あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

松永記念館・老欅荘

2013年12月10日 05時26分20秒 | 箱根・小田原周辺
訪問は2度目。前回は9月でした。なので老欅荘の紅葉を楽しみに訪れたのですが、まだ早かったようです。

紅葉の見頃にはこんな感じになるハズだったのに~~っ!
せっかくなので同じ角度から撮影。それがトップ画像です。
そして目的はもう一つ。前回訪問日は老欅荘と松永記念館のお庭にある茶室を使う大きなお茶会が開かれていて、老欅荘の中は見る事が出来ませんでした。庭ですら、歩いてると茶室の中から嫌な視線が飛んで来ましたからね。
訪問は2013年11月23日。ラッキーにもこの日はお茶会がありません。まずは庭から~。
あ。これトップ画像とは反対側から。頭上を覆うモミジがいい感じ。
そしていよいよ建物の中へ。


入ってみて驚いた!老欅荘は電力王と呼ばれた松永安左エ門が晩年を過ごした場所です。だから生活する空間だと予想してたのですが、どの部屋も凝った作りの茶室でした。どれだけ凝ってるか?というと、天井の高さが一部屋一部屋違うんです。更には畳の大きさも違う。

この画像では分かりにくいかもしれませんが、上の画像は建物の中心となる十畳広間の客室です。10枚敷かれている畳は全て特注で寸法が違う7種類の大きさの畳となっています。これは十畳間の外にある畳敷きの縁座敷との整合を測り、畳の縁を合わせて直線に見えるように作っているからす。
この部屋から見た庭。
更に上がり口の石の上に更に細工を施した石。

この石が置いてあると、入れない印だそうで。茶道の決まり事のようです。



天井の低い部屋の天井部。こんな風。
別の部屋から外を見ると。こちら夫人の部屋みたい。
老欅荘を後に。松永記念館へ移動します。こちらで何か展覧会が開催中でした。
これってもしや明治に流行った金唐革紙とガラス容器のコラボかしら?誰もいなかったのでこれ一枚だけ撮影して外へ。バスの時間があるからのんびりしてられないんです。
出た所でこちらの職員さんとばったり。せっかくなので気になっていた事を聞いてみた。
私「老欅荘」のお庭の門の側の土壁ってアレ変ですよね?前はああじゃなかったような…」
職員さん「実は…10月の大雨で崩壊してしまったんです」
ええ!?
私「元通りになりますよね?」
職員さん「元通りにするには、カエデの樹を切ると、議会で決まりまして…」
って事は、あの風景は今年限り!?マジ~~ッ?あんまり驚いたので、別建て記事にしてしまいました。
今年限りの光景です!(2013年11月24日)の記事

名残りに松永記念館を駐車場から振り返る。
さて。松永記念館に隣接するのは北条氏綱夫人の開基といわれる香林寺へ。

ンでもめぼしい木がなさそうなのでバスの時間に追われてる今はパスじゃ!
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箱根板橋秋葉山量覚院

2013年12月09日 05時25分05秒 | 箱根・小田原周辺
旧内野家住宅を見た後、小田原用水路に沿って進むと、視線の先に紅葉が見えて来た。
あれは…。地図によりますと、秋葉山量覚院とあります。
私は目的地の松永記念館へ向かおうとしたのだけど、ダンナが道の分岐から動かない。どうやら行ってみたいらしい…。
時間ロスは痛いけど、仕方ないねえ~。

秋葉山量覚院は慶長元年(1596)に、小田原城主大久保忠世が信仰していた遠州の秋葉山大権現を勧請したものです。
下調べもしてないんで、境内とか分からないんだけど…。
まず美しく色づいたモミジが目に飛び込んできた。

あっ!天狗発見!
うっ!
携帯電話は強制発光出来ない。つーかフラッシュ自体ないっ!ので真っ黒になってしまいましたが、上の画像の建物の暗くなってる部分を拡大撮影してみると、トップ画像です。
もう一枚、モミジを中心に撮影してみる。

訪問日は2013年11月23日。今年の紅葉は早いな…。もしかしたら歴史巡りしてる場合ではなかったかもしれん!とちらりと頭をよぎったものの、小田原宿観光回遊バスの運行は11月24日(日曜)までなのです。
気を取り直し境内を奥へと進みます。仕方ないねえ~。
と。なぜか学校の校庭に出た!
ん?なぜかしら~??
ま。ともかく写真をば。抑えておかないと!

校庭をそのまま直進すると石段があった。

上がってみたらお宮があった。でもめぼしい建物も紅葉した木もないので引き返す。
向かったのは松永記念館
 
土と瓦で出来た土塀が素敵です。
こちらの庭が素敵なので、まずは池の外周を回ります。

この角度から見ると、山も既に綺麗に色づいてるのが分かります。ハイキングには最適なお天気ね~。

池の周囲の木々も紅葉中。
お庭にはいい感じの茶室が2つありました。
さて。記念館の裏手の斜面を上がると。
欅の大木がありました。
欅の大木の上にあるのが老欅荘です。

老欅荘は昭和の電力王松永安左エ門(耳庵)晩年を過ごした場所で平成12年に国登録有形文化財となり保存整備されています。
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内野家住宅。文庫蔵・穀蔵。及び醤油工場

2013年12月08日 05時08分46秒 | 箱根・小田原周辺
2階の来客部屋を見た後、1階へ戻りました。母屋の奥にある内蔵へ。

内蔵の入口は大理石?でした!
蔵は工夫が一杯!
床に換気の為に造られたもの。
2階・3階にも空気が抜ける。
内蔵もあちこちで拝見しました。一番大きかったのは、小金井市のたてもの園で見た三井家の蔵かな?
内野家の内蔵には、あれこれ詰まってました!昔の民芸品も混ざってて楽しい~。
 
母屋見学の後は、穀物蔵へ移動です。
移動する前に、内野家の外観を撮影しておくべきだった~と反省。移動しながら撮影したのがこれ。袖蔵(店蔵)です。大きな観音扉がありました!


穀蔵は醤油の原料を貯蔵する所。
天井部。壁。
木製です。画像掲載にあたり、iPhotoで明るさ調整してあります。
外から見た右手の文庫蔵と左手は母屋2階の来客部屋の様子。
最後に案内されたのは、醤油桶のある倉庫。

なんじゃろか?「澪つくし」とか撮影出来そ~。
傍らに醤油を絞る装置もあった!

「これこそなんかドラマの撮影出来そうです」
でもここ、既に醤油を造ってないんだよね。
なぜかしら~?
私「何で醤油屋さんを止めちゃったんですか?」
ガイドさん「昔ながらの方式で醤油を造ったら、一リットル300円以上しちゃうんです。今どきの安い醤油に太刀打ち出来なくてね」
そうなんだ…。
最近、街中のお豆腐屋さんが次々と廃業に追い込まれてるのと同じ理由です。うちの近所の商店街のお豆腐屋さんも豆腐1丁150円・揚げ1枚70円まで値上げした所で価格据え置きして頑張ってたけれど、ちょっと前に廃業してしまいました。揚げが美味しくて、ここの揚げで造ったいなり寿司は至高の逸品だったのに…。
とはいえ、醤油が一リットル300円超だと私が買うか?と聞かれると躊躇してしまう。
ガイドさん「醤油屋を止めてしばらくこの樽で漬け物を造ってた事もあったのですが…」
時代に淘汰されちゃったのね。日本人は和食がないなら、洋食・中華にイタリアン。何でも食卓に上げちゃうからな~。
ガイドさん「この倉庫は関東大震災で屋根が落ちて再建しました」
さもあらん。倉庫の柱の数が少な過ぎる…。
と。ガイドさんは倉庫の奥の扉を開く。扉の先にあったのは小田原用水の流れ。倉庫に沿って用水路がありました。小田原用水は芦ノ湖を水源とする早川の水を板橋に取り入れ、旧東海道に沿って城下内へ流した上水道で、後北条時代に造られました。形態を変え、現在は用水路として残っています。
実はここでうっかり用水路側の出口から出てしまった!この後の目的地松永記念館への近道だったのです。だから内野家住宅の旧東海道側の外観画像がないのね。
時刻は既に10時半を回っています。小田原宿観光回遊バスは30分に1本で走っているのです。11時…はムリだな。11時半のバスには乗りたい…。ここで時間をかけ過ぎると、お昼が遅くなってしまいます。
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12月5日に横浜在住のあっこさんと山手の西洋館で開催中の「世界のクリスマス」展を見て回りました。クリスマスの飾り付けとレトロ西洋館のコラボを楽しみに出かけましたら、ラッキーな事に紅葉も楽しめちゃいました!特にイタリア山庭園はメタセコイアとイチョウが綺麗に色づいてます。
なので、昨日東京・神奈川の紅葉2013のフォトチャンネルに画像を10枚程追加しました。
よかったら見てやって下さい。
東京・神奈川の紅葉2013
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内野家住宅の来客部屋。

2013年12月07日 05時53分29秒 | 箱根・小田原周辺
来客用の階段の撮影しそびったのが痛恨!
階段が暗かったのと、上りは来客用を使ったけど、降りるのは普段使いの階段を使ったのが敗因です。
階段を上がると、まず振り返るように言われ、そこに便所があるのに気付きます。

これが遊び心のあるいい空間です。
画像の便器は後に据え変えたものですが、トイレのタイルは内野家を造った当時のものが残ってます。素敵です!
2階の部屋は3つ。一部周囲に廊下を巡らせてあります。

そちら側から内庭が見下ろせます。

上の画像は2階廊下の窓から撮影。画像奥にお蔵があるのが分かります。(こちらは明日紹介しますね)
さて来客用の部屋。
こちらは壁も凄い!左官さんの腕も凄い。画像で分かるかどうか…。
画像の白く見える斑点は、実は金粉なのだっ!この手法は10月に訪問した目黒区の重要文化財旧前田家本邸和館の壁にもありました。(前田家和館の現存する金粉の壁は一部のみだとか)旧前田家本邸和館1階(2013年11月10日)の記事
金粉を使ってて豪華なのに、下品でないのも技かしら?

アップで撮影した画像を引くとこんな感じ。床の間です。
ンでトップ画像。床の間の右手、廊下側です。デザインは漁網。またしても職人の技です。素晴らしい~。

2部屋を分ける襖。その上部の欄間は、鳳凰と桐のデザイン。

2部屋ある手前の部屋は、旧東海道に面してまして道行く人々を見下ろせるようになっています。上の画像左が東海道。法被を着てる方がガイドさん。

2部屋は豪華。隣り合わせに3畳間。ここに普段使いの階段があります。上の画像が階段。

降りるとすぐにここ。1階の母屋の廊下に続いています。上の画像は廊下から土蔵方面を見た所。「なんだかNHKの朝の連ドラの撮影とか出来そうですね」って言ったら、ガイドさんが「使ってもらえると嬉しいです」だって。
廊下のガラス窓。明治の住宅って窓が広いんだよね。やっぱ部屋が明るいってのが目新しかったんだろうな。江戸時代の建物なんか、窓がナイもんな。
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「第64回NHK紅白歌合戦」抽選の結果
今年もドキドキワクワクの抽選結果が判明しました!
お察しの通り…落選しましたっ。
あ~あっ!!
って!!
今年の応募総数は142万7153通でした。
なぜに毎年ガンガン応募総数が増えていくんだろうか?
受信料を払っている世帯がそんなにガンガン増えてないよな~?
盛ってる?もしかして盛ってるだろ!!でなきゃ、一世帯当たりの応募数が複数あるとしか…。
ちなみに2012年の応募総数は117万2420通。
2010年の応募総数は75万9480通。
2009年の応募総数は59万1274通。
2008年の応募総数は43万5956通。
な。応募総数が激増してるやろ?
NHKホールの座席は増えない~。
ここはNHKは受信料を支払ってる世帯1つにつき応募は一つに限る必要があるんじゃないかな~?
だって、応募の時にわざわざわざわざNHKのお客様番号をかかせるんだよ?
つーか、NHKはお客様番号のチェックしてないよな!
けっ!とかやさぐれてますけど、どうせ来年もまた応募しちゃうんだろうな…。私ってばっ!!
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箱根板橋 内野家住宅特別公開

2013年12月06日 06時03分38秒 | 箱根・小田原周辺
訪問日は2013年11月23日。
WEBで小田原宿観光回遊バス<1日何回乗っても200円>という観光バスが10月5日から11月24日までの毎週土日・祝日に限り運行されているのを知りました。これ、いいっ!!
小田原へはあじさいの花見。小田原散策開始(2012年6月29日)の記事 小田原城東堀の紫陽花(2012年6月30日)の記事
明治の邸宅巡り。小田原清閑亭(2011年11月13日)の記事 「坂の上の雲」秋山真之終焉の地(2011年11月10日)の記事 北原白秋童謡館(2011年11月9日)の記事 龍馬暗殺現場に駆けつけた?(2011年11月8日)の記事 伊藤博文別邸跡(2011年11月7日)の記事
小田原城総構え残存跡 小田原城幸田門口跡(2010年5月1日)の記事 小田原城総構えを歩こう(2010年5月7日)の記事 早川口遺構と大久保一族の墓(2011年11月14日)の記事 小田原城東曲輪(2010年7月13日)の記事など既に何度か訪問していますが、未だに行けてない所があったのです。
それは豊臣秀吉の一夜城跡
パスしてる訳は、一夜城が低くはあるものの山の上にあるからです。でも小田原宿観光回遊バスの運行コースのバス停に石垣山一夜城歴史公園が入ってるのだ!これはもう行くしかあるまい~と。ワクワクして出かけました。
ただ、観光回遊バスの始発が、小田原駅東口発午前10時ってどないよ?秋の夕暮れをなめてるのか?キ~~~っ!と半分やさぐれてバス乗り場に到着したらば、既にバス待ちの行列が出来てました。
あれ~~?だ・大丈夫か??
何を心配してるか?というと、『観光回遊バスの乗車定員は、法律で定められています。満席の場合は、次のバスにご乗車ください』の一文がありまして、どういう事かというと、立って乗車出来ません!って事ですね。ン~~??
なんとなく何でや!と不思議に思ってたんだけど、やって来た回遊バスは小型バスだった!だ、大丈夫かな~?
心配したものの、なんとか席も無事確保出来ました。バスは定時に出発。
観光回遊バスにはバスガイドさんがつきます。小田原宿の歴史や見所をガイドしてくれます。

小田原駅東口の次のバス停は「学び橋」。バスガイドさんは「学び橋の奥に小田原城の天守が見えます」でした。
う…。これは…。木が大き過ぎるかも?木が高過ぎるな。
10時3分。学び橋を通過。バスは旧東海道に出ます。次のバス停は「中宿町」。お正月の箱根駅伝の中継ポイント近くです。そしてバスは箱根方面へ。
板橋見附でかつての東海道の名残を残す細い道へ。すぐに次のバス停「松永記念館入口」へ。10時8分ここで下車します。
と。バス停の向かいにレトロ建築がありました。ここが内野家住宅です。
箱根板橋 内野家住宅(旧内野醤油店)特別公開公開時間:午前10時ー午後3時半。 入館料150円。
内野家は明治36年に建築され、醤油醸造業を経営していました。
明治の頃、川越で大火事があったけれども、土蔵造りの家だけは火事に合わなかった事から、当時土蔵造り風の町家が流行しました。内野家の当主も、土蔵造りを取り入れました。トップ画像は旧東海道に面していた側の建物です。土蔵によくあるなまこ壁が見えます。
石造りアーチなど、和洋折衷風の特徴がある意匠が取り入れられた建造物となっています。


まずは受付で入館料を支払いますと、受付の方が屋内に向けて声をかけました。「お客さん~。ご案内して~」
ん?
と。室内から法被を着た人が登場~。
んん~?もしかしてガイド付き??
ハイ。予想通り!内野家の公開は板橋まちなみファクトリーさん主催の公開イベントでした。
写真右手の男性が、内野種三郎氏。
内野家は酒の醸造業を営んでいた本家から内野種三郎氏(万延元年・1860生まれ)が分家して、箱根板橋で醤油醸造業を始めました。この種三郎氏が、内野家の建物を明治36年(1903)2月に着工、同年11月に竣工しました。
当時、川越の大火事で蔵造りの建物は被害を受けなかった事から、種三郎氏の意向で防火重視の蔵造りで建設。道路に面して袖蔵・店蔵が並んでいます。石のアーチの入口を入ると右手に小さな座敷があり、そこで客と対応してたそうです(画像取り忘れ)。
客と対応した小部屋の奥が母屋の住居部分。


レトロ建築は最近マイブームであれこれ見て回ってますが、入れ物だけ公開されてもどう使ってるか?想像が働かないのが残念でした。この内野家は内部もかつてのあれこれが展示されてて嬉しいです。

先ほどの部屋の奥にあるのがここ(上の画像は奥が旧東海道に面する表部分)。座敷ですね。欄間が女性の櫛にデザインしてあるのは、この部屋が女性用だから。なんか家の行事する時に使用したそうです。
この部屋で間に合わない時は、ふすまを払って一部屋にして使用したとか。尚、内野家では、襖と障子は夏用・冬用があるそうで、訪問した11月23日には既に冬用に取り変え済みでした。
床の間の脇の指物の細工がピカ一です。これは~、箱根だからかも?
さて、家の左側へ移動。
こちらはかつての隠居部屋。


 
後から増築した部屋だそうです。炉が切ってあって、趣味の部屋ですね。

趣味の部屋の廊下は窓の外のデザインも素敵です。
さて、内野家には階段が2つあります。来客用と普段用。まずは来客用の階段を上がります。
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鎌倉の化粧坂切り通しの通行止めが12月5日より解除されました。
10月11日午後に発生した倒木と土砂崩れで源氏山公園内の化粧坂切り通し。通れるようになりました。源氏山公園はお弁当を食べれる貴重な場所。寿福寺や浄智寺、銭洗弁天からも上れるけど、海蔵寺と組み合わせて観光すると化粧坂が使えないのは辛い。早く通れるようになってよかったです。鎌倉市にしては早い対応ですね。この早さを釈迦堂の切り通しでも発揮してくれよ。もう何年通行止めが続くんだ…。
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今年限りの風景です

2013年11月24日 17時39分53秒 | 箱根・小田原周辺
今日の更新はあんまり疲れてて無理!とは思ったんだけど、なけなしの根性をかき集めて記事書いてます。
なぜに疲れてるかというと、昨日の小田原観光がハード過ぎてて、筋肉痛なんです。特に太ももと腰がギギギ…って軋んでる感じです。
しか~し!!
トップ画像は箱根板橋にある松永記念館の老欅荘です。
ンで、記事タイトルの訳は…。
画像を見ても分かりにくいのですが、画像の右側にあるハズの塀が10月後半の集中豪雨で崩壊してしましたっ!
この角度から撮影された晩秋の画像は、秋の小田原宿観光回遊バスのポスターになってます。
なのに~~~っ!!
大変ですっ!!
老欅荘は、かつて「電力王」といわれた松永安左ェ門が自宅の敷地に建設したもので、意匠を凝らした茶室は国の登録有形文化財です。近代数寄屋造りの建築は、一見の価値あり!!
訪問した11月23日は、紅葉がようやく見頃に入った所でして、「ちょっと早かった!」のですが…。帰りがけにたまたま記念館の係の人が声をかけて下さったので、思い切って尋ねた所、10月の雨で崩壊したと知りました。
私「直せるんですよね?」と聞いた所、
係の人「それが…。小田原市の方で、カエデの木を切る事が決定されてしまいました…」
ぬゎんやて!!あのカエデを切るってかっ!!
木は国の登録有形文化財には入らないの~~??あそこにあるカエデの木が込みでの老欅荘の風景だと思うんだが…。
小田原市民は何を考えているのか…。塀が崩壊したのは自然災害だけども。だからと言って木を切って解決になるのか??

あのカエデとは、上の画像の門の上を覆い被さっている左側のカエデです。本来なら、上の画像の左下には崩落した塀があったのです。いい風情でしょ?これが今年限りの風景なの…。ちなみに、訪問したのは、11月23日の午前11時前です。ポスターの撮影は、反対側。老欅荘の庭から門の外に向かって撮影したものですから、同じ角度から撮影するには午前の光がふさわしい。
と言う事で、ともあれ、この景色は今年一杯の眺めです。小田原方面へ今から行こうか?と考えてる方、紅葉散歩の訪問地にぜひとも加えて下さい。
ちなみに、松永記念館に隣接する、秋葉山量覚寺は、小さいお寺ですが、中々に綺麗なイチョウとモミジがありました。

こんな感じで。
この後、板橋の明治の歴史散歩をしたのち、石垣山一夜城歴史公園へ、観光回遊バスを使って訪問。

小田原宿観光回遊バスを利用したら、一夜城歴史公園でボランティアさんのガイド付きでした。
一夜城は秀吉が作ったお城です。もう石垣しか残ってませんが、曲輪とか平地整備されています。上の画像は一夜城から眺めた小田原城です。
少し拡大してみました。矢印の先に、小田原城の天守閣があります。秀吉の一夜城と小田原城は直線でおよそ3キロ離れてます。
ちなみに、一夜城歴史公園への上り坂には、みかん畑があります。
バスの車窓からパチリ。みかんの黄色が目に鮮やかです。
露地物のみかんはちょうど収穫時期で、みかん狩りを楽しんでいる観光客の姿も。
この後、またまた観光回遊バスを利用して、小田原漁港へ。行列の出来る魚市場食堂で遅めのお昼ご飯。まさかの30分待ちでした。注文したから出て来るまで20分。5分で食べてまたまた観光回遊バスのバス停へ。その後、鎌倉文学館へ。

こんなに綺麗なのに、ダンナは赤いモミジではなくFacebookに熱中してます。もね。立ち止まってはFacebook。いいんだけど、バスは30分に1本しかないからして、ムダな期間はかけられん!!
何が筋肉痛って、箱根板橋の坂の上り下り。一夜城の上り下り。鎌倉文学館から清閑邸へ急ぎ足で移動して上り下り。しかも途中一切の休憩なし!も。若くないのに…。
無理した理由は30分に一度のバスの時刻表のせい。
そんでもって、最後の最後、15時3分発鎌倉文学館の回遊バスが15分遅れで来た挙げ句、満席で乗れなかった!から。しかも!!そこで諦めたらいいのに、鎌倉文学館から16時までの開館時間でもなんとか間に合おうと!無理クソ急いで移動して清閑邸訪問もしたから!!や…止めとけばよかった~~

秋の日暮れはつるべ落とし。帰りの小田急線途中で日が落ちてしまいました。つ・疲れた…。小田急の車窓から暮れ行く富士山をのぞみつつダンナに「万歩計持ってる?」と尋ねたらば「11000歩超え」だって!
え??たった11000歩??こ・こんなに疲れてるのに????
今日の敗因は、上り下りの多い行程に加えて休憩無しでしょうか?

明けて翌日。今日はSC相模原VSFC町田ゼルビアのシーズン最終戦にてこの戦いで3位4位が決まる決定戦が調布の味の素スタジアム西競技場であるので、今朝起きるまで行く気マンマンでした。ンでも、起きた瞬間む無理だと判明しちゃいましたよ…。もうヘロヘロでございます。明日も記事書けるかどうか…。腰がっ厳しいんだ…。も。若くないんだから…。

小田原宿観光回遊バスは、春と秋の期間営業です。今年2013年は、10月5日から11月24日までの毎週土日。祝日に運行されています。料金は200円ポッキリ!!最初に乗車する時に、200円支払えば、冊子がもらえます。この冊子が乗車券代わりで、何度利用しようが、運賃は最初に払った200円ポッキリ~~っ。小田原の観光ポイントにバス停が計14カ所設定されてて、14時を除く、30分毎に10時から16時までの運行です。
早足で観光して、調度いい時間にバスがやって来るのですが、どうやら2台ぽっきりのバスで回してるようでして、しかもうち1台は小型バス。どんなに利用客がバス停で待っていても、小型バスはシートに数しか客を乗せてくれません。私は小田原文学館で並んでいたバス待ち客は全て積み残しにされてしまいました~。しかもっ!バスガイドさんが言うには、「一つ前の小田原漁港でも積み残し客が出てしまったんですっ!!」と。言い訳になってない~~。つーか、そういう状況ならば、先に連絡があってもいいんじゃないのか??と。ええ。もうあと一カ所寄ったら帰宅するタイミングの15時3分小田原文学館発で積み残されてしまいまして。さあ大変っ!16時までの清閑邸の開館時間に間に合わない~~っ!!と。小田原文学館から猛ダッシュしちゃいました。しかも、乗れなかったバスは、定刻に10分以上到着が遅れたという…。ナニソレ~~~ッ!!!みたいな?や。価格は極めて利用し易い設定だし、上り下りが大変な一夜城もコースに入っていて、更には一夜城歴史公園と小田原城の2カ所ではNPO法人のガイドさんが待っててくれるという…歴史好きには至れり尽くせりの素晴らしき催しだったんだけどね。そういう観光客は年配者も多くてですね。杖を着いた年配の観光客が、私らと同じく小田原文学館のバス停で積み残しに合われてたのを見た時、せめて大型バスだったら、シートが埋まってても、乗せてくれたのに…。と。私は積み残しを告げられて即移動したので、あの人がどうしたのかは確認してませんが…。来年は改善の余地有りでしょう。
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小田原明治の歴史散歩

2012年07月02日 05時40分28秒 | 箱根・小田原周辺
清閑亭前の坂を上って、少し下った所に山角天神社があります。
でもここを訪問した目的は、瓜生外吉の胸像があるからです。
以前記事にしたことがあるので今回はサラリと。瓜生外吉の胸像(2011年11月11日)の記事こちらの記事に、瓜生外吉の像の画像があります。
瓜生外吉は、日露戦争の開戦を告げる号砲を鳴らした人です。
山角天神社は、小田原城下に散らばる散策のポイントの分かれ道にあります。

目印の場所です。
山角天神社の北西側に続く道には瓜生外吉の名前がつけられています。

上の画像の左にのびる坂がそう。
天神社の階段の下に細い道を南東へ向かうと、山下亀三郎の旧邸跡があります。それがトップ画像。
山下亀三郎は、山下汽船の創業者で、『坂の上の雲』の主人公、秋山真之と同郷だった縁から、盲腸を患った秋山真之はここで静養し、亡くなりました。今ならば、盲腸で亡くなる人はいないけど、あの時代は死に至る病だったのですね。

こちらも以前記事にしてるので今回は割愛。「坂の上の雲」秋山真之終焉の地(2011年11月10日)の記事 こちらの記事で、生前の秋山真之の写真も確認出来ます。とってもイケメンでした。
トップ画像は、山下亀三郎の旧邸だった『対潮閣』の正門部分でした。面影があるのはここだけかと…。
対潮閣跡から更に道なりに約200メートル弱、ここでかつての小田原城の箱根口門跡に到着します。が、その前に…。
国道1号線へ向かい、ういろうを買いに立ち寄ります。

並ぶういろうは白・茶・小豆・黒などなど。う~む?悩む…。
「すみませ~ん。どれが一番伝統的なの?」
「こちらの黒糖のういろうは、室町時代からある伝統のういろうです」
なぬっ??室町時代ですと~?
「ください」
「ありがとうございます。1棹600円になります」
画像は帰宅後撮影しました。色々説明の紙もいただいたので少し紹介しますと…。
「お菓子のういろうのいわれをご存じですか?
「ういろう」とは、もともと外郎家の姓なのです。約600年前、外郎家二代目外郎宗奇が自らつくって客の接待に供したのがはじまりで、外郎氏の菓子というところからいつしか略して、この菓子を「ういろう」と呼ぶようになったのです。
したがって、お菓子のういろうの歴史は、外郎家の歴史と切り離して語ることが出来ません。
外郎家の先祖は、陳延祐と言い支那台州(浙江省)の人です。元の順宗皇帝の時、大医院並びに礼部員外郎という役でしたが、元が明に滅ばされたとき、日本に帰化したのです。1368年筑前博多に来て、陳外郎と名乗りました。その子大年宗奇が京都に招かれて、朝廷に仕え、客の接待に自ら作って、供したのがこの菓子のはじまりです。
外郎家五代目藤右衛門定治が北条早雲に招かれて、小田原に移るとき、弟に典医の職と「お菓子の製法」を京都の家と共に遺して来ましたが、京都の外郎家はその後、室町幕府と共に兵火にかかり世継ぎもなく断絶してしまいました。ちなみに、全国に「ういろう」という名に似たようなお菓子があるのは、京都の外郎家に仕えていた職人が、お菓子の製法を全国に広めたからだそうです。
「お菓子のういろう」は米粉・餅粉・砂糖等で造られていますが、砂糖は元禄時代白砂糖が使用されるようになるまでは、あめ、みつ、黒砂糖が使用されておりました。
ちなみに、「ういろう」を「お菓子のういろう:と呼ぶのは「薬のういろう」と分けるため。
「薬のういろう」は…。
初代陳延祐が医術と占いに優れており、将軍足利義満から京都に招かれる程の人でした。
外郎家の薬「霊宝丹」は朝廷に珍重され、後に天皇から「透頂香」の名前をいただきました。
豊臣秀吉が北条家を滅ぼした時、北条一族家臣は城下に残さない方針でしたが、外郎家だけは特例で残されました。以後外郎家は薬を一般に売り出し、医薬に専心することになりました。
享保年間、歌舞伎役者の市川団十郎は持病の咳と痰のため台詞が言えず、舞台に立てず困っていました。その時、「薬のういろう」のことを知り全快。団十郎がお礼に創作したのが歌舞伎十八番の「外郎売」でした。
なので、「ういろう」にはお菓子と薬の二つがあるのですね。
ちなみに、外郎家は、朝廷から十六の菊の紋と、五七の桐の紋を与えられています。
そして、お店の建物がまるでお城のような訳も、壊れたら八つ棟を立て直すのが遺言となっているからで、立て直した回数で、小田原の地震の回数が分かる程なのだそうですよ。
へえ~へえ~へえ~っ!!!
思いがけない程の歴史ポイントであった…。
何もおかしなものが混ぜられていない「お菓子のういろう」は、賞味日数が短かったです。んでも、昔なつかしい味でした。思わぬこってり系の羊羹でございました。
ちなみに、外観の画像はこちらの記事で紹介してます。何コレ!ういろう博物館(2010年7月8日)の記事

さて、次の目的地は「開成あじさい祭」です。なので、小田原駅へ戻ります。
最短距離を行くべく小田原城を突っ切ることに。
箱根口門跡
門の両側にかつての小田原城の総構えの一部、土塁が残っています。が、見るには小学校の校庭に入らないとムリだと思う。小学校の柵から覗くのが精一杯だな。

時節柄、こんなんがありました。
そういや、鎌倉でも「ここは海抜●●mです」っていうのあちこちで見たよな。
小峰橋(お茶壺橋
お茶壺橋~??何ソレっ!
説明板発見:江戸時代に小田原城三の丸への出入り口としては、大手口と幸田口、箱根口があり、それぞれ大手門、幸田口門、箱根口門を設けていました。
南方の箱根口門から入城すると、この小峰橋を渡り、次に住吉橋を渡って内部に入ることができます。
この橋の正式名称は小峰橋ですが、現在ではお茶壺橋という名称で親しまれています。
江戸時代、宇治から将軍家に茶を献上する際に、瀑布はお茶壷道中と呼ばれる行列を仕立てて運搬しましたが、小田原城内にはお茶壺を保管するためのお茶壺蔵が設置されていました。その際、お茶壺がこの橋を往復したことにちなんで、お茶壺橋と呼ばれるようになったといわれています。
だそうで。お茶壺道中かぁ~。なんか「水戸黄門」のドラマで見たような~。そういや、茶坊主ってのもあったような…。

さて、あじさいと菖蒲が咲く東堀へ戻って来ました。ここから小田原城へ行くには、常盤木門から天守閣の広場を突っ切ってお城通りへ抜ける道と、東堀から弓道場の側を通り東へ抜け、弁財天通りからお城通りの2方法がある。でもせっかくの小田原城なので、あっこさんに「天守を見てく?」と誘ったら、「うん」と。そんで天守閣を見ながら北口へ向かいました。
ん~?確かここ、駐車場だったハズ…。

なんか、調査中でした。ここはかつての御用米曲輪があった場所。現在、史跡整備の為の発掘調査を実施しているそうです。
ここにかつては米蔵が立ち並んでいたのですかねえ?ロマンじゃ。
さて小田原駅に到着。既に時刻は12時を大きく過ぎております。こっから小田急線で新松田駅へ向かうのじゃっ!!つーか、うっかり今日は詰め込みすぎて長くなった!ブログ書くのに疲れてどうする。反省してもう少し記事を短くしよう~…。
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本日、アジサイ散策のフォトアルバムに相模原市麻溝にある麻溝公園のアジサイの画像を追加しました。
お寺・水田・お城とアジサイのコラボに続き、公園におけるアジサイ。全てアジサイの名所として有名な場所ですが、見せ方は様々なのですね。
2012アジサイ散策
コメント (2)
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小田原歴史散歩

2012年07月01日 05時41分35秒 | 箱根・小田原周辺
小田原城に隣接して報徳二宮神社があります。
二宮神社の主祭神は二宮尊徳。この名前に聞き覚えがない方でも、二宮金次郎の名前なら知ってるかも?同じ人物です。
彼は江戸時代後期に数々の業績を残した人で、小田原出身なのでした。
ちなみに過去記事で既出なので、今回は割愛。
二宮尊徳って知ってる?(2010年7月10日)の記事こちらの記事で、二宮金次郎のあの銅像の画像を確認出来ます。
参拝して次に向かうは清閑亭です。
ってあれ?
報徳博物館前にいらした二宮金次郎の像
報徳博物館は、二宮尊徳(金次郎)が若い頃、中間奉公していた小田原藩家老の服部家のあった場所から200メートルの位置にあります。当時は近藤某という書物好きな藩士の屋敷があったそうですよ。そして尊徳はここで書物を借りて読んでいたんだって。やっぱり二宮金次郎といえば、本だよな~。
さて、清閑亭へは、報徳博物館の先の道を左折した所にあります。結構な上り坂。
清閑亭
清閑亭は、旧福岡藩主黒田侯爵家の別邸でした。この建物は小田原城の三の丸土塁の一角を占めています。この辺りは急坂を上った所にあり、箱根からのびてきた尾根の先っぽに位置しています。
清閑亭はかつては山下亀三郎の別邸と隣接。また閑院宮家の別荘も立ち並ぶ、実業家・軍人・政治家が別邸や別荘を構える時代が小田原にはあったのです。
では内部を紹介。
  


二階は遊び心いっぱいでした。竹が多く使われていて、あちこちに今も残る黒田侯爵のこだわりを探しつつ見学するのも面白い。

司馬遼太郎著『坂の上の雲』の主人公、秋山真之は、清閑亭に隣接する山下亀三郎氏の別荘だった対潮閣の二階で、海を眺めつつ亡くなったそうです。上の画像とおそらく同じような感じだったのかな?と。想いをはせたりして。

と。さらりと紹介しましたが、実は訪問した6月18日は、清閑亭でArt Now in 清閑亭(6/17-7/8)が開催されておりました。そして旧食堂のあった部屋では、どちらかのお寺の住職の法話講義があり、他の部屋では写経をされてる方がちらほら。清閑亭は国の登録有形文化財なのですが、こんなに利用されてる建物も珍しいんじゃないかな?以前訪問した折りは、ゾウの花子の油絵展が開かれておりました。
小田原清閑亭(2011年11月13日)の記事 清閑亭(2011年11年12日)の記事
今ではもう手に入らない超高級な木材を贅沢にふんだんに使用しています。や。屋久杉の天井とか、北山杉の一本使いの梁とかとか。
このまま明治の小田原を一挙紹介の記事にしようかと思っていたのですが、長くなりそうなんで2つに分けます。

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最乗寺の奥の院

2012年02月05日 05時16分15秒 | 箱根・小田原周辺
御真殿の左手にまたまた階段がある。登って数十段。更に右折れに数十段。と、どど~~んっ!!
350段あまりの階段が、鬱蒼とした大きな杉の木の間にそびえてます。
ええ。そびえておりますっ!!
いやじゃ~~~っ!!登りたくない~~~っ!!
でも、今度ばかりは楽する道がないんだよね。
 
350段の階段の始まりにある2体の天狗像に励まされ登り始めます。

青息吐息。
でも2008年だっけ?6月に脳梗塞で1ヶ月入院してその秋にリハビリを兼ねてあちこちに散歩に出かけたんですが、その時この階段を上がるのはそれは大変で。70-80歳の年配の方々に励まされつつ何度も何度も休憩を取りながら登りました。その時に比べたら青息吐息といいつつも楽勝だったのが救い。

奥の院も上がってお参り出来ます。そこで押しの強~いオバさんが僧侶に迫ってました。曰く「十一面観音菩薩が見たい」と。それに対する僧侶の答えは「出来ません」とつれない。
オバさんは僧侶の答えにカチーンと来たのか「今は見せられないってこと!?だったら何時来れば見えるのかしら?」と。
おそらく期間限定公開があると思っての問いですね。それに対し僧侶はまたしても「見えません」とつれな~い。
オバさんの諦めは悪かった!「どうして公開しないの??」と食い下がっております。が僧侶は「私だってまだ見た事なんですよ」だって!!
ええ~~~っ!?
僧侶は続けます。「一つお話をいたしましょう。かつて浅草の浅草寺で非公開の秘仏を無理矢理に拝顔した人間が二人ありました」オバさん&私は「ふんふんふん。それで?」僧侶はサラッと言いました。「間もなく非業の死を遂げたそうですよ」………。分かりました!絶対に見せられないってことなんですね。
………。それって本当に今でもここにいらっしゃるんですよね?実は紛失しちゃったから言ってるんじゃないよな。
最近疑り深い私。だって、去年行った池上本門寺にあった仏像、最近盗難されてしまったの。
となかんとか~。奥の院から左右に伸びる小道があります。つーか、山道獣道ね。これ、左へ進むとハイキングコースなんです。明神岳への道。大雄山駅からバスの終点道了尊バス停に降りた客のうち、だいぶんハイキング客が混じってたんだよ。それも中高年の男女。あーゆーの見てると、元気な中高年って多いよな。
さて、下山です。次第に紅葉狩り客が増えて来た。やはり最乗寺の紅葉は人気があるんですね。団体客も結構来てるし。

入り口の道了尊バス停に戻って来ました。取りあえず門前の土産屋を冷やかします。
 
やっぱ定番は天狗の団扇せんべいですね。これ製造元が複数あって、製造元でせんべいの厚さや配合が違うんですよ。味もみそ味・ピーナッツ味・プレーン味などがあり、土産屋で味見出来ます。
さんざん味見して、お気に入りを購入しました。
さて。こっからウォーキング開始!   人気ブログランキングへ
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最乗寺の境内

2012年02月03日 05時22分43秒 | 箱根・小田原周辺
大雄山最乗寺の訪問のおススメは、初夏のアジサイの季節と秋の紅葉の季節だと思う。んだからして、紅葉の記事をまずはご覧下さい。
大雄山最乗寺の紅葉2011(2011年12月4日)の記事 こちらを参照してから今日の記事。最乗寺さんの境内を紹介しますね。
瑠璃門をくぐると広場があります。ちなみに休憩も出来ます。
ベンチや飲み物の自販機があるのだ。
ベンチの背後にある細長~い建物の壁にこんなのが。
そして正面奥。階段を上がった所にあるのが本堂。

昭和29年再建。間口15間。奥行き12間。昭和を代表する仏教建築家、伊藤忠太の設計。ええ、私のブログに何度も出て来る伊東忠太さんです。…最近の登場は、江の島の児島神社。あれも彼の作品です。
本尊は釈迦牟尼仏。脇侍に文殊•普賢両菩薩を祀ってあります。
でも最乗寺さんはこっからが凄いんだな。画像奥左へと進みます。

上の画像右奥が本堂。左手前が開山堂。昭和36年再建。開祖了庵慧明禅師尊像等、歴代住持霊牌を祀っています。総檜づくり。
開山堂の正面に金剛水堂が。
「当山創の時、道了が自ら井戸を掘り。土中から鉄印を得たが、これが当山の重宝の御金の印である。その跡から霊泉(金剛水)が湧出、以来600年、この霊泉を飲むものの諸病を癒していると伝えられている。
…飲むの忘れた…。
鐘楼。
画像を取りそびってしまいました。こんなんしかなかった~。
ちなみに、鐘楼の階段を上がると石碑があります。これ、お墓なんですよ。
画像右は松平大和守直基(なおもと)のお墓。
「松平大和守直基は徳川家康の次男である結城秀康の五男にあたります。越前勝山城主を経て越前大野、出羽山形へ移封の後に姫路城主となりましたが、姫路へ向かい途上で発病し、慶安元年(1648)、江戸にて45歳で死去しました。直基の遺骨は大雄山最乗寺に葬られ、寛文10(1670)年に兵庫県姫路市の書写山円教寺に分骨されました。…これって、アレだ。映画「ラストサムライ」でトム・クルーズが撮影した所。
直基の墓は、将棋の駒形をした安山岩製で、高さ400センチ、幅135センチ、厚さ94センチ。
直基の墓が大雄山最乗寺に建立されたのは、時の権力者徳川将軍家と大雄山最乗寺との関係の深さもさることながら、直基自身が大雄山最乗寺に対する信仰が深かったことに由来すると考えられています」説明文発見。
多宝塔。
文久3年(1863)建立。多宝如来を奉安、方形層上円形木造二層の塔。南足柄市の重要文化財に指定されている。
さくさく説明を進めてますが、辺りには巨大な杉がたくさんあります。
道なりに進むと結界門です。

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大雄山最乗寺へ

2012年02月02日 05時32分52秒 | 箱根・小田原周辺
2011年11月27日(日曜日)。前日渋谷の能楽堂で「善界坊」を見た。これは唐を制覇した大天狗が日本も制覇すべくやって来るお話です。そんな予習をして翌朝6時過ぎに家を出発。向かったのは足柄市にある大雄山最乗寺です。まだ空は明けたばかり。家からは遠いんだよ~。
っでもって、小田急線で小田原駅へ。そこから大雄山線に乗り換え終点の大雄山駅に到着したのは既に午前8時を過ぎてました。途中、通勤電車か?という激混みな車内。みんなハイキングの服装だったから、私達と同じく紅葉狩りへ向かう人びとね。

金太郎像のある大雄山駅でバスに乗り換え。バスは本数が少ないから注意。でもって終点の道了尊まで片道約10分。ハイキング好きな方は大雄山駅から徒歩で参道をゆく事も出来ますが、バスの乗車時間の99%は上り坂だったのでその案はあんまりおススメ出来ない。
道了尊のバス停到着は8時24分。
そこは既に最乗寺の入り口です。バス停周辺にはお土産屋さんが並んでます。が、上の画像の石燈籠を越えると店はない。すぐに杉並木が迎えてくれます。
画像では分かりにくいですが、とてもでっかい杉の木です。大きさを実感していただきたくて、ダンナに木の前に立ってもらう。
ほらね。
ここへ来るまでのバスの車窓は延々杉でしたが、あれも全部最乗寺さんの敷地だったんですかねえ?とすれば、どんな建物を建てようが対応は自由自在かも?
緩い登り坂を行くと山門が見えて来た。

以前紅葉シーズンに最乗寺を訪れたことはありますが、その時に比べ紅葉はまだ見頃でなかったような…。色づきが今一だ。上の画像の山門手前にあるモミジはもっと綺麗なオレンジ色になってたような…。
大雄山最乗寺へ初見参(2009年11月30日)の記事こちらで色づき加減とか画像を確認出来ます。
南足柄市の観光ホームページには<見頃になりました>とあったんですけど…。つーか、2011年の紅葉はゆっくりペースでしたねえ。
山門を越えると、道の両側に苔むした石碑が登場します。

これらの石碑は最乗寺に寄進した人びとのもの。前回訪れた時、ちょうどバスで一緒になった人とこの道を歩いていたんですが「俺のじいさんが寄付したやつじゃ」って年配の人がおっしゃってました。それをふと思い出しました。石碑の古びた感じは100年やそこらには見えないんですが、最乗寺の辺りは雨が多いんですかね?並んでる石碑はどれもこれも時代を帯びてます。
こんな感じで。
最乗寺はなかなか楽しいんだよね。参道を進むにつれわくわくが高まるように出来ている。
あ。最乗寺は紅葉散歩として紅葉をピックアップして紹介済みです。大雄山最乗寺の紅葉2011(2011年12月4日)の記事赤いモミジが綺麗です。この記事はぜひとも見ていただきたいっ。

頭の上を赤く覆う石段を上がると。
境内に入りますっ!

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松永記念館と老欅荘

2011年11月18日 04時00分46秒 | 箱根・小田原周辺
「松永記念館は「電力王」と称され、実業界で活躍する一方で、茶道にも造詣の深かった松永安左衛門(耳庵)が、昭和21年に小田原に居住してから収集した古美術品を、一般に公開して広く愛好者に親しんでもらおうと、昭和34年に財団法人松永記念館を設立して、自宅の敷地内に建てられたものです。
安左衛門の没後、敷地と建物が小田原市に寄付されました。その後、この敷地内の改修工事を行い昭和55年に小田原市強度文化館文館として開館しました。」以上、パンフレットからの抜粋。

………。結構ここのお庭と老欅荘を楽しみにしてたんですけどね。
なんなのっ~~!!
「本日は大茶会を行っております」ってな事で、和服姿のご夫人があちこちにいらっしゃいますっ!!清閑亭再び…。
もうね。茶席の順番も時間も決まってるのね。と~て~も~っ。室内を楽しむ事なんか出来ないっ!
せめてもと記念館の裏手にある老欅荘の外観を見に行きました。

老欅荘の中でも大規模なお茶会の最中でした。私はお庭をお歩いてるだけなのに、視線が刺さるっ。「なにあの人っ!あの服装っ!!」ってな具合だっ。
しょ~~がないじゃないかっ!私はお点前をいただきに来たんじゃないんだもの。今日は箱根板橋明治の邸宅巡りなんだもの~~~っ!!
 
老欅荘の外観と庭の画像をささっと写しただけで、そそくさと撤収~ですっ!
あ。
でも一応老欅荘の解説は紹介しておこうか。
「老欅荘は松永安左衛門(耳庵)が、昭和21年に埼玉県柳瀬(現所沢市)から小田原に移り住むために建てられたもので、その名称は、登り口にそびえる欅の大木に由来しています。
耳庵は夫人とともに万年をここで過ごすかたわら、多くの茶会を催し、当時の有名な茶人、政治家、学者、建築家、画家などを招きました。最後の数寄茶人とも呼ばれ、益田孝(鈍翁)とともに、近代茶人の一人として有名です。
老欅荘は国の登録有形文化財に登録されています」
老欅荘の名前の由来となった欅の大木は、今もそのまま残っていて、記念館から老欅荘へ向かう坂道の途中にあります。
記念館前の池まで戻ってくると、庭のほとりにある休憩所はまだ和装のご婦人方でにぎわっていました。

お茶会の最中なのでお庭にある「葉雨庵」を撮影。
茶室「葉雨庵」は、中外商業新報(後の日本経済新聞)社長、三越百貨店社長、鐘紡重役などを歴任した野崎廣太(幻庵)によって、大正13年、諸白小路(現、市内南町)の別荘「自怡荘」内に建てられた茶室です。
ここでは当時の中央政財界人が招かれ多くの茶会が催されました。

こちらは付属の烏薬亭。こちらでもお茶会中。その名称は建物正面にある小田原地方ではここでしか見られない樹木「天台烏薬」にちなんで名付けられました。

松永記念館にある茶室の内部は全て見られず…。がっくりと肩をかかとまで落として記念館を後にしました。
時刻を確認すれば丁度午後2時を回ったところでした。
あれ?
思ったより時間が経ってなかったんですね。でも~、もう体力が…。ヤバいです。
松永記念館の正門を出たところでタクシー発見!
の、乗せてくれ~。とちらっと思ったんですが、これはお茶会の出席を終えたおばさま達の御用達。着物姿のご婦人が乗り合わせて坂を降りていきます。
ちっ!しょうがないなあ~。
もう一踏ん張りだっ!惰性でだらだらと緩い坂を降りていくと、水音が聞こえてきた。
あ。これ、「小田原用水」だわ。
小田原用水は、箱根芦ノ湖」を源とする早川の水をこの地で取り入れ、旧東海道に沿って城下内へ流した上水道で、後北条時代に造られたものです。
なかなかの歴史ポイントじゃないの~。
疲れた時に萌えが発動し、小田原用水の流れに沿って板橋見附まで。
新幹線の高架をくぐり、東海道本線の高架も過ぎ…。
さて、こっからJR小田原駅へ行く最短の道は~。
おや~?信号の向こうになんだか変わった建物が…。何だろう?

実はコレ、消防署なんですよ。小田原は観光客に心配りが心憎い。お城に隣接する小学校も漆喰の白壁と瓦屋根を乗っけたテイストで作られているんですよね~。う~んっ。萌え萌えっ!!
松永記念館から消防署まで約20分ちょっと。地図を取り出して確認すると、東海道本線に隣接して走る道がトンネルになっていて、清閑亭のきつい坂のあった箱根から延びる尾根を上らずに済みそうです。

マ、マジか~。
尾根の一番高いところまで上ることは回避出来たんだけどねっ。その先にやっぱりあったぜ。上り坂。もう~~~っ!!疲れて足が上がンなくなってるのに~~~~っ。
ボヤく元気も残ってないよっ。
這々の体でお城通りまで戻って来た!
ムっ!!こ、これはっ!!
クリスタルカイザー~~~っ!!しかも500ミリリットル1本70円っ!!のっ!!自動販売機~~~~っ!!
ああ。旅行お守りのご利益、今日もちゃんとあったのねっ。
早速購入して、小田急線の車内でむさぼり飲んでしまいました。
本日の小田原明治の邸園巡りはコースの順番をミスってしまいましたが、当初の裏目的だった運動不足解消は100%実施出来ました!ま。帰宅後、シャワーを浴びようと服を脱いだら、またまた赤剥け日焼けになっていたのはいらんおまけでしたが。長々と小田原散歩におつきあいいただきましてありがとうございます。
ちなみに、箱根板橋のお庭は、今頃程よく紅葉してるハズ。お散歩におすすめです。
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山月、大倉喜八郎旧邸

2011年11月17日 05時15分39秒 | 箱根・小田原周辺
山縣有朋の暮らしていた古稀庵と、大倉喜八郎1837(天保8年)-1928(昭和3年)の別邸は細い道に向かい合ってありました。
現在、大倉喜八郎の旧邸は「山月」という割烹として営業中。
「山月は明治大正期の実業家大倉喜八郎男爵が大正9年に建築した別荘で、当時は共寿亭と名付けられました。
この建物は、外観は御殿風に見えますが、内は瀟洒な作りで、関東大震災でもほとんど被害がなかった堅固な別荘建築です。(後略)」
ちなみに、大倉喜八郎は日清戦争、日露戦争と戦争の度に軍需物資の輸送、調達により巨利を得た。また、その財力を利用して様々な営業を展開し、大倉財閥を築き、日本初の私設美術館、大倉集古館の設立など、文化の面にも大きな足跡を残した人です。
ちなみにここ、NHKの「美の壷」の中でも紹介されていた建物だと思うんだけど、見学出来ないんで判断出来ない~
入り口でトップ画像を撮影しただけで撤収。
山月からほんの数十メートル坂を上がったところに、皆春荘があるのですが、こちらも一般公開されていません
箱根板橋には、明治時代の歴史を彩った人々の別荘群がいくつも点在していたのですが、現存しているものは少なく、公開してるものは更に乏しく…。
見えなくて残念無念です

山月の敷地に沿って細い道が伸びている道は、竹林を抜けてくなかなかナイスな散歩コースです。
香林寺が見えたら突き当たりにあるのが松永記念館。

こちらは電力王と呼ばれ、茶人でもあったた松永安左衛門(1875-1971)の収集品を公開するために設立された記念館です。居宅だった老欅荘は、国の登録有形文化財。
た~の~し~み~~。
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小田原古稀庵庭園

2011年11月16日 05時59分39秒 | 箱根・小田原周辺
古稀庵は明治40年、明治の元勲山縣有朋(1838-1922)が作った庭園です。山縣と益田孝は夫人同士が姉妹で、益田が古稀庵の敷地をあっせんしました。山縣が古稀(70歳)の寿賀を迎え、「古稀庵」と名付け、終の住処とされました。
現在はあいおいニッセイ同和損保保険の所有で、毎週日曜日のみ公開(AM10:00-PM4:00)されています。
入園料:100円。
到着したものの、誰もいない…。
箱があったので、そこに入園料を投入して、パンフレットをいただき、ついでにスタンプも押してお庭へ向かいます。
 
庭はせせらぎが流れていてます。
 
庭の敷地の中に高低差が14、9メートルあって、それを巧みに利用した山水回遊式の庭園となっています。ちなみに、相模湾と箱根山を借景して築造されたとのことですが…。現在は海側に近代的な建物があって、海は見えません。また、山側にもビルがあって箱根山が見えません。借景の意味台無し。
し~か~も~~っ!!
このお庭、庭師さんが手入れしてますか?
なんだか、野趣あふれる…。つーか、これ、単なる雑木林だよねっ。いや、里山に戻りかけてるよねっ。私、ヤブ蚊にかまれ放題なんですけどっ!!
こ、こんなはずでは…。
でも、たぶん、きっとっ!!
庭の紅葉が紅葉すればもっと奇麗に見えるハズ。決して、私が見る目ない訳ではないハズですっ!!(悔し紛れ)

ヤブ蚊退散~っ!!って遠吠えして、私の方が逃げ出した。
あ~あ…。
結構期待していたのに…。
山縣有朋というと、庭作りで高い評価をされてます。
京都の無燐庵、東京の椿山荘も山縣有朋の手がけた庭園。
ちなみ古稀庵にあった洋館は、栃木県矢板市にある山縣農場へ移築され、「山縣有朋記念館」として保存されています。
ち~な~み~に~。
「坂の上の雲」の主人公、秋山真之は、小田原の山下亀三郎の別邸「対潮閣」に滞在し、山縣のいる古稀庵をたびたび訪れています。
山縣有朋はNHKのドラマの「坂の上の雲」では江守徹さんが演じています。
日露戦争当時、山縣有朋は参謀総長でした。
山縣有朋は有名人だから今更解説はいらんので生涯は略。でも軽く紹介しますと、WIKIによりますと、この人も高杉晋作が創った奇兵隊にいたんですね。明治時代には陸軍の基礎を気づき、後に内閣総理大臣にもなっています。
ちなみに、小田原文学館の建物の所有者だった田中光顕は、山縣の側近でした。

夜間工事のお知らせが郵便ポストに入っていた。
工事日時:平成23年11月16日。21時ー翌6時(予定)
なんやてっ!?朝まで工事するんかいっ!コンクリートジャングルな場所でっ!!
目的は漏水工事だそうですが、漏水工事って何度もやってるよね?見ればうちから200メートル位しか離れてません。商店街で夜間通行止めでやるそうなので、仕方ないんでしょうが…。夜にやるんだね…。寝られないよね。また…。いつぞやも夜間工事について都会の常識田舎の非常識って書いたけど、またまただよ~。なんで誰も抗議しないんだろうなあ…。
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小田原清閑亭

2011年11月13日 05時55分02秒 | 箱根・小田原周辺
昨日の記事が長くなってしまったので、清閑亭の記事を二つに分けました。なにやってんだか~…。
今日は清閑亭の外観を紹介しますね。
トップ画像は清閑亭の庭から眺めた。右手にあるのは客間と鎖の間です。鎖の間は網代天井です。左手は居間と食堂。
蔵です。

庭(南側)から邸宅の外観を撮影。
 
近頃うちの近所は民家の建設ラッシュでして、あちこちで工事を行っています。
なんかねえ~。どの家も窓か小さいんだよね。もう窓というか、壁に小さな四角をくり抜いてあるだけの家!
まあ、防犯には効果あるんだろうが、蒸し暑い日本の夏にはそぐわないような気が…。流行りなんですかねえ~。明治の家って、窓がたくさんあったんだなあ…。これより前に時代となると、これがまた…。まずガラスがなかったからね。室内照明もショボかったからね。私的にはこの時代の建物好きです。今作ろうとしたら、建築基準法的にダメなんでしょうが。いや、その前にこんな立派な木材で家を作ったらどれほど高価になるか~~っ!!

最後に昨日書きそびれていたので、清閑亭について補完します。
清閑亭は黒田長成侯爵の別荘だった邸園(邸宅と邸園)です。
この地は小田原城三の丸の丸土塁の一角を占め、小田原の町や相模灘を一望する素晴らしい眺めに恵まれています。
明治39年(1906)から飼田家の別荘となり、戦後は浅野侯爵家を経て第一生命保険会社の施設として使われていました。
清閑亭周辺は「天神山」と呼ばれ、箱根からのびてきた尾根の先端部です。この地には飼田家のほか、閑院宮家、山下家、北原白秋など、多くの文化人や実業家、政治家や軍人が別邸、別荘を構えていました。
建物全体は格式ばらない数寄屋造り。
黒田長成侯爵(1867-1939)
慶応3年、福岡藩主黒田長知の長男として現在の福岡県に生まれる。
明治21年(1888)英国ケンブリッジ大学に留学、帰国して明治26年(1893)から30年間貴族院副議長を務めた。

やっちまった~~…。
昨日美味しそうなピチピチのスルメイカが3匹398円で売っていた訳だ。すかさずゲット!更に近頃ぐっと安価になった野菜群から、ぼちぼち旬となったカリフラワーも購入。彩りに赤ピーマン(ただし、赤ピーマンをいただくのはダンナだけ)早速調理したのです。
旨かったんです。ええ、とっても~~。なので、今朝もまた同じのが食べたいと、寝ぼけた頭でイカをさばいてて失敗した~~。
イカがっ。イカの目玉を取り除いてたらブチッと弾けて潰れてしまいました~…。
ぎゃあっ!!
着用していたのは、これからお出かけするんでお気に入りのトレーナー。しかも珍しくもイタリアのスポーツブランドの高いやつ。
ここここここの服に飛ぶか~~っ!!
ここんとこ、イカを捌くの失敗したことなかったから、この惨事を予想してなかった~~っ私のアホ~~~ッ!!!
でもまだ諦めるのは早いかもしれん。こういう時こそネットの海に答えがあるハズと、「イカスミ 落とし方 服」をキーワードに検索かけたらありました!
早速台所用洗剤を抱えて洗面所にかけこんでトレーナーにかけたら、落ちましたっ!イカ墨っ!!でもなっ!!トレーナーの色まで落ちたっ!!奇麗な紫がかった青色だったのに、まだらに赤紫に変色したっ!!
な、なんで~~~~っ!!
も、手遅れです。
ええ。「台所洗剤」で落とせとは書いてましたが、「原液を服にぶっかけろ!」とは書いてません。つーか、どうしょうかこれっ。もう元からまだらな紫系のトレーナーってことで行くか?でもねっ。このトレーナーってばおイタリア様のブランドものなので、もとより雪の結晶をモチーフにした柄がトレーナーの前面にちりばめられているのです。そこに更にまだらな紫ってどうなのっ!!
現在、とりあえず漂白剤を落として中性洗剤で洗って干してますが、乾いた時にどれだけ変なのかで判断するしかない…。お、お気に入りだったのに…。焦ってる時程冷静にならんとイカンですっ!!_
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