たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ-子どもと言葉

2025年03月11日 00時45分42秒 | グリーフケア
(乳幼児精神保健学会誌Vol.7  2014年10月より)

「絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ~柳田邦男

子どもと言葉

  子どもにとって言葉はどういう意味を持ったり、あるいは成長過程の中でどういう言葉を獲得し、表現していくのか、そんなことを考える上で絵本の言葉の部分に焦点を当てます。

 その前に、ちょっと今回の大震災の中で子ども達がどういう経験を死、そしてそれがどういう風に言語化されたのか、その一端をお話しします。東北各地の被災地で子どもたちが作文を書いています。日本の学校教育の中で作文がとても重視されていて、国語の時間に限らず、色々と文章を書かされます。体験した事を文章にし、津波や大地震の揺れの恐怖体験というものがトラウマとなって心の中に抑圧され、沈んでしまう前に表現することによって自分自身を見つめなおす、それがトラウマを乗り越える力にもなっていくことがとても大きな意味を持っていると思うんです。各学校でそういうことをやったり、あるいはカウンセリングの場ですすめたり、子どもたちが文章で自分の体験を語ることが盛んに行われています。

 いろいろ振り返って子どもたちが、子どものころから本に親しむ、絵本に親しむ、しかも親が読み聞かせをする。それが編集され単行本になって市販されている。あるいは地域の自治体や教育委員会などが編集したり、学校独自で作ったということで、子どもたちの体験記を私もたくさん集めています。その文章の中から子どもたちがどんな言葉で自分の体験を表現しているかを調べてみました。今日はほんのその一端を紹介します。ごらんのようにこれは津波がおしよせてきた瞬間ですね。こちらが太平洋沿岸、これは仙台の南、仙台平野の一角。名取市。この辺りは名取市です。これは仙台空港があります。これは貞山掘といって江戸時代に作られた運河です。川ではありません。米などを運ぶ運河。津波はこれを乗り越えて、一面、家々を倒しながらおしよせてきました。第一波です。10メートル前後ありすさまじい勢いでした。

 これは宮城県の三陸沿岸の最南端牡鹿半島に女川町というのがありまして、そこは太平洋と仙台湾と両方から津波に挟み撃ちされる形になって、すさまじい状況になりました。高さ10メートルを超えるビルがみるみる水没していく状況です。こんな中で生き残った子どもたちの表情と言葉を収集した本です。女川町の子どもたちの文章を集めた「まげねっちゃ」これは東北弁で負けないぞという意味です。そんな中でいくつかの文章の一部を読ませていただきます。これは小学校4年生10歳のじゅんなちゃんという子の文章の一部です。

 いつもより星がたくさん光っていて、この地震でどのくらいの命が亡くなったのだろうと思いました。そして今思うことは、1つ1つの命がすごく大切だということです。これからも1つ1つの命を大切にしていきたいです。

 これは、夜空をながめて星が光っている。星1つ1つを見上げ、それが亡くなった人たちが天国に行って夜の星になったのかという思いがあるんでしょう。数知れない星の輝きを見て、2万人近くがなくなったあの震災で犠牲になった人たちの命のことを思う。このこと自体がとても女の子らしい感性だなと思うんですね。10ぐらいで空の星を眺めて、被災地たちのことを思う。亡くなった命の数に重ね合わせて胸にしみわたるように感じる、そして言葉として1つ1つの命という表現をしている。これは最近、小中学校で命の教育がとても重視されていて、先生たちが悩んでいるテーマですね。デジタル文明の中で物事がデータ化されたり、記号化されたりしていく。その中でリアリティのある命の実感を子どもたちにどう持たせたらいいのか。小学生の3、4割は、人は死んでも生き返ると本当に思っている。アニメやゲームの中で殺されてもまた登場する、リセットすればまた生きられる、現実の命についてもそう思っている時代に、命を実感的にわかるようにするにはどうしたらいいか。非常に教育的には難しいんですね。そこで学校によっては、ヤギを育てて子が生まれるのを見て、命っていうものについて実感的に教えようとしていますが、なかなかそれが身につかない。だから子ども同士でもびっくりするような凶悪事件が起こったりする。そういう中で1つ1つの命の大切さっていうことを、やっぱり、津波という恐怖体験の中で身にしみて感じたんではなかろうかと思うんですね。特に私が驚いたのは、「生かされている命」という言葉が登場してくることなんですね。

 これは中学校3年生のあべこうじ君って男の子ですけれど、少し長いけれど、それでも一部なんです。読んでみますね。

 あの自身は私たちの町だけでなく私自身もかえてくれました。水も電気も食料もない世界で学んだことがたくさんありました。人間はとても弱いです。一人でなんか絶対生きていけません。支え支えられて生きているのです。あの自信を体験し、乗り越えようとしている私たちには自然に強い絆ができだと思います。助け合い協力して命を守りあった私たちはもう何にも負けないと思います。あの地震で私も成長することができました。初めて死を覚悟しました。それから生まれ変わったように過してきました。あの地震を乗り越えたことで自信がつきました。命のはかなさを知り、1日1日を一生懸命生きるようになりました。自分が生かされていることを知り、少しでも誰かの力になれるように努力し続けました。これからも生かされている命を大切に一生懸命生きて生きていきまくります。

  こうも書いているんですね。

 これからも生かされている命を大切に
 自分が生かされていることを知り

 この生かされている命っていう表現は普段の子どもたちの日常生活の中では登場しない言葉です。キリスト教や仏教など宗教のお説教の場ではしばしばでてきます。私たちの命は自分で作ったものではないし、あるいは自分で自分を生かしているわけでもない。天から与えられ、神様から与えられたもの、そういうものだということ。だから傲慢になってはいけない。謙虚に命を大事して生きましょうと宗教は教えてくれる。しかし日常の家庭生活や学校での生活の中でそういう言葉を使うどころか、意識さえ普段はありません。この子が避難生活中か家庭が信仰深い家庭なのかわかりません。けれどいずれにしても子どもの耳に行ってくる言語環境の中で知らず知らず「生かされている命」という言葉がこの中学校3年生の男の子の中に取り込まれたんですね。いかに子どもにとって言語環境が大事か、周りでどんな言葉を使っているのか、あるいはどういう状況の中でどういう言葉が出てくるのか、それが非常に大切なことなんです。大人の使う言葉が問われている。私は子どもたちの作文をたくさん読んで、その中に出てくる言葉をとらえて、感銘を受けたり、驚いたりしているわけですが、とりわけこの「生かされている」というのが出てきたのが、とても驚きであり感動的でした。

 もうひとつだけ紹介させてもらいます。これは中学校1年生のやはり男の子です。


 私は将来何になろうか決めていません。一応は医者になりたいと思っています。医者の中でも国境なき医師団に入りたいと思います。そんな中で心にぐさっと一番きたのは今を生きるという言葉でした。人の役に立つ仕事をしたいのです。人が苦しんでいるところを助けたりするなど人の思い出に残るような人になりたいです。人間は生きる希望をなくすると自殺する。私は希望を作りたいのです。生きているだけで幸せという希望を作りたいのです。

  こんなことを書いています。子どもたちもたくさん津波にのまれた人の遺体を見たり、あるいは自分もかろうじて生きのびている。そういう体験の中からどういう言葉でそれを表現するのか、いわば限界状況の中で人は何を感じたり考えたりするのか、子どものレベルで表現したのがこういう言葉だと思うんですね。青年の主張コンクールに出るために書いたわけではないので、自分の体験したことから自分の体験したことから出てくる言葉を書いているんだと思うんです。

 絵本を読むにあたって絵本の言葉はとっても大事で、絵も大事です。両方大事なんです。でも往々にして読み聞かせの中で親、あるいは保育士や先生は言葉をあまり重視しないでサッサッサーと読んでしまいがちです。絵と言葉は非常に深いところでコラボレートしている。そういうことを読み手の大人は理解しなければいけない。整理すると、非常につらい実体験がある。恐怖やあるいは悲しかったり、辛かったりする。そういう実体験があの状況の中で生まれた。そして、自分を取り巻く言葉、言語環境、そして、みんな大変な経験をして避難所や仮設等で生活している環境がある。その実体験と環境で使われる言葉。それが一体になって融合して、その子にとって命が本当にリアリティーのある形できざまれていく。単に漠然とした恐怖体験ではなくて、言語化することによって、その意味づけまで含めて、記憶に残る。そういうことが子どもにとっては恐怖体験を客観視し、そして乗り越えていく1つの大事なステップになるのではないかと思うんです。」






絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ-マールとおばあちゃん

2025年03月06日 23時06分53秒 | グリーフケア
  (乳幼児精神保健学会誌Vol.7  2014年10月より)

「絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ~柳田邦男

マールとおばあちゃん

  もう1冊紹介するのは、これもごく最近、今年翻訳されたベルギーの作家のモルティールさんが物語の言葉を書き、カーティーベルメールさんが絵を描いた絵本です。2人ともベルギーのフランドル地方に生まれ育った方のようです。非常にピンク系が強い絵です。絵が美しいんですが、単に美しいだけでなく、いろんな動物や小鳥や花や樹木、そしてその中に主人公のマールという少女がいて、絵の技法としては木版画、コラージュ、様々な技術を重ね合わせて非常に複雑で感性豊かな表現をしている。こういう絵の表現者なんですね、非常に現代的だと思うんですね。そして表紙に使う絵はシンボリックな意味を持っています。このマールという少女がすました表情をして木の枝に乗っています。このマールは非常に個性が強く、自我が強い、そういうことをシンボリックに表現しています。それは物語が冒頭からびっくりするような形で展開します。これは桜の木の下でお母さんが乳母車の赤ちゃんに手を差し伸べているところですが、生まれて間もないマールのことを描いています。(カールはすでに)乳母車じゃなくて立っている。その左側の方に、ここにマールがいて、これにマールがいて、これお母さんですけれどね、読んでみますね。

    
マールは桜の木の下で生まれました。おかあさんがそこで読書をしていたのです。
おかあさんが読んでいたのはとてもおもしろい本でした。
本当におもしろい本でしたのでおかあさんは没頭してしまい、
赤ちゃんが生れようとしていることに気がつきませんでした。
それは、ちょうどおしっこに行きたくなったときに、だいじょうぶもうすこし
がまんできると思うような感じでした。


とても愉快な書き出しですね。


でも、マールの辞書にがまんということばはないのです。ここから出して/今すぐ。
マールは押したり、たたいたり、けったりして、桜の木の下に自分ででてきたのでした。


 こういう話はそんなことはないよって、みなさん思うかもしれませんが、あるんですよ。実は私の知り合いのお嬢さんが家で、出産はまだだろうと我慢していて、とうとう我慢できなくなってタクシー呼んだんです。タクシーに乗ったら、そこで自分でお産しちゃったんです。すごいお母さんだなと思いました。そういうことってあるんですよ。だから私はこういう作品を読んでも別に驚かないっていうか、あり得ることだなあと思うんですね。

 それはさておき、この絵にも象徴的も示すように非常にカラフルなコラージュ、あるいは版画的な技法を駆使して、母とこの関係やマールという子の個性を表現しようとしています。次のページにマールがいかに自我の強い、個性的な女の子かというのがみごとに表現されています。

 マールはとんてもなくはやく成長しました。生後6か月になるころには、もう庭をはねまわっていたのです。そんなことってあるのかなってね。ふつう1歳ぐらいになってようやくよちよち歩きをするんですけれどね。

 桜の木から小さな柵まで行ったかと思うと、池のまわりを一周してもどってきます。

みて!あたしはやいでしょ!ねえ、みた?だれも追いつけないくらいはやかっ
たわ。

 まあ6か月でこんなことを言ってるわけはないんですが、気持ちいいんでしょうね。

 
そして数か月後、最初の言葉を口にしました。それはママでもパパでもなくクッキー。マールはいつだっておなかをすかせているのでした。クッキー。マールはいつもそういいます。

 
 このクッキーっていうのは実は伏線で、あとはおばあちゃんが大好きにいなって、おばあちゃんがこの子を可愛がって、おばあちゃんも甘いものが好き、マールと一緒に2人でクッキーの箱をいっぺんに全部あけちゃうぐらい食べる。それが何を象徴しているかというとおばあちゃんとマールが本当に仲良しの一体感があって、毎日の時間を過ごしているということなんです。でもそういう中でおばあちゃんが倒れて入院する。しかも言葉を発しなくってしまう。おそらく、脳内出血か何かで言語障害をおこしたんでしょうね、お父さんと今度はマールだけになるんですが、またお父さんが突然亡くなってしまう。そういう中でマールはどういう役割を果すのか。途中を飛ばして最後のころにいきますね。おじいちゃんが亡くなって、霊安室に安置されています。おばあちゃんは病院でもう言語障害で言葉を発しない、脳卒中の後遺症で病院にいます。そして医療スタッフは、どうせおばあちゃんはいろんなことわからないしおじいちゃんに言葉もかけられない。だから、おじいちゃんが亡くなってもお別れに連れて行く必要がない。医学医療の面から考えると、おばあちゃんはそのままでいいという考えなんです。ところがマールはおばあちゃんといつも一体となった生活していたから、おばあちゃんの表情や口ごもるような唇の動きら言葉を読み取ることができる。おばあちゃんの気持ちをマールがもっともよく知っているんです。マールはおばあちゃんにおじいちゃんのそばに行って最後のお別れをさせたい。でも、医療スタッフはそうさせてくれない。そこでマールは毅然としておばあちゃんを車いすに乗せます。そして、看護師の主任さんが制止するのも振り切って、おじいちゃんの安置されているところに連れていこうとします。そのときのこの絵を見てください。カラフルに描いてあるのはおばあちゃんとマールだけです。おばあちゃんの絵は少しグリーンのくすんだような花柄模様なので、あまり色はくっきりしませんけど、マールはピンク系の赤のワンピースを着ていきいきと描かれ、そして振り向いて制止しようとする看護師をにらんでいます。看護師の方は全部すりガラスの向こうにいるような、くすんだ白で描かれています。これは医療スタッフが医学的な見地からだけで患者に対応して、その中におけるヒューマニティーを失っている。そのことを表現しているのが、すりガラスの向こうにいるような描き方なのです。そして本当にヒューマニティー豊かにこの世に存在しているおばあちゃんとマールとの関係性、それをカラフルな色をあえて対照的に出すことによって表現している。

 私は人間の命は人称性をもっていることをずいぶん前に気づいて、いろんなことを考えてきました。1人称の命、1人称の死は自分自身の命であり死です。命は、科学的医学的一般的に存在する死だけでなく、ひとそれぞれの個性を持った肉体と心を持っている。その中で医学的な意味での命と、人間一人ひとりが大切に抱えている命が異質なものがある。1人称の命は死に直面した時、自分はどういう最期を選ぶか、病院、ホスピス、在宅様々な場があるがどこが一番いいと思うか、痛み苦しみながら緩和ケアだけでいいのか、最後まで治療的な試みをしてもらって1分でも1秒でも長生きしようとするのか、これが1人称の死。特に1人称の死で大事なのは最期の残された時間をどう生きるか、思い残しのない人生の締めくくりをどうするのか。1人称の死にとってとても大事です。

 これに対して2人称の死は愛する人の死、家族の死です。つまり2人称の立場に立つと死にゆく人が本当にその人らしく最期を迎えられるようにサポートする。介護やケアをする役割を果たす。しかし同時にもう1つの仕事が待っています。それは自分自身の心の中で失われる、愛する人と別れるということ。その愛する人亡き後、どう生きるかというグルーフワークが問われます。これは2人称の死の特性ですね。これに対して3人称の死は第3者の死ですから、友人、知人は悲しみや辛さを伴いますが、それは2人称などではない。子を亡くした母親や連れあいを亡くして残された伴侶、その辛さは3人称の死ではわからない、感じられない。ましてこれが第3者。遠い外国で起こった戦争やテロや様々なものは自分にとってはただのニュースでしかない。その日お笑い番組を見て笑うことができる。でも医療者にとって患者は3人称ではあるけれど、そういう赤の他人の3人称とは違うはずですね。やはり治療という局面を介して、その1人称2人称の死と密接な関わりを持って、今死に逝く人やあるいは残された人に、なんらかのシンパシーを感じたり、あるいはより良い形をつくるために協力する立場であったりするわけですが、現代の医学というのは往々にして冷たい3人称になりがちです。医学的に見て、これはもう治療不可能、これは治らないとなると興味を失ってしまうとか、あるいは痛み苦しみに対してあまり関心をむけない、そういった冷たい関係性が生まれがちです。医学が進めば進むほど、標準的治療法や、できることとできないことの区別がつくものですから、その中で割り切ってしまう。そのことをすりガラスの向こうのくすんだ白色の中で表現している。しかしマールは感性がとても豊かで、おじいちゃんと別れなければいけない2人称の死を迎えつつあるおばあちゃんに対して、やはり自分自身も大事なおじいちゃんが亡くなる2人称の立場で悲しみを共有している。共有する者ならではの理解力を持って、なんとしてもおばあちゃんに一生に一度しかない別れの場面を失わせてはいけないと少女なりに豊かな感性を持って決行しているのです。そして、おばあちゃんを亡骸のそばに連れて行きます。


 おじいちゃんは、ひんやりした場所にいました。ほんとうにひんやりした場所でしたから、マールの口から、小さな白い組みたいなものがでました。おばあちゃんの口からもでます。きれいな雲ね。きれいでしずかで、いいひんやりね。マールは車椅子を押して棺に近づきました。おじいちゃんの口からは、白い雲はでてきません。両目をとじて、まだほほえんだままでした。


「ねえ」おばあちゃんは話しかけ、おじいちゃんの、くせのある髪を指ですきました。それからマールをみて、にっこりしていいました。「クッキー!」

 こういう終わり方なんです。おばあちゃんは言語機能を失っていても、愛する夫が旅立つ、そのことを全身でわかっている訳です。マールもそのことをわかっている。おばあちゃんは言葉には出さないけれど、おじいちゃんの髪を撫ぜすいている。そして、ずーと一緒にクッキーを食べて歩んできたマールのその象徴的な言葉「クッキー」。ここでクッキーを食べたいという意味ではなくて、言語機能が障害を受けているがゆえに言葉が出てこないけれど、もっとも親しんだ、たくさん使った言葉「クッキー」だけがかろうじて声になって出てきたのでしょう。それはお菓子としてのクッキーではなく、本当に大事な豊かな時間、そして言葉にはできないけれどこみあげてくるものが思わず「クッキー」という言葉になったに違いない。そんな深い意味を持ったシーンなんですね。おばあちゃんがじっと見つめ、マールもほほ笑みをたたえて見つめている。素晴らしい画だなあと思います。こんな深いことを絵本は表現しています。私がこう申し上げたからといって、子どもに読み聞かせをする時にこう説明しなさいと言ってるつもりはないんです。でも幼い子はマールのように言語化できなくても感じることができるし、それが知らず知らずに心にしみいついて、そして子どもなりに、その感動や深い思いがその子のパーソナリティー形成にとても大きな意味を持ってくるということではないかなと思うのです。」






絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ-最初の質問

2025年03月05日 15時12分16秒 | グリーフケア
 (乳幼児精神保健学会誌Vol.7  2014年10月より)

「絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ~柳田邦男

最初の質問

 最初に、絵本というものについての考え方を少し柔軟にしていただきたいと思ってまずは、2つの絵本を紹介します。またこの夏に出版されたばかりの「最初の質問」。私の大好きな詩人の長田弘さんの詩に画家のいせひでこさんが絵をつけた作品です。どういう詩なのか、一部を読んでみます。

  今日あなたは空を見上げましたか。
  空は遠かったですか 近かったですか。
  雲はどんなかたちをしていましたか。
  風はどんな匂いがしましたか。
  あなたにとっていい一日とはどんな一日ですか。
  「ありがとう」という言葉を、今日、あなたは口にしましたか。
  窓の向こう、道の向こうに、何が見えますか。
  雨の雫をいっぱい溜めたクモの巣を見たことがありますか。
  樫の木の下で、あるいは欅の木の下で、立ち止まったことがありますか。
  街路樹の木の名前を知っていますか。
  樹木を友人だと考えたことがありますか。
  このまえ、川を見つめたのはいつでしたか。
  砂のうえに坐ったのは、草のうえに座ったのはいつでしたか。
  「うつくしい」とあなたがためらわずに言えるものは何ですか。

 こうして、ずーと続きます。最後のところだけ読んでみます。

  あなたにとって、あるいはあなたの知らない人びと、
  あなたを知らない人びとにとって 幸福ってなんだとおもいますか。
  時代は言葉をないがしろにしている-あなたは言葉を信じていますか。
 
 とても哲学的で人生論的で詩作に富んだ深い深い意味のある詩だと思います。
 
 長田弘さんは非常に知性派の詩人で、東西文化様々な本を紹介する上で長田さんの本に関するエッセイは素晴らしいものがたくさんあります。皆さん、今読んだ詩を聞きながら自分の心に問いかけたでしょうか。例えば、「あなたにとっていい1日とはどんな1日ですか」というこの2行の文章。あるいは「ありがとうという言葉を今日あなたは口にしましたか」という文章。そう問われた時にみなさんが自分の心に問いかけ、その都度どこまで追いきれたか、考えきれたかを振り返ってみると、とても難しい詩だな、深い詩だなと思いませんか。この詩は小学校の教科書にも出ていますが、これを絵本にしないかという編集者の企画があり、画家が協力して2年半ぐらいかけてひとつひとつの言葉にどんな絵を添えたらいいのか、というとても苦しい問いかけを受け、悩んで悩んで作ったのがこの絵本なんです。全部を紹介すると時間がかかるので、ほんの一部紹介します。

「今日あなたは空をみあげましたか 空は遠かったですか 近かったですか」こういう冒頭の言葉があります。どんな絵をつけるのか。単に空を描くだけでいいのか、遠い空、近い空を描けばいいのか、それではせっかくの言葉の詩情、詩のフィーリングを即物的にしすぎてしまう、どうしたらいいのだろうか、これは最初の問いかけです。朝起きて窓を開ける、あるいはドアを開けて外へ出る。その時にあなたは何をみるのか。ああ、今日は晴れて青空がきれいだとみるのか、それとも頭の中は今日の仕事でいっぱいなのか、問いかけを考えるにあたって、絵描きはこんな絵を考えました。すがすがしい燕の飛ぶ姿、かすかに見える様々な鐘、どんな音楽をならしているのか、譜面の載っていない譜面台を描いている。絵は、しいて解説など加えない方が良いと思っていますが、今日の講演の必要上説明しますと、この譜面台に譜面が載っていないということは、まだ始まってない、今これから譜面台を用意して、演奏する人がここに譜面を載せて始まるという、その始まりの前のいわば象徴的な図柄として出したのではないかなと。朝起きて空を見上げるかどうか。まして、原発事故がおきた福島だと外に出ること、それが放射能汚染の濃い地域など怖いわけです。空が自分にとって守ってくれる大きな世界ではなくなってしまった。でも今日という1日を始めなければいけない。その中でどんな絵を描くのか、これは空が遠いか近いか、どんな空かということ。雲が出ているか出てないか。すべての始まりの時間。そんな意味で朝の祈りを知らせ鐘が鳴る。そして、小鳥たちがすがすがしくはばたく、譜面台がまだ演奏される前のかたちである。そんな意味を込めて絵描きは表現しているんだろうなと思うんですね。そして、雲はどんな形をしていましたか。風はどんなにおいがしましたか。この言葉にこういう絵を添えています。

 私は子どもの感性はものすごく鋭くてすばらしいと思っています。胎児期からの心の成長や抑圧や様々な問題を考えるときに、なぜ子どもは胎児の段階から心が成長したり抑圧されたり、あるいは出産直後生れてすぐこの世に出て、温かく抱きしめられる環境と冷たい家庭環境、あるいは暴力を振るわれる環境によって赤ちゃんの心の発達が左右されるのか、裏返していえば赤ちゃんはすでに生きる上で大事なことをしっかりと感じとる力を持っていると思うんですね。子どもの頃、水たまりの中に足をじゃぶじゃぶして遊んだりすると、きれいずきなお母さんは「汚れるからだめじゃない」と𠮟るけれど、子どもにとってそれはファンタジーの世界に近いんですね。水たまりの中に入って覗いたそこに木が映っていたり、あるいは雲が映っていたりする。それは無限のファンタジーの世界、イマジネーションの世界につながっていきます。実際この絵描きに聞きますと、5歳児の水たまりの中で見つけた積乱雲・入道雲のすごく発達した姿、それは水の中で見ると地面の中に無限に深く深く入って行く世界でもあるわけです。その記憶は忘れがたく焼き付いているというんですね。それを描いているんです。雲はどんな形をしていましたか 風はどんな匂いがしましたか。

 これは人が家を出て戸外に出たときにまず感じること、その世界です。子どもにとって外に出て歩くということは無限に世界がひろがっていく第一歩でその世界には水たまりもあるでしょう、池もあるでしょう、川もあるでしょう、あるいは森や公園もあるでしょう。そういう中でひとつひとつ子どもは素晴らしい世界をファンタスティックに描いている、7、8歳くらいまでは子どもにとっては想像の世界、ファンタジーやイマジネーションの世界とリアリティーのある世界との境界がなく、それが一体となって、あるいは行ったり来たりするような形で融合されて世界が形成されていくわけです。その中で水たまりをのぞいた時に発見したこの世界、これはもう感動というか大人でいえば感動でしょうけど、子どもでいえばもうファンタジーの世界そのものであると思うんですね。
 
 雲はどんな形をしていましたか、風はどんな匂いがしましたかっていうのは外に出て空を眺めると同時に飛び込んでくる環境全体のことを表現しているわけで、それをどれくらいみずみずしく感じ取っているのか、あなたたち大人たちを忘れていませんか。どういうみずみずしい感覚を忘れていませんか。そんなことを問いかけていると思うんですね。そして少し先ですけれど、大きな木の下に少年が立っています。

  樫の木の下で、あるいは欅の木の木の下で、立ちどまったことがありますか。
  街路樹の木の名を知っていますか。
  樹木を友人だと考えたことがありますか。

 なぜかこの少年は泣いていますね。よく見ると右手で目を覆って、涙をぬぐっている。何があったんでしょう。その前には樫の木か欅の木か、大きな木がある。よく言われるように木は人類とともに古くから人間を育てたり、支えたり、そして人間が生きていく環境を守ったりするとても大切な存在であり、そういう木の存在が大きく描かれています。この少年に何か辛いこと、悲しいことがあったんでしょう。でも、少年を守ってくれる何か大きなものがある、樹木を友人だと考えたことがありますかという言葉で象徴的に人間と植物あるいは環境との関係を描いているのです。

 学問の中に植物学という単に植物の研究をしているだけではなくて植物人類学、エスニックポタニズムという分野があります。これは人類が歴史のなかで植物とどういう関係をもってきたのか。人間が植林したり、あるいは工業生産や農業生産の効率をあげるために森を伐採したり、さまざまなことを人間は営んできた。その中に人類と植物の関係性の歴史がいろいろと見えてくる。あるいはその世界の主な都市を見ても東京、ニューヨーク、パリ、カナダのトロンなど町の風景が違います。そしてその中における植物や花やその存在も違っています。それはやはりその国の人柄、その国の国民性というものによって、植物との関係性を大事にする民族だったり、あるいは違ったりすることを象徴的に示していると思うのです。いずれにしましても私は田舎で育ちましたから、田んぼや山や林が自分の少年時代の心の形成発達にとても大きな意味をもったと思っているのです。そういう思いでこの絵を見ると本当に深いことを表現しているなと感じます。

 もう一画面、紹介しましょう。これは雪が降る中、小鳥が止まっていますね。あれはヤマセミといって、山の方にいる仲間ですね。ここを読んでみます。

   いまあなたがいる場所で、耳を澄ますと、何が聞こえますか。
   沈黙はどんな音がしますか。
   じっと目をつぶると。すると何が見えてきますか。

 詩人だなあと思うんですね。問いかけをしている。人間それぞれ個性があって、視覚障害の方もしれば聴覚障害の方もいる。あるいは身体の障害をもっている方がいる。様々な障害をもっている方々がいらっしゃいますけれど、健常人といわれる人たちは往々にして障害をもっている人たちを非常に不便で、あるいは不幸で気の毒だと思いがちです。これは健常者の思い上りだと思うのです。例えば、「見えなくても大丈夫?」という絵本があります。主人公のマチアスは目が見えないけれど、不自由なく夜でもトイレに行けるし、あるいは街にも行ける。市場に行って果物を買う時に手で触れてリンゴは熟れているかどうかをすぐに察知することができる。街を歩いていて、喫茶店から流れる音楽に耳を済ませ、ああモーツァルトだなと感じることができる。ところが、目が不自由なくて見えていると、世の中全て見えているという思い込みしかなくて、街に流れる音楽も耳に入ってこなければ、リンゴを見ても熟れているか食べてみないとわからない、夜は電気をつけないとトイレに行けないなど目が見える人の方が不自由なところがあるわけです。そういう絵本です。それを読んだ小学生がお便りをくれて、「いったい目の不自由な人の生活ってどうなんだろう」と、タオルで目隠ししてしばらく家の中や外へ出てみて手探りで生活してみた。そうしたら主人公のマチアスのようにリンゴに触っても熟れているのかどうかわからない、トイレ行くのも手探りでものすごく大変った。なんて素晴らしい感性、感覚を発揮して生活しているんだろうとわかった、というお便りをくれたんです。素晴らしい気付きをする少年でした。見えているがゆえに何かわかった気になって思いこんでしまう。そういう世界からいっぺん離れてみて、目を閉じてみる。例えば街角で目をつぶってみると様々な音が聞こえてくる。ツバメの鳴き声、お店から流れる音楽、遠くを飛び飛行機の音、車のクラクション、遠くに走るパトカーのサイレン、いろいろな音が耳に入ってきて、それぞれを識別できる。ところが目を開けていると聞こえているけど聞いていない、こういうことを発見するわけです。私たちは、いかに思い込みの中で過ごしているかということを象徴的に示しているわけです。

 こういう一編の詩に絵をつけた詩人と絵描きのアンサンブルによって、とても深い問いかけをする絵本ができています。この絵本を小学生に読み聞かせすると目を皿のようにして絵を見つめ、そして耳から読まれる詩の言葉をたどっていきます。絵本というのは、まだ言葉が発達していない子どもに絵を添えて、やさしくわかりやすく説明する本だと思いこんでいる方が大半ですが、実は違うんです。4、5才くらいから読める絵本。それは絵描きや文章を書く作家からするとものすごく時間をかけて考えて、選びに選びぬいた形で表現している。問題はそれを読む大人が感性を問われているんですね。そこからどれだけのものを読み取るか。子どもの頃からそんな深く読まなきゃいけないってことではないんです。人間は成長するにしたがって様々な経験をし、その経験を重ね合わせることによって言葉や絵の深い意味を味わったり、感じ取ったりすることができる。絵本はそういう素晴らしいメディアなんです。だから私は人生に3度読むべきことだとよく申し上げているんです。1回は自分が子どもの時、2回目は子育てをする時、そして3回目は自分自身のために人生の後半、忙しい毎日の中でふと足を止め、自分の感性や思考力を問い直す形で、絵本を読んでみるとそこから深い深い何かを読み取ることができる。その人ならではの人生経験の中で、絵本の語りかけを深く読み取ることができるようになる。」

絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ- デジタル文明の中で

2025年03月04日 14時04分58秒 | グリーフケア

(乳幼児精神保健学会誌Vol.7  2014年より)

「絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ~柳田邦男

デジタル文明の中で

 この話をしたのは、今の時代の状況と比べて環境が著しく大変だったけれど、心の成長のためにはむしろプラスだった。子どもたちが多いから子どもたち同士でいろんなことを学び合う。それから私自身の家庭環境も大変プラスに働いたと思います。いろいろ振り返って子どもたちが、子どものことから本に親しむ、絵本に親しむ、しかも親が読み聞かせをする。読み聞かせというのは一緒に並んだり、ベッドで添い寝をしながら読むことですから、スキンシップがある。親の感情をこめた肉声が耳からズンズン入ってくる。聴覚はとても心の発達に大事で、絵本を読み聞かせている時、子どもは絵のすみずみまで見ています。耳で言葉を聞いています。さらに母親なりお父さんなりの感情をこめて物語を辿っていく。その起伏。これが子どもにとって心の中の感情や感性、それが細やかに発達していく上でともて大きな意味を持っていると思うんです。そして、絵本であっても物語性を持っています。4歳5歳になるとその物語の文脈をたどる力がついてくる。これが非常に大きな意味を持っているんですね。物語の文脈をたどれるということは、人間関係や自分の生き方の文脈を考える上でとても大きな意味を持ちます。物語の文脈が1つのモデルやパターンとなって頭の中にたくさん入っているといっぱい引き出しをもった子どもができる、成長する、そういうことになるだろうと思うんですね。子どもは大好きな絵本、感動した絵本は10回でも20回でも注文します。これに答えるとその絵本の絵や言葉や物語が子どもの心の中や全身に染みわたります。頭の中だけではない、全身に染みわたることによってその子のパーソナリティ形成、人格形成に大きな役割を果たすわけです。

その全体的なコミュニケーションを今のデジタル文明は言葉に100%依存していて、相手の細やかな感情を読み取ったり、文脈を読み取ったりすることが本当に難しくなってきている。デジタルなコミュニケーションは言葉の世界だけでその言葉もだんだん断片的、省略的になってくる。年中メールでやりとりしていると、簡単な1行、3行ぐらいでぱぱっとやりとりしたりしている。そうするとその中における言葉で表情されない部分が伝わらないし、理解もできない。人間は言葉だけでコミュニケーションしているんじゃない。赤ちゃんが生まれたときになぜ抱っこが必要なのか、その原点にかえって考えてみるとわかります。赤ちゃんは言葉を理解できないけれど、自分は全面的に守られている、愛されているということは言葉がなくてもスキンシップや抱きしめることやしぐさによって感じって、その中で赤ちゃんの心がだんだん発達してくるわけですよね。しかも安定的に発達してくる。そこが今おかしくなりつつあるという認識なんです。

絵本の読み聞かせは、デジタルなコミュニケーションの中でもう一度人間らしいコミュニケーションを考えたり、感じたり、感性を豊かにしたりするメディアとしてあらためて見直す必要がある。今の時代、新しい意味を持って子育ての中で絵本を取り上げられなければいけないんじゃないかと思うんです。これは私が抽象的に一般論して言うだけでは、みなさんにとってなんのことがわからないと思うので、今日は具体的なエピソードを交えがからお話をしてみたいと思うんです。」



絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ-子ども時代

2025年02月28日 16時04分07秒 | グリーフケア
(乳幼児精神保健学会誌Vol.7  2014年より)
「絵本の力、生きる力~子どもと大人が共に育つこの世界へ~柳田邦男

子ども時代

 私は栃木県の田舎町で6人兄弟の末っ子で育ち、遊ぶことに不自由することはなかった。(略)豊かではなかった貧しい時代、そして戦争もあり、空襲の恐怖体験もしています。昭和20年の夏の夜、終戦間近でしたけれど、アメリカのB29の大編 が、低く垂れこめた空の上をゴーゴーと音を響かせて通過しながら、私の街にあった軍事工場めがけて、無数の焼夷弾をまき散らしました。空が一面、大きな大輪の花火が100発ぐらい同時に破裂したような満天焼夷弾の炎で染まる感じでした。まして、雲が低かったので赤々と反射して、私は防空壕の中にいましたが怖いながらも見てみたくて、ちょっと顔を出したら恐怖に震えました。私の家もこれで終わりかと思ったら、放物線を描いて軍需工場の方に流れていったので直撃は避けられましたが、昼までグラマン戦闘機が機銃掃射をして、近所の家では直撃を受けた若い女性が亡くなるという恐ろしい経験もしました。そういう恐怖体験をしても、それが一生を左右するようなトラウマになりませんでした。子どもたちは時には喧嘩もしますが、仲良くスキンシップもあり、兄弟が多くて、兄弟も幸せなことに母親の影響でとても仲良く、ケンカなどしたことない兄弟でした。親子ゲンカもありませんでした。母親が非常に大きく包んでくれるような存在だったわけです。そういうアタッチメントの豊かな環境の中にいたがゆえに空襲や貧しさ、あるいは食糧難、そういったことがあっても、今まで生きてこられたなあということを感じるんですね。

 こんにち、子どもを取り巻く環境が非常に危機的な中にあって、それを乗り越える道はないのか。克服する道はないのか。克服する道はないのか。(略) 私は作家として言葉を使って表現活動をする立場にあります。その中で自分が幼いころどんな経験をしたのか振り返ると、非常に温かい人間関係、スキンシップのある素晴らしい環境、自然の中でのびのびと遊べた。そしてもう1つ、田舎では本のある家は少なかったけれど、たまたま父親が学校の教師をしていたので、絵本や物語の本がありました。

(略)

 戦争が終わって父が結核で亡くなりました。私が10歳の時でした。そのため家が貧しくなって、母親が手内職をする。手内職を手伝うと月に一冊本を買える小遣いをもらえました。その本を一冊買うということがとても嬉しくて楽しみでした。本を読むと、心の中にずんずんと入ってくるんです。いろんなものを読みました。シャーロックホームズ、ルパン三世、怪傑黒ずきん、さらには名作全集で1年生の頃に読んだような簡単なものではなくて、もっと全訳を読むとか。特にマロという人の家なき子は相当な長編で、それを4年生か5年生の時に読破した時の充実感っていうのは未だに忘れないですね。」







グループワーク資料-人間関係を理解する視点

2025年02月17日 12時00分23秒 | グリーフケア

2004年7月16日(金)グループワーク資料-人間関係を理解する視点

 

TCS笈田育子

 

1.プロセスとコンテンツ

 

私たちは日常生活の中で家族、友達、学校、地域、職場など様々な人間関係をおもっている。その関係はグループとして捉えられる。グループの関係(相互作用)を吟味する視点として以下の二つの側面がある。

 

コンテント・・・グループの中での話題、仕事や作業等のないようてきな側面

 

プロセス・・・グループの中で起こっている、人と人との関係的過程

       メンバー一人一人の気持ちの問題

       グループ内のコミュニケーションのあり方や意思決定の問題

 

2.どのようにプロセスを理解するか?

 

プロセスを理解するための観察可能なデータは、五感を通して得ることができる

              ↓

         より具体的な情報(誰が、どのように)

 

データを収集する3つの視点

①コミュニケーション・・・誰がよく話したか?

  話した回数・時間は?

 誰が誰を支持した? きき合っていたか?

 

②意思決定・・・決めるのに要した時間は? 誰が決めたか? 1,2人の決定、

  多数決、合意など

 

③雰囲気に関するデーター・・・不安、緊張、自由さ、ぎしゅうせい

 

観察者として状況を的確に捉える目を養うことと同時に、積極的にその状況に働きかけていく参加者になることといえる。(関与しながらの観察 サリバン)

 

体験的学習の学習法である。 


来談者中心療法③④-講義メモ(2)

2025年02月11日 14時44分16秒 | グリーフケア

来談者中心療法③④-講義メモ(1)

2004年7月10日(金)来談者中心療法③④-講義メモ(2)

諸富祥彦

ロジャーズのアプローチ

ロジャーズの少年時代-23頁・25頁・26頁・27頁

 ・アメリカで生まれ育った開拓民

 (当時の心理学者はヨーロッパからの移民が多かった。ユダヤ人であるためナチスの迫害を逃れてアメリカへわたる)

 ・6人兄弟の5番目。親からの愛情がうすい。真ん中の兄弟の生きにくさを体験。

 ・秀才だが友達は少なく、ひとりでボーっとしていることが多かった。空想癖。

  ボーっとしている→この資質が大きい。

 ・病弱

 ・女性恐怖症のところが少しある。お母さんがこわかった。

 ・「ぼんやり教授」とあだ名をつけられる。

 ・兄弟からいじめられて内にとじこもる。問題児だった、

 ・お父さんが仕事に連れて歩いた。

  「巧妙で愛に満ちた支配」(28頁)の家庭環境。

  いちばんわかりにくく、反抗しにくい。もっとも苦しい。日本の家庭にもよくある症例。

  ・ロジャーズ家は原理主義的キリスト教家で有名だった。

   ガチガチのキリスト教

 ①選民思想-神に選ばれた者にふさわしい生き方をしなければならない。

  社交禁止。

 ②原罪思想-人間はボロ布のような存在である、という自己否定的な考え

 方。

 すべては労働によっていやされる。

 

 ガを食うのが趣味。徹底的にはまった。

 

 220頁-ロジャーズがセラピィについて述べた言葉

「私は自分がグループのファシリテーターやセラピストとしてベストの状態にある時、そこにこれまで論じてきたのは別の、もう一つの特質があることを発見しました。私が自らのうちなる直観的な自己の最も近くにいる時、私が自らの未知なるものに触れている時、そして私がクライエントとの関係において幾分か変性意識状態にある時、その時私がするどんなことでも癒しに満ちているように思えるのです。その時、ただ私がそこにいることが人を解放し、援助します。この経験を強めるために私ができることは何もありません。けれど私がリラックスして私の超越的な核に近づくことができる時、私は奇妙かつ衝動的な下かで振る舞うことができるのです。合理的に正当化することのできない仕方、私の思索過程とはまったく関係のない仕方で、そしてこの奇妙なふるまいは、後になって正しかったのだとわかります。その時、私の内なる魂が外に届き、他者のうちなる魂に触れたように思えるのです。私たちの関係はそれ自体を超えてより大きなものの一部となります。

深い成長と癒しとエネルギーとがそこにあるのです。

(Rogers、1986年)

 

38頁-学会出席のためアメリカから中国へ旅をする(往復半年間)。

 ・ロジャーズの人生を大きく変える。

 ・いろんな人と出会って「イエスは神にもっとも近い人間」だったことに気づく。

 ・親からの自立を果すことができた。当時はEメールもなかったので親との連絡にも時間がかかったのだよかった。

 ・親から反対されることを全てやった。学生結婚、親の大嫌いな神学校に転校する。

 

児童相談所を開設、この時の経験からアプローチがつくられていく。

いろんなケースと出会えるので勉強になる。①と②の折衷のようなことをやっていた。

 

59頁のエピソード-ポイント

第一ステージ(1940年代)「非指示療法時代」青年期の自立

 カウンセリングが進む方向はクライエントの内側からでてくる。

 プロセスに従うということが大切であることに気づく。

 クライエントの内側の展開のプロセスに寄り添っていくのがカウンセラーの役割→ここを中心におくからクライエント中心療法。

 

 クライエントから軌道修正することがある。

 そこに寄り添っていけるかどうか。

 

 ミネソタ大学の指示的アプローチを行っていた先生の前で自分のアプローチを発表する。ここからロジャーズの人生が始まる。

 

 70頁-問題解決のためではなく個人の成長をうながすのがカウンセリングである。過去よりも現在、今ここで、を強調する。感情を大切にする。

 

 1940年代、自己成長へとカウンセリングの流れは傾いた。

 『カウンセリングとサイコセラピィ』(今年翻訳がでる)

 ・カウンセリングの目的を変えた。

 ・密室のカウンセリングをオープンにした。記録を本にのせた。

 ・「クライエント」ということばをひろめた。自発的という位置付。

 ・カウンセリングを研究の対象とした。

 

243頁-ロジャーズの面接記録

 自分の実感したものをエッセンスとしてクライエントに帰している。

 

心理学と戦争は深い関係がある。復員兵との面接記録。

 

日本ではロジャーズの技法が紹介された。

 ①場面構成-ここはこういう場ですよ、と紹介する。カウンセリングの場とはどういう場か紹介するのは重要なこと。

 ②かんたんな受容-相づち、大げさなぐらいにうなづく、相手より少しゆっくりなぐらいのペースがいい。少し低音。

 ③リフレクションズ(反射伝え返し)-クライエントが心をこめて使った言葉を心をこめて返す。

 

第二ステージ-1950年代『クライエント中心療法時代』

非指示、さらに自分を消し去る態度だけを言う。

(技術は言わなくなった)受容と共感

 

246頁-相手の役に立つために自分の個人的世界を排除する。相手の鏡になる。カウンセラーの人間性を消し去る。

「無人格」インパーソナリティ

一方通行的な関係(相互交流ではない)

 

ロジャーズがカウンセリングの典型的なあり方を示した時代。

「脱人格化」をきわめた。

カウンセラーが自分を深めていく。体験的学習。自分をどれだけ掘り下げていくか。

 

162頁-クライエントが自分の世界に没頭できるような世界をつくりあげていく。自分の心の声がきこえるようになる。

 自分の中にある他者をカウンセラーがあずかってくれることで、自分の心の世界を深めていくことができる。

 カウンセラーとクライエントが共感できることによってクライエントは本当の意味で一人になる。

 話をきいてくれる、わかってくれていると感じることで、さらに深い自分の世界に入っていく。

 

83頁-「中年期の危機」がやってくる。

全盛期の直後、廃業寸前まで追い込まれた。

ロジャーズは自己否定が強かった。自分が嫌いだった。

  ↓

部下のカウンセリングを受けたことでロジャーズはさらに深い自己受容が

できるようになった。

 


来談者中心療法③④-講義メモ(1)

2025年02月08日 00時57分43秒 | グリーフケア

 

来談者中心療法①②-講義メモ

 

2004年7月10日(金)来談者中心療法③④-講義メモ(1)

諸富祥彦

第3ステージ『パーソンセンタード時代』(自己実現論)

「中年期の危機」を克服して、身体レベルで感じていることと頭の中の概念が一致する(自覚する、自分の中にあるリアルなものを認める)。カウンセラーは心を無にしながら、身体レベルで今ここで感じていることを伝えていく。(91頁)

 

人間性回復運動;human potential movement

 

エンカウンターグループに没頭していく-109頁。

ファシリテーターが対等なメンバーになれるのがいいグループ。

メンバー同士が語り合うことによって人間力がきたえられる。

人と関わる基礎能力を養っていく。

 

ロジャーズ自身がはじめて自分を好きになれたことで、人間として自分の気持ちを表現するスタイルに変化していった。一回自分の世界を消し去り、伝えるべきことは伝える。自己開示。

249頁-私はあなたに関心があること、あなたのことを気にかけていること、あなたの世界を少しでも理解できたらと願っている。私がここにいるということを一生懸命クライエントに伝えようとする。セラピストが「ただ十分にそこにいることが相手を癒していく」ことに気づく。同情と共感は違う。

 

アメリカ、モントレー湖の近く(サンフランシスコ)

E Salen Institate(ワークショップのメッカ)

 

 

第4ステージ『スペシャリティの時代』

身内との関係が70代になって悪化。

70代になってはじめて恋をした。

 ↓

人間を超えた霊的な世界を希求し始める-128頁。

 

220頁-ロジャーズが最後にたどり着いた境地。心には二つの次元がある。心理学的な次元と霊的な次元、霊的な次元は変性意識状態、夢うつつの状態。

 

ユーマワーク:昏睡状態の人と対話を行う。

 

最後に国際平和運動に取り組む。

ロジャーズの人生そのものが自己実現のプロセス。

自らの危機をのりこえることでカウンセリングも変わっていく。その人がより自分らしくなっていくのをサポートするのがカウンセリング。

 

トーマス・ムーア

 スピリチュアル:上にのぼっていくようなキラキラと美しい感じ。

 魂:下に深くもぐっていく感じ。

 

ベーシックエンカウンターグループの目的

  • 他者理解
  • 自分の気持ちを語る
  • フィードバック

 

他者とふれ合うことで自己理解が深まる。

 

165頁-ロジャーズの人間観ー人間ジャガイモ論「実現傾向」-<いのち>への信頼

この世におけるすべての<いのち>あるものは、本来、自らに与えられた<いのちの働き>を発揮して、よりよく強く生きるように定められている。例えば、小さな窓しかない2メートルもの地下室の貯蔵庫に入れられたジャガイモは、それでも窓からもれる薄日に届こうと60cmも90cmも延びていく。

人間もジャガイモも条件さえ整えば自らの<いのち>をよりよく生きる方向へ向かうよう6つの条件(どの療法にも必要なこと)。

(1)「受容」もしくは「無条件の肯定的配属」

 どの部分も否定しない、選択しない

 どの部分にも積極的に「あるね」と存在を認めていく。

 丸をつけるわけではない。

 どの気持ちも等しく認めていく。

  ↓

 クライエントの中に自分の中のいろんな部分を認める心が育まれていく。

 「内なるセラピスト」

 

(2)共感的理解

225頁-こちらの理解をたしかめていく。

一般に「感情の反射」と呼ばれている技法の内実は、クライエントの体験世界の「鎖」になることであり、相手の内的世界についての自分の理解や受取りを確かめていくことである。

 

(3)自己一致

相手の話をききながらカウンセラーの中に出てくるものを全部認める。あるものをあると認める。これをクライエントにも自分自身にも行う。

クライエント中心療法の中心エッセンス、自己受容、全てを認める。

上記の3つの条件は出発点であり、ゴールである。カウンセラーが道徳的になって自分を追い込むとそれはクライエントに伝わる。

『インターティブフォーカシング』

自分を無にして先ず相手を理解する


来談者中心療法①②-講義メモ

2025年01月29日 11時35分44秒 | グリーフケア

2004年7月3日(金)来談者中心療法①②-講義メモ

諸富祥彦

 

自分が今何を感じているかを知ることが

カウンセラートレーニングの中で一番大事なことである。

 

精神科-統合失調症

神経科-ノイローゼ・うつ病

心療内科-身体症状が出ている場合

  薬を出せる

臨床心理士

カウンセラー

産業カウンセラー-企業につとめている人のカウンセラー

健康心理士-行動療法系、呼吸法、リラクゼーション

学校心理士-LD(発達障害)の専門知識をもつ

  薬を出せない

 

精神科と臨床心理士との境界はあいまい

病院に臨床心理士がいるところがGood、連携がきちんとできている。

 

症候群-全て身体に現れた症状で説明している。

心身症-身体とも心ともつかない病、

ノイローゼ=神経症=外からみればまともだが自分ではくよくよ悩んでいる。気になりすぎて生活できなくなる。(気になる程度のもんだい)

統合失調症-本人はまともだと思っているが、まわりからみればおかしい。幻覚、幻聴。

 ノイローゼと統合失調症のちがいを先ず知る。

うつ病-内性的、まじめは人はなりやすい

・うつうつとする。

・夜眠れない、睡眠障害を伴う。

・慢性的に胃薬を飲んでいる。

  生活に支障が出る場合は医者を紹介する。

カウンセラーになった時、どんな病気が見きわめることが必要になってくる。

医者の耳情報は大切。地域のネットワークが重要。この医者は薬を出すとか出さないとか、医者の特徴と傾向を知っておくことが大切。

子育ての経験がないからといって子供の気持ちがわからないということではない。

同じ経験をもっているとカウンセラーが自分の経験をダブらせすぎてしまう場合もある。

「負け犬」など女性のシングルは話題になるからいい。男性のシングルはもっと深刻。

アタマで考えてしまう、というのも身体の感じのひとつ。自分の中から何がでてきても認めるのがフォーカシング。カウンセリングの重要なプロセスのひとつ。

 

境界性-まわりの人をすごく振り回す(対人関係のもんだい)。人間関係がとれない。0か100か。

かい離-とりつかれたような状態、霊的。

 

不登校の子供がいる

・子供に直接面会する-カウンセリング

・学校の先生を通して子供に働きかける-コンサルテーション

 

カウンセリング

 自分で答えをみつける。

 自分で自分を見つめる方法をアドバイスする。

 自分の声をきいていく。(自分との対話を進めていく)これを助ける。

 内性カウンセリング(ロジャーズ、ユング、フォーカシング)

 

 自分との距離が近すぎる場合は自分を忘れた方がいい。

 作業に取り組む(森田療法)。

 

 自己決定のプロセスにはカウンセラーの責任がある。

 

中心になる3つの方法

①過去から解放するアプローチ、精神分析-自分の悩みから理論をつくった。幼少期の家族関係に切り込んだ。

②練習するアプローチ、行動療法、認知行動療法、論理療法

③気づきと学びのアプローチ、人間制/トランスパーソナル心理学、来談者中心療法

 

これらの間に交流分析、ユング、ブリーフィングセラピー(短期療法)がある。

①過去から解放するアプローチ-心的外傷(トラウマ)故に子供は悩み続ける。

・アダルトチルドレン-子供の頃の心の傷をひきずっている人。

 「母から愛されなかった」という悩みを抱える人は多い。

・対象関係論(日本で今人気)

  幼少期の母子関係に焦点をあてる。

・産道体験(オットーランク)

  その後の人生を左右する。つらい体験

・フロイト

  精神力動論・深層心理学

 

②練習するアプローチ-行動療法-現在の行動に注目する

 オペラント心理学

課題をつくって練習させていく。

  ↓

練習の結果をきく。

  ↓

難しい課題にしていく。

 

認知行動療法-思考のパターンを変えていくアプローチ。

 

③気づきと学びのアプローチ-もんだいや悩みに対するかまえが①②と大きく異なる。

自己成長アプローチ

もんだいを人生の大切な一部と考える。

その人が成長するうえで必要なもの。

解決すべきものとは考えない。

気づくべきことに気づかせてくれるもの。

悩みを通して成長していくのを助けるアプローチ。

全ての出来事には意味がある。

問題を通して自分に気づいていく。

自分が成長していく。

実存論・現象学・人間学的アプローチともいう。

どれかひとつ自分がのめり込む方法をひとつ見つけること。

補助的に他のものを学ぶ。

クライエントがセラピストをえらぶ時代。

 

その人のアプローチはその人の人生がたどりついたもの。


フォーカシング

2025年01月27日 12時59分39秒 | グリーフケア

まっすぐに伸びる木

『カール・ロジャーズ入門-自分が”自分”になるということ』より-「フォーカシング」

 

2004年6月25日(金)フォーカシング

  1. はじめに

 私たちは日頃、困ったことや気になること(人)があったとき、そこからなんとか抜け出そうとしていろいろなことをします。どうしてこうなっているのか(原因)、どうしたらいいのか(方法)を自分なりに一生懸命考えます。答えを見つけだそうとして何冊も本を読んで調べたり(知識)、ほかの人に相談してアドバイスをもらったりします。

 しかし、”こうだから悪いんだ!”、”こうすべきだんだ”と頭ではわかっても、どうも、どうにもすっきりしない、解決しない、実際は何も変わらないという経験をたくさんしてきているのではないでしょうか。つまり頭ではわかっても、腑に落ちていないのです。

 では、腑に落ちるとはどういうことでしょうか?

 

  1. フォーカシングとは?

 私たちはからだの内面の感じに注意を向けてみることによって、普段見過ごされてしまいそうな、かすかで漠然としているけれども、確かに感じられている”ある感じ”[いのちの働き]に出会うことができます。

 この”意味ある豊かな感じ”<フェルトセンス>に触れつづけていくことで、感じにぴったりしたイメージなり、言葉が浮かび「ああっ、そうか」という気づきが起こり、からだが解放されます<フェルトシフト>。このような体験のプロセスが<フォーカシング>なのです。まさに、腑に落ちるのです。その鍵は、自分自身の内なるフェルトセンスにあるのです。

 フォーカシングの創始者であるジェンドリンは(心理療法家であり哲学者でもあります)、科学的リサーチによって、「心理療法で成功したクライエントは、ひとつの変化過程の源泉が、問題に対する”からだの感じ”のなかにあることを自分自身で見つけている」ということを明らかにしました。彼は、「人は、過去の出来事によって現在を決定されて生きているのではない」という実存主義に立って臨床研究を続けてきました。

 人のからだは常に、過去のすべての体験を含みつつ、未来に対しては、よりその人らしい生の方向性を含みながら、今を生きているのです。

 フォーカシングは、ゆっくり、静かに自分自身のフェルトセンスに耳を傾けていくことからはじまります。

 

  1. フォーカシングを行う際の留意点

 フォーカシングは、知的な操作ではなく、からだに注意を向けて『からだに聴く』プロセスです。そのために、日常の心のありようとは違った注意が必要です。

  • リラックスして、ゆったり安心できる場で行う。
  • 自分のからだに対して、やさしく親しみをもって問いかける。
  • からだに感じられたこと、からだから浮んでくるイメージやことばを、そのまま大切にじっくりと味わう。
  • どんなものが出てきても、知識や考えでそれを評価したり、判断したりせずに、素直に受けとる。
  • 嫌な、とか、恐いイメージが出てきたとしても、深い呼吸をして、からだをゆるめ、その漢字やイメージに安心な距離をおいて、それに触れ続けてみる。
  • 無理せず、自分のペースで行う(リスナーに遠慮しない)。

 

 フォーカシングで出てきたイメージや言葉は、日頃、頭で考えていることと、かけ離れていたり、意味がよくわからなかったりすることがあり、そのまま素直に受け取りにくいことがあります。

 しかし、からだは多くのことを知っています。出てきたものは豊かで意味深く、大切なものが含まれているのです。やさしく、素直に受け取っていきましょう。

 フォーカシングのプロセスは、限りなく生まれ、つながっていく大小の鎖の輪に喩えられるように、ひとつのステップは次のステップのはじまりです。ひとつのシフト(からだの感じが変わること、からだで納得できる体験、からだのひらけ)が起きたあと、また新たなフェルトセンスを感じるものです。これは次のプロセスがすでに始まっていることなので、安心してその感じに触れていきましょう。

 リスナーになる場合は、フォーカサーのプロセスを大事にしながら、自分自身のフェルトセンスに触れ続けます。リラックスして、ゆったりと傍にいること、そしてフォーカサーが感じていることを、自分も感じてみようとしながら、フォーカサーが言葉にした『感じ』を、返していくことで、フォーカサーがその感じをもっとしっかり感じられるように、援助します。フォーカシングは、一人でもできますが、リスナーがいてくれることで、より安心し、集中してからだの感じに触れ続けることができる場合が多いのです。

 

 

2004年6月25日(金)フォーカシング資料-リスナーの言葉かけ

 

リスナーは自分も、からだで言葉を味わいながら、声をかけましょう。

  • フォーカシングするテーマを選んでもらう言葉かけ

 次の3つの中から、今、一番入りやすいものを選んでください。

  1. 今のからだの感じは、どんな感じかな?
  2. このごろの私は、どんな感じで生きているのかな?
  3. 気にかかっている人、気にかかっている事について、からだはどんな感じかな?

 選んだら、知らせてください。

 

  • からだをリラックスさせて、からだの声を聴いていく言葉かけ

 軽く目を閉じて、ゆったりと座ってください。深くゆっくり呼吸をしながら、吐く息といっしょにからだの力を抜いていきましょう。

 頭、目、頬、首の力を抜いて、肩から腕の力も抜いていきましょう。上半身から力を抜いて、腰は楽にして、足の力も抜きましょう。

 今の感じを味わいながら、しばらくその感じに浸ってみましょう。

 

  • 選んだテーマについて、からだの声を聴いてもらう言葉かけ

 <フォーカサーが選んだテーマをゆっくり声に出す>自分のからだに静かに問いかけてみて、感じてみましょう。

 かすかな、ぼんやりした感じが感じられてきたら、ゆっくり味わって、その中からイメージや言葉が浮かんでくるのを待ってみましょう。

 それから、言葉に出してみましょう。

 今、からだはどんな感じですか?

リスナーは、フォーカサーの感じを共に味わい、しっかり実感しながら、フォーカサーの歩みを大事にして、ついていきましょう。

 

*************

フォーカシングのインストラクション

(体験過程に直接触れていこうとするインストラクション)

①間をつくる

 ・からだをほどく。

 ・上半身から力を抜き、ゆったりとして、おなかのあたりは、どっしりとした状態になる。

 ・静かにゆったりと楽にしてください。

 ・軽く目を閉じて、ゆっくり深い呼吸をしましょう。

 ・頭から力を抜いて、静かにゆっくりと、ぼんやりした感じで、暫くそのま まに、いてみましょう。

 

②内面に向かう

・注意を自分の内面に向け、深いところで自分がどんな感じでいるか、ゆとりをもって感じようとする。

・注意を自分の中に向けてみてください。

 例1.「この頃どんな感じで生きているのかなぁ」と問いかけて、浮かんでくるままに、いてみましょう。

 例2.「今、どんな感じを、自分の中に感じているのかな」と問いかけて、その感じのままに、いてみましょう。

 例3.「何か気にかかっていることがあるかなぁ」とやさしく問いかけて、浮かんでくるままに、いてみましょう。

 

③フェルトセンス

・何かはっきりしないが、確かに感じているその感じに注意を向け続ける。

・その全体の感じをからだで感じようとする。

・いろいろな感じや、イメージが出てきても、出てくるままに、まかせていましょう。

・漠然とした感じが、自分にひとつにまとまってくるまで、暫くそこに、いてみましょう。

・出てきたある感じを、感じ続けてみましょう。

・その全体の感じは、どんな感じかなー。

・その感じを、暫く味わっていてみましょう。

 

④その全体の感じにピッタリしたことばが出てくるのを待つ

・そのフェルトセンスから、その感じにピッタリしたことばとかイメージが出てくるのを、全身で感じを味わいながら待つ。

・確信に触れ、その質を捉えようとする。

・「その感じはどんな感じかな」と、じっくり味わいながら、ピッタリしたことばとか、イメージが、からだの中から浮んでくるのを待ってみましょう。

 

⑤共鳴させる

・出てきたことばとイメージがフェルトセンスにピッタリ合っているか全身で確かめる。

・そのことばとか、イメージが、その感じにピッタリするまで、じっくり味わってみましょう。

 

⑥フェルトシフト(からだと心が開かれる)

・シフトが起こって、からだと心が開かれる。

・その感じに十分ひたって味わう。

・そのまま、その感じにひたっていましょう。

・それで十分だなぁと思われたら、ゆっくり目をあけましょう。

 

⑦受け取る

・解放感を伴って出てきたものは、どんなものでも、そのまま素直に受け取る。

・フォーカシングの後、体験を話すことで、更にはっきり受け取ることができる。

・出てきたものは、そのまま「そうだ」と素直に受け取りましょう。