行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

飛鳥巡り、女帝推古天皇への思い

2017-05-26 15:20:31 | Weblog

橘寺、石舞台、飛鳥寺等は推古天皇の時代600年前後に関連する。天皇家へ次々と娘を嫁がせ、蘇我一族は一強の大臣(おおおみ)として支配していた時代で、前回ブログで触れた推古天皇、蘇我馬子、聖徳太子は全て蘇我一族の血縁で繋がっていた。巡りながら想像するに、あまた居る皇子の中で何故女帝が選ばれたのだろうかということだ。井伊直虎のように、男がいないから城主になったのとは違い、蘇我から送り込まれた皇后には多くの皇子がいたはずだ。当時は血縁を大切にするため、同親族内結婚が日常であったので、子供の能力には大きな差があったと思う。そうした中で推古天皇は女でありながら誰もが認める傑出した能力を持つ魅力ある人物だったのだろう。因みに推古天皇は異母兄の敏達天皇の妃となり、敏達天皇崩御の後、兄用命天皇の後、天皇になり、娘は甥の聖徳太子に嫁いだ。

推古天皇は外戚の蘇我馬子という実力者を巧く操縦したとされている。この石舞台古墳は馬子の墓と言われ、石室は巨大で内部の高さは4.7mもある。後に蘇我入鹿暗殺により、蘇我一族が滅び、墓が荒らされ石室が露出したのではないか

 

飛鳥寺は推古天皇が創建した日本最初の寺で、大仏像は日本最古の仏像、仏教が伝来し、蘇我一族が普及に力を注いだ出発点だ。推古天皇は聖徳太子の能力をかい、摂政に任命し、仏教による精神的安寧を布教するべく聖徳太子は黒馬にのり、全国行脚したという。

飛鳥寺全景、写真の手前に蘇我入鹿の首塚がぽつんと建っている

推古天皇の生まれも、崩御された場所も飛鳥からは遙か離れた神奈川県大和市だという説もあり、興味は尽きない。


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