たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2013年『アンナ・カレーニナ』_思い出し日記(4)

2019年01月31日 22時34分15秒 | ミュージカル・舞台・映画
「2月9日『アンナ・カレーニナ』(ル・テアトル銀座)。

一路真輝の『アンナ・カレーニナ』2006年・2010年についで3演目である。一路真輝・伊礼彼方のコンビは2度目になるが、コンビぶりが決まってきた。一路真輝の歌唱は、ますます安定してきたし、伊礼彼方のきれいさといったら、もう見とれるしかない。だが今回は、ラブ・ストーリーというよりも、<母もの>という印象が強くなってきた。それは多分、ラストで「セリョージャ」というナンバーがリフレインされるからだと思うが、このナンバーに気合いが入っているのも感じられるのだった。演出=鈴木裕美。」

(小藤田千栄子のミュージカル・ダイアリー、『ミュージカル』2013年5・6月号より)


 一路さんの歌う「セリョージャ」、コンサート形式で聴いたのは『Golden Songs』だったと思います。ヴロンスキーとの間に生まれた子どもでは埋められなかった、夫の元に残してきたセリョージャへの思慕、ヴロンスキーが二人の間に生まればばかりの子どもがいるじゃないかと言ってもアンナの耳には入らない、思うはセリョージャの面影ばかり。衰弱しながら狂気を帯びてくる思慕。歌声は今も心に残っています。



2013年『アンナ・カレーニナ』_思い出し日記(3)

2019年01月30日 22時50分43秒 | ミュージカル・舞台・映画
原作 レフ・ニコライビッチ・トルストイ

脚本・作詞 ピーター・ケロッグ

音楽 ダン・レヴィーン

修辞・訳詞 小池修一郎

演出 鈴木裕美


アンナ・カレーニナ 一路真輝

アレクシス・ヴロンスキー 伊礼彼方

コンスタンティン・レイヴィン 葛山信吾

キャサリン・シチェルバツカヤ 遠野あすか

プリンセス・ベッツィー 春風ひとみ

ステファン・オブロンスキー 井之上隆志

ニコライ・カレーニン 山路和弘

セリョージャ 清水詩音・大東リッキー(Wキャスト)



また行ってきちゃった、宝塚大劇場

2019年01月29日 23時37分22秒 | 宝塚
 紅カールの優しさと温かさと涙にあふれた2時間半、すごく楽しかった。幸せでした。人間も悪くないなって思えるひととき。怒りとか憎しみとかネガティブな感情がどこにもないので切なくってつらいけどあったかい気持ちになれる。こんな時間を過ごせることに感謝。生きていてよかった。

 先日と全く同じ席。ショーの三回目のデュエットダンス、カールがマルギットごめんなって言っているみたいでした。愛里さんを抱きとめるときの紅さんの吐息がきこえてきました。ショーはなんだかサヨナラショーみたいな場面が多くって、お二人やめちゃうのかな、もう少しいてくださいね。
 
 愛里さん、すこし鼻声だったかな。マルギット、愛里さんが演じているから楽にやっているようにみえてすごく難しい役なんでしょうね。カールとの呼吸、全くうまく言葉にできませんがすごく難しいところを二人の信頼関係でみせてくれている感じがしました。

 紅さん、歌声がすごく柔らかくなったように感じました。全体的にぐっと深まりがでてきていて自然に変わってきたのか、意識的に変わってきたのかわからないですが役そのままに舞台の上で生きている感で、毎回命を削るようにその時感情をのせて全身全霊でつとめているんだろうなと思います。

 紅さんが星組全体と客席をひっぱりあげていますね。ほんとすごい。平日なのに立ち見も出ていて大盛況。帰ってきたばかりですがまたみたい。次は2か月後の東京宝塚劇場千穐楽ライブビューイング。その頃にはわたしどうしているのかな。居場所がみつかれば夜遅くなるからこういうのも厳しいかなとか、その前に毎朝バスの時間のプレッシャーに打ち勝たないといけないなとか考え始めると気持ちおもくなる。今夜はやめておきましょう。

 思い出し日記は明日以降またゆっくり、次に朝早いのは書類審査が通れば、の時、かな・・・? 朝のプレッシャー・・・?・・・

2013年『アンナ・カレーニナ』_思い出し日記(2)

2019年01月28日 22時00分30秒 | ミュージカル・舞台・映画
 一路真輝さん主演、2013年『アンナ・カレーニナ』、三度目の上演。

「生まれ変わる日を、待ち焦がれてた・・・ずっと・・・」

 プログラムの扉にはこんな言葉が書かれています。貞淑の誉れ高かったアンナがはじめて本当に人を好きなって内なる情熱にめざめた、心のどこかでアンナはこんな日が訪れることを待ち望んでいた、心のどこかで生まれ変わりたいと待ち焦がれていた、っという意味なのかな。

「この作品に携わらせていただいて以来、自分の人生においても、どうすれば最終的に幸せな形を作れるか、真剣に考えるようになりました。」ヴロンスキー役の伊礼彼方さんはプログラムでこう語っています。

 破滅への道をたどったアンナとヴロンスキー、対照的に描かれたコンスタンティン・レイヴィンとキティ、キティは自分の本当の気持ちに気づきコンスタンティンとキティは祝福されて結婚します。

 久しぶりにプログラムを読み返しました。エルベが深く心に響いている今これを書いていて、幸せな形はそれぞれの心の中にあるものなのかな、などなど、長く生きてきても明快な答えのない問いかけを人は生きている限り続けていくのかな、などなど考えています。

 もう少しきちんとしたかたちで観劇記録を書きたいと思っていますが今日のところはこれにて。後日また書き足すと思います。

 ヴロンスキーのささやく言葉に拒絶しながらもしだいに惹かれていってしまう、自分の気持ちに気づきおののきながらも素直に自分の気持ちにしたがう道を歩み始める一路さんのアンナ、すごく綺麗でした。
 

 


2008年『フェルメール展-光の天才画家とデルフトの巨匠たち-』_「オルガン・ロフトの下から見たデルフト新教会の内部」

2019年01月28日 19時52分34秒 | 美術館めぐり
イヤホンガイド6の絵のお話、公式カタログからの引用です。ご興味があれば・・・。


ヘンドリック・コルネリスゾーン・ファン・フリート
(デルフト 1611/12-1675 デルフト)

《オルガン・ロフトの下から見たデルフト新教会の内部》
 1662年頃、個人蔵

「本作品に描かれているのは、教会西側正面にあるオルガン・ロフトの真下から聖歌隊用仕切り壁の入口に向かって中央に延びる新教会の身廊である。赤いドレスを着た婦人と紳士と犬が右側から近づき、左側では数名の来訪者が信者席の背もたれに寄りかかって気軽に会話をしている。左には立ち去ろうとする老紳士の姿、身廊の奥にはその他の人物や犬が見える。蓋の開いた墓が最前景左側の影のところにあり、その周りには墓堀り人夫の道具がちらばる。

 ファン・フリートは、本作品を制作する以前の10年間にも新教会を何度か描いていたが、身廊の中央を眺め渡した正面観よりも、たいていは斜めの角度からの構図を選んでいた。本作品もまた非常に特異な作品である。というのも、1662年の年記のある作品、《オルガン・ロフトの下から見たデルフト旧教会の内部》の対作品と思われていたからである。両者の構図は、それぞれの教会の身廊中央の眺め、梁がわたる頭上のオルガン・ロフトの暗い影のみならず、建物に加えられた巧みな操作という点でも、互いに補完し合う。たとえば、本作品では情景の高さと奥行きがわずかに誇張されている。この一対の作品は、ファン・フリートの全作品の中でも非凡なもので、特定の依頼主による注文だったかもしれない。」


2019年1月宝塚歌劇の殿堂『台湾公演展』

2019年01月27日 22時43分49秒 | 宝塚
2019年1月宝塚歌劇の殿堂『台湾公演展』


 宝塚歌劇の殿堂『台湾公演展』の画像をまとめました。手ブレで拡大してみると字が読みにくかったりしますがよろしかったらご覧ください。
 
 『サンダーボルト・ファンタジー』の衣装が凝っていて、おとぎ話の世界にいる感覚でした。リンセツアの煙管、重そうな衣装にこれをずっと持ったまま1時間半の舞台を務めた紅ゆずるさん、すごいなと思いました。タンヒの刀も重そうでした。ベンテンガイの衣装がツボ、どくろがいっぱいでした。これまた重かっただろうなと思いました。ショウフカンの人相書、キラールージュの衣装をまとったリンセツアの人形もあり、見どころがありすぎて写真をとりながら駆け足状態。映像コーナーでは3公演のダイジェストを放映していました。『Another World』『キラー・ルージュ』の衣装展示もあわせて2時間近くいたでしょうか。それでも時間が足りない感。花組公演になると内容が変わるのかな。心残りのないようにもう一回みておかなければ。すごく寒いので風邪っぽい。大丈夫かな。 
 
 エルベが心に響きすぎて、紅ゆずるさんのよさが今さらながらわかって頭の中がすっかり星組になっています。人間社会に心が疲れた時、「人間っていいな」って思わせてくれるのが紅さん、星組っていうつぶやきをみてなるほどと思いました。優しい気持ちに出会えるあったかい2時間半。書類は水曜日にホチキス止めして郵便局に持ち込めばいいだけにしたので遠征は憂いなく楽しみたいです。この世にいる間だけの、一期一会の出会い。いつ終わりが訪れるかわからないので、あの時いっておけばって悔いが残らないようにしたい。心のエネルギーをもらえることを思えば高いものではないです。

 無事に行けますように・・・。

 大劇場の係員の方々、お客さんをのせるのがうまくってよく訓練されているなあと思いました。康次郎さんの大切な蓮の花の舟、恥ずかしいので迷いながら声をかけたらさりげなくやさしく誘導してくれて2枚撮ってくれました。一枚はちゃんと康次郎さんとお澄さんのお衣装も一緒に収まっていました。キラールージュのシャンシャンを持って写真を撮る方にはポーズまで指導しているし、持ち上げ方がうまいなあと思いました。蓮の舟のお写真、遺影にしようと決めたというつぶやきにも激しく同意、わたしもそうしようかな。それまでデジタルデータ、残しておかないとです。

 

2008年8月‐12月『フェルメール展』_光の天才画家とデルフトの巨匠たちより_デルフト新教会の内部

2019年01月26日 22時41分31秒 | 美術館めぐり
イヤホンガイド5の絵のお話、公式カタログからの引用です。ご興味があれば・・・。


「エマニュエル・デ・ウィッテ(アルクマール1617-1692年頃アムステルダム)

《デルフト新教会の内部》1655年頃、ウィンタートゥーア、ヤコブ・ブリナー財団美術館所蔵

 本作品には年記がないが、おそらくデルフトの教会室内画を試みたデ・ウィッテの初期作品の1つである。見えているのは、デルフトの新教会の北側回廊から眺めたウィレム沈黙公の廟墓である。あたかも実景の描写のようだが、絵の周辺部には、装飾の施された三角小間とロッド(カーテンレール)が取り付けられるなど、トロンプ.ルイユ(だまし絵)による部分が描かれている。ちなみにロッドの右側からは、緑色のベルベッドのカーテンが下がる。大勢の見物人たちは、女性と2匹の犬を伴う赤いマントの優雅な紳士の一家をはじめとして、皆、手前のすぐ前景に集まり、その他の人々は廟墓の周囲に押し寄せている。照明は、明るく照らされた通路、長い影など、実に劇的である。空間の醸し出す雰囲気もとりわけ表情豊かにとらえられている。

 本作品がデ・ウィッテ作品であることには疑いが持たれてきた。一方、近年では、マンケによって最初に示されたように、デ・ウィッテ作品であると一般に受け入れられ始めている。絵の具表面が剥離し、状態の悪かった本作品も、修復が施され、元々の署名の痕跡が明らかになって、作者の特定に関して正当性が立証されたのである。

 デ・ウィッテは、(ほとんど同じ情景を描いたマウリッツハイス王立美術館所蔵の1651年の年記が入ったハウクヘーストの《デルフトの新教会とウィレム沈黙公の廟墓》と比較すると)、独特の手法で仕上げられたハウクヘーストの情景が現実の建築にかなり忠実であるのに対して、デ・ウィッテが、自由度の高い取り組みをしていることが判明する。たとえば、表現性を高めようと、情景のいくつかの要素、なかんずく廟墓とその見物人を目立たせたりしている。そのために、建築物を巧みに操作もしている。たとえば、デ・ウィッテは、カーテンの右後ろにあるはずの(ハウスクヘーストの作品には見受けられる)手前の柱を削除しただけではなく、左側の2本の柱を互いに近接させた。その結果、この角度からこれらの柱越しに眺めたときより、はるかに廟墓が見やすくなった。デ・ウィッテはこのように、風俗画の熟練した技法、人物の効果的な空間配置など、おのれに備わったものを余すところなく用いた。

デ・ウィッテは、建築物に加えた修正をそれらしく魅力的に見せようと、光と影を劇的に楽しく演出した。

デ・ウィッテは、オタワやロサンジェルスのカーター・コレクションにある初期デルフト時代の作品で、見事なまでの錯視的かつ表現的な効果を狙って、カーテンを用い続けていくことになる。というのも、この仕掛けを用いている絵画は5点しかないが、それらはすべて初期デルフト時代に描かれているからである。」


カウンセリングスクールのつぶやきメモより(11)

2019年01月26日 15時56分57秒 | 祈り
「2004年10月15日

1.この授業を受けて、感じたこと、考えたことを自由に書いて下さい。

「自分に自信がもてない、自己嫌悪が強い」 
自分からこんなことを連想しました。それはつらいけれど、生きる力になっているのかな、
と先生におっしゃっていただいて嬉しかったです。神経症になりながらも、毎日葛藤しながらも日常生活をちゃんと営むことができている。
自分をほめてあげよう。
沈みこむことも、悩むこともとても大切な自分の力なのだ。」

 一昨日かかりつけ医として、転院した病院を受診。優しい女医さん。たぶんわたしが子供の頃風邪をひくとつれていかれたおばあちゃんDr.のお孫さん。町医者がいつの間にか大きな病院になりました。ハロワの求人に応募していること、今のところはここでなんとかやっていこうと慣れるのに必死になっていることを話しました。「後ろにさがってはいないですね、前に進んでいますね、なんとかなっていきもんですよね」って言われました。たしかにかかと一つ分でも前に進んでいるわけで後ろに下がってはいないはず。

 一週間前に内容を一読しただけで気力が失せてしまった求人の応募書類、もう少しのところで記入漏れをしてしまいました。せっかくカフェで書き始めたのに、これからまたコンビニでプリントアウトして書き直し。このご時世ですが全て手書き。デジタルだったらずっと楽なのにと思いながら手書き。全部そろったところでまたコンビニでプリントアウトコピーをとったらやっと郵便局から配達記録で発送。一回一回エネルギーが削がれる感。次の居場所を見つけるためには乗り越えていくしかありません。追い詰められている感が堪えがたいので大劇場遠征前にすませたい。だからこのあとがんばってコンビニに行きイートイン利用するつもり。見つかったところで毎朝一時間に一本の巡回バスを逃したら全てが終わるというプレッシャーとのたたかい。帰りのバスは6時台が最終なので寄り道して気分転換に食事できるだけの時間的な余裕もありません。考え始めたら不安しかありません。それでもやるしかないです。

 熊本でまた地震が起こったとの速報。3.11のあと阪神淡路大震災クラスの余震が続く中で原発はどうなるのだろうと極度の恐怖と不安の中でどうにかなりそうになりながら仕事をしていた日々を忘れることはありません。ばかな大会社、尋常ではないストレスがかかっているときに4月1日付人事異動とお得意の無意味な組織変え。振り回されました。なんてばかな会社なんだろうと、がんばってしまっている自分が心の底から哀しくなりました。もう少し意味のある仕事をやれる人になったのだからめげるなよ、自分。

 雪がチラつく中を、今日も車に轢かれそうになりながら自転車で外出。家のすぐ近くの車があっちからもこっちからもびゅんとくる所。視界が遮られているのでちょっとでも気持ちが油断しているとほんとに危ない。一日一日生き延びられていることに感謝。一日一日無事に生き延びていけますように。


 

茂木健一郎『赤毛のアンに学ぶ幸福になる方法』_もう一つの『赤毛のアン』

2019年01月25日 21時21分01秒 | 本あれこれ
「ならばアンが子ども時代のままの性格であり続けることはできるのか、という疑間も浮かんできます。つまりもう一つの隠れた物語として、アン・シャーリーが、あのままの個性を保ちながら成長していくことはありえるのか、ということです。しかし、それはやはり不自然です。あの性格のまま大人になるということは、どこかとても変な人になってしまう。社会と自然な折り合いがつかなくなってしまう。もちろん、レベッカ・デューとか、ハリソンさんとか、そういう人たちは物語の中で沢山登場してきます。子どもの頃のアン・シャーリーのような、強烈な個性を保ちながら成長した大人たちが。

 けれども、アンが成長して大学に行き、教師になり、ギルバート・ブライスという素敵な男性と結婚して、幸せな家庭を築くためには、やはりどこかでいわゆる「大人」にならなくてはいけなかった。それはアンに限らず、現代に生きる僕たち全員にも言えることです。社会的に認められた職業に就くようになると、どんな人でもはや普通になっていかざるをえない。個々の個性うんぬんの前に、どうしても「社会」というもののシステムに回収されて行かざるを得ない。

 僕は、どうして『赤毛のアン』を今頃になって懐かしく思うのかということを考えた時に、ふと気づいたことがあります。それはこの物語は「自分自身の物語」でもある、ということです。子ども時代の自分の中にあった、すごく奇妙なところ「まさに一瞬一瞬をいとおしんで、それだけが「命」のように感じる、テンションの高い毎日というものが、確かに子どもの頃にはあったのに、それが今の生活ではどうしてもなくなってきてしまっている、そう思うのです。モンゴメリー自身も、大人になると、子どもの頃感じていたようには、もはや何事も感じなくなってきていて、それがとても悲しい、というようなことを言っています。


 しかしやはり、そういった子どもの時と同じような生き方は、社会の中ではなかなか受け入れられないものです。社会の中である程度認められて、幸せな場所を占めるということは、そういったことをちょっと明け渡すというか、断念していくことと必ずペアになっているのです。そういった意味で、やはりこの『赤毛のアン』は、ある種の「挫折の物語」だと思うのです。

 ただここで、その法則が唯一当てはまらない人々がいます。それは「クリエーター」と呼ばれる人たちです。一部の「クリエーター」と呼ばれる人たちです。一部の「クリエーター」と呼ばれる天才的な人たちだけが、その両方を持ち続けている。「子ども」時代の輝きや自由奔放な想像力を失うことなく、「大人」としてのバランスも何とか維持していく。そういう生き方のできる人種が、「クリエーター」と呼ばれる人になっていくのだと思います。」

(茂木健一郎著『赤毛のアンに学ぶ幸福になる方法』より)

「赤毛のアン」に学ぶ幸福になる方法 (講談社文庫)
茂木 健一郎
講談社

月組『アンナ・カレーニナ』 千穐楽ライブビューイング

2019年01月24日 22時38分13秒 | 宝塚
バウホール公演『アンナ・カレーニナ』

原作:レフ・トルストイ 脚本・演出:植田景子

 「文豪トルストイの不朽の名作「アンナ・カレーニナ」をミュージカル化した本作は、2001年の朝海ひかる、紺野まひる、貴城けいによる初演が好評を博し、2008年には宝塚バウホール開場30周年を記念したワークショップとして再演された究極の恋愛ドラマ。

 19世紀後半のロシア。輝かしい未来を約束された青年貴族将校ヴィロンスキーは、社交界の華と謳われるアンナ・カレーニナに出会い心を奪われる。政府高官カレーニンの貞淑な妻として、何不自由無い暮らしをしていたアンナもまた、ヴィロンスキーの激しく真剣な求愛を受け、内に秘めていたもう一人の自分が目覚めて行くのを感じていた。二人の恋の噂は瞬く間に社交界に広がり、世間体を重んじる厳粛なカレーニンは妻の不貞を咎める。しかしヴィロンスキーとアンナにとって、もはや、この恋を失って生きていくことは不可能だった。愛に全てを捧げ、ただ愛に生きようとした二人が、その恋の終着駅で見つけたものは…。

 2008年の星組公演でカレーニン役を演じて新境地を開いた美弥るりかが、愛の激流に翻弄されるヴィロンスキー役に挑み、作品に新たな息吹を吹き込みます。」(歌劇団HPより)

 一路真輝さん主演の舞台とはかなり趣が違いました。ヴィロンスキーとアンナの、自分の感情に素直な生き方を肯定する終わり方だったかな。主役はヴィロンスキー。モスクワで出会った二人がひそかに惹かれあい、夫カレーニンの知るところとなり、ヴォロンスキーのもとに走ったアンナに子供は渡さないとセリョージャの手を引いて家を出ていき、一幕の終わりはセリョージャがヴォロンスキーとアンナに間に立って二人を引き裂くような演出。ニ幕の始まり、ヴィロンスキーの子供を産んだ後具合の悪く死の淵を彷徨うアンナが、死なないでくれと会いに来た夫カレーニンに、ヴィロンスキーのもとへと走った自分の罪を悔い詫びて、その姿に打ちのめされたヴィロンスキーもまた自分の罪深さにおののき、ここに自分の居場所はないと拳銃で自殺未遂をするところまでは共感できました。その後アンナが回復すると二人の恋はまた燃え上がり暖かいイタリアへと旅立ちます。(美穂圭子さん演じる社交界を取り仕切る夫人が、ヴォロンスキーが黙ってアンナのもとを去って僻地の任務へと旅立とうとするのを会わなくていいのかと、会わなかった後悔することになるとヴォロンスキーにもアンナにも迫らなかったらどうなっていたのだろうかとふと思いました。)ヴェニスの明るいカーニバルの場面にセリョージャが仮面を付けて登場する演出でした。セリョージャへの思慕とヴィロンスキーが衰えてきた自分に愛想を尽かして若い女性に会いに行っているのではないかと猜疑心にかられ、孤独感から精神を病むようになったアンナ。ヴィロンスキーにとってアンナは重荷になり始めていたのだろうか。ヴォロンスキーの表情からは読み取れず気になりました。アンナと離婚はしない、二人は破滅するしかない、行き場のなくなったアンナが最後に自分の所へ戻ってくるのを待っているという、月城かなとさんのカレーニンがしぶくって、男前過ぎました。

 トルストイの原作はどうなっているのかな、この世にいる間に余裕があれば読みたいです。カーテンコールで光月るう組長に「宝塚の愛の巡礼」と紹介された美弥るりかさん、落ち着いた話し声が素敵でした。インフルエンザがはやっていますがわたしたちは大丈夫、この公演をご覧になったみなさまもライブビューイングをご覧のみなさまも大丈夫みたいな挨拶。3回目のカーテンコールだったかな、ひとり緞帳の前に出てきてくれたとき、初演を客席でみて憧れ、星組公演ではカレーニン役、そして今回ヴィロンスキー役をやることができてすごく嬉しいと涙目で話されました。予定していなかったことでその時心の底から出てきたことを話していた感が好感もてました。下級生にいたるまでひとりひとり学びがあった舞台だったという内容の話も。チケット難だったこともご存知だったようでした。2回目のカーテンコールだったかな、ブルーレイの収録日だったことも明かし、ライブビューイングの会場のみなさま、テレビの前でご覧のみなさまと話しかけてくれるところ、明日海りおさんと同じで可愛いって思いました。

 宝塚なのでダンスシーンがいっぱいの、どこか夢々しい幻想的な世界。だからおもくなりすぎずにひたれる。軍服姿とダンスが指の先まで美しい美弥さまをスクリーンいっぱいに拝見できたの、目服でした。左の前髪が巻き毛になってたれている感じも素敵でした。(的確に表現できる言葉がみつからず・・・)。アンナがセリョージャの誕生日に贈ろうと用意した地球儀がベッドから落ちそうになって支えたのはアドリブかな。そのしぐさの麗しいこと。あんなに細いのにお姫様抱っこも(折れないかとしんぱいになりました)。フィナーレでは短いけれど燕尾服の群舞とデュエットダンスもありました。それだけでも十分に楽しめたかな。アンナの海乃美月さんは『エリザベート』に続いて狂気の表情がお見事。小池先生直伝の月組ジャンプができたの?かな。美弥さまに「セクシー組長」と紹介された光月組長の音頭で、「会場のみなさまも隣の人と手をつないでください、通路を挟んで隣の方とも、会場が一体になりましたね」と美弥さま。楽しい締めくくりでした。こじんまりとしたセットもシンプルな舞台。ひとりひとりの表情の捉え方がいいライブビューイングだったと思います。美穂圭子さんと五峰亜希さんが存在感抜群でした。ロシアの作品、人名がむずかしい。噛まないで言えるのすごい。

 プログラムは来週大劇場で買ってまたゆっくり思い出すことにしましょう。光月組長が話された「さまざまな愛」、ゆっくり振り返っていきたいです。一路さんの舞台の思い出し日記もまだ書きたい。

 余談ですが、大劇場のオペラグラス、公演している組のカラーになっていることを先日はじめて知りました。今月は星組なので青色。すごいホスピタリティ。

 次はまた大劇場日帰りバスツアー、それまでに書類を提出せねば、そこまで自分を追い詰めなくても間に合うんですけどね、できればすっきりしてから楽しみたい・・・。