あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

その15)旧旅順師範学校

2010年09月01日 04時00分48秒 | 旅順・大連旅行記
この建物の変遷も面白い。
昨日の旧大和ホテルの記事のベランダから見た画像。そこに見えたのがこの建物です。

ロシア植民地時代にアメリカ人のサスプログが「徳泰号雑貨店」として開設したもの。
1916年、日本植民地当局によって「旅順高等学堂師範科」と改称した。
1918年から「旅順師範学堂」「旅順師範公学校」と改名。
1945年には「ソ連赤軍病院」になる。
中国返還後は旅順に駐屯する軍の病院だったが、現在は空き家。
早急に保存なり次に利用を決めないと、建物が古いだけにすぐにダメになります。
既に痛みは始まってました。

何でもかんでも保存しろっては言いませんけど、こんなに立派で綺麗な建物なのに、風化に任せるのはもったいないなあ…。
つい愚痴が口をついて出る私って小市民~

建物が大きいので一部だけ利用するのは無理だと思いますけど、旅順の街って現在廃墟だらけです…。歴史的に有名な奴もそうでないのも…。
おそらく去年の秋に『軍港旅順を外国人観光客へ解放』と急に方針変換がなされ、現在は街が変化する過渡期に当るんだと思います。中国では潰して新しくするとなれば、まず立ち止まらない。時が止まったような旅順もこの先変るのか?ならば今こそおすすめの訪問地です。
……もしかして廃墟ファンには特にお薦めの場所かもしれん…。や、廃墟ファンの萌えポイントも知らないんですけど。あちこちお化け屋敷なんで。

旧大和ホテルと向かい合う通りは「文化街」と言う。ここにこんな建物が。

「繍楼(女子の部屋)」旧跡。
ロシア植民地時代の「徳泰号雑貨店」の社員寮だった。張作霖の妹の入居で「繍楼」と名付けられた。以降、旅順市長の家だったことも。
1945年ソ連軍に引き継がれたが、1955年に人民解放軍の旅順駐屯医療隊の所在地となり、軍の招待所となった。
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その16)旧旅順工科大学

2010年08月31日 04時03分05秒 | 旅順・大連旅行記
そもそもは1900年に建てられたロシア植民地時代の兵舎。
日露戦争後、大陸開発のための技術者を養成するために明治42年に、旅順工科学堂として設立されました。その後は理工系の大学として旧満州時代に最も早く理工系の大学として、昇格、開校されました。
現在は病院です。










建物の向かいは現在も軍の施設があります。

バスはツアー客の希望で旧旅順第二中学の入口を経由して海岸沿いの道へ。
旅順第二中学は現在軍の施設です。バスを止めることは出来ないので車窓から。
「このあたりの建物はロシア植民地時代の民家です」

急いでバスの車窓から撮影したのですが、携帯電話のカメラってシャッター押して取れるまでタイムラグが長くて…。なんか、わかりにくい写真になっちゃったよ~。無念。

バスの車窓から海が見えた。街歩きで近づけなかっただけに、嬉しい。かつてこの海にはロシアの戦艦が50隻ほども浮かんでいたのだ。
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その17)2日目の昼食

2010年08月30日 04時13分01秒 | 旅順・大連旅行記
2日目の昼食は「晋元亭食府」にて。

レストランの名物は「刀削麺」、厨房はガラス張りで、料理人が腕をふるうところを見学出来る。
ちなみに、トップ画像の左奥で刀削麺を作ってます。

中華料理を作ってる所を見るのは楽しいですっ
ビールは青島ビール20元。ジュースは10元。でもお茶は食事に無料でついているので、お好みで注文。
旅順・大連のある遼東半島は、渤海を挟んで山東半島の向かいにあって、地理的に近いせいか、ビールと言えば「青島」。旅の全てのレストランで出るビールは青島でした。

メニューはあらかじめ旅行会社から配布されてましたが、どれがなんだかわからない…。ので、わかる範囲でいくつか紹介します。
豆腐料理

白の皮が黒い謎の練り物料理

きのこと豚肉の炒めもの

謎のスープ雑穀のスープです。

きゃべつとトマトのスープです。




12時45分、再びバスに乗り込んで、今度は白玉山の東側へ。こちらは開発が進んでて、高いマンションビルが林立する現代の中国の街です。西側の街並とは全然違います。途中、3つ目の塔がたってます。
ホテル前の勝利塔、旅順博物館前の友誼塔。この東の広場の塔は解放塔。合わせて三塔。
面白い話を聞いた。
ロシアは日露戦争で図らずも租借権利を失った遼東半島。(南下政策とか不凍港とか世界史で出て来ましたよね?ロシアの政策でして、遼東半島はターゲットでした)
だが1945年、日本の敗戦で旅順はソ連の租借地へ戻り、ソ連は旅順に軍を置き開発を再開。つまりソ連は大戦が終り、旅順が再び自分の国の一部となったと思いました。
しかしそれは中国にしたらとても迷惑な話。交渉上手の中国は角がたたないように巧くやりました。
『中国は日本から解放してくれてありがとう。お礼に塔を建ててソ連を讃えます。またソ連と中国は今後も仲良くしましょう。ついては、旅順を返して!』ってな感じで、ソ連としてはしぶしぶ…いや、嫌々中国に返還し引き上げたという経緯がある。
これって、なんかぴったりな四字熟語があったような…。

現代的な街並の旅順の東側にも、かつての植民地時代の建物は少し残ってます。

上の画像は「旧赤十字病院」。ロシア植民地当局が建てた官営総合病院。
1905年から日本植民地当局の赤十字病院。その後40年、改称はあったもののずっと病院。
1945年にはソ連赤軍の航空師団の指揮所。後に中国人民解放軍所属。
こちらはかつて日本統治時代の写真。同じ建物です。

さて、次なる場所は…。高等法院です。
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その18)旧高等裁判所

2010年08月29日 04時53分03秒 | 旅順・大連旅行記
明治42年ハルピン駅で暗殺された伊藤博文。犯人は安重根。
1910年に安重根の裁判が行われたのがここ「旧高等法院」です。
トップ画像の左手に史料陳列室があります。

陳列室を出ると通路。

上の画像の右手前にある2つのアーチは2階にある大法廷へ登る階段です。

階段は2つありまして、左側は被告用。右側は傍聴人用。
通路奥に小法廷があります。
小法廷の隣の部屋に馬車が。

この馬車は被告人が監獄から裁判を受ける時に移動する時に使用されました。馬車の隣にはこんなものも。

被告人にかぶされた目隠しです。
2階へ移動。

安重根はこちらで裁判を受けました。ちなみに審議は6回。
安重根は朝鮮の法律で裁判を受けることを望みましたが、日本の植民地での犯罪なので日本の法律で裁かれたそうです。
法廷の壁にはこんな史料も。

え~、どの部屋の画像かわからなくなりました。おそらく裁判官の部屋。

1階へ移動。
あったのはおぞましい拷問器具の数々。

ガイドさんが使い方とか軽く説明してくれましたが、人間ってどんだけ壊れたらこれを生きた人間に使用出来るんでしょうか?拷問を受けた後に息があると思えない…。
あ。
ここは裁判所なので、ここで拷問してたかどうかは疑問です。やるなら監獄だと思うのよね。
ちなみに、伊藤博文を暗殺した安重根は韓国では英雄です。だからこの旧高等法院は朝鮮民族にとってはいわゆる聖地なのです。
ついでに建物の変遷を書きますと、ロシア植民地時代には将校集合所でした。
1906年に関東都督府所轄の高等裁判所となり、地方裁判所の審判に異議のある訴訟について最終審議を行う。
1919年、関東都督府は関東庁に改称。1945年にソ連軍に引き継がれた。
1947年以後、関東公暑、旅順口人民病院に。
13時20分、バスに乗り込み移動。
着いたのは「旅順日露監獄」旧址。

残念ながら外観を道路から臨むのみ。ま、ツアーですから仕方ないですね。画像ではわかりにくいですが、ロシアが作った建物の背後には日本が作った広い監獄が広がっています。1907年に完成したこの監獄は、当時中国東北地域最大の監獄でした。ここでは中国共産党員たちが収監されていました。
安重根もこちらに収監、最後は絞首刑になり、敷地の一角に埋められました。
近年、韓国が英雄として安重根の骨の返還を求めているそうですが、埋めた場所が不明なので不可能なんだとか…。
そういえば、何かの史料で安重根は「銃殺」を望んだけど認められず、絞首刑となったそうです。
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その19)旅順観光のハイライト!

2010年08月28日 04時10分02秒 | 旅順・大連旅行記
今日は関西における一年で一番アニメ・漫画好きが集まるスーパーコミックシティ大阪です。客もサークルも気合いが違う。でも今年はとりわけ暑いので、参加される皆さんはお気をつけ下さい。
うちのサークルも参加します。
サークル名:竹里館(ちくりかん)出版局。(もしかしたら竹里館旅游社でスペース取ってるやもしれん)
スペース配置:インテックス大阪6号館Cゾーンほー20a
本日はスペースで梅原沙実(ぶめちゃん)が売り子をしてくれてます。
よろしくお願いしますっ

旅順の旅のハイライト、旅順口です。トップ画像右手の細長い半島は老虎尾。左手の山が黄金山。
旅順の港の入口は、画面奥の狭い口のみ。しかも大型船が通過出来るのはわずか91メートルの幅しかない。日露戦争当時、狭い湾の入口に目をつけた日本軍は。狭い入口にボロ船を沈め、湾内のロシア軍の太平洋艦隊を封じ込める「旅順口閉塞作戦」を試みました。計画は失敗したのですが、作戦に失敗して亡くなった「広瀬中佐」の名前を覚えている日本人は多いようです。…そういえば、NHKの「坂の上の雲」のドラマにも広瀬っていたような。主人公の秋山真之(本木雅弘)の親友でロシア留学してた人。
旅順の軍港を一望。下の画像は西へ望む。
ちなみに、どこから撮影してるかというと…。

リフトで上った白玉山の上から。画像の奥の山に建っているのは。

白玉山塔。

日露戦争後、日本陸軍の司令官だった乃木希典と日本海軍の司令官東郷平八郎の提案で建てられました。
1909年11月竣工。建立当時は「表忠塔」と呼ばれてました。
現在の名前に変ったのは1985年。

かつては表忠塔と共に白玉神社がありました。旅順の戦争で戦死した22703人の慰霊と遺骨を納めていたそうです。
白玉山塔のみやげもの屋さんにいらっしゃる韓行怒さん。

御年85才。彼はかつて旅順の小学校で日本語を学んだとかで、流暢な日本語でかつての旅順の姿を話してくれました。

韓おじいさんは今年の2月、朝日新聞の記事にもなったとかで、切り抜きを嬉しそうに見せてくれました。
記念に『日露戦争』の本を購入。お値段280元(4200円)。

た…高いっ!つーか、5000円分しか両替してなかったので、ガイドの楊さんに5000円分を両替してもらいました。
合わせて、旅順の地図(5元)と、旅順市街及び戦績案内図(20元)も購入。戦績案内図は、日露戦争の時の攻撃軍の配置図のコピーです。はっきり言ってボリまくりっ!でも買ってしまう歴史好きな己が憎いっ。

白玉山から203高地が見えるので写真に撮りました。
が、よ~く見ると、宿泊してるホテルも写っています。
これ、『旅順口大観』という本の中に、同じ角度で写したかつての日本統治時代の写真が載っていました。

比べると、変遷が見てとれます。
龍河の向こうにあるなだらかな坂。画像中央から右手にかけてあるのは、日本人の住宅街だったとか…。
これ、後日街歩きしました。なんと!現在も日本人の住宅街は現存してるんですよ。それも以外な形で。

観光後、再びリフトに乗って下山します。
眼下に広がるのは、旅順の東側の開発の盛んな地区です。

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その20)旅順駅再び

2010年08月27日 04時53分54秒 | 旅順・大連旅行記
朝、街歩きで来た「旅順駅」に到着。(8月13日の記事参照旅順駅は築百年超え)
朝とお日様の位置が違ってて、駅がより綺麗に見えます

朝入れなかった待合室
想像と違い、建てて100年超えのレトロな雰囲気はありません。

せいぜい、田舎の駅といった趣き。



あれ??
ホームへ出られない。鍵がかかってます。な、なんで??駅の営業時間なのに??

ホ~ム~~
がっくり肩をかかとまで落してると、おや?
時刻表発見!!

驚くことに、旅順駅には上り下り合わせて4便しか止まりません。
しかも!!旅順駅は終点なので、やって来た車輌がそのまま始発になるので、実質1日2回しか到着がない訳で…、
………。
日本なら、間違いなく無人駅ですね。ホームへ出られないのも納得。
あ、乗車運賃表発見。

中国の物価の値上がりははなはだしいですが、公共運賃はあんまり値上がりしてません。バス代とか路面電車の乗車運賃は安い。運賃表を見るに、列車運賃も安いですね。大連ー旅順は片道4.5元(約67円)ですって!!マジか~。

朝、外観の写真をたくさん撮ったので、もうあんまり写さない。ツアーの人達も早々にバスに戻りました。どうやら、鉄道ファンは今回の客の中にはいないようです。

ツアー客達は思いがけない旅順の暑さにバテ気味なのですが、合わせて少しづつ添乗員に対し不満が溜まりつつありました。
なんつーか…。
この添乗員、会社に決められてる観光地を漏れなく短時間で回ることにだけ関心があるようなのです。
どの観光ポイントも滞在時間が短いんです。旅はゆったり組まれてるのにです。
旅のメンバーは21人(添乗員とガイドを除く)。8割は70才以上。80才オーバーも数名。なのに、歩くスピードが40才台の男性。つまり添乗員のペースって着いてくのだけで大変。
実例を挙げると、白玉山塔でも旅のメンバーが「塔に上りたい」と言っても「時間がかかりますから」で無視。
または、後に訪問した大連でのこと。別の旅のメンバーが「魯迅路に行きたいんだけど…」と言ってるのに無視。
更に40代男性の添乗員のペースで歩いて、信号も横断歩道もない道を渡りそびれている旅のメンバーが数人いるのに安全確認は全くせずを繰り返す。道を渡った先で遅れた人を待たずに先へ行くという…。幸い事故が起きなくて良かったですけど。
添乗員の経験だけはベテランという人でした。
旅は旅のメンバーと添乗員の力量に左右される割合がだいぶありますが、今回の添乗員は満足度が30点の赤点だ。などと暢気に評価していた私ですが…。
この後、今度は自分に添乗員へ怒り爆発な事態が待っているとは、この時点では知るよしもない私でした。
ちくそ~~~っ!!


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その21)地図のない街 旅順

2010年08月26日 04時47分17秒 | 旅順・大連旅行記
旅の楽しみ「街歩き」。ですが、何度も書いてますが、今尚軍港の街である旅順は去年の秋まで外国人の立ち入りを許さない街でした。
つまり…。街歩きに不可欠な地図がないのですよ。
試しにYAHOO!の地図で旅順の検索をしてみて下さい。すると、あ~ら不思議。ぽっかりと情報が抜けてます。
私が旅する時に利用するのは図書館。そこで「旅の指さし中国語」とか「地球の歩き方」を借りて旅先で使用します。
でも2009年度版の「地球の歩き方」に乗っていた旅順情報は、203高地と水師営のみ。(もしかしたら2010年度版には旅順の街の地図が載ってるのかもしれませんが、未確認)
そこで!
唯一の地図と言っても過言でない旅行会社が作成した地図を片手に街歩き開始。
でも…。この地図は旅行会社の人がツアーを企画した時に、下見しつつ作成したものであり、不完全かつ間違いの多いものだというのが、街歩きをしててだんだんわかって来たのです~。
唯一と言っていい地図が間違いってどういう弊害があるのか?まあ、記事を見て下さい。
滞在時間は限られています。ならば、ツアーで回る場所(緑の線)以外。そしてホテルから近い場所。ということで、目的地を「旧関東庁」(ピングの線)に設置して出発です。
時刻は…。あれメモに書いてない?あ!そうだっ!集合時間を忘れちゃいけないと思って手の甲にボールペンで書いてあったから…。資料がない…。確か集合時間は17時に5階会議室だったような~…。
携帯電話のデーターを見るに、え~と、ー1時間差し引いて、15時30分頃出発です!
せっかくなので、朝の街歩きで見つけたちょっと昔の中国の民家が残っている場所をトイレ優先で行かなかったダンナに見せてあげようと周り道。

これ!8月14日の記事
「旅順の懐かしい民家」の記事
の中に登場した建物です。やっぱり、この風情ある古い洋館はぜひとも見せてあげたいもの~

あ!またも謎の建物発見!

近代史上大して関係ない。そして現在は使われていない。由来もわからない謎の建物です。かつての中国の民家の気配漂う民家街の隣にありました。

う~む…。あなどれん場所だ~奥が深いぜ旅順!
さて、旧関東庁はどこだ??地図からいくと結構近い場所にいるハズなんだけど…。
迷子になりがちな理由の一つに、中国の昔風の民家が立ち並ぶ一角の道が複雑だから。道が十字路じゃないんですよ。あちこちで6字路があり、しかも細い道は旅行会社の配ってくれた地図には書かれていない。
仕方ない。住民に尋ねてみるか…。
「旅の指さし中国語」の本はホテルに置いて来ちゃったけど、地図見せればなんとかなるハズ…。

「すみませ~ん。ここはどこにありますか?」
6時路で井戸端会議をしていた奥様達に尋ねましたが、どうも彼女らのリアクションがおかしい??あれ??
近いはずなんだよ。100メートル以内にあるハズなんだよ。
でも奥様達の中国語が長いんです。何を言ってるかさっぱりわからない??うう??困った~~。どうすれば~~!!
もしや?とあちこちの通りを指さして見ても反応は今一つ…。なぜだ~~??
困り果ててると、おばさんが娘を呼び、若い女の子がやって来た。彼女は私の見せる地図を一瞥して言った。
「Can you speak English?」
おおおおおっ!!
「YES!」
『案内するからついて来て』(英語)
「はいっ!!」
助かった~。でも私、英語の成績もちょっと…。
女の子はどんどん通りを進んで行きます。やがて見えて来たのは午前中やってきた旅順博物館8月15日の記事
あれ??そんなに遠いはずは…。
ここでトップ画像の地図を再確認して下さい。
地図に書いてある目的地の「旧関東庁」は旅順博物館の北にあるハズです。もしかして、説明間違えた?と。慌てて女の子に目的地を再確認。つたない英語でやり取り。
すると、どうもですね…。
地図の方が間違ってるようなのですよ。
あり得ない~~っ!!地図がこれしかないのにっ!!
で、ポンと頭に浮かんだのが昨日の午後に街歩きをした時にあった謎の建物
(8月11日の記事『謎の建物』)
。あれがもしや…??
そこで案内してくれた女の子に礼を言ってお別れ。疑惑は明日の朝に謎の建物を確認することにして、街歩きを再開。
ちっ、時間を大分ムダにしちゃったぜ。自由に街歩き出来る時間は限られてるのに…。今さらどこへ向えと?
考えて、もっぺん昔の民家街へ引き返すことに…。
目的地『どうせなら細い路地を歩きたい』(明日の記事へ続く)

さて、今月、私は延々「旅順・大連」の旅ブログを書いてました。昨日ようやく帰国の記事にたどり着きましてね。なんと!9月15日まで旅ブログが続きます。
マジか~…。と、皆様のぐったり呆れる嘆きが届きそうです。私も呆れました。自分に。いえ、たった3泊4日の旅に見所満載だったことに。旅ブログの連載が終る頃には涼しくなってるといいなあ。
んでもって今週noGOOD.C.CITY東京併せで今から「旅順」旅写真集の制作に取りかからねば。間に合うんか~。とってもヤバい気配。が、がんばろ。
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その22)こんなコメントは許されないっ

2010年08月25日 04時09分51秒 | 旅順・大連旅行記
再開した旅順街歩き。NHKの「ふれあい街歩き」のようです・て・き以下の画像は「ふれあい街歩き」の
テーマ曲を思い浮かべてご覧下さい。ぴったりゆったり気分が増幅されます。

















楽しい街歩きもそろそろ終了。集合時間17時が迫っています。ホテルに戻り会議室に行きますと、既に8割りがた集まってます。でもまだ時間があったので、添乗員に地図が間違っていることを訴えてみた。
私「この地図、間違ってますよね!?旧関東庁、なかったですよ」と言ったなら、添乗員はあっさり認めやがった!
添乗員「そうなんですよ。コレ間違ってるんですよね~。あはは~(笑い)」
はあっ!?するってーと何かい?旅行会社は地図が間違ってるのを知ってて地図を配ってるんかいっ?
これは確かめねばなるまい…。
私「もしかして知ってらしたんですか?」
添乗員「ええ。この文化街が市場って書いてあるのも間違いで、これ北側なんですよ。でも気づいたお客さんいなかったんで」
私「それって、気づいてて言わないだけですよっ!だって、旧関東庁ってホテルから一番近くにあってツアーの中に入ってないんですから、今までも行ったお客さんがいたと思いますっ!」
と、私が怒りを混めて言いますと、ヤバイと思ったのか添乗員は
添乗員「でもこの地図作ったのうちの●●なんですよ~」と。さも自分に責任はないと言い返しやがった!しかも笑い付き!!
そのコメントは許されるのか?
一応私の良心で伏せましたが、上の添乗員のコメントに出た●●というのは旅行会社の社長の名前です。
つまり、添乗員は社長が間違ったんだよと言いたかったようです。
それって旅行会社の社員がツアー客に返すコメントとして最悪ではないですかねえ。良識を疑っちゃうわっ!
言っときますけど、今回の参加しているツアーは4月に発表されたツアーで、本来5月までのツアー実施期間を好評につき6・7月も旅行代金を少しだけ値上げして追加設定したものです。つまり、途中で旅行パンフレットも新しく作り直してあるし、既に何度も催行の実績があるものです。だからこそ、地図の間違いを旅行会社は把握していたのです。でも、肝心の地図は初回のまま。
それが社長が作成したものだからとかいうふざけた理由だったら許さんっ!
つーか、そうとしかとれない添乗員のコメントだっ!!
これが、自分で探して用意出来る街だったら、私もこんなにキレませんよっ!
何度も言ってますけど、旅順は軍港で市内の詳細地図がない場所なんですよ。
白玉山で購入した旅順の市街地図も、載ってるのは旅順の大まかな道路とおおまかなバス路線図のみ。しかも地図の情報が古い…。なんで古いってわかったかと言うと、宿泊ホテルが載ってないから。確か、このホテルって2006年だか2008年だかに出来た奴だったハズ。おそらく2008年の北京オリンピックの開催を記念して作られたと思われる「児童公園」も載ってないし、既にない動物園とか既に営業してない裏の「碧海大廈」ホテルが載ってるし…。
あと、フォローじゃないけど…。
社長さんが「旧関東庁」の場所を間違えた原因を私は推察出来ます。
『最新旅順・大連探訪ー百年の歴史を刻んだセピアの世界』(1999年5月)という本が(旅順探訪)刊行会という所から発行されてるのですが、そこに掲載されている「旧旅順市街地図」に掲載されている「旧関東庁」の場所が社長が作った地図と同じように間違っているのですよ。
つまり、参考にした本の地図が間違ってたから、同じ間違いを犯してしまったようですね。
おそらく、真実はこの辺にあるんじゃないかな~?
発行されている本って結構間違いあるんですよ。知ってました?間違い見つけたの、今度が始めてじゃないもんね~。
前出の『最新旅順・大連探訪~』の発行された当時はまだまだ旅順の自由観光が出来なかった時代なので、さもあらん…。でもこの本、表紙裏(いわゆる表紙2・表紙3)に掲載されている旧制中学校の先生が作成した絵地図には正しい場所に旧関東庁の絵が載ってるので、これも単なる確認ミスだと思います。
ドント、クライ自分っ!
あんまり腹立ったので、旅行後のアンケートに一連の顛末を書き記して送った所、旅行会社の偉い人から誤りの電話がかかって来ました。
予想通り、私以外にもダメ出しコメントが数通届いていたらしい。
でも謝るにしても「ベテラン添乗員なのですが…」って、謝罪コメントとしてどうなの?それって結局謝ってないよね。
この場合「間違ってると分かってる地図を渡してごめんなさい」と一言述べるのが良識ある謝罪として必須だと思うのは私だけか??
むっかりしたので「御社のツアーで添乗員に腹立てたのって2度目なんですよ。2度続いたら3度目の正直があるかどうか疑問ですよね。御社の旅行代金が他社より高くても利用してるのは、旅の質を評価してのことでしたが…。今後は…」って、嫌みたっぷりに返答しちゃいましたよ。ええ。


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その23)大谷コレクション

2010年08月24日 05時08分44秒 | 旅順・大連旅行記
17時にホテル5階の会議室に添乗員がツアー客を集めたのは「大谷コレクション」について講義開催の為。
ちなみに自由参加でした。でも大谷コレクションの話は興味ある。この添乗員の歴史オタク疑惑もあったし…。歴史好きならこだわりの話も聞けるやもしれん…。と、少し期待して参加しました。
大谷コレクションは前出の記事で少々説明しましたが、ざっくり書くと、京都の浄土真宗本願寺派の宗主大谷光瑞が中心となって仏教が伝来した道筋を探す旅で発見した数々の発見・発掘物のこと。
それが現在「幻のコレクション」と異名を持つのは、コレクションが国をまたいで散逸したから。
散逸した理由はズバリ大谷家の資金難。…財政難でコレクションをお金に代えた結果、現在日本中国韓国とあちこちに散らばったのです。
でも、大谷光瑞の生きた時代と近代史を照らし合わせるとなんか、凄いです。
説明行きます。興味なかったら、後ろの方へスクロースして下さい。夕飯ネタが載ってます。
『大谷光瑞(こうずい)は1876年(明治9)に第21世法主大谷光尊の長男として誕生。貞明皇后の姉、九条筹子(かずこ)と結婚。
1902年(明治35)、教団活動の一環として西域探検としてインドに渡り、仏蹟の発掘調査に当った。
探検の目的は大乗仏教の伝播の道筋を調べる為。
1903年1月、ビハール州ラージギル郊外で長らく謎の地の山であった釈迦ゆかりの霊鷲山を発見。
またマガタ国(お釈迦様の国)の首都を特定。
同年1月、父光尊死去し、法主を継ぐ為帰国。探検・調査は1904年まで続けられた。これがいわゆる大谷探検隊(第一次)である。ちなみに1904年は日露戦争攻防の年。
探検隊は途中で西域南道と雲南ルートの二手に分かれた。雲南で建築家の伊東忠太と出合った縁で、築地本願寺は彼が設計した。
法主継職後も探検を続行し、第二次探検隊は1908-1909年。(光瑞は不参加)
橘瑞超はロプノールへ。アスターナでミイラを発見(旅順博物館に展示してあるもの)。
第3次探検隊は1910-1914年(光瑞不参加)
橘瑞超はトルファン、ローラン、敦煌へ。
1914年まで計3回発掘調査は実施された。ただし、大谷光瑞の参加した探検は第1次のみ。
彼は教団の近代化に努め、日露戦争には多数の従軍布教使を派遣。海外伝動も積極的に進めた。
(かつて旅順には本願寺派のお寺がありました。場所は白玉山の南側。黄河路、旅順駅の東側あたり)
1913年には1911年に辛亥革命で中国の近代の幕開けを興した孫文と会見。これを機に孫文が率いていた中華民国政府の最高顧問に就任。
1908年、神戸六甲山麓岡本(東灘区)に、二楽荘を建て、探検蒐集品の公開展示・整理の他、学校(現在の甲南大学理学部)、園芸試験場、測候所、印刷所などを設置。
1914年、大谷家が抱えていた巨額の負債、教団の疑獄事件で法主を辞任。大連に隠退した。二楽荘と探検蒐集品もこの時手放している。(二楽荘は1932年に焼失)
隠退後も文化活動を続け、1919年には仏典原典(梵字で記述)の翻訳にあたり、1921年には上海に次代を担う人材育成の書院を開校した。
太平洋戦争中は近衛文麿内閣で参議、小磯国昭・米内光政内閣で顧問をつとめた。
終戦の年、1945年ガンに倒れ、入院中にソ連軍に抑留。1947年帰国。翌年12月、別府にて死去。72才』
波瀾万丈ですね…。
ところで、西域探検と言えば有名人いますよね。
フランスのペリエ(彼は中国語がペラペラだったので、いいものを持ち帰れた。現在はパリのギメ美術館にある)イギリスのヘディン。ロシアの…え~と誰だっけ?ブルジェンスキー?違ったか??量的に一番多く持ち帰ったのはスタインだったそうで。
20世紀初頭といえば列強が探検隊をこぞって送っていたのです。イギリスはインドが植民地だから南から。ロシアは南下政策をとってたから北から。真ん中に挟まれた中央アジアは一種緩衝地帯でありました。そこへ出かけていった大谷光瑞ですが、めぼしい発掘は既に持ち去られた後でもあります。有名なのは大英博物館に納まってますね。
さて、ここに激動の20世紀初頭の政治と戦争を併記すると、すんごいことになります。
この辺で、大谷コレクションの講義は45分で終了。
ほどなく18時。夕食へ。
バスに乗り込みほどなく、到着したのは新紀元大酒店。旅順の軍港に面した3つ星ホテルの中のレストランです。
料理の味付けは農家料理がベース。海の側なので、海鮮を豊富に使ったメニューです。

こちらでも青島ビール20元。ジュース10元。
でも…。味はともかく、どうも席の選択をミスりました。冷房の風が首筋に直撃する~~。
ヤバい~~。ぞくぞくしてきたよ~。
ええ…。おそらくこれが敗因ですね。案の定、翌朝には体調に異変が生じていました~…。
やっちまったぜ…。
20時30分、夕食を終えレストランを出ると、夕焼け空が。7月6日。一年で一番昼間が長い季節の夜は遅いです。
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その24)謎の建物の正体

2010年08月23日 04時46分19秒 | 旅順・大連旅行記
ホテルに戻り、まずは何はともあれ携帯電話の充電開始。んでもって昨日の午後に見た謎の建物が、本当に「旧関東庁」かどうか確認しなくては。
ということで、白玉山の売店で韓おじいさんから購入した『旅順日露戦争(280元)』で関東庁を探しました。
それがトップ画像です。
この建物が建てられたのは1900年。ロシアが建てた政府所属の「市営旅館」です。その後。日本植民地時代には最高統治機関である「関東都督府」となった。後に「関東庁」と名前を変え、更に「関東州庁」となる。
(関東庁時代の写真)
1936年に「旅順師範学校」になり、敗戦により日本が撤退した後は1945年から55年までソ連赤軍の「将軍の家」だった。
1955年4月15日、中ソ両国の海軍代表がここで『遼東半島協議地域海軍防衛引き継ぎ証書』を調印。
その後、中国人民解放軍に所属。
さて、本と携帯の画像を確認…。あっ!!充電中だった~~。
…充電が終るのを待ち切れずに寝てしまいました…。

翌朝、つーか早朝。旅の3日目(7月7日)
根性で起床。ワールドカップが見たい~。7月7日はウルグアイVSオランダ。どうせならライブで見たい~。という休息が大事な旅先で無茶しつつ見たいものは見たいんです…。CNNが入るんだなっ。でも解説は中国語なんですが。
とかなんとかやってると、空が段々明るくなって来た。いつの間にか街灯も消え、海軍施設の中にあった灯台も消え。
今日も快晴。暑くなりそうです。
オランダがウルグアイに3-2で勝ちました!つーか、もしかしてオランダ強かったんか~。日本はオランダ戦で守りに入って点取れなかったけど、日本がびびったんじゃなくてオランダが強かったんか~?もしかせんでもこれでオランダ決勝行きか~?眠いハズなのですが、気分は高揚してます。そんでもってダンナの支度を待ってまだ早朝5時30分「謎の建物」検証に出発!

まずは上の地図1へ。正面は鍵がかかって入れないので、もっと近くから建物が見える場所を探して…。
裏手に回る。
でもこれ以上近づけない。
サイドはどうだ?よくわからない。でも入口がない。中央の入口っぽいの、入口じゃなくて稚拙な塗り壁だし…。
建物に沿って、更にサイドを進む。

わかります~?画像が暗くて申し訳ないっ。入れそうな有望な入口は、泥で塗り固められていました。

横へ移動。次の建物も窓は何枚も割れてます。でも肝心の入口が見つからない~。
建物に近い辺りに沿って移動。あれ?なんか…。廃墟みたいな?体育館跡みたいな??そこに石材が一杯。あ!入口!!でも入れない~。
とかなんとかやってるうちに、昨日の夕方見た謎の建物の正面に到着。

どうだ!見比べる。
やはりっ!謎の建物の正体は、旧関東庁でした!!
あ~~~、スッキリ!!
やはりっ!!
旅行会社の配ってる地図は間違ってると確認出来ました。
明らかに旅行会社の地図が間違いだと確信が持てたので、事実を踏まえてアンケートを書きました。ええ。昨日の添乗員の対応も再現しつつ!心置きなく!!ふぁははははは~!!



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その25)ラッキー入れた~

2010年08月22日 04時33分13秒 | 旅順・大連旅行記
謎の建物が正真正銘(ちとクドい?)旧関東庁だとわかったので、次はまだ歩いてない旅順市街の西側へ。
あ!
開いてる…。
トップ画像はかつて児玉グラウンドと呼ばれた旧旅順運動場です。(地図の2)の場所。

現在の呼び名は不明。つーか、ここも入れないハズだったんだよね~。でも誰かが入口の鍵を締め忘れたのか、それとも昨秋以降入れるようになったのか??ともかくラッキーにも入れました

ちなみに、児玉グラウンドの児玉は、日露戦争で203高地攻略で最終盤に活躍した総参謀長児玉源太郎から取って名付けられたようで。
海へも出れそうな…。でも、見つかるとマズいか…。海までほんの100メートル程ですが撤収~。
あれ?道の向かい側の植物園(地図の3)の鍵も開いてる…。

時刻はよやく6時になろうとしてます。早朝にもかかわらず、既に散歩する市民の姿が…。あ、私もか。
何々?『鰐魚園』?って…。植物園だろ?鰐も魚もいないじゃん~。
ちょっと前に北京を旅した時に、「公園は最近入場無料になりました」とか聞きましたが、この植物園も入口に料金所はあるけど、自由に入れちゃいましたかつて日本統治時代には後楽園と呼ばれていたようです。昔っから公園だったようです。
なんか見つけた…。

これって砲台跡だよね?どこの国のものだったんだろう?清?ロシア??日本~?海に向かって設置してあります。
植物園を直進して突き抜けると、道向こうは旅順博物館本館(地図の6)。

更に西進。
またロシアっぽい建物が登場~。(地図の4)

これ、何だったんだろうなあ…。これしか撮影した画像がないんで、資料をひっくり返しつつ考えた。
たぶん付近がスターリン路だったから、かつての旅順中学校かな?
旅順中学は1901年に建てられ、ドイツ人商人が経営した高級商店でした。2002年発行に『旅順大観』には中国人民解放軍所属と書かれてます。現在も軍の所属かはわからん…。つーか、正解かどうかもわからん…。

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その26)明治の香りする旅順街歩き

2010年08月21日 04時45分47秒 | 旅順・大連旅行記
更に西進すると、あれ?大和ホテルが見えて来た。ホテルから徒歩圏だったか~…。
私は途中道草しつつ来たけれど、ホテルから直接大和ホテルへ歩いたなら、20分程度で着くと思う。うん、1キロもないな。
旅行会社がくれた地図には、縮尺が入ってない。てっきりもっと遠いと思っていたのよね~。
さて、大和ホテルの前の文化街を北へ。

レトロな建物にポスターがあった。これ…。もしかして中国製のテレビゲーム?ぜひとも動いている所を見たかったけど、朝6時じゃね…。開いてません。
レーニン広場に到着。トップ画像の旅順市内地図の5)です。

中央にロータリーがある6叉路になってます。
あ!売店発見!飲み物確保です。
「おじさ~ん。これ下さい~」
カバンから取り出したのは、昨日朝、旅順駅の側で購入した飲み物4本のうち、とってもおいしかったスポーツ飲料の包装カバーです。スポーツ飲料なのに、パイナップルフレバーで美味しかったんだよ~。日本のポカリスエットとかアクエリアスも味を改良してくれるといいのに…。
「あ。『ワハハ』発見。これは間違いなく水。砂糖入ってない~」
と合わせて3本購入です。
「おじさん、いくらですか?」
む!!
何ソレ??
おじさんは指を変な形にして見せます。
「???」
さっぱりわからなかったのですが、後にバスでガイドの楊さんが「指数字」なるものを教えてくれました。
「これ、覚えておくと便利ですよ。中国人はみんな知ってます」という彼女の言葉は正しくて、おじさんがやっていたのは「7」を示す形でした。つまり、3本で7元ってことですね。
旅行会社からは毎日一人1本の水を配ってくれますが、熱波到来中の7月7日現在、飲み物はいくらあっても足りない~。脱水して大変な思いをした経験のある私は、こまめな水分補給の大事さを知ってます。
さて地図には意味深な建物がレーニン広場に面して建ってます。でもこれが何だかわからない…。とりあえず写真さえ抑えておいて、後で調べよう~。
地図と照らし合わせると、件の建物はコレ!

現在は病院です。南へ伸びる道の先に、もうひとつ意味ありげな建物がありそうなので…。
あれ?もしかして、この道は入れない?
中国人民解放軍の軍服を着た人がほうきで掃き清めています。
何々?「中国人民解放軍二一五臨床部」だって。道はあるのにな~。ちえっ!
そぞろ歩いていると、旅順博物館が見えて来ました。

上の画像は旅順博物館の別館です。昨日訪れた場所。でも昨日は気づかなかったのですが、建物からでっかい木が突き出ています。…イチョウ?ここへは入れなかったんだよねえ。
旅順博物館本館はもちろんまだ開いてません。でも既に観光客の姿が。そのまま博物館の敷地を突っ切って見えて来たのは。

旅順における中国人の一番人気の「蛇博物館」です。2001年に出来た蛇類専門の博物館。蛇類だけで2万匹もいるそうです。入館料は38元。歴史ある建造物の隣になぜにこれがあるのか?コメント出来ません。
ホテルに戻り、そのまま朝食へ。

猛暑の時ってスイカが旨いよな~。後ねえ、かつては脱脂粉乳のようでマズかった牛乳が普通に牛乳の味するようになりました。でも牛乳の前に砂糖が置いてあったのが中国らしいと思います。
おススメは画像左上の出来立て豆腐。中国の豆腐は豆の味が濃くて美味しい。
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その27)旧日本人街は今

2010年08月20日 04時12分37秒 | 旅順・大連旅行記
7月7日旅の3日目のスケジュールは「8時45分ロビー集合、希望者にかつての日本人住宅街へご案内」
もちろん参加します。その前に…。
「10時スーツケースをドアの外へ。
10時30分ロビー集合・出発」
なので、先にスーツケースをドアの外へ出しておかねば。これを先にしとけば、自由散策時間に余裕が出来るものね~。
朝食後、部屋に戻って荷造り。荷物が少ないのでスムーズに終了。集合時間までダンナから双眼鏡を借りて軍港を眺めることに。
いや~~。昨日、白玉山に上った時、旅の仲間が口々に「潜水艦を見た」とか「出航して行った」とか言ってたんですよ。
…私はそんなの見てないっ。
嘘だっ!とダンナに確認したら、
夫「昨日は海岸にパラソル立てて泳いでたよ」
私「何それ?どうゆうこと??」
夫「潜水艦が停泊してる埠頭って老虎尾の方でね。その側で隊員が泳いでた」
私「何それ~~っ!!」
双眼鏡を覗きましたらば、「潜水艦が1個2個…。え~と?6個?」
夫「よく見ろよ。もっと多いだろう」
そうなの?再び数え直す。「ああっ!小さいのが奥にある。全部で8個!」大きな1隻は、水を吹いてます。出航が近いのでしょうか?残念ながら、集合時間が迫り、確認出来ないまま観察終了。
さてまずはガイドの楊さんの後について白山街を北へ。この道が前出の神社の神宮緑道です。
トップ画像の地図に「旧大正公園」と書き込んでますが、ここがかつての関東神社です。ちなみに、現在公園はありません。近代的なマンションがいく棟か建っています。
楊さんは白山街を右折。そこはもうかつての日本人住宅街です。

上の白黒写真でピンクで囲った辺りになります。
旅順は1905年の日露戦争終了から1945年の第二次世界大戦終了までの40年間、日本の植民地でした。だから日本人も多く暮らしていたのです。このあたりから現在「八一街」と地図にかかれている所が、かつて日本人が高崎町と呼んだ場所です。トップ画像の地図に街歩きのコースを水色で書き込みました。
緩やかな坂道を登るガイドの楊さんの足が1軒の古い民家の前で止まりました。(地図の2)

楊「この民家はかつて日本人が暮らしていた家です。私はここで感動的な体験をしました。
年配のお客さんを案内して来たら、お客さんが涙を流し始めました。『どうしたのですか?』と尋ねましたら、『私はかつてこの家に住んでいました。まさか残っているとは…』そうです。老人が若い頃暮らした家だったのです」
う~~む??
1945年と言えば65年前。旅順から引き上げた人がまだ生きてる可能性があるのでした。旅順が中国の軍港として外国人の立ち入りを禁じていたので、訪れたくても訪れらない場所でして、オープンになって始めて、この地に様々な思い出を持つ日本人が半世紀を超えて今再訪しているのでしょうね。
添乗員さん「私どもが発表したツアーですが、中には『この学校に通っていた』とか『あの病院で私は生まれた』とおっしゃるお客様を案内しました」
うううう~~~むぅ。
さて、また少し坂道を上った先で右折。現在寧波街と呼ばれている路。かつての日本人街ではありますが、現在右手はホテルが建ってます。左手は…。
楊「2つの建物を見て下さい。左のグレーの建物はコンチラチェンコの普段暮らした家。右の赤い建物はコントラチェンコの来客やパーティー用の家」
ん?コントラチェンコ??どっかで聞いた~??
私「楊さん、コントラチェンコって誰?」
楊「ロシアの将軍でした」
ああっ!思い出した~。
あれだっ!司馬遼太郎の『坂の上の雲』で登場した有能な人!
(地図の3)

(地図の4)
日露戦争の司令官だった乃木希典の軍人としての評価は今でも意見が別れていますが、ロシア側の司令官の評価も賛否が別れています。彼の日露戦争後の行く末を見るに、本国の評価は悪かったみたいですね。でも彼が讃えられることの一つに「日露戦争を戦うのにコントラチェンコを右腕に選んだこと」というのがあります。コントラチェンコの軍人としての評価は高いのです。
コントラチェンコの写真
日露戦争の勝敗も、もし彼が生きていたら勝者は変っていたのかも。と言われる程に。
コントラチェンコは東鶏冠山で指揮をとっていましたが、日本軍の砲撃で1904年12月に戦死しました。頑丈な堡塁も同じ場所に2回続けて砲撃する作戦の前に持ちこたえられなかったのです。
ステッセルの希望に答え、乃木希典は戦後コントラチェンコの戦死した場所に慰霊碑を建てました。
かつてのコントラチェンコの邸宅ですが、その後1905年から1931年にかけて、日本関東軍司令の官邸になりました。
1935年「満州国」皇帝溥儀が二回目に旅順に来た時、ここに宿泊しました。
1945年、ソ連赤軍将校の家へ。1955年人民解放軍将校の家に。
「現在はどちらの建物も数家族が暮らしてます」と楊さんが言ってました。
ぐるりと建物の敷地沿いの壁にそって八一街へ。
そこにもかつての日本人の家がいくつも残ってます。しかもだいぶ裕福な人が住んでたみたい。65年以上前に建てられた家にしては立派です。
いくつか紹介。
 

 


でも、何で半世紀以上前の建物がいくつも残ってるの?ある程度頑丈で当時の最先端の建物だったとしても、変だろう??
問いかけると楊さんは「日本人が本土へ引き上げたあと、中国軍は空き家になった建物を中国人に配りました。現在住んでいるのは配られた人の子孫です。建物の所有権は軍にあります。住み続けるにはしばりがあって、壊して新築してはダメ!修理と少しの改築はOK!」なんだって。う~~む。ただで家がもらえてラッキーなのか?今でも暖炉が必要な家に住まねばならなくて不幸なのか??
窓が割れてる家はありませんが、固く戸締まりしていて人が出入りしてそうにない家もままあるようです。
でもなんか少し昔の時代のドラマとかに出て来そうな建物だらけで散策はとっても楽しい。
さて、旅行会社の街歩きは40分弱で終了。ガイドの楊さんは児童公園を突っ切ってホテルに戻ります。
既にスーツケースを部屋の外に出してある私は時間に余裕があるので、旧日本人街の高崎町を散策へ。再び坂道を戻ることに。
八一街
八一街の裏手の細道。そこにも古い民家があります。

坂道を更に上がってると、あれ?コントラチェンコの邸宅裏庭へ入れそうな細道がある~??
細道を恐る恐る行きますと、こっそり作られた畑発見!細道は畑を作っている人の通い路だったようです。
ラッキ~。
かつて壮麗な庭だったかもしれませんが、現在はめぼしい建造物もない。せいぜい古い階段がいくつか残っているのみ。雑草が伸び放題です。
これはちょっと失敗だったかな~?
そろそろ引き返そうか?と迷います。
取りあえずコントラチェンコの邸宅を裏側から見る。



どうせなら、整備すればいいのに。雑草だらけの区画の周囲は石造りの壁が。(画像をとり忘れました)
散策再開。トップ画像の黄緑色の地区(地図1)は民生街。既にいくつか記事にした懐かしい中国の民家が立ち並ぶ場所です。

旧日本人街(高崎町)の路地歩き。最後に白山街に戻る時に発見した坂道が面白かった~。
ホテルに戻って用意出来たらチェックアウト。
10時30分、ロビー集合&出発。


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その28)大谷光瑞住居跡

2010年08月19日 04時40分45秒 | 旅順・大連旅行記
街歩きを終えてホテルに戻ると、何じゃこりゃ~。白山街は小型バスで大渋滞です???
楊さんに尋ねますと、「試験が終った学生達が『蛇類博物館』に遊びに来てるんですよ」
へ…へえ~
中国人の好みっつーか、萌えツボがわからん…。
大谷光瑞は既出の記事「旅順博物館」8月15日と、「大谷コレクション」8月26日で詳しく紹介しましたが、旅順には彼が住んでいた家が現存してるのです。

で、訪問したのですが、これって現存してるって言っていいのか?上の画像のブルーシートに覆われている家が大谷光瑞の家。
ガイドの楊さんは「先日来た時は工事してなかったんですけど~。残念ですねー」って、コレ、残念の範囲超えてるだろう~…。
幸い取り壊しじゃなくて改装のようですが、

二階の床も外されて、階段も途中で途切れてる。
暖炉とか台所の竃の煤痕とか壁に残ってます…。え~と??これってもしや、弥生とか奈良時代の遺跡を発掘した時見つかるのと同じ…。イヤイヤイヤイヤ! ぜひとも黒こげ跡が残る壁をお見せしたい所ですが、画像を撮り忘れました。工事中にお邪魔した外国人の一団に目を白黒させる工事関係者をよそに建物をあちこち。カバーのない場所発見!

ほぼ100年もこの場所に建っている建物ですから、既に何度も修築されたようで、壁がつぎはぎです。
いや、明治の建物の作りがよく分かります。骨組みって言いますが、この時代の建物に鉄骨って存在しないんですね。基本レンガで作られた家です。え~と?遼東半島あたりって地震ないんですかね?
つーか、最近中国のでっかいビルの建設ラッシュで鉄の値段がうなぎ上りってニュースを見ましたが、さもあろうと思います。旅順なんて中国の端っこなのに、市の東側にでっかいビルが何本もにょきにょきと!う~ん…?もしかして、とっくに中国は日本より近代的な都市が多くなってるんじゃあ…?旅順ー大連間は去年移転してきた大連の大学が2つも!これなんか、凄いです。まるで未来都市。そんで敷地は筑波大学。
変わりゆく中国!!
25年前に初訪問した時はどこの街も50年前の日本風味が漂ってましたが、今や東京より未来都市!って感じが漂ってます。まるごと未来都市でなくとも、市の中のどこかの区画は超未来的っていう場所を見て、日本はとっくに中国に発展具合も中国に追い抜かれてるなあという疑問は確信へと変りました。特に沿岸部の街に近くなる程半端でない超開発です。5年以上前に中国を旅した人~~!!情報が既に古いんで見比べるためにもっぺん中国行くべきですよ~~!!
ま、脱線はこれくらいに…。
旅順の東側は30階建てくらいのビルがにょきにょきですが、西側は緑多く明治の建物が多く残っている旅情溢れる街なんですから!

ほらね
大谷光瑞の住居は、旧関東軍司令部や旅順博物館を見下ろすように建ってます。もう、海ー博物館ー司令部ー大谷光瑞住居と一直線!…狙って建てたんですかね?上の画像の右奥の平べったい赤い屋根が旧関東司令本部です。少し分かりにくいんですが、赤い屋根の奥、海に近い所に博物館が写ってます。
あ…。確か楊さんが「神戸に似た坂の街を気に入って家を建てた」って言ってました!夏草がぼうぼうで視界を遮ってますが、上の画像でもそれらの建物が確認出来ます。ついでに、左奥に「勝利塔」や宿泊したホテル・蛇類博物館も写ってます。
しかし、青ビニールカバーに覆われた場所だけ見てもアレなので、工事前の姿を紹介。

上の写真は旅行会社のパンフレットより抜粋。
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その29)魚市場とさくらんぼ狩り

2010年08月18日 04時18分12秒 | 旅順・大連旅行記
バスは旅順を後に大連へ向かいます。
途中、塔河湾の魚市場に立寄り。(11時-11時半)

売られているナマコに貝。
 
旅仲間は貝柱やえいひれの乾物を爆買いしてました!
眼前に広がるのは黄海です。

ウ~~~ム?
これって、港なんですかね??
なんか、浅瀬に船を数珠つなぎして繋留してあります。浜辺に船を引き上げるのは日本でもありますが…。船がボロいっ。つーか、錆び止めしないのか??日本の漁師さんの船は新しくって綺麗だ。や、うちの父親の趣味が魚釣りなんですが、父の釣り船より浜辺に並んでるのみんなちっさい~。大体、日本の趣味の船でも魚群探知機って標準装備だよな…。
何げに私のカルチャーショックは魚市場じゃなくて海辺でした。
浅瀬の海は養殖(ナマコ・ホタテ・ワタリガニ・真珠)の風景が続きます。
さて、バスで少し移動。

昼食は彩峰苑さんにて「火鍋(しゃぶしゃぶ)」です。

地元で人気のお店。スープが自慢のお店。私は胡麻スープがお気に入り。並ぶお肉は豚・牛・羊。そしてお店自慢のスープ入り肉団子です。
締めは手打ちのラーメンで(12時45分まで)
いよいよ大連か?と思ったのですが…。あれれ??どこ行くんじゃあああ~~~!!
バスは幹線道路を外れ、細い田舎道へ。
車窓はほぼ果実畑。
とバスが止まりました。
「さくらんぼ狩りをしましょう~」
ええっ!!そんなん旅行パンフレットに書いてなかったやん??
旅の初っ端に書きましたが、大連周辺は果物が有名なんですね。
で、今のシーズンはさくらんぼ太っ腹な現地旅行会社さんからのサプライズプレゼントなんですって
わ~~いさくらんぼが木になってる所始めてじゃあ~~
私の田舎は四国なので、みかんは普通に庭にあります。でもさくらんぼの名所って日本でも東北とか少し寒い所ですよね。さくらんぼ狩りって楽しい~。

ちなみに、今年は遼寧省でも季節が少し早めに巡ってて、さくらんぼシーズンも終りなんだって。
「次回のツアーのお客さんにはもうご案内出来ません」
画像のさくらんぼがたわわに成っている木は、果実園のご主人がわざわざ残して下さってたんですって!
わ~~~いいいい

眼前に広がるさくらんぼ畑。でっかい農園です。(13時10分頃まで)
さくらんぼを心行くまで口へ詰め込んで、満足
連日の早起きがたたったのか?それとも風邪のひき始めか?眠気に負けてしまいました~。

起きたらそこはもう大連!

早っ!
旅順ー大連は40キロちょっとしか離れてないので、寝ていたのは1時間弱だと思うけど。
楊さん「皆さん、右手を見て下さい。清掃員です。連日暑いです。中国では40度を超えると外を清掃する人に高温手当が支払われます。月に40-60元」
清掃員って本当に多く見かけるんですよ。中国ってポイ捨て文化でもあるんですかね?謎だ…。
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