たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

教育とカウンセリング③-ゲシュタルト心理学

2025年01月21日 20時47分39秒 | グリーフケア

教育とカウンセリング①②-補足

2004年6月19日(土)教育とカウンセリング③ゲシュタルト心理学-講義メモ

清水幹夫

ゲシュタルト心理学

 物事を全体的にとらえる。

 研究者がみんなユダヤ人なのでアメリカに移住し、アメリカで発達。

 ブントの実験心理学を批判するところから出版した。

 ウエルト・ハイマー-心の働きを研究する。

 私たちの心は状況によってある特定の受けとめ方をする傾向がある。

 「地と図」同じものが回りの配置によってちがってみえる。視覚の研究。

ケーラー-洞察の研究

 場の状況に応じて新しいものを瞬間的にみいだしていく。

K・レヴィン

 教育の現場で研究を行った:学校心理学。

 集団心理学・社会心理学。

 ゲシュタルトの考え方をカウンセリングに応用し、ゲシュタルト的カウンセリングへと発展させたのは、F・バールズ(精神科の医師)

 ゴールドシュタインの研究所(大脳の治療を行う、ドイツ)に助手として入 る。ゲシュタルトの考え方を知る。

 有機体理論-私たち人間も有機体。たとえば腕が一本なくなっても残りの部分で問題に適応していく。

 カール・ロジャーズに影響を与える。

 

ゲシュタルト心理学の特徴

・地を図にしていく。ひとつのことにこだわりをもつと人は成長していかない。その人のあらゆる部分をみていく。

・ロールプレイ

・「今ここで」を大切にする。過去は関係ない。特に身体の変化に関心を向ける。

・ホメオスティシス(生物的な維持機能)が心にもある。ホメオスティシスがくずれると不安や恐怖が生まれる→その人の統合を目指す、人格のまとまり

 

ゲシュタルト(認知):モノのとらえ方、ゲシュタルトの中の認知の考え方がアメリカで行動主義とほぼ一致していく。認知も行動のひとつ。

    ↓

認知行動療法:認知が変わると行動も変わる。

 

行動主義心理学(アメリカで発展、J・ワトソンが中心)

 ・唾液条件反射実験

 ・試行錯誤実験-試行錯誤実験-条件づけで人間をとらえていこうとする。

    ↓

  ここに欲求・関心等を加えていって研究したのが新行動主義。

 

 

 

2004年6月19日(土)教育とカウンセリング③ゲシュタルト心理学-補足

 

ゲシュタルト心理学

 特殊な還元状況下で行う内観分析を至上の方法として心的要素を求める構成心理学と連合主義に反対し、実験現象学的方法や条件発生的方法(現象間の単なる記述をこえて現象の背後にある力学過程を解明し、これにもとづいて個々の現象を理論的に説明する行き方)によって、ゲシュタルトの諸法則を発見した。それまでの分析加算的な考え方にかわる力動的な場理論を心理学の分野で確立した。その研究管理は、知覚、記憶、思考から情意行動にまで及ぶ包括的な体系であり、その後の心理学の発展に大きな影響を与えた。

 

ゲシュタルト療法

 ゲシュタルト心理学の理論にもとづき、全心身的洞察・知覚・平衡の回復をめざす心理療法。F・パールズによって創始され、一定の方法・手続が研究されてきたが、現在では夢分析・芸術療法・身体運動療法などを含め、概念、イメージ、感覚運動領域のあらゆる方法を柔軟に総合的に用いることが多い。

 

認知

 人間(あるいは広く動物)が対象や世界について知るようになること、あるいはその過程。知覚だけではなく、再認・同定・判断・推理・創造・問題解決なども含めた広い過程をさしている。

古くは知(cognition)、情(affection)、意(conation)と人間の心の過程は3分して考えられていたが、その中の一つに当る。認知の意味は主観的色彩をもち行動主義心理学では用いられていなかったが、現在は情報処理過程として見られることが多い。

  (有斐閣『心理学小辞典』)

 


カウンセリング概論②資料-児童処遇とカウンセリング

2025年01月19日 17時34分55秒 | グリーフケア

カウンセリング総論-2004年セスクカウンセリング総論②

 

2004年5月21日(金)上嶋洋一-カウンセリング概論②資料-児童処遇とカウンセリング-杉本一義『新編養護原理』93~103頁

 

 カウンセリングを学びに来ておられる若いおかあさんがおられた。児童相談所の仕事を手伝っておられるという、そのお母さんがこんなことを言われた。「私、自閉傾向のあるお子さんの所へ通っているんですけれど、ただ黙ってそばにいるだけでお金もらって、泥棒みたいな気がしてくるんです」と。

 広い意味での人間援助の実践にかかわりをもつ人に共通するのは、相手の人の幸せに、ほんの少しでもいいから自分が役立てば、という素朴な願いであろう。「泥棒みたいな気がしてくる」という言葉を通して私が感じるのも、そのお母さんの中にあるそうした願いである。何ひとつ役に立っていないのにお金だけもらっている。いわば泥棒みたいな自分-そんな自分を感じているこのお母さんの気持ちの底に、「その子どもさんのために何か役に立ちたいんだ」という素朴な願いを私は感じるのである。この願いがこのお母さんをカウンセリングに結びつけているともいえよう。養護実践とカウンセリングの結びつきも同様のものとはいえないであろうか。つまり養護実践においても、クライエント(相手の人)の役に立つ-そのための一つのアプローチとして、カウンセリングを今一度自分なりに検討してみることは有意味なことといえよう。

 

1カウンセリングの基礎

 今日では数多くのカウンセリング理論が存在し、その一つ一つが日々地道な実践を積み重ねてきている。たとえばハーバー R.A.Haeperなどは現存するカウンセリング理論として36の立場を取り出し解説しているほどである。実際にはそれをはるかに上まわる理論的立場が存在するとみてよかろう。

 しかしここで重要なのは、数多くのカウンセリングの立場に触れることもさることながら、それらに共通する因子あるいは条件を明らかにしておくことである。つまり学派を超えて存在する最重要ポイントをきっちり押さえておくということである。この共通因子を明らかにする試みとしてよく引用されるのが、フィードラーF.E.Fielderの研究である。

 彼はその研究において、精神分析、アドラー療法および非指示的方法を客観的に比較しようとした。そしてその結論として彼は次のようにいう、「関係は治療であり、治療の良さは治療関係の良さの結果である・・・」と。つまり、治療にとって重要なのは、カウンセラーがカウンセリング場面の中でどんな技法を用いるかということではない。フィードラーによれば、それはさまざまな技法を超えて共通するカウンセラーの態度であり、その態度が創り出すカウンセリング関係の良さなのであった

 この治療にとってきわめて重要な、共通因子としてのカウンセラーの態度およびカウンセリング関係の良さといったものの中味をより明確に記述しようとしたのが、アメリカのカウンセリング心理学者、カール・ロジャーズ C.R.Rogersである。

 ロジャーズのカウンセリング理論は、最初「非指示的カウンセリング」と呼ばれ、やがて「来談者中心療法」、そして最近(1974年以降)では、「クライエント(来談者)」や「セラピィ(治療)」といった言葉をも取ってしまって、「人間中心のアプローチ」という名で呼ばれたりしている。

 こうした名称の変遷にもかかわらず彼の基本的仮説として保持され続けているのに、「個人には本来自己実現への力が内在しており、その個人がある促進的な心理的風土にさらされる時には建設的な人格変容が起こってくる」という命題である。

 われわれが相手の人格変容を目的として働きかけようとする時、ともすると訓戒的・説論的態度をとりがちである。時には強迫的・威嚇的態度で接することすらある。ロジャーズの考え方からするならば、こうした態度で接することは建設的な人格変容を可能にする促進的・心理的風土を創り出さない、という。すなわち、個人に脅威を感じさせる心理的風土は、当人が自由に自分の中の肯定的・否定的経験すべてにわたって探索していくうえで、マイナスの効果しかないのである。このマイナス(つまり自由な自己探索の制限)ゆえに、人は現実の自分の中の、ある特定の経験には目を閉じたまま外界に対処していくことになる。しかしこれではその人の現実にうまく適応した対処の仕方は生まれてこない。自己理論の用語でいえば、「現実の自己(real self)」(あるいは経験(experience)」)と「観念化された自己(idealized self)」(あるいは「自己概念(self concept)」)とのズレが大きくなればなるほど、その人の行動は現実にそぐわない不適応行動になってしまうのである。

 

2カウンセラーの3つの態度条件

 ロジャーズは、自由で脅威のない安全な心理的風土こそ建設的人格変容にとって不可欠の条件であるとして重視した。そして、この条件を満たすための方法として、当初「非指示的」という方法を彼は提唱したのである。この主張は従来の指示的心理療法や教育にとって非常にラジカルな提言であったといえよう。なぜなら、彼の提言を極端にいえば、「教えるから変わるものではない、教えようとしないから変わるのだ」と主張するものだからである。

 しかし、ただ単に「教えようとしなければ変わる」というものではない。彼は自由で脅威のない心理的風土を創りあげるカウンセラーの態度として、次の3つの条件を提示した。

  • 無条件の積極的関心
  • 自己一致あるいは純粋さ
  • 共感的理解

以上がそれである。

 

(1)「無条件の積極的関心」

 第一の条件、すなわち「無条件の積極的関心」についてロジャーズは次のようにいう。「(この)条件は、私がその人を受容し、好きになれば好きになるほど、彼が役だてることのできる関係を生みだすことができるということである。受容とは、無条件に、価値ある人間-すなわち彼の条件、行動、感情がどのようなものであれ、ひとりの価値ある人間-として、その人に暖かい配慮をもつということである」と。つまり、一人の人間として好まれ、重じられているということが、援助的関係の重要な要素なのである。

 ここで注意しておくべき点は、この積極的な関心の無条件性である。カウンセラーの積極的関心という態度から無条件性が抜け落ちてしまう時、その態度は容易にカウンセラーの選択的・評価的態度に墜してしまう。つまりカウンセラーが「善い」と判断するものにだけ、積極的関心を向けるということになる。あるいは、「こういう点は長い。しかし、こういう点は悪い」というように、クライエントの「悪い」側面、ネガティヴな側面を受容できないカウンセラーになってしまうのである。

 カウンセラーが選択的・評価的にクライエントと接する時、クライエントの真の変容は生じない。なぜなら、「こんなことを言ったら、カウンセラーに受容してもらえない」と言う」脅威が、クライエントの内面の奥深いところに覆い隠されているものの、自由な探求と経験を阻むからである。さらにまた、この選択的・評価的態度は、カウンセラーにとって都合のよい人間にクライエントをしたてあげる強引な「操作」につながりかねない。しかし、カウンセラーが目的とするのは、そうしたクライエントの「操作」ではない。それは、善悪を超えてクライエントが「自分自身の感情をもち、自分自身の体験をもつように許すこと」なのである。カウンセラーによる「無条件の積極的関心」はそうした自由な文脈を提供するものといえよう。

 

(2)「自己一致」

 第二の条件は、カウンセラーの「自己一致」といわれている。これは、カウンセラーの表出したことと、その時のカウンセラー自身の感じていることや忌っていることとの間にズレがないということである。

 「一致」していない例をあげるとわかりやすいかもしれない。たとえば、夜、友だちが下宿にやってきたとしよう。心の中では「明日のレポートもあるし、忙しいのに・・・」と思いながら、実際には「よく来たなあ」と言ってしまうような場合などがこれにあたるといえよう。

 カウンセラーが、その時の自分の心の中で起こっている感情とは裏腹に、先の例のような応答を繰り返し続けるとするならば、カウンセラーとクライエントの関係はうわべだけのやりとりを終らざるをえない。うわべだけのやりとりとは、形式的・機械的やりとりに他ならない。われわれが自らの日常経験を振り返ってみる時、そうした形式的・機械的やりとりしかしない人を前にして、われわれはあまり深く自分自身を表そうとはしていないのに気づく。同様にカウンセラーが、「専門家らしさという仮面(プロフェッショナリズム)」の影に隠れ、技法の単なる形式的・機械的適用に終始するならば、おそらくカウンセラーとクライエントの深い心の交流は生まれないのである。つまり、カウンセラーの「自己一致」という条件は、カウンセラーがクライエントに対し、技法を形成的・機械的に適用するのを回避させ、一人の人間としてクライエントにかかわる事を要請するものなのである。

「自己一致」にはもう一つの意味がある。この「自己一致」をジェラードS.Jourardの用語でいいかえるならば、「透明なる自己(Transparent Self)」である。つまり外部から人の心の中まで見通せるということである。噓がない、といってもよい。カウンセラーがそうした「透明なる自己」となることによって、クライエントはカウンセラーの腹を探る必要がなくなる。その時クライエントはカウンセラーの言葉を、カウンセラー自身の率直な表明としてそのまま受け取れる安心感を獲得するのである。

 

(3)「共感的理解」

 第三の条件としての「共感的理解」をロジャーズは次のように規定する。すなわち、「共感的理解」とは「クライエントの私的な世界を、あたかも自分自身のものであるかのように感じとり、しかもこの“あたかも・・・のように”(asif)という性格を失わない“」ような理解であると。

 ここでロジャーズがなぜ”あたかも・・・のように”という限定を「共感的理解」に付け加えているのか、という疑問がわく。”あたかも・・・のように”ではなく、まさに人の痛みをわが身の痛みとして感じるウことこそ「共感的理解」なのではないかと。

 この点について次のようなことが考えられよう。”あたかも・・・のように”ということが、なぜ必要か、それは、第一に、いかに共感といえども完全に相手そのものになりきる、あるいはなりかわることはできないという事実を明確にしておくためである。相手との完全な一体化は、あくまで幻想ないし錯覚にすぎない、幻想はどこまでいっても満たされず、またその幻想の破綻はより深い心の傷をつくりだすだけなのである。第二として次のようにもいえる。すなわち、相手との完全な一体化は(仮にそれが可能だとして)、カウンセラー自身をきわめて深刻な心理的に不安定な状態におくことになる。それゆえカウンセラー自身の心理的安定を確保するための行為が、相手の訴えに真剣に耳を傾けるという行為に取って替わってしまうのである。また、一方でクライエントはカウンセラーの不安を見て、ますまず自らの不安を大きくしてしまうのである。

 

3共感的理解の4つのポイント

 以下、ロジャーズを手がかりにしながら、「共感的」にかかわるとはどういうことであるのかについて、もう少し詳しく検討してみたい。およそポイントは4つである。

 その1、「共感的理解」は診断や評価、批判、審判を目的として行われる理解ではないということである。われわれはとかくさまざまな目的や、「教育的」」ないし、「そう治療的」意図をもって理解しようとしがちである。そのこと自体を悪意をもって非難することはできないかもしれない。しかし実際には、カウンセラーがそうした意図をもってしまうとうまくいかないということが多いのである。つまり「共感的理解」においては、”なおそうとするな、わかろうとせよ”ということが重要な態度となってくる。”わかろうとせよ”といっても、それは相手の人が「表現しよう、伝えよう」と努力しているものを理解することであって、閉ざされた相手の人の心を無理やりこじあけるようにして理解することではない。「伝えたくない、触れられたくない」という相手の人の気持ちに「共感」しているとはいえないからである。

 その2、「共感的理解」は相手の人の内部的準拠枠を知覚し、その枠から相手の人の世界をながめ、体験することである。

 私と相手の人は別の人であるゆえに、完全な一体化は不可能である。しかし、近似的に近づいていくことは可能であろう。そもそも相互理解を求めてのコミュニケーションとは、異質な2人が近似的に近づいていくことは可能であろう。そもそも相互理解を求めてのコミュニケーションとは、異質な2人が近似的に近づき、近似的に体験を共有していくプロセスだったはずである。

 体験を共有していくためには、まず一旦自分の準拠枠を取り払って、相手の人の準拠枠から世界を見る努力が必要になる。「変なことばかり言うやつだ」と思ったら(つまり自分の準拠枠からの知覚)、「どういうふうに考えればその人のように世界が見えてくるのか」を考え(つまり自己の準拠枠を一旦はずし、相手の人の内部的準拠枠を知ろうと努める)、そしてその時の相手の人の気持ちを第三者に通訳できるくらいわかろうと努力することが必要なのである。さらに体験を共有するためには、相手の人の準拠枠を知るという知的認識だけでなく、そこでの相手の人の気持ちを感ずるという情緒的側面も含まれていなければならない。

 相手の人の気持ちを感ずるという場合、自分の中に相手の体験に近いものがあるほど、それは容易なものとなろう。その意味でカウンセラー自身が豊かな感情生活を送り、体験の幅を広げておくことが望まれる。つまり、自ら喜びを知らぬ者が他者の喜びを知ろうはずもなく、自ら悲しみを知らぬ者が他者の悲しみの何たるかを知るべくもないからである。

 その3、「共感的理解」は相手の人との交流の中で、カウンセラーの側の「理解」および「理解しようとする態度」が相手の人に伝達されなければならない。つまり、カウンセラーの側にいくら有益な理解が生じたとしても、当の本人にそれが伝達されなければわかってくれた!」という確信をもてないからである。「共感的理解」が建設的人格変容に寄与する心理的風土を創るかどうかは、ひとえに伝達のいかんによっているといえよう。

 正確な「共感的理解」の伝達は、相手の人に自分が孤独でないことを確信させる。そして共感的に「理解しようとする意図・態度」の伝達は、その人の気持ちや話、ひいてはその人の存在そのものを「価値あるものだと考えていますよ」と伝達していることになろう。

 一般に「共感的理解」というと、その正確さの面にばかり注意が向きがちである。しかし、そうした正確な「共感的理解」への努力もさることながら、「理解しようとする態度」を伝達することの重要性を今一度確認しておくべきである。つまり、両者の体験の間には隔たりがあるのだけれど、その隔たりゆえに、その違う体験を感じ合おうとするカウンセラーの姿勢の伝達が、「共感的理解」を援助的にするかどうかの鍵を握っているのである。

 最後に、「共感的理解」はカウンセラーの主張、考えを相手に納得させるための懐柔策ではない、ということを付け加えておこう。

「おまえの言うのもよくわかる、しかしなあ・・・」-これは多くの大人たちのよくやく「共感的理解(?)」といえるかもしれない。大人は変わらず、子どもだけ変えようというわけであろうか。たしかに大人は子どもに比べて経験も豊富であろうし、そこから導き出された英知も比べものにならないほど深いかもしれない。しかし、それゆえに大人の経験や英知に基づいて子どもを評価し、その評価を子どもに押しつけてしまいがちなのである。

 ロジャーズはより良き人間関係を創造していくうえで、その主要な障害について次のようにいう。それは「他人や他のグループの述べることを判定したり、評価したり、是認したり、不賛成であったりするような、われわれにとってごくあたり前な傾向である」と。

 われわれはともすると評価せずにはおれない。評価せずに、相手のいうことに真剣に耳を傾け、相手の人のやり方で人生を見直すことは、ひょっとして自分の方が変わるのではないかという不安を呼び起こすからである。しかし、こちらは永久に変わらず、相手の人だけを変えようとすることから「出会い」というものは生まれない。

「出会い」は本来、冒険を含んでいる。そして「共感的理解」がかうの条件として含まれる時、そこにはかう側の変化というカウンセラーにとっての冒険も含まれていなければならないのである。

 

4人間理解の難しさ

 以上、ロジャーズの考え方を手がかりにしながら、カウンセラーの基本的態度について解説してきた。しかし、この解説を通して私が伝えようとしたものは、「このようにすれば相手の人をより良く理解できますよ」という方法論ではなく、むしろそれは人間を理解するということの難しさであり、安易にわかったつもりになってしまうことへの自戒であったといえるかもしれない。

 人間援助の実践にとって人間の理解は不可欠である。しかしそこでの人間関係とは、生きた人間存在をわずかな言葉に要約・還元し、「わかったつもり」になることではない。堀智晴は次のようにいう。「周りの世界へ好奇心の触手をのばして息づいている存在を目のあたりにみれば、容易にわずかのことばでもってその子どもを語ることはできるはずがない」と。

 今日ではより妥当な人間の理解を求めてさまざまなテストや科学的手法が開発されてきている。しかし、そうした科学的手法もわれわれがそれを絶対視する時、きわめて非科学的なドグマに変質してしまう。一般意味論の学者として著名なハヤカワ S.I.Hayakawaは、「科学的」考え方の中心にあるものとして3つの特質を挙げ、その3番目として次のようにいう。それは「どの物にも未だ未知のところが常に残っているという認識を内に持っていること、その結果いつでも他人の話に耳を傾けることができること」であると。そしてこのことはカウンセリングにおいても同様である。つまり、目の前にいるこの人について知らないところ、わからないところがいっぱいあると思うからこそ、その人に触れ、その人の話に真剣に耳を傾けようとするのである。逆に「この人の訴えは結局・・・にすぎない」とか「この人は・・・なのだ」という”きめつけ”をする時、それ以上のことは理解しようもなく、またその言葉にこめられた深い意味や気持ちを感ずることもできなくなってしまうのである。


教育とカウンセリング①②-補足

2025年01月14日 19時41分26秒 | グリーフケア

教育とカウンセリング①②講義メモ

2004年6月12日(土)教育とカウンセリング①②-補足

 

ユングは、フロイトから決別して独自の理論と治療法を発展させていったが、その人格理論の体系には、ペルソナ、自我、個人的無意識、集合無意識(普遍的無意識)が含まれる。

とくに無意識な意を個人的・集合的な二層に分けてとらえたことは、大きな特徴である。

個人的無意識は、かなりフロイトに近いとらえ方がなされているが、心的内容の複合体(コンプレックス)が重視されている。一方、集合無意識は、祖先から受け継がれてきた潜在的記憶を内容とする。それは個人的なものではなく、民族、人類、さらには動物にさえ普遍的なものであり、いわゆる原始類型としてあらわれる。

 自我は意識の中心に位置し、一個の人格としての安定性と統合性を保つ働きをしているが、これに対して集合無意識までも含めた全体療育の中心をなすものが自己である。自我は影やアニマ(男性がもつ女性像)、アニムス(女性のもつ男性像)等の原始類型までも含めた自己の統合を志向するものであり、ユングはこのような自己の統合を獲得していく過程を己性化、あるいは自己実現と呼び、人生の目標と見なしている。

(放送大学教材『心理学入門』)

 

自己(self)

 自我が人間の行動や意識の主体としてあるのに比して、客体としての自我を自己と呼ぶのが一般的である。「認知された自己」「経験された自己」というように、自己概念と呼び、治療における重要な概念としているものも含む。いずれにしても、学説によって概念規定が異なるが、発達的には自分を人的・物的環境から区別するようになるにつれて、自己という概念が形成され、意識されるようになる。

   (有斐閣『心理学小辞典』

 

コンプレックス(complex)

 ユングの造語。感情複合体とも訳す。

 無意識にはある一定の情動を伴う心的要素のまとまりが存在し、それが意識とは分離した形でそれなりに自律的に機能している。そして、それがときおり意識に突出して人間にさまざまの影響を及ぼす。

   (有斐閣『心理学小辞典』

 

ペルソナ(persona)

 ユングの用語。人と関わる部分の原型→シャドー

 意識の核ともいえる自我が対社会的関係のうちに発展させるものをペルソナと呼び、これが内面的な「こころの像」であるアニマ(アニムス)と相補的な関係をもうと考えた。

 (有斐閣『心理学小辞典』


教育とカウンセリング①②講義メモ

2025年01月12日 12時54分20秒 | グリーフケア

パーソナリティの発達と病理①②③メモ(2)

2004年6月12日(土)教育とカウンセリング①②

清水幹夫

1)教育とは何か?

 教育⇒私たちはいろんな意味で使っている。

 Ex.あの人は高い教育を受けている、という場合は教育制度をいう。

 

 教育を人間形成という働き、と捉える。

 

2)なぜ私たちには教育が必要か?

 教育が必要なようにできている。大脳にその秘密がある。

 哺乳類の脳は、大脳にすっぽりとおおわれている。

 「新しい皮質」とも呼ばれる「大脳皮質」は知性の働き。

 「古い皮質」は下等動物ほど多くもつ。遺伝子の中に組み込まれている。本能的な働きをつかさどる。例えば動物は生まれながらに歩くことができるなど、もって生まれてくる機能。

 人間の大脳は「古い皮質」は少しで「新しい皮質」を多くもつ。「新しい皮質」は刺激を与えないと発達しない。大脳皮質をはたらかせて学習していくのである。人間は生まれてから環境の中でいろいろな行動を身につけていく。

私たちは死ぬまで大脳皮質を働かせながら環境の変化に応じて生き方を獲得していくのである。

 

(補足)

大脳皮質(cerebral Cortex)

大脳半球の表面を覆っている灰白質の薄い層で、系統発生的に新しい新皮質、古い原皮質、もっとも古い古皮質が区別される。これらは細胞構築学的にも機能的にも異なっており、6層構造をなす新皮質を等皮質、それ以外を不等皮質と呼ぶこともある。高等動物では大脳半球表面のほとんどを新皮質が占めており、その機能から感覚野、運動野、連合野などがある。

 

『人間はどこまで動物か』(岩波新書)アドルフ・ポルトマン

 

人間は生まれてから一年の間にものすごいいきおいで大脳が発達している。人間は一年早く生まれてくるのでお母さんのおなかにいる時と同じスピードで発達する。

大脳の細胞は140億(大人も子供も)。再生はできない。大脳は他の細胞とつながりをもって発達していく。インターネットのネットワークのようにこわれても他とのつながりで回復していく。

幼い子供の脳には言語の文法を受け入れる基本機能がある。(モジュール)

人間は、大脳にいろんなスィッチを入れていく必要がある。

生まれてから5-6か月まではいろんな反射機能をもらっている(生きるために)

    ↓

   中脳

    ↓

   間脳

    ↓

   10月頃から「新しい皮質」が環境に適応していくように働き始める。

   母親を認識して、人見知りが始まる。

   母親と母親でない人をわけている。

   歩きはじめる-誰かが手伝ってあげなければ歩けない。

   人と人との関わりの中で人間らしい生き方を身につけていく。

   ここがしっかりしないと大脳皮質は発達しない。

  自閉症:人間関係がうまくとれない。

  ①おとなしい

  ②凶暴な動物的な行動をとる。

 初期の人間的な関わりの中で「新しい皮質」をはたらかせて人間になって     いく。乳幼児の人間的な関わりがうすいとカウンセリングは難しい。

 

3)教育の本質

 ①教育の価値観

「伝える」ということが、子供が人間らしくなっていく上で大切。

 ⇒文化・価値・知識等を伝える、教える

  日本の学校教育では、「伝える」ことが中心。

  教育の中に伝える・教えるというイメージがくみこまれている。

  「教育」という言葉は、中国から伝えられた。

  『孟子三楽』(紀元前):教育という文字の意を調べてみるといい。

  先生の言うことをそのまま受けつぐのが教育だと私たちは思っている。

  

  問題の原因

   ①大学の教員養成課程では、いかに知識を伝達するかが重視されてい る。なにをどのようにおしえるか、というトレーニングを行う。

   ②教員採用制度-試験をパスしないといけない。

   ③初任者研修

 

 ②教育の開発観

  その子供がもっている能力を見きわめてのばしていく。

  個を大事にする。

  大正時代に入ってきた考え方。新教育-ベスタロッチ・ルソー等

    さわやなぎまさたろう(成城小学校)

    おばらくによし(多摩川小学校をつくった)

  日本ではあまり大事にされていないのが現状。

  ①も②も大人が子供にしてあげる、という図式。

   ↓ 社会の多様性により(変化が激しい社会)さらに別の考え方がでてきた。

 

 ③教育の自己教育観

 自分で自分の必要なところを伸ばしていく。自分で自分を変えていく能力-この能力を赤ちゃんの時から身につける。

 1960年代に登場してきた考え方

 1957年;ソビエトが人口衛星を打ちあげた-スプートニックショック

  ↓

 アメリカはあわてて教育から見直しはじめた

 日本も追随して教育改革を行う

 系統だてて教えようとする。

 1970年代:ゆとりの教育

 1990年~:「総合の時間」の登場

 しかし、なかなか「たくましく生きる力」は育たない。

   ↓

 問題点:文部省は教えられると思っているが実は教えられるものではない。

 今の子供たちは親や先生がすぐ答えをおしえてしまう。困った経験をすることが少ないので、「たくましく生きる力」が育っていない。→カウンセリングが必要。

自分の力で自分が抱えている問題を解決していく力を身につける作業を手伝う。子供が答えをみつけるまでつきあう。

 

なぜ今自己教育観が必要か?

 変化が激しい社会なので状況に応じて自分を変えていく必要がある。自分をつくりなおし続ける。

 自分で考えて自分で乗り越えていくという資質を養う。

  ↓

 カウンセリングが必要になってくる。

 私というものに関心が向けられている。

 

心理学でも自己への関心が高まっている

 対面で子供を育てる(人間とチンパンジー)

  ↓

 お母さんとの信頼関係を築くように私たちはなっている。乳幼児期の人間関係はとても大切。

 

カウンセリングもひとつではない。意識に働きかけていく場合もあれば、無意識・行動にはたらきかけていく場合もある。

どういうカウンセリングが教育と結びつきやすいか?

 

清水先生の自己生成論

私というひとつのまとまり=自己

1)私らしくしていることは、その人の枠組み、外枠をとらえる時のチェックポイントになる。

2)スクリーニング機能-私というスクリーンを通して現実の世界を受けとめ固有の世界をつくっている、内なる現実。

3)受けとめた世界で私たちは行動している、その行動には意味がある。

4)行動している時、有機体が反応している、NOというふうに体が反応する時、問題が起こる。

5)有機体がNOといい始めたら、私たちは自分の枠組みを変えようとする力が働く。

その人の問題はそのひとの宝物

 

自己生成指向カウンセリングのポイント

(カール・ロジャースの影響を離れた先生の自己教育観)

その人が無理なく今体験していることにちかづいていく。

内なる現実。その人がいま直面している問題を乗り越えていく方法をその人自身が見出すことが自己生成につながる。このプロセスを支えていくのがカウンセリング。

まず心理学の全体像をつかむ。

私たちが心理学と呼んでいるものは現代心理学。

 

ブントの「実験心理学」が出発点

ギリシャ時代、人間に関しての記述が始まった。

科学的にものをとらえようとした。思弁心理学。

この頃の哲学をもとに心理学が始まった。

  ↓

以後、哲学の分野で心理学がとりあげられていく。

哲学的心理学。

  ↓

15-6世紀 経験主義

  ↓

17世紀おわり、自然科学の領域が発達してくると心の問題も自然科学のひとつとして発展させていこうとした。実験が行われるようになった。

 

ブントの心理学を批判しながら、新しい心理学が生まれてきている。

 

まず、フロイトが批判の矢を向けた。

精神分析学-フロイトは臨床心理学の原点

 ラッシセル・ベーカー『フロイト』講談社新書、宮城音弥訳

 

カウンセリングは自分を生かして人と関わる(清水先生)常に自分を見つめ直していく。

子供の頃が下地になる。人とコミュニケーションがとれないとカウンセリングはできない。

 

フロイトはユダヤ人、ウィーンで育つ(ドイツ語圏)

ヒステリーの研究から出発

五体満足なのに病的症状を訴える。

  ↓

催眠療法に関心をもつ

  ↓

私たち人間には自分の気付いていない世界がある。

無意識の世界に追いやる=抑圧

  ↓

催眠療法には無理があることに気づく。

自由連想法の発見-無意識の世界を自覚してもらう、わたしたちに普遍的にある。

根底には性欲がある。

リビドー、すなわち広義の性欲が心のエネルギー源とみなした。

 

夢-無意識の入口、“夢の解釈”が精神分析学の出発点となる。

自我が強い-無意識の世界の欲求を現実にあわせて調整する力が強い。

 

新精神分析学派

 フロイトの精神分析を批判

 環境要因を大切にする

ユングの分析心理学

 (スイス、白人)

 生い立ちから理解する

 宗教派の家庭に育った

 4歳の時、母親が分裂病になる

 父親は牧師だが、外面はよくても家では不安定

 愛情を受けられない、満たされない思いを読書で満たした、読書力があった

 勉強ができすぎた為周りから孤立、孤独

 ビジョン(空想)をよくみる、空想家、全知全能の神があらわれる

 精神科の医者になる

 ブロイラー(当時の有名な精神科医)の指導を受けながら、分裂病の患者と関 わる

言語連想の研究を行った

分裂病の患者は自分と同じビジョンをもつことに気づく、

ビジョンはどんな内容でもその人にとって重要な意味をもつ、成長に関わりがある、自分がビジョンによって孤独をのりこえた、フロイトの『夢の解釈』を読む

 

1907年、フロイトに初めて会う、ビンスワンガーと一緒に行く

1915年までフロイトとの交流は続く、

フロイトに破門され各地を旅行した時、人類共通の無意識があることに気づく

→遺伝子に組み込まれた集合的無意識 

 

『元型と象徴』(1919年)分析心理学の原点、ペルソナ・アニマ・アニムスセルフ

 

精神分析学との違い

 自分の中にある元型を表に出すのが治療。

 象徴化される、このプロセスが治療。

 遊戯療法-日本では児童に面に活用される。

 箱庭療法(河合隼雄)、コラージュ(杉浦)

 終わったあとでお話をする、解釈はしない、分析もしない。

 コミュニケーションを大切にする。


パーソナリティの発達と病理①②③メモ(2)

2025年01月06日 00時47分08秒 | グリーフケア

パーソナリティの発達と病理①②③メモ(1)

 

2004年5月29日・6月5日(金)パーソナリティの発達と病理①②③メモ(2)

笠井仁(筑波大学心理学系) 

 

(補足)用語解説

防衛(defense)

 個体の安全性と恒常性を危険におとしいれようとするあらゆる変化を減少・消滅させることを究極目的とする心的操作のこと。

とくに不安は、自我の体制を崩壊させる危険をはらむゆえに、防衛は不安に対する自衛の手段である。

この操作は少なくとも部分的に無意識に行われ、防衛機制と呼ばれる。

昇華、同一化、投射、とり入れ、置きかえ(転移)、退行、折衝など、この機制は様々であるが、抑圧がその根本である。

 

昇華(Sublimation)

 ある目標が社会的な承認を得にくく、また自我によって拒否される欲求(たとえばあらゆる性的欲求、攻撃的欲求など)が容認可能な行動に変容して欲求を満足させること。

 

同一化(identification)

 同一視ともいう。個人が自己にとって重要な他人の外観・特性などを手本とし、それにしたがって、部分的・全体的に自己を変えようとする心理的過程を指す。広義には、模倣、感情移入、共感、精神的幹線、投射などを意味している。

同一化はまた防衛機制の具体的な操作として考えられる。

自我が不安によっておびやかされるとき、その不安をよびおこす源泉である他者との感情的結合によってその解消をはかる。

 

抑圧(repression)

 個人がその本能的欲求(性や攻撃など)に結びついた思考、イメージ、記憶などを無意識の中に押しもどすとか、無意識の中に留めようとする精神作用をいう。本能的欲求の充足は、それ自体としては快感をもたらすものではあるが、その充足や満足は、それと対立する他の欲求に対して不快を誘発し、そのために本来の欲求満足が個人に重大な不安をよびおこすことになる。これは無意識界をつくり出す動きである。

 

フロイト

 一次過程-手を加えていないそのままの思考、心の動きがない、防衛力がない、からそういうことはないだろう。

      ↓

 二次過程-防衛機制がはたらく。

 

防衛機制の基礎

 抑圧という防衛機制の背景には、「かわす」ということがある。決して悪いことではない。

 

資料NO.3

遺伝と現場:パーソナリティは遺伝するか

・家系研究が行われていた。が家系だけでは説明できない。むしろ環境。

遺伝がないわけではないが環境が大きい。

 

双生児研究

 一卵性双生児-遺伝情報が同じ:必ず性別が同じ

 二卵性双生児-遺伝情報が違う(染色体が違う):性別が異なることもある

 

結果-

一卵性の方が数値が高い。(一致する度合いが高い)

さらにいっしょに育てられた方が数値が高い。特に一卵性の場合、一緒にすごしていると数値が高い。同じ遺伝情報をもっているから。一緒にすごしていることも大きな要因。さらに一致しない例もいっぱいある。

  ↓

遺伝の影響は無視できないが、いろんな環境要因がパーソナリティを形成している。出会う出来事もさまざま。あきらかに遺伝の影響はあるが、それよりも環境の影響がもっと大きい。遺伝の影響=ある特徴が遺伝するということは必ずそうなるという運命的なことは意味しない。回りの要因で精神病の要因となるストレスを回避できる。環境も含めて人間の行動につながっている。

知能・精神病も似たような傾向を示す。

 

ネズミを使った行動研究(筑波大で行われている)(ネズミは世代交代が早い)

 情動性は遺伝によってはっきり規定されていることが示されている。

 人間でいえば緊張しやすさなど、気質的な側面。

   ↓

 この上に人間は環境がある。

 

何がいいパーソナリティとされるかは、時代の影響を受ける。

明るく元気がいいと今はされているが、明るいばかりがいいとはかぎらない。

カウンセリングは明るい人をつくるためにやっているわけではない。

場に応じてメリハリをつけてふるまう。

調節できることが健康。

 

父親不在という問題

 子供が最初にふれるのは母親でるという事実。

 家の中で物理的、心理的に不在になっているかどうかでちがいがでてくる。

 物理的にはいなくても心理的にはいるということもある。

 父親なしに子育てはありえない。

 

ソーシャルサポート:支えは大切

虐待の場合など、ズレ具合を病気とみなすかは本人と回りが困っているか

どうかが判断基準のひとつ。

 

資料NO.6

病理をどうみるか、なにをもって病気とするかは相対的

3つの視点、名前をつけるとその病気がつくられるという面がある。

ズレている人をみるときの一つの視点としてとらえる。

①同一性統合性:自分というまとまり。

②防衛操作:自分の思いをどうコントロールできるか。

③現実吟味:現実をそのとおりにとらえることができるかどうか。

 

資料NO.7

パーソナリティの病理

人格障害というと何か仰々しいが、何がいいとされるかはその社会によって

変わる。相対的。

精神病とはちがう。ものの感じ方、とらえ方にズレがある。

ちょっとズレている人に出会った時、その人を捉える視点のひとつ。

 

行為障害(18歳未満)-反社会性人格障害

警察では非行少年を指す。

精神医学の分類の中で名前をつけようとしたら

こうなった。精神病ではない。

その行為を精神の問題とみなすかどうかという問題。

 

あるパーソナリティだから病気になるということではない。

関係のあることが、原因と結果を意味しない。

いろんなことが関わってくる。

ある事柄はいろんなことがつながって起こる。

わりきれないことが多い。

あいまいなことをあいまいなままにしておくことも大切である。

いろんな状況を扱いながら問題解決の手助けをするのが

カウンセリング。

 

河合隼雄『無意識の構造』(中公新書)


パーソナリティの発達と病理①②③メモ(1)

2025年01月04日 19時18分02秒 | グリーフケア

カウンセリング総論-2004年セスクカウンセリング総論②

 

2004年5月29日・6月5日(金)パーソナリティの発達と病理①②③メモ(1)

笠井仁(筑波大学心理学系) 

 

映画『イヴの3つの顔』(実話、1950年代:きわめて珍しいケース)

①抑えこまれていた自分-イヴ・ホワイト-おどおどした女性、

②ブラックの存在を知らない、ブラックが顔を出すとき記憶喪失になる

③のびのびとした自分-イヴ・ブラック-きらびやかな女性、ホワイトの存在を知らない

 バランスをとろうとしている自分-ホワイトの存在を知っている。時間のホワイトとブラックの中間のつながりがよみがえってくることで解決した。

このようにお互いに知っている、知らないということがおこるのが多重人格の特徴、勝手に切り替わる。一方通行的忘却。

同一性:その人が一人の人としてつながっている。

多重人格という言葉は今あまり使われない。解離性同一障害の中に含まれる。同一性がばらけている。同じ身体の中でそれぞれの人格がまとまっている。まとまりをパーソナリティと呼んでいる。

同一性とは、

  • 過去・現在・未来の時間軸でつながっているという実感。
  • 他でもない自分であるという実感。

 私たちは場に応じて意識的に意図的に自覚しながらふるまいを変える。多重人格は無意識に勝手にこうなる。だから病気。自分でやっているとは思っていない。でもあきらかに自分がやっている。自分で自分をコントロールできれば病気ではない。

講談社プラスアルファ文庫『イヴの3つの顔』1950年代

『シビル』『私の中の他人』ハヤカワ文庫:1960年代

シュライバー著、 16人格、イヴを知っている、多重人格者がふえはじめる。

『24人のビリー・ミリガン』ハヤカワ書房:1970年代後半

 ダニエル・キイス著 シビルのケースを知っている。アメリカで多重人格者が激増。

北米に多い。自己主張が強いという下地がある。

こういう病気があるのを知ることで病気になる、意識はしていないが、なりやすい素地をもっている人が反応する。文化の中に反応レパートリーがある。社会の中でつくられる。

私たちは本当に意図的に意識的に自覚的に動いているわけではない。そう思いたい、という場合もある。

1970年代後半日本では記憶喪失が激増。自分を殺して人を生かすという文化が下地にある。

パーソナリティは文化の中に何があるかでずいぶん異なってくる。

パーソナリティはつくられる。

 

多重人格になる要因

虐待⇒アメリカでは虐待の基準が低い。

 身体的虐待・精神的虐待・性的虐待

親⇔子 同じ相手(親)に対して苦しみと愛情というマイナスとプラスの相反する思いをもつ。この二つの思いに適用しようとして努力の結果、無意識に多重人格になってしまう。強いストレスにさらされる。

アメリカでは心の問題の原因がみんな虐待にあるという話になってしまう。虐待の事実がないのに、あったかのように記憶がすりかわってしまうこともある。

記憶が再構成される。オーディオテープのようにそのまま記憶がはいっているわけではない。客観的な記録ではない。

私たちは記憶をつくろうとしている(カウンセリングにとって重要なこと)

都合のいいように思いとどめ、都合のいいように思いおこす。

虐待の事実を追究することではない。

それが苦しい思いとしてクライエントにある。その苦しみをやわらげていくのがカウンセリングにとって重要なこと。

 

記憶との関連で-

苦しい思いだけが残ってしまう、という事実。(臨床的に)

ex.PTSD(脳内の伝達機能によっておこるのではないか、と言われている)

安心できる場で発散するという方法で解決していくことができるのではないか。発散したからといってその苦しみを忘れないでいるしっかりとした自分でいることが大切。忘れようとすればするほど忘れられなくなってあくせくする。

REM睡眠:眼の筋肉は休んでいるが脳波は起きている。

 Rapid(急速) Eye(眼) Movement(運動)

 視覚的イメージの強い夢をみることが多い。疲れている時眠りにはいってすぐこういう状態になりやすい。かなしばりは生物学的現象。

資料NO.2

心理学的用語としての人格と性格

人格:北米で使われる、オルポートが使い始めたのがきっかけ。アメリカの人は横にずらす考え方。

性格:ヨーロッパの人が圧倒的につかっていた。ヨーロッパの人は縦に積み重ねる。

層という考え方をする。

第二次大戦以降、学問の中心はアメリカに移る。性格研究ではなく、人格研究がなされるようになった。

 

ヨーロッパの体液学説(2世紀、ガレノス)

火-黄胆汁

電気-血液

水-粘液

土-黒胆汁

 

これらがまざって「気質」になる、まざりぐあいによって性格にちがいがある、土星とのつながり、形のない心を形あるものとして捉えようとした現れである。四大元素と深いかかわりがある。

天文学・シェイクスピアとのつながり

 

形のない心をどう捉えるかがパーソナリティ理論

1.類型論-Typolagyタイプ、ある個人はどこのグループに入るかを考えていく。

2.特性論-trait、treary、明るい・いい人・強い人etcという分け方にはそれぞれ程度がある。どの程度どんな特徴をもっているかを考えていく。

3.力動論-dynamic theory 心の中の力関係(葛藤)を問題にする。

 

クレッチマーの類型論:20世紀初頭の精神科医、ヨーロッパ

当時の3大精神病

①精神分裂病(統合失調症):思春期におこる、自分から何かしようとしない、支離滅裂、関係に敏感になる。

②躁うつ病-罪の意識にさいなまれる妄想。気分の病気。一般の気分の落ち込みとは違う、お先真っ暗な沈み方、中年期におこる。

③てんかん-神経の病気、今では精神病ではない。脳の中で電気が波のようにおこる状態。薬で治る。

それぞれの体格に特徴がある。また、精神病患者がもつ特徴は、一般の人の中にもある。そういう一般人の中にある特徴は体格と関係がある。『体格と性格』、いまではあまり取り上げられることはない。

問題点①年齢によってなりやすい病気がある。体格のちがいは年齢のちがいであって、病気との関係ではない。②主観的な分け方、見た目に左右される。印象形成、社会心理学の域。

 

Jungユング:精神分析論者

内向型・外向型⇔特性論の表現のもとになったことば。

リビドー(心のエネルギー)がどちらに向かうかによってタイプが異なる。

フロイトと仲たがいにしてしまう、フロイトはもともとは神経について研究していた科学者。ユングにとってショックなできごと。

フロイトに最初に切り捨てられたアドラー(内向型)とフロイト(外向型)との様子をみていて何故二人はうまくいかないかを考えた。人間には違うタイプがあるということから出発して内向型と外向型にわける。

個人的な体験・思いが普遍的な理論になっていく。

 

ドーパミン・アドレナリン・セロトニン→脳内の神経伝達物質、なんらかの形で心の働きとかかわっている。名前をつけて形があるように思えると安心できるように思える。これで心が決まるとわかれば安心できる。

 

特性論

いろんな人がいろんなことを言ってきた中に共通して出てくるものがある。

5因子モデル-この5つがあれば個人の特性を十分説明できるであろう

・情緒不安定性:神経症傾向

・外向性:ユングの外向型

・経験への解放:物事に心を開けるか

・協調性

・良心性:誠実性

 

力動論

 いろんな心の中のぶつかりあいに基づいて考えていく。精神分析が中心。

フロイト『夢判断』(1900年)(ウィーンで仕事をしていた、ドイツ語)

 

精神分析という方法:お話治療の基本をつくった。(19世紀の終わり頃)

人間は意識の表に出ていない無意識の部分が多くある。それ故に心身の悩みが生じる。身体の症状に出て来る-心因性-さらに追究していった。

 

フロイトの精神装置図(心のモデル)

ES(無意識):心の中のつきあげ、欲求、欲望、

 セクシャルな部分のたまり場、英語ではId「それ」itに相当する。

  • 言いにくいことを間接的にあらわす。
  • 自然現象をいいあらわす(天気など)

 自分の中にあって自分の思いどおりにならないもの、という含みをもつ。欲求は必ずしも思いどおりにはならない(自分の中の自然現象をあらわす)

    ↓

 抑制がはたらく、私がいろんな思いに折り合いをつけようとする。

ICH(意識):私がいろんな思い、つきあげの折り合いをつける

  私、英語では自我(ego)

 

パーソナリティを決める要因

  • ES(無意識):人によってこだわり、なにをしたいかはちがう、どういう欲求につき動かされるかは人によってちがう。ああしなければ、こうしなければ・・・にがんじがらめになっている人もいる。
  • UBERICH(超自我):super ego 上位にある自我(自分の上にあって自分をみはっているもの)良心・道徳など。
  • ICH(自我):ego 私のとりなし方(防衛機制)・自我の調節の仕方、

 

精神-性発達:比喩的にとらえていく

 大人の心の中をみてみると子供時代にこういう発達をしてきたに違いないとフロイトが再構成した発達モデル。実際に子供はこういう発達をしていない。

0歳:口愛(唇)期 oral phase

 お母さんに。オッパイをもらう時期(人まかせ) 口まわりの欲求に支配されている。

依存的=かみつく、あくなき欲求 日本語では「甘え」 依存の表現 味覚 『甘えの構造』土居健郎 もう少しして歯が生えて来ると十分に満たされない部分にこだわる。

「くってかかる」という表現は攻撃的な意味あいをもつ

 

1歳半:肛門期 anal phase

 トイレットトレーニングの時期(おしめのしつけにかかる時期)

 自分を律することができるかどうかがテーマ。肛門を閉める、ゆるめるを自分の意思で できるかどうか。

 ケチは肛門性格の代表:しまり屋

 

3歳:男根期 phallic phase

 エディプス期 男根は男の子にとって力の象徴

 エディプスコンプレックス Oedipus Complex

 「エディプス王」ギリシャ悲劇のひとつ、父親殺しがテーマの物語

 男の子には父親を殺して母親を手に入れたいという普遍的な思いがある。同性である父親に競争心をもつ=同一化。でも手に入れることはできない。だからComplex 自分はお父さんと同じだからお母さんにかわいがってもらえる、と考えることで自分の思いに折り合いをつける。強くなる。競争心が生まれくる。なんでもかんでも競争としてとらえる性格になってくる。親の価値規範をとりいれていくことでもある。

 →力を抑えつけようとする。男の子がもっている力を刈り取る、「おまえのようなチビにはなにもできない」と大人が言う-去勢と比ゆ的に言う。

 

女の子の場合はどうか

  エディプスコンプレックスをひろげていくと同性の親を殺して異性の親を手に入れたいというエレクトラコンプレックスになる。しかし、男の子と女の子には親とのありように違いがある。質的なちがい。

 女の子は手に入れたものをすててしまう。

 →思春期になると自分の支えになるものを失う

 →思春期の不安定のもと、摂食障害等女の子がなりやすい。エディプスコンプレックスだけでは説明しきれないということ。

 

資料NO.5

自我の発達と病理

基本的信頼感(エリクソン)

自分が自分として存在している価値がある人間なんだということを実感として感じ取ることができている。特に母親との関係が背景にある。

 

対象関係論

 対象-親のイメージ-自分の中で世界を作っている(ユニコット)-自分が安心していられる-自分が存在していいんだ。

自分にオッパイをくれるお母さんもオッパイをくれないお母さんも一つのお母さん像としてまとまっていく。

心の中の親のイメージとのつきあい方。自分の心の中にどういう親イメージがつくられていくか。子供が母親の姿がみえなくなっても一人でいられる→お母さんのイメージが心の中にできるから戻ってくるという確信がある。いいお母さんも悪いお母さんも一人のイメージとしてまとまってくる。

 

防衛機制

 いい防衛機制と悪い防衛機制がある。どういう防衛機制を使うかがその人を特徴づける。心のまとまりの悪さの目印として精神病ということばを使う。逆により健康度の高いまとまりのあるものとして成熟した防衛という言い方をする。

成熟した防衛は心のとりなし方、自我のはたらき。

なんの加工も加わらない、そのままであるのは問題。

普通は人間の思考に加工が加わる。そこに防衛ということが関わってくる。

そのままということは、心のはたらきがないということになるのでありえない。

カウンセリングは上手に防衛する術を身につけるものであるということができる。

上手に防衛する。そういうことを援助していくのがカウンセラー。


カウンセリング総論-2004年セスクカウンセリング総論②

2024年12月30日 14時33分51秒 | グリーフケア

カウンセリング総論-2004年セスクカウンセリング総論①資料より

「フォロー・ミー」-2004年5月カウンセリング総論②資料より

 

2004年5月21日(金)カウンセリング総論②講義メモ

上嶋洋一(京都保健衛生専門学校非常勤講師)

 

①相手の世界にまずどっぷりとひたること、感じる/味わう/生きてみる。

②距離をおくこと。

この二つを繰り返しながら少しずつ相手に近づいていく。

①を振り返ってみる。自分が経験したことを読みといていく。人を見た目だけでは判断できない。まず相手の世界にどっぷりひたってみることがカウンセリングでは重要(看護学校の講師の経験から「フォロー・ミー」の文章)

 

指示的カウンセリング

①一生懸命相手の話をきく。

②どこにモンダイがあるか判断する。

③適切なアドバイスを行う。

30年以上前に先生がカウンセリングにもっていたイメージ。しかし、「非指示的」カウンセリングを体験した。

 

非指示的カウンセリング

(1)responseを求めている(answerのレベルを超えて)→アドバイスを求めているのではなく、いちばんきいてほしいことは実は一番いいたくないこと、一番わかってほしいことは一番知られなくないこと、というパラドックスを私たちは抱えている。この逆説をカウンセリングは読みといていく。ここからすっと言える人は少ない。遠くの話から入っていって、この人なら話しても大丈夫だとなった時核心に近づいていく。

(2)それまで勉強ばかりしてきた女子学生がはじめて男の人を好きになった自分がいた。はじめて男の人を好きになった自分を許せている自分がいた。しかい、相手の人には妻がいる。→こうした場合、きく側がアドバイスできるようなことは彼女がとっくにわかっているので言うことがなくなり、ただうなづくしかなくなる。安易な指示はもはや無意味。その時はじめて話す側と聞く側に対等な世界が生まれる。

(3)①自分の思いをそのまま受け取ってもらえないから私たちには悩みが生じる。だとしたら、その思いをそのまま受け取ってもらえるだけで私たちの悩みの大半は消えていくのかもしれない。

②相手の差し出した手をにぎり返す、抱きしめる。「他にも人がいたにもかかわらず、ぼくの所へ来てくれた」→こうした思いをこめて握りかえすことで相手に生きる意欲がわいてくるのではないか。

 

リレーション(国分康孝の言葉):相手との間にいい関係をきずく。自分がクライアントと向い合った時、いいリレーションの関係をたくさんほりおこす。ほりおこした経験を距離をおいて自分の言葉で語ってみる。なにがよかったのか考えてみる。

 

いい関係をきずく時必要な条件

国分康孝

(1)非審判的・許容的雰囲気-とんでもないことをしている人に対して「あなたほどの人がそうせざるを得ない。よっぽどのことがあったんでしょうね」と言ってもらえたら人は楽になる。こういう感覚は、非審判的・許容的雰囲気に身をおくための手だて。裁きがない、許容的。「もっとやっていいよ」ということではないことを伝える。

(2)共感性-うてはひびく関係

(3)好意:相手のことを好きになる。

 ①相手を好きになるためのアンテナをはっておく。例えば苦手な人のいい所 をみた場面を思いおこす。

 ②どうしても好きになれない時、そういう自分を受け入れる。そのかわりなぜ好きになれないかを自己分析しておく。無理に好きにはならない。

(4)無構え-リラックスした格好で相手を受け入れる姿勢をみる。くずれすぎずかたすぎずのあたりが大切。肩の力を向く。

(5)Give&Take ①愛情②物③言葉  Giveの方が大事だと教わってきたがTakeの方が大事だと考える。ささやかな物は受け取る。心の底から受け取る。二人の関係が深くなる。

愛を受け取ってもらえない時、人は相手に拒絶されたという感覚をもつ。赤ちゃんがミルクをのんだ時嬉しいのはのんでねという私の思いを受け取ってくれたからである。(精神分析では、食べ物は愛情表現)もらう/受け取る。心の底からもらうことがGive&Takeのいい関係をきずいている。

(6)コミュニケーション-(1)から(5)までの条件が相手に適切に伝わらなければならない。HowToを軽んじる風潮が日本にはあるがどうやって伝えたら相手が幸せになるかを工夫できるのは大切なこと。伝え方を工夫できる。

 

 私たちにとって最終的に大切なことは「あの人との関係はよかった」「あの人との関係はあたたかだった」そういうものを思い起こし、なにがよかったのかを自分の言葉で語ってみる。言語化。わたしたちは自分の感覚でしか動くことができない。いろんな理論は言語化の助けになる。カウンセリングにおいて大事なのは相手との間にいい関係をつくっていくこと。最終的には自分のこういう感覚を大事にしていこうというものを言語化すること。

 

 

Ⅲ言語行動

 言語行動そのものを学ぶのではなく、そのうしろにあるカウンセリングの精神を感じ取ってほしい。

(a)「なぜ」と問うことはモンダイが単純でない場合、相手を追い詰める。私たちが出会うモンダイの多くは単純ではない。

(b)~(d) 相手とズレる可能性がある。(それぞれわかってもらえたような気がする言い方はあるが)

(a)から(f)の全部の、それぞれの長所と短所をわきまえて全部仕えた方がいい。

 

 

Ⅳカウンセリングの技法

 相手の世界にどっぷりつかる。理解するために(1)から(8)の技法を用いる。

 

本当にわかってもらいたいことがいちばん言えないこと、というパラドックスを解きほぐしていく。

相手がふれられたくないことにはふれない。(上嶋先生の場合)

その時自分にできることを精一杯の応答をして、相手の反応に全神経を集中させる。

相手の反応をみながら軌道修正していく。

とんちんかんな応答も大切。クライアントが理解していないことをわかって説明してくれる。そこで軌道修正すればいい。

いちばん言えないことにたどりつくことではなく、自分の話を一生懸命きいてくれて、何か言ってくれる人がいる、ということが大切なのではないか、問題は解決していなくても。うまく返すことができなくても、いやしになるのではないか。

 

(1)カウンセリングと日常会話のいちばん大きな違いは沈黙の多さ。意味のない会話にも意味がある。

①動きのある状態-クライエントがひととおり話しおえた時こういうふうにきいていますよ、と伝えかえすとある種独特の沈黙が生まれる。(カール・ロジャース)→より深いなにかが生まれる。

沈黙のなかにより豊かな実りのあるものが生まれている。この時クライエントの「対話」を邪魔しないでその沈黙によりそってみる。

②「動きのない沈黙」-カウンセラーの度量によって限界がある。限界をこえて放っておくことは、クライエントを見捨てていくことになる。耐えきれなくなった時カウンセラーの気がかりを率直に伝える。「気にかけているよ」

 

(2)「受容」-相手のことを受け入れるというような哲学的なことではなくて、言語行動としての「受容」。

受動的なようであるが、前を向いている。カウンセラーが自分の価値観は一時わきへおいて「裁いたりしないで聴いていますよ」ということを伝え、また「あなたのおっしゃることは、そこまではわかりましたよ」ということを伝える。声はおのずと落ち着いてくる。

なぜそういう行動をとっているかを期待することによって自然なうなづきが生まれてくる。ただうなづけばいいだけなのに、なかなかできないことがある。

①自分の価値観がジャマして、相手が本当に伝えようとしているものが伝わってこないことがある。(日常生活でよくある)

②カウンセラーの側に、なんらかの「答え」があるという逆説。相手の話をきくよりも自分の中に生れてきた答えを相手の心におしつけようとする。正解があればあるほど、相手の声がきこえなくなる。正解・回答が生まれてきた時こそ要注意。

 

(3)繰り返し

  相手の話のポイントをつかまえて繰り返す。 どこを繰り返すかによってポイントがちがってくる。(相手のことばを使って繰り返すことはズレる可能性があるがとんちんかんな応答にも意味がある) オウム返しはしらけてくるが、きちんと繰り返すことは大切。なんのために繰り返しているかを自分に納得させておくことが必要。

①相手のことばを繰り返すうちに相手の世界になじんでくることがある。なじみがでてくると相手に近づいていこうとする心が生まれてくる。

ex.母親と幼児の会話、その人にとっての大切なことばがある。

必ずくり返さなければならないことば

(1)相手から繰り返しでてくることば。

(2)文法的にはおかしい。日本語としてはおかしい。→そういう言い方をしなければ伝えられない何かがあるから、あえてそういう言い方をする。

=大切なことば

そのまま味わい、しみこませることで、その人独自

世界に近づいていく。「いのちと生きる」「生きるために死んでいた」

②「もう一人のその人」になる。

 悩んでいる時私たちはいろんな人の声でいっぱいになって本当に自分のしたいことが見えなくなる。そんな時もう一人の自分なってくれるカウンセラーがいることで他者の声がぬけていき、本当の自分の声がきこえてくる。

 

本当にきいてもらいたいことがいちばん言えないと、本当にわかってもらいたいことがいちばん言えないと、というバラドックスを、悩むわたしたちはかかえている。そこを解きほぐす手立てがきわめて重要である。

上嶋先生の方法-その人が伝えいことから優先する。いちばん言えないことにはまず触れないでおく。

 

(4)明瞭化-わたしたちのすげての会話に入っている。ex.「東京ってどっち?」

 ①「あっち」:この人は方角を知りたいのかなあという明瞭化のプロセスを   ふんでいる。

②「あなたは家が恋しいの?

③「方角が知りたいの?」

 カウンセリングのイメージとして早わかり、一をきいて十を知るということがあるが、カウンセリングでは日常会話でとばしているものを 一つ一つ確認しながら進んでいく。カウンセリングの会話はまどろっこしい。

原則-相手がういう感じかを確認してから自分がどう思ったかを伝えていく。

(5)解釈→できることならさけたい。

・意識にのぼってきては都合が悪いから、無意識の世界に追いやっている。  (フロイトの無意識の世界)

・相手の意識をコントロールしようとする解釈がある。

(6)「質問」が上手にできる人になりたい。

 相手の関心の表明しての質問、質問いう形で相手への人間的な関心を     伝える。こうして自分への関心を示してくれた子供たちによって幸せを        感じた。自分の存在が誰かを幸せにできている。そのことを実感すること       にまさる幸せはない。

・相手の自己洞察を促進する刺激剤。アドバイスでは提供できず質問の形だからこそ提供できるものがある。→自分の人生のモンダイを自分の力で解くことができたんだという相手の自己信頼が生まれる。質問の意味と意図を明瞭にしていく。

クライエント「先生、人はなんのために生きているの?」「生きている意味は何?」

カウンセラー「とても大事な質問のようだけど、どうしてそのことが気になるの?」

 →このように問われることによってその問いを問わずにはいられない自分を語ることができたことが、クライエントにとって重要だった。「なんのために生きているか」の答えを求めているのではなかった。このような質問をすることによって相手の世界に近づくとができた気がする。

 

感受性とはなにか。

わかってもらいたいけど言えないことをつっこんでいくのか、それが言えない、というところを受け取っていくのか、どちらを重視するか、という感受性をみがいていく。

 

上嶋先生のアプローチ

 その時自分にできる精一杯の応答をしながら、次の相手の反応に全神経を集中させる。それによって軌道修正していく。相手に影響されるカウンセラーが安全なカウンセラーかもしれない。カウンセラーは相手の杖。

いやされるのは解釈のことではなく、そういうことばを言ってくれる人がいる、ということが重要なのではないか。それで問題が解決するわけではないが・・・。


「絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ~」

2024年09月04日 13時33分27秒 | グリーフケア

(乳幼児精神保健学会誌Vol.7  2014年より)

「今の日本の状況は子どもの未来にとって、とても危機的な要素がたくさんありすぎると思っています。

 例えば、ネット社会の中でスマホなどが普及して様々な機器に触れる子どもたちが、それを手にしていないと心が不安になってくる。やめようと思ってもやめられない。言うならば依存症、一種のAddictionという状態に陥っている子どもたちが、中学生と高校生あわせて全国で52万人ぐらいいるわけです。大変な時代だと思います。それから、調査によると9割は、なんらかのいじめを受けているという報告がごく最近出されています。しかも家庭内におけるDVや虐待といったようなことが、しばしば報じられています。この数年で、虐待を受けて亡くなった子どもたちがもう3ケタを数えているんです。この国は豊かになったはずなのにいったいどうなっているんだろうか。こういう根本を問われるような状況ではないかと思います。

 私は東京杉並区の武蔵野時代からの木がわりとたくさん残されているところで山小屋風の家を借りています。とても環境が良いところでタヌキが住んでいます。そのタヌキはつがいで、毎年春に6匹子どもを生むんです。リスのような小さい体がチョロチョロしはじめるのが、早い年は4月でした。今年は、なぜか遅くて6月の初めでした。観察しえいると家族の絆っていうのかな、お父さんもお母さんも子育てにものすごく熱心なんです。野生の動物の場合、親は一生懸命ダニ取りをする。舐めるようにして、子どもの体をきれいにするんです。子どもはだんだん大きくなると今度はお父さんお母さんのダニ取りをします。そして兄弟が毎日一緒にもつれあうようにして育っていく。それをお母さんが、大きな木の根っこの定位置から座って見守っているんですね。そしてカラスが襲ってくると猛然と防御する。子どもを守るため、お父さんは必死に走ってカラスを追い払う。そういう日常を見ていると動物も人間も子どもを産んで育てることが、いかに大きくて大切なことかつくづく感じます。」

 


「フォロー・ミー」-2004年5月カウンセリング総論②資料より

2024年05月29日 13時16分19秒 | グリーフケア

2004年5月21日(金)-カウンセリング総論②資料-「フォロー・ミー」

 

「フォロー・ミー」

 

上嶋洋一(京都保健衛生専門学校非常勤講師)

 

 キャロル・リード監督の「フォロー・ミー」という映画があった。

 

 結婚後間もない夫が、妻の行動に不審を抱く。“妻とはこうあるべきはずだ”という期待通りに、妻が生きてくれないからだった。他に好きな男ができたのではないかと疑った夫は、一人の探偵を雇う。その日から、その探偵が妻の後をついて歩く。常に一定の距離を置いて。決して口はきかずに。ただひたすら彼女の後を。しかし、彼女のあとをついて歩いていたその探偵が皮肉なことに、その彼女にひかれていく。自分の人生の中に一生懸命意味を見つけようとしている彼女の姿にひかれていくのである。調査の報告をする日、夫が問う。「どうだ、やっぱり男がいただろう」。その問いに答える代わりに探偵は言う。「今日からはあんなが、あんたの奥さんの後をついて歩いてご覧なさい。常に一定の距離を置いて。決して口はきかずに。ただひたすら彼女の後を。(そうすればあんたも、もう少しましな男になるかも知れない)さあ、お行きなさい」と。

 

 私は今、京都にある定時制の看護学校の非常勤講師をしている。定時制の学生たちのことを想う時、いつもこの映画が私の心に浮んでくる。もっと早く、彼らの後をついて歩くことができていたら、そしてその世界の少しでもいいから、自分の目で見、自分の心と身体で

味わい、自分のものとして感じることができていたら、自分ももう少しマシな男になっていたような気がするのだ。

 

「朝8時30分~12時30分、夜5時30分~9時まで、看護助手として働き、そして昼1時20分~4時30分まで、この学校で勉強している。毎日毎日、仕事と学校に追われて、時間が超特急で過ぎていく。しんどくて、イヤで仕方がない日もあるけれど、「頑張らないとなあ」と思いながら毎日を生きている。「なんでこんな生活しなあかんの!もう辞めたい」と思いながら、辞めないのは何でかなあと、時々ボーと考える。私は中学校に入るか入らないかの頃に看護婦になりたいと思った。でもその頃は、ただ白衣に憧れていただけかも知れない。現実は仕事はきついし、人間関係は複雑だし、毎日、身も心もボロボロ。「辞めたら楽なんだろうなあ」と思うのにやめられない。なぜかなあ・・・。たぶん、辞めても、できること、したいことがわからないし、途中で放り出すということに対する自分のプライドもあるし。それと、何回か、仕事で、「看護婦やってて良かったなあ」って思えたことがあったが、それも関係しているのかなあとも思う。」

「手術室看護にたずさわって4年目を迎える。夜に緊急のOpeの呼び出しで飛び起き、雨でも雪でも病院に駆けつけたり、デートの途中であっても、彼氏をおいてけぼりにして走りだしたり、大手術の前は、何時間も手術の勉強をしたり。夜中に血だらけのOpe室に入り、青白い顔でうなっていた患者さんと、2週間もたてばエレベーターなんかでバッタリ会ったりする。その時、胸がいっぱいになる。きっと、苦痛と不安の中、患者さんは私なんか覚えていないし、存在すら知らないと思う。「あなたの手術のために、私は一週間も前からずっと勉強し続けていました。あなたの手術のためにあの日彼を怒らせてしまいましたよ。私はあなたのために頑張ったんですよ。病棟のNsみたいに、いつもそばにはいなかったけど」・・・そんなふうに、元気になった患者さんに言えればいいけど、でも、「ああ無事に終わって良かったな」「出血が、思ったより少なくて良かったな」と心の中でつぶやいている看護も、まあいいかなと思ったりしている。」

 

 寝てばかりいる学生の向うに、こんな世界があることを、しばらくの間全く想像できず、彼らを(口にこそ出さないが)責めてばかりいたころの自分を思い出す。彼らを好きになれなくて・・・好きになれない自分をまた責めて・・・。「いっぺん見に来い!」といってくれた学生に感謝したい。

 

(『筑波大学臨床心理学会会報』1996年No.11,2頁)


カウンセリング総論-2004年セスクカウンセリング総論①資料より

2024年05月28日 00時41分30秒 | グリーフケア

2004年5月14日(土)カウンセリング総論①レジメ

  1. カウンセリングとは

 専門職であるカウンセラーがクライエントの依頼によって、その成長や問題解決のために、人間関係を媒介にし、科学的な理論や技術に裏付けられた心理的援助を行うものである。(沢崎2004)

 

カウンセリングの定義

「カウンセリングとは言語および非言語的コミュニケーションを通して、健常者の行動変容を試みる人間関係である」(国分1990)

「心理療法は病理的なパーソナリティの変容を主たる目的とする」(同上)

 

  1. カウンセリングの歴史

1)近代化社会とカウンセリング

 16世紀に始まる西欧諸国の近代化は、経済、政治、社会文化の各訪問で様々の進歩を遂げたが、特に科学技術の発達は著しく、医学も19世紀から20世紀にかけ続々と優れた発見、研究、臨床技術がなされた。人間の精神の病も、魔法使いやシャーマンの手から近代医療に移行され、呪術的世界から科学の光が当てられた。産業の世界でも、その技術の発展から労務管理について多くの理論、実践を生み出し、そこが人間中心の心理学発展の土壌となった。

カウンセリングの学問としての歴史は浅く、1900年代である。しかしその実践は古くからあった。

 

カウンセリングが発達した社会的要因としては以下のことが挙げられる。

a.家族の近代化 家長制度から核家族へ

b.地域社会の近代化 村落から都市へ

c.組織の近代化 血縁、地縁から目的集団へ ゲマインシャフト→ゲゼルシャフト

d.社会階層の近代化 封建的身分制度の消滅。職業選択。(キャリアカウンセリングの重要性が増してきた)

e.国家の近代化 国と大衆が直接的に結びつく。福祉国家への変容(カウンセリングは公的に大事になってきた。)

 

2)アメリカにおけるカウンセリングの発達

 a.職業指導運動 パーソンズ(Parsons,F.1854-1908) 適性・天職

 b.教育測定運動 ソーンダイク(Thorndike,E.L.1874-1947) 知能指数をはかる

 c.精神衛生運動 ピアーズ(Beers,C 1876-1943) 自身でうつ病を体験した。

 

3)カウンセリングと類似している相談業務

a.コンサルテーション

b.ケースワーク

c.ガイダンス

 

  1. カウンセリング理論

1)精神分析

 創始者:フロイト(Freud,S.1856-1939)

1990年「夢判断」 1901年「日常生活の精神病理」

 理論の骨子

①幼少期の体験がその人の性格を形成する。

②無意識があらゆる行動の原動力である。

 

2)行動主義理論

条件反射理論:パブロフ(Pavlov,I.1849-1936) ワトソン(Watson,J.B.1878-1958,USA)

試行錯誤理論:ソーンダイク(Thorrndike,E.L., 1874-1949)

学習理論、新行動主義:ハル(Hull,C., 1884-1952) スキナー(Skinner,B.F.1904-)

 

3)来談者中心療法

 

ロジャーズ(Rogers,C.,1902-1987)

 世界中に普及した。その理由は・・・。

①非医師でも心理療法が出来ること。

②理論が単純化されているので、比較的学習がしやすいこと。

③精神分析より面接回数が少なくて済むこと。

④カウンセラーが来談者を患者と見ずにクライエント(顧客)と見る横の人間関係が、民主主義の思想にアピールした。

⑤人間の持つ潜在能力の重視が、アメリカ人の楽天主義に通じた。(人間性心理学、その中心が来談者中心療法)

⑥キリスト教文化での罪や罰の意識が、ロジャーズの審判のない世界で救われる想いがした。

 

 

  1. 日本におけるカウンセリング1)大学におけるカウンセリング

 第二次世界大戦後日本の民主化のため、様々な指導がアメリカによって行われた。1952年、アメリカ国務省から派遣された教育改革の為の施設団によって大学の福利厚生に関しカウンセリングが紹介された。

SPS(student personel service)大学学生相談室の設置

 

2)産業カウンセリング

昭和29年、上記の教育使節団の影響を受けて、電電公社(現NTT)ではじめて相談室が開設された。人事相談室という名称だった。職業相談、企業カウンセリング

 

3)教育の場でのカウンセリング(スクールカウンセリング)

平成7年に文部省によりスクールカウンセラー制度が導入された。

(臨床心理士の資格をもっていない、いじめと登校拒否をへらすため)

4)医療カウンセリング(医者がいあるので薬を出してもらえる)

ケースワークと心理テストが主な仕事であったが、現在は臨床心理士がカウンセリングを行う機関も増加している。(心理テストを組み合わせてその人の病気の深さを知る)

5)福祉関係のカウンセリング

 児童相談所・保健所・福祉事務所・老人保健施設

6)司法関係のカウンセリング

家庭裁判所調査官・刑務所、少年刑務所、少年鑑別所、婦人補導院、

警視庁少年補導か、各警察署等。

 

  1. カウンセラーの訓練

 

1)カウンセラーに望まれる資質

①人間理解の方法を知っていること

②人間援助の方法を知っていること

③自分を知り、その自分を受け入れていること

 

「資質とは、その人自身のパーソナリティのよりいっそうの統合や成熟に向かう可能性であり、今ある自分のパーソナリティをさらに高めるための学習の、一生を通じての積み重ねである」(佐治他1996)

 

2)基礎訓練

①カウンセリングに関連した領域の理論学習

パーソナリティ理論・発達論・精神医学・コミュニティー理論・心理テスト・統計・倫理

②カウンセリング理論の学習

来談者中心療法・精神分析・認知行動療法・その他専科プログラム

③カウンセリング技術の訓練

基礎科・本科・研修科での体験学習・教育分析・クライエント体験・スーパーヴィジョン

                          

                                 以上

 

2004年5月14日(土)カウンセリング総論①-講義メモ

 

カウンセリングとは?

 

カウンセラーが傾聴

聴く、耳を傾ける

ありのままに、正確に、共働

精神安定剤

中立、傾聴、安心、

問題解決の援助、援助できる人間関係を築くことがカウンセラーには求められる

雰囲気をつくる

人間を

自分を知ること、受け入れること

特に悪いことを受けいれ乗り超える、

構築、分析、掘り下げ、

共感、受け入れたことを伝える専門的な力

 

クライエント

問題解決

自分の問題を考える、明確化、客観化、

自分の力で解決

意外な発見

死をとどまる

自分を知る、みつめる、受け入れる

 

カウンセリングと類似している相談業務

(カウンセリングと重なってくる部分もある)

  1. コンサルテーション

 専門的なノウハウををおしえる、カウンセラーとクライエントの両者が専門的な知識・立場を持つ、一方の専門的な知識を伝える

 

  1. ケースワーク(ケースワーカー)

 カウンセリングより現実的な問題の援助

 

  1. ガイダンス

 情報(もっている知識や方法)をみんなに伝える

スクールカウンセラー

 子供・親・先生の相談を受ける

 いろいろなことをその時のニーズに合わせてやっていく

 ことば以外のかかわり方で子供と接することも必要になってくる

 

それぞれの分野によって、カウンセリングの技法が異なってくる

 

カウンセリングは自分の生きることとつながっているように思う(繫田千恵)