JR中津川駅から出ました。
鬼のように暑い。
この日の中津川市の最高気温は、37℃。
それを知ってか知らずか、駅前を歩いている人はほとんどいませんでした。
駅に隣接するにぎわい特産館へ。
ここは、中津川駅を発着する路線バスの待合所にもなっています。
今回の目的地は、苗木城【国指定史跡】です。
苗木城へのアクセスは、北恵那バスの
付知峡・加子母線の本数は、通常時間帯は1時間に1本、通勤時間帯は1時間に2本ほどと、運行頻度はそれなりにあるようです。
今回は、13時15分発 付知峡線 付知峡倉屋温泉行きで向かうこととしました。
苗木城へは、中津川駅から直行するバスが1日4本ほど運行されているようです。
しかしこの年は災厄のため、運行は休止となっていました。
バスの発車時刻まで時間があるので・・・
青い中津川ソフト、うまい!かな。
青いクリームはソーダ味、想像の範囲内ですね。
それにしても、なぜ青いソフトなんでしょうか?
中津川市は、NHK連続テレビ小説「半分、青い。」の舞台となったそうです。
この朝ドラはとにかく脚本が特異的で、人によっては「半分、青い。」どころか「全部、酷い。」と酷評するほど。
それでも関東地区の平均視聴率は21.1%を挙げ、これは「ゲゲゲの女房」(平成22年・14.8%)やじぇじぇじぇの「あまちゃん」(平成25年・20.1%)を上回っています。
私はこのドラマを見たことがないので、これ以上言及することは差し控えましょう。
私がいただいたのは「半分、青い。」ソフトではなく「全部、青い。」ソフトでしたが・・・
「半分、青い。」ソフトは、青いソーダ味のクリームとともに、白い栗きんとん味のクリームがミックスされています。
そうそう、これから向かうのは山城。
手荷物を最小限にすべく、コインロッカーに預けます。
コインロッカーは改札を出て左、にぎわい特産館に行く途中の場所にひっそりとたたずんでいます。
発車時刻の2分前ごろ、バスがやってきました。
13時15分、バスは定刻どおりに発車。
バスは乗客10名ほどを乗せ、いったん駅南東の中津川の中心市街地へと向かいます。
そこから旋回して北西へと進路をとり、
(画像は、帰りのバスからのものです)
木曽川に架かる
玉蔵橋の1本下流に架かる橋は、旧北恵那鉄道木曽川橋梁。
かつては中津川駅から北西方向に北恵那鉄道線が伸びており、これから向かう苗木地区にも苗木駅がありました。
現在は廃線となり、バスがその役割を担っていますが、橋梁だけは取り残されているようですね。
苗木バス停に到着し、降りたのは私ひとり。
これより炎天下の孤独な闘いが始まります。
【今回のバス乗車記録】
中津川駅前バスプール 1番のりば 13時15分発
北恵那交通 (T)付知峡線 付知峡倉屋温泉行き
苗木停留所 13時29分着
*所要時間 14分
*運賃 400円
まずは、バス停前方に見える信号交差点を左折。
このとおり要所要所に案内看板があるので、別段迷うことはないと思います。
苗木地区の住宅地に入ります。
このまままっすぐ進んでも、途中で右折しても、
旧苗木町道路元標の前に出ます。
道路元標から苗木城までは、約1km。
白壁の土蔵のところでは、左に進みます。
登城路の後半約600メートル、上り坂が始まります。
傾斜が徐々にきつくなり、前方に丁字路が見えてきたところ。
ここは上町御門跡で、ここから城内となります。
丁字路では右折します。
あじさいが生い茂っているこのあたりは、苗木藩重役の屋敷跡だそうです。
土止めが大きな石で形成されています・・・これも石垣なのでしょうか?
ほどなく現れる十字路、そしてその先の建物。
苗木城に登るまえに訪れておきたかった場所です。
表玄関に回り込んで・・・
苗木遠山史料館に到着しました。
【今回の徒歩移動記録】
苗木停留所 13時29分発
苗木遠山史料館 13時45分着
*移動距離 1.2km
*所要時間 14分
史料館の玄関にて、まずは無料で・・・
142番、苗木城!
絵柄は巌の上の天守台です。
今回の画角探しは、それほど難しくはなさそうですね。
さらに300円で・・・
国史跡続百名城、苗木城跡!
3つの家紋は、苗木城の城主を務めた遠山氏(苗木遠山氏)のものです。
中央は「丸の内に二つ引」、で、苗木遠山氏の主紋とされています。
左上は「上り藤」で、苗木遠山氏の祖である加藤氏(上野原加藤氏)以来用いられてきたものといわれています。
右上は「遠山
登城の証となるものを入手して、さらに史料館の中へ。
入館料は330円ですが、このご時世。
マスクの着用はもちろん、コロナが出ちゃったとき用の連絡先を記入することとなりました。
史料館は、その名のとおり苗木城と遠山氏関連のものが展示されています。
かつての苗木城の模型。
本丸・木曽川の方から俯瞰した画です。
同じ模型、角度を変えて城入口から本丸を眺めた画。
この模型を見て、「これは戦国時代の苗木城なんだなぁ」と思っていた私。
建物の色が茶色やら黄土色なので、土壁やら板塀やらで建てられている・・・中世の豪族の館が、このような岩山に建てられたんだろう。
そうではなかったのです。
この模型は、江戸時代の苗木城の模型だったのです。
しかも江戸時代の後期、幕末期の苗木城。
苗木遠山氏の石高は、わずか1万石。
一般的に石高3万石以下の大名は、陣屋という屋敷を藩の政庁としていました。
しかし苗木遠山氏は当初から苗木城を居城とし、「最小の城持ち大名」となったのです。
当然、藩財政は火の車。
そのため苗木城の構造を質素なものとせざるを得ず、幕末までこのような姿をしていたのです。
苗木城は「赤壁城」という雅称をもちますが、それは苗木藩のひっ迫した財政状況の裏返しだったんですね。
とはいえ、日本唯一ともいえる異形の城。
登城を前に、早くも期待感が湧きあがっています。
風吹門と表示されている1枚の扉。
市内にある大泉寺で保管されていたものが、ここに展示されています。
風吹門の場所はこちら。
脇には大矢倉が構えられ、さながら大手門の役割を担っていました。
明治4年(1871年)苗木城が破却されると、文久2年(1862年)に焼失していた大泉寺の再建のために苗木城の構造物が転用されたのだそうです。
史料館を出て、脇から登城路に合流。
高森神社の鳥居が立っています。
もともとこの地には龍王権現が祀られており、苗木藩の祈祷所でもあった龍王院が管理していました。
しかし慶応4年(1868年)の神仏分離令と廃仏毀釈によって龍王院は廃寺となってしまい、現在は高森神社とあらためられて祀られています。
苗木藩は薩摩藩と並んで廃仏毀釈が徹底してなされた地といわれています。
苗木遠山史料館には、その様子に係る史料も展示されていました。
巨石が顕わとなっている登城路を進み、
竹門跡へ。
近くには駐車場があり、車はここまで進入することができます。
そのすぐ裏手に、
足軽長屋が建っていました。
城に勤務する足軽(下級武士)たちはここに出仕し、それから各々の係り役所へと赴いていたそうです。
足軽長屋に隣接して、苗木藩の祈祷所・龍王院が鎮座していました。
足軽長屋の跡地から眺める、苗木城の本丸。
「赤壁」の建物はなくなってしまった今もなお、異形の姿を見せてくれます。
苗木城の登城は、まだまだ始まったばかりです。