鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

苗木城登城・第1章~異形の赤壁城

2021-02-28 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 1 0 日 ( 山 の 日 )

午 後 1 2 時 4 1 分

岐 阜 県 中 津 川 市

J R 中 津 川 駅



JR中津川駅から出ました。



鬼のように暑い。

この日の中津川市の最高気温は、37℃。
それを知ってか知らずか、駅前を歩いている人はほとんどいませんでした。



駅に隣接するにぎわい特産館へ。
ここは、中津川駅を発着する路線バスの待合所にもなっています。


今回の目的地は、苗木城【国指定史跡】です。



苗木城へのアクセスは、北恵那バス付知峡(つけちきょう)または加子母(かしも)に乗車し、途中の苗木バス停で下車します。
付知峡・加子母線の本数は、通常時間帯は1時間に1本、通勤時間帯は1時間に2本ほどと、運行頻度はそれなりにあるようです。
今回は、13時15分発 付知峡線 付知峡倉屋温泉行きで向かうこととしました。

苗木城へは、中津川駅から直行するバスが1日4本ほど運行されているようです。
しかしこの年は災厄のため、運行は休止となっていました。


バスの発車時刻まで時間があるので・・・



青い中津川ソフト、うまい!かな。
青いクリームはソーダ味、想像の範囲内ですね。
それにしても、なぜ青いソフトなんでしょうか?



中津川市は、NHK連続テレビ小説「半分、青い。」の舞台となったそうです。
この朝ドラはとにかく脚本が特異的で、人によっては「半分、青い。」どころか「全部、酷い。」と酷評するほど。
それでも関東地区の平均視聴率は21.1%を挙げ、これは「ゲゲゲの女房」(平成22年・14.8%)やじぇじぇじぇの「あまちゃん」(平成25年・20.1%)を上回っています。
私はこのドラマを見たことがないので、これ以上言及することは差し控えましょう。

私がいただいたのは「半分、青い。」ソフトではなく「全部、青い。」ソフトでしたが・・・
「半分、青い。」ソフトは、青いソーダ味のクリームとともに、白い栗きんとん味のクリームがミックスされています。



そうそう、これから向かうのは山城。
手荷物を最小限にすべく、コインロッカーに預けます。
コインロッカーは改札を出て左、にぎわい特産館に行く途中の場所にひっそりとたたずんでいます。



発車時刻の2分前ごろ、バスがやってきました。
13時15分、バスは定刻どおりに発車。



バスは乗客10名ほどを乗せ、いったん駅南東の中津川の中心市街地へと向かいます。
そこから旋回して北西へと進路をとり、

 (画像は、帰りのバスからのものです)

木曽川に架かる玉蔵(ぎょくぞう)を渡ります。

玉蔵橋の1本下流に架かる橋は、旧北恵那鉄道木曽川橋梁
かつては中津川駅から北西方向に北恵那鉄道線が伸びており、これから向かう苗木地区にも苗木駅がありました。
現在は廃線となり、バスがその役割を担っていますが、橋梁だけは取り残されているようですね。




午 後 1 時 2 9 分

苗 木 バ ス 停




苗木バス停に到着し、降りたのは私ひとり。
これより炎天下の孤独な闘いが始まります。



【今回のバス乗車記録】

中津川駅前バスプール 1番のりば 13時15分発
北恵那交通 (T)付知峡線 付知峡倉屋温泉行き
苗木停留所 13時29分着

*所要時間 14分
*運賃 400円





まずは、バス停前方に見える信号交差点を左折。
このとおり要所要所に案内看板があるので、別段迷うことはないと思います。



苗木地区の住宅地に入ります。
このまままっすぐ進んでも、途中で右折しても、



旧苗木町道路元標の前に出ます。
道路元標から苗木城までは、約1km。



白壁の土蔵のところでは、左に進みます。



登城路の後半約600メートル、上り坂が始まります。



傾斜が徐々にきつくなり、前方に丁字路が見えてきたところ。
ここは上町御門跡で、ここから城内となります。
丁字路では右折します。



あじさいが生い茂っているこのあたりは、苗木藩重役の屋敷跡だそうです。



土止めが大きな石で形成されています・・・これも石垣なのでしょうか?



ほどなく現れる十字路、そしてその先の建物。
苗木城に登るまえに訪れておきたかった場所です。
表玄関に回り込んで・・・



苗木遠山史料館に到着しました。



【今回の徒歩移動記録】



苗木停留所 13時29分発
苗木遠山史料館 13時45分着

*移動距離 1.2km
*所要時間 14分




午 後 1 時 4 5 分

苗 木 遠 山 史 料 館




史料館の玄関にて、まずは無料で・・・



142番、苗木城!
絵柄は巌の上の天守台です。
今回の画角探しは、それほど難しくはなさそうですね。

さらに300円で・・・



国史跡続百名城、苗木城跡!
3つの家紋は、苗木城の城主を務めた遠山氏(苗木遠山氏)のものです。
中央は「丸の内に二つ引」、で、苗木遠山氏の主紋とされています。
左上は「上り藤」で、苗木遠山氏の祖である加藤氏(上野原加藤氏)以来用いられてきたものといわれています。
右上は「遠山九字直違(くじすじかい)で、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の九字の呪文と縦横の手刀による陰陽道の早九字を紋章としたものだそうです。


登城の証となるものを入手して、さらに史料館の中へ。
入館料は330円ですが、このご時世。
マスクの着用はもちろん、コロナが出ちゃったとき用の連絡先を記入することとなりました。


史料館は、その名のとおり苗木城と遠山氏関連のものが展示されています。



かつての苗木城の模型。
本丸・木曽川の方から俯瞰した画です。



同じ模型、角度を変えて城入口から本丸を眺めた画。
この模型を見て、「これは戦国時代の苗木城なんだなぁ」と思っていた私。
建物の色が茶色やら黄土色なので、土壁やら板塀やらで建てられている・・・中世の豪族の館が、このような岩山に建てられたんだろう。

そうではなかったのです。

この模型は、江戸時代の苗木城の模型だったのです。
しかも江戸時代の後期、幕末期の苗木城。

苗木遠山氏の石高は、わずか1万石。
一般的に石高3万石以下の大名は、陣屋という屋敷を藩の政庁としていました。
しかし苗木遠山氏は当初から苗木城を居城とし、「最小の城持ち大名」となったのです。
当然、藩財政は火の車
そのため苗木城の構造を質素なものとせざるを得ず、幕末までこのような姿をしていたのです。
苗木城は「赤壁城」という雅称をもちますが、それは苗木藩のひっ迫した財政状況の裏返しだったんですね。

とはいえ、日本唯一ともいえる異形の城。
登城を前に、早くも期待感が湧きあがっています。



風吹門と表示されている1枚の扉。
市内にある大泉寺で保管されていたものが、ここに展示されています。



風吹門の場所はこちら。
脇には大矢倉が構えられ、さながら大手門の役割を担っていました。
明治4年(1871年)苗木城が破却されると、文久2年(1862年)に焼失していた大泉寺の再建のために苗木城の構造物が転用されたのだそうです。



史料館を出て、脇から登城路に合流。



高森神社の鳥居が立っています。
もともとこの地には龍王権現が祀られており、苗木藩の祈祷所でもあった龍王院が管理していました。
しかし慶応4年(1868年)の神仏分離令廃仏毀釈によって龍王院は廃寺となってしまい、現在は高森神社とあらためられて祀られています。

苗木藩は薩摩藩と並んで廃仏毀釈が徹底してなされた地といわれています。
苗木遠山史料館には、その様子に係る史料も展示されていました。



巨石が顕わとなっている登城路を進み、



竹門跡へ。
近くには駐車場があり、車はここまで進入することができます。
そのすぐ裏手に、



足軽長屋が建っていました。
城に勤務する足軽(下級武士)たちはここに出仕し、それから各々の係り役所へと赴いていたそうです。
足軽長屋に隣接して、苗木藩の祈祷所・龍王院が鎮座していました。



足軽長屋の跡地から眺める、苗木城の本丸
「赤壁」の建物はなくなってしまった今もなお、異形の姿を見せてくれます。

苗木城の登城は、まだまだ始まったばかりです。





中央線完全走破・前編~名古屋へ向かう

2021-02-28 | 鉄道の旅


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 1 0 日 ( 山 の 日 )

午 前 4 時 4 5 分

横 浜 市 南 区

京 急 井 土 ヶ 谷 駅



コロナ禍の中、東京23区を避けて横浜入りした私。
帰りもなるべく東京を避けて、本拠地の柏へと戻らなければなりません。



それならば、青春18きっぷを手にして・・・西へ。
ついでに城にも寄っていきたい。
しかし本日中に、柏に戻らなければならない。

18きっぷの限界ギリギリの、柏へ帰る旅がここに始まります。




まずは京浜急行・井土ヶ谷駅
5時13分発 エアポート急行羽田空港行きに乗車。



5時20分、横浜駅到着。
ここでJRにお乗り換え。


普通に柏に帰るなら東京方面の電車に乗ればいいのですが、今回は東京を避けるので・・・



反対方向の電車に乗ることとなります。
5時48分発 東海道線 普通電車 沼津行き・・・これで一気に静岡県へ。



沼津駅までは乗らず、ひとつ前の三島駅で降ります。



今度の電車は、7時29分発 東海道線 普通電車 静岡行きです。
この電車は三島駅が始発となるので、沼津まで乗り続けなかったというわけです。


7時53分に富士駅を発った電車は、



「日本三急流」のひとつ・富士川を渡ります。今日はいい天気だ・・・。
美しいアーチを描いている橋は、鉄橋でも道路橋でもなく、水道管が通る水道橋なのだそうです。
よーく見ると、水道橋の奥に東海道新幹線富士川橋梁がありますね。



8時28分、終点の静岡駅に到着。



次の電車は、8時30分発 東海道線 普通電車 浜松行きです。
乗換時間はわずか2分ですが、ホームの向かいなので問題なしです。
まぁ、駅名標などを撮る時間がギリギリとなってしまうのは、こういう旅日記を記述している身としては困るのですが。


静岡から7駅目の島田駅を発ち、



8時59分、江戸時代には橋を架けられることを禁じられていた大井川を渡河。



9時35分、「暴れ天竜」と称される天竜川を渡河。
9時41分、終点の浜松駅に到着しました。




発車標がはっきり写っていませんが・・・今度の電車は9時43分発 東海道線 特別快速 大垣行きです。
またしても2分乗換、そのため浜松駅の駅名標を撮る時間はありませんでした。



浜松から2駅の舞阪駅を過ぎると、いよいよ浜名湖が見えてきます。



晴天の浜名湖です!
すっきりと晴れ渡る浜名湖を見たのは、おそらく初めてだと思います。
城攻め旅で東海道線を何度も往復していますが、たいていは夜だったり、あるいは天候に恵まれなかった浜名湖。
東海道線は浜名湖を3度渡りますが、その最初の鉄橋・第一浜名橋梁から進行方向左側を眺めています。



すぐ脇に国道301号弁天大橋が架かっています。
その隣りには、弁天橋
そして向こうには、遠州灘への河口に架かる浜名大橋が見えます。



鉄橋を渡ると、浜名湖に浮かぶ弁天島に続きます。
東海道線はここで弁天島駅に停車してから、



第二浜名橋梁、そして・・・



3番目の鉄橋・第三浜名橋梁へ。
今回も脇には国道301号が一緒です。
また反対側には東海道新幹線が並走しています。



9時57分、浜名湖を通過。
晴天の浜名湖で、思いのほか盛り上がってしまいました。



岡崎駅を出て、10時44分、矢作川を渡ります。


11時12分、



名古屋駅に到着しました。




午 前 1 1 時 1 3 分

名 古 屋 駅 7 番 線 ホ ー ム




やってきました、名古屋駅
ここから中央線完全走破の旅が始まります。
東京から名古屋ではなく、名古屋からスタートして東京に戻ってまいります。



中央線完全走破の旅・最初の電車は、11時24分発 快速電車 中津川行きです。
愛知県の北東部を抜け、岐阜県の東部・東濃地方へ。
長野県の一歩手前まで、一気に駆け抜ける電車に乗り込みます。



その前に・・・



ワンコインメニュー、きしめん(500円)をいただきます。



きしめん、うまい!
発車時刻まで10分足らずだったので、なかなか出てこないきしめんにヤキモキしながらも、しっかりと昼食をとることができました。



進行方向左側の座席を確保できました。
JR東海さんの電車は、座席がゆったりしていていいですねぇ~。
の方の電車なんてロングシートばっかりで、こんな座席はグリーン車か特急じゃないとお目にかかれませんからね。
でも静岡県内の東海道線は・・・きついなぁ。



11時24分、快速電車は定刻どおりに発車しました。

快速電車の停車駅は、金山、鶴舞、千種(ちぐさ)大曽根(おおぞね)勝川(かちがわ)、春日井、高蔵寺、多治見と、多治見からの各駅です。
どこぞの先生には鬼門である尾頭橋(おとうばし)は名古屋駅と金山駅の間にあって、東海道線は普通電車のみ停車しますが、中央線は普通電車も通過します。

「ニッポン城めぐり」の未踏地帯に入りましたので、ここから入念に「城攻め」していきます。



鶴舞駅にて、この日最初の城・末森城を攻略。
末森城は織田信長の父・信秀により築城され、信秀没後は信長の弟・信勝(信行)に譲られました。
信勝は後継をめぐって信長と争いますが、敗北。
ふたたび謀反を企てたため、信勝は信長によって謀殺されてしまい、そのまま末森城は廃城となったようです。



大曽根駅では守山城を攻略し、



この日最初の浪人ふたりを発見。
信長と争って身を滅ぼした織田信勝・・・「ニッポン城めぐり」では信行となっているようですね。
信長に助命され、その有力な部将となった信勝の子・信澄
ふたりともこの場で登用しました。

春日井駅停車中に、



「米五郎左」丹羽長秀
同時に発見した信長の三男・信孝も登用しました。



高蔵寺駅を過ぎると、車窓から建物が減っていきます。
高蔵寺の次の停車駅は、岐阜県の多治見駅
愛知県と岐阜県の県境に近づいていくと、右側の車窓には庄内川(岐阜県では土岐川)の景色が広がってきました。

中央線の車窓、最初の見どころである古虎(ここ)
進行方向左側に座ってしまった私は、古虎渓をほとんど見ることができませんでした。

ちょっとした悔いを残し、電車は岐阜県に入ります。




岐阜県に入って最初の停車駅・多治見駅
多治見を代表する岐阜県の東濃地方は、本邦有数の酷暑地帯であります。
この日の多治見市の最高気温は、38.6℃だったようです。
石垣山城のとき以上の酷暑で、私はこれから寄り道をしようとしています。

多治見駅から先は、終点まで各駅停車となります。




多治見の次の駅、土岐市駅
このあたりは明智光秀公の出身地とされています。






電車は着実に山々の方へと向かっています。
晴れ渡る蒼天・・・外は暑そうだなぁ。



川のせせらぎが、ひとときの癒しにもなります。



終点・中津川駅の2駅前の恵那駅
日本100名城の岩村城【国指定史跡】へは、ここで明知鉄道明知線にお乗り換えしますが、この日は通過。
「城攻め」だけはしておきましょ。



ああっ! 続日本100名城・第142番、苗木城・・・。
10km以上離れているはずの苗木城が、こんなところで攻略できてしまうとは・・・。
登城予定の城は現地で攻略する主義の私にとっては、ちょっぴり複雑な心境でした。





電車は木曽川の支流・中津川を渡り、



12時39分、終点・中津川駅に到着。
これより苗木城【国指定史跡】へと向かいます。



【今回の鉄道乗車記録】

KEIKYU 京急電鉄 (KK42)井土ヶ谷駅 2番線 5時13分発
(KK)京急線 エアポート急行 羽田空港行き 8両
(KK37)横浜駅 2番線 5時20分着

JR東日本 [JT05] YHM 横浜駅 6番線 5時48分発
[JT]東海道線 普通 沼津行き 10両
JR東海 [CA02]三島駅 2番線 7時21分着

[CA02]三島駅 4番線 7時29分発
[CA]東海道線 普通 静岡行き 5両
[CA17]静岡駅 2番線 8時28分着

[CA17]静岡駅 3番線 8時30分発
[CA]東海道線 普通 浜松行き 6両
[CA34]浜松駅 4番線 9時41分着

[CA34]浜松駅 3番線 9時43分発
[CA]東海道線 特別快速 大垣行き 6両
[CA68]名古屋駅 6番線 11時12分着

[CF00]名古屋駅 7番線 11時24分発
[CF]中央線 快速 中津川行き 6両
[CF19]中津川駅 1番線 12時39分着

*所要時間 7時間26分 (移動時間 6時間34分 乗換時間 52分)
*移動距離 422.6km
*運賃 京急 IC運賃 157円
    JR  青春18きっぷ使用(使用しない場合、6,930円)



【今回の「城攻め」成果】

[CF]中央線
(11時24分 [CF00]名古屋駅発車)
11時30分 [CF02]鶴舞駅   末森城を攻略。
11時36分 [CF04]大曽根駅  守山城を攻略、織田信澄織田信行を登用。
11時44分 [CF07]春日井駅  上条城を攻略、丹羽長秀織田信孝を登用。
11時47分 [CF08]神領駅   入尾城を攻略、毛利良勝を登用。
12時00分 [CF12]多治見駅  多治見国長邸【岐阜県指定史跡】、根本城妻木城【岐阜県指定史跡】を攻略。
12時05分 [CF13]土岐市駅  鶴ヶ城【岐阜県指定史跡】を攻略。
12時11分 [CF14]瑞浪駅   小里(おり)【岐阜県指定史跡】を攻略。
12時27分 [CF17]恵那駅   苗木城【国指定史跡】と大博士城を攻略。
(12時39分 [CF19]中津川駅到着)





ハイソフト「日本の美しい橋」第6橋

2021-02-28 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 2 月 7 日 ( 日 )

午 後 5 時 0 0 分

千 葉 県 柏 市

本 拠 地 に て



季節外れの温暖な一日。



小腹が空いていたので、ストックにあった森永ハイソフトを開封。



この橋は何度も渡ったことがありますね。
歩いて渡ったことも、自転車で渡ったことも、車で渡ったことも。
本邦の道は、ここがスタート地点とされているんですよね。



6番、日本橋!
威厳に満ちた2連アーチの石橋は、さすがに本邦を代表する風格を顕していますね。




日本橋【国指定重要文化財】は、日本橋川に架かる東京都中央区の道路橋です。
長さは49.1メートル、通行幅は27.3メートルです。

江戸幕府の街道整備計画のさきがけとして造られることとなり、慶長8年3月3日(1603年4月14日)に完成しました。
翌年には五街道の基点と位置付けられ、以後江戸で最もにぎわう場所となっていきます。
しかし火事による焼亡10回を数えるほか、のべ18回もの架け替えがなされ、現在の橋は明治44年(1911年)4月3日に完成したものです。
その後は東京大空襲にも耐え、平成11年(1999年)国の重要文化財に指定されました。





橋自体は西洋風のデザインですが、欄干に据え置かれた青銅製の麒麟像、松や榎木の柱模様などに、東洋や日本のモチーフが加えられています。
まごうことなき日本の名橋なのですが、上空はきわめて残念といわざるを得ませんね。

しかし昭和39年(1964年)に開通した首都高速道路1号線(現在は都心環状線)は、施設の老朽化のために建て替えが必要になってきています。
そこで現在、日本橋エリアの首都高速を地下化しようというプロジェクトが立ち上がっています。
首都高速が地下に潜り、日本橋から空が見えるようになるのは、早くても20年後のことのようです。


そのころには、私は還暦か・・・・・・・考えるのはやめよう。
それよりまずは「日本の美しい橋」カードのコンプリート、これにまい進していきましょう。





ハイソフト「日本の美しい橋」第5橋

2021-02-11 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 2 月 1 日 ( 月 )

午 後 6 時 0 5 分

職 場 に て



この日はおやつタイムに続き、



お帰りタイムにも森永ハイソフトを開封しました。



この橋は知っていますよ~。
たしか大月の水色の師匠たいまつ持って走った橋ですよね。



7番、猿橋!
めずらしい刎橋(はねばし)という構造をもっていた「日本三奇橋」のひとつです。




猿橋は、桂川(相模川)に架かる山梨県大月市の歩行者専用橋です。
長さは30.9メートル、通行幅は3.3メートルです。

最初に猿橋が架かった年代は不明ですが、推古天皇の御代の610年ごろに百済の渡来人の志羅呼(しらこ)という人物が建造したといいます。
志羅呼は、猿が互いに体を支え合っているさまを見て、猿橋を造ったといいます。
時代は下り、江戸時代に江戸から甲府まで甲州街道が整備されると、猿橋は街道の一部を構成することとなりました。
周囲の渓谷とともに「甲州街道随一の名勝」とうたわれました。
現在の橋は昭和59年(1984年)に再建されたもので、刎橋構造を装飾にしている「刎橋風」の橋となっています。





両岸の岩盤に支えとなる柱を埋め込み、中空に突き出します。(これを刎ね木といいます)
最初は短めに突出し、その上にさらに長い刎ね木を同様に設置していきます。
その上にはさらに長い刎ね木、さらにその上にはより長い刎ね木をこしらえていきます。
両岸の刎ね木の間隔が短くなっていったところで、刎ね木の上に橋を架けていく構造が刎橋です。

文章で説明するよりも、猿橋の画像を見たほうがわかりやすいと思います。

刎橋は、猿橋のように橋脚を設けることが困難な場合に用いられていた構造です。
現在は純粋な刎橋はなく、猿橋も橋げたに刎ね木(のような装飾)をくっつけているだけであり、刎ね木が橋を支えている構造ではありません。



そういえば聖火を掲げて猿橋を渡った三遊亭小遊三師匠は、令和3年の東京オリンピックでも聖火ランナーを務めるようです。
東京オリンピック・・・開催できるのでしょうか?





ハイソフト「日本の美しい橋」第4橋

2021-02-11 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 2 月 1 日 ( 月 )

午 後 3 時 0 5 分

職 場 に て



ハイソフトとの闘いが始まって2週間。
かつてのように連日というわけでもなく、無理なく無駄なくキャラメルを賞味しています。


さて今回も、職場でのおやつタイムでハイソフトを開封します。



岩ですか?
ああ、これも橋なんですか。
どこの橋だか皆目見当もつかないので、裏面の解説を参照・・・



12番、帝釈峡雄橋!
読みは「たいしゃくきょう おんばし」です。




雄橋は、帝釈川に架かる広島県庄原市の橋です。
中国山地有数の渓谷・帝釈峡に鎮座する巨大な石灰岩が、川の浸食作用によって下の部分が貫通するに至り、橋のようになったといいます。
長さは90メートル、通行幅は18メートルで、世界最大級の天然橋といわれています。
帝釈峡全域が国の名勝に、また雄橋も国の天然記念物に指定されています。
雄橋は、帝釈川を挟んだ地域の生活道の一部となっていたほか、「神が架けた橋」あるいは「鬼が架けた橋」との伝承もあり、地域住民の信仰の対象にもなっていました。



カードの画からはよくわからなかったのですが、この雄橋の「天井」から帝釈川の水面までは18メートルほどもあるそうです。
このことを踏まえあらためてカードを見ると、



なるほど「鬼が架けた橋」という伝承も頷けそうですね。
ちなみに、雄橋(おんばし)と対になる雌橋(めんばし)というのもあるそうです。



Google Mapで位置を確認してみると・・・やっぱりというか、なんというか、山の中ですね。

鉄道が主な移動手段である私が、帝釈峡に行こうとするならば・・・
まずJR芸備線 東城駅で下車するのですが、ここまで行くのが大変。
上り列車が1日6本、下り列車に至っては1日3本しかありません。
そして駅からは1日4本の路線バスに乗車する必要があります。
このバス、休日は運行していないようです。

私が雄橋を訪れる機会は、果たしてあるのでしょうか???





ハイソフト「日本の美しい橋」第3橋

2021-02-11 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 1 月 2 2 日 ( 金 )

午 後 3 時 0 5 分

職 場 に て





2橋目で早くもダブリを引いてしまった私。
この日はたまたま持っていた、もうひとつの森永ハイソフトを開封し、リベンジを図ります。
そして・・・



これはパッケージにも描かれている橋じゃないですかねぇ。



5番、二荒山神社神橋!
ここは見たことがありますよ~。




二荒山神社神橋は、大谷(だいや)に架かる栃木県日光市の橋です。
長さは28メートル、通行幅は7.4メートルの歩行者専用橋で、国の重要文化財に指定されており、また世界遺産「日光の社寺」を構成しています。

奈良時代の末期、日光山中禅寺を開いた勝道(しょうどう)上人が、山に入る際に大谷川の急流に行く手を阻まれてしまいます。
上人が神仏に加護を求めたところ、2匹の蛇が現れ、その背から山菅(やますげ)が生えて橋になったといいます。
この伝説から「山菅橋」「山菅の蛇橋」とも呼ばれています。

日光山に東照宮が創設されると、寛永13年(1636年)朱塗りの橋に架けかえられました。
その橋は明治35年(1902年)の洪水で流されてしまい、明治34年(1904年)に再建された橋が現存しています。



神社にある神橋は、神域と俗世とをつなぐ橋という意味合いがあります。
二荒山神社の神橋も、日光山の玄関の役割を果たしてきたのですね。

私自身、日光には何度も訪れたことがあります。
しかしこの橋を歩いて渡ったことはないので、日光を訪れる機会があれば、この橋を渡ってからじっくりと参拝していきたいですね。





ハイソフト「日本の美しい橋」第2橋

2021-02-11 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 1 月 1 9 日 ( 火 )

午 後 8 時 5 0 分

千 葉 県 柏 市

本 拠 地 に て



前日に続き、この日も森永ハイソフトを開封します。



なんだか、どこにでもありそうな普通の橋のようにも見えます。
ここは裏面の解説を見ることにしましょうか。



16番、愛本橋!
う~ん、存じ上げませんなぁ。




愛本橋は、黒部川に架かる富山県黒部市の橋です。
長さは130メートル、通行幅は8.6メートルの道路橋です。

寛文2年(1662年)3代加賀藩主前田綱紀の命により、北陸街道をつなぐ橋として架けられました。
江戸時代においては、国境に近い河川には領地防衛の観点から橋を架けないことはよくあるケースでしたが、綱紀は往来の利便性を優先し、家臣の反対を押し切って架橋を命じたといいます。
黒部川はたびたび増水し橋脚を立てるには適していなかったため、川の両岸から大木を突き出して橋を支える刎橋(はねばし)の構造で架けられました。
それでも橋は幾たびも架け替えがなされ、大正9年には鉄骨製のトラス橋、それが流失した後の昭和47年(1972年)には12代目の橋としてアーチ橋が架けられて現在に至ります。

刎橋という珍しい構造から、「日本三奇橋」のひとつに挙げられています。
刎橋ではなくなってしまった現在もなお「日本三奇橋」とされています。




ここで「刎橋」「トラス橋」「アーチ橋」という用語が出てきましたが、このあたりの説明は後ほどとさせていただきましょう。
橋の構造についての学習も必要なハイソフトとの闘い、まだまだ序盤戦です。




1 月 2 2 日 ( 木 )

午 前 1 1 時 3 4 分

職 場 に て




16番、愛本橋!
2橋目で、早くもダブリを引いてしまいました。





ハイソフト「日本の美しい橋」第1橋

2021-02-11 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 1 月 1 8 日 ( 月 )

午 後 9 時 3 9 分

千 葉 県 柏 市

本 拠 地 に て



わが本拠の近所のスーパーから、突如始まったハイソフトとの闘い



森永さんが選んだ「日本の美しい橋」、最初の1橋は・・・



むむむ・・・どこの橋だかまったく見当もつかない。
城には興味があっても橋にはあんまり興味がないもので。



カードの裏を見ると・・・8番、蓬莱橋!・・・っていうんですね。
今回のシリーズは、裏面に解説がしっかりと記述されています。
その代わり、メッセージカードの機能はなくなってしまったんですね。



蓬莱(ほうらい)は、大井川に架かる静岡県島田市の橋です。
長さは897.4メートル、通行幅は2.4メートルの木造歩道橋です。

江戸時代は架橋が許されなかった大井川に、明治12年(1879年)牧之原台地と東海道の島田宿(島田市)を結ぶために架けられた橋です。
牧之原の農地開拓のために当地の農民の出資によって架けられた橋なので、関係者以外からは通行料金を徴収しました。
これは現在も続いており、本邦でも数少ない賃取橋(ちんとりばし)で、通行料金は大人100円、小人10円です。
自転車で渡る場合は、さらに100円の追加料金となります。
架橋の経緯から、現在も法令上は農道の一部となっているそうです。
大井川の氾濫によって蓬莱橋は幾度となく流されたため、昭和40年(1965年)の架け直し以降、橋脚だけはコンクリート製となっています。

平成9年(1997年)12月30日に、「世界一の長さを誇る木造歩道橋」としてギネスブックに認定されました。
長い木=「長生き」の橋、897.4=「やくなし(厄無し)」の橋として、パワースポットにもなっているのだそうです。



裏面の解説文をそのまま載せるのでは芸がないので、島田市のサイトなどを参考にしながら編集しました。

島田といえば、続日本100名城の諏訪原城【国指定史跡】がある地。
登城ついでに立ち寄ってみるのもいいかもしれませんね。



ハイソフトとの闘いは、まだまだ始まったばかりです。





普段は行かないスーパーにて

2021-02-11 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 1 月 1 8 日 ( 月 )

午 後 9 時 1 8 分

千 葉 県 柏 市

近 所 の ス ー パ ー マ ー ケ ッ ト に て



この日は、女王様第2王子とともに、普段は行かない近所のスーパー「B」にいました。


第2王子JR南流山駅にクルマで迎えに行く。
帰路の途上にあるコンビニ「M」で、女王様がソフトクリームをお召しになる。
さらに適当にスーパーに寄って、買い物をする。
第2王子を家まで送ってから、本拠地に戻る。


私の生活の中で、心ならずもこの流れが定着しつつあります。
いや、ここでは何も言うまい・・・。



普段は行かないスーパーに立ち寄ると、私が決まってすることがふたつあります。

ひとつは、サバ缶の確認
この店には、どのメーカーのサバ缶があるのだろう。
そして価格は・・・。
ひととおり確認しますが、サバ缶は一切買いません。

だって、もう一生分のサバの水煮は食べちゃったもん。
サバ缶食べ比べはもうやりません、ここで断言します!


・・・取り乱して失礼しました。

そしてもうひとつは、キャラメルの確認です。
キャラメルの確認、というより森永製菓 ハイソフトキャラメルの有無をチェックするのです。
さらにいえば、ハイソフトに入っている“おまけ”のカードをチェックするのです。

“おまけ”のカードは、「日本の名城」シリーズになってから5年近くたちます。
そろそろ新しいシリーズの“おまけ”が登場するのではないだろうか。
そう思って、ハイソフトのパッケージをチェックしていたのでした。



「日本の名城」シリーズのコンプリートから3年半。
ついに新しいシリーズが登場しました。
ほうほう、「日本の美しい橋」ですか。



3年半のブランクを経て、みたびハイソフトとの闘いが幕を開けたのです。



ハイソフトとの闘いにおいて、私は以下のようなルールを設定しました。


一、カードはなるべく自力で集めるべし。

自力でカードを集める、すなわちハイソフトを自分で買い、そこで得たカードのみ集めるのが原則です。
つまりは、赤の他人からもらったり、メルカリなんかで買ってはいけない、ということです。
まぁ、ネットオークションに出品するような人はいないとは思いますが。
しかし「なるべく」・・・原則に例外は付き物です。
私がカードを集めていることを知っている知人から、善意で提供されたカードはOKということにします。
ただあくまで善意に限るものとし、私からカードの提供を要求することはありません。

一、カードの内容を事前に知るべからず。

どの橋がカードに採用されているかをネットで検索することを自主規制します。
パッケージに記載のある3橋以外は、ハイソフトを開けてからはじめて知ることとします。

一、キャラメルを廃棄するべからず。

かつてのビックリマンチョコ、昨今では恵方巻きの大量廃棄と、フードロスが社会問題となって久しいです。
ハイソフトとの闘いではカードが主目的なのですが、だからといって商品本体であるキャラメルを絶対ないがしろにしないことをここに誓います。
ハイソフトは1箱に12粒のキャラメルが入っていますが、それを全部食べます!
このように言いたいところですが・・・・・・。

一、キャラメルを無理に食べるべからず。

さすがにハイソフトを連日食べていくと、私の血糖値に問題が生じてしまいます。
なのでキャラメルは全部食べず会社の同僚とシェアする、毎日は食べずに週2食程度にするなど、無理なく闘いを繰り広げていこうと考えております。
私も年をとったものでねぇ。





それでは森永ハイソフトキャラメル、いざ開封!





第79回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記・後編~横浜家電革命

2021-02-11 | 鬼ヅモ同好会


令 和 3 年 ( 2 0 2 0 年 ) 1 2 月 2 9 日 ( 土 )

午 後 6 時 3 5 分

横 浜 市 某 所

大 会 会 場



初日の闘いが終わってから、酒を呑み肉を食らい、旅行談義に花を咲かせていた横浜の三人。
オンラインのふたりとのビデオ通話が終了してもそれは続き、旭日が昇ってようやく就寝となりました。


この日は起きてはゲームに興じ、昼寝をし、また起きてはゲームに興じ・・・の繰り返し。
この自堕落な時間もまた、いいんですよねぇ。



日輪はとうに地平線に隠れてしまった午後6時。
かつ会長よりLINEが入りました。

「帰宅しました。これから食事にします」

推測するに、なんと規則正しい生活を送っているのだろう。
奥方がいらっしゃると、こうも・・・・・・。

そういえば横浜に集結した三人、いずれも・・・・・・。

「食事終わりました 参加できます」

ふたたびの会長のLINEが鏑矢となり、闘いが再開されたのでした。
この日がいちおう最終日ということもあり、何試合行うか事前に決めるのですが・・・

「まぁ、じゆうにやろうや」

などと言いながら、とりあえず試合開始。


8試合目が終わったところでご~先生の参戦があり、そこから4試合行うこととなりました。
本当に「じゆうに(12)」やることとなったわけですね。


結果ですが・・・




ご覧のとおり、たか先生が142ポイントをお獲りになり、優勝となりました。



この日はとにかくたか先生が強すぎました。
12試合中7試合トップじゃ、かないませんよぉ。




令 和 3 年 ( 2 0 2 0 年 ) 1 2 月 3 1 日 ( 月 )

午 後 5 時 5 8 分

大 会 会 場 に て


会場に集った3人は、このまま大会会場で過ごしていました。



よね先生がこしらえた新鋭のコーヒーメーカーです。
牛乳を用意すればラテやカプチーノも賞味できる優れもの。
これのおかげで、飲み物は連日コーヒーをいただくこととなりました。


さて大晦日。
令和2年最後を飾るお食事は、やはり年越しそば。



肉なんばんそば、うまい!
太田屋さんのおそばを頂戴し、苦難の多かった令和2年も〆とまいりましょう。
よね先生は今回も天ざるそばでした。ブレがありませんなぁ。


午後7時、大会会場に戻りました。
特に何をするわけでもなく、ただただくつろぐ3人。
3人とも重度のどうでしょうバカですが、大泉さんが司会を務める紅白歌合戦を見るわけでもありません。



そうそう、よね先生は電子レンジも新調されました。
おそばを食べたのが午後6時ごろだったこともあり、ここでお夜食の調理が始まります。



ローストチキン、うまし!
中におにぎりは包まれていません。



さば塩焼き、うまい!
これは酒の肴にピッタリですねぇ。



遠くの寺院から鳴り響く除夜の鐘。
独身漢たちは家電のイノベーションを肌身で感じながら、年越しを迎えたのでした。



第79回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記 完

ホーム画面に戻る。