飛行中年

空を飛ぶことに薪ストーブ、そして、旅をこよなく愛する一人の中年のブログです。

「自殺」を考えている方へ…。生き方はいくらでもあるんですよ!

2020-08-31 21:10:44 | 人生論(life)
私はここ最近、友人が経営するパラグライダー、ハンググライダーのスクールを、週末だけ手伝っているのですが…。

先日、その仕事をしていた時、山中の道路わきに首つり死体が発見されました…。

と、言っても、これ、ここでは決して珍しいことではありません。

ここいらの山中では、年に一回程度、自殺死体が見つかっているのです…。

こんな出来事が起こるたびに、いつも私は思うのですが…。

人生、生きている限り、いくらでもやり直しは利くんだから…。と、いうことなのです。

もし、このブログを読まれている方の中で、上記のような「自殺」を考えている方がいたら、ちょっとこの記事を

読んでみてください。おそらく、自殺が馬鹿らしくなると思いますよ!




私は若いころから旅が大好きで、いろいろなところに行って、様々な考え方を持つ方に出会ってきました。

そんな中で、実は人には人の数だけ「生き方」があることを学び、実は人生って自由奔放に、いくらでもいろいろ

な生き方ができるんだ!
ということを知りました。

世の中には、実に面白い生き方を選択されている方が大勢います。

例えば…。

シャケバイ、キビバイという言葉をご存じでしょうか?

もし知っていたら、あなたはかなりのアウトローでしょうね!(笑)

これ、どういう意味かというと…。

プロのプータローなんかが、仕事と旅を求めて、夏は北海道でシャケの加工のバイト、そして、冬になると暖かい

場所を目指して南下し、沖縄の離島あたりでサトウキビの刈り取りのバイトをして、生活をしていることを表している言葉なのです。


もちろん、これは一年のサイクルで続けられるので、これだけで日本列島を北に南にと旅をして、ずっと生計が立てられます。

具体的には、シャケバイの場合、ちょうど今頃くらいから北海道の標津あたりで、遡上してきたシャケの加工の人手が地元の方だけでは足りなくな

るため求人をするのですが、なかなか人が集まらないため、バイクや自転車旅の人たちまで捕まえて、何とか人手を確保しようとしています。



こういうところの就業条件として、当然ながら宿泊場所などもたいていは準備されており、だれでもすぐにそこで

働き始めることが可能なのです。


とにかく、この時期だけは人手がどうしても必要なのですから…。

同じように、冬になると、今度は沖縄あたりの離島で、「キビバイ」が始まるのです。



これもシャケバイと同じように、その時期だけはサトウキビの刈り手が足りないため、宿泊場所付きの条件で人手を確保しようとしています。

つまり、このシャケバイキビバイだけでも、それをしている間はお金と暮らす場所は確保できるということです

ね!



このような仕事と住む場所が得られるものに、援農というものがありますよね!

これも季節的な仕事ではありますが、農業は時期によって忙しさが変わるため、忙しい時期のみ宿泊場所付きで労働者を募集するというものです。

和歌山の有田あたりでは、よくミカン栽培の援農の求人があると聞きますが、私の実家がある同じく和歌山の田辺市付近でも、初夏から夏にかけて

梅農家が人手が足りなくなるため、よく働き手を募集しています。

これらも多くは住む場所が準備されています。

また、夏場の北海道では、先ほどの「シャケバイ」の他にも、ジャガイモやトウモロコシなどの収穫で人手が足りなくなり、農家の方たちは働き手

を募集されています。

傑作なのは、夏場、日高あたりで行われている「昆布採り」の仕事…。



日高の昆布はブランド品ですから、その資源は厳密に管理されており、採集できる範囲はその日によってきっちりと決められています。

昆布漁を生業とされている方たちはそのルールを順守して漁をするわけですが…。

基本的に、人手が多いほど収穫できる量も多くなり、収入も多くなるため、時に旅人までも捕まえてバイトを迫っ

てくることもあるようです。


特に自転車やバイクで旅をされている方、さらには、早朝にこの辺を通る方は要注意!

地元の漁師さんが道路わきで待ち構えて、「お前今日一日ウチで働いていけ!」と、強引につかまえてしまうこともあるそうです。(笑)



こんな風に、あなたの労働力を求めている人は、時期によってではありますが日本中にあるわけであり、実は、生きていく上で必要なお金や住む

場所なんてのは、どうにでもなってしまうというのが現実のようです。

今、死んでしまっても、実は何も問題は解決せず、ただ、人に迷惑をかけるだけで終わってしまいます。

それよりも…。

一時だけでも、今の苦しい世界から逃れて、別の世界で生きてみることを考えてみませんか?

今まで出会ったことのない人種や、自由に生きている人を見たら、また、あなたの新しい生き方が見えてくるかもしれませんよ。

そうして…。

また、新なあなたの人生が見えてきたならば、きっと、あなたはこの先幸せになれると思います。






人生、死ぬまではいくらでもやり直しはできるんですよ…。


















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いわゆる「業界」の厳しさを学びました。

2020-07-06 20:38:06 | 人生論(life)
実は私、以前、子供向けの戦隊ものの「スーツアクター」を経験したことがあります。

スーツアクターといっても、ハンググライダーの飛行シーンのみ。

この戦隊ものは、主人公がハンググライダーを操るという設定だったのですが、この飛行シーンを担当したということなのです。

で、この撮影の時だったのですが、いわゆる「業界」の厳しさの一部を私は見てしまったのです…。


(注)写真と今回のお話は一応関係ないことにしておきます。


撮影の日は、大型バス2台で、スタッフの方々がハンググライダーの飛行場にやってきました。

撮影班はもちろん、いわゆる「AD」の方々、衣装、小道具、アクション班。さらには、この番組がらみで販売する玩具の会社の方々や、その玩具の

パッケージに使う写真の撮影の方々まで…。

正直、そのスタッフの方々の多さに、如何にこの戦隊ものの番組でお金が動くのか、よ~く分かりました

撮影の日は、あいにくハンググライダーの飛行には今一つの気象条件…。

しかし、撮影はこの1日だけしかありませんでした。

朝から打ち合わせをして、何とかうまく良いシーンが取れるように私たちも頑張りますが…。

やはり、気象条件がイマイチなのでなかなか良いシーンが撮れません。

しかし、昼頃になって、何とか良い気象条件になってきたのです!

やるなら今しかない!!

ハンググライダーの飛行担当は私を含め3名でしたが、皆の共通の意見で、撮影するなら今しかないので、昼食は後回しに

して撮影しましょう!と、監督さんにお願いしたのです。


もちろん監督さんは二つ返事でOK!

かくして、昼食返上の撮影へと移行する形になりました。

このとき、すでにスタッフ皆さんの昼食は準備されていたのですが、私は何の考えもなく、ADさんやその他のスタ

ッフの方々に、「私たちは撮影を続けますから、あなたたちは先に昼食をとってくださいね。」と言ってしまったのです。


しかし、この一言が、如何に私がいわゆる「業界」の厳しさをわかっていなかったのかを知ることになりまし

た…。





皆さんの協力もあり、撮影は無事終了!

良かったね~と、監督さんやカメラマンさんと話しながら、その他のスタッフの方々が待っている現場に戻ってきたのですが…。

そこに行ってビックリ! スタッフの方々誰一人、準備されていた昼食に手を出していなかったのです!

私はこの光景を見て一瞬で悟りました。これが「業界」なんだと…。

考えてみれば、この現場で一番の発言力を持っているのは、この日の撮影を全面的に指導する私たちハンググライダーの飛行班にあります。

この飛行班が、「昼食返上でやりましょう!」と押してくれば、監督さんやカメラマンさんなど、撮影を指揮する方々もそれに従うしかあり

ません。


しかし、本来このような方々は、番組作りで一倍上位に位置する方になります。

昼食をとらなかったスタッフの皆さんは、そんなエライ方々を差し置いて、自分だけ先に昼食をとるなんて考えら

れない世界。それがいわゆる「業界」だったんです!


私はそんないわゆる「業界」の厳しさも知らずに、スタッフの方々に「先に昼食をとって」といったことをとても反省しました。

この時の流れとしては、やはり、私たちが判断した「昼食返上」の判断は正解だったと思いますが、気を使ったつもりで言った私の一言は、後になっ

て、やはり、余計であったと私は反省しました。



みなさん、自分の夢を追って日々努力されています。

その中では、当然厳しい上下関係や現実も突き付けられるわけであり…。

しかし、そんな厳しい現実に打ち勝ってこそ、本当の自分の未来が築けるわけであり…。

ここにいたスタッフの方々は、そんな努力を一生懸命されている方々だったのでしょう。

そんなことを私はこの出来事から学びました…。





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中国残留孤児って知ってますか?

2018-06-19 20:47:07 | 人生論(life)
今の日本の社会の中で、マスコミやネットなどで「中国」を叩くような文面のものを目にすることがあるのですが…。

はっきり言って、同じ日本人としてそのような行為を私は恥ずかしく思います。

なぜそのように中国を毛嫌いするのか…。

確かに日本叩きをしたり、日本を毛嫌いする中国人の方はいます。しかし、それは一部に過ぎないはず…。

なのに…。妙に中国人みんなが日本が嫌いかのような報道をして…。

少し視野が狭すぎるような気がしてならないのです。


もともと日本は、太古の昔から中国より多くのものを学んでいます。

水稲栽培から始まり、遣唐使の派遣より仏教や多くの学問が中国から入ってきました。

鑑真和上は、日本の仏教を立て直すために、その生涯を日本に捧げています。

そして…。

皆さんは中国残留孤児ってご存知でしょうか?

もう若い方には分からないかもしれませんが、中国に残された日本人の赤ん坊が中国残留孤児となっています。

なぜそのようなことになったのか…。

そのことを今一度整理し、隣国の中国との関係を考え直してほしいと思い、今回このブログを書かせていただきます。




19世紀から20世紀中ほどにかけ、世界の国々は自国の豊かさにつながる行為だと、大義名分を謳いながら多くの間違いを犯していました。

そんな中、日本も中国の北東部に「満州」という国を作ってしまったのですが、そのいきさつは…。

満州は本来中国の領土でしたが、日露戦争の結果、当時の二大帝国主義国家であるロシアと日本が、弱体化していた中国の頭越しに1904年に条約を結び、日本は満州での権益を獲得しました。

日本が手に入れたのは南満州鉄道の経営権と遼東半島の租借権だけでした。そしてそれを護る為に派遣されたのが日本陸軍の関東軍と呼ばれる部隊でした。

しかし関東軍は日露戦争の結果ロシアから譲り受けた権益だけでは満足せず、満州全土を日本のものにしてしまえと1931年に軍事行動を起こします。

いわゆる「満州事変」です。

関東軍は、中国軍が攻めてきたから反撃しただけ、と言い訳けをしましたがもちろん誰も信じません。

昭和天皇は激怒、「今後私の承認なしに軍隊を動かす事はまかりならん!!」と。しかし結局は後承諾。それどころか陸軍が一丸となって天皇を無視し、首謀者たちは爵位を受けたり昇進したり、、、。

いわゆる「軍の暴走」がここから始まったのです。

関東軍の満州侵略は世界から非難され、中国の提訴によって国際連盟が調査団を結成。日本、中国、満州を訪問して調査活動を行いました。

日本は国際連盟が日本に対して要望を出す前に、1932年に「満州国」を設立(のちに満州帝国と改名)。20年前に崩壊していた清王朝の廃帝の溥儀を引っ張り出して満州帝国皇帝にしました。

映画「ラストエンペラー」で紹介されたあの溥儀です。

「満州は中国人がトップの独立国だ!」と関東軍は言って世界を誤魔化そうとしました。しかし現実は満州国は100%日本の傀儡国家(日本の言いなりになる操り人形の国)でした。

そして1933年、国際連盟総会で満州国を否定する決議が全会一致で成立(反対は日本だけ)。その結果に日本は仕方なく国際連盟を脱退。

そして元から住んでいた中国人農民を追い出して日本から大量の開拓民を導入し、実質日本の国の一部のようにしました。

と、ここまでが「満州」ができたいきさつですが、ご存知のように日本は戦争に負けます。

そのとたん…。

満州にいた日本人は地獄を見ることになったのです。

敵国の真っただ中にいた日本人の多くが虐殺されました。

殺されまいと必死に逃げる日本人…。

この時、まだ何も分からず、いつ泣き出すかも分からない赤ん坊が邪魔だったのです。

赤ん坊を抱えた日本人は、一部の望みを託し、その赤ん坊を置き去りにしたのです。

ひょっとしたら、心ある中国の方に拾われて、育ててもらえるのではないかと…。

これが「中国残留孤児」なのです。

置き去りにされてしまった日本人の赤ん坊…。

しかし、その多くは心ある中国人の方に「赤ん坊には罪はない」と拾われて、わが子同然に育てられたのです。

おそらく、敵国の赤ん坊を拾い上げた中国人は、周りからは白い目で見られたと思います。

しかし、そんな逆境を乗り越えながら、日本人の赤ん坊を立派に育て上げた多くの中国人の方がいるのです。


たとえ国や政治がどのように動こうと、人間として正しいと思う道を選び、日本人の赤ん坊を育て上げる…。

私はこれこそ正しい人間の生き方だと思います。

当時、日本がこれだけ中国に嫌われていた時代に、その国の子供を拾い上げ育てた中国人が大勢いたこの事実を、私は皆さんに知っていただきたいのです。

不思議なのは、こんな大切な事実が教科書などには載せられていないこと…。

「中国残留孤児」に関することも、どんどん歴史の中から忘れ去られようとしていることです。

私は思うのですが、このような事実こそ忘れてはいけないのではないでしょうか?

そして、国と国の平和な関係を作り上げていくには、政治家同士が話し合うよりも、まずは中国残留孤児を拾い上げたような、人として正しい生き方できる人間同士がお互いの国の間で交流しあい、そして、平和へ

の道を切り開いていくことが重要だと私は思うのです…。



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大川小学校…。

2016-11-09 09:15:42 | 人生論(life)
先日、以前よりどうしても訪れたかったところへ行ってきました。

その場所は…。

大川小学校です。



このブログでご紹介しようと写真を撮りましたが…。

ごめんなさい。もうこの場所でつらくなり、これ以上は写真が撮れませんでした。



大川小学校。

東日本大震災にて、全校生徒108人中7割の74人が亡くなった小学校です。

この場所に訪れてみると、平日にもかかわらず何人かの方たちが、やはり、私と同じように手を合わせに訪れられていました。


実際、この場所に来てみると、いかにあの震災の津波が凄まじかったかが良くわかります。

めちゃめちゃに壊れた窓や壁…。そして、私が一番驚いたのは、二階どうしをつなぐ鉄筋コンクリート製の渡り廊下があっけなくな

ぎ倒されていたことでした。


こんなもの、ダンプでぶつかってもそうそう倒れることはないのではないでしょうか?

いかにあの津波が凄まじかったかをうかがうことが出来ます。


そもそも、なぜあのような悲劇が起こってしまったのでしょうか?

調べてみたのですが…。

実は、石巻市が出した津波浸水予想図では、大川小学校までは津波が来ないことになっていたのです。

そして、津波に襲われたはずの大川小学校自体が、避難所として指定されていたようです。

そのため、そこにいた方たちはそこを「安全な場所」と思い込んでいたのではないでしょうか?

ちなみに上に紹介した津波浸水予想図は、先の昭和の三陸津波を参考に作られたものだったようです。

しかし、実際には、東日本大震災時はその津波の規模の大きさが想定外だったため、まったく間違った情報図になってしまったのです。

私は現地に行って、地形を見てみたのですが…。

まず、海岸の形状が津波が河口に集まり津波の増幅が起こる形状であったこと、

海から4キロも離れた大川小学校ではありましたが、海抜高度はそれほど高くなく、海面の高さとそれほど変わらない位置にあった…。

そんなことから、津波に対しては十分警戒すべき場所だったように思えます。

つまり、市が出した津波のハザードマップそのものが甘かったのではないか?そう思えてならないのです。

このことについて、これから私たちはじっくり考えていかなければいけないと思います。

そもそも、それまで津波とは実際にはどのようなものか?その性質が正確に理解されていなかったのではないでしょうか?


今回の東日本大震災は、二つの地震がほぼ同時に起こった「複合地震」です。

そのような、複数の地震が同時に起こった場合、単発の地震よりも津波が大きくなることが、今回の東日本大震災で分かりました。

まさか、そんな大きな津波が来るなんて…。それが予想が出来なかったことが、東日本大震災の被害を大きくしてしまったと言える

と思います。



私は思うのですが、もっと過去に起こった災害を正確に調べ上げることが、今回の大川小学校のような悲劇を防ぐための第一歩にな

るのではないか?と、言いたいのです


たとえば、鎌倉大仏の本殿…。

現在はありませんが、建設当時はちゃんとありました。

しかし、これ、津波で流されているのです。

鎌倉幕府が設立したのは約800年前…。それから現在までの間にとんでもない大津波があったのです。

そして、鎌倉の海岸線の形を見てみると、大仏がある丁度海側に「稲村ケ崎」があり、津波が増幅して大きくなる危険地域であるこ

とがわかります。


しかし、ずっと津波の増幅現象は知られないままになっており、それがはっきり分かったのが北海道の奥尻島での津波

ででした。

岬近くの集落が、津波の増幅現象でほとんどのみこまれてしまったのです。

この出来事が起こって、ようやく津波の増幅現象の研究が進められるようになりました。

しかし、鎌倉大仏の出来事が歴史の中にあったわけですから、もっと早くその現象を知るべきだったように私には思えるのです。

今回起こった東日本大震災についても、昭和の三陸津波の情報だけでなく、更にさかのぼって過去の津波の形跡を調査していれば、

その規模を予測し、より正確なハザードマップが作成できていたんじゃないか?そして、大川小学校の子供たちを救うことができていたんじゃ

ないか?そう思えてならないのです…。















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本田宗一郎に歯向かった男…。

2015-03-24 22:16:30 | 人生論(life)
先日、某テレビ局の鳥人間番組製作スタッフから連絡があった。

「毎年審査員として参加されていた坂田さんが、今年は辞退されます。」と…。


縁あって、数年前から私は鳥人間大会のお手伝いをさせていただいているが、坂田さんはその仕事の中でとてもお世話になった方だ。

琵琶湖の鳥人間大会では機体の数が多いため、いつも二班にわかれて飛行前に機体の審査をしているのであるが、坂田さんはいつも私がいる班

で長をされている方だった。

実を言うとこの坂田さん、あの本田宗一郎に唯一歯向かった伝説の技術者であったことに私が気付いたのは、恥ずかしながら昨年のことであっ

たのである…。



ホンダが四輪車を製造するようになってから数年後、アメリカで厳しい排ガス規制が敷かれ、どの自動車メーカーもこの厳しい排ガス規制をク

リアしようと躍起になっていた。

ホンダもそんな排ガス規制をクリアする車の開発に力を入れ、新しい燃焼方式「CVCC」を使った新型車を開発しようとしていた。

その時本田宗一郎は、「何が何でもアメリカの自動車メーカーに勝て!」と、激を飛ばしていたという。

そんな宗一郎に疑問をもち、「自動車とは人にやさしく社会の役に立つことを最優先に考えるべきではないのか…。」

この考えを宗一郎にぶつけた技術者がいた。

それが私が鳥人間でお世話になっていた坂田さんだったのである。


宗一郎はその言葉に返す言葉が見つからず、結局CVCC方式が採用された「シビック」が発売になると、自分はすでに会社にいてはいけない人間

と悟り、自ら社長を退いたそうである。

このあざやかな交代劇は、後々伝説となっていたので私でも知っていた。

坂田さんはその後もホンダで第一線を走り続け、後にご自分の一番の夢であった国産の飛行機「ホンダジェット」を作り上げることになった。



で、その当の本人である坂田さんがはどんな方であったかというと…。

とにかく無駄なことは口にせず、もくもくと仕事をこなす方だったが、いつもできる限りの資料データを手にして、細かなことでも逐次メモを

とる方だった。

鳥人間の現地の会場ではいつも真夏の炎天下の厳しい状況なので、御高齢の坂田さんに負担をかけぬように私なりに気づかいながら機体の検査

を進めていたが、昨年はとうとう坂田さんが熱中症となり仕事がこなせなくなってしまったのである。

「ご迷惑をおかけしました。」と言い残して、坂田さんはその日のうちに会場を後にされた。

そんな出来事があったから坂田さんは今年は辞退されたんだと思う。

おそらくこれを最後に坂田さんは鳥人間からも引退されるであろう…。


鳥人間は某テレビ局の一番組にしか過ぎない。

しかし、この番組をきっかけにおおくの優れた技術者が育っていった事実は、世間ではあまり知られていない。

鳥人間をきっかけに、多くの若者が極限設計を学び、その経験が後の仕事で生かされているからである。

有名な話だが、宇宙飛行士の若田光一さんも学生時代は鳥人間に没頭している。


この番組製作に携わることになり、多くの審査員の方たちと交流を持つようになったが、皆さんの仕事振りはいつも本気そのもの…。

それは一番組を製作しようとするもの以上に、日本の将来を担えるような優秀な技術者を育ててやろうと意気込んでいることが私にはよく分か

る。

航空産業については、いつも二の足を踏んでいた日本から、世界を驚かせるような飛行機を作ることができる技術者を作る上げたいのである。


坂田さんが去った今、その意思を残った私たちが引き継いでいかなければならないのであるが、私など坂田さんの足元にも及ばない人間…。

でも、そんな私でも何かできることはある筈なので、これからはそれを考えながら前に進んでいくしかないであろう。









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