鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

竹田城登城・第2章~出でよ!雲海

2020-03-15 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 六 時 四 十 二 分

兵 庫 県 朝 来 市

竹 田 城 跡 料 金 所



夜明け前の登山!・・・の予定でしたが、手持ちの懐中電灯さんが思いのほか貧弱だったため、日の出までしばし待機。
そして、通常40分ほどの登山道を20分強で踏破するという強行軍をなして、



竹田城址料金所に到達しました。

料金所は当然簡素な小屋・・・そう思っていたのですが、券売機が複数設置されています。
山の中にあるわりには、設備がなかなか充実しています。
入城料500円を支払って入城券を購入し、料金所のおじさまに提示します。
料金所では100名城スタンプも設置されているので・・・



56番、竹田城!
この絵柄はなんとなく見覚えがあるような・・・おそらく竹田城で一番有名な画角だと思います。
スタンプ帳によると設置場所はJR竹田駅とありますが・・・私は完全に見落としていたようですね。



スタンプ台紙もあったので、こちらにも押印しました。


料金所は山道のゴール地点でもあるので、ベンチも設置されています。
さらにベンチ前には、ご丁寧にも扇風機が据えられており、しっかり稼働中。
強行軍で山登りをしてきた私にとっては、まさに望外の幸運といえました。


10分ほど休憩して、体力が回復してきました。
料金所のおじさまといろいろとお話しさせていただき、

 

御城印・竹田城!・・・の図案を見せてもらいました。
令和に入ってからにわかに伝播していった御朱印ならぬ「御城印」。
竹田城さんもその流れに乗るべく、朝来市の観光協会さんが推進していったといいます。(おじさま談)
ちなみに料金所のおじさま方や、竹田城をガイドし、保守点検するおじさま方は観光協会の方ではなく、朝来市役所の方(おそらく観光交流課の方?)だそうです。
御城印を作るにあたっては、市と協会という2つの組織で様々な折衝があったんだそうです。(おじさま談)

紆余曲折を経て作られたという御城印の図案は、私の登城後の11月1日、正式なものとして販売が始まっています。
う~~~ん、少し早い時期に来てしまったのか???
いやいや、こういうお話を伺うことができたのですから、いい時期に来たんでしょうね。

御城印にある2つの家紋は、赤松氏の家紋「二つ引両に右三つ巴」山名氏の家紋「五七桐に七葉根笹」です。
室町時代の有力大名であった赤松・山名両家の争いが、竹田城の歴史の前半を占めているのです。


竹田城の築城時期は不明な点が多いのですが、室町時代中期に播磨(兵庫県南部)の赤松家攻略を目指す山名持豊(宗全)によって築城されたといいます。

嘉吉元年(1441年)室町幕府6代将軍・足利義教(よしのり)が播磨守護・赤松満祐に暗殺される事件が起きました。
これに対し但馬(兵庫北部)の守護・山名持豊は赤松の討伐を志願し、赤松満祐を滅ぼしました。
この嘉吉の乱で山名持豊は播磨に勢力を拡張し、播磨と但馬の国境を守る拠点として竹田城が築城されたといいます。
山名持豊は、重臣の太田垣光景を竹田城の城代として配置し、以後太田垣氏が竹田城を守ることとなります。
応仁元年(1467年)の応仁の乱で山名持豊(宗全)が西軍の総大将となると、東軍総大将の細川勝元は赤松氏を復権させると、播磨・但馬はふたたび山名・赤松両家の争いの場となっていきました。

時代は下り、戦国時代へ。
西からは中国の覇者・毛利元就・輝元、東からは織田信長の勢力が迫ってきました。
天正元年(1573年)城主・太田垣輝延は毛利氏に降伏、天正3年には主の山名祐豊も毛利と同盟を結びました。
これに対し、はじめ織田方であった「丹波の赤鬼」赤井直正が竹田城に攻め込んでくると、山名は信長に鞍替えし、信長は明智光秀軍を丹波(京都北部)に派遣したため、竹田城は落城を免れました。
ちなみに竹田城を撤退した赤井直正は、明智軍に徹底抗戦してこれを撃退しています。

天正5年(1577年)信長方の羽柴秀長が竹田城を攻略し、城代となりました。
竹田城は近隣にある生野銀山を管理下に置いていたため、その確保を狙っての攻略であると考えられています。
その後太田垣輝延が城主に復帰しますが、天正8年に秀長が再び軍勢を率いて但馬を攻略し、山名・太田垣氏の支配は終焉しました。
竹田城は秀長配下の桑山重晴に、桑山が転封になると赤松広秀(斎村政広)に与えられました。
斎村政広によって竹田城は総石垣に改修され、現在にも残る竹田城が形作られていきました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで政広は西軍についてしまい、その後東軍に寝返り鳥取城の攻略に参戦しますが、徳川家康に鳥取城下を焼き討ちした責任を問われて切腹させられてしまいます。
家康は生野銀山の確保を狙い、政広を切腹に追い込んだともいわれています。
主を失った竹田城はそのまま廃城となり、石垣だけが後世に残っていきました。



休憩中に、城攻めアプリ「ニッポン城めぐり」を起動して・・・「城攻め」!

 

日本100名城・第56番、竹田城攻略!
さらに近隣にある城郭で、生野銀山を管理していた生野城も攻略できました。



太閤殿下の弟、大和大納言羽柴秀長



「丹波の赤鬼」赤井直正
竹田城を攻略にやってきたふたりの名将を配下に加えることができました。




午 前 六 時 五 十 四 分

石 垣 の 城 郭 へ 向 か う


料金所からは、



もう少しだけ山登り。50メートルもなかったと思います。
最後のカーブを折り返すと、



ついに総石垣の竹田城が見えてきました!
石垣には雲ではなく霧がかかっています。



当時きっての石垣普請のプロ集団・穴太衆(あのうしゅう)による穴太積みです。
出角の部分は、長方体の石の長辺と短辺を交互に積み重ねていく算木積みで補強され、400年もの間雨風に耐えてきました。



中に入ります!




まずは大手虎口
かつてはここに大手門が構えられていました。
大手=正規の登城口とあって、石垣に使われている石もひときわ大きいものになっていますね。



東の空には、昇ったばかりの日輪が霧にかすんでいて、なんとも幻想的な光景です。



そう思っていたのも束の間、日輪を覆っていた霧は晴れ、向こうの山には雲海・・・とはいえませんが雲がかかっています。
山間部の天気はなんとも変わりやすいものですね。



日輪のやわらかい光が、大手虎口を照らしています。
この先は北千畳と呼ばれる曲輪ですが・・・



櫓台だったであろう石垣を仰ぎ見たり、



崖際の石垣を眺めたり・・・石垣フェチ?の私はなかなか先に進めません。



遠くのほうに、雲海が・・・・・・こっちに来ないかなぁ。



そうこうしているうちに、またも霧に覆われていった竹田城。



日本海に注ぐ円山川が潤す、竹田の城下町。



北千畳と呼ばれる広い空間に入りました。



この石垣の裏に、三の丸への虎口があるのですが・・・



その向こうには、石垣が連なっている見事な竹田城の姿。
虎が臥せている姿になぞらえ、「虎臥城」と呼ばれています。
魅力的な光景が多くて、なかなか先には進めませんねぇ。





石垣に囲まれた虎口を通って、三の丸へ。



三の丸から見た、本丸天守台
凄い、素晴らしいの一言です。



三の丸は細長く、それほど広さはありません。





二の丸や本丸へ向かう通路は、石垣によってかぎ状に曲げられています。
400年前には、これらの石垣の上に櫓などの建造物が建っていたのでしょうね。



石垣に上る犬走りの跡。
上ってみたいのですが、通路の柵を越えて芝生に入るのは禁じられているので、ここは眺めるだけ。



城下を眺めてみると・・・雲海がこちらに迫っている???





この先は、二の丸です。
二の丸に入ろうとした矢先、小雨が降ってきました。
山の天気は本当に目まぐるしく変わります。



二の丸から望む南側の曲輪です。
左から南千畳南二の丸と続いています。
石垣で覆われた曲輪が、階段のように連なっている姿・・・まさに「虎臥城」ですね。
向こうにはわずかながらに雲海・・・とは呼べなくなってしまいましたが、白い雲がいいアクセントになっています。




本丸天守台へ。
竹田城の登城は佳境を迎えます。





竹田城登城・第1章~夜明け前から山登り

2020-03-15 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 九 日 ( 土 )

午 前 四 時 五 十 三 分

兵 庫 県 朝 来 市

J R 和 田 山 駅



「縁結び祈願のたび」・2日目も、夜明け前からスタート。



前日のお宿の最寄駅・JR和田山駅にやってきました。



なんと・・・真っ暗な駅舎に、不気味に光を発する発車標。



今回乗り込む列車は、5時20分発 播但(ばんたん)線 普通列車 寺前行きです。
播但線はこの和田山駅から姫路駅までを結ぶ地方交通線ですが、始発が5時台で和田山駅の一番列車になっているようですね。
山陰本線の始発が意外と遅いようですね・・・とくに下り線は始発が7時前の6時55分です。


兎にも角にも、この日最初の列車は5時20分発の寺前行きとなります。
駅にはまだ誰もいないようです。
改札は自由に通過できるようですが・・・・・・おや、誰かやってきたようです。
その男の方が、駅舎の電気を灯しています。
どうやら和田山駅の駅長さんのようです。



駅長さんによって、待合室が開放されました。
この中で・・・大変不本意なこの日の朝食をいただきます。
土地土地のものをいただくというテーマから大きく外れた、

 

ニチレイさんのハンバーガーセット、意外とうまい!
さすがは冷食の雄・ニチレイさん、ふつうにうまいハンバーガーです。
ここでどうしても食事をしなければならなかったのは・・・



今回の目的地が「天空の城」竹田城だからです。
「天空の城」というのならば山登りは必須であり、そのための栄養をなんとしても補給しておきたかったのです。
そして残念なことに、和田山駅周辺には早朝から開店しているチェーン店が皆無なので、食事はこのニチレイさん一択になってしまうのです。




明かりの灯った和田山駅。
待合室前のコインロッカーで手荷物を預け、播但線の列車へ。
竹田城登城後に和田山駅には戻る予定のため、山登りの妨げとなるものはここで手放しておきます。



「秋の乗り放題きっぷ」・2日目、和田山駅の駅長さんから入鉄済の検印を頂戴しました。
「これ、初日の検印があれば2日目はいらないなぁ」
と駅長さんは検印後におっしゃいましたが、こういう検印もいい記念になります。



私を竹田城へといざなう、キハ41形2004番車両
1両編成の運転に対応するため、前後双方に運転台が備え付けられているそうです。
あんまり詳しいことはわかりません。



播但線の列車が発着する5番のりばの駅名標。
左の「やぶ」養父と書きます、難しいですねぇ。
そして右の「たけだ」こそ、私が向かう竹田城の最寄駅。
播但線のたびはたったの1駅となります。



5時20分、播但線の列車は定刻どおり和田山駅を出発。



7分後の5時27分、竹田駅に到着しました。



【今回の乗車記録】

JR西日本 和田山駅 5番のりば 5時20分発
[J]播但線 普通 寺前行き 2両ワンマン
竹田駅 1番のりば 5時27分着

*所要時間 7分
*移動距離 5.8km
*運賃   秋の乗り放題パス使用(使用しない場合、190円)




午 前 五 時 三 十 分

J R 竹 田 駅


駅を出て振り返ると・・・



おおぅ、なんという暗さ・・・。

この竹田駅で下車したのは、私だけ。
あたりは人っ子一人歩いておりません。
どうやら私一人で暗闇の山に突撃しなければならないようです・・・・・・やだなぁ。




駅前のロータリーから、竹田城へ歩き始めます。
竹田城を登るためには、駅裏登山道または表米(ひょうまい)神社登山道を踏破しなければなりません。
駅から出ると、このような案内看板が処々に設置されているので、これに従っていけば問題なくたどり着けます。

まずは駅前を右へ。
播但線の線路沿いに歩いていきます。



播但線の踏切が現れるので、これを渡ります。
踏切を渡った先には虎臥城(とらふすじょう)公園という広場があります。
「虎臥城」は竹田城の雅称ですが、ここで2つの登山道への道が分かれることとなります。
表米神社登山道へは虎臥城公園前で左折、駅裏登山道へは右折することとなります。



私は右折、駅裏登山道へと向かいます。
途上のこの道は竹田寺町通りで、竹田城にまつわる4つの寺院が建っています。
路傍を流れる水路の音が、なんとも心地よいですね。



虎臥城公園のすぐ近くにある善證寺
建武元年(1334年)に開創されましたが、寛永2年(1625年)に火災に遭い、慶安5年(1652年)にこの地に移転されました。
門前の石橋は「享保17年(1732年)」の年号が刻まれているそうです。



善證寺常光寺勝賢寺、そして法樹寺を左に眺めて進むと、いよいよ駅裏登山道が現れます。



入城料は、大人500円です。
そして登城時刻は、通常は日の出後から日の入り前となっています。
しかしこの時季は雲海シーズンということで、朝4時から登城できるのです。



時刻は5時44分。
竹田城へ、いざ参らん!



ここで重大な問題が。
夜明け前登山ということで、当然のことながら懐中電灯を持参してきました。
その懐中電灯さんが、思ったほど明るくないのです。
いや、山の中が私の想像以上に暗かったのです。
端的に言うと、

やっぱり夜明け前の登山は怖えぇよぉ・・・・・・。


そういうわけで、夜明けを待つか、懐中電灯を持っているほかの登山者が来るのを待つことにしました。
その間に、寺町通りを散策。



駅裏登山道のすぐ脇にある、法樹寺
境内には、竹田城の最後の城主を務めた赤松広秀の供養塔が立っています。


赤松広秀は、室町時代の有力守護大名・赤松氏の出で、播磨国(兵庫県南部)龍野城の城主でした。
織田信長が播磨国に勢力を伸ばすと、毛利氏について抵抗した後に羽柴秀吉に降伏したため、龍野城を追われてしまいます。
以後は龍野城主となった蜂須賀正勝のもとで勲功を重ね、天正13年(1585年)に竹田城を与えられました。

広秀は、最初広英と名乗り、広秀広通、そして斎村政広と名乗りを変えていきました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでははじめ西軍につきますが、旧交のある亀井茲矩(これのり)の説得で東軍に降伏します。
降伏の証として西軍の宮部長房が立て籠もる鳥取城を攻めることとなりますが、このときに城下を焼き討ちする手段に出たため、戦後徳川家康に咎められ、「寝返り組」ではただ一人切腹させられてしまいました。
その後竹田城は、ほどなくして廃城となりました。



関ヶ原の大戦で時流を読み誤って身を滅ぼした広秀ですが、竹田城主時代には居城を総石垣に改修し、また領内に養蚕や漆器業を奨励し、領民に慕われた名君であったといいます。
また、朝鮮の高官で当時捕虜となっていた姜沆(きょうこう)に、「加藤清正藤堂高虎とは仲違いしている」と語っていたとも。


ふと振り返ると、



雲海が立ち込めてきました!



登山道はまだ暗い・・・かな。
時刻は5時50分、駅裏登山道に人がやって来る気配は全くありません。


6時16分、



すっかり夜が明け、



寺町通りもよく見渡せるようになりました。




午 前 六 時 十 九 分

駅 裏 登 山 道 を 登 る




1時間近く夜明けを待ち、ようやく登山へ。







総石垣の城郭らしく、登山道のところどころで石垣が残っています。



登山道口のゲートは開き放たれています。



ゲートの目の前にある、石垣の名残り・・・でしょうか。



振り返ると、雲海・・・というよりも濃霧がかかってきました。



整備された階段で、とても登りやすいです。



そう思ったのも束の間、岩肌むき出しの道に変わってしまいました。



登山開始から約10分、料金所まではあと500メートル。長い・・・つらい・・・。



登山開始から約15分、休憩所だか見晴台だかわかりませんが構造物のある地点へ。
ここから料金所までは、あと200メートル。



あと100メートル。
先に登城していたであろう、男子高校生と思われる2人組が下りてきてすれ違いました。
あんたたち、まさか真っ暗な山の中を歩いて登ったっていうのか?!
そして「この上にはイノシシなどの危険生物はいない!」と察しがつくので、心持ちを強くしてラストスパート。



登山開始から20分強、料金所が見えてきました!
通常ならば40分ほどかかる道程を、心細いひとりの山登りのために早く早く登ってしまいたいと逸ったため、思いのほか早く到達できました。





観音寺城登城・後編~打ち棄てられた城

2020-02-24 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 八 日 ( 金 )

午 後 二 時 三 十 三 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

西 国 三 十 三 箇 所 三 十 二 番 札 所 ・ 観 音 正 寺





観音正寺の大仏様。
そのお背中に回り、



観音寺城本丸や、多くの曲輪に続く通路の入口となる木戸へ。
この木戸、ひっそりと隠れるかのように存在していて、事前にリサーチしておかないと見逃してしまいそうです。
観音正寺の境内にこの木戸を案内するような掲示物はまったくなく、観音正寺が観光地として顧みられていないことをあらためて感じます。



木戸をあけて通路に入ります。
観音正寺から下っていく細い道に、草木が繁茂して迫っているような感じ。
天気は小雨と本降りを繰り返す、城めぐりには不利な状況。



すっかり苔むしてしまった石垣。
六角氏時代のものだとすると、400年以上の歳月がたっていることとなります。

 

石垣を成すひとつひとつの石が、ただ単に積みあげられているのではなく、成型されているように見えます。
石垣の隅に至っては、直方体の石の長辺と短辺を交互に積む算木積みでしょうか。
算木積みは慶長年間(安土桃山時代末期)にあらわれる技術のはずですが、観音寺城ではそれ以前から用いられていたのでしょうか。

石垣ひとつを見ても、観音寺城が当時としては最先端の技術を有する異次元の名城であったことがわかります。
いやいや、観音寺城があった当時は石垣がふんだんに用いられている時点で画期的だったんですけどね。




さらに進みます。
虫やら動物やらがあまり得意でない私にとっては、こういう道を通るだけでもひと苦労です。



分かれ道が現れました。



路傍の看板によれば、本丸はここを左折したところにあるようです。



けもの道じゃねぇのか?!
辛うじて人が踏み分けた道が通っているようですが・・・やだなぁ~。


ん? 雨が強くなってきたなぁ。
やむを得まい、ここは撤退だ!



一応、ここで「城攻め」でもやっておくか。



日本100名城・第52番、観音寺城



日本100名城・第51番、安土城



ここではお蘭森蘭丸さんが家臣に加わりました。




午 後 二 時 四 十 八 分

下 山 へ


ヘビでも出そうな草ぼうぼうの小道に恐れをなし雨が強くなってきたため、断腸の思いで下山を決断しました。



手すりのついている整備された石段を下りていきます。



しかし安全性の高い石段は、林道経由の駐車場のところまで。
残りの約3分の2は、手すりのない石段を下りなければなりません。
天候は降雨、私の左手には杖、右手には傘と、危険な下山を余儀なくされます。
雨のため、石段は滑りやすくなっています。


下山中1回だけ滑ってしまい、尻餅をついてしまいました。
尻餅程度で済んで本当に良かった・・・。




登るときはわからなかった、下り方向への分かれ道。
石寺楽市へは、右の道を下りるのが正解です。


下り始めてから20分強、



長い長い1,200段!の石段は終わり、コンクリートの坂道へ。
下り坂ももうすぐ終わりですが、雨の降っている下り坂はまったく油断できません。
慎重に、慎重に・・・。




午 後 三 時 廿 三 分

石 寺 楽 市 会 館 に 帰 還


はぁぁぁ・・・なんとか無事に帰って来られました。



拝借した杖をお返しして、JR安土駅に戻るとしましょう。
その前に石寺楽市で「城攻め」・・・



観音寺城の支城であった箕作(みつくり)を攻略できました。




午 後 三 時 五 十 分

J R 安 土 駅 前


きぬがさ山を下山した頃には、雨も小降りになっていました。
私は「信長号」にまたがり、往路と同じ経路をたどって・・・



駅前のレンタサイクルふかおさんまで戻ってきました。


店内の媼とその息子氏に、無念ながらも途中で撤退したことを報告。
観音寺城のリベンジをすることを誓って、「信長号」を返却しました。



今回は、鍵の借りパクはしませんでした。





観音寺城登城・前編~きぬがさ山を登る

2020-02-24 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 十 八 日 ( 金 )

午 後 十 二 時 五 十 四 分

滋 賀 県 近 江 八 幡 市

J R 安 土 駅



横浜を発って約7時間半。



100名城登城の旅・3回目の安土駅です。
電車を下りてまず感じたのは、おお~、駅がきれいになった!



↑5年前の安土駅。



↑今回の安土駅。



駅前にお立ちの信長公は相変わらずでしたが、その視線の先にある駅舎は、平屋駅舎から橋上駅舎になりました。
橋上駅舎になったおかげで、安土駅は従来の北口に加えて南口もできたのです。
南北は地下道で結ばれ、利便性が飛躍的に向上したのです。


そして今回も、

 (戻ってきたときに撮影したため、路面が雨で濡れています)

安土駅の向かいにある「レンタサイクルふかお」さんのお世話になります。



↑5年前の「ふかお」さん。
5年の歳月は、安土の駅舎も「ふかお」さんも変えてしまったようでした。

5年前は、雨がっぱを借りたり、手荷物を雨から守るためにビニール袋をもらったりと、いろいろとよくしてくださった翁と媼。
さらには私のミスから自転車のキーを借りパクしてしまったあとも、お電話で優しく応対してくださった翁。

今回お出ましになったのは、媼と、若返り過ぎた翁。
いや、翁ではなく、老夫妻のご子息と思われる初老の人物でした。
おそらく翁は・・・・・・。
それでも媼は健在で、5年前に鍵を借りパクして岡山まで持ち去ったバカな旅人を覚えてくださったようです。
今回は重々注意しなければなりませんね。



この旅最初の目的地と定めたところ・・・それは観音寺城【国指定史跡】。
(きぬがさ)全体を城となし、さらには城全体を石垣で造成したという、当時にしては異次元の城。
あの信長も、安土城を築城する際におおいに参考にしたといわれている名城なのです。

今回は観音寺城に行く旨を媼に伝えると、そこまでの道順を教えてくださいました。
私は借用料(1日1,000円)を支払い、



信長号、ふたたび出陣!
荷物はコインロッカーに預けて、最小限の手荷物のみで向かいます。


安土駅の北口にある安土駅観光案内所
こちらで観音寺城のパンフレットなどを入手しようと思ったのですが・・・

観音寺城のパンフ、いっさいなし!

有志の方の自費出版による冊子以外、登城の助けとなりそうな資料はいっさいありません。
そしてその冊子は、薄っぺらいのに2,000円弱もするのです。
観音寺城が観光資源としてまったく顧みられていないようです。



私は信長号にまたがって、観音寺城へ。
まずは安土駅の南北をつなぐ地下通路を通って、駅の南側へ。
地下通路を出たら左へ進み、跨線橋をめざします。

跨線橋に出たら、そのまま橋とは逆方向に進んでいきます。



「観音寺城跡 ↑(直進)2.3km」
この看板が出てきたら、要注意。



すぐ先の分岐路で左折したほうが、近道になります。
小さな立て看板がひょっこりとたたずんでいて、見落としがちなポイントですね。



田園風景の中を進んでいくと現れる、コバヤシ滋賀工場



その手前の丁字路を曲がると、繖山の中腹まで行ける林道へと続きます。
車で登城するときは、こちらから上るといいでしょう。
私は信長号とともに、さらに進んでいきます。



田園にそびえ立つ繖山
観音寺城の城址とともに、現在も観音正寺が構えられています。



さらに進んでいくと、飛び出し坊や
その先にある建物が、石寺楽市というお土産物屋さん。
100名城のスタンプはこちらでももらうことができます。



こちらでもらったスタンプ。
5年前は時間の関係で、スタンプだけゲットして帰ってしまったんですが・・・
今回は観音寺城を実際に登城しようというのです。
あの繖山を、己の健脚で踏破していきますよぉ~。



石寺楽市の駐車場で、信長号を降ります。
楽市さんで杖を借り、ここからは徒歩での山登りが始まります。



【安土駅→石寺楽市の行程】



安土駅北口 13時01分発
滋賀県道201号・安土西生来(にしょうらい)線経由
石寺楽市・観音正寺参道入口 13時22分着

*所要時間 21分
*移動距離 3.5km



午 後 一 時 廿 五 分

石 寺 楽 市 会 館

こ れ よ り 繖 山 を 登 る




観音寺城の登城道は、同時に観音正寺の参道でもあります。
観音正寺は、西国三十三箇所霊場の第32番札所。
ここから西国三十三箇所めぐりも開始しようかとは思いましたが、まだ坂東三十三箇所も結願していない身としては、まだまだ先の話でしょうな。



歩き始めて3分もたたないうちに、早くも傾斜のきつい坂が現れます。



そのまま進み、日吉神社へ。



神社の脇から伸びる道が、観音寺城の登城口となっています。
登城口は2本あり、鳥居の脇から上る道は赤坂道といい、観音正寺の参道となっています。
もう1本は、鳥居の脇で左折する道。



こちらは、日吉神社とは別の社・天満宮へと続いています。



天満宮への参道から、往時の石垣が見えました。
石垣の上に鎮座しているのが、天満宮です。



石垣を正面から見ると、こんな具合です。
そしてその足下から、もう1本の登城道である追手道が伸びています。
その前に・・・



天満宮で、登城の無事を祈願。
この場所は伝御屋形跡、すなわち観音寺城の城主が平時に住まう場所だったと考えられています。
観音寺城の城主は代々六角氏(佐々木六角氏)が務め、大名としての六角氏が滅亡するとほぼ同じくして観音寺城も廃城となりました。



観音寺城の主要部にまっすぐに通じている追手道を進もうとしますが・・・
思った以上に草木が茂っているような気がしますなぁ。
読者の皆様はご存知のとおり、私は虫やヘビやイノシシやクマやらの動物には会いたくないので・・・





観音正寺の参道である赤坂道をたどることとしました。




参道のところどころで、打ち棄てられた観音寺城の石垣を見ることができます。
石垣が本格的に造成されるのは織田信長安土城が築城されてからのことなのですが、観音寺城は安土城以前の城郭なのにもかかわらず、石垣がふんだんに用いられていました。




道が険しくなっていく・・・。
そして誰も上っている人はおらず、下りてくる人もいません。
空も雨模様で、とにかく心細かったです。



参道の路傍に立っている石標。「六丁」とあります。
これは何を表すのだろう・・・?
「富士山の『五合目』」のような意味なのか・・・だとしたら、「十丁」=十合目=山頂だから、半分は来ているんだろうなと考えて、登っていきました。




「六丁」の石標から約3分、「七丁」の石標まで到達。
息遣いは荒く、つらい山登りが続きますが、なかなかいいペースじゃないでしょうか。



「七丁」から登ってすぐのところに、休憩用のあずまやが建っていました。
一息入れたいところですが、ここで休んでしまったら私はしばらく動かないだろう・・・己をわかっているので、歩みを止めることなくそのまま進みます。




石垣?・・・ではないでしょうね。
「火の用心」のドラム缶が立っているこちらは、繖山林道の終点となっている駐車場。
自動車で山を上ってきた皆様は、ここから山登りが始まります。

駐車場を見ると、停まっている車が数台。
この参道を誰かが歩いているということを意味しています。
この事実がわかっただけでも、山登りの心細さはぐっと減っていくものですね。



「西国第三十二番霊場 繖山 観音正寺」の石標。
その傍らには、登山者のための杖が備えてあります。


駐車場から先の参道は石段に手すりが備わり、駐車場到達前の参道とは比較にならないくらいに登りやすくなっています。



「三十二、人はあるものを粗末にし、ないものを欲しがる」
手すりの足元に、ありがたい格言が記されている木札が結び付けられています。
観音正寺さんからのお言葉を噛みしめながら・・・などという余裕はまったくありません。
木札の漢数字「三十二」がカウントダウンであると察したので、まだまだ終わらないんだな・・・と気落ちしてしまいます。






ところどころに残る石垣。
観音寺城は本当に石垣がごろごろ点在していますね。




「十丁」の石標が立っていますが、参道はなおも続きます。
「十丁」=十合目ではなかったんですね。
ここからは、格言のカウントダウンを頼りに進んでいきました。



そして午後2時06分、日吉神社から歩き始めて約25分。



観音正寺の境内に到着しました。



「一、人の一生に厄年はない。躍進の『やく』と考えよ」
最後の石段のそばで、最後の格言が石標となって私に語りかけてくれました。



横を見ると、「十二丁」の石標が立っていました。
十丁にとどまらず、十二丁まであったんですね。



あとで調べてわかったのですが、「丁」=「町」は距離の単位で、1丁=約110メートルなのだそうです。
そして12丁はだいたい1,300メートル強、地図で見ると石寺から始まる参道の長さと同じくらいです。



参道のスタート地点の灯籠の前に、從是(これより)観音正寺 十二丁」という石標があったではありませんか!




午 後 二 時 七 分

観 音 正 寺 境 内


疲れた・・・・・・・。

境内入口にある木のベンチに座り込んでしまいました。さらに、

雨が降ってきた・・・・・・。

ううむ、この安土の地では毎回天気に恵まれないのぅ。
それはそうと、



繖山からの眺望、素晴らしい!
観音正寺から南西方向を眺めると、近江八幡市街が眼下に広がっています。
平地を真っ二つに分ける、東海道新幹線の筋。
画像中央右側にひょっこり頭を出しているのは、「近江富士」の異名をとる三上山です。

画像左中央の山は長光寺山で、かつて織田家の猛将・柴田勝家が奮戦した地でもあります。
勝家は城内の水瓶を叩き割り、城兵に決死の覚悟を示して出撃し、攻め寄せた六角義賢(よしかた)の軍勢を撃退したのです。
この「瓶割り柴田」の逸話を産んだ長光寺山はも、後世「瓶割山」と呼ばれるようになったのです。

長光寺山にあった南西の長光寺城、画像には写っていませんが南東の箕作城、同じく写ってはいませんが北東の和田山城・・・。
観音寺城は、その周囲に多くの支城を構えていました。
観音寺城自体は総石垣造りではありますが、あまり堅固な要塞ではなかったようで、本城・支城相互の連携で敵を撃退するタイプの城郭だったと考えられています。




仁王像が参拝者を出迎えます。
その傍らには受付小屋があり、こちらで拝観料500円を支払う必要があります。



繖山、佐々木六角、観音寺城跡!


六角氏佐々木源氏の嫡流で、鎌倉幕府成立以来、代々近江守護の要職にありました。
室町時代に入ると、六角氏と同じ佐々木源氏の庶流・京極氏から佐々木道誉(京極高氏)が出て、足利尊氏の創業に大きく貢献しました。
六角氏は依然として近江守護を務めましたが、京極氏は出雲守護、飛騨守護に就き、また近江国でも守護使不入(守護の支配を受けない)の地を有するなど台頭していき、さらに3代将軍・足利義満の頃には「四職」のひとつとされて幕府の要職に就くなど、嫡流と庶流の力関係が逆転していきました。

六角氏12代・六角高頼は、応仁の乱で西軍につき、その後は足利将軍家とたびたび対立したため居城の観音寺城が何度も奪われますが、そのたびに奪還しました。
同時に国人衆(在地の武士)の組織化を進めていき、次代の定頼の代に最盛期を迎えます。
定頼は城割を命じ、家臣団を観音寺城に集めて住まわせました。
この城割は、のちの江戸幕府が行った一国一城令のさきがけとなるものだったといいます。
また定頼は、城下に楽市令を出して店舗の開設を自由化し、経済活動を活性化させました。
この楽市令は、のちに織田信長によって楽市楽座に発展していくのです。

定頼の死後、嫡男の義賢が継いだ頃から、六角氏は斜陽に入ります。
定頼の代に従属していた北近江の浅井氏が独立の構えをとったため合戦に及びますが、野良田の戦いで若き当主・浅井長政に敗れてしまいます。
義賢の子・義治の代になると、筆頭家老・後藤賢豊(かたとよ)と対立して謀殺する観音寺騒動が起きてしまいます。
義治が権力強化を図ったために起きたとされていますが、これで家臣が猛反発、義賢・義治父子は一時観音寺城を追われてしまいます。
義賢・義治父子はほどなく復帰しますが、家臣の起草による六角氏式目を承認させられることとなりました。

永禄11年(1568年)織田信長足利義昭を奉じて上洛を開始すると、六角義治はこれに抗戦します。
しかし観音寺城周辺での戦いは大敗し、六角氏は観音寺城を放棄することとなりました。
近江南部の甲賀で信長に抗戦し続けましたが、信長が近畿一帯を制圧していくと甲賀を棄てて逃亡し、大名としての六角氏は滅亡しました。

六角父子は生き延び、信長の死後に天下人となった豊臣秀吉に仕えたといいます。



ときは令和に変わり、御朱印ならぬ御城印なるものが現れたのです。
そしてここ観音寺城でも、御城印を取り扱っていました。
タイプは2種類で、佐々木六角! 観音寺城跡観音寺城跡! 佐々木六角・・・要するに中央の大文字が大名か城かという違いです。
寺院の御朱印は中央にご本尊が記されるものですから、これに倣って中央に大名家が記されているものを選びました。

初めての御城印を観音正寺で購入し、しばし境内を散策することとしました。





足利氏館リベンジ~鑁阿寺完全参拝

2019-11-03 | 城郭【日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 後 2 時 0 0 分

栃 木 県 足 利 市

足 利 学 校 入 徳 門 前





8年越しの足利学校に入学、そして卒業を果たした私。
足利にてやり残したことをひとつ成し遂げたわけですが、足利にはもうひとつやり残したことがあるのです。



まぁ、とりあえず一杯・・・酒ではなく、お味噌汁、うまい!
学校前に構える「銀丸」本店で、二条大麦味噌のお味噌汁を試飲させていただきました。


さて、入徳門を出て「銀丸」さんを左手にしつつ歩くと、鑁阿寺(ばんなじ)に通じる石畳の参道に当たります。
その参道を、8年前とは正反対の方向に歩いていきます。



征夷大将軍足利尊氏公像にもお会いしました。
・・・ちなみに足利は足利一族出身の地ではありますが、足利尊氏の出生地はここではないという説が有力です。


そして参道の先には、当然鑁阿寺・・・



太鼓橋【栃木県指定文化財】と、その背後に構える楼門【栃木県指定文化財】です。



100名城スタンプの絵柄、そのまんまです。



太鼓橋は江戸時代後期の建造物で、栃木県では唯一の屋根つき橋なのだそうです。
背後の楼門とのつり合いも素晴らしいですね。



鑁阿寺の三門である楼門
室町幕府13代将軍・足利義輝により再建されたものが現存しています。



楼門の扁額「金剛山」
鑁阿寺を略さずに称すると「金剛山仁王院法華坊鑁阿寺」というそうです。
この日は、楼門に多くの鳩が羽を休めていました。

 

境内を取り囲む水濠土塁
これらこそが、鎌倉時代に造成された武士の居館であったことを物語っているのです。



水濠には鴨。
多くの参拝客とともに、多くの鳥たちでにぎわう三門です。


12世紀半ば、足利氏の祖である源義康がこの地に居館を構えました。
義康は「八幡太郎」源義家の孫にあたる人物で、居館のある地から「足利」を名字としました。

建久7年(1196年)義康の子・足利義兼は、自宅である居館に持仏堂を建立しました。
義兼の戒名は「鑁阿」であり、このころに鑁阿寺の礎が築かれたといえます。
文暦元年(1234年)義兼の子・足利義氏が伽藍を整備し、足利氏の氏寺となりました。





午 後 2 時 0 6 分

鑁 阿 寺 境 内 へ


楼門をくぐって、まずは右側。



鐘楼【国指定重要文化財】です。
鐘楼ははじめ建久7年(1196年)に建てられ、後に再建されていますが、その時期はわかっていないのだそうです。



現在も梵鐘が吊るされている、現役の鐘撞き堂です。




楼門の先に建っているのが、本堂【国宝】です。
8年前当時は重要文化財でしたが、平成25年(2013年)8月7日に国宝に指定されました。

 

足利家2代当主・足利義兼が居館内に建立した持仏堂がはじまりで、現在の本堂は足利貞氏が正安元年(1299年)に再建したものです。
当時最新の建築様式であった禅宗様を取り入れたものです。
室町時代中ごろの修理で、屋根が瓦葺となりました。



本堂にてお守りを買うこともでき、100名城スタンプもこちらでもらえます。
スタンプは8年前にいただきましたので・・・



今回はご朱印を頂戴しました。



本堂の中では・・・おやおや、ここにも猫さまがおわしますなぁ。


鐘楼の向かい側・・・



多宝塔【栃木県指定文化財】と大銀杏【栃木県指定天然記念物】です。

 

多宝塔も他の伽藍と同様、はじめ建久7年(1196年)に建てられたとされています。
現在のものは、寛永6年(1629年)に5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院によって再建されたものです。
なおこの「多宝塔」は本邦最大のものとされており、これより大きいものは「大塔」と称されるようです。

 

2本の大木のようにも見え、実際に1本なのか2本なのかはよくわかっていないそうです。
樹齢は約550年と推定されています。


多宝塔&大銀杏の北側には・・・



経堂(一切経堂)【国指定重要文化財】が建ちます。



こちらは応永14年(1407年)に関東管領・足利満兼により再建されたものです。
宝永5年(1708年)には屋根の修理がなされています。
経典を収蔵する経堂としては大型の建造物であり、珍しく貴重なものとされています。


経堂と本堂の間には・・・



中御堂(不動堂)【足利市指定文化財】が鎮座しています。
文禄元年(1592年)足利国朝によって再建されたともいいますが、建物の組み物や彫刻のつくりから、江戸時代中期のものであろうと推測されています。


経堂のさらに北、旧居館の北西には・・・



西から順に御霊屋大酉堂宝庫が並んでいます。
宝庫から少し離れたところに、智願寺殿御霊屋が建っています。



まずは御霊屋【栃木県指定文化財】。
正面に棟門を設けて周囲を瑞垣(みずがき)で囲み、中に本殿が建っています。
ここには室町幕府の歴代将軍15代の像が安置されています。



隣りには、大酉(おおとり)
元々は足利尊氏公を祀るお堂として、室町時代に建てられたものでした。
しかし明治中期より足利尊氏逆賊の皇国史観が台頭すると、祀られていた尊氏公木像を他所へ移すこととなりました。
そして、鑁阿寺にゆかりある大酉大権現を本尊とすることとなったのです。
大酉堂は昭和61年(1986年)に解体修理されて、現在に至っています。



さらにその東には、宝庫(校倉・大黒堂)【足利市指定文化財】。
宝暦2年(1752年)再建の校倉造(あぜくらづくり)の建物です。
その名のとおり宝物倉だったのですが、42世住職の忍空上人により宝物が他に移され、足利氏伝来の大黒天をお祀りしたことから「大黒堂」となりました。



少し離れて東には、智願寺殿(ちがんじでん)御霊屋(蛭子(ひるこ)【足利市指定文化財】が建ちます。
某路線バスの大先生になぞらえて「えびすどう」と読みたくなるところですが、「ひるこどう」が正解です。
鑁阿寺の開祖である足利義兼の妻・時子をお祀りし、「智願寺殿」は時子の法名です。
そして時子は鎌倉初代執権・北条時政の娘であり、将軍の妻・北条政子の同母妹と考えられています。
しかしこのお堂、なぜ「蛭子堂」なのでしょうか?


夫の義兼が鎌倉にて奉公している間、足利の地で留守を守っていた時子は、ある日侍女が井戸から汲んだ生水を飲みました。
程なくして時子の腹は膨らんでいき、さながら妊婦のよう。
鎌倉から戻った義兼に対し、侍女は「時子が不義を働いた」と讒言し、義兼は時子を疑うようになりました。

時子は「死後わが身体をあらためよ」と言い遺して自害してしまいました。

遺言のとおりに時子の身体をあらためると、その腹からは大量のヒルが出てきたのです。
義兼は大いに悔み悲しんで時子を篤く弔い、井戸を塞いだうえで侍女を殺したのだそうです。



これより時子は「蛭子女尊」として、安産の女神として信仰されています。



鑁阿寺の伽藍をひととおり見たところで、鑁阿寺の周囲をひと回りしていきます。



まずは北門【足利市指定文化財】。



鑁阿寺の開祖である足利義兼の子・義氏は、水濠の外に12の支院を建て、その筆頭を千手院と定めました。
この門はその千手院の三門だったものを、大正7年(1918年)に移築してきたものです。
棟札の記載から、弘化2年(1845年)に建てられたと推定されています。
主扉の脇に小さな副扉を擁する薬医門形式となっています。


東へ回り、



東門【栃木県指定文化財】へ。



こちらは質素剛健な造りの四脚門で、鎌倉時代の建造と推定されています。


西門【栃木県指定文化財】をスルーしてしまいましたが・・・
入口の楼門(南門)に戻りました。



水濠にたたずむ鴨を眺め、足利氏館の登城・・・というよりも鑁阿寺の参拝は、これにて終了。





夜の皇居へ~新帝陛下にご奏上?

2019-05-12 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 ( 2 0 1 9 年 ) 5 月 1 日 ( 即 位 の 日 )

午 後 8 時 5 7 分

東 京 都 千 代 田 区

J R 東 京 駅 丸 の 内 南 口



2019年5月1日、令和の御代が始まり、私は横浜へ発ちました。
JR常磐線に乗って、南へ。
上野を過ぎ、その次のJR東京駅

久しぶりにライトアップされた丸の内駅舎を見たくなった私は、改札の外へ。



丸の内駅舎の南北にふたつある円形のドーム。
令和の到来を祝うとともに、新しい天皇陛下のご即位を祝う垂れ幕が掲げられていました。


外へ出ると、東京も雨。



東京駅丸の内駅舎【国指定重要文化財】。
雨のおかげで、路面が光を反射して幻想的な風景が映っています。
また道歩く人も少なく、ゆっくりと駅舎を眺めることができました。



振り返ると、人気の少ない雨の行幸通り
馬車の通り道となっている中央の通行帯を、街灯だけが照らしています。
連休まっただ中とあって、ビルの明かりはほとんど灯っていません。



行幸通りに立っている標識。
「信任状捧呈式関係車両」云々という注意書きは、本邦ではおそらくここだけのものでしょう。


薄暗い行幸通りを歩いて、このまま皇居のほうへ。
本日ご即位された、新しい天皇陛下にご挨拶を奏上いたそうではありませんか。


お濠沿いを通る日比谷通りを渡ると、



重厚な石垣!



広大な水濠!



たまらんのぅ~~
水濠に面している石垣は打込接ぎで、江戸城古来のもの。
通りに面している石垣は切込接ぎで、行幸通りを開通させる際にできたものだそうです。
石垣と水濠が塞いでいた部分に行幸通りを通すため、石垣を切り崩し、水濠を埋め立てたのです。
通りに面している石垣は、大正時代にできた新しいものですが、古来の石垣と比べてもまったく遜色なく素晴らしいものですね。


行幸通りをさらに進み、皇居へ。



向こうに見えるのは、(たつみ)【再建】です!
三の丸の南東(巽の方角)にある櫓で、「桜田二重櫓」ともいいます。
この日は、警察車両の赤色灯が妖しくきらめいていました。



閑散とした内堀通り
皇居の周りを走る者たちは、この日は皆無でした。
それとは対照的な、警らをしている警察職員の多さ・・・。



反社会的な者どもを押し込める車両もスタンバイ。
いやいや、私はそのような者ではありませんよぉ・・・・・・。
令和の初日に逮捕などされたくないので、近くにいた警察職員に尋ね、進入できる範囲を確認しておきました。



二重橋前広場まで来ました。
警察職員氏によると、ここに張ってある規制線までは近づいてもいいとのこと。



どうやらここまでのようです。
宮殿まではかなり遠いですが、ここからご挨拶を奏上いたしました・・・・・・心の中で。



正門石橋がよく見える二重橋濠ぞいまで近づくことができました。
向こうには伏見櫓【現存】が見えます。
夜のライトアップされた二重橋の画を期待したのですが、この日はやっていなかったようです。
そもそも二重橋のライトアップは、普段の日は行っておらず、年末年始のみに限られているようですね。


二重橋濠ぞいを歩き、



桜田門二の門【国指定重要文化財】が見えてきました。
頭上からは、「桜田門」の異名をもつ警視庁が私を監視しているようです。

江戸城には桜田門と呼ばれる門がふたつあり、ひとつは警視庁の近くにあるこちらの門で、正しくは外桜田門といいます。
もうひとつは、桜田二階櫓の近くにある内桜田門で、こちらは桔梗門と呼ばれることが多いです。
そのため「桜田門」は外桜田門のことを示す場合が多いです。



櫓門である桜田門二の門をくぐっていけば、高麗門である桜田門一の門【国指定重要文化財】があるのですが・・・
この日は「桜田門」の警戒が厳重だったので、近づくのは差し控えました。



晴海通りを歩いて、JR有楽町駅方面へ。



祝田橋からの凱旋濠
相変わらず見事な打込接ぎの石垣。
将軍の御膝元とあって、石1個1個がとても大きいです。
石垣が濠に出張っている横矢係りの構造も多くみられます。



日比谷濠ぞいを歩き、日比谷通りまで戻りました。
街灯が水濠を照らして、とても美しかったです。



図らずも、令和最初の城攻めをしてしまいました。





松代城・終章~真田邸にて

2019-02-06 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 3 時 1 6 分

長 野 県 長 野 市

真 田 邸



松代城の100名城スタンプが置いてある、真田邸【国指定史跡】の表門前。



せっかくここまで来たので、真田邸の中に入ることとしました。


文久2年(1862年)薩摩藩国父・島津久光によって推進された文久の改革により参勤交代の制度が緩和され、藩主の妻子が国元に帰ることが許されました。
松代藩9代藩主・真田幸教(ゆきのり)は、松代に入った義母・貞松院のため、元治元年(1864年)新たな御殿を松代城の南側に建てることとしました。
貞松院はその年の10月に新御殿に移り住みますが、翌年に参勤交代が旧に復すると、また江戸に戻ることとなりました。

その後新御殿は、藩主の座を退いた幸教の隠居所として用いられました。
明治以降は、真田家の別邸として使われていましたが、昭和41年(1966年)に松代町(現在は長野市)に譲られました。

昭和56年(1981年)4月、松代城の「(つけたり)」として、国の史跡指定を受けました。



入場料は、大人200円。
ちなみに、真田邸と文武学校との共通券は300円で、100円割引。
さらに、真田邸、文武学校と真田宝物館との共通券は500円で、こちらは200円も割引となります。

しかしながら、私が松代にいられる時間はあまりなさそうなので、今回は真田邸のみに入ることとし、200円を支払いました。



いざ、参らん!



「真田六文銭」の垂れ幕が掲げられている玄関
扉は格式高い舞良戸です。
玄関は訪問客や主人の見送り、出迎えの場所として利用され、普段はあまり用いられなかったようです。



通常の出入りに用いられたのは、玄関の脇にある勝手口
ですが現在は玄関がメインゲートとなっているようで、観光客も玄関から靴を脱いで上がることになります。


御殿建築の中は、大きく2つのゾーンに分かれています。
ひとつは、「公」



玄関から入ってまず目に入るのが、御役所の間です。
御殿お付きの藩士が事務を行う、公的な空間でした。
内装も、ふすまに模様が描かれてはいますがいたって質素。



「真田伊豆守 信之」の書が展示されています。
大河ドラマ「真田丸」において実際に使われた小道具だそうです。
作中では、父の真田昌幸、弟の真田信繁(幸村)に比べ、真田信幸(信之)は決して無能ではないんですが平凡。
だが温厚な人柄で、「乱世よりも泰平の世で活躍する」という描かれ方をしていますね。
信幸役の大泉洋先生が、水曜どうでしょうでもないのにボヤいているシーンが多くておもしろかったです。



手前が御次の間
読んで字のごとく、次に入る人が控えている部屋です。

その先は書院



藩主が執務を行う部屋です。
壁紙に紋様が入ったり、違い棚上のふすまに松が描かれたりと、他の部屋よりは華やかな造りになっています。
それでも公的な間なので、装飾は控えめな感じです。



回廊に現れる杉戸
御殿は4ヶ所の杉戸により、公的な空間と私的な空間とが仕切られているのです。

これより、御殿の私的空間へ。




こういう小さな庭が、案外好きだったりします。




まずは御寝所
藩主の寝室であり、床の間などの意匠はありません。
壁紙やふすまの模様が、松に変わっています。



御持仏の間
正面の扉の中に位牌が置かれていたと考えられています。



御化粧の間
藩主夫人など女性のための私的な部屋で、御殿のもっとも奥にありました。
小ぶりな床の間が据えられ、部屋から望める小さな庭もあります。

御居間・・・藩主の私的な部屋・・・は撮影し忘れてしまいました。



そのかわり高度に私的な空間の撮影に成功。
トイレの壁紙も、松です。





御殿からながめた「水心秋月亭」と名付けられたという庭園。




杉戸を経て公的な空間に戻り、玄関へ。






最後に外から真田邸を眺めて、松代城の登城はこれにて終了。





松代城・第2章~本丸

2019-02-06 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 2 時 5 0 分

長 野 県 長 野 市

松 代 城 跡



海津城に到着しました。



復元整備された太鼓門が見えます。
ママチャリは入口向かいの駐輪スペースに停めまして・・・



本丸の南側を守る太鼓門【復元】です。
前方に高麗門、後方に櫓門がひかえています。



前後の門と城壁で囲われた長方形の空間。
お城業界おなじみの枡形虎口でございますね。

そして通常では、枡形虎口の外側にある門を一の門、内側の櫓門を二の門と呼びます。
逆の場合もありますし、この太鼓門のように決まっていない場合もあるようです。



太鼓門を南東方向から見ました。画になりますねぇ~
松代城を紹介する書籍がよく採用する画が、本丸入口の太鼓門の画なのです。



太鼓門の正面に戻ります。
外の高麗門と内の櫓門は、それぞれの位置が互いにずれています。
侵入してきた敵軍の進路を曲げることによって、敵軍の勢いを削ぐねらいがあります。
枡形虎口の門は互いに直角の位置にあることが多く、ここ松代城の太鼓門はこのようにずれているだけのケースはあまり見たことがないように思えます。






本丸に入る前に、太鼓門の東側から。



太鼓門の南西側。
書籍での写真は、この画角がよく採用されるのだとか。
この画像は少し左に寄り過ぎていますけどね。



太鼓門をくぐり、本丸へ。



本丸の北西に立つ海津城址之碑
松代城は、はじめ海津城と呼ばれていました。


甲斐を制し信濃に勢力を伸ばした武田信玄は、その後の来たるべき上杉謙信との闘いに備え、この地に拠点となる城を築くこととしました。
『甲陽軍鑑』によると天文22年(1553年)、軍師・山本勘助によって築かれた城が海津城です。
信玄は、海津城を腹心・春日虎綱(高坂昌信)に守らせました。
以後、海津城は対上杉の重要拠点となっていきます。

信玄の子・武田勝頼甲州征伐によって滅亡すると、海津城は織田家臣・長可(ながよし)に与えられました。
しかしほどなく本能寺の変が起こると、旧武田領は無秩序状態に陥ります。
長可は武田の旧臣に裏切られ、自らの所領がある美濃へと逃げ帰ってしまいます。
本能寺の変で織田の脅威がなくなった上杉景勝は、空城となった海津城を占拠しています。

慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に移ると田丸直昌、慶長5年(1600年)2月には森忠政が城主となりました。
忠政は、兄の長可が苦汁をなめさせられた信濃の所領を自ら望んだといい、「待ち望んでいた」ということで待城(まつしろ)と改名します。
そして兄を裏切った旧臣一族を探し出して皆殺しにする、重税を課したために勃発した一揆を皆殺しにするなどの暴政を行ったそうです。

慶長8年(1603年)森忠政は美作津山へと移り、松平忠輝が入ります。
忠輝は加増されて越後高田に移りますが、その家老・花井良成が城代となり、領内の整備を行いました。
元和2年(1616年)忠輝が改易され、松平忠昌が城主となり、このとき「待城」から「松城」に改名されました。
元和5年(1619年)忠昌が越後高田に移り、酒井忠勝が入ります。

そして元和8年(1622年)酒井が庄内藩に移ると、上田より真田信之が13万石で入りました。
以後明治維新まで、真田家の居城となりました。
正徳元年(1711年)幕命により松代城と名を改められました。

明治5年(1872年)に廃城。





石碑のそばにある石垣は、築城当時のものだそうです。
往時にはその上に戌亥(いぬい)隅櫓【現在はない】が立っていました。



戌亥隅櫓の櫓台に上がってみました。
西を望むと、本丸から土塁がのびています。
この土塁には、かつては漆喰塀がこしらえられていて、二の丸を取り囲んでいたそうです。
画像中央やや上に見えるくぼみは埋門で、土塁を掘って造ったトンネルがありました。

そして向こうに見える山こそ、上杉謙信が本陣を構えた妻女山です。



本丸を見てみると・・・樹木が茂っていてあまりよく見渡すことができませんでした。
かつては本丸に本丸御殿【現在はない】があったようです。
ですが度重なる水害を受け、江戸時代中期にはここを放棄。
南西の花の丸という曲輪に花の丸御殿【現在はない】が建築されたようです。



地上に下りました。
本丸には樹木が多く植わっていますね。


本丸の北側、



北不明門櫓門【復元】。内側からの画です。



北不明門高麗門【復元】。やはり内側。



北不明門櫓門、今度は表側から。



搦め手を守る北不明門の枡形虎口。
こちらは、門の位置関係が互いに直角になっていますね。



それでは松代城の本丸に戻って・・・「城攻め」



松代城、攻略! そして・・・



真田信之高坂昌信、登用!
海津城時代の名将と、松代城の名君をゲットできました。



さて、100名城スタンプはどこにあるのでしょう???



そういえば入口にこのような看板がありました。
これにしたがい、真田邸に向かうとしましょう。

  

路傍の掲示にしたがって、真田邸へ。



真田邸の表門に到着。その向かいに・・・



こんなところにありました。



日本100名城・第26番、松代城!
この旅唯一の100名城のスタンプをゲットできました。
絵柄は、本丸太鼓門本丸戌亥隅櫓石垣ですね。



真田邸の目と鼻の先まで来ましたので、せっかくだからと入場することとしました。





松代城・第1章~啄木鳥の逆

2019-02-03 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 9 日 ( 日 )

午 後 2 時 2 2 分

長 野 県 長 野 市

川 中 島 古 戦 場



川中島の激戦が繰り広げられた八幡原古戦場を後にしました。

次に向かうは、武田軍の出陣元でもあった海津城です。
海津城は幾たびも名を変え、現在では松代城【国指定史跡】と呼ばれています。

松代の地に向かうには・・・
平成24年(2012年)までは長野鉄道屋代線というアクセス手段がありました。
しかしそれも廃線になってしまったため、今回はJR篠ノ井駅からレンタサイクルという手段を用いたわけです。


戦場の八幡原から、出陣元の海津城へ。
武田信玄山本勘助が、上杉政虎(謙信)と雌雄を決すべく進んだであろう道・・・
まさに啄木鳥戦法の本隊が進軍したであろうルートを、私はママチャリで逆に進むわけですね。



まずは古戦場が面する県道35号・長野真田線に出ましょう。



上信越自動車道・長野インター方向へと進みます。



「峠の釜めし」で有名なおぎのやさん。
碓氷峠を越えて、信濃国にも進出しています・・・って、JR上諏訪駅でも見かけましたけどね。



かなりの権勢を誇る?おぎのや長野店
群馬の片田舎にある本店よりも大きいんじゃないかと・・・。




そのまま進んでいくと、松代大橋へ。



流れる川は、日本一の川・千曲川
河口の日本海までは、225km。
千曲川は、下流の新潟県に入ると信濃川と名称を変えます。



橋詰には、橋名板とともに真田の六文銭、それに兜の前立てをかたどったであろうオブジェが据えられています。
松代の地は真田信之を藩祖とする松代藩の城下町、なので六文銭の装飾はわかります。

ですがこの兜の前立ては・・・???
私は最初、幸村の兜をモチーフとしているのかとも思いましたが・・・松代の地と幸村はまったく繋がりがないので、オブジェに採用されるのもヘンな話です。
調べてみると、信之&幸村の父・真田昌幸の兜をモチーフとしているようです。
昌幸さんも松代とはあまり繋がりはありませんが・・・藩祖の父ですから、まぁいいんじゃないでしょうかねぇ。



松代大橋から、千曲川の下流を眺めます。



こちらは上流側、橋の幅が広いため千曲川は見えません。
Google Map先生を参照しながら仰ぎ見ていた、おそらく妻女山
上杉政虎(謙信)が本陣を構え、海津城の様子を窺っていたのが、あの山なんですね。おそらく。


橋を渡って、



長野インターはスルーします。



上信越自動車道の高架をくぐって、長野インター南交差点に差しかかります。



交差点脇にある高札のとおり、右に曲がって国道403号に入ります。


国道403号を200メートルほど進み、



左折して県道35号真田方面へ進みます。


県道を進んでいくと、



長野鉄道屋代線の踏切の跡がありました。
もちろん、一時停止をする必要はありません。



逆Y字型の荒神町三叉路は、ヘアピンカーブせずにそのまま道なりに進みます。



セブンイレブン近くの中町交差点を右に曲がります。
「市営無料駐車場」と同じ方向ですね。

少し進むと、



旧松代駅駅舎へ。
駅舎は、現在観光案内所になっているようです。
そして敷設されていた線路ははがされて、市営駐車場になっているのだそうです。


そのまま進み、松代城下町のメインストリートに入ります。



いかにも由緒ありそうな、小山田さんのお宅。



小山田さん家、なんと小山田家住宅【登録有形文化財】という文化財になっているのです。
そしてこういう古民家にありがちな「旧」の文字がないのは、現在も小山田さんがこちらで暮らしておられるのだそうな。
そのため、小山田家住宅は一般公開はされていないのです。

小山田さんといえば、武田家臣の小山田信茂が有名ですが、こちらの小山田さんもその一族なのだとか。
しかしこちらの小山田さん、小山田茂誠(しげまさ)はなんとか生き延び、真田昌幸の長女を娶り、家老に列せられたそうです。
以後も松代藩の家老職を代々務めた、名門のお家柄だそうです。




左手に真田宝物館&松代観光案内所が見えたら、あと少し。




右手に石垣と櫓門が見えたら、海津城に到着です。



【今回の行程記録】



川中島古戦場史跡公園 14時22分発
県道35号・国道403号・県道388号経由
松代城跡 14時50分着

*所要時間 37分
*移動距離 4.2km





【画廊】ハイソフト「日本の名城」コンプリート

2017-08-30 | 城郭【日本100名城】


ハイソフト「日本の名城」ギャラリーへようこそ。








ここでは、当サイトの管理人が自らハイソフトを購入し、賞味したうえで、収集した「日本の名城」カード全16枚を展示いたします。
どうぞ、ごゆっくりご観賞くださいませ。



No.1 五稜郭 【国指定特別史跡】(北海道函館市) 日本100名城・第2番



カードの絵柄は、五稜郭タワーから見下ろした五稜郭です。

幕末に欧米諸国がアジアに勢力を広げるにおよび、幕府が欧米の要塞建築を導入してできた星形要塞です。
大政奉還江戸開城で幕府が終焉を迎えると、これをよしとしない旧幕府軍は蝦夷地(北海道)に脱出。
五稜郭を本拠地として政権を樹立しますが(いわゆる「蝦夷共和国」)、総裁榎本武揚は降伏を決断し、戊辰戦争は終わりました。



No.2 横手城 (秋田県横手市)



カードの絵柄は、模擬天守です。

秋田県の南東部を支配した小野寺氏の居城でしたが、関ヶ原で西軍についたため、改易。
戦後に秋田に移封させられた佐竹義宣のものとなりました。
一国一城令の例外で横手城は存続し、明治維新まで佐竹氏の家臣・戸村氏の居城でした。



No.3 鶴ヶ城 【国指定史跡】(福島県会津若松市) 日本100名城・第12番



カードの絵柄は、復興天守です。

はじめは「黒川城」といいましたが、蒲生氏郷が城主の際に大改修をし、「若松城」と改称されました。
雅称の「鶴ヶ城」は、蒲生氏郷の幼名「鶴千代」から来ています。
城主が目まぐるしく変わりましたが、江戸時代中期から保科松平(会津松平)家の居城となり、幕末の会津戦争の戦地となりました。



No.4 小田原城 【国指定史跡】(神奈川県小田原市) 日本100名城・第23番



カードの絵柄は、復興天守です。

小田原城は最初大森氏の本拠地でしたが、15世紀末から16世紀初頭のあいだに北条早雲が奪い取り、以後北条氏5代の本拠地となりました。
3代目氏康の代に大幅に増築され、上杉謙信武田信玄も攻め落とせなかった「難攻不落の巨城」となりましたが、豊臣秀吉小田原征伐で、ついに北条氏は降伏。
関東は徳川家康に与えられ、譜代の大久保氏が明治維新まで城主を務めました。



No.5 越前大野城 【福井県指定史跡】(福井県大野市) 続日本100名城・第138番



カードの絵柄は、俯瞰した復興天守群です。

織田信長の家臣・金森長近が、越前の一向一揆平定の恩賞として大野郡が与えられた折に建てられました。
江戸幕府成立時には越前松平家(徳川家康の次男・松平秀康を祖とする家系)の支城となります。
天和2年(1682年)大老・土井利勝の四男・利房が入封されてからは、明治まで土井家が城主となりました。



No.6 上田城 【国指定史跡】(長野県上田市) 日本100名城・第27番



カードの絵柄は、本丸東虎口櫓門【復元】と本丸北櫓【長野県宝】です。

上田城は天正11年(1583年)に真田昌幸によって築城されました。
昌幸はこの城で徳川家康の軍勢を2度迎え撃ち2度大勝しましたが、関ヶ原の戦いで勝利した家康は真田昌幸・信繁(幸村)父子を追放し、上田城は徹底的に破壊されました。
後に仙石忠政が上田に移り、幕府の許可を得て築いた城が、現在に残る上田城です。



No.7 松本城 【国指定史跡】(長野県松本市) 日本100名城・第29番



カードの絵柄は、乾小天守・天守渡櫓・大天守・巽附櫓・月見櫓【国宝】による連結天守群です。

元を深志城といい、戦国時代には守護の小笠原氏の支配に属していましたが、甲斐の武田晴信(信玄)が攻め取りました。
武田信玄の死後、織田信長による侵略を受けますが、信長が本能寺で斃れ、そのどさくさで徳川家康がこの地を攻め取り、小笠原貞慶が城主に返り咲き、名を松本城に改めました。
豊臣秀吉が天下統一を成し遂げると、もと家康の重臣・石川数正(かずます)が城主となり、現存する天守群が築かれたのです。



No.8 犬山城 (愛知県犬山市) 日本100名城・第43番



カードの絵柄は、現存天守【国宝】です。

織田信長の叔父・信康によって築城されました。
関ヶ原の戦い後は、尾張徳川家の付家老である成瀬正成が犬山城主となりました。
以後犬山城は、(あいだに明治政府の接収があったものの)平成16年まで成瀬家が城主を務めていました。



No.9 名古屋城 【国指定特別史跡】(名古屋市中区) 日本100名城・第44番



カードの絵柄は、大天守【外観復元】です。

徳川家康の命により、西国の諸大名による「天下普請」により築城されました。
家康は名古屋城を九男・義直に与え、尾張徳川家が江戸時代を通じて城主を務めました。
第2次大戦で米軍の空襲を受け、天守と御殿は炎上、現在の天守は、戦後に鉄筋コンクリート造で復元されたものです。



No.10 長浜城 【長浜市指定史跡】(滋賀県長浜市)



カードの絵柄は、模擬天守です。

長浜城【長浜市指定史跡】は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が一国一城の主となったときの最初の城です。
当時「今浜」と呼ばれていたこの地は、信長の「長」の字をいただき「長浜」と改まりました。
関ヶ原の戦い後、内藤氏が城主になりますが、大坂の陣後に廃城となり、資材の大半は彦根城【国指定特別史跡】の築城に流用されました。



No.11 大坂城 【国指定特別史跡】(大阪市中央区) 日本100名城・第54番



カードの絵柄は、外観復元天守【国登録有形文化財】です。

もとは、織田信長に頑強に抵抗した石山本願寺の跡地で、本願寺が退去した天正11年(1583年)、豊臣秀吉の本拠地として築城されました。
秀吉死後の大坂の陣で大坂城は炎上しますが、豊臣時代から姿を変えて新築されました。
現在の大坂城は、徳川時代の天守台に豊臣時代の天守が復興されたものとなっています。



No.12 姫路城 【世界遺産・国指定特別史跡】(兵庫県姫路市) 日本100名城・第59番



カードの絵柄は、連立天守群で、大天守・イの渡櫓・東小天守【国宝】が写っています。

播磨守護・赤松氏が有する城でしたが、黒田官兵衛孝高羽柴秀吉に帰順し、西国攻略の本拠地となりました。
関ヶ原の戦いの後は池田輝政が入り、8年の歳月を費やして改修、拡張し、現在の天守を築きました。
池田氏3代の後は、本多忠政が入封し、長男・忠刻とその室・千姫のために西の丸を整備し、現在の姫路城の姿となりました。



No.13 竹田城 【国指定史跡】(兵庫県朝来市) 日本100名城・第56番



カードの絵柄は、本丸から望む千畳敷です。

但馬(兵庫県北部)の守護・山名宗全が播磨への出撃拠点として築城し、山名氏の重臣・太田垣氏が代々城主を務めました。
時代は下り16世紀後半、織田信長は中国地方攻略の総司令官として羽柴秀吉を播磨に派遣、秀吉の弟・秀長が竹田城を落としました。
斎村正広があらたに城主となり、山頂に広がる総石垣の城に生まれ変わりましたが、正広は関ヶ原の戦いの不手際の責めを負い切腹、主を失った竹田城は廃城になりました。



No.14 松江城 【国指定史跡】(島根県松江市) 日本100名城・第64番



カードの絵柄は、現存天守【国宝】です。

関ヶ原の戦いでの功績により出雲国24万石を与えられた堀尾吉晴により築城されました。
堀尾氏が改易となると、次いで入封した京極忠高は松江城の造営を進め、完成させました。
忠高が没して嗣子がなく京極家も改易となると、その後は松平直政が受け、明治維新まで続きました。



No.15 岡山城 【国指定史跡】(岡山市北区) 日本100名城・第70番



カードの絵柄は、外観復元天守です。

豊臣五大老のひとり・宇喜多秀家が、慶長2年(1597年)に築城しました。
しかし関ヶ原の戦いで西軍の首脳となった秀家は八丈島へ流され、代わって西軍から寝返った小早川秀秋が岡山に入り、城下を開発しました。
秀秋は2年で死去、世継ぎがいなかったため改易となり、代わって池田家が入り、明治維新まで続きました。



No.16 首里城 【世界遺産・国指定史跡】(沖縄県那覇市) 日本100名城・第100番



カードの絵柄は、正殿【再建】と御庭(うなー)です。

創建は13世紀から14世紀と考えられていますが、15世紀初頭に琉球を統一した尚巴志によって琉球王国の王城として整備されました。
首里城は火災のために何度か焼失しており、現在の首里城は正徳5年(1715年)に再建されたときの姿をもとにしています。
昭和20年(1945年)、上陸した米軍の攻撃により全焼しましたが、戦後琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後の復元事業により首里城が復元されました。