平成の時代は震災の時代と言っても過言ではない。平成5年の奥尻島震災(Mマグニチュード7.8)に始まり、阪神・淡路大震災(M7.3)、中越地震(M6.8)、東日本大震災(M9.0)と思いつくままでも巨大地震が続いた。
自分が現役の頃、現地に乗り込んで目に焼き付いているのは奥尻島の津波の悲惨さであった。当時、電機業界ですぐ被災者に贈るためカラーテレビを200台かき集め、まだ余震が続く中を訪れたが何の混乱もなく静かなのには驚いたが、混乱した震災現場でも強奪などの犯罪が起きなかった。スーパーダイエーの若い人達がボランティアで支援活動をしていた。
その後、スパーダイエーの本拠地神戸を震災が襲った。あれから23年経つ、1995年1月17日朝のニュースで関西地方で地震が会ったということを聞いて八重洲の金属労協事務所に出勤したが、まさか6400人をこえる死者が出る大震災とはその時点では想像すらしなかった。ところが国際金属労連のジュネーブ本部から10時前に電話が入り、神戸の街が燃えているCNNニュースを見たけど大変な地震が起きてるが東京は大丈夫かという電話だった。
神戸の地方組織に電話を入れても通じないし、テレビの報道を見ているだけで被害状況の把握ができずいらいらしていた。私は駆けだしの頃、大阪の三菱電機家電営業所へ伊丹から通勤していたので阪急伊丹の駅がつぶれている様子がテレビに映し出され、これは容易なことではないと思った。
結果的には入社当時の上司も家の下敷きで亡くなり、多くの友人が全壊の被害を受けた。神戸には多くの鉄鋼、造船、電機など金属産業の工場があり、操業の再開は見通しもつかない状態であった。幸い神戸の地方組織事務所の被害は少なくだんだんと様子がわかったが、調査に派遣した職員は西宮北口から徒歩で神戸に入る状態であった。復興の基本である神戸港復興のための補正予算を当時の武村大蔵大臣に要請したところ、神戸に金属工場で働く労働者が2万人いるといったら神戸は洋菓子やファッションの街ではないのかと聞かれ驚いたのを覚えている。
神戸三宮に時々利用した古い2階建ての「樹」というステーキ屋があった。震災にあってだめだろうと1年後訪れたら建物にひびが入っただけで営業していて感激した。周りの近代的ビルは全滅で地震の被害の複雑さをあらためて感じた。
それにしてもいまだ解けてない疑問はかなりある。兵庫県知事は自衛隊の出動要請を何故早く決断しなかったのか、倒壊した阪神高速道路のずさんな工事責任は誰が取ったのか、紀伊半島沖から淡路にかけて大地震が起きるとの警告が東海沖地震のように重く受け止められ無かったのは何故か、私も関西に居る頃、阪神地区は岩山の六甲山に象徴されるように岩盤が固く、地震は起きないと云われ、信じていた。
一方40年も前から東海沖地震は予想されたがまだ起きないのは何故か、そして現在は東京湾直下型地震が予想されている。地震学者は黒星続きだが、黒星の方が良いが震災は忘れたころにやってくるという伝説の方が安全神話より正しいようだ。改めて個人で出来る防災対策を考えたい。