まるみのあっちこっち巡り

ー33,000枚を超える写真とともに綴るお出かけブログー

日本100名城 宇和島城

2023-10-06 01:32:46 | 日本100名城



宇和島の中心部に位置する標高約80mの
丘陵に築かれた宇和島城は、
江戸時代以降の姿をとどめる
現存十二天守のひとつがそびえ立ちます。







1615年に伊達政宗の長男、秀宗が入城後、
明治を迎えるまで"西国の伊達"9代の居城でした。







近世城郭は築城家として名高い武将の藤堂高虎によって、
1596年から1601年にかけて築かれたのち、
現在の天守は伊達家の居城になってから再建、
城構えは藤堂高虎が創建した当時のものを引き継いでいます。







各階の装飾性の高い破風や懸魚などから
太平の世を象徴するものとして評され、
小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、
非常に格式を重んじた造りとなっているそうです。







天守の最上階からは伊達十万石の城下町が望め、
本丸の先に宇和島港と海が見える景観は、
かつて城が海辺にあった時代をイメージさせます。







かつては大半が海に面し、堀も築かれていたとか。
その名残は今の町割りや道路に見られます。







石垣は高虎から伊達家のものまで
新旧様々な積み方を見ることができます。

別名:鶴島城
種別:平山城
築城者:藤堂高虎
築城年:1596年
主な城主:西園寺氏、戸田氏、富田氏、藤堂氏、伊達氏

愛媛県宇和島市丸之内1

2023.5.1


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日本100名城 大洲城

2023-09-24 01:25:13 | 日本100名城



大洲城の始まりは、1331年に宇都宮豊房が
地蔵ヶ岳に城を築いたことによります。
近代城郭に改造したのは藤堂高虎といわれ、
天守を築いたのは脇坂安治の時代です。







天守は、1888年まで残されていましたが、
取り壊されることとなりました。
しかし、4棟の櫓は解体を免れ、
いずれも国の重要文化財に指定されています。







4層4階の天守は、明治期の古写真や
「天守雛形」と呼ばれる江戸期の
木組模型などの史料をもとに
2004年に木造で復元されました。







復元天守の内部を見ましょう。
1階、2階は他の城にない吹き抜けの
構築が施されています。







使用した木材はすべて国産材。
城郭建築特有の迫力ある
木組みが見られます。







清流肱川の畔に城が築かれ、
(前日の雨で濁っていますが)
多くの武将達が主となった大洲城。

別名:地蔵ヶ嶽城、比志城、大津城
種別:平山城
築城者:宇都宮豊房、脇坂安治
築城年:1331年、1609年
主な城主:宇都宮氏、戸田氏、脇坂氏など

愛媛県大洲市大洲903

2023.4.30


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日本100名城 湯築城

2023-09-17 00:27:00 | 日本100名城



16世紀前半、伊予国の守護であった河野氏が、
館型の城だった湯月城を整備し、
戦国期拠点城郭へと転換させました。
主な遺構は土塁と堀です。







この地を支配していた河野氏の歴史、
城のジオラマや鎧などが展示されている
湯築城資料館は無料で見学できる施設。
日本100名城のスタンプはこちらにあります。







展望台から城の大きさを確認してみましょう。
QRコードから復元CGで映像と解説を聞きます。

1587年には廃城しており、松山城で湯築城の
瓦等の建材が流用されたことが
発掘調査により判明しているそうです。








城は丘陵部とその下の平地部からなり、
比高約30mの丘陵部を二重の堀と
土塁で囲んでいます。







内堀と外堀の間に河野氏の屋敷や
直属の武士の屋敷などが建ち、
平地部は、庭園を伴う上級武士と
その他の武士と居住地が分かれていたとか。







城内に居住区も有するという近世城郭の構造を
安土城より40年も早く築き上げていました。
戦国時代中頃の大規模な堀や土塁が良好に残る
稀な遺構として歴史的価値も非常に高いものです。







別名:湯月城
種別:平山城
築城者:河野通盛、河野通直(弾正少弼通直)
築城年:南北朝期、1535年
主な城主:河野氏

愛媛県松山市1

2023.4.30


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日本100名城 松阪城(松坂城)

2023-04-30 22:43:05 | 日本100名城



蒲生氏郷が縄張りした石垣の城。

文化財指定名称は「史跡松坂城跡」となっており、
市内の表記は坂の字になっていますが、
日本100名城に制定されている表記は松阪城です。







松阪公園として整備され、
城跡には本居宣長記念館や
歴史民俗資料館が建っています。







昭和63年から平成15年にかけて石垣の
修復工事がなされたようですが…







城の原状を保ちながら公園として整備されたもので
「危険」と表示されている箇所が少なく、
十分に注意する必要があります。







天守は江戸前期に倒壊してすでにありませんが、
雛壇のように並ぶ石垣が見どころです。







三重の天守があった本丸と二の丸、
石垣が主な遺構です。







城跡からは城下町の面影を残す
街並みが一望できます。







誇らしげに聳え立つ石垣は松阪の
シンボル的存在です。

種別:平山城
築城年代:1588年
築城者:蒲生氏郷
構造:天守台のみ残る

三重県松阪市殿町

2016.2.7
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日本100名城 岡崎城

2023-04-29 10:14:02 | 日本100名城



1542年、松平竹千代はこの城で生まれました。
徳川家康公誕生の城です。

城の起源は1455年頃とされ、
家康公の祖父が、現在の位置に移し、
岡崎城と称されるようになったそうです。

幼くして今川氏の人質となりましたが、
桶狭間の戦い後は岡崎城に戻り、
ここを拠点に三河を統一していきました。







その後、家康公は浜松へ、
嫡男が城主になりますが自刃し城代が置かれます。

江戸時代は、「神君出生の城」として神聖視され、
譜代大名、親藩大名が城主となりました。







1959年、鉄筋コンクリートで天守が再建。
岡崎市内の景観が一望できます。

別名:竜城・竜ヶ城
種別:平山城
築城者:西郷頼嗣
築城年:1455年頃
構造:鉄筋コンクリート3層5階

愛知県岡崎市康生町561-1

2015.10.30
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日本100名城 島原城

2023-04-28 14:26:13 | 日本100名城



島原城は、築城の名手といわれた松倉重政が、
1616年から7年をかけて築いた城です。
島原の乱の引き金にもなりました。







安土桃山様式の白亜の天守閣や櫓が華麗な
名城だったといいますが、現在のものは1964年に再建。
鉄筋コンクリートの5階建ての層塔型です。








天守5階から島原市を一望。

内部はキリシタン史料と民俗資料の展示室。
南蛮貿易➡宣教時代➡禁教➡弾圧➡島原の乱と
時代順に展示されています。

時代によって大きさの違うマリア像、
日用品に隠し刻まれた十字架などが見られます。







かつては天守を中心に三棟の三重櫓、平櫓が三十三棟、
本丸の広さは名古屋城に匹敵するほどで、
石垣は延長約4kmにおよぶ巨城であったそうです。







西三十櫓、巽三重櫓、丑寅三重櫓も再建。
島原出身の彫刻家北村西望氏の作品を展示している
西望記念館や観光復興記念館も併設しています。

別名:森岳城
種別:平城
築城者:松倉重政
築城年:1618年
構造:鉄筋コンクリート5層5階

長崎県島原市

訪問日:2006年7月30日


※一番上の写真は2016年撮影
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日本100名城 金沢城

2023-04-27 00:29:35 | 日本100名城



加賀一向一揆の拠点である金沢御坊の跡地に
織田信長の家臣佐久間盛政が
築城したのが始まりです。







その後、1583年に前田利家が入城して大改造をおこない、
1599年頃には難攻不落の金沢城がほぼ完成したとか。
几帳面な利家の性格が反映され、金箔瓦を備え、
華麗な城郭は加賀職人の巧の技が随所にあったようです。







度重なる火災、1759年の金沢城下大火災では、
城内ほぼ全域焼失し、本丸から二の丸中心の城へと変化。
1808年にも大火に見舞われますが、
その都度再建され、明治期まで存続しました。







2001年、菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓が
資料に基づき史実を尊重し、
1809年に再建された形に復元され、
金沢城の新たなシンボルとなっています。

その後も河北門、いもり堀、橋爪門二の門を復元、
金沢城の整備復元計画は進められています。







落雷で焼失してしまった金箔瓦の天守を持つ頃の金沢城は、
徳川家康に唯一対抗しうると目された前田利家の居城、
資金と高い技術力の粋をつくした加賀百万石の大城、
燦然と輝く城は、人々の誇りであったでしょう。

種別:平山城
築城者:佐久間盛政、前田利家
築城年:1580年

石川県金沢市

訪問日:2016年5月3日
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日本100名城 根城

2023-03-20 00:12:30 | 日本100名城



甲斐から陸奥に移り住んだ八戸南部氏が、
南北朝時代から戦国末期まで本拠とした根城。

写真は接客や儀式の場として使用されていた
復元された主殿です。

石垣や櫓、天守閣が発達する前の城の形を再現、
戦国前期の城の様子がよく分かります。







南部家の当主やその家族が住んでいた
根城の中で最も重要な本丸跡です。







大河ドラマのセットの中にでも紛れ込んでしまったような…

この日は正月十一日、年男が任命される日です。
南部家中の重臣の居並ぶ中、年男が当主から
お茶をいただくところが再現されています。

鎧武者が年男、お茶を差し向けているのが
八戸南部氏の18代当主 南部政栄公。







祈祷之間は、合戦前に加持祈祷を行った場所です。
築城から一度も落城しなかった根城。







東北地方や北海道南部の城館では
竪穴式の建物跡がよく見られるとか、
寒冷地ならではしょう。
食糧庫などに使われていたようです。







発掘調査の結果、南部氏により築かれた建物跡が
約400棟発見され、このうちの安土桃山時代に
相当する建物跡に基づき復元されました。
こちらは、鍛冶工房の復元です。







これらの調度品を目にして、
城を見学している実感が湧いてきました。







主な遺構は、本丸・中館・捨て廓などの曲輪、
堀、土塁などです。

別名:ー
種別:平城
築城年:1334年
天守構造:ー
築城者:南部師行

青森県八戸市大字根城字根城47

2016.5.6
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日本100名城 岡山城

2023-02-27 00:20:11 | 日本100名城



父の宇喜多直家が金光氏から奪った城を
豊臣秀吉に厚遇されて大大名となった
宇喜多秀家が8年の歳月を費やし
1597年に完成した岡山城。







外観は黒漆塗の下見板が特徴的で
「烏城」とも呼ばれます。

城跡は烏城公園として整備されており、
隣接する大名庭園の後楽園は、
偕楽園、兼六園とともに、
日本三名園として並び称されています。







西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を
流れるように改修し、天然の外堀に活用。
最上階からは眼下に旭川を望み、
岡山後楽園と市街地を360度見渡せます。







1996年に 築城400年記念事業として、
創建当時の天守には金の鯱がのり、
金烏城と呼ばれていたとの伝承から
鯱に金箔を施しています。







築城当時の天守閣は1945年の空襲で焼失しましたが、
1965年に鉄筋コンクリート造で再建されました。
復元天守の内部は博物館となっています。

宇喜多秀家が岡山城の象徴に建築した
三層六階建ての望楼形天守閣で、
城郭建築物に天守閣が出現して発展し始めた
時期の構造的特徴を伝えています。







関ヶ原合戦に敗れた秀家の後に入城した
小早川秀秋や池田氏によっても
拡張整備が続けられ、
現在の姿になったのだそうです。

別名:烏城、金烏城
種別:平山城
築城年:1521~1527年、 1570年、 1597年
築城者:金光氏、宇喜多直家、宇喜多秀家

岡山県岡山市北区丸の内2-3-1

訪問日 2003.7.14

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日本100名城 水戸城

2023-02-25 00:35:22 | 日本100名城



近世水戸城は、水戸藩35万石を治めた
徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城です。

正門にあたる最も格式の高い大手門は、
江戸時代初期の様式を残す古風な城門です。
1601年頃に建てられ、何度か建て替え、
解体され、2020年復元されました。







現存する唯一の遺構が、薬医門。

石垣を用いず、土塁と堀のみで
守りを固めている水戸城。







本丸跡と二の丸跡の間を走るJR水郡線。
こうした深い堀底を見ると、
防衛力の高さを実感できます。

土塁と堀によって、東から「下の丸」「本丸」
「二の丸」「三の丸」の4つの区画(曲輪)を構築。
土造りの平山城としては国内最大級の規模です。







2021年に復元された水戸城二の丸隅櫓
櫓本体は、2階建の角櫓と、その北側・東側に
接続される2つの多聞櫓から構成されており、
全体でみるとL字型をしています。

城内には4基の角櫓が建てられていましたが、
城下から武士や町人が水戸城を見上げたときの
眺望を意識して作られたと考えられています。







三の丸にある藩校・弘道館は国の特別史跡。
儒学だけでなく、医学、兵学、武芸など
実用的な科目も備えた総合大学ともいえるもので、
国内最大規模の藩校、他藩にも大きな影響を与えました。







別名:馬場城、水府、
種別:連郭式平山城
築城者:馬場資幹
築城年:建久年間(1190年 - 1198年)
主な城主:大掾氏(馬場氏)、江戸氏、佐竹氏、徳川氏

茨城県水戸市三の丸

訪問日 2023.2.20他

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日本100名城 佐倉城

2023-02-24 00:07:01 | 日本100名城



佐倉城は、戦国時代中頃(1532~1555)に
鹿島幹胤が築いたといわれる中世城郭を原型として、
土井利勝によって1611年~1617年頃までの間に
築城された平山城になります。







城郭は石垣を一切用いず、土塁と深い空堀と、
水堀で守られた土造りの近世城郭である佐倉城。
德川家康により、江戸の東を守る要として
重要視されました。







干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にして
三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としています。







幕末の日米修好通商条約の交渉にあたった
老中首座・佐倉藩主の堀田正睦の像。

歴代佐倉城主のうち9人が老中となっており、
これは全国最多で、「老中の城」と呼ばれています。







北に印旛沼、西と南に川が流れる低地に
西向きに突き出した「馬の背」と呼ばれる台地。
地勢を巧みに利用し、水堀、空堀、土塁を築いて
守りを固め、東につながる台地上に武家屋敷と
町家、仏閣を配して城下町の守りを固めたそうです。







別名:鹿島城
種別:平山城
築城者:鹿島親幹
築城年:天文年間(1532~55)
主な城主:鹿島親幹、千葉邦胤、土井利勝、堀田氏

千葉県佐倉市城内町

訪問日 2023.2.21

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日本100名城 鉢形城

2023-01-22 00:34:08 | 日本100名城



正喜橋を渡り、信号を右手に
見えてきたのが鉢形城復元地形模型です。
1/250スケールの鉢形城の全貌を
一望することができます。







鉢形城は、戦国時代の代表的な城郭跡として
1932年に国指定史跡となりました。
2006年には日本100名城にも選定されています。







荒川の向こうには街並みが広がっています。
この荒川と深沢川に挟まれた河岸段丘上にあり、
曲輪が連なる錬郭式の平山城です。

荒川の急流を堀とし、
断崖を防壁としていました。







寄居町の花、カタクリの群生地があり、
3月下旬から4月上旬までカタクリの
可憐は花が楽しめるようです。







樹木展示林では、約680種もの
国内・外国産の樹木を見ることができます。







交通の要衝にあたり、上州や信州方面を望む
重要な地点であったこの地に1476年、
関東管領であった山内上杉氏の家臣
長尾景治が築城したと伝えられています。







1590年の豊臣秀吉の小田原城攻めの際、
後北条氏の重要な支城として、
前田・上杉等の北国軍に包囲され、
攻防戦が展開され、城兵の助命を条件に
開城されますが、城の堅固さを実証。







以前来た時にはなかった鉢形城歴史館へ。
入口入って左側に100名城の
スタンプが設置されています。







鉢形城の歴史を中心に地域の文化や歴史を
学習・体感することができる歴史館。

三つの曲輪や伝秩父曲輪には、
発掘調査の成果をもとに戦国時代の築城技術を
今に伝える土塁や門、池などを復元。







四季折々の花や紅葉を楽しみながら
散策するのにも良い歴史公園です。







別名:ー
種別:平山城
築城者:長尾景治、北条氏邦
築城年:1476年、1558年~1570年
主な城主:長尾氏、北条氏、後北条氏

埼玉県大里郡寄居町大字鉢形2496-2

訪問日 2022.12.27

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日本100名城 箕輪城

2023-01-19 00:04:08 | 日本100名城



箕輪城跡は榛名山の東南麓に広がる
独立丘陵上の中心部に位置します。

1987年に群馬県の戦国時代を代表する
城郭跡として国史跡に指定、
2005年に「日本百名城」に選定されました。







城の西側を流れる榛名白川や城の南側に存在した
椿名沼と呼ばれる湿地帯など自然の地形を
巧みに利用した構造になっています。

城域面積約36haと戦国時代の上野国において
屈指の規模を誇る城郭だったそうです。







発掘調査をし、最後の井伊直政期を中心に
門跡、石垣、石組の排水溝、土塁、堀、
掘立柱建物跡が見つかりました。








箕輪城を象徴する城門の一つであったと
想定される郭馬出西虎口門が2016年に復元。
(一番上の写真)

瓦の出土がなく屋根は板葺と推定されました。
伝統的工法で復元を行うため、
多くの工程があり、2年の歳月をかけて
最初の写真の郭馬出西虎口門が完成しました。







巨大な堀と土塁、巧緻な縄張りの堅固な
土造の城でしたが、最後に入った徳川家康の
譜代井伊直政によって石を多用した
近代城郭に大改修されています。







見どころの一つ二の丸から鍛冶曲輪の
南側に掘られた大堀切です。
幅30m、深さ20m、
城を南北に二分しています。







本丸から御前曲輪にかけて東側は土塁で防御、
土塁の右側は深い空堀です。







搦手口から二の丸を望みます。
長野氏・武田氏の時代はこちらが
大手口だったようです。







長野氏は武田氏の西上野侵攻の際、
この箕輪城を本拠に最後まで抵抗するも
武田信玄に落とされ、後に、武田氏、織田氏、
北条氏、徳川氏といった戦国大名の拠点として、
各大名の有力家臣が配属されました。

1598年、井伊直政は城を高崎に移し、
箕輪城は廃城になりました。

別名:ー
種別:山城⇒平山城
築城者:長野業尚
築城年:1587年
主な城主:長野業正、北条氏邦、井伊直政

群馬県高崎市箕輪町

訪問日 2022.9.24

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日本100名城 二本松城

2023-01-03 00:30:08 | 日本100名城



二本松市街地の北に位置している二本松城の城跡は、
福島県立霞ヶ城公園として整備されています。
主な遺構は、本丸、三の丸、石垣、屋敷跡、
蔵跡、井戸跡で、日影の井戸も一見です。







「霞ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定、
毎年10月~11月には二本松菊人形展が開催されており、
訪れた日も菊人形展の開催中でした。

当時放映していたNHK大河ドラマ『義経』の
菊人形展で一の谷の合戦のシーンも見事に演出。

源義経を演じていたのは、
今やジャニーズの副社長滝沢秀明氏。
既に16年経過していますが、
一番印象に残る菊人形展でした。







標高345mの白旗が峰に築かれた城郭からなる梯郭式の平山城。
加藤氏が近世城郭に改修し、その後丹羽氏が入封して
山麓に三の丸御殿や箕輪門を建て、城下町を整備しました。
天守が築かれたことは確認されていないとか。







山麓の御殿表門跡に1982年に再建された多聞櫓と
桝形になった箕輪門ですが、現存する絵図には
二階櫓は描かれていないそうです。







見どころは本丸、三の丸、高石垣と二の丸の大石垣。
安土城の石垣を積んだ穴太衆とよばれる
優れた石工集団によって積まれたそうですが、
新しい石垣もあるようです。

別名:霞ヶ城、白旗城
種別:梯郭式平山城
築城年:1414年、 1590年、 1627年、1643年
築城者:畠山満泰、蒲生氏郷、加藤明利、丹羽光重

福島県二本松市郭内3丁目、4丁目

訪問日 2005.10.2
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日本100名城 多賀城

2022-12-07 15:41:33 | 日本100名城



宮城県のほぼ中央に位置する多賀城市に
東北に築かれた律令国家の要の城がありました。
11世紀中頃までの東北地方の
政治・軍事・文化の中心地であったのです。







奈良時代から平安時代に陸奥国府や鎮守府が置かれ、
創建は724年、按察使大野東人が築城したとされ、
その間大きく4回の造営が行われたそうです。







奈良平城京の律令政府が蝦夷を支配するため設置し、
平時は陸奥国を治める国府(役所)として機能しました。
日本の古代城柵で、国の特別史跡に指定されています。







城柵は朝廷が蝦夷の居住地域に支配を及ぼすための
拠点となる官衙であると同時に、
柵戸と呼ばれる住民を付随する施設でもあり、
兵を駐屯させる軍事的拠点でもある Wikipediaより







訪問した当時は、ボランティアガイドさんがいらして、
資料などを示して熱心に説明してくださいましたが、
現在は、アプリをB.Cで読み込み
AR、VRで楽しめるようです。







約900m四方に築地がめぐり、中央に重要な政務や儀式を行う政庁、
その周囲に役所や兵舎、工房などが配置されていました。
平安時代には城外に道路により区画された街並みが形成され、
そこから国司の邸宅などが発見されているそうです。

別名:ー
種別:平山城(城柵)
築城年:724年
築城者:大野東人

宮城県多賀城市市川字城前

訪問日 2005.4.30
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