今の若い世代の人には土井たか子といってもぴんとこないと思うが、もし日本に直接投票による大統領制がしかれていたら、1980年代に大統領になっていただろう。当時、そのくらい国民的な人気があった。党首として望んだ89年の参議院選では、駅前で土井委員長が演説を始めると、ものすごい群衆で交通がストップする状況だった。今の各党党首にはそれだけの魅力も力もない。その参議院選挙の最中、私は電機労連の責任者として京都国際会議場で大会設営を担った。土井さんは兵庫2区から選出され、多くの電機工場の労組から推薦を受けていたので電機労連大会には必ず出席され、ホテルや会場の警備、チェック体制はまさに大統領並で、所轄の下賀茂警察署と、綿密な連携を取った。土井さんが泊まるホテルの部屋の両脇の部屋は警備のために空けたほどだ。
私が初めて土井さんにお会いしたのは三菱電機労組大阪支部委員長の時で、支部委員会にお招きして講話をお願いした。白いスーツに赤いバラを胸につけて颯爽と現れ、風のように去って行った。確か40歳だったと思うが同志社の憲法学者と聞いていただけなので、印象は強く残っている。
その後、電機労連が社会党を支持していたので、兵庫2区の土井、堀2候補の選挙はどちらも通すという厳命下、土井さんの選挙応援に駆けつけたことがあった。土井さんの支持母体は女性たちが中心、お金持ちはまずいない。選挙事務所の机、椅子、ソファなどほとんどが当時では珍しいリサイクル品、といってもリサイクルの仕組みもなかった時代、ゴミ捨て場から拾ってきたわけだ。
衆議院議長となられてから、電機労連の幹部と何回か食事をする機会があり、衆議院議長公邸が赤坂にあり、自分の赤坂での戦災談などを話した記憶がある。あんな広い公邸で毎日何をしているのですかと冷やかしたら、「赤坂見附でパチンコよ」だった。
土井さんとは最後まで意見が合わなかったのが原発で、「だめなものはだめ」一点張りだったが今になると、土井さんの言ったことを小泉さんが言っている。