たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

プリンス・エドワード島への旅の思い出-Anne of Green Gables Chocolates

2024年03月07日 00時00分59秒 | プリンスエドワード島への旅

プリンス・エドワード島への旅の思い出-Anne of Green Gables Chocolates

 

シャーロットタウンのAnne of Green Gables Chocolatesでジャムを包んでくれた紙。ここにもアンが印刷されていて可愛いですね。2010年6月、春のプリンス・エドワード島への旅の時でした。こんなのもまだ捨てることができずにいます。あの世にいく時持っていくことはできないのでそろそろ捨てなければと思います。断捨離は本当にひとつひとつです。来し方を振り返りながらひとつひとつ諦めてゆく作業。昨年10月にようやく手提げバッグを捨てられたのでこれもお別れできるでしょうか。あとアンの紙ナプキンがあります。

世界中おかしいことになっていますが、カナダもおかしなグローバリズムに支配されてLGBTはおかしいと言えなくなっているのだそうです。コロナ騒動の渦中ではトルドー首相がワクチン接種の拒否を表明してデモを決行したドライバーたちの銀行口座を凍結しました。健康被害が世界中で明らかになってきているのにつれて今や裁判で糾弾されているようですが、夢は終わりました。

わたしのような者が旅をできた日々、いくえにも奇跡だったと思います。今しかないと思ったらその時しかなかったのです。まだそれだけの若さと心のエネルギーがあったし、給料の半分が税金と社会保険料負担というにはまだ猶予があったし、日本は先進国だと多くの人が勘違いしていてわたしも勘違いしていて会社の中苦しくて苦しくて苦しくてたまりませんでしたが、今を考えるとまだまだ幸せな状況だったと言えます。なんのために生まれてきたのかわからない人生ですが、プリンス・エドワード島へ3回旅したことは十分すぎるほど贅沢なこと。心の底から幸せだと思える時間を過ごすことができました。人生良しとしたいと思います。

 


プリンス・エドワード島への旅の思い出-Anne of Green Gables Chocolates

2023年10月17日 00時29分35秒 | プリンスエドワード島への旅

パンフレット、





2010年6月10日(木)シャーロットタウン、





ジャム、チョコレートなどを購入した時の手提げバッグ、

(追)

紅茶のパッケージ。

プリンス・エドワード島に辿り着くまでの想いを振り返るとなかなか捨てることができませんでしたが、ようやくスキャンしたのでここに掲載してお別れ。

生まれる前からの右足股関節脱臼に始まり、変形性股関節症の末期で終わっていく人生の中で、かなり無理ありましたがプリンス・エドワード島に飛び立ったことは正解でした。この世を旅立つときいっておけばよかったと後悔することなく死んでいくことができます。心の底からプリンス・エドワード島に行きたいと行った、右足の軟骨が摩耗しつつあることを知らなかったはある意味よかったのかもしれません。足が悪いからとおそれたらなにもできませんでした。知らなかったおかげである程度やりたいこともやれた人生だったのかもしれません。


プリンス・エドワード島への旅の思い出-グリーン・ゲイブルズ

2023年09月23日 13時38分53秒 | プリンスエドワード島への旅

夏のプリンス・エドワード島への旅-グリーン・ゲイブルズ

(2009年7月の日本語パンフレットより)

🌸グリーン・ゲイブルズとL.M.モンゴメリ

グリーン・ゲイブルズはL.M.モンゴメリの古典的小説“アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ(日本語タイトル;赤毛のアン)”で世界中に知られています。ここはその舞台を築く着想の源となったところです。実際には、デイビッド・マクニール二世とマーガレット・マクニール兄妹の農場であり、二人の住む家でした。デイビッドとマーガレットはモンゴメリの祖父のいとこにあたり、農場は最初1831年、デイビッド一世によって入植されました。L.M.モンゴメリ自身は近くの祖父母の家で育ち、生涯一度もグリーン・ゲイブルズに住んだことはなかったのですが、まわりの森や林を散策しながらこの農場を身近に親しみ、強い愛情を抱くようになります。そしてお気に入りの場所を見つけては、“恋人の小径”(Lover,s Lane)や“お化けの森”(Haunted Wood)と名付けたりしました。

“アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ”が1908年に出版されると、時を置かずして人々はグリーン・ゲイブルズはもとより、小説中に登場する場所やアボンリーの住人達を捜してキャベンディッシュを訪れるようになりました。
小説の中でモンゴメリが描写したものの多くは彼女の創作であり、いくつかは現実のものからヒントを得てできたものです。

“アヴォンリーの大部分はキャベンディッシュである。グリーン・ゲイブルズはディビッド・マクニールの家をもとに描いた。しかし、家自体よりも、まわりの環境や景色の描写が中心である。私の書いた現実の描写の部分は人々の目にもそれと分かることで証明されている。”
-Selected Joumals of L.M.Montgomery Vol.1  1911年1月27日より

モンゴメリの精神的な故郷の地とのつながりは、生涯を通じて続いています。牧師の妻としてオンタリオに移り住んだ著者には、故郷を訪れる機会は限られていましたが、彼女の書いた20冊の小説のうち1刷を除いてすべての主な舞台は、プリンス・エドワード島におかれています。モンゴメリは島への里帰りのたび、しばしばグリーン・ゲイブルズに住みウェッブ一家(デイビッドとマーガレット・マクニールのあと、この農場を引き継いだアーネストとマートル・ウェッブ夫妻)を訪ね、何日か滞在することもありました。そして、1942年に亡くなったモンゴメリは、キャベンディッシュの墓地に埋葬されました。死後まもなく、カナダの歴史的記念物保護委員会によってL.M.モンゴメリは歴史的重要人物と公認され、グリーン・ゲイブルズに記念碑が建てられました。

🌸より充実した時間をすごしていただくために

1997年にはグリーン・ゲイブルズに敷地改造事業が完了しました。この事業の完了は、パークスカナダが目的とする“訪問者への最高のサービス”への大きな助けとなるものです。またプリンス・エドワード島国立公園におけるグリーン・ゲイブルズの意味と、歴史的重要人物としてのL.M.モンゴメリをよりよく理解できるようになりました。

改造事業の一部として、“アウトビルディング”(農家の母屋以外の建物)の建設も行われ、これは1930年代後半まで、この農場に実在した建物が元となっています。 」


 この世にいる間もう訪れることはないプリンス・エドワード島への旅の思い出、振り返り。どうしようもない人生でしたが、右の股関節が摩耗し続けているとわかっていなかったので思いっきり歩いたし、夏・春・秋と訪れて十分贅沢しました。辛くって辛くって辛くって仕方なかったカイシャを忘れて夢をみることができました。夏も春も秋もプリンス・エドワード島は夢のようにきれいでした。振り返ればごっそりと天引きされる社会保険料の割合がその後よりはまだ少なかったような気がします。円安も今ほどひどくなかったし、まだはるかにマシでした。今の社会保険料の負担率と旅行代金だったらとても無理。まだ若さが残っていたし、タイミングを逃すことなく飛行機に乗ったのでこの世を旅立つとき、あの時いっけおけばよかったと後悔しなくてすみそうです。思い出の引き出しと一緒に旅立つ、その時はなにも持っていけませんがちょっとまだこの紙を捨てきれず持ち歩いています。紙だけなら一緒に燃やしてもらうことできるか、燃やしてもらえるだけのお金は残しておかないと・・・。



2010年6月の日本語パンフレット





2012年10月の日本語パンフレット





2012年10月の英語パンフレット


プリンス・エドワード島への旅-The Water Prince Corner Shop

2023年01月16日 16時39分24秒 | プリンスエドワード島への旅
この世にいる間もう訪れることはないプリンス・エドワード島への旅の思い出、振り返り。

 シャーロットタウンの海岸近くにあるThe Water Prince Corner Shop、かわいい長靴の看板が目印。その日の朝とれたてのロブスターを食べることができます。とれたてのロブスターの値段はその日その日。地元の方々が訪れるお店なので観光客向けのアレンジがされておらず、日本人にはものすごいボリューム。必死に食べたのも楽しい思い出。


英語のメニュー。店内には日本語のメニューも用意されていたようが記憶があります。





夏のプリンス・エドワード島への旅_帰国(バンクーバー空港にて)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/573ff54ee11f21845d14ee0297b54191

2009年7月17日(金)

おっと、ロブスター食べたよ。
ハーフサイズを注文して、ムール貝はつけあわせであるかのように(日本語のメニューに)書いてあったのに、ボールで出てきてびっくり。とても食べられない。
半分にしてもらった。それでもおなかいっぱい。おいしかったけどね。
グラスワインをいただきながら、ロブスターもがんばって食べた。
本当にわたしにはきつい大きさなのだが、自然の味がしてうまかったなあ。
庶民的なおしゃれじゃない店で食べたのがよかったかな。

(ロブスターを食べた日の前日に同じ店で食べた)オイスター、うまかったあー。
ワインを飲みながらだったら、もっとうまかっただろうなー。



春のプリンス・エドワード島への旅_5日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/c5c5799d6722ae857003cf4febdde41d

2010年6月10日(木)

5時半にWater coner shopでTさん、Oさんと待ち合わせて食事。

マルペクオイスター、
その日獲れた2分の1ポンドのロブスターのムール貝添え。
3人でいただいたので、量にびっくりせず、ゆっくり味わうことができた。
やっぱり美味かった。
ワインかビール、飲みたいーって感じ。
なんだかヘロヘロできついのに、自分の中に心のエネルギーが戻っているのを感じる。



秋のプリンス・エドワード島への旅_6日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/657bc017764d4896ca344e697adb0a9e

2012年10月18日(木)

ロブスターを一人で食べようと注文したが、前菜を見て挫折。
お店の人に本当に失礼だったがキャンセル。チャウダースープのみ。
ロブスターロールを持ち帰った。
(ウオーター・プリンス・コーナー・ショップです。
初めての旅で一人で入った時はがんばって食べたのですが、この時は見ただけでお腹がいっぱいになってしまいました。
日本人にはかなり多い、大きいボリュームなので、やはり一人では無理でした。
本当にロブスター食べないの?と人なつっこい笑顔で驚かれました。
お店の人、ごめんなさい・・・)。



こちらはPEIプリザーブカンパニーでいただいたロブスター。
おそらく食べやすいよう、日本人観光客向けの大きさと味付けになっていました。




シャーロットタウンの地図


プリンス・エドワード島への旅-キンドレッド・スピリッツ・カントリー・イン

2023年01月10日 20時38分51秒 | プリンスエドワード島への旅


「島にはさまざまな種類の宿があります。カナダ人やアメリカ人が車で観光しながら家族づれで滞在することが多いため、朝食がついたB&Bやモーテルが一般的です。シャーロットタウン、サマーサイドには、ホテルもあります。

 私のお気に入りは、グリーン・ゲイブルズまで徒歩5分のB&B「キンドレッド・スピリッツ・カントリー・イン(心の同類の宿)」です。グリーン・ゲイブルズの母屋と納屋は朝から夕方までの開館ですが、農場の庭や《恋人たちの小径》は、いつでも散策できます。早朝や夕暮れのグリーン・ゲイブルズを散歩するには、絶好の立地です。本館と別館の客室は、花柄のファブリックとパッチワークキルトで飾られ、ロマンチックです。町のホテルとはちがい、白樺やカエデ、林檎の木にかこまれた宿で小鳥のさえずりを聴いて目覚める気分は最高です。」

(松本侑子著『赤毛のアンのプリンス・エドワード島紀行』より)

2012年10月秋のプリンス・エドワード島への旅、

1階のスィートルームに泊まることができました。
朝、庭に出るとカナダ・ギースの鳴き声がきこえました。
モンゴメリさんが描いているとおり、ぴりっとかぐわしい香りがしました。
幸せでした。

















キンドレッド・スピリッツからグリーン・ゲイブルズへの道
たんぽぽが咲いていました。






グリーン・ゲイブルズからキンドレッド・スピリッツへ帰る道





秋のプリンス・エドワード島への旅_2日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7b9b7b05534a8f15ad559f5a212ef6b1



2010年6月春のプリンス・エドワード島への旅、








プリンス・エドワード島への旅-PEIセレクトツアーズパンフレット

2022年12月29日 14時37分02秒 | プリンスエドワード島への旅
2009年7月16日(木)

灯台とダルベイツアー

夏のプリンス・エドワード島への旅_五日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/988467709f6768c1d56b96734645973a











2010年6月8日(火)お花畑ツアー

春のプリンス・エドワード島への旅_3日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/6c65b1510de4f4ebd0083c89a7c1a3e2


2010年6月10日(木)北海岸ツアー

春のプリンス・エドワード島への旅_5日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/c5c5799d6722ae857003cf4febdde41d











 2012年10月の秋のプリンス・エドワード島への旅では、カナディアンネットワークのアレンジにより、現地では全面的にPEIセレクトツアーズにお世話になりました。シャーロットタウンの宿で暖房がうまく稼働せず、でも英語がおぼつかないので真夜中にもかかわらず電話対応していただきました。この世にいる間にいつかまたもう一度と、なかなか捨てられずにいたパンフレット、これでようやく捨てることができます。

 わがまましましたが、働くことがつらくてつらくて逃げ出したくてたまりませんでした。二人分以上の過剰労働、働いて働いて働いて働いた末にようやくなんとかたどり着いたプリンス・エドワード島。日頃の疲労の蓄積に長時間の移動と時差がこたえて具合悪くなっても幸せでした。


2012年10月17日(水)、キャベンディッシュ・ビーチのサンセット

シャーロットタウンから、もっともPEIらしいアップダウンの道を走って、現地ドライバーさんとのドライブ。夢の中を漂っていたような気がします。幸せでした。


秋のプリンス・エドワード島への旅_5日目(2)










春のプリンス・エドワード島への旅-オーウェルコーナー歴史村

2022年12月27日 16時54分16秒 | プリンスエドワード島への旅
春のプリンス・エドワード島への旅_4日目
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/e8d4a3299d683dd3c339646aacea06c9
















-ご案内-

 プリンスエドワード島の心の拠り所は、その地域の歴史遺産にあります。オーウェルコーナー歴史村の使命は、島の典型的な地域社会の雰囲気、趣、活気までも歴史遺産として、1895年当時そのままに保存、かつ紹介していくことにあります。





-オーウェルコーナー村への植民-

 1766年、測量長官サミュエル・ホランドにより、英国の植民地大臣フランシス・オーウェル卿にちなんで名付けられたこのオーウェル村には、19世紀の初めよりアイルランド人、アメリカからのロイヤリスト(アメリカ独立戦争時の英国支持者)、高地スコットランド人たちが移住してきました。彼らは昔ながらの古い生活様式を新しい土地にそのまま持ち込み、彼ら自身のものを作り上げ、また子孫たちのための基礎を築きあげました。19世紀の終わりには開拓の苦難から比べれば、より近代的な生活ができるようになりましたが、生活の基盤はまだその土地と伝統に根ざしていました。

-PEI農業歴史博物館-

 ヨーロッパの影響を受けたプリンスエドワード島の農業の歴史を展示したPEI農業歴史史博物館をどうぞお楽しみ下さい。州の各種収集物を見学することから、また島民たちの真の経験や声を感じることができます。皆様が当館をを御覧いただいて、私たちの先祖たちが得麺した苦難-殊に私たちにとっては当然のことと思われるような「食べ物を得る」ということであったりもしました-などをよりよく理解し、そしてまた現代の私たちのためにたゆみなく働いている農業に従事する方々へのより多くの感謝を感じていただけることを願っております。


-教会と墓地-

 オーウェル村に植民してきた長老派教会派の人たちは、初めは近くのベルファストの会派に加わりました。人口が増えるに従って、1861年にオーウェル長老教会が建設され、ゲーリック語と英語で礼拝が行われました。当初は伴奏もなく聖歌隊長の先導で讃美歌を歌っておりましたが、1892年に聖歌隊用の演壇とオルガンが加えられました。1925年には当会派もカナダ合同教会に加わりました。近隣のヴァーノンに新しい教会が建設されると、オーウェルでの礼拝はなくなりました。現在の教会は1930年代当時の様に再現されております。隣接する墓地は1884年まで歴史は遡り、現在でもまだオーウェル会派により利用されています。





-学校-

 オーウェル学校は1895年にJ.S.オニール氏を教師として迎えて開校し、小学1年より高校1年の過程まどを教える学校として、地元の教育委員会により運営されておりました。当時のオーウェル学校は、現在では基本と思われるような諸事が不足していたにもかかわらず、多くの生徒たちが専門学校や大学に進学し、好成績を残すという高い学力を達成しておりました。村に残る者も商業を学んだり、家族農場で働いたり、また冒険好きな者は海外に出て行ったり、機会を求め島を後にする者もいました。








-シングルミル-

 冬の間には、男たちは斧や鋸を持って森に行くものでした。木を切り倒し、枝をはらい、丸太にして、馬橇で運んできます。黒トウヒ、栂(ツガ)、杉、樅(モミ)などの丸太を40㎝長さの角材に切り、手動で手斧や槌を使って薄いコケラ板に削いでいきました。荒削りのコケラ板は、さらに削り台の上で刃物を使って、最終仕上げをします。こうしてできたコケラ板は建物の外壁や屋根に使われました。

この肉体労働に集約された技術は、徐々に機械にとってかわりました。展示されている1915年版のシャーロットタウンのブルース・スチュワート社製、製材機と連結しているエッジャーは、17馬力の動力を使用します。製材機でコケラ板を削ぎ、エッジャーで仕上げの形に四角く切ります。それをやはり梱包の器械で束ねて、より早く市場に出すことができるようになりました。


-公会堂-

田舎の島民たちにとって、彼らの小さな地域共同体の中での子供たちの誕生、演劇、教育、宗教、仕事、ロマンスや誰かの死までもが、日常生活の静かなドラマとして取り上げられました。公会堂では、音楽コンサートやダンス、ボックスランチ親睦会、仕事の集まり、討論会や公開会議などが行われ、人気の中心的集会所でした。

最初のオーウェル公会堂は1960年代に焼失し、現在の建物は1970年代に建て替えられました。
当公会堂では伝統的な催しが現在でも行われており夏の間毎週水曜の夕方に音楽家やダンサーがケイリー(島の伝統的な音楽会)に集います。皆様もどうぞご一緒にお楽しみください!



-クラークストアと家屋-

リチャードとデニスのクラーク兄弟は、1856年にアイルランドからオーウェルコープに移住してきました。数年後、彼らはオーウェルに移り、兄のリチャードがジェネラルストア(雑貨屋)を開きました。リチャードの死後は、デニスが商人としての責務を継ぎ、1905年までこの店を経営していました。

この小さな店では、しばしば物々交換にて、人々が自給できないもの、例えば台所用品、服地、量り売りの食品、灯油、金物類、靴、洋服、薬、缶入りの食品、贈答品や玩具、数々の新商品などを買うことができました。買い物客はまた卵、カラス麦、バターや馬の毛までも店に持ち込み、その売上高を貸方としてそれぞれの勘定口座に書き入れておく方式でした。

1900年までは列車と地域の郵便配達によって、島中に点在する400の小さな郵便局に郵便が集配されていました。そのような小さな郵便局の一つが、クラークストアの店の奥にあり、デニスが連邦政府との契約に従って運営していました。

店の奥にクラーク家の家屋が隣接してあります。台所はクラーク家の女主人が食事を料理したり、保存したり、洋服を縫ったり修繕したり、洗濯したり、アイロンをかけたり、家族に必要があればそれに応えたり、と忙しい農家の生活の中心でした。台所の料理用薪ストーブは調理をするとともに、寒い冬の夜には暖をとるために欠かせないものでした。

正面玄関の両側には静かなビクトリア朝の客間と落ち着いたダイニングルームがあります。たくさんの疲れた人々がこの階段を上って羽根布団のベッドにもぐりこみ、体を休めたことでしょう。二階の部屋の一つには機織機、糸つむぎ機他、毛糸や織物を作るための器械が置かれています。

またこの家の二階あ、約10年間裁縫師のイライザ・ラトローブの住まいでもありました。ヤング・レディース・ジャーナルといった雑誌から型紙を取った彼女の作品は、たくさんの特別な行事を美しく彩ったことでしょう。




-農場-

1895年当時の農業は、職業というよりは生活手段でした。平均的な農家の所有面積は100エーカー(約12万坪)で、各種家畜、馬、羊、乳牛、山羊、鶏、豚などを飼い、また様々な作物も栽培されていました。ジャガイモやカラス麦は商品作物として作られ、オーウェルコーブのブラッシュワーフから出荷されていました。

島では1880年代から簡単な酪農業が始まり、オーウェルの農民たちは、1894年にオーウェルコーブに建設されたチーズ工場に牛乳を運んでいました。

馬車小屋には馬車や馬橇、霊柩車など、また納屋には初期の農機具が展示されています。
















-鍛冶屋-

輸送や重労働を馬に頼っていた地域では、鍛冶屋は重要な位置を占めていました。石炭を燃やした炉で、洗練された時間の勘を使って金属を熱し、様々な形をした鉄床の上で巧みに金槌を使って、馬の蹄鉄、釘、鋸、蝶番、家庭用品、農機具や各種部品、そして装飾品なども作っていました。

鍛冶屋は日常の仕事の他にも、馬の売買、動物の世話についての相談、さらに地元の歯医者といった役割までしていました。


-歴史村-

オーウェルコーナーは20世紀の初めまでは活気ある村でしたが、輸送手段、教育、商業、雇用などが田舎から徐々により大きな町、島の中心へ移るにしたがって、このような小さな共同体の重要さ、役割が減少していきました。オーウェルコーナーは、1973年にセンテニアル委員会からの出資にて、同年7月に公開されました。

















夜、シャーロットタウンのデルタホテルで”赤毛のアンカントリーディナー”をいただきました。
ツアーに組み込みでした。


秋のプリンスエドワード島への旅-シャーロットタウン・ビーコンズフィールド

2022年12月22日 16時16分16秒 | プリンスエドワード島への旅
 もう訪れることのないカナダ。プリンス・エドワード島を三回訪れることができたのは奇跡でした。夢をみていたような気がします。コロナ騒動であらわになったカナダにも言葉がありません。この世にいる間、もう飛行機に乗ることも長時間のフライトで地球の裏側を訪れることもないでしょう。今となっては全て幻。高いお金を出して購入した風景写真集はバリューブックスに出してわずかばかりの値段がつきました。大切にとってきたパンフレットなど、断捨離するためにもう少し思い出をのせていこうと思います。 


















「ビーコンズフィールドへようこそ

この邸宅は、1877年にジェームス・ピークとその妻イデスによって、建てられました。
プリンスエドワード島(以下、P.E.Iと略します)の建築家:ウィリアム・C・ハリスによってデザインされ、土地とあわせて$50,000もかけて造られた、豪邸でした。(当時、1年分の給料は、約$300でした。)
台所には水道が完備され、全25部屋に伝統と暖房が行き渡っており、うち8部屋には装飾された暖炉があり、輸入物のシェンデリアもあります。
この地では、「ビーコンズフィールドは、P.E.Iでも指折りの豪華な邸宅だ。」と言われていました。
そして、1879年には、ビクトリア女王の娘;ルイーズが出席するパーティーの主催者を務めるほど、栄華を極めました。

しかし、残念ながらピークー家は、たった5年間しか、ここに住むことができませんでsたい。
彼が経営していた「木造船の造船業」は、次第に衰えていったのです。
「この家を建てるための多額の借金」と「投資の失敗」が重なり、1882年、彼はついに破産。
ここは、土地の地主であるヘンリー・カンドルと、その姉妹ミリセント、ペネロピのものとなりました。

カンドルー一家は、この邸宅を「贅沢すぎる」と感じながら、暮らしていたようです。(彼らは質素な生活を好んでいました。)とはいえ、結局30年余りをこの家で暮らし、生涯を終えました。
カンドルー一家は3人ともに独身であったため、1916年、最後に亡くなったヘンリーは「この家を、若く・孤立し・恵まれない女性たちの”駆け込み寺”として使ってほしい」と遺言。ここは「生活保護の必要な女性たちの、仮の住処」として活用されることになりました。

その後、1935年からは「看護学生寮」として使われていましたが、
1973年7月3日、P.E.I博物館として史跡保存財団の本部事務所となり、今日に至ります。
現在私たちは、この建物を、当時のままに保存(ならびに修復)しようと努めています。

この素晴らしい邸宅を、そしてここから見える花いっぱいの庭やシャーロットタウンの港を、どうぞ、ごゆっくりご覧ください。






































プリンス・エドワード島への旅-『赤毛のアン』レターセット

2022年10月11日 21時04分02秒 | プリンスエドワード島への旅
 2008年は『赤毛のアン』の出版100周年をお祝いする年でした。2009年に島を訪れた時もお祝いは続いていました。記念に発売されたレターセットを購入。白い封筒、ダイアナと共に海岸沿いを歩く絵柄の便箋、使い残しがありますがもう手紙を書くことはないのでここにアップして捨てます。

 思い出は全て心の中に。

 封筒、便箋、葉書などをまとめていたプラスチックの引き出しケースもまた一個捨てました。










プリンス・エドワード島から自分に宛てた絵葉書

2022年10月09日 20時22分27秒 | プリンスエドワード島への旅
「昨日(13日)はモンゴメリの住居跡を散策中、マクニールさんにお目にかかってびっくり。

 なんとひどい英語で、あまり聞きとれないし、もどかしい。

 でも少し通じ合えたと思う。

 モンゴメリと同じ景色をみて、風を感じている。

 2009年7月14日」





「昨夜も何度も目ざめたがまあまあ眠れた。朝のグリンゲイブルズ、夢がかなった。

 モンゴメリの息づかいを感じたことと、この素晴らしい景色は私に新しいエネルギーを与えて
 くれていると思う。

 また必ず来ることができると信じて帰りたい。

 2009年7月15日グリンゲイブルズ 9時15分」





「旅が終わりに近づいている。

 春のPEIは夢のように美しい。

 体はヘロヘロで歩くのも本当はきついが心は休まった。

 幸せな時間を過ごすことができた。

 頑張ってきてよかったと思う。

 またいつかきっと来ることができると信じて日本に戻ろう。

 2010年6月10日(木)」




 モンゴメリさんが働いていた郵便局で購入した絵葉書で、自分宛てに便りを送りました。宝物としてあの世へいくとき一緒に燃やしてもらうつもりで鞄の中にずっと入れてきましたが限界。もう無理なのでここに書いて捨てます。この頃右足は3センチ?4センチ?短くなっていたのか、わかりません。鏡に映る自分は体を左右に揺らしながら歩いていましたが自覚ありませんでした。わかっていなかったので、お化けの森、モンゴメリさんが歩いた道、宿から海岸まで、あり得ないぐらい歩きました。知っていたら歩けませんでした。
 













 コロワクを強制的にうたせてきたカナダもオーストリアもコロナ規制を緩和し、豊かな自然をアピールしてインスタグラムやツィッターにプロモーション映像を流していますが、酪農家が牛にコロワクをうたされているのだそうです。全て幻想、束の間のはかない夢だったように思えます。世界はどうなっていくのだろうと考えるとこわくなります。