たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

プリンス・エドワード島への旅-NEW LONDON VILLAGE POTTERY

2025年01月04日 17時51分00秒 | プリンスエドワード島への旅

春のプリンス・エドワード島への旅_2日目

モンゴメリさんの生まれた家があるニュー・ロンドンのお店。道路沿いにありました。春のプリンス・エドワード島への旅の時、プリンス・エドワード島セレクトツアーズさんの個人ツアーで寄ってくれたんだったかな。可愛らしい店内でした。陶器を買ってしまうとモノが増えるので買いませんでした。プリンス・エドワード島の海と空と灯台を描いたクリップを何点か買いました。

 このパンフレットもここにあげたのでお別れ。







こんな可愛いマグネットを買いました。残念ながらつくりはMade in Japanのようによくなく、こわれてしまった2点はようやく写真を撮ってお別れ。3点まだ生き残っているので冷蔵庫のドアに貼り付けています。いつか、いやもう何年か先にはお別れしなければなりませんが生き残っているものはまだそのまま。



 春のプリンス・エドワード島、あちらもこちらも島全体が輝く湖水のようででした。いろんな緑にあふれて、夢をみているかのような心地でしたがもし今変形性膝関節症末期ではなくお金があり円安も物価高騰もなんのそので何不十分な訪れることができたとしてもこの時ほど心が動くだろうかとふと考えます。この時だからこそでした。この時でなければなりませんでした。旅に出るタイミングとはそういうものでコロナ騒動でワクチン強制したカナダ、世界情勢を鑑みても自分の年齢を考えてもこの頃に訪れたことは正解だったと思います。












プリンス・エドワード島への旅の思い出-St.Dunstan,s Basilica

2024年12月16日 01時22分30秒 | プリンスエドワード島への旅

 

 

 


プリンス・エドワード島への旅-トロント空港での乗り換え

2024年08月21日 00時05分15秒 | プリンスエドワード島への旅

 

2012年秋のプリンス・エドワード島への旅でアレンジを頼んだカナディアンネットワークがくれた成田空港第一ターミナルとトロント空港ターミナル1の案内図。振り返ると4回乗り換えました。エアカナダは全日空グループなのでANAのマイルがつきました。この世にいる間訪れることはもうありません。生まれる前からの右足股関節脱臼により変形性股関節症がどの程度進行していたのかわかりませんがこの頃すでに数センチ右足が短くなっていたのでしょう。行きたい、今行かなければ心が死んでしまうという思いだけで突っ走りました。それができるだけの若さをまだ持ち合わせていました。広い広い空港を自力でよく乗り換えたもんだと思います。全て遠い日の夢の中の出来事のようです。

西側諸国が仕掛けたコロナ茶番劇により、特にカナダとオーストラリアのコロワクチン強制接種、全体主義は信じられませんでした。トロント空港はいっけん元に戻ったようにみえるけれど職員がやめていったので人手不足。変わってしまったという書き込みをみかけました。

どこにも辿り就くことができなかったばかな人生ですが、この時でなければとの一心で飛び立ったことだけは悔いなしです。終りがみえてきました。かなりわがままをし、たくさん人に迷惑かけてきましたが、あの世にいくときまだプリンス・エドワード島にいっていない、パリにもいかなかった、ロンドンもいったことないまま人生が終わっていくのだと後悔せずにすみます。コロナ茶番劇を考えると、今変形性股関節症の末期でなかったとしてもこれだけは正解だったと思います。

 

 

春のプリンス・エドワード島への旅_出発

2010年6月6日(日)

17時、AC0002便にて成田空港からトロントへ出発

 -日付変更線-

15時50分着、トロントピアソン国際空港に到着(時差13時間)

20時30分、AC8858便にてシャーロットタウンへ出発

23時34分、シャーロットタウンに到着(時差12時間)

 

夏のプリンス・エドワード島への旅_出発&二日目


2009年7月11日(土)

トロントまで約12時間。

トロントからモントリオールまで約1時間。フランス語圏でわけがわからなくなる。
荷物をいったんピックアップして、入国審査を受けて・・・。
この時点で日本では翌日のお昼頃にあたったのだろうか。相当な疲れ。
シャーロットタウンまでの飛行機でシートをまちがえているのに気づかない。
英語がききとれない。

モントリオールからシャーロットタウンまで約1時間。
明るい乗務員のお兄さん(といっても30代後半?)に元気をもらった。
PEIの夜の灯りが見えてくる。すでに24時。雨で寒い。
やっと着いた-!
遠かった-!

秋のプリンス・エドワード島への旅_序章

写真は成田空港です。
エアカナダ,17時20分発002便トロント行きのスタンバイ中。
何度も搭乗しているカエデのマーク。
やっといよいよなんだあと気持ちが昂揚してきます。

秋のプリンス・エドワード島への旅_出発

2012年10月13日(土)

不安と緊張の中、成田エクスプレスに乗る。落ち着かない。長かった。(かかりつけ医で処方箋をだしてもらった)軽い睡眠薬を前の晩飲んでみたら動悸がしてしまった。母の死因が頭をよぎる。不安・・・。

薬局にTELしたら、使わない方がいいかな、ということだった。

12時59分、成田エクスプレスに乗る。

着いたらヤマトで荷物を受け取り、すぐにチェックイン。重さが心配だったが、余裕だったようだ。
1万円相当をカナダドルに両替するとそのまま出国。搭乗ゲートに辿り着くまでに1時間は要しただろうか。あわただしい。搭乗を待つ間、不安と緊張はピークに達して落ち着かない。TELしてみたり、メールしてみたり。カウンセラーのY先生にはつながらなかった。いつまでも頼っていてはいけない。

17時20分、トロント行きAC002便テイクオフ。(写真家の吉村和敏さんも同じ便に搭乗されていたようです。)わりとスムーズだが、時折激しく揺れる。酔い止めと風邪薬で最初の食事の後少し眠ったようだ。でも、あとはぱったり眠れない。結局、睡眠薬にたよった。でも、激しく揺れ始めると、子供たちの泣き声でなかなか眠れない。カップラーメンをいただいた後ようやく少し眠れた。

16時10分(日本との時差は-12時間)、定刻通り、トロント・ピアソン国際空港着。
乗り継ぎに緊張。入国審査で英語がトンチンカン。違う方向へ進みそうになるが、係の人が教えてくれたので大丈夫。荷物受け取りのターンテーブルを間違えることなく、あとはひたすらCONECTION、荷物を預け直してあとはひたすらシャーロットタウン行きの搭乗口D12のゲートを目指す。

トロント(往路)の乗り換え手順。

①先、入国審査。渡航目的などをたづねられる。

②ターンテーブルで荷物受け取り。
 出口には出ないでひたすらCONECTIONの表示に従い左に進む。

③荷物を国内線に預ける。これでいいのって思うぐらいかんたん。

④エレベーターに乗って上の階へ。

⑤国内線手荷物検査を受ける。
 (③から⑤まで現地係員お手伝い)

⑥あとはひたすら搭乗ゲートへ。シャーロットタウン行きははしっこ。


トロントでの待ち時間が長くて、寒くって疲れた。時折眠ったようだ。
PEIまでの飛行機が揺れて緊張する。
1時近く(真夜中、成田エクスプレスに乗ってから24時間経過していることになります。)
にPEI着。島の灯りが見えてくるとまた涙。また来たんだ。PEIセレクトツアーズさんのお迎えで1時40分頃、キンドレット・スピリッツ・カントリー・イン着。
満天の星空が美しい。

 

秋のプリンス・エドワード島への旅_7日目(帰国)(2)

2012年10月19日(金)

シャーロットタウン空港⇒ハリファックス行
エアカナダAC8869便 8時45分発

少しおくれている。ハリファックスまで2列・2列の小型機。25分ぐらいだったが飲み物の機内サービス有。
低い所を飛んでいるので窓からの景色を楽しめた。
通路側だったが、わたしが一生懸命に窓の外を見ているので、隣の女性が席を替われないか、乗務員にきいてくれた。前のシートが空いていたので窓側に坐って、サンライズとパッチワーク、紅葉を楽しむ。
遠く遠くはるかに遠く、海の彼方の朝陽がまぶしくてほんとうにきれいだった。
サヨナラPEI。
あっという間に海を渡ってカナダ本土へ。ハリファックスの紅葉も美しかった。

ハリファックス⇒トロント行 
エアカナダAC611便 11時発

トロント⇒成田空港行
エアカナダAC001便 14時21分発

トロントでの乗り換えが遠い。
途中パスポートを見せて、エレベーターで上がったりもしなければならない。
縁あってカートに乗って楽してしまった。
時間に余裕がなかった。

 


プリンス・エドワード島への旅の思い出-Anne of Green Gables Chocolates

2024年03月07日 00時00分59秒 | プリンスエドワード島への旅

プリンス・エドワード島への旅の思い出-Anne of Green Gables Chocolates

 

シャーロットタウンのAnne of Green Gables Chocolatesでジャムを包んでくれた紙。ここにもアンが印刷されていて可愛いですね。2010年6月、春のプリンス・エドワード島への旅の時でした。こんなのもまだ捨てることができずにいます。あの世にいく時持っていくことはできないのでそろそろ捨てなければと思います。断捨離は本当にひとつひとつです。来し方を振り返りながらひとつひとつ諦めてゆく作業。昨年10月にようやく手提げバッグを捨てられたのでこれもお別れできるでしょうか。あとアンの紙ナプキンがあります。

世界中おかしいことになっていますが、カナダもおかしなグローバリズムに支配されてLGBTはおかしいと言えなくなっているのだそうです。コロナ騒動の渦中ではトルドー首相がワクチン接種の拒否を表明してデモを決行したドライバーたちの銀行口座を凍結しました。健康被害が世界中で明らかになってきているのにつれて今や裁判で糾弾されているようですが、夢は終わりました。

わたしのような者が旅をできた日々、いくえにも奇跡だったと思います。今しかないと思ったらその時しかなかったのです。まだそれだけの若さと心のエネルギーがあったし、給料の半分が税金と社会保険料負担というにはまだ猶予があったし、日本は先進国だと多くの人が勘違いしていてわたしも勘違いしていて会社の中苦しくて苦しくて苦しくてたまりませんでしたが、今を考えるとまだまだ幸せな状況だったと言えます。なんのために生まれてきたのかわからない人生ですが、プリンス・エドワード島へ3回旅したことは十分すぎるほど贅沢なこと。心の底から幸せだと思える時間を過ごすことができました。人生良しとしたいと思います。

 


プリンス・エドワード島への旅の思い出-Anne of Green Gables Chocolates

2023年10月17日 00時29分35秒 | プリンスエドワード島への旅

パンフレット、





2010年6月10日(木)シャーロットタウン、





ジャム、チョコレートなどを購入した時の手提げバッグ、

(追)

紅茶のパッケージ。

プリンス・エドワード島に辿り着くまでの想いを振り返るとなかなか捨てることができませんでしたが、ようやくスキャンしたのでここに掲載してお別れ。

生まれる前からの右足股関節脱臼に始まり、変形性股関節症の末期で終わっていく人生の中で、かなり無理ありましたがプリンス・エドワード島に飛び立ったことは正解でした。この世を旅立つときいっておけばよかったと後悔することなく死んでいくことができます。心の底からプリンス・エドワード島に行きたいと行った、右足の軟骨が摩耗しつつあることを知らなかったはある意味よかったのかもしれません。足が悪いからとおそれたらなにもできませんでした。知らなかったおかげである程度やりたいこともやれた人生だったのかもしれません。


プリンス・エドワード島への旅の思い出-グリーン・ゲイブルズ

2023年09月23日 13時38分53秒 | プリンスエドワード島への旅

夏のプリンス・エドワード島への旅-グリーン・ゲイブルズ

(2009年7月の日本語パンフレットより)

🌸グリーン・ゲイブルズとL.M.モンゴメリ

グリーン・ゲイブルズはL.M.モンゴメリの古典的小説“アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ(日本語タイトル;赤毛のアン)”で世界中に知られています。ここはその舞台を築く着想の源となったところです。実際には、デイビッド・マクニール二世とマーガレット・マクニール兄妹の農場であり、二人の住む家でした。デイビッドとマーガレットはモンゴメリの祖父のいとこにあたり、農場は最初1831年、デイビッド一世によって入植されました。L.M.モンゴメリ自身は近くの祖父母の家で育ち、生涯一度もグリーン・ゲイブルズに住んだことはなかったのですが、まわりの森や林を散策しながらこの農場を身近に親しみ、強い愛情を抱くようになります。そしてお気に入りの場所を見つけては、“恋人の小径”(Lover,s Lane)や“お化けの森”(Haunted Wood)と名付けたりしました。

“アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ”が1908年に出版されると、時を置かずして人々はグリーン・ゲイブルズはもとより、小説中に登場する場所やアボンリーの住人達を捜してキャベンディッシュを訪れるようになりました。
小説の中でモンゴメリが描写したものの多くは彼女の創作であり、いくつかは現実のものからヒントを得てできたものです。

“アヴォンリーの大部分はキャベンディッシュである。グリーン・ゲイブルズはディビッド・マクニールの家をもとに描いた。しかし、家自体よりも、まわりの環境や景色の描写が中心である。私の書いた現実の描写の部分は人々の目にもそれと分かることで証明されている。”
-Selected Joumals of L.M.Montgomery Vol.1  1911年1月27日より

モンゴメリの精神的な故郷の地とのつながりは、生涯を通じて続いています。牧師の妻としてオンタリオに移り住んだ著者には、故郷を訪れる機会は限られていましたが、彼女の書いた20冊の小説のうち1刷を除いてすべての主な舞台は、プリンス・エドワード島におかれています。モンゴメリは島への里帰りのたび、しばしばグリーン・ゲイブルズに住みウェッブ一家(デイビッドとマーガレット・マクニールのあと、この農場を引き継いだアーネストとマートル・ウェッブ夫妻)を訪ね、何日か滞在することもありました。そして、1942年に亡くなったモンゴメリは、キャベンディッシュの墓地に埋葬されました。死後まもなく、カナダの歴史的記念物保護委員会によってL.M.モンゴメリは歴史的重要人物と公認され、グリーン・ゲイブルズに記念碑が建てられました。

🌸より充実した時間をすごしていただくために

1997年にはグリーン・ゲイブルズに敷地改造事業が完了しました。この事業の完了は、パークスカナダが目的とする“訪問者への最高のサービス”への大きな助けとなるものです。またプリンス・エドワード島国立公園におけるグリーン・ゲイブルズの意味と、歴史的重要人物としてのL.M.モンゴメリをよりよく理解できるようになりました。

改造事業の一部として、“アウトビルディング”(農家の母屋以外の建物)の建設も行われ、これは1930年代後半まで、この農場に実在した建物が元となっています。 」


 この世にいる間もう訪れることはないプリンス・エドワード島への旅の思い出、振り返り。どうしようもない人生でしたが、右の股関節が摩耗し続けているとわかっていなかったので思いっきり歩いたし、夏・春・秋と訪れて十分贅沢しました。辛くって辛くって辛くって仕方なかったカイシャを忘れて夢をみることができました。夏も春も秋もプリンス・エドワード島は夢のようにきれいでした。振り返ればごっそりと天引きされる社会保険料の割合がその後よりはまだ少なかったような気がします。円安も今ほどひどくなかったし、まだはるかにマシでした。今の社会保険料の負担率と旅行代金だったらとても無理。まだ若さが残っていたし、タイミングを逃すことなく飛行機に乗ったのでこの世を旅立つとき、あの時いっけおけばよかったと後悔しなくてすみそうです。思い出の引き出しと一緒に旅立つ、その時はなにも持っていけませんがちょっとまだこの紙を捨てきれず持ち歩いています。紙だけなら一緒に燃やしてもらうことできるか、燃やしてもらえるだけのお金は残しておかないと・・・。



2010年6月の日本語パンフレット





2012年10月の日本語パンフレット





2012年10月の英語パンフレット


プリンス・エドワード島への旅-The Water Prince Corner Shop

2023年01月16日 16時39分24秒 | プリンスエドワード島への旅
この世にいる間もう訪れることはないプリンス・エドワード島への旅の思い出、振り返り。

 シャーロットタウンの海岸近くにあるThe Water Prince Corner Shop、かわいい長靴の看板が目印。その日の朝とれたてのロブスターを食べることができます。とれたてのロブスターの値段はその日その日。地元の方々が訪れるお店なので観光客向けのアレンジがされておらず、日本人にはものすごいボリューム。必死に食べたのも楽しい思い出。


英語のメニュー。店内には日本語のメニューも用意されていたようが記憶があります。





夏のプリンス・エドワード島への旅_帰国(バンクーバー空港にて)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/573ff54ee11f21845d14ee0297b54191

2009年7月17日(金)

おっと、ロブスター食べたよ。
ハーフサイズを注文して、ムール貝はつけあわせであるかのように(日本語のメニューに)書いてあったのに、ボールで出てきてびっくり。とても食べられない。
半分にしてもらった。それでもおなかいっぱい。おいしかったけどね。
グラスワインをいただきながら、ロブスターもがんばって食べた。
本当にわたしにはきつい大きさなのだが、自然の味がしてうまかったなあ。
庶民的なおしゃれじゃない店で食べたのがよかったかな。

(ロブスターを食べた日の前日に同じ店で食べた)オイスター、うまかったあー。
ワインを飲みながらだったら、もっとうまかっただろうなー。



春のプリンス・エドワード島への旅_5日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/c5c5799d6722ae857003cf4febdde41d

2010年6月10日(木)

5時半にWater coner shopでTさん、Oさんと待ち合わせて食事。

マルペクオイスター、
その日獲れた2分の1ポンドのロブスターのムール貝添え。
3人でいただいたので、量にびっくりせず、ゆっくり味わうことができた。
やっぱり美味かった。
ワインかビール、飲みたいーって感じ。
なんだかヘロヘロできついのに、自分の中に心のエネルギーが戻っているのを感じる。



秋のプリンス・エドワード島への旅_6日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/657bc017764d4896ca344e697adb0a9e

2012年10月18日(木)

ロブスターを一人で食べようと注文したが、前菜を見て挫折。
お店の人に本当に失礼だったがキャンセル。チャウダースープのみ。
ロブスターロールを持ち帰った。
(ウオーター・プリンス・コーナー・ショップです。
初めての旅で一人で入った時はがんばって食べたのですが、この時は見ただけでお腹がいっぱいになってしまいました。
日本人にはかなり多い、大きいボリュームなので、やはり一人では無理でした。
本当にロブスター食べないの?と人なつっこい笑顔で驚かれました。
お店の人、ごめんなさい・・・)。



こちらはPEIプリザーブカンパニーでいただいたロブスター。
おそらく食べやすいよう、日本人観光客向けの大きさと味付けになっていました。




シャーロットタウンの地図


プリンス・エドワード島への旅-キンドレッド・スピリッツ・カントリー・イン

2023年01月10日 20時38分51秒 | プリンスエドワード島への旅


「島にはさまざまな種類の宿があります。カナダ人やアメリカ人が車で観光しながら家族づれで滞在することが多いため、朝食がついたB&Bやモーテルが一般的です。シャーロットタウン、サマーサイドには、ホテルもあります。

 私のお気に入りは、グリーン・ゲイブルズまで徒歩5分のB&B「キンドレッド・スピリッツ・カントリー・イン(心の同類の宿)」です。グリーン・ゲイブルズの母屋と納屋は朝から夕方までの開館ですが、農場の庭や《恋人たちの小径》は、いつでも散策できます。早朝や夕暮れのグリーン・ゲイブルズを散歩するには、絶好の立地です。本館と別館の客室は、花柄のファブリックとパッチワークキルトで飾られ、ロマンチックです。町のホテルとはちがい、白樺やカエデ、林檎の木にかこまれた宿で小鳥のさえずりを聴いて目覚める気分は最高です。」

(松本侑子著『赤毛のアンのプリンス・エドワード島紀行』より)

2012年10月秋のプリンス・エドワード島への旅、

1階のスィートルームに泊まることができました。
朝、庭に出るとカナダ・ギースの鳴き声がきこえました。
モンゴメリさんが描いているとおり、ぴりっとかぐわしい香りがしました。
幸せでした。

















キンドレッド・スピリッツからグリーン・ゲイブルズへの道
たんぽぽが咲いていました。






グリーン・ゲイブルズからキンドレッド・スピリッツへ帰る道





秋のプリンス・エドワード島への旅_2日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7b9b7b05534a8f15ad559f5a212ef6b1



2010年6月春のプリンス・エドワード島への旅、








プリンス・エドワード島への旅-PEIセレクトツアーズパンフレット

2022年12月29日 14時37分02秒 | プリンスエドワード島への旅
2009年7月16日(木)

灯台とダルベイツアー

夏のプリンス・エドワード島への旅_五日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/988467709f6768c1d56b96734645973a











2010年6月8日(火)お花畑ツアー

春のプリンス・エドワード島への旅_3日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/6c65b1510de4f4ebd0083c89a7c1a3e2


2010年6月10日(木)北海岸ツアー

春のプリンス・エドワード島への旅_5日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/c5c5799d6722ae857003cf4febdde41d











 2012年10月の秋のプリンス・エドワード島への旅では、カナディアンネットワークのアレンジにより、現地では全面的にPEIセレクトツアーズにお世話になりました。シャーロットタウンの宿で暖房がうまく稼働せず、でも英語がおぼつかないので真夜中にもかかわらず電話対応していただきました。この世にいる間にいつかまたもう一度と、なかなか捨てられずにいたパンフレット、これでようやく捨てることができます。

 わがまましましたが、働くことがつらくてつらくて逃げ出したくてたまりませんでした。二人分以上の過剰労働、働いて働いて働いて働いた末にようやくなんとかたどり着いたプリンス・エドワード島。日頃の疲労の蓄積に長時間の移動と時差がこたえて具合悪くなっても幸せでした。


2012年10月17日(水)、キャベンディッシュ・ビーチのサンセット

シャーロットタウンから、もっともPEIらしいアップダウンの道を走って、現地ドライバーさんとのドライブ。夢の中を漂っていたような気がします。幸せでした。


秋のプリンス・エドワード島への旅_5日目(2)










春のプリンス・エドワード島への旅-オーウェルコーナー歴史村

2022年12月27日 16時54分16秒 | プリンスエドワード島への旅
春のプリンス・エドワード島への旅_4日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/e8d4a3299d683dd3c339646aacea06c9
















-ご案内-

 プリンスエドワード島の心の拠り所は、その地域の歴史遺産にあります。オーウェルコーナー歴史村の使命は、島の典型的な地域社会の雰囲気、趣、活気までも歴史遺産として、1895年当時そのままに保存、かつ紹介していくことにあります。





-オーウェルコーナー村への植民-

 1766年、測量長官サミュエル・ホランドにより、英国の植民地大臣フランシス・オーウェル卿にちなんで名付けられたこのオーウェル村には、19世紀の初めよりアイルランド人、アメリカからのロイヤリスト(アメリカ独立戦争時の英国支持者)、高地スコットランド人たちが移住してきました。彼らは昔ながらの古い生活様式を新しい土地にそのまま持ち込み、彼ら自身のものを作り上げ、また子孫たちのための基礎を築きあげました。19世紀の終わりには開拓の苦難から比べれば、より近代的な生活ができるようになりましたが、生活の基盤はまだその土地と伝統に根ざしていました。

-PEI農業歴史博物館-

 ヨーロッパの影響を受けたプリンスエドワード島の農業の歴史を展示したPEI農業歴史史博物館をどうぞお楽しみ下さい。州の各種収集物を見学することから、また島民たちの真の経験や声を感じることができます。皆様が当館をを御覧いただいて、私たちの先祖たちが得麺した苦難-殊に私たちにとっては当然のことと思われるような「食べ物を得る」ということであったりもしました-などをよりよく理解し、そしてまた現代の私たちのためにたゆみなく働いている農業に従事する方々へのより多くの感謝を感じていただけることを願っております。


-教会と墓地-

 オーウェル村に植民してきた長老派教会派の人たちは、初めは近くのベルファストの会派に加わりました。人口が増えるに従って、1861年にオーウェル長老教会が建設され、ゲーリック語と英語で礼拝が行われました。当初は伴奏もなく聖歌隊長の先導で讃美歌を歌っておりましたが、1892年に聖歌隊用の演壇とオルガンが加えられました。1925年には当会派もカナダ合同教会に加わりました。近隣のヴァーノンに新しい教会が建設されると、オーウェルでの礼拝はなくなりました。現在の教会は1930年代当時の様に再現されております。隣接する墓地は1884年まで歴史は遡り、現在でもまだオーウェル会派により利用されています。





-学校-

 オーウェル学校は1895年にJ.S.オニール氏を教師として迎えて開校し、小学1年より高校1年の過程まどを教える学校として、地元の教育委員会により運営されておりました。当時のオーウェル学校は、現在では基本と思われるような諸事が不足していたにもかかわらず、多くの生徒たちが専門学校や大学に進学し、好成績を残すという高い学力を達成しておりました。村に残る者も商業を学んだり、家族農場で働いたり、また冒険好きな者は海外に出て行ったり、機会を求め島を後にする者もいました。








-シングルミル-

 冬の間には、男たちは斧や鋸を持って森に行くものでした。木を切り倒し、枝をはらい、丸太にして、馬橇で運んできます。黒トウヒ、栂(ツガ)、杉、樅(モミ)などの丸太を40㎝長さの角材に切り、手動で手斧や槌を使って薄いコケラ板に削いでいきました。荒削りのコケラ板は、さらに削り台の上で刃物を使って、最終仕上げをします。こうしてできたコケラ板は建物の外壁や屋根に使われました。

この肉体労働に集約された技術は、徐々に機械にとってかわりました。展示されている1915年版のシャーロットタウンのブルース・スチュワート社製、製材機と連結しているエッジャーは、17馬力の動力を使用します。製材機でコケラ板を削ぎ、エッジャーで仕上げの形に四角く切ります。それをやはり梱包の器械で束ねて、より早く市場に出すことができるようになりました。


-公会堂-

田舎の島民たちにとって、彼らの小さな地域共同体の中での子供たちの誕生、演劇、教育、宗教、仕事、ロマンスや誰かの死までもが、日常生活の静かなドラマとして取り上げられました。公会堂では、音楽コンサートやダンス、ボックスランチ親睦会、仕事の集まり、討論会や公開会議などが行われ、人気の中心的集会所でした。

最初のオーウェル公会堂は1960年代に焼失し、現在の建物は1970年代に建て替えられました。
当公会堂では伝統的な催しが現在でも行われており夏の間毎週水曜の夕方に音楽家やダンサーがケイリー(島の伝統的な音楽会)に集います。皆様もどうぞご一緒にお楽しみください!



-クラークストアと家屋-

リチャードとデニスのクラーク兄弟は、1856年にアイルランドからオーウェルコープに移住してきました。数年後、彼らはオーウェルに移り、兄のリチャードがジェネラルストア(雑貨屋)を開きました。リチャードの死後は、デニスが商人としての責務を継ぎ、1905年までこの店を経営していました。

この小さな店では、しばしば物々交換にて、人々が自給できないもの、例えば台所用品、服地、量り売りの食品、灯油、金物類、靴、洋服、薬、缶入りの食品、贈答品や玩具、数々の新商品などを買うことができました。買い物客はまた卵、カラス麦、バターや馬の毛までも店に持ち込み、その売上高を貸方としてそれぞれの勘定口座に書き入れておく方式でした。

1900年までは列車と地域の郵便配達によって、島中に点在する400の小さな郵便局に郵便が集配されていました。そのような小さな郵便局の一つが、クラークストアの店の奥にあり、デニスが連邦政府との契約に従って運営していました。

店の奥にクラーク家の家屋が隣接してあります。台所はクラーク家の女主人が食事を料理したり、保存したり、洋服を縫ったり修繕したり、洗濯したり、アイロンをかけたり、家族に必要があればそれに応えたり、と忙しい農家の生活の中心でした。台所の料理用薪ストーブは調理をするとともに、寒い冬の夜には暖をとるために欠かせないものでした。

正面玄関の両側には静かなビクトリア朝の客間と落ち着いたダイニングルームがあります。たくさんの疲れた人々がこの階段を上って羽根布団のベッドにもぐりこみ、体を休めたことでしょう。二階の部屋の一つには機織機、糸つむぎ機他、毛糸や織物を作るための器械が置かれています。

またこの家の二階あ、約10年間裁縫師のイライザ・ラトローブの住まいでもありました。ヤング・レディース・ジャーナルといった雑誌から型紙を取った彼女の作品は、たくさんの特別な行事を美しく彩ったことでしょう。




-農場-

1895年当時の農業は、職業というよりは生活手段でした。平均的な農家の所有面積は100エーカー(約12万坪)で、各種家畜、馬、羊、乳牛、山羊、鶏、豚などを飼い、また様々な作物も栽培されていました。ジャガイモやカラス麦は商品作物として作られ、オーウェルコーブのブラッシュワーフから出荷されていました。

島では1880年代から簡単な酪農業が始まり、オーウェルの農民たちは、1894年にオーウェルコーブに建設されたチーズ工場に牛乳を運んでいました。

馬車小屋には馬車や馬橇、霊柩車など、また納屋には初期の農機具が展示されています。
















-鍛冶屋-

輸送や重労働を馬に頼っていた地域では、鍛冶屋は重要な位置を占めていました。石炭を燃やした炉で、洗練された時間の勘を使って金属を熱し、様々な形をした鉄床の上で巧みに金槌を使って、馬の蹄鉄、釘、鋸、蝶番、家庭用品、農機具や各種部品、そして装飾品なども作っていました。

鍛冶屋は日常の仕事の他にも、馬の売買、動物の世話についての相談、さらに地元の歯医者といった役割までしていました。


-歴史村-

オーウェルコーナーは20世紀の初めまでは活気ある村でしたが、輸送手段、教育、商業、雇用などが田舎から徐々により大きな町、島の中心へ移るにしたがって、このような小さな共同体の重要さ、役割が減少していきました。オーウェルコーナーは、1973年にセンテニアル委員会からの出資にて、同年7月に公開されました。

















夜、シャーロットタウンのデルタホテルで”赤毛のアンカントリーディナー”をいただきました。
ツアーに組み込みでした。