性たちの支持を集めることができた。女性社員たちが抱く小さな不満を、男性社員に正面きって伝えるパイプ役として、「総合職」の彼女が機能し始めたのである。

「当時の女性社員の立場といったら、明治時代の不平等条約のときの日本みたいでした」。
橋本は、わずか数年前を振り返って苦笑する。制度そのものが女性に不利で、男女は対等の競争ができない状態だった、と言うのだ。「総合職」であっても、女性は外回りができない。渉外はあくまでも「男の仕事」だった。橋本たち総合職は、女性社員も外部と折衝できる仕事につけるよう上司に働きかけた。最初、得意先は驚きを隠さなかった。官公庁や大手企業を担当した同期の女性の中には、「男の人どこ?」と言われた例もあった。しかし、実績ができ、慣れてくると、逆に親しみを持ってくれるケースも増えた。
(略)

 しかし、二年後に入社してきた第二世代「総合職」の動きは、橋本にはつらかった。第一世代の努力で、形の上では、総合職の男女の格差は解消していた。第二世代たちはこの事態を、第一世代の女性たちの結束の成果であるとは知らない。社員間の競争の中で、第一世代の女性を押さえて、自らが優位に立とうとする第二世代の動きが目立ち始めた。
目に見える格差がなくなり、後輩たちは、次の新しい土俵へ向けて男性社会を改革するより、既成の土俵の上で、女性同士の競争に勝ち抜くために男性と手を結ぶことを考え始めたかのように橋本には思えた。

 残業や休日ゴルフなどの会社丸抱えの生活は、家庭と仕事の両立を一方的に迫られる女性たちにとって足かせだ。増える女性総合職の力で、次はその会社機構の改善を、と意気込んでいた橋本は、肩透かしを食った気分になった。

「私の退職は性急すぎたかも。でも、後輩の総合職女性を見ているうちに、コブラ村にいれば、結局は女もコブラ村の気風に染まるしかないんじゃないか、と思えてきたんです。そんな場所のために、人生の貴重な時間を使うのが空しくなってしまったの」
 
「コース別人事管理」の建前の裏にはりついた根強い「性別人事管理」に、川崎は混乱し、白井は絶望し、橋本は会社そのものへの関心を失った。そこに見えたのは、「女には厳しい男の世界から脱落した」総合職の姿ではない。むしろ、男女双方に納得のいく透明度の高い評価の方法を持たず、従来の手法からの脱皮もできないまま「習慣」に頼り続けようとする会社組織の無気力に対する、意欲的な女性たちの根深い軽蔑の感覚のように思えた。」

(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、29‐32頁より抜粋して引用しています。)

青空と緑がまぶしい日に徒然に・・・

2014年05月16日 22時30分17秒 | 日記
いろいろと動きが出てきている分、今までに経験したことがないことの連続で不安と緊張の日々を送っています。
そんな中ですが、自死遺族の会に行きました。
昼間外で手帳に書いたことからそのまま載せてみようと思います。



「大変なことを背負いながら必死に生きている人たちがいる。
疲れた時は休めばいい。
生きていくのは大変。こうすることが絶対に正解というものはどこにもない。
自分で選びとっていくしかない。
どんな思いで逝ったんだろうな。
時々ふと思う。
いのち・生きる・・・考え始めると命題として大きくなり過ぎてしまい、
おわらなくなってしまう。でもそういうことを考える役割を私は与えられている。
空と緑がまぶしい中でこれを書いている。
手紙がきたり、TELがあったり、自分を責め始めれば今も切りがない。やめよう。
私が生きる。それだけだ。
仏さんになった妹と対面した時、自分を責めながら泣いて泣いて泣いてほんとに泣いて、
こんなに涙がでるものかと思うぐらい泣いたことを今もやっぱり思い出す。
それから21年。今こうして私が生きていることが大切なんだと思う。」



企業社会の中でお勤めしていくことに希望を見出せなくなっている私がいます。
社会の仕組みが複雑に難しくなっていくばかりです。
電車の中の光景をみていると、日本は大丈夫なのだろうかと思ってしまいます。
いつからこんなふうになってしまったのか・・・。

これからどうやって生きていけばいいのか、今は本当にわかりません。
きっと導いてくれると漠然とですが信じつづけていくしかないですね。
まずは今の混乱を辛抱し切ろうと思います。
ようやくゴールが見えてきましたが、まだ時間がかかります。
こんな辛抱、普通はできないよという辛抱をし続けています。
きついですが、もうしばらくふんばります。


写真は、春のプリンス・エドワード島、オーエル・コーナー歴史村の赤土と緑です。




竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』より

2014年05月13日 14時43分02秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
「1991年は、一般職の人気の盛り上がりが話題になった年だった。
「総合職」に失望して「一般職」を選んだ女性たちは、それで満足なのだろうか。「男性社会の鋳型に無理やり適応しなくてすむ身の丈に合った仕事」を見つけることができたのだろうか。
 
 都内の大手都市銀行支店で働く三浦弘美(28)は、海外為替を扱う部署で、伝票の処理などを扱う「一般職」だ。(略)彼女のいる支店には、コース別人事制度ができて以来、通算四人の総合職女性が配属され、全員が2-3年で退職していった。

 仕事は、三浦たち一般職女性と全く同じだ。最初の総合職は、国立大学の理科系の学部を卒業した女性だった。事務作業が不得意で、作業中にふと考え込んでしまうため仕事が進まない。(略)

 共通しているのは、どれも極め付けのブランドを卒業していることだった。性格な計算とマニュアルへの忠実さが要求される「一般職」の仕事になぜ大学のブランドが必要なのか、三浦には理解できなかった。
 
 男性総合職の場合、卒業大学が同じだという先輩社員が、飲みに連れ出して悩みを聞き、職場の引き立て役になるが、彼女たちにはそんな支援の手も差し伸べられない。
(略)しかし、年期の入っている三浦たちの方が、能率や生産性では勝っているはずなのに、給料は後輩の総合職の方がはるかに高いというのだ。
 
 86年、四年制の有名私大を卒業し大手商社に就職した井田(26)は、あえて一般職にあたる「事務職」を選んだ。金融・証券界は、幹部候補社員を「総合職」、補助業務を「一般職」と呼ぶことが多いが、多くの商社では、前者を「一般職」、後者を「事務職」と呼ぶ。
 
 大学の会社説明会にやってきた商社の人事担当者は、井田の卒業年次から初めてコース別人事を導入すると説明し、「これからは女性の時代。一般職でも活躍できる」と力説した。
 
 井田が一般職を選んだのは、総合職に不安があったからだ。総合職コースは、長時間労働ですべてを企業に縛られる、との印象があった。結局は、疲れ果て、使い捨てられるのでは、と不安だった。86年。雇用機会均等法が施工された年である。「会社も変わる時代。一般職でも能力を発揮できるのでは」。そんなときめきも覚えて、一般職に応募したのが失敗だった。
 
 入社時には「総合職」採用の同期の男性と同じ額だった給料が、二年目から差がつき始めた。数年たてば、男性の3分の2になると先輩女性から聞かされ、これは合わないぞ、と思い始めた。仕事は男性社員の補助だったが、たまたま残業の多い部署に当たったせいか、帰宅は毎日終電だ。先輩の一般職女性は、30過ぎのベテランなのに、新入社員の男性の補助業務ばかり。一方、彼女の同期の男性たちは次々と昇進していく。上司の中には、有能で尊敬できる人もいないではなかった。しかし多くは、生活面の自立ができておらず、中には銀行のキャッシュカードすら使ったことがない上司もいた。

 「会社の仕事ばかりで、他のことはすべて奥さんに頼んでいるようなんです。会社では、奥さん代わりに、雑用をみんな一般職女性に押しつけてくる。そのために一般職が必要なんじゃないか、と思えるくらいです。」
 
 総合職への転換を申し出た女性の同僚は、上司に露骨に不快な顔をされ、断念した。仕事はいくらやっても補助の域を出ない。面白くなくて当たり前。しかい、責任はないから、楽といえば、楽だ。おもいあまって転職の相談をした井田に、上司は、「この会社に来る人は、女性は男性の補助、という古風な労務慣行が好きで入ってくるんだよ」と言った。
 
 井田の体験談を、大手商社三井物産の一般職女性(23)に取材した際、ぶつけてみた。彼女は、「雑用の多さに嫌気がさすこともあります。でも、やめようか、と思う頃にボーナスがどっさりくるので、ま、もう少しやろうか、という気になって・・・」と明るく答えた。若い男性社員がいる部署では、昼も夜も会社で一緒にいるわけだから結婚の機会もある。結婚すれば仕事をやめられる。いまの職場に、若い男性社員がいないのは計算外だった。しかし、上司は理解がある。コーヒーを一般職に入れさせずに飲みたい人が自分で入れる制度にするなど、職場を改善してくれた。その意味で恵まれていると思う。仕事のあと職場の全員で、お酒を飲みにいったり遊びにいったりするのが彼女の楽しみだ。

 「でも、あまり会社からの注文が多いと、一般職の女に仕事への生きがいだの会社への貢献だの要求する方がおかしい、という気になります。一生懸命やったって同じですから、女は」。

 「将来」が存在しない一般職の女性は、今を陽気に生きる。明るい絶望とでも言える軽やかさがそこにあった。「一生懸命やっても同じかどうか、やってみなければわからないんじゃないの」という私の問いに、彼女はぽつりと答えた。

 「有能で素晴らしい女性先輩もいるんです。その人、子会社で常務になって、新聞にも出たんです。でも、待遇は『事務職』つまり一般職のまま。給料は本社の同年配の総合職男性の半分程度なんですよ」。」

(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、33-38頁より抜粋して引用しています。)