山本健吉・池田弥三郎著『萬葉百歌』より_鏡大王
山本健吉・池田彌三郎著『萬葉百歌』より_額田王・天武天皇
「磐代(いわしろ)の浜松が枝(え)を 引き結び、
まさきくあらば、また還り見む (巻2・141)
有間皇子は孝徳天皇の御子であるが、宮廷の暗闘の犠牲となって、悲劇的最期を遂げたとされている。この歌と、この次の歌とは、捕えられて紀州の湯に護送される途中で、皇子が詠んだものと言われている。そのために、そういう背景の歴史的知識を注入してこの歌を読むので、この歌を悲痛な絶唱のように言うのだが、実はこの歌は、額田王の三輪山の歌(巻1・17)と同じように、旅行の途中での歌で、その解釈からは単なる羇旅(きりょ)の歌である。道中の要所要所にちて、旅人にものを要求するおそろしい神には、大事なものをあげたり、いろいろとお世辞をつかわなくてはならない。
この歌は、ー磐代にいしゃっしゃる道の神様に、海岸の松にわたしの魂を結びつけてさしあげて、わたしが健康でありますようにとお祈りいたします。わたしの願い通り、わたしが健康でしたら、わたしはまた帰りにもこちらに立ち寄って、また神様に何かさし上げましょう。およそこんな意味だ。
神にものを上げる時は、木の枝などに結びつける。この歌の「松が枝を引き結び」にもその意味がある。そして何を結びつけたかというと、人間の身体の中の魂を、一部分、分割して取り出して結びつけて行くのだ。
次の歌の、
家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を。
くさまくら 旅にしあれば、椎(しひ)の葉に盛る(巻2・141)
の歌も、自分がたべるのではない。うちでなら立派な器物に盛ってさし上げるが、旅先だから、椎の葉に盛りつけてさし上げます。これでがまんして下さい、ということだ。(池田)
19歳の皇子有間皇子が斉明4年(658年)に謀反をはかったという事件は、どうも中大兄皇子の仕組んだ事件だったらしい。紀州牟婁(むろ)の湯で中大兄に糾問されたとき、皇子は「天と赤兄(あかえ)」と知る。吾全(もは)ら知らず」と答えただけである。蘇我赤兄は皇子に謀反をすすめると見せて裏切った男であった。
まだ紅顔の貴公子のこの悲劇は、当時人々の同情を集めたと見え、叙事詩としても作られ、朗誦されたらしい。その叙事詩のさわりの場面として、磐代の結び松のことが強く印象され、旅行者たちは磐代を通るごとに、皇子の哀史を思い出し、追懐の歌を捧げたりした。この事件についての日本紀の記述は、その叙事詩の影響を受けている。皇子の家のあった市経(いちふ)から藤白の坂、磐代を経て牟婁へ、さらに磐代を経て藤白へ、かなりの道のりを一潟千里に飛んでいるのは、現実の歴史の時間というより、叙事詩の時間なのである。往きに磐代で歌を詠み、還りにもう一度磐代を通って藤白で絞首されているのは、一応形式的に、磐代の道の神が約束を守ったという形を取っているのだろう。叙事詩的主題としては、そうなければならないところである。この歌は、だから皇子の実作と見るのは当たらず、叙事詩的虚構が凝って結晶させた抒情詩の精髄(エキス)というべきである。
磐代の松の歌は、斉明天皇も詠んでいる。
君が齢(よ)も 吾が齢も知るや。
磐代の岡の草根を、いざ、結びてな(巻1・10)
有間皇子の事件の20日ほど前に過ぎない。皇子の歌には、今度の事件では自分の寿命もはなはだ心もとないし、もう一度この松のもとを過ぎることはむずかしかろうが、ともかく世の人がするように、自分は旅路の倖せを祈っておく、といった気持がある。その願いの困難さが、この歌の裏にあって、悲痛な味わいを添えるのである。(山本)
《参考》後人の追加した歌。
磐代の岸の松が枝 結びけむ人は かへりて、また見けむかも
(巻2・143 長奥麻呂ながのおきまろ)
磐代の野中に立てる 結び松。心もとけず。いにしへ思ほゆ
(同・144 同)
つばさなう あり通ひつつ見らめども、人こそ知らね。松は知るらむ
(同・145 山上憶良)
後見むと君が結べる 磐代の小松が梢(うれ)を また見けむかも
(同・146 柿本人麻呂歌集)」
(18-21頁より引用)
有間皇子、『あかねさす紫の花』『鎌足』でもはかない命として短い時間ですが登場します。胸がつまります。