まるみのあっちこっち巡り

ー32,000枚を超える写真とともに綴るお出かけブログー

日本100名城 水戸城

2023-02-25 00:35:22 | 日本100名城



近世水戸城は、水戸藩35万石を治めた
徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城です。

正門にあたる最も格式の高い大手門は、
江戸時代初期の様式を残す古風な城門です。
1601年頃に建てられ、何度か建て替え、
解体され、2020年復元されました。







現存する唯一の遺構が、薬医門。

石垣を用いず、土塁と堀のみで
守りを固めている水戸城。







本丸跡と二の丸跡の間を走るJR水郡線。
こうした深い堀底を見ると、
防衛力の高さを実感できます。

土塁と堀によって、東から「下の丸」「本丸」
「二の丸」「三の丸」の4つの区画(曲輪)を構築。
土造りの平山城としては国内最大級の規模です。







2021年に復元された水戸城二の丸隅櫓
櫓本体は、2階建の角櫓と、その北側・東側に
接続される2つの多聞櫓から構成されており、
全体でみるとL字型をしています。

城内には4基の角櫓が建てられていましたが、
城下から武士や町人が水戸城を見上げたときの
眺望を意識して作られたと考えられています。







三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡。
儒学だけでなく、医学、兵学、武芸など
実用的な科目も備えた総合大学ともいえるもので、
国内最大規模の藩校、他藩にも大きな影響を与えました。







別名:馬場城、水府、
種別:連郭式平山城
築城者:馬場資幹
築城年:建久年間(1190年 - 1198年)
主な城主:大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏

茨城県水戸市三の丸

訪問日 2023.2.20他

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日本100名城 佐倉城

2023-02-24 00:07:01 | 日本100名城



佐倉城は、戦国時代中頃(1532~1555)に
鹿島幹胤が築いたといわれる中世城郭を原型として、
土井利勝によって1611年~1617年頃までの間に
築城された平山城になります。







城郭は石垣を一切用いず、土塁と深い空堀と、
水堀で守られた土造りの近世城郭である佐倉城。
德川家康により、江戸の東を守る要として
重要視されました。







干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にして
三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としています。







幕末の日米修好通商条約の交渉にあたった
老中首座・佐倉藩主の堀田正睦の像。

歴代佐倉城主のうち9人が老中となっており、
これは全国最多で、「老中の城」と呼ばれています。







北に印旛沼、西と南に川が流れる低地に
西向きに突き出した「馬の背」と呼ばれる台地。
地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて
守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と
町家、仏閣を配して城下町の守りを固めたそうです。







別名:鹿島城
種別:平山城
築城者:鹿島親幹
築城年:天文年間(1532~55)
主な城主:鹿島親幹、千葉邦胤、土井利勝、堀田氏

千葉県佐倉市城内町

訪問日 2023.2.21

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日本100名城 鉢形城

2023-01-22 00:34:08 | 日本100名城



正喜橋を渡り、信号を右手に
見えてきたのが鉢形城復元地形模型です。
1/250スケールの鉢形城の全貌を
一望することができます。







鉢形城は、戦国時代の代表的な城郭跡として
1932年に国指定史跡となりました。
2006年には日本100名城にも選定されています。







荒川の向こうには街並みが広がっています。
この荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘上にあり、
曲輪が連なる錬郭式の平山城です。

荒川の急流を堀とし、
断崖を防壁としていました。







寄居町の花、カタクリの群生地があり、
3月下旬から4月上旬までカタクリの
可憐は花が楽しめるようです。







樹木展示林では、約680種もの
国内・外国産の樹木を見ることができます。







交通の要衝にあたり、上州や信州方面を望む
重要な地点であったこの地に1476年、
関東管領であった山内上杉氏の家臣
長尾景治が築城したと伝えられています。







1590年の豊臣秀吉の小田原城攻めの際、
後北条氏の重要な支城として、
前田・上杉等の北国軍に包囲され、
攻防戦が展開され、城兵の助命を条件に
開城されますが、城の堅固さを実証。







以前来た時にはなかった鉢形城歴史館へ。
入口入って左側に100名城の
スタンプが設置されています。







鉢形城の歴史を中心に地域の文化や歴史を
学習・体感することができる歴史館。

三つの曲輪や伝秩父曲輪には、
発掘調査の成果をもとに戦国時代の築城技術を
今に伝える土塁や門、池などを復元。







四季折々の花や紅葉を楽しみながら
散策するのにも良い歴史公園です。







別名:ー
種別:平山城
築城者:長尾景治、北条氏邦
築城年:1476年、1558年~1570年
主な城主:長尾氏、北条氏、後北条氏

埼玉県大里郡寄居町大字鉢形2496-2

訪問日 2022.12.27

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日本100名城 箕輪城

2023-01-19 00:04:08 | 日本100名城



箕輪城跡は榛名山の東南麓に広がる
独立丘陵上の中心部に位置します。

1987年に群馬県の戦国時代を代表する
城郭跡として国史跡に指定、
2005年に「日本百名城」に選定されました。







城の西側を流れる榛名白川や城の南側に存在した
椿名沼と呼ばれる湿地帯など自然の地形を
巧みに利用した構造になっています。

城域面積約36haと戦国時代の上野国において
屈指の規模を誇る城郭だったそうです。







発掘調査をし、最後の井伊直政期を中心に
門跡、石垣、石組の排水溝、土塁、堀、
掘立柱建物跡が見つかりました。








箕輪城を象徴する城門の一つであったと
想定される郭馬出西虎口門が2016年に復元。
(一番上の写真)

瓦の出土がなく屋根は板葺と推定されました。
伝統的工法で復元を行うため、
多くの工程があり、2年の歳月をかけて
最初の写真の郭馬出西虎口門が完成しました。







巨大な堀と土塁、巧緻な縄張りの堅固な
土造の城でしたが、最後に入った徳川家康の
譜代井伊直政によって石を多用した
近代城郭に大改修されています。







見どころの一つ二の丸から鍛冶曲輪の
南側に掘られた大堀切です。
幅30m、深さ20m、
城を南北に二分しています。







本丸から御前曲輪にかけて東側は土塁で防御、
土塁の右側は深い空堀です。







搦手口から二の丸を望みます。
長野氏・武田氏の時代はこちらが
大手口だったようです。







長野氏は武田氏の西上野侵攻の際、
この箕輪城を本拠に最後まで抵抗するも
武田信玄に落とされ、後に、武田氏、織田氏、
北条氏、徳川氏といった戦国大名の拠点として、
各大名の有力家臣が配属されました。

1598年、井伊直政は城を高崎に移し、
箕輪城は廃城になりました。

別名:ー
種別:山城⇒平山城
築城者:長野業尚
築城年:1587年
主な城主:長野業正、北条氏邦、井伊直政

群馬県高崎市箕輪町

訪問日 2022.9.24

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日本100名城 二本松城

2023-01-03 00:30:08 | 日本100名城



二本松市街地の北に位置している二本松城の城跡は、
福島県立霞ヶ城公園として整備されています。
主な遺構は、本丸、三の丸、石垣、屋敷跡、
蔵跡、井戸跡で、日影の井戸も一見です。







「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定、
毎年10月~11月には二本松菊人形展が開催されており、
訪れた日も菊人形展の開催中でした。

当時放映していたNHK大河ドラマ『義経』の
菊人形展で一の谷の合戦のシーンも見事に演出。

源義経を演じていたのは、
今やジャニーズの副社長滝沢秀明氏。
既に16年経過していますが、
一番印象に残る菊人形展でした。







標高345mの白旗が峰に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城。
加藤氏が近世城郭に改修し、その後丹羽氏が入封して
山麓に三の丸御殿や箕輪門を建て、城下町を整備しました。
天守が築かれたことは確認されていないとか。







山麓の御殿表門跡に1982年に再建された多聞櫓と
桝形になった箕輪門ですが、現存する絵図には
二階櫓は描かれていないそうです。







見どころは本丸、三の丸、高石垣と二の丸の大石垣。
安土城の石垣を積んだ穴太衆とよばれる
優れた石工集団によって積まれたそうですが、
新しい石垣もあるようです。

別名:霞ヶ城、白旗城
種別:梯郭式平山城
築城年:1414年、 1590年、 1627年、1643年
築城者:畠山満泰、蒲生氏郷、加藤明利、丹羽光重

福島県二本松市郭内3丁目、4丁目

訪問日 2005.10.2
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日本100名城 多賀城

2022-12-07 15:41:33 | 日本100名城



宮城県のほぼ中央に位置する多賀城市に
東北に築かれた律令国家の要の城がありました。
11世紀中頃までの東北地方の
政治・軍事・文化の中心地であったのです。







奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、
創建は724年、按察使大野東人が築城したとされ、
その間大きく4回の造営が行われたそうです。







奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため設置し、
平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能しました。
日本の古代城柵で、国の特別史跡に指定されています。







城柵は朝廷が蝦夷の居住地域に支配を及ぼすための
拠点となる官衙であると同時に、
柵戸と呼ばれる住民を付随する施設でもあり、
兵を駐屯させる軍事的拠点でもある Wikipediaより







訪問した当時は、ボランティアガイドさんがいらして、
資料などを示して熱心に説明してくださいましたが、
現在は、アプリをB.Cで読み込み
AR、VRで楽しめるようです。







約900m四方に築地がめぐり、中央に重要な政務や儀式を行う政庁、
その周囲に役所や兵舎、工房などが配置されていました。
平安時代には城外に道路により区画された街並みが形成され、
そこから国司の邸宅などが発見されているそうです。

別名:ー
種別:平山城(城柵)
築城年:724年
築城者:大野東人

宮城県多賀城市市川字城前

訪問日 2005.4.30
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日本100名城 津山城

2022-12-05 14:51:56 | 日本100名城



関ヶ原の戦い後、森蘭丸(森成利)の弟の忠政が
13年間を要して築いた梯郭式平山城で、
日本三大平山城のひとつに数えられています。







美作国津山藩初代藩主の森忠政公の銅像です。
森蘭丸といえば、美少年の誉れ高き人物。

忠政も織田信長に小姓として出仕するものの
幼すぎると母の許に返され、本能寺の変に
巻き込まれずに済んでいます。







津山盆地の中央部に位置し、城の東部を流れる
吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を
防御線に取り入れています。
市街の眺望も良いものでした。







往時は外郭を含めて、広島城の76棟、
姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が
建ち並んでいたそうです。

現在、建物の遺構はありませんが、
その雄大さは際立っているという印象でした。







築城400年記念行事の一環として、
備中櫓復元工事に着手している最中の訪問で、
2002年から2006年までに再建された
備中櫓と土塀が現在はあるようです。







いまだ戦塵が漂う時期の築城であったために
実戦的な縄張りになっています。
そそり立つ石垣に名城の面影を残します。







城跡は国の史跡に指定されています。
春は千本の桜に抱かれた岡山随一の桜の名所、
桜の花に包まれて華やぐ頃に
ぜひ再訪したいと思い続けています。

別名:ー
種別:平山城
築城年:1604年
築城者:森忠政

岡山県津山市山下135

訪問日 2003.7.15
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日本100名城 今帰仁城

2022-12-04 23:27:59 | 日本100名城



沖縄本島北部にある今帰仁城跡は、
世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)、
国指定史跡、日本100名城に指定されています。

標高100mのほぼ独立した丘上にあり、
堅牢な城壁に囲まれたその城は、
やんばるの地を守る要の城でした。







怕尼芝(はにじ)らは北山王を称して
この地を統治していましたが、
中山王尚氏によって滅ぼされた後は、
琉球王府から派遣された監守という役人の居城に。

主郭(本丸)からは中国や東南アジアなどの
陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせます。

その後、薩摩軍に滅ぼされ炎上、廃城となりました。







「百曲がり」と称される大波がうねるような屏風状の石垣。
古期石灰岩で堅牢に築かれ、
城郭を幾重にも取り囲んでいます。

世界遺産登録以降、城跡は徐々に整備および
修復作業の強化が行われており、
訪問時とは違っているようなので
再訪したいものです。

別名:北山城、今帰仁グスク
種別:山城
築城年:13世紀後末頃
築城者:湧川王子

沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874

訪問日 2002.1.26
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日本100名城 足利氏館

2022-11-07 00:13:07 | 日本100名城



足利氏館は平安時代末期から鎌倉時代初期、
足利氏二代目足利義兼によって築かれたといわれています。
1196年、義兼は邸内に大日如来を祀ったのが始まりです。

太鼓橋は唐破風様の屋根がついた橋で、
江戸時代に再建されたもので、
後ろの山門は十三代義輝が再建した八脚楼門です。







三代目義氏が本堂を建立、足利一門の氏寺となった
鑁阿寺(ばんなじ)は、のちに尊氏が室町幕府を開くと
足利氏発祥の地、氏寺として尊崇され
厚い保護を受けたのです。








寺院であるにもかかわらず「日本100名城」に選ばれ、
本堂は国宝、鐘楼や経堂は国の重要文化財に指定されています。
館は周囲を水堀と土塁で囲まれ、中世地方武士の居館
「方形館」の形状がよく残っています。

別名:ー
種別:平城
築城年:平安時代末期から鎌倉時代初期
築城者:足利義兼

栃木県足利市家富町2220

2019.12.15
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日本100名城 白河小峰城

2022-11-06 00:03:03 | 日本100名城



幾多の歴史をみつめた白河小峰城の歴史は、
結城親朝が14世紀中頃、小峰ヶ岡に
城を構えたのが始めと言われています。







江戸幕府成立後、白河地域が会津領であった頃に
整備された城郭や城下町を1627年に初代藩主となった
丹羽長重が、大改修を行い、現代につながる
白河のまちの基礎ができあがりました。







1932年「奥州の押え」にふさわしい石垣を多用した
梯郭式(ていかくしき)の平山城として完成しました。
総石垣造りに大改修した小峰城の見どころは、
何といっても見事な石垣でしょう。







その後、松平(榊原)、本多、松平(奥平)、
松平(結城)、松平(久松)、阿部の六家十九代が居城。

阿部家が移されると、幕領、新政府領と変遷します。
戊辰戦争では、約3ケ月にわたり戦い、
城内の建物や城下町の一部が焼失しました。







小峰城の三重櫓は、本丸の北東部に建つ
三層三階の櫓で、天守の代用となっており、
城郭の象徴となっています。

1991年、「白河城御櫓絵図」や発掘の成果をもとに、
木造で忠実に復元されたのだそうです。







1994年には本丸の大手口にあたり、
表門とも言われる前御門も復元されました。
それらが、江戸時代に築かれた
見事な石垣の上に建っているのです。

別名:喜春城
種別:平山城
築城年:1340~1346,1629~1632年
築城者:結城親朝、丹羽長重

福島県白河市郭内1-2

2019.9.14
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日本100名城 明石城

2022-11-05 00:26:21 | 日本100名城



大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、
一国一城令が下され、
その四年後に完成した明石城。

二代将軍徳川秀忠が築城を命じた
西国を睨む堅城です。







初代明石藩主は、織田信長と徳川家康の二人を
曽祖父に持つ小笠原忠真でした。







城は明石海峡を望む丘陵地に連郭式に築かれ、
本丸・二の丸・三の丸の石垣・堀の工事は
幕府直営で行われたそうです。







本丸四隅には三重の隅櫓が建てられましたが、
現存するのは左の坤櫓と巽櫓の二棟だけで、
国の重要文化財に指定されています。

本丸跡に建つ巽櫓・坤櫓は、
日本に12基しか現存していないとか。







西南隅に建てられた坤櫓は、城内最大の櫓で、
天守の代用にされたとみられるそうです。
伏見城の遺構になります。







豪壮な石垣、約500㎡の広さの天守台がありますが、
ついに天守は築かれることはなかったのです。
天守台は熊本城天守と同規模で、
五重の天守が建築可能な大きさです。







阪神・淡路大震災で被害を受けましたが
全面修復されています。

別名:喜春城
種別:平山城
築城年:1619年
築城者:小笠原忠真
天守の構造・形態:天守台のみ残る

兵庫県明石市明石公園1-27

2019.8.9
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日本100名城 大阪城

2022-11-01 15:23:25 | 日本100名城



広大な大阪城の中心にそびえる大阪城天守閣。
現在の天守は三代目、初代は豊臣秀吉が築いた大坂城。
二代目は徳川秀忠再建、豊臣時代の城郭に盛土し、
五層五重地下一階の天守を建築しました。







今の天守は初代をモデルにして建てられており、
五重八階、鉄骨鉄筋コンクリート造り、
1931年に市民の熱意によって復元、
1997年に国の登録有形文化財となりました。







大坂夏の陣図屏風に描かれた外観も参考にし、
天守四層までを江戸時代の白漆喰を元とし、
五層目は豊臣時代を基として
黒漆喰に金箔で虎や鶴の絵を描いています。







天守へ登城することにしましょう。
現代建築によるコンクリート製、
一般の人は階段を使いますが、エレベーターも完備、
ロマンを感じるのも遠のくかもしれませんが・・・。

諦めずに誰もが見学できる城があっていいと思います。







1階が天守閣の入口、シアタールーム、ショップ、
2階が城の情報コーナー、
3,4階が豊臣秀吉とその時代の展示、
5階が大坂夏の陣図屏風の世界の展示、
7階が豊臣秀吉の生涯の展示となっています。







そして、8階が展望室。
地上50メートルから、広大な大阪城と
大阪の街を一望できます。







この出入り口は、車椅子でも通行可能。
壮大な風景を楽しめるので
滞在時間も長くなりがちです。







学生時代に一度登城したことがありますが、
天守閣へ登るまでの距離が長くて大変であった
記憶しか残っておらず、写真として記録することの
重要性を感じているこのごろです。







現在の天守閣で使われている鯱、伏虎などの
原寸大レプリカが展示されています。







要所要所に屈折が設けられ
横矢がかかるようになっている内堀石垣。







天下人秀吉の権力の象徴として燦然と輝いていた時代と
秀吉の死後、徳川家康によって大坂冬の陣・夏の陣で
豊臣家が滅ぼされてしまう悲劇の時代とを
併せ持っている大阪城です。

別名:錦城、金城
種別:平山城
築城年:1583年、1620年
築城者:豊臣秀吉、徳川秀忠
天守の現況・形態:望楼型、五重八階、鉄骨鉄筋コンクリート

大阪府大阪市中央区大阪城1-1

2019.5.18
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日本100名城 国宝 松本城

2021-11-07 13:15:21 | 日本100名城



黒漆塗り下見板張の美しい天守は、市民から
「烏城」と呼ばれて親しまれている城です。
四百年余の風雪に耐えた黒い城に
薄いピンクの桜が春を告げています。







現存する日本最古の天守は、
複合連結式層型五重六階、大天守と小天守、
辰巳附櫓のバランスのとれた絶妙な配置で
見るものを圧倒し、感動を与えてくれます。







戦うための黒い堅固な天守と、平和な時代になって
造られた優雅な辰巳附櫓・月見櫓。
数々の築城技術を今に伝えている国宝・松本城は、
戦国時代に造られた深志城が始まりです。







天守と乾小天守のある石垣造りの近世城郭に
改築したのは、石川数正・康長父子で、
1593年~1594年のことと考えられているそうです。

写真左端が月見櫓ですが、天守に月見櫓が隣接している例は、
松本城の他は残っていないという優美で風流なもので、
1634年徳川家康の孫・松平直政によるものです。







天守から見た内堀と朱色の埋橋、松本の街を一望。
ここからの眺望を楽しむのはなんと33年ぶり三度目。
チケットを購入すればすぐに登城できだのに、
今の「城人気」を実感するまるみです。







行列が少し短くなったようですが・・・。







譲り合って、上ったり下ったりしないと危ないですよ。
シニアの方や子どもに注意して!

天守閣の外からは5階に見えますが、
内部は6階になっていて
窓のない暗い部屋(天守3階)があります。

戦の時に武士が集まるところで、
敵には秘密の階でした。







昭和27年国宝に指定されたのですね。

明治維新後、天守が競売に出されるも地元有力者などにより、
天守を買い戻し、保存会を立ち上げて12年間がかりの
明治の大改修を終え、天守倒壊の危機を救った、
地元を愛し、守った多くの人々がいたからこそで感動です。







別名:深志城
種別:平城
築城年:1593年~1594年
築城者:石川数正・康長
天守の構造・形態:五重六階 木造(現存)

長野県松本市丸の内4-1

2019.4.14
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日本100名城 上田城

2021-11-06 13:00:28 | 日本100名城



千曲川に面した丘の上に位置する上田城は、
真田氏の城として有名ですが、
現在見られる櫓、堀、石垣に大改修したのは
仙石忠政氏によるものです。







真田幸村の父、昌幸によって築城されたのは1583年。
その2年後に戦の舞台となり、領地の沼田(群馬県)をめぐり、
徳川家康と対立し、徳川軍を撃破した城となるのです。

15年後には徳川秀忠が城攻めをするも
真田方の伏兵に迎え撃たれ、諦めましたが、
上田城にてこずり天下分け目の決戦に
秀忠は間に合わなかったのです。







真田石の伝承

城主はその権威を示すために大手の石垣に巨石を用いるとか。
真田信之が松代に移封を命じられた際に、
父の形見として持っていこうとしましたが、
微動だにしなかったという伝承があるのだそうです。







かつては七棟あった本丸の櫓のうち
現存するのは西櫓、南櫓、北櫓の三棟、
二重二階で規模も全く同じ、
屋根は入母屋造り、本瓦葺きです。







明治維新後、上田城にあった櫓は西櫓の他は売却され、
1944年に有志によって買い戻され、
城跡に建て直されのだそうです。
南櫓、北櫓は遊郭で使用されていたとか。







窓の真下は尼ヶ淵、かつては堤防がなく、
一面河原で千曲川の分流が
深い淵を作って流れていたことから
「尼ヶ淵城」とも呼ばれていたそうです。







真田氏が居城としていた時代の上田城は、
天然の要害に守られていたものの堅城ではなく、
用兵、戦術の巧みさで大勝した真田氏にあったようです。

別名:尼ヶ淵城、伊勢崎城、松尾城、真田城
種別:平城
築城年:1583年
築城者:真田昌幸

2019.4.13
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日本100名城 小田原城

2021-11-05 12:00:00 | 日本100名城



小田原城は、難攻不落で真っ向から
攻め落とせない城ですが、その起源は定かではなく、
1417年の室町時代の頃に大森頼春が
築城した城ではないかとされています。

その後、北条早雲に城を乗っ取られ、
その早雲が難攻不落の大城に
変貌させたと言われます。







天守閣の高さ比べのようですが、地下から測ったもの、
土台から測ったものなど高さの測定基準があいまいであったり、
現存する天守か復元天守かによっても
そのランキングに相違はあるようなのですが・・・。







築城当時は、天守の裏にある丘陵地の八幡山周辺だけでしたが、
上杉謙信と武田信玄に攻め込まれた経験から領域を広げ、
土塁で囲み、城塞が完成し、天守と城下町を備えた
総構の城郭としては当時日本一のものであったそうです。







豊臣秀吉の策略によって落とされることになり、
秀吉から家康に与えられ、家臣の大久保氏に城主を任せ、
中世の規模から石高も城郭も縮小されることになりましたが、
東海道の要衝を守った堅城であったのです。







天守最上階の5階、展望デッキからの眺望は圧巻、
箱根の連なる山々と相模湾を眺めることができます。

平成の大改修により、外装とともに展示が一新され、
一部江戸時代の天守も再現されていました。







別名:ー
種別:平山城
築城年:15世紀
築城者:大森氏、後北条氏、大久保氏、稲葉氏

神奈川県小田原市城内6-1

2019.4.6
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