朝ドラ「おひさま」の話をしていたら、96歳の母がまた赤坂大空襲の話を始めた。夫が出征し、赤坂の実家に2歳の私を連れて帰っていた時、昭和20年5月、大空襲に襲われ、着の身着のままで逃げた話だ。戦後赤坂は歓楽街に変身、赤坂で飲むたびに思い出す話だが、朝ドラの空襲シーンを見て、つらい話に私も思わず引き込まれた。
元赤坂の実家を出て、見附の弁慶橋につく頃は焼夷弾が雨あられと落下する状態となり、お堀に入り水を掛け合う人や赤坂東急ホテル(当時はなかった)裏の防空濠に入る人など火の海の中を逃げ惑ったとのこと、
母は私を背負い、永田町方面の坂を上がり、焼夷弾に奇跡的に当たらず小学校(当時)へ逃げ込んだ。小学校は海軍が守っており、延焼は免れ、九死に一生を得た。坂下の赤坂の街は焼き尽くされ、実家の焼け跡には鉄瓶だけが残っていた。
伯父一家は弁慶橋の下で難を逃れ、横穴式の防空濠に逃げ込んだ人は火の中で犠牲者となった。ベトナムの古都、フエを訪れた時にナパーム爆弾の話を聞いたが、現代の戦争は如何に効率的に民衆を殺傷することを指向する。究極が原爆だ。
「おひさま」はこれから終戦を迎えるが、あの戦争で犠牲になった人のことをもう一度考えるチャンスだ。年間自殺者3万人という現実がこようとは当時は誰も考えなかっただろう。生き残った人も必ず良い世の中が来ると思って窮乏生活に耐えたことだろう。