まるみのあっちこっち巡り

ー33,000枚を超える写真とともに綴るお出かけブログー

日本100名城 津山城

2022-12-05 14:51:56 | 日本100名城



関ヶ原の戦い後、森蘭丸(森成利)の弟の忠政が
13年間を要して築いた梯郭式平山城で、
日本三大平山城のひとつに数えられています。







美作国津山藩初代藩主の森忠政公の銅像です。
森蘭丸といえば、美少年の誉れ高き人物。

忠政も織田信長に小姓として出仕するものの
幼すぎると母の許に返され、本能寺の変に
巻き込まれずに済んでいます。







津山盆地の中央部に位置し、城の東部を流れる
吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を
防御線に取り入れています。
市街の眺望も良いものでした。







往時は外郭を含めて、広島城の76棟、
姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が
建ち並んでいたそうです。

現在、建物の遺構はありませんが、
その雄大さは際立っているという印象でした。







築城400年記念行事の一環として、
備中櫓復元工事に着手している最中の訪問で、
2002年から2006年までに再建された
備中櫓と土塀が現在はあるようです。







いまだ戦塵が漂う時期の築城であったために
実戦的な縄張りになっています。
そそり立つ石垣に名城の面影を残します。







城跡は国の史跡に指定されています。
春は千本の桜に抱かれた岡山随一の桜の名所、
桜の花に包まれて華やぐ頃に
ぜひ再訪したいと思い続けています。

別名:ー
種別:平山城
築城年:1604年
築城者:森忠政

岡山県津山市山下135

訪問日 2003.7.15
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日本100名城 今帰仁城

2022-12-04 23:27:59 | 日本100名城



沖縄本島北部にある今帰仁城跡は、
世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)、
国指定史跡、日本100名城に指定されています。

標高100mのほぼ独立した丘上にあり、
堅牢な城壁に囲まれたその城は、
やんばるの地を守る要の城でした。







怕尼芝(はにじ)らは北山王を称して
この地を統治していましたが、
中山王尚氏によって滅ぼされた後は、
琉球王府から派遣された監守という役人の居城に。

主郭(本丸)からは中国や東南アジアなどの
陶磁器が多く出土し、往時の繁栄をうかがわせます。

その後、薩摩軍に滅ぼされ炎上、廃城となりました。







「百曲がり」と称される大波がうねるような屏風状の石垣。
古期石灰岩で堅牢に築かれ、
城郭を幾重にも取り囲んでいます。

世界遺産登録以降、城跡は徐々に整備および
修復作業の強化が行われており、
訪問時とは違っているようなので
再訪したいものです。

別名:北山城、今帰仁グスク
種別:山城
築城年:13世紀後末頃
築城者:湧川王子

沖縄県国頭郡今帰仁村今泊4874

訪問日 2002.1.26
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日本100名城 足利氏館

2022-11-07 00:13:07 | 日本100名城



足利氏館は平安時代末期から鎌倉時代初期、
足利氏二代目足利義兼によって築かれたといわれています。
1196年、義兼は邸内に大日如来を祀ったのが始まりです。

太鼓橋は唐破風様の屋根がついた橋で、
江戸時代に再建されたもので、
後ろの山門は十三代義輝が再建した八脚楼門です。







三代目義氏が本堂を建立、足利一門の氏寺となった
鑁阿寺(ばんなじ)は、のちに尊氏が室町幕府を開くと
足利氏発祥の地、氏寺として尊崇され
厚い保護を受けたのです。








寺院であるにもかかわらず「日本100名城」に選ばれ、
本堂は国宝、鐘楼や経堂は国の重要文化財に指定されています。
館は周囲を水堀と土塁で囲まれ、中世地方武士の居館
「方形館」の形状がよく残っています。

別名:ー
種別:平城
築城年:平安時代末期から鎌倉時代初期
築城者:足利義兼

栃木県足利市家富町2220

2019.12.15
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日本100名城 白河小峰城

2022-11-06 00:03:03 | 日本100名城



幾多の歴史をみつめた白河小峰城の歴史は、
結城親朝が14世紀中頃、小峰ヶ岡に
城を構えたのが始めと言われています。







江戸幕府成立後、白河地域が会津領であった頃に
整備された城郭や城下町を1627年に初代藩主となった
丹羽長重が、大改修を行い、現代につながる
白河のまちの基礎ができあがりました。







1932年「奥州の押え」にふさわしい石垣を多用した
梯郭式(ていかくしき)の平山城として完成しました。
総石垣造りに大改修した小峰城の見どころは、
何といっても見事な石垣でしょう。







その後、松平(榊原)、本多、松平(奥平)、
松平(結城)、松平(久松)、阿部の六家十九代が居城。

阿部家が移されると、幕領、新政府領と変遷します。
戊辰戦争では、約3ケ月にわたり戦い、
城内の建物や城下町の一部が焼失しました。







小峰城の三重櫓は、本丸の北東部に建つ
三層三階の櫓で、天守の代用となっており、
城郭の象徴となっています。

1991年、「白河城御櫓絵図」や発掘の成果をもとに、
木造で忠実に復元されたのだそうです。







1994年には本丸の大手口にあたり、
表門とも言われる前御門も復元されました。
それらが、江戸時代に築かれた
見事な石垣の上に建っているのです。

別名:喜春城
種別:平山城
築城年:1340~1346,1629~1632年
築城者:結城親朝、丹羽長重

福島県白河市郭内1-2

2019.9.14
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日本100名城 明石城

2022-11-05 00:26:21 | 日本100名城



大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、
一国一城令が下され、
その四年後に完成した明石城。

二代将軍徳川秀忠が築城を命じた
西国を睨む堅城です。







初代明石藩主は、織田信長と徳川家康の二人を
曽祖父に持つ小笠原忠真でした。







城は明石海峡を望む丘陵地に連郭式に築かれ、
本丸・二の丸・三の丸の石垣・堀の工事は
幕府直営で行われたそうです。







本丸四隅には三重の隅櫓が建てられましたが、
現存するのは左の坤櫓と巽櫓の二棟だけで、
国の重要文化財に指定されています。

本丸跡に建つ巽櫓・坤櫓は、
日本に12基しか現存していないとか。







西南隅に建てられた坤櫓は、城内最大の櫓で、
天守の代用にされたとみられるそうです。
伏見城の遺構になります。







豪壮な石垣、約500㎡の広さの天守台がありますが、
ついに天守は築かれることはなかったのです。
天守台は熊本城天守と同規模で、
五重の天守が建築可能な大きさです。







阪神・淡路大震災で被害を受けましたが
全面修復されています。

別名:喜春城
種別:平山城
築城年:1619年
築城者:小笠原忠真
天守の構造・形態:天守台のみ残る

兵庫県明石市明石公園1-27

2019.8.9
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日本100名城 大阪城

2022-11-01 15:23:25 | 日本100名城



広大な大阪城の中心にそびえる大阪城天守閣。
現在の天守は三代目、初代は豊臣秀吉が築いた大坂城。
二代目は徳川秀忠再建、豊臣時代の城郭に盛土し、
五層五重地下一階の天守を建築しました。







今の天守は初代をモデルにして建てられており、
五重八階、鉄骨鉄筋コンクリート造り、
1931年に市民の熱意によって復元、
1997年に国の登録有形文化財となりました。







大坂夏の陣図屏風に描かれた外観も参考にし、
天守四層までを江戸時代の白漆喰を元とし、
五層目は豊臣時代を基として
黒漆喰に金箔で虎や鶴の絵を描いています。







天守へ登城することにしましょう。
現代建築によるコンクリート製、
一般の人は階段を使いますが、エレベーターも完備、
ロマンを感じるのも遠のくかもしれませんが・・・。

諦めずに誰もが見学できる城があっていいと思います。







1階が天守閣の入口、シアタールーム、ショップ、
2階が城の情報コーナー、
3,4階が豊臣秀吉とその時代の展示、
5階が大坂夏の陣図屏風の世界の展示、
7階が豊臣秀吉の生涯の展示となっています。







そして、8階が展望室。
地上50メートルから、広大な大阪城と
大阪の街を一望できます。







この出入り口は、車椅子でも通行可能。
壮大な風景を楽しめるので
滞在時間も長くなりがちです。







学生時代に一度登城したことがありますが、
天守閣へ登るまでの距離が長くて大変であった
記憶しか残っておらず、写真として記録することの
重要性を感じているこのごろです。







現在の天守閣で使われている鯱、伏虎などの
原寸大レプリカが展示されています。







要所要所に屈折が設けられ
横矢がかかるようになっている内堀石垣。







天下人秀吉の権力の象徴として燦然と輝いていた時代と
秀吉の死後、徳川家康によって大坂冬の陣・夏の陣で
豊臣家が滅ぼされてしまう悲劇の時代とを
併せ持っている大阪城です。

別名:錦城、金城
種別:平山城
築城年:1583年、1620年
築城者:豊臣秀吉、徳川秀忠
天守の現況・形態:望楼型、五重八階、鉄骨鉄筋コンクリート

大阪府大阪市中央区大阪城1-1

2019.5.18
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日本100名城 国宝 松本城

2021-11-07 13:15:21 | 日本100名城



黒漆塗り下見板張の美しい天守は、市民から
「烏城」と呼ばれて親しまれている城です。
四百年余の風雪に耐えた黒い城に
薄いピンクの桜が春を告げています。







現存する日本最古の天守は、
複合連結式層型五重六階、大天守と小天守、
辰巳附櫓のバランスのとれた絶妙な配置で
見るものを圧倒し、感動を与えてくれます。







戦うための黒い堅固な天守と、平和な時代になって
造られた優雅な辰巳附櫓・月見櫓。
数々の築城技術を今に伝えている国宝・松本城は、
戦国時代に造られた深志城が始まりです。







天守と乾小天守のある石垣造りの近世城郭に
改築したのは、石川数正・康長父子で、
1593年~1594年のことと考えられているそうです。

写真左端が月見櫓ですが、天守に月見櫓が隣接している例は、
松本城の他は残っていないという優美で風流なもので、
1634年徳川家康の孫・松平直政によるものです。







天守から見た内堀と朱色の埋橋、松本の街を一望。
ここからの眺望を楽しむのはなんと33年ぶり三度目。
チケットを購入すればすぐに登城できだのに、
今の「城人気」を実感するまるみです。







行列が少し短くなったようですが・・・。







譲り合って、上ったり下ったりしないと危ないですよ。
シニアの方や子どもに注意して!

天守閣の外からは5階に見えますが、
内部は6階になっていて
窓のない暗い部屋(天守3階)があります。

戦の時に武士が集まるところで、
敵には秘密の階でした。







昭和27年国宝に指定されたのですね。

明治維新後、天守が競売に出されるも地元有力者などにより、
天守を買い戻し、保存会を立ち上げて12年間がかりの
明治の大改修を終え、天守倒壊の危機を救った、
地元を愛し、守った多くの人々がいたからこそで感動です。







別名:深志城
種別:平城
築城年:1593年~1594年
築城者:石川数正・康長
天守の構造・形態:五重六階 木造(現存)

長野県松本市丸の内4-1

2019.4.14
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日本100名城 上田城

2021-11-06 13:00:28 | 日本100名城



千曲川に面した丘の上に位置する上田城は、
真田氏の城として有名ですが、
現在見られる櫓、堀、石垣に大改修したのは
仙石忠政氏によるものです。







真田幸村の父、昌幸によって築城されたのは1583年。
その2年後に戦の舞台となり、領地の沼田(群馬県)をめぐり、
徳川家康と対立し、徳川軍を撃破した城となるのです。

15年後には徳川秀忠が城攻めをするも
真田方の伏兵に迎え撃たれ、諦めましたが、
上田城にてこずり天下分け目の決戦に
秀忠は間に合わなかったのです。







真田石の伝承

城主はその権威を示すために大手の石垣に巨石を用いるとか。
真田信之が松代に移封を命じられた際に、
父の形見として持っていこうとしましたが、
微動だにしなかったという伝承があるのだそうです。







かつては七棟あった本丸の櫓のうち
現存するのは西櫓、南櫓、北櫓の三棟、
二重二階で規模も全く同じ、
屋根は入母屋造り、本瓦葺きです。







明治維新後、上田城にあった櫓は西櫓の他は売却され、
1944年に有志によって買い戻され、
城跡に建て直されのだそうです。
南櫓、北櫓は遊郭で使用されていたとか。







窓の真下は尼ヶ淵、かつては堤防がなく、
一面河原で千曲川の分流が
深い淵を作って流れていたことから
「尼ヶ淵城」とも呼ばれていたそうです。







真田氏が居城としていた時代の上田城は、
天然の要害に守られていたものの堅城ではなく、
用兵、戦術の巧みさで大勝した真田氏にあったようです。

別名:尼ヶ淵城、伊勢崎城、松尾城、真田城
種別:平城
築城年:1583年
築城者:真田昌幸

2019.4.13
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日本100名城 小田原城

2021-11-05 12:00:00 | 日本100名城



小田原城は、難攻不落で真っ向から
攻め落とせない城ですが、その起源は定かではなく、
1417年の室町時代の頃に大森頼春が
築城した城ではないかとされています。

その後、北条早雲に城を乗っ取られ、
その早雲が難攻不落の大城に
変貌させたと言われます。







天守閣の高さ比べのようですが、地下から測ったもの、
土台から測ったものなど高さの測定基準があいまいであったり、
現存する天守か復元天守かによっても
そのランキングに相違はあるようなのですが・・・。







築城当時は、天守の裏にある丘陵地の八幡山周辺だけでしたが、
上杉謙信と武田信玄に攻め込まれた経験から領域を広げ、
土塁で囲み、城塞が完成し、天守と城下町を備えた
総構の城郭としては当時日本一のものであったそうです。







豊臣秀吉の策略によって落とされることになり、
秀吉から家康に与えられ、家臣の大久保氏に城主を任せ、
中世の規模から石高も城郭も縮小されることになりましたが、
東海道の要衝を守った堅城であったのです。







天守最上階の5階、展望デッキからの眺望は圧巻、
箱根の連なる山々と相模湾を眺めることができます。

平成の大改修により、外装とともに展示が一新され、
一部江戸時代の天守も再現されていました。







別名:ー
種別:平山城
築城年:15世紀
築城者:大森氏、後北条氏、大久保氏、稲葉氏

神奈川県小田原市城内6-1

2019.4.6
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日本100名城 名古屋城

2021-11-04 22:15:18 | 日本100名城



復元の五層五重の大天守閣がそびえる名古屋城。
1930年城郭建築における初めての国宝に指定、
1945年の名古屋空襲により本丸のほとんどを焼失、
1959年名古屋のシンボルとして再建。







耐震性が低いことに対応するために天守閣は閉館、
天守閣の木造復元を進めています。
かつて天守閣に登ったことがありますが、
名古屋市街が眼下に納まる風景が見られず残念。







2009年から復元工事を開始していた
本丸御殿が、2018年6月8日に完全公開。

初代尾張藩主の住居・政庁として使用するため、
1615年、徳川家康により建てられた
本丸御殿の復元になります。







総面積約3100㎡、部屋数は30を超える平屋建、
天守とともに国宝に指定された名建築。

空襲により焼失、史実に忠実な復元を実現し、
400年の時をこえて、建築当時のままに
美しい御殿建築がよみがえっています。







天井の板絵や襖絵、極彩色の欄間彫刻など豪華絢爛、
細部にわたる豪華な装飾は目がくらむようです。

部屋の格式や用途によって、天井や欄間、飾金具、
障壁画などのつくりや意匠が大きく変化します。
現代の職人による匠の技にも注目です。







主な遺構の一つである東南隅櫓を見学。
本丸の南東隅にある屋根二重・内部三階の櫓で、
重要文化財に指定されています。







春・秋に内部の特別公開を行っています。
入場制限をしており、櫓の見学も行列です。







出窓には「石落し」が設けられています。
かつてはこちらの櫓に
武具が収められていたとか。







天守から眺めたかったのですが、
櫓の上部から







鉄筋コンクリートで再建された天守の石垣に沿うのは雨樋。
現存する姫路城天守の3倍以上の容積をもつとか。







徳川家康が大阪城包囲するためとも解される
名古屋城は、天下普請で天守・子天守を
中心に多くの櫓・城門を設け、
最大かつ最強の近世城郭を完成。







名古屋城と言えば、金のシャチホコ。
空想上の神獣である鯱ですが、顔は虎がモチーフ、
水を呼ぶと言われることから
火除けのまじないとされてきたそうです。

徳川家の権力・財力を誇るもので、
張られた金の量は慶長大判1940枚と言われるとか。
南側の雌が金量43.39㎏、北側の雄が44.69㎏の
18金が使われています。







別名:金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城
種別:平城
築城年:1610年、
築城者:徳川家康

愛知県名古屋市中区本丸1-1

訪問日2019.3.23
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日本100名城 江戸城

2021-11-03 15:04:48 | 日本100名城




徳川幕府が威信をかけて築城した将軍の城は、
段違いに巨大な日本最大の城郭である江戸城で、
総構を入れると千代田区がすっぽりと入るほどです。

世界遺産の姫路城でも内郭は、
江戸城の四分の一以下になります。







江戸の地の利に最初に気づき、築城したのは太田道灌。
1457年に築城し、江戸の町の整備にも着手しますが、
主君に殺害された後は、明確な城主を持たずに江戸城は荒廃。

関東入りした徳川家康は、まず市街地の整備を行い、
江戸城の改築に着手、加藤清正や福島正則など
外様大名を呼び寄せて普請にあたらせ、
およそ30年で完成で完成しました。







天守は1667年の明暦の大火で焼失し、
以後造営されることのなかった天守台。

石垣がまだらなのは八代将軍吉宗の代に焼けた
伊豆石をはずし、小豆島の御影石を加えて
石積みをやり直したからだとか。







本丸は芝生が広がっていますが、
江戸時代はぴっしりと
御殿が建て込んでいました。







江戸城への入り口はいくつかありますが、
大手御門などから入場する際、
手荷物検査を受け、
入園票を受け取り入場します。







三之御門渡櫓跡の南に建つのが百人番所で、
甲賀組、伊賀組、根来組などの鉄砲百人組が
昼夜交代で警備、百人組は与力20人と
同心100人で構成されていました。







主な遺構は、櫓、城門、番所、本丸、二の丸、
三の丸、西の丸、北の丸、石垣、濠。
北の丸、本丸、二の丸、
三の丸は一部見学ができます。







将軍慶喜の恭順により、皇居になりましたが、
江戸城は一度も戦禍を被ったこともなく、
歴史上最大かつ最強にわたり全国を統治したその城は、
今は天皇家を抱え、悠然と佇んでいるのです。







江戸時代のものが残っている桜田門と桜田濠。
城と同様に濠も広く、内堀を一周するだけでも
その土木量の巨大さ、防御力などを実感できます。

別名:千代田城
種別:平城
築城年:1457年、1606年、1622年、1637年
築城者:太田道灌、徳川家康、徳川家忠、徳川家光

東京都千代田区千代田

訪問日:2019.1.26他
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日本100名城 武田氏館

2021-11-02 14:44:56 | 日本100名城



戦国の雄、武田氏三代(信虎、信玄、勝頼)の
居館があるのが、全面(南)に甲府盆地、
遠くは霊峰富士、甲斐連山を望み、
後方に石水寺、要害山を控えた景勝の地です。

周囲の堀、土塁等は当時のままで、
戦国時代第一級の居館と称賛されています。







甲斐源氏の流れを汲む18代当主信虎が甲斐を統一し、
1519年に居宅を石和から移し、館を築いたことに始まり、
翌年には背後の山上に籠城するための詰城、
要害山城を築いています。







四方を水掘りと土塁で固め、周囲に曲輪を配置、
水掘りや空掘りでつなぎ防備を固めています。
現在は、武田信玄をご祭神とする
武田神社となっています。

別名:躑躅ヶ崎館
種別:平城
築城年:1519年
築城者:武田信虎

山梨県甲府市古府中町2611

訪問日:2018.11.3
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日本100名城 国宝 犬山城

2019-05-27 00:22:40 | 日本100名城



室町時代の1537年に築城された犬山城の天守は、
現存する日本最古の様式と言われています。

織田信長の叔父、小田信康が尾張と美濃の国境に
築城したのが始まりで、幾多の戦乱では、
信長・秀吉・家康の天下人が奪い合った名城です。







江戸時代初期にかけては城主は目まぐるしく入れ替わり、
1617年尾張藩付家老、成瀬正成が城主になってからは、
成瀬氏が代々受け継いで幕末を迎えました。







1891年濃尾震災をきっかけに再び成瀬氏が天守の所有者となり、
2004年までの長きにわたり個人所有の城として知られ、
成瀬家が自費で修理・保存につとめてきました。
(天守に登る際には階段に注意して







江戸時代の犬山城は中山道と名古屋道に通じ、
真下を流れる木曽川による
交易の要塞として栄えました。







日本に国宝の城は5城ありますが、その1つが犬山城。
他に姫路城、彦根城、松本城、松江城が国宝です。
この5つの城を訪れていますが、
私の一番の好みが犬山城です。







豪華でも巨大でもありませんが、凛とした美しさがあり、
木曽川越しに見る犬山城は、小高い山の上に建てられ、
格別の趣があり、舟から眺めたいものです。

そして、天守最上階からの眺めはまさに絶景、
言葉を失うほどなのです。







眼下に濃尾平野や木曽川の絶景が一望でき、
対岸は岐阜県ですが、晴天の日には
名古屋城や岐阜城も望むことができるそうです。







自然石をそのまま積み上げた「野面積」の石垣は、
戦国時代に見られる初期の石垣の構造です。
排水性に優れ、頑丈ですが、
敵に登られやすいという欠点もありました。







別名:白帝城
種別:平山城
築城年:1537年
築城者:小田信康

愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2

2019.3.21
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日本100名城 高知城

2018-07-10 12:44:20 | 日本100名城



関ヶ原の戦い後、大高坂山に山内一豊が
築いた近世城郭の高知城があります。

本丸には天守の他に建造物が多く存在します。
天守に接続している本丸御殿は、現存する貴重な御殿遺構、
天守と本丸御殿が両方現存しているのは高知城のみとか。
高知城は本丸の建造物が完全に残る唯一の城です。

1727年の大火で追手門以外の殆どが焼失、
その後1753年までに再建しています。







天守閣内には文化歴史資料を展示しています。

明治6年に発布された廃城令や、戦災を免れ、
天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、
国の重要文化財に指定されています。







天守閣からの眺望です。

城の周辺には高知市役所、高知県庁、
地方裁判所、地方検察庁などが立ち並び、
高知県の行政の中心地になっています。







本丸と二の丸の間に詰門が置かれ、
南側の廊下門と一体となった構造をしています。
石垣の上に渡櫓を載せ、大石の石垣とで枡形を構成、
外側から城内を見渡せないにするためでもあるようです。







城内には一豊と妻の千代、
板垣退助の銅像が立っています。

別名:鷹城
種別:平山城
築城年:1601年
天守構造:望楼型 四重六階 木造(現存)
築城者:山内一豊

高知県高知市丸の内1-2-1

2005.3.4
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日本100名城 和歌山城

2018-07-07 00:41:43 | 日本100名城



紀伊徳川家の威光を示す巨城である和歌山城は、
和歌山市の中心部に位置する標高48.9mの
虎伏山(とらふすやま)に立つ和歌山市のシンボル。

現在、城跡として現存しているのは、
最盛期の4分の1ほどの面積とか。







1935年国宝に指定されましたが、
1945年7月9日の和歌山大空襲で焼失。

戦後市民からの要望もあり、
1958年に鉄筋コンクリート造に復元され、
連立式天守群が甦りました。

紀伊を平定した羽柴秀吉に命じられ、
弟の秀長が築城を開始したのが1585年。
翌年秀長の城代桑山重晴が入城し、
関ヶ原合戦には浅野幸長が入り、城は大拡張。

1619年徳川家康の十男頼宣が入封し、
御三家の格式にかなう大城郭へと拡張します。







時代によって石の種類や石垣の積み方などが異なり、
野面積・打込接・切込接へと変化しています。
豊臣・浅野時代の石垣には刻印された
石垣石があるのも特徴です。

別名:竹垣城、虎伏城
種別:平山城
築城年:1585年、1600年、1619年
天守構造:層塔型 三重三階 鉄筋コンクリート造
築城者:羽柴(豊臣)秀長、浅野幸長、徳川頼宣

和歌山県和歌山市一番丁3

2008.4.29
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