行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

タヒチにゴーギャンの絵がないとは

2013-06-30 22:22:41 | Weblog

ゴーギャンと言えばタヒチだろう。タヒチ島でゴーギャンの足跡を訪ねたが、住居もどこにあったか判らないほど何も残っていない。この辺の村に住んでいたということで、ゴーギャン博物館が美しい海に面して建てられている。ところが肝心の作品はレプリカで本物はパリで見てくれとのこと。奈良の仏像でも本物は国立博物館に移され、奈良にはレプリカが置いてあったがそれと同じことだが、ゴーギャンの貴重な作品はこのタヒチで生み出されたもので作品の一つぐらいはあっても良いだろう。

ゴーギャンは35歳という晩生で画家デビューをしたため、稼げなくてタヒチでは極貧の生活を送っていた。カンバスを買うお金もなく、麻布の袋に画くこともあったらしい。したがって住居も貧しい小屋程度で、モーレア島などあちこちの島に移り住んで画いていた。同時にあちこちに子供をつくったのでゴーギャンの子孫が残っているらしいが、相続の時に本妻の長男がタヒチにあるゴーギャンの作品を全て持ち去り売ってしまったとのことだ。

フランス人でタヒチ生まれの大統領が誕生しているのだから、来年リニューワルするゴーギャン博物館には一つでも本物を飾って欲しい。パペーテから1時間くらい離れた昔のタヒチそのままの村で、南極海からの波が打ち寄せ絶景だから、観光名所になるだろう。

ゴーギャンがよく訪れたと云われているシダの洞窟

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

タヒチ島へ

2013-06-28 08:37:14 | Weblog

モーレア島からタヒチへ移動した。タヒチの首都、パペーテはモーレアから来ると大都会で、海岸道路は渋滞が激しい。ホテルも近代的なと言うよりモダンな設計で、キッチンまでついている。自炊をしろということか?ここまで来て自炊をする気にはなれない。

ベランダからは珊瑚礁の海がクリアに望め、はるかかなたにモーレア島が影絵のようにみえる。ここでも聞いたら今度は3泊以上だとタヒチワインが貰えるというのでタヒチに乾杯した。しかしタヒチの財政は赤字でフランス本国から補てんして貰っている。サルコジ前大統領はタヒチはいらないと言ったとか。タヒチの大統領は独立派をおさえて当選したので、観光業以外で稼ごうとココナツオイルを売り込もうと必死だ。

子供の教育は無料だし、医療費も掛からない、この状態を保つのは容易ではない。ココナツはポリネシアンの生活には切り離せない。伝統的にココナツの全てを利用してきた。実は食料でオイルだけでなくデンプン源、葉は帽子や籠で利用してきた。ポリネシアンの伝統食品が救世主になろうとしている。フランスの香水の技術を生かした多種類のフレーバーココナツオイルがそれだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

モーレア島でのタヒチワイン

2013-06-27 16:16:58 | Weblog
タヒチの観光客の8割はハネムーンナーと言われているが、うかつにも現地についてから気がついた。治安が良いし、静かだし、ハネムーンには確かに最適地だろう。チェックインは気のきいた日本人スタッフがてきぱきと対応してくれ助かったが新婚組と一緒で何となく場違いの感じだった。

ハネムーンナーにはホテルよりタヒチワインがサービスされますと聞いて、こちらも時間はかなり経っているけどそうしてもらえないかなーとホテルスタッフの顔を見たら「そちら様にもワインお届けします」との快答。後で分かったことだが、モーレア島には4人の日本人が働いており、彼女はその内の一人で美味しいレストランの予約など、お世話になった。

タヒチにワイナリーがあるとは知らなかった。ランギロア島という珊瑚礁の島でフランス人の神父が1800年代に生産を苦労しつつ始め、その後ドミニク氏が年2回生産という離れ業で2003年TAHITIブランドでデビューし た。さすがフランス人、ワインに対する執念が違うということだ。

TAHITIは白ワインがメインで、頂いたのはコレイル、ずばり珊瑚礁いうブランドでマスカットのみずみずしさがあるが辛口ですっきりした味だった。
タヒチにはフランス本土の、ワインが豊富と期待していたが、最初に飲むワインがタヒチ産とはうれしい誤算だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南の島モーレア島滞在記

2013-06-26 08:54:31 | Weblog

90年だったか外務省の委託を受け、青年海外協力隊の実情調査にパプアニューギニア、フィジー、サモアと南の島を訪れた。ポリネシアのサモアの印象が強く再訪したいと思っていたが、日本からの観光企画は見当たらず、週末に2便がエア・タヒチにより運行されているのでフレンチポリネシアのタヒチへ22日に発った。11時間をこえるフライトでこれではヨーロッパへ行くのと変わらない。ポリネシアの遠さを実感した。

パペーテの空港は到着しても待合室もなくコーヒーショップもスタンドマックだけで殺風景だ。マックのコーヒーも300円近くし、物価のたかさを予感させた。モーレア島へはフェリーで30分、モーレア・パールリゾートホテルに着いたのは昼過ぎ、珊瑚焦の明るいブルーの海を見て疲れも飛んだ。

サモアのポリネシアンは裸足だったがタヒチアンの若い人は靴やサンダルを履いている。中高年の女性で着飾っているが、裸足の人も見受けた。昔と変わらないのは肥満体で、タヒチの平均寿命は肥満による糖尿病が原因でわずか60歳という短さだ。フランス領らしく20歳をこえたら横に大きくならない運動でスリムな若いタヒチアンも多く、肉食の摂取制限をしているらしい。10年後には変わっているかも。

逆に変わらない習慣はタトゥーだろう。若い女性でも腰の回りにタトゥーをしている。昔は部族により紋様が異なりパスポートみたいなものだとタヒチアンの伝承者は語った。今では10分ぐらいの機械彫りも普及し、外国人観光客も彫って行く人も多く産業の一つとなっている。だけどこういう人は日本の温泉に入れない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女性に優しい企業、勤続年数から見てみると

2013-06-22 00:02:49 | Weblog

東洋経済新報社が勤続の長い企業ベスト300を発表した。社員がすぐ辞める、辞めさせられるブラック企業が話題になっていることもあり、勤続年数の長い企業を選び、ブラック企業をあぶり出す意図が感じられる。新卒採用の学歴にもよるが、大卒で入社した場合、平均勤続19年くらいなら殆ど辞める人がいないと言える。

平均勤続年数200位くらいまでのランクではだいたい19年から18年の勤続となって殆ど差がない。私はむしろ男女の勤続年数を比較し、通念では男の方が勤続が長い日本で、女性の勤続の方が長い会社に注目した。以下のように女子が男子よりも長く働けるという会社はまだ極めて少数だ。女性に優しい会社の定義はいろいろだが、勤続というスケールから見てみると、

女子の平均勤続年数が男子のそれを3年以上上回っている会社は103位のセイコーエプソン(男18.7年、女22.7年)、117位の安川電機(男18.9年、女22.2年)、144位のリョービ(男18.4年、女21.6年)、185位の日本信号(男17.5年、女22.8年)。2年以上上回っている会社は46位のYkk(男19.9年、女22.6年)185位の三菱電機(男18.1年、女20.3年)。1年以上上回っている会社は157位新光電気工業(男18.6年、女19.6年)となっている。
女性の働きやすさを計るためには、全体平均勤続だけでなく、必ず男女別平均勤続年数を参考にし、極端に男女差がある会社はブラック企業の資格充分だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

醜い会長と社長の争い

2013-06-20 17:10:20 | Weblog
川崎重工の社長が解任された。三井造船との合併に反対の取締役が反旗をひるがえしたとの当初の報道だった。社長は臨時の取締役会で合併の段取りをするつもりで、まさかそこで自分が首になるとは思っていなかったと言っている。川重と言えばバイク、新幹線車両、ガスタービンを思い浮かべるものつくりのしっかりした企業で、神戸の工場を見学したことがある。初代の社長は松方コレクションで有名な幸次郎で欧州で買い集めた浮世絵などは国立西洋美術館にある。

その後の報道でこの名門での社長解任の筋書きは会長が書いたとのこと。会長に相談せずに合併話を進めたのが気に食わなかったらしい。ここで思い出したのがついこの間の東芝の社長と会長のいがみ合い、川重と共通しているは各々の出身事業部が違うということだ。東芝の場合は記者会見の席上でいがみ合うという失態で、川重の場合はストーリーが陰険だ。

日本の企業では会長と社長どちらがCEOなのか曖昧なことがある。どこの組織へ行っても私はCEOは誰とまず聞くことにしている。いずれにしても、醜い権力争いでみっともない。喜ぶのは週刊誌だけだ。それぞれの社長と会長は優秀で社員のあこがれであり、鏡となるべき人材だった。
げに権力とは恐ろしいもので、人間を魔物にする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アベノミクスに立ちはだかる官僚の厚い壁

2013-06-18 18:28:22 | Weblog

アベノミクスの「第3の矢」は旧体制を維持しようとする勢力を貫けないで,立ち往生の状態だ。今月5日の安倍首相の成長戦略に関する講演直後から海外勢の売りで株式市場は異次元緩和の前に戻ってしまった。1月14日のブログでアベノミクスの成功する細い道は「個人消費が出て来る賃上げ」「企業が投資をする」「輸出が伸びる」という条件を述べた。安倍政権は急遽、秋に設備投資減税を柱とする追加策を打ち出したり、賃上げへの合意作りに政労使委員会の設置を提案している。

成長戦略は(1)「日本産業再興プラン」(2)「戦略市場創造プラン」(3)「国際展開戦略」の3つの柱からなる。(1)は企業再編や設備投資を促す法制度整備や国家戦略特区の推進、子育て支援の拡充などを明記。(2)では医療関連産業の活性化や電力システム改革、農業の競争力強化策などを掲げた。(3)ではTPP(環太平洋経済連携協定)など経済連携交渉の推進、インフラ輸出、クールジャパンの推進などを打ち出した。

内容は多肢にわたるが漠然としていてこれまでの政権が考えていた内容と大きな違いはない。安倍首相が異次元の金融緩和に続き、「異次元の成長戦略を示す」との考えを繰り返し表明したが、何故これが異次元の成長戦略と疑問が出るほどだ。

法人税減税は財務相の壁が厚く見送られ、最も重要な規制緩和は各省庁の既得権を守る壁に立ち往生した。安倍首相は「規制改革は成長戦略の一丁目一番地」と言い続けてきたが象徴的な一般用医薬品のネット販売解禁は小幅な緩和でお茶を濁し、企業による農地所有の自由化や農業生産法人への出資規制の緩和、保険診療と保険外診療を組み合わせた混合診療の全面解禁なども見送りになった。

原発事故の後、日本中が期待し、民間がこぞって取り組んでいる太陽光発電システムも送電を独占している電力会社が買電に応じなかったり、風力発電システムはアセスメント規制で1年以上も認可がとれないという信じられない混乱が今起きている。ダンゴムシの生態までアセスメントが必要など噴飯物だ。
官僚達は権益保持を優先しながら落としどころを探って、成長戦略など全く意に介しない。民主党はそうした官僚を排除したが、安倍政権は官僚の霞が関的手法に翻弄されている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

復興庁官僚、馬脚を現した。事は深刻

2013-06-16 21:17:04 | Weblog

原発事故子供・被災者支援法での勉強会や国会議員会館での集会に国の担当責任者として出席した復興庁参事官がツイッターで本音を吐露し、現地の関係者や被災者の怒りをかって辞任した。税金で雇って,奉仕してくれると思っていた役人に馬鹿にされたことが怒りを増幅させている。

なかなか納得しない集会参加者や町議会を「左翼の糞ども」「田舎の町議会」などと書き込んでいる。自分の職務は被災者や被災自治体の声をじっくり聞いて、対策を行うことなのに、自分が代表する復興庁は関係者にとって最善の施策をするので従えば良いので、雑音は聞きたくないという本音が出てしまったのだ。

たまたまツイッターで本音がでて、馬脚を現したが、この参事官だけの問題ではないだろう。殆どの高級官僚は今回のような被災者の声を直接聞くような機会がない。目線は昔の代官みたいなものだ。復興庁谷副大臣は「国家公務員法のどの条項に引っかかるか調査して判断する」などと見当違いのことを言っている。

問題は、高級官僚が民の声を聞く訓練がされてないことにあり、自分の職務はそれらの意見を反映して行政を執行するという肝心なことが身についてない。明治以来日本の高級官僚は行政主指導により国の発展、戦争の遂行、敗戦処理、高度成長を担ってきた。その優秀さは誰も認めてきたところだ。しかし、今や時代は違う、情報化社会で今まで独占してきた情報も情報公開法によりネットで瞬時に拡がる。各種公聴会も開催されることも多くなってきた。

霞ヶ関の高級官僚も新入の時に2年か3年地方自治体で、民と接する訓練をすることから改革すべきだ。今回の参事官みたいにそれが耐えられないのなら辞職すべきだろう。本省の課長になって副知事への天下りなどのケースが多いが、それでは代官への訓練のようなものだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和記念公園の紫陽花ロード

2013-06-14 21:18:32 | Weblog

ようやく本格的な梅雨の毎日、今日は雨が上がり、紫陽花、花菖蒲を目当てに訪れた。
紫陽花ロードへ行く前に、立川口から橋を渡って右側に折れたところに自転車道路までの谷につながる見事なアナベルの群生を見る。まだ8分咲きといったところ

 

池の側の紫陽花ロード、花菖蒲園まで続く、ここも8分咲き

花菖蒲は連日の雨に打たれ、可哀相な姿だった

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ロマンを感じる2つの遣欧使節団

2013-06-12 23:02:50 | Weblog

伊達政宗の命により1613年支倉常長が180人の大使節団を引き連れ仙台から欧州に出航してから今年は400年たつ、最初に上陸したスペインの港町コリア・デル・リオで周年行事をするので皇太子様が出席されるとのニュースを聞いた。セビリアに近いその港町にはハポン(スペイン語で日本)性を名のる人達が600人いるとのこと、何人かの日本人が居残ったという説が有名で彼らは日本人が祖先だと信じている。

常長らの一行は太平洋を横断し、メキシコのスペイン領アカプルコに上陸し、陸路で大西洋岸のベラクルスに移動、ベラクルスから大西洋を渡り、コリア・デル・リオに上陸した。出発してから2年後、ようやく1615年1月30日にスペイン国王フェリペ3世に謁見し、通商交渉をした。1615年11月3日にはローマ教皇パウルス5世に謁見している。ところが日本国内ではキリスト教禁止となり、通商交渉は失敗し、失意の内に7年後の1620年9月20日に帰国した。こんな状況だから、帰国を諦めスペインに残った伊達藩士がいても不思議ではない。ロマンを感じる使節団だが当人達は家族を残し、言葉も不自由での7年間、辛苦の旅路であっただろう。

支倉使節団に比べると、目立たないがそれより30年前、九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代として天正遣欧少年使節団が1582年、イエスズ会の肝いりで4名の少年がアジア経由でローマへ派遣され1590年に帰国した。滞在8年の間、ローマ法王グレゴリウス13世、スペイン王フィリッペ2世に謁見、また欧州各地を訪問、この使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になった。支倉使節団の先遣隊的な役割を果たしている。印刷技術者も同行し、持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた。

昨年訪問した北イタリアのヴィチェンツアのオリンピコ劇場では、入口の欄間に最初にこの劇場を訪れた外国人として、天正遣欧少年使節団が劇場の最前列に座っているレリーフが飾られている。1585年に日本の少年がここに来たとしるされてるが、当時としては大変な冒険だっただろう。これまたロマンを感じるが、帰国後の使節団はキリスト教弾圧で悲劇的な最期を遂げている。

どの時代にも、勇気ある日本人が先駆者として地球をまたいで活躍している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする