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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

夜桜がきれいですね

2014年03月31日 22時32分36秒 | 日記
小さな体をすり減らすような思いで過ごした13年間と半年余りの日々が今日で終わりました。
「お世話になりました」、「お疲れさまでした」と挨拶を交わす終わり方になりませんでした。だれにも何も言わずに職場を去ってから三週間余り(この間ずっと有給休暇中でした)、
何も変わることはありませんでした。一個人の力ではどうにもなりませんでした。
社会の仕組みが弱い立場の者を守るようになっていないことを思い知らされました。


思い返せば、1.5人分、もしくは2人分労働の日々は、全身黒ずくめの服で武装しないと出社できませんでした。それぐらいきつかった、苦しかった。それでも、私がなんとかやりこなしてしまったので、雇用形態への無理解と上司が入れ替わっていく中で、オーバーワークは見過ごされ続けました。その上に卒業論文を仕上げ、その後も勉強を続けたのですから、本当によくやれたと思います。


これ以上働き続けていたらこわれちゃうよ、って妹が教えてくれたのかもしれません。

まだ終わってはいないので、納得できていないよと主張していくために、失業保険をすぐには申請しません。我慢の時が続きますが、きっと私の力を必要としてくれる所が他にあると信じて、まずはきちんと精算できるようにしたいと思います。どうなるかはわかりません。


荷物整理も少しずつ進めていきたいと思います。


ひとまず、がんばった自分にお疲れさまでした。
そして次へ向けてエネルギーをたくわえていこうと思います。
もう少し先、また東北へも行きたいと思っています。


ピンク色の花びらは、毎年一抹のさみしさを伴って夜空に咲いています。


「近代のはじまりのとき、経済面でいえば資本主義発生の時期に、労働はどういう状態にあったのだろうか、あるいは労働する人間にどのような運命がおそいかかっていたのだろうか。この時代の労働状況を考えることは、その後の労働のありかたを考えるための大切な前提になると思われる。初期近代において労働がこうむった運命はけっしてのんびりしたものではなくて、それどころか反対に相当に過酷なものであった。厳しい労働の経験を通過するなかで、徐々に近代固有の労働が形づくられていく。

 近代労働はなによりも都市的現象である。農村から都市に流入してきた人々は、そのままではまだ到底労働者ではない。彼らは農民の伝統的習性を身につけていた。農村から逃れてきた民衆は、職業を求めて都市に出てきたのだが、そのままでは都市的経済が要求する身体行動を行うことはできなかった。都市の経済は、こうした民衆の農民的身体を商品経済的身体に作り直さなくてはならなかった。そして身体の転換を通して、ゆくゆくは産業経済に適応する労働的身体が作られていくであろう。」

今村仁司著『近代の労働観』(1998年発行、岩波新書、28-29頁より引用しました。)


これからも色々と書いていこうと思います。
よろしければ引き続き訪問してください。






色んな音色があっていい

2014年03月29日 22時35分32秒 | 日記
何かがあったわけではないのに辞めさせられようとしている今回の流れの、どこでどうしていれば正解だったのかはわからない。どうしてもここで社員として働らき続けたいのかと自分に問いかけてみれば弱かった。だから大震災の少し前にその可能性を上司にたずねた時も明確にはしなかった。その直後に震災が起こってかなりブレ始めた。そこに尽きるのかもしれない。
私には苦しすぎた。ただ生活があるので自分から辞めるとは言えなかった。苦しんで苦しんで稼いだお金でプリンス・エドワード島にやっとこさ辿り着いた時の喜び、幸せ感は、苦しかった分何十倍にもふくれあがった。

会社という組織、派遣という仕組みの中で個人の豊かな感性は要らなかった。利益という土壌の上では感性は必要ない。限界だったと思う。人としての感覚をなくした人たちの中にいたことに気づいた。

社会復帰できなくなるのではないかという不安におそわれているが、色んなことがぐちゃぐちゃ状態。精算しないと次に具体的にどこへ向かって進めばいいのかが見えてこない。孤独な苦しい時が続くが辛抱するしかない。

交渉の日程は先延ばしにされている。先ず片付かないと次には進めない。仕方ない。
毎日9時間、10時間働いてきた。それが突然なくなって生活のリズムをどうとっていけばいいのか、正直わからない。

自分を否定するのはやめよう。
色んな音色の人がいていい。
こんな奴もいていいんだ。


*********************

今日の午後外で手帳に書いたことをそのまま書きました。
苦しい今の状況の中では、文章に力がないですね。
震災と両親とのお別れ、大きかったとあらためて思います。


また過去の手帳からも記載します。
長くなりますがよろしかったら読んでください。


「2012年3月20日 晴

今日はお彼岸なんだなあ。
季節の変わり目ごとに家族の法要がやってくる。
もうすぐ50才、笑ってしまうが現実だ。このまま一人で暮らし続けてある日倒れてしまっても
不安だ。母の病気とMちゃんの死、気がつけばずっと心の柱にしてこの20年余りを生きてきた。まだそんな日々は続くのだと思っていた。突然あまりにも不意にピリオドは打たれた。
結婚していない、子供もいない、たった一人の私がいる。これから何をすべきなのか、どこに向かって行くべきなのか、今はわからない。何かすべきことが、できることがあるのではないか。社会の中で与えられた役割があるのではないか。わからない。みえてこない。母の死で思考がちょっとストップ状態。
あせるまい。地震への不安が続いているが、自分を信じてあせるまい。今はまだ大いなる辛抱の時なのだ。自分を信じよう。」


『ウオルト・ディズニーの約束』

2014年03月28日 10時01分35秒 | 日記
メリー・ポピンズ』誕生に隠された感動の実話—

 ウォルト・ディズニー(1901−1966)——“ミッキーマウス”の生みの親にして、
“夢と魔法の王国(ディズニーランド)”の創造主、
そして記録的なアカデミー賞®受賞歴を誇る伝説の映画人。
世界中の誰もが彼の名前や作品を知っているのに、その“真実”を知る者はいない……。

映画製作50周年を経て、いま明かされる『メリー・ポピンズ』誕生秘話。
映画化に向けて情熱を燃やし続けるウォルト・ディズニーにとって唯一にして最大の障害——それは、映画化を頑なに拒む原作者P・L・トラヴァースだった。
誰もが不可能と思ったこの映画製作は、どのような“魔法”で実現できたのか? 
そして、ふたりの間に交わされた“ある約束”とは……? これは、初めてディズニーによる映画制作の裏側を描いた感動のドラマだ。


ストーリィ

「メリー・ポピンズ」映画化を目指すウォルト・ディズニーと、それを阻もうとする原作者のP.L.トラヴァース。ハリウッドにやってきた彼女は、ウォルトたち映画製作者が提案する脚本アイデアをことごとく否定する。なぜ彼女は頑なに「メリー・ポピンズ」を守ろうとするのか? その答えが、幼い頃の彼女と父親の関係にあると知ったウォルトは、映画化実現への最後のチャンスをかけてトラヴァースに“ある約束”をする…。

キャスト

ウォルト・ディズニー:トム・ハンクス
P.L.トラヴァース:エマ・トンプソン
ラルフ:ポール・ジアマッティ
リチャード・シャーマン:ジェイソン・シュワルツマン
ドン・ダグラディ:ブラッドリー・ウィットフォード
マーガレット・ゴフ:ルース・ウィルソン
ロバート・シャーマン:B.J.ノヴァク
エリーおばさん:レイチェル・グリフィス
トミー:キャシー・ベイカー
ドリー:メラニー・パクソン
ギン:ティアニー・ローズ・バックリート
ラヴァース・ゴフ:コリン・ファレル

スタッフ

監督ジョン・リー・ハンコック
脚本ケリー・マーセル&スー・スミス
製作
 アリソン・オーウェン
 イアン・コリー
 フィリップ・ステュワー
製作総指揮 
 ポール・トライビッツ
 クリスティーン・ランガン
 アンドリュー・メイソン
 トロイ・ラム
撮影 ジョン・シュワルツマン
プロダクション・デザイナー マイケル・コレンブリス
編集 マーク・リヴォルシー
衣装デザイナー ダニエル・オーランディ
音楽 トーマス・ニューマン




映画製作の過程に関わりながら幼い頃の父親との関係をたどりなおして苦しむトラヴァース夫人。



この場面で、ウオルト・ディズニーは、自分も幼い頃厳格な父親との関係に苦しんだこと、そして「罪の意識を背負って生きるのはつらすぎる」と苦しむトラヴァース夫人に語ります。

『メリー・ポピンズ』のハリウッドの映画の完成披露試写会に招待状がきていないのに自ら赴いたトラヴァース夫人は、バンクス氏と家族が凧あげをする場面を見ながらさめざめと涙を流します。
観ている私もまた涙がこぼれ落ちていました。

バンクス氏は、銀行員として失敗してアルコール依存症の末に、トラヴァース夫人が幼い頃に亡くなった父親の投影。

初老のトラヴァース夫人は幼い頃の父親との関係をやっと精算することができ、母親が隠したアルコールの瓶をさがして父親に渡してしまった自分の罪をを許すことができたのでしょうか。絶望した母親が湖に入水しようとするのを幼いトラヴァース夫人が引きとめる場面も緊迫感がありドキドキしました。

耳になじんでいる「Let,s Go Fly a Kite」には深い意味が込められていました。
トラヴァース夫人が、『メリー・ポピンズ』で描きたかったのは仕事には失敗したけれど、心優しかった父親。心優しくてお金・お金の銀行員にはなりきれなかった父親。


親との関係はいくつになっても終わらないし、罪悪感はどこかで精算し、何かの形で外に向かって表現しないと次に進むことはできないということでしょうか。本当に自分のために生きることはできないということでしょうか。


昨年9月に初めてアメリカに旅したので、ロサンゼルスを実感しながら観ることもできました。

今回は尻切れとんぼな文章になっています。
またあらためて、もう少し詳しく書ければと思います。


(プログラムを売り切れで買うことができなかったので、写真・本文ともにインターネットから転用しています。)


いつの間にか桜の花が咲き始めていますね

2014年03月26日 14時18分47秒 | 日記
ゆっくりと空を見上げながら歩いていると、いつの間にか桜の花が
開き始めていますね。

状況が中途半端で自分の動きを決めることもできない苦しさををずっと抱えながら過ごしているので、文章にも力がないなあと我ながら思います。

行政の仕組みは弱過ぎてどうにもならなかったので団体に交渉を委ねました。
そこでどうにもならなかったら、あとは訴えるしかありません。
今の日本の法律の中では、こういう時本当に真実を知ろうとしたら裁判を起こす以外
方法はないそうです。それだけ労働者は守られていないということがよくわかりました。

弁護士さんにも会いましたが、裁判となると茨の道が待っています。
そこまでエネルギーを維持し続けていくのは容易なことではありません。
事故による訴訟のニュースを今まで何気なく新聞やインターネットで目にしてきましたが、
それがいかに大変なことか、今回よくわかりました。
大きな事故ともなれば本当にそれははかり知れない膨大な時間とエネルギーが必要ですね。
もちろん費用もかかります。

自分の中にある、人を大切にしない組織、仕組みへの怒りを食いながらずっとがんばってきました。その怒りが327頁に及ぶ卒業論文を私に書かせました。
振り返ってみると卒業論文の仕上げに入っていた2001年夏ごろから私のオーバーワークは始まり、2010年夏まで7年間にわたって派遣という仕組みの中で見過ごされ続けました。
このあたりのことを以前一度ブログに書いて削除してしまったので、あらためてまた追記していこうと思っています。
本当にぐらぐらしてしまっています。


怒りを感じながらも、大好きなプリンス・エドワード島に行くために働く、旅に出るために働く、そんな生き方もありかなと思いながら振り返ってみると、とりわけ震災の1年後に訪れた母との突然のお別れの後のわたしは本当にこれでいいのだろうかと揺れ続けてきました。

手帳にこんなふうに書いています。

「2012年4月22日

『赤毛のアン』を原文で読むセミナーに参加。第5章、「アンの生い立ち」を読む。幼い頃、誰にも愛されなかったモンゴメリ自身の淋しさが投影されているようで痛々しく、心が揺さぶられる場面を読んだ。涙がにじんでしまう。
原語で読むとリアル感が違う。アンはなんと愛情に飢えていたことだろう。痛々しい、本当に。
昨夜もヘンテコな夢をみてうなされていたようが気がする。起きると胃が痛くって仕方ない。早寝しないと本当の壊れてしまうだろう。なんだか落ち着かなくってすごく疲れる。救急車の走って行く音をきくたびに、ああ今この時どこかで困っている人がいるんだな、私に手伝えることはないだろうか、と思う。震災後、自死へと誘い込まされてしまう人がたくさんいるときけば、私にできることがあるのではないかと思ってしまう。でも、現実の私は自分の小さなことに囚われていて何もできていない。どこに進んでいけばいいのかわからないままだ。
私の感性では理解できない、すごく変ちくりんな仕組みの中、私はこれ以上耐えられないだろう。だましだまし、また一週間なんとかしのいでいくしかない。
いたずらに消耗するような日々を送っているのは私だけではないだろう。
心の中にはアンがいる。苦悩の日々を生きたモンゴメリさんの深い思いの中から生まれたアン。
年をとった今だからこそ味わうことができる。
身の回りをすっきりと整理してPEIに行きたい。そしてあらたに文章を書き始めたい。
その前にこわれないようにしないと・・・。
不安を抱えながらの一週間がまた始まった。」


13年間一生懸命働いてきたことがなんらかのかたちで報われるのかどうか、今のところまだわかりません。
報われなくても、一生懸命働いてきた事実が変わるわけではないので決着したら、体を休ませながら次へと手探りしていこうと思います。ずっと己に鞭打って無理に無理を重ねてきた疲れが今はきています。

ネガティブな感情を表現することが許されない社会の息苦しさをあらためて感じました。
これからどこでどう生きていけばいいのか、今はわかりません。
組織という枠はもうきつい・・・。

もう少し先に卒業論文も書いていこうかと思っています。
どんどんわかりづらいブログなってしまっているかもしれませんが、よろしければまた訪問してください。


春のプリンス・エドワード島からまた一枚。
車の中から撮っているのですが、やっぱりきれいですね。
またいつか行きたいです。
今度はモントリオールかハリファックスも合わせて訪れたいです。
(モントリオールは2001年の冬に一度行きました。)






秋のプリンス・エドワード島への旅_5日目(2)

2014年03月24日 21時40分57秒 | プリンスエドワード島への旅
2012年10月17日(水)キングス地区

イースト・ポイントから南側の海沿いに走り始めると景色は変わる。
海はキラキラ、あたたかく輝いている。
入江は全部輝く湖水だ。
紅葉は見事だし、可愛い家が切れ切れに目に飛び込んでくるし、天気がいいのでカラフルな洗濯物がはためいていた。(干すヒモも合理的にできているそうだ。)
道端のポストも個性があるし、スクールバスが通ったり、前を走る車がイスを落としたり、天気がいいのでトラクターが通っていたり、なんとも楽しい、素晴らしい、としか言いようがない。
ジャガイモを収穫して乗せた車は赤い色。

スーリでお昼、おそめ。
新しいお店でおいしいらしいが、地元の漁師さん達が行く所のようで、
入った瞬間すごい視線を感じる。
期待どおりのすごいボリュームだ。
半分は持ち帰って夕食にした。

食事後、ジョージタウンに立ち寄ってくれた。
赤味がかった砂浜。うたう砂(=sing sands)といって歩くたびに音がするそうだが、
寒さと風のせいかよくわからなかった。
三つの水の流れがある場所、という説明だった。
赤いがけが半分くずれ落ちて松の木の根っこが横向きになっている。
それでも生えているのだからすごいもんだ。
赤い岸壁、ほんとに赤い。

少し時間に余裕があるので、シャーロットタウンの手前、10分ぐらいの所にある
ドライバーのRさんの家(どこまで本当かわからないが自分で作ったそうだ)に寄って、
トイレを借りることになった。
冬を前にして薪の準備中。
奥さんがすごく人なつっこい。
あったかい笑顔で迎えてくれる。家の中は可愛らしく整えられている。
家族の写真をみながら説明してくれる英語を、全部ではないが聞きとれた。
ほんとに普通のスピードなので、私には簡単ではない。

居間からサンセットが眺められるロケーションでなんとも羨ましい。
同じ生きている時間なのに、人生すごく違うなあ。
なんと穏やかなことか。

16時過ぎ、ヘリテージ着。
迷ったが、キャベンディッシュ・ビーチのサンセットツアーを追加で申し込んだ。
ドライバーさんだけでいい。
Rさんがあいているので、17時半に宿に迎えに来てもらって行くことになった。

224号線を走ってくれていた。
最もPEIらしい、アップダウンの繰り返しのルート。
車窓からの景色もほんとにきれいで、紅葉を楽しめた。

18時10分、ビーチ着。
陽が沈んでいく。少しずつ暗くなっていく。
太陽は夏のように海には沈まない。
丘に沈んでいったが、橙色の夕陽に照らされた赤い岸壁、移り行く雲の形、色が素晴らしい。
すごく冷たい風に吹きっさらし状態で寒いが、幸せ感いっぱい。
すごくきれいなのだ。
完全に暮れてしまうのには時間がかかる。
ほんとにゆっくりと暮れていくので残照がまた素晴らしい。

かなり興奮してしまった。
お喋り好きなRさんの英語は半分ぐらいなんとかわかったかな。
とても楽しいサンセット・ドライブだった。

楽しい一日。
夕食は部屋で、レトルトのスープとお昼の残り半分とリンゴ。
けっこうお腹いっぱいだ。
ようやく晴れてよかった。

ヘリテージ・ハーバー・ハウス 2泊目。





***************

ようやくここまで書くことができました。
キャベンディッシュビーチのサンセットから1枚だけです。

もっとたくさんあるのですが、いろんな意味でぐちゃぐちゃ状態で整理が追いつきません。
落ち着いてあらためてアップしたいと思います。
今日はここまで。
旅日記はまだ続きます。
よろしければ気長に引き続きおつき合いください。

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(1)

2014年03月23日 14時45分04秒 | 東日本大震災
2014年3月22日に出席した「震災から3年_経済と世相」のシンポジウムで、慶応義塾大学の文学部としての取り組みが紹介されました。

荻野安奈先生が書かれた本が縁となって、石巻の安藤さんと言う漁師さんをたずねて、
2013年9月-10月に「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」が行われ、70名の学生さんが参加されました。

その報告書を荻野安奈先生と関根謙先生よりいただき、ブログに掲載することを了承いただきました。(お二人の先生には終わってから声を掛けさせていただきました。)

震災の後、「がんばろう日本」「絆」の掛け声に感じ続けた違和感の正体、その答えが学生さんたちの感性の中にありそうです。
合理性追求の企業社会の中にはその答えは見つかりません。

心静かに引用させていただきたいと思います。

***********************

石巻の記憶に「よき祈よ こもれ」 Tさん

 
 石巻から戻った私の、この記録を書く筆は進まなかった。

 3.11から2年が経過し、私は「がんばろう日本」のフレーズを聞き飽き始めていた。メディアを介して見る「被災地」の姿は、なだらかに整地された土地と綺麗に整えられた緑の芽吹く区画であった。

 しかし、被災地の現状は多くの欺瞞に満ちていた。被災瓦礫はテレビカメラの目の届かない、給分浜(きゅうぶがはま)の入り江に堆く(うずたかく)積み上げられていた。マスコミのカメラの射程内、整地された石巻の中心部には、部外者が建てた「がんばろう石巻」と書かれた大きな看板があった。私はこのハリボテの看板だけを見て、復興は進んでいると思っていた。みせかけのものを信じ、聞こえの良い言葉ばかりに耳を傾けていた自分こそ、この欺瞞に加担している側だったのだということを同時に自覚した。そんな私が何を書くことができるだろうか、原稿用紙に向かって自問自答を繰り返した。

 私は広島県の出身であり、原子爆弾の惨禍を身近に感じてきた。広島でも、今なお原爆ドームの付近にいくとガイガーカウンターの針は振り切れ、市内近郊の低山の中腹にはアメリカの組織ABCC(原爆傷害調査委員会)が基地を構え、原爆「実験」の経過観察を継続している。物理的「復興」を成し遂げ、傷は癒えたように見えても、根深いところで疼いている。

 マルグリット・デュラスの映画「ヒロシマ・モナムール」は、アラン・レネ監督の、外部の人間(ここではフランス人)がどのようにして原爆を知ることができるのだろうか、という関心が撮影の発端となったという。今回の石巻のゼミ合宿で、外部の人間である私が、被災地を知ることができたのだろうか。ただ私が石巻に滞在したのはほんの3日であり、私のような外部の人間が被災地を語ること自体、おこがましいことであると感じる気持ちは、これを書いている今も強く感じている。

「がんばろう石巻」の大きな看板の前では、外部の人間が経営する焼きそばや花の屋台が賑わいをみせていた。「ヒロシマ・モナムール」の冒頭に描かれている広島平和記念式典の様子が思い出された。花電車が走り、盆踊りが繰り広げられ、出店が賑わう。原爆投下から数年後の平和記念式典はアメリカ側が主催したものであり、慰霊そっちのけでお祭りムードに満ちたものであった。「復興五輪」に浮かれ、「がんばろう日本」を連呼する現状によく似ている。被害を受けた人間の悲しみや痛みが外部の人間によって無駄な上塗りがなされ、実情が見えにくくなる構造。この構造は現代の被災地ではマスメディアの発達により、さらに複雑な様相を呈しているのではないだろうか。

「石巻で、ピースで写真を撮っている若い観光客が多い。彼らのことを、私は許すことができない」という安藤さん(石巻の漁師さん)の言葉で、平和祈念公園の様子が頭をよぎった。石巻同様にたくさんの人が亡くなった場所である。原爆ドームや原爆死没者慰霊碑の前には多くの観光客が訪れ、中にはピースで笑顔の祈念写真を撮る人たちも少なくない。私自身も原爆で祖父を亡くしているが、彼らを見ても怒りは湧いてこない。

 安藤さんと私の間にあるのは「時間」の隔たりであろう。原爆投下から67年、3.11から2年。現在の広島は見事に戦後の「復興」を遂げた姿だとされている。しかし本当にそうなのだろうか。被災地で一つ私が感じたことは、人間の根底にある情念は変わることがない、ということである。

 漁に出るたびに、行方不明の親族が「居てくれないかなあ」という気持ちで海に潜る、と呟いた安藤さんの目に、少し見覚えがあるような気がした。

 宮島に「管絃祭」という伝統的な行事がある。夏の始めにあるこの行事は、厳島神社の御神体が瀬戸内を周遊するものである。河岸からゆっくりと此岸に近づいてくる御神体を載せた船に、竹西寛子は原爆で亡くなった人間の魂の往還を見て取った。夜の海に管絃の音が漂い、闇の向こうから篝火に照らされた船が現われる。今日でもこの祭りには多くの人が集まる。人々は無言で夜の静かな海を見つめる。小舟のかすかな灯りを見つめる広島の人々の目と、安藤さんの目は、同じものをとらえている気がしてならなかった。
 
 多くを奪い去った悲しい過去の記憶を癒すことは非常に難しい。広島の例のようにどれほどの時間が経とうとも、それは人々の胸の内からは消え去らない。しかしその記憶を「継承」していくことこそ重要なことではないだろうか。

「ヒロシマ・モナムール」のフランス人の女性は、原爆の惨禍を彼女のヨーロッパでの第二次世界大戦の悲痛な記憶と重ね合わせ、自身の記憶の情念的な部分を介して広島の男性と心を通わせ、理解し合うことができた。
 
 今回の合宿で石巻を訪問した際、内側にある広島の記憶と被災地の現状を重ねて反芻している自分がいた。当事者でない人間が被災地を理解することは難しく、またそれを試みること自体傲慢な考えであろう。しかし、自分自身の目で見て「知る」ことで、本当の記憶の継承がなされるのだと強く感じた。マスメディアを介さない、肉眼で見た石巻、被災地の姿を私は胸に焼き付けた。

 石巻の記憶に「よき祈りよ こもれ。」


                     (2014年3月20日発行 慶応義塾大学文学部)




風はまだまだ冷たい

2014年03月22日 23時14分42秒 | 日記
今の状況を詳しく書くことはできませんがまだ終わりではありません。

今日は慶応義塾大学の三田キャンパスで『震災から3年_経済と世相』というシンポジウムをききに行ってきました。このことは明日以降詳しく書きたいと思います。

終わってから思ったこと。

こうしてささやかでも伝えていくこと、それが今のわたしの役割なのかもしれない。
ただ、自分にどうやってごはんを食べさせていけばいいのか、それが問題。
人を大事にしない仕組みはもういい。でも弱い立場なので苦しい。
手帳などの記録を読み返してみると、組織のための人という中で震災以降ずっと違和感と息苦しさを感じつづけてきたことがあらためてわかる。限界だった。
でも生活があるので自分から辞めるとは言えなかった。
ずっと自分をだましだましやってきた。

これから何をすべきだろう。具体的にはわからない。
収入の基盤を失うという不安と向き合わなければならない。
色んなものをためこみすぎて今は身動きとれない。


古い日記を整理していたら、中学生の私はこんな文章を抜き書きしていました。
出典はわかりません。

「私はつらいことがあったとき、いろいろなことをありがたがることにしています。
旅に出るのも本を読むのもいいのですが、私にとってこの方法がいちばん楽しい気分転換なのです。まず、私は物が見えることを感謝します。そのおかげで映画も本も景色も見られるのです。それから手が動くこと、走れること。木や花の匂いをかげること。歌をうたえること、欲しいものがいっぱいあること。・・・・数えあげたらきりがありません。そのうちに私はなんだかとってもいい気分になってくるのです。単純なせいかもしれませんが、つまらない悩みなどすっかり忘れて、ひょっとして私はたいへんな財産家ではないかとほくほくしてくるのです。」



こんな詩もありました。
出典はわかりません。
中学生の頃書き写したこの詩の意味を今深く、深く感じ取ることができます。


「手をつないで走ろう<人生への長い道>

さあみんな、手をつないで走っていこう
人生という長い道を
やさしく あたたかく笑顔を向けあって

みんな一緒に手をつなぎあい
しあわせに向かって 走っていこう
苦しいこと 悲しいこと
 だれにだってあるもんさ!
でも そんなことに負けないで
苦労のあとの しあわせめがけて
 つっぱしろうー

手をつなぎ 輪をつくり 力をあわせれば
 どんなことだってへっちゃらさ

みんなで手をとり なぐさめあい
人生という長い道を
元気よく くじけないで
一歩一歩確実に歩んでゆこう」


写真は、春のプリンス・エドワード島、銀の森屋敷です。

『土のコミュニケーション、水の旅』_「木靴の樹」より

2014年03月20日 22時33分09秒 | 映画『木靴の樹』
「木靴の樹」1990年公開映画パンフレット(株式会社フランス映画社発行)より引用します。

「木靴の樹」はいわば土のコミュニケーションをめぐる物語である。理念も制度も欠いた共産主義、映画の時空によってのみ可能な共産主義がここには夢のように花開いている。前近代的な小作農家の集落をコミュニケーションなどと呼ぶのはいかにも奇妙なことと聞こえるかもしれない。事実、彼らの経済生活は、共産主義的な共同性はもとより、いまだに資本主義的な自営業者の主体性さえ獲得していない。ここに登場する四家族はみなその生存のための生産手段、つまり耕作器具や家畜、そして何よりも土地の所有権を地主に奪われており、そのことから生じる悲劇的抒情の上に「木靴の樹」の物語全体が構築されている。だからここに、搾取の悪を告発する社会的正義の姿勢を見てとることも十分に可能だろう。だが、「木靴の樹」は、被搾取階級の不幸を押しつけがましく詠歎する社会劇ではない。「木靴の樹」は、物質と無意識についての映画である。物質の触覚性と無意識の豊かさの水準に、夢のような共産主義が実現する。ここには、土という物質を介して、経済的な現実の外でいかにして無意識のコミュニケーションが成立するかが描かれているのだ。

 土というこの言葉に、たとえば或る種の観念的な農村小説の題名となるときそれが帯びるような、過剰な象徴性を担わせる必要はない。濡れた土、乾いた土、飛び散る土、耕される土、つまり物質としての土が、ここには圧倒的ななまなましさで現前している。裸の土の感触がこれほど魅力的に描き出されている色彩映画もそう多くはないだろう。だがその魅力とは、それがいかに眼を楽しませるかといった単なる審美上の問題なのでもない。土は、四家族の成員の足の下に踏み締められることで、無意識のコミューンがかたちづくられる基盤をなしているのであり、言葉を奪われたこの無意識を、映画のみがなしうる仕方で可視化しつくしているところに「木靴の樹」の美しさがあるのだ。四つの家族の住まいはそれぞれ別々に分かたれているが、その一方で、彼らは大きな中庭を共有している。撮影監督を兼ねる演出家オルミがみずから回すキャメラで捉えたこの中庭の空間のすばらしさ。牛馬や荷車が行き交い、豚がされ、行商の馬車が店を開き、子供たちが駆け抜けるこの開かれた空間は、もはや私有という観念そのものが無効となってしまうような無名の土のコミュニケーションである。雪にぬかるんだ土の質感のみが可能にしている共同性の場所と言ってもよい。同じ土を踏み締めることで、彼らは家族という単位を越えて結びつく。三時間を越えるフィルムの複数の挿話を相互に縫い合わせているのは、この土の主題以外のものではない。

 実際、なぜ「靴」なのか。それが、人間の肉体を土へと結びつける特権的な道具だからだろう。土と深く触れあうために人はかえって靴という媒介を必要とするのであり、その喪失と再生、そして再生の代償という挿話がこの映画のもっとも大きな軸の一つをなすことになる。土が彼らのものでないように、靴の材料たるべき樹もまた地主の所有に帰する。だからこそバティスティの一家は最後に農場を追われることになるのだが、父が一晩かけて、幼い息子のために木片を靴へと刻んでゆくあの美しいシークエンスで、物質としての木はもはや誰のものでもなくなり、夢のような共同性を体現してゆくのだ。また、祭りの晩に金貨を拾うフィナールの挿話はどうか。土の上から拾い上げられ、馬の蹄の裏に、つまりたえず土と触れ合っている表層に隠された金貨は、またいつの間にか土の中へと戻ってゆく。私有の欲望は、土が表象しているおおらかな共同性の夢の前に破れ去ってゆく。経済生活の下部構造の彼方で、無意識のコミュニケーションが人々を包みこむ瞬間への夢想。病気の牛が礼拝堂の聖水によって、一命をとりとめる挿話が物語っているのもまたそれだろう。アンセルモ爺さんによる早熟トマトの栽培の挿話さえ同じことなのだと思う。普通よりひと月も早く実ったトマトを誇る彼の矜(きょう)持に私的なものだが、物質としてのトマトそれ自体が証し立てているのは、アンセルモ個人の所有権ではなくあくまで土の勝利そのものであるからだ。

 「木靴の樹」は土の映画である。だからこそ、映画のもっとも美しいシーンは水のシーンなのだ。結婚したばかりのマッダレーナとステファノがポー河を下る川舟に乗り、ミラノへ向かって新婚旅行に出発する場面の何という美しさ。映画の上映がここまで来て、川舟が岸を離れ水の上をゆるやかに滑り出すのを眼にするときにわれわれの覚える何とも形容しがたい解放感は、水が土にとって代わるところから来るものだ。土を離脱し、何の抵抗も滞りもなく水面を滑走してゆく快挙にひととき身を委ねることが、まだぎこちない若い恋人たちにとっての
新婚旅行なのである。もはや木靴が必要でない空間に彼らが滑り出し、岸に沿ってついてくる家族と隣人たちにおずおずとした合図を送る、とわれわれは、土によるそれとはまた別の共同性の夢想、播種と生長と定住の共同性ではなく反映と溶解と運動の共同性の夢想が全身にひたひたと満ちてくるのを覚え、映画とはこれなのだと唐突に確信してしまう。オーソン・ウエルズの「アーかディン氏」について語りながら、秀れた映画には必ず空港の場面があるという粗暴な断言をしていたのはトリフォーだったが、われわれはほとんど彼に倣って、河と川舟が出て来る映画は例外なく傑作だと言い切ってしまいたい気持ちに駆られる。

 「木靴の樹」の世界は、いかなる物質が人の足の下を締めているかによって、三つの空間に分かたれている。中心をなすのはあくまで土の空間なのだが、この若夫婦のみが滑り抜け、ミラノという都会に滞在してひととき石の空間を体験するのだ。石畳の都会とは、いわば革靴で歩く人々の世界である。新婚旅行という特権的な人生の休暇に、マッダレーナとステファノは木靴の世界をひととき離脱し、裸足の世界と革靴の世界に出会って静謐なおののきを味わう。この挿話的な迂回が「木靴の樹」の土のコミュニケーションに驚くべき物質的な豊かさを賦与しているのだが、それは単に土と水や石との鮮烈な対比にのみよるものではない。彼らが石の空間から持ち帰る一人の子供が、法的なまた経済的な個人私有とも共同所有とも異なる土のコミュニケーションの共同性の何たるかを、ただそこに言葉も発さずに存在しているだけで語りつくしているからなのだ。土地や農機具が他人のものであるように、「木靴の樹」が他人のものであるように、この乳児もまた他人のものである。だが、若夫婦はこれ以上ないほど自然なことであるかのように黙ってこの子供を受け入れる。所有の理念を超えたところで、土の物質的な現前によって媒介されつつ成立している無意識のコミューンの成員として、この子供以上にふさわしい存在はないことを直感したからだろう。もちろん、こうした思想は資本主義の冷酷な論理と相容れるものではない。この孤児と入れ代るようにしてバティスティの一家は農場から追放されてゆくのだが、映画の最後で、彼らが荷馬車に乗ってとぼとぼと去った後、夕闇に紛れるようにして三三五五集い来たり、もはや誰がどの家族とも区別しがたいような姿で中庭に立ち尽くす農民たちの、ロングの固定ショットで捉えられた悲哀の情景こそ、土のコミュニケーションの至高のイメージといってものであるかもしれない。

  
 松浦寿輝(詩人・フランス文学)

                       

自作童話 『ある雨の日に』

2014年03月19日 13時06分19秒 | 自作童話
 マサオは はなをすすり上げ なきじゃくっていた 母さんに たたかれたほっぺたが まだ 少しあつい なんだよ 母さんのばか!

マサオは どうして 母さんが おこったかわからない。
おひるごはんのときだった。

日よう日のおひるには 母さんは いつもやきそばとかおこのみやきとか オムライスなんかを つくってくれる。なのに きょうは 朝たべのこしの つめたいごはんと みそしるだけだった。マサオのすきなハムも 目だまやきも出てこない。なんだ つまんないの。マサオはがっかりした。たのしみに していたのに。

「あーあー きょうは たったこれだけ なにか ほかに なあい?」

マサオがいうと 母さんはいった。

「いやなら たべなくたっていいよ」

「わかったよ たべてやるよ」

マサオはふてくされていった。
ピシッ!
そのとき マサオは はじめて 母さんにぶたれたのだった。
マサオは しゃくりあげると 手で なみだをぬぐった。
雨が はげしく トタンのやねをうちはじめた。
(ああ おなかが すいたなあ)
マサオは 少し さむくなってきた。そういえば 母さんのかお かなしそうだった。
そんな気もするなあ。
マサオは ふとんにもぐりこむと かおをまくらでかくした。

目をさますと あたりは もうまっくらだった。足おとを立てないよう そっと あるいて
だいどころを のぞいてみた。
あっ コトコト コトコト お父さんが ねぎを きざんでいるみたいだ。

「どうしたの 父さん」

「母さんが かぜをひいたらしい だから しずかにしてなさい こんやは 父さんのつくったラーメンと かんづめだ」

そういうと 父さんは たまごをゆではじめた。

ぼくが いけない子だったから 母さん かぜを ひいちゃったのかなあ。
マサオは 母さんがねているへやの ふすまをあけた。母さんは 白いタオルを ひたいにのせて じっとしていた。

マサオは そっと まくらもとへよった。
母さんは からだがえらかったから おひるごはんを つくれなかったんだね。
ぼく しらなかったんだ。母さんが あたまが いたいってこと わからなかったんだ。

「ごめんね 母さん」

マサオは 母さんの耳に 口をちかづけて 小さな声でいってみた。
母さんは 小さな ねいきを たてていた。
もう あんなこと いったりしないよ。雨がやんだら 母さんの すきなコスモスをとってきて そばに おいとくよ。
だから 早く よくなって。

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商業高校を卒業して二年目、19歳の私が書いた小さな童話です。
地方新聞に掲載されて、原稿料5,000円もらいました。
その原稿料で買ったのが、モリー・ギレン著 『運命の紡ぎ車_L・M・モンゴメリの生涯』だったと思います。

その後も自作童話は2本新聞に掲載され、21歳のときに童話集を自費出版しました。
銀行で忙しく働きながら、枯れそうな心を潤すかのように仕事以外の時間は
書くことに必死でした。楽しくて楽しくてたまりませんでした。
それは今思えば自宅通勤で、家事を母が全部やってくれていたので出来たことでした。

父も母も元気で家族は幸せだと思っていた頃、その記憶はずっとわたしの心の中に幸せな時として、ずっとあり続けます。

写真は、春のプリンス・エドワード島 グリーン・ゲイブルズの庭からの景色です。

 

思い出写真_金時山からの富士山

2014年03月18日 16時19分04秒 | 日記
10年ほど前山歩きが好きで、時々日帰りで出かけていました。
その時の仲間たちは今子育中なので、今は行くことがありません。
そんな時の一枚から、2000年3月、箱根の金時山を歩いた時に撮った富士山です。
風が冷たかったけれどきれいでした。


妹との突然のお別れから7年目、それでもわたしこうして普通に生きてきたんですね。
私が生きている、それが大切なことなんですね。
古い写真を整理しながらあらためて思います。



今の私、
事実上突然理不尽なかたちで仕事を失った。
でも、直接雇用ではない仕組みのややこしさからほとんどどうすることもできない。
大きな二つの組織の前に一個人はあまりにも小さすぎる。
労基署などの仕組みも弱過ぎる。
「会社」という「人」はいない。結局人なんだと思う。
人を信じることができなくなってしまった。
誰を信じればいいのかわからない。
おそろしくて今はなにをどうすればいいのかわからない。
わからないので止まったままでいる。
もうどこにも必要とされないのかな・・・。そんなことはない・・・?


13年間小さな体をすり減らすような思いで勉強と両立させながら一生懸命やってきたという事実は変わらない。誰かに迷惑かけたわけではない。なにか悪いことをしたわけではない。
なのに理不尽に会社という組織に踏みにじられようとしている。
何がおきたのか、本当のところを結局は知ることができない。知る手立てがない。
非正規で長くおんなじ所にいると、理由はわからないが邪魔になった時こうなるしかなかったのかな。

心が傷ついて、次に向かって進んでいくエネルギーが今はわいてこない。
ただ止まったまんまでいることしか今はできない。