たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

井村君江著『ケルト妖精学』_フェアリーランドへの道(3)

2014年11月24日 13時43分07秒 | 井村君江著『ケルト妖精学』
「一世紀のローマの詩人ルーカンは、その著『ナルサリア』の中で、「ケルト民族は現世とは別のもう一つの世界の存在を信じている」と書いているが、古代から今日に至るまでケルト民族が思い描くこの異界の位置は、かなりはっきりした方角を持っている。日本においても例えば「竜宮」は海の底、「黄泉の国」「根の国」は地下、「高天が原」(たかまがはら)「葦原の中つ国」は天空、「極楽」「西方浄土」は西の空の彼方というように、古代の他郷・異界の法学はおおかたは定まっており、その位置は天と地という垂直方向に存在している。(略)

 ケルト民族は二つの方角に異界を位置づけた。一つは「水を越えた海の彼方」(波の下の国を含む)であり、もう一つは「土の下に広がる地の底の国」(丘の中腹、湖や水の底を含む)である。もちろんケルト民族が移住し広がっている地域によって、想定する場所には違いがある。概してスコットランドでは山や森、湖や井戸、ウェールズでは岩や丘の中や海の底に楽土(エリジウム)があると信じられているが、こうした方角はその土地の持つ自然や土地の特色、そして住民の気質などによるところが多いようである。

 アイルランドの場合には、そうした土地の外的条件のほかに、歴史的に見てローマやゲルマンの侵入がなかったために、古代民族の遺跡が破壊されずに人家近くにもそのまま残っており、それらにまつわる伝説・民話が豊富に伝わっているという事実がある。さらに宗教的に見れば、紀元432年頃、キリスト教をこの地にもたらした聖パトリックが牧童としての経験から、民間に残っていた土俗信仰の必要を知っており、これを排斥しなkったため、イギリス本土では邪教の神、異教の神々、デヴィルやデーモンとみなされて否定された妖精たちが、この地では同じ憂き目を見ずにすんでいることである。こうした二つの特殊事情は、彼らの持つ他郷意識に大きく作用したものとして大切な要素であろう。

 では何故ケルト民族の考えるフェアリーランドが、「海の彼方」と「地下」という二つの領域に決まっていたのであろうか。現世とは別の世界であるフェアリーランドを思い描くのに制限はないはずであるが、何故この二つの方角にケルトの人々は別世界の存在を信じたのであろうか。この原因を考えるためにはまず、妖精が派生してくる淵源を辿る必要がある。

 要請が生まれてくる種々の源を大きく次の六つにまとめてみた。

(1)自然、天体、元素の精霊
(2)自然現象の擬人化
(3)卑小化した古代の神々
(4)先史時代の祖霊、土地の霊
(5)死者の魂
(6)堕天使

 自然の森羅万象の中に象徴を見たり、嵐や大風、洪水、落雷など不可思議な自然現象に恐れを感じ、それら目に見えるものに自分と同じ人間の形を与えて安堵するという心理作用は、科学的因果関係を見る力を持っていなかった古代人に共通した傾向である。

 しかしこの章では、(1)は扱わずに、また(6)の堕天使も、キリスト教思想が入ってからのものであるので、ここの論旨から外れよう。(3)の小さくなった古代の神々(神話)、(4)の先史時代の祖霊と土地の霊(歴史)、(5)の死者の魂(宗教)の三者は、ケルト民族の場合特に互いに密接な関係を持ちながら、異界観を結成していった要因であると思うので、この点から考えてみたい。」


(井村君江著『ケルト妖精学』18-20頁より引用しています。)

井村君江著『ケルト妖精学』より _ フェアリーランドへの道(2)

2014年04月04日 15時43分07秒 | 井村君江著『ケルト妖精学』
映画『ウオルト・ディズニーの約束』の中に、「ケルト」という言葉が出てきました。


『メリー・ポピンズ』の作者トラヴァース夫人についてインターネットで調べてみると、
3人姉妹の長女として、オーストラリアのクイーンズランド州に生まれ、父はロンドン生まれ、母はスコットランド系の血をひく、とあります。作家になってからイギリスに移住しています。


『赤毛のアン』の作者モンゴメリさんはスコットランド系。登場人物のアン、マシュー、マリラ、ダイアナもみんなスコットランド系、ケルト族です。
大好きな場面の一つ、第37章でアンは「小さなスコッチローズを挿し木したんです。マシューのお母さんが、遠い昔、スコットランドから持ってきた薔薇で、マシューは、いつだって、この花がいちばん好きでした」とアラン牧師夫人に語ります。(松本侑子著『赤毛のアンへの旅_秘められた愛と謎』NHK出版より引用しました。)


抜粋はわかりづらくなってしまいますが、書きたくなったので以下に記載してみます。


「フェアリーランド」という言葉の響きから一般に人々が思い描く映像は、この世とは空間的に遠く隔たった所にある幻のように美しく楽しい国、木々は実り花は咲き鳥は唄い、老いも悲しみも争いもなく、妖精の戯れ遊ぶ楽土というような童話のお伽の国の情景ではなかろうか。

長いこと悪魔と同一視され、邪悪な存在として恐ろしがられていた妖精たち超自然界の生きものに、文学の上で美しい容姿と親しみやすい性質を与え、土俗の暗い闇の中から明るい民衆の舞台と平土間(ひらどま)の中に連れ出して、今日見るような映像に定着させたのは、イギリスにおいてはシェイクスピアであった。


 しかし妖精の棲み家であり、この世とは別の地上楽園という人々の願望空間とが重なったイギリスのフェアリーランドは、一口に空想裡に創りあげられた、縹渺(ひょうびょう)とした単なる幻想といった言葉では片付けられるものではない。ましてユートピアとして、どこか曖昧な空間に想定された、現世とは倒置関係にある理想郷といったものでもない。その淵源を遡ってみていくと、ケルト民族特有の他郷思想に突き当たる。」


 (井村君江著『ケルト妖精学』1996年発行 講談社学術文庫 17頁より引用しました。)



「ケルトの人々の考えでは、人間・自然・生物等、森羅万象に生命と活動を与える遍在的な霊の存在があると信じ、その霊が不滅であり永遠に活動を続けるとしたのである。従って霊魂不滅といっても個人の霊魂は意味せず、エヴァンズ・ウェンツの言うように、個別を超越した大霊の不滅を信じているのである。さらに彼の仮説によれば、各個人の無意識の世界というものと対蹠的なところに想定された究極の単位の状態にある霊魂の集合体の存在があるはずだとし、これをケルトの人々の考える万物再生の思想の源であるとしている。

 自然や人間を共通に貫いて、眼に見えぬ大霊が存在するとすれば、人間の生活のすべては不可視の力によって支配されていることになろう。そしてこの大霊は、永劫に巡り動き生命を転生させていくのである。従って現世は単なる唯物的世界ではなく、永劫無窮の霊の顕現する世界となり、ギリシャの地理・歴史学者ストラボが「古代のケルト人は現世を永遠なるものと信じた」と言っている言葉は頷けよう。こうした考えによれば、「この世は暫時の滅ぶべき世界」で「異界は永遠の不死の国」とする区別は必要なく、いずれも大霊の顕現した一つ一つの相に他ならず、そこには可視か不可視かの区別があるだけとなる。いみじくもウェンツは「アイルランドには二つの種族があるーひとつはわれわれがケルト族と呼ぶ<目に見える種族>と、もう一つは妖精と呼ぶ<目に見えない種族>である」と言い、今日でもこの二つの種族は互いに往き来していると言っている。この目に見えない種族は、古代のトゥアハ・デ・ダナーンであり、数々の祖霊であり、土の神や豊作の神であり、プーカやパンジー、レプラホーンやクルラホーンなどさまざまな姿のフェアリーたちであり、それらが現在生きている人々の生活や行動に、深い関わりを持っているのである。こうした考えから言えば、神話の神々、伝説の英雄たち、民間伝承の妖精たち、すぐれた祖先の霊たちの憩いの国である異界、常若の国(テイル・ナ・ノグ)は、この現世と同次元に、この世と隣接し直結して存在していても、なんら不思議はないのである。

 こうしたケルトの異界をその根源から辿ってみると、常若の国(テイル・ナ・ノグ)や妖精の丘(フェアリー・ヒル)の考え方、ひいてはそこからさまざまに現われてきている異界観、フェアリーランドの考え方は、単に絵空事の空想の産物といったものではなく、民族の血の中に太古から流れている生命観、死生観、自然観に根ざしたものであり、そこからケルト特有の想像力によって創りあげられた楽園であることがわかってこよう。」


(井村君江著『ケルト妖精学』1996年発行 講談社学術文庫 42-43頁より引用しました。)



写真は、グリーン・ゲイブルズのマシューの部屋です。




 











井村君江著『ケルト妖精学』より_フェアリーランドへの道(1)

2014年02月08日 14時00分51秒 | 井村君江著『ケルト妖精学』
 それまでにケルト民族が、先史時代から持っていた土着の信仰は、ドルイド教であった。ジュリアス・シーザーがこの古代信仰について書いた記録が残っているが、その中で彼は「ドルイドたちは、霊魂は滅びず、一つの体から他の体へと移っていくことを信じている」と言っている。

 これはすなわち、ドルイドたちが「霊魂不滅の思想」と、生命は「転生」し再生しめぐっていくという考えを持っていたことを示していよう。彼らの信仰は太陽崇拝であり、占星術を重んじ、自然は霊的な力を持つという汎神論であった。自然すなわち太陽・星など天体の軌道の上の運行、四季の移ろい、そうした悠久の円環の動きを崇拝し、すべての霊はこの軌道と同じサイクルを迎えるとドルイドたちは信じていたのである。こうした霊魂不滅・転生思想が、今日までケルト民族の根元に流れており、彼らの死生観や自然観を形成しているのである。

 ケルト民族たちは死というものを終わりとは見ず、もう一つの生への入口とし、また死は永い生の中心であるとする。従って人間の生命と自然や動植物の生命には、密接な関係があり、さらに眼に見えぬ力が生命のすべてを支配し、動かしているという考えが生まれてくる。われわれが死んだとみなす魂も、それは次の転生を待つ間の休息状態にあるのだと考えた。

(講談社学術文庫 1996年発行39頁より引用)