この建物の変遷も面白い。
昨日の旧大和ホテルの記事のベランダから見た画像。そこに見えたのがこの建物です。
ロシア植民地時代にアメリカ人のサスプログが「徳泰号雑貨店」として開設したもの。
1916年、日本植民地当局によって「旅順高等学堂師範科」と改称した。
1918年から「旅順師範学堂」「旅順師範公学校」と改名。
1945年には「ソ連赤軍病院」になる。
中国返還後は旅順に駐屯する軍の病院だったが、現在は空き家。
早急に保存なり次に利用を決めないと、建物が古いだけにすぐにダメになります。
既に痛みは始まってました。
何でもかんでも保存しろっては言いませんけど、こんなに立派で綺麗な建物なのに、風化に任せるのはもったいないなあ…。
つい愚痴が口をついて出る私って小市民~
建物が大きいので一部だけ利用するのは無理だと思いますけど、旅順の街って現在廃墟だらけです…。歴史的に有名な奴もそうでないのも…。
おそらく去年の秋に『軍港旅順を外国人観光客へ解放』と急に方針変換がなされ、現在は街が変化する過渡期に当るんだと思います。中国では潰して新しくするとなれば、まず立ち止まらない。時が止まったような旅順もこの先変るのか?ならば今こそおすすめの訪問地です。
……もしかして廃墟ファンには特にお薦めの場所かもしれん…。や、廃墟ファンの萌えポイントも知らないんですけど。あちこちお化け屋敷なんで。
旧大和ホテルと向かい合う通りは「文化街」と言う。ここにこんな建物が。
「繍楼(女子の部屋)」旧跡。
ロシア植民地時代の「徳泰号雑貨店」の社員寮だった。張作霖の妹の入居で「繍楼」と名付けられた。以降、旅順市長の家だったことも。
1945年ソ連軍に引き継がれたが、1955年に人民解放軍の旅順駐屯医療隊の所在地となり、軍の招待所となった。
昨日の旧大和ホテルの記事のベランダから見た画像。そこに見えたのがこの建物です。
ロシア植民地時代にアメリカ人のサスプログが「徳泰号雑貨店」として開設したもの。
1916年、日本植民地当局によって「旅順高等学堂師範科」と改称した。
1918年から「旅順師範学堂」「旅順師範公学校」と改名。
1945年には「ソ連赤軍病院」になる。
中国返還後は旅順に駐屯する軍の病院だったが、現在は空き家。
早急に保存なり次に利用を決めないと、建物が古いだけにすぐにダメになります。
既に痛みは始まってました。
何でもかんでも保存しろっては言いませんけど、こんなに立派で綺麗な建物なのに、風化に任せるのはもったいないなあ…。
つい愚痴が口をついて出る私って小市民~
建物が大きいので一部だけ利用するのは無理だと思いますけど、旅順の街って現在廃墟だらけです…。歴史的に有名な奴もそうでないのも…。
おそらく去年の秋に『軍港旅順を外国人観光客へ解放』と急に方針変換がなされ、現在は街が変化する過渡期に当るんだと思います。中国では潰して新しくするとなれば、まず立ち止まらない。時が止まったような旅順もこの先変るのか?ならば今こそおすすめの訪問地です。
……もしかして廃墟ファンには特にお薦めの場所かもしれん…。や、廃墟ファンの萌えポイントも知らないんですけど。あちこちお化け屋敷なんで。
旧大和ホテルと向かい合う通りは「文化街」と言う。ここにこんな建物が。
「繍楼(女子の部屋)」旧跡。
ロシア植民地時代の「徳泰号雑貨店」の社員寮だった。張作霖の妹の入居で「繍楼」と名付けられた。以降、旅順市長の家だったことも。
1945年ソ連軍に引き継がれたが、1955年に人民解放軍の旅順駐屯医療隊の所在地となり、軍の招待所となった。