鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

関宿城で小さなリベンジ

2019-11-27 | 城郭【その他】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 2 4 日 ( 日 )

午 後 6 時 0 6 分

千 葉 県 野 田 市

関 宿 城 博 物 館



本佐倉城のリベンジから1週間後の日曜日。
この日は柏ナンバーのかわいいクルマに、女王様を乗せております。
女王様は遊戯の戦績が振るわなかったようで、私とともにドライブに行くことになったのです。


夕刻。


「夕空を撮りたい」


仰せに従い、柏市内から夕空を見渡せる場所にクルマを走らせることにしました。
関宿城に行こう!」という考えを秘めつつ。


関宿城は、柏のお隣・野田市にあります。
チーバくんでいうなら、黒い鼻の部分が野田市
そして関宿城は、黒い鼻の先っちょにあるのです。
柏から関宿城までの距離は30km以上、埼玉県の春日部よりも遠いのです。


行先を告げると女王様が拒絶されるので、内密に・・・。
国道16号を通ると女王様に感づかれるので、あくまで裏道で・・・。



女王様が私の真意に気が付いたときはもう遅く、



関宿城に到着したのでした。







関宿城は利根川江戸川の分岐点。
遮るものもなく夕空を撮れます・・・が、女王様はクルマの外に出てきません。

寒い。

寒さに弱い女王様は、車内から夕空を撮れる場所をお望みだったのです。
意に反して遠いところに連れてこられた女王様はいたくご立腹。



そんな女王様を尻目に、私は小さなリベンジを決行します。
それは・・・



関宿城、攻略!

前回に訪れた関宿城と、茨城県の逆井城で、私は「城攻め」するのを忘れてしまったのです。
今回の旅のテーマ「ちばらぎリベンジ」ということで、小さいながらもこの2城のリベンジは成し遂げなければならなかったのです。

おや、関宿城以外にも攻略できる城がある・・・?



逆井城、攻略!
関宿城にいながら、対岸にある逆井城も攻略できてしまいました。
日を改めて逆井城に行こうと考えていましたが・・・行かなくてもいいや。





近くの空き地からライトアップされた関宿城を撮影して、柏に戻りました。





本佐倉城リベンジ・最終章~Ⅶ郭そしてスタンプは?

2019-11-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 2 時 5 9 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

本 佐 倉 城 妙 見 神 社



春先の本佐倉城【国指定史跡】登城リベンジ。



マムシ、イノシシ、カミツキガメには遭遇しませんように・・・。
妙見神社で祈願し、パンフレットの推奨ルートを忠実にたどって散策を続けます。



本佐倉城の内郭を構成する小高い山を下りました。



田が広がる窪地と、その先にはさらなる小高い山。
現在田んぼとなっているところには、かつては中池という池があったそうです。
そしてその池には中島小島が浮かんでおり、弁天神社が鎮座していました。
画像にある建物の背後に立つ山は向根古谷(Ⅸ郭)で、侍屋敷が密集していた郭でした。

窪地を取り囲むかのように立っている山は、それぞれ荒上(Ⅷ郭)、向根古谷(Ⅸ郭)、根古屋(Ⅹ郭)を構成し、それぞれに侍屋敷が集まっていた郭でした。
これまで散策したⅠ~Ⅵ郭と、このあと訪れるⅦ郭が内郭、Ⅷ~Ⅹ郭が外郭とされています。



向根古谷から見た内郭。
左が奥ノ山(Ⅱ郭)、右奥が城山(Ⅰ郭)です。
奥ノ山のふもとには妙見神社の鳥居が見えます。

かつて中島にあった弁天神社は、現在、向根古谷のふもとに移されています。




妙見神社の参道を進まずに、左の道へ。



根古屋(Ⅹ郭)荒上(Ⅷ郭)の方へ進みます。



あたりが鬱蒼としてきました。
イノシシでも出るんじゃないか???



樹木が生い茂っていてよく見えませんが、道の左側は水の手という低地になっていて、ここにも貯水池があったそうです。
中池と並ぶ、城内の貴重な水源であったとされています。





荒上へと続く公道を外れ、



荒れるに任せた竹林の道へ。
右側から垣間見えるのが・・・



セッテイ空堀です。
竹が自由気ままに生えているので、画像からは良くわからないかもしれませんが、とても深い堀です。



何者かが不法投棄したと思われるドラム缶がありますが、空堀の規模を推しはかるにはいいかもしれません。
案内看板によると、崖上のセッテイ山までの高低差は約16メートルもあるといいます。



散策路はくだんのセッテイ空堀の中を通ります。
深いだけでなく、なかなかに幅が広くなっています。



反対側を向くと、空堀は東光寺ビョウ(Ⅵ郭)からのびていることがわかります。



最後の郭・セッテイ山へ。



坂道を上り、左右に土塁が控えるセッテイ虎口へ。
このあたりは発掘調査がされていないようですが、木戸や塀などが立てられていたと推定されています。
空堀といい、虎口といい、主殿のあった城山よりも厳重な構えになっているようにみえますね。



竹林の小径を進み、右に分かれる脇道へ。



ひっそりとたたずむ脇道を上り、



セッテイ山(Ⅶ郭)に到達しました。
広さは奥ノ山をやや小さくした程度と、それなりの面積はありますが、竹木がギッシリと生えているためかなり狭く感じます。
「セッテイ」という名称は「接待」に通じるとされ、賓客を接待するための館があった、あるいは賓客ではなく人質を住まわせるための館があったと推定されています。
人質を収容するというのであれば、その逃亡や奪還を防ぐために厳重な構えをしていたというのも頷けますね。



セッテイ山を下り、



倉跡・セッテイ空堀へ。
その名のとおり、セッテイ山(Ⅶ郭)と倉跡(Ⅲ郭)を隔てる空堀で、倉跡までの高低差は約10メートル。
2つの深い空堀で隔てられていることからも、セッテイ山が特別な郭であったことが読み取れますね。



この空堀から、外に出ましょう。



南奥虎口です。
左右の土塁で進路がねじ曲げられるという構造になっています。
また土塁には木戸がこしらえられ、さらに木戸からは柵がのびていたそうです。
そのため、外側から空堀の様子を窺うことはできなかったようです。



東光寺ビョウ(Ⅵ郭)に戻りました。



東光寺ビョウから見た南奥虎口。




前回の登城で、私を退却に追い込んだ忌まわしの立看板。
妙見神社の御加護か、危険な生物に遭遇することはありませんでした。



東光寺ビョウから、本佐倉城を後にします。



帰りは大佐倉駅から。



続100名城スタンプは、酒々井町中央公民館とこの駅に設置されています。
大佐倉駅のスタンプは、改札機の外、券売機の裏に置いてあります。



スタンプはすでに押印済み。
しかし・・・この絵柄はいったいどこだ???


う~む・・・・・・


京成電車に乗って、本佐倉城の登城はこれにて終了。





本佐倉城リベンジ・第3章~Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ郭

2019-11-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 2 時 2 5 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

本 佐 倉 城 Ⅳ 郭



春先の本佐倉城【国指定史跡】登城リベンジ。



東山馬場跡に到着した私は、本佐倉城のパンフレットを手に取り、その推奨ルートを律儀にたどることとしました。
そして・・・



東光寺ビョウ(Ⅵ郭)



東山馬場(Ⅴ郭)



名も無きⅣ郭



チラ見程度ですが倉跡(Ⅲ郭)まで足を運びました。



Ⅵ、Ⅴ、Ⅳ、Ⅲとくれば、次はⅡ、Ⅰとめぐるのがスジというものでしょう。



Ⅳ郭虎口からの通路を左に曲がり、



大堀切が現れます。
ひとつの高台を掘り進んでふたつに分け、それによってできあがった通路が堀切です。
この大堀切を挟んで左側が城山(Ⅰ郭)、右側が奥ノ山(Ⅱ郭)です。

Ⅳ郭から進むと、大堀切は高低差約2メートルのスロープになっています。
そしてスロープを上りきった地点に、木戸が構えられていたようです。



大堀切の底と奥ノ山とは、約6メートルほどの高低差でしょうか。



いったん下って、城山と奥ノ山の岐路。
ここでは左を選択、Ⅱ郭の奥ノ山ではなくⅠ郭の城山へ。
郭のカウントダウンよりも、パンフレットの推奨順路を律儀にたどっていきます。







下ったところにある岐路から、急激な上り坂となる城山通路
高低差は約7メートル、蛇行を繰り返す狭い通路です。
この先の城山は、その先には逃げ場がない詰め城、本佐倉城の最後の拠点になっています。



城山の入口・城山虎口に到達。
白い看板の立つあたりには、城山虎口の一ノ門が構えられていたようです。
一ノ門跡の後ろは一段高くなっているので、坂道は続きます。
さらには、虎口の周囲を塀が取り囲んでいました。
最後の砦でもあるので、とりわけ厳重な守りになっていますね。



虎口の二ノ門の役割を担っていた城山門の跡地。
城山の外側に向かって、塀は立てられていました。



城山門跡からは、もう一本の通路が伸びていました。
木橋を経由して奥ノ山へとショートカットできる通路です。



城山の突端、向かいが奥ノ山です。
平時にはここから木橋が架けられ、往来が可能になっていました。
戦時には木橋を叩き壊して往来不能にし、



大堀切を進まんとする敵軍を、頭上から攻撃する構えになっていました。



城山(Ⅰ郭)に入ります。

城山門を通過して目前にあったのは、遠侍(とおさぶらい)という警護兵の詰所であった建物です。
その隣りには、城主の屋敷である主殿
主殿よりさらに奥には、公的な行事や遊興的な催しが行われたと考えられる会所があり、その傍らには庭園や庭池などの痕跡が確認されています。
また、用途は不明ですが、ほかに建物4棟の痕跡も明らかになっています。

先に登城していた観光客に、引率していたボランティアガイド(と思われるお爺様)が、熱心に語っておられました。
お爺様は、ここでとある事件について語り出します。

オナラ事件。

これは某学校の某生徒が巻き起こした数回の騒動とは違い、たった2発のオナラがお家騒動に発展してしまうというお話です。


天正16年(1588年)本佐倉城、書院。新年の祝賀の席にて・・・

ぷぅぅぅ~

齢18になる近習の桑田万五郎、膳を配っている最中に放屁をしてしまったのです。
人間だれしも突発的な粗相はしてしまうもので、主君の千葉邦胤もそう考えて咎めませんでした。
しかし・・・

ぷぅぅぅ~

万五郎またしても放屁
邦胤もだまって見過ごすことはできず、万五郎を叱りつけました。
これに万五郎は、書院の中央でひざまずき、

「卒爾の失錯は庸常有之べきことなるに、かかる曠なる座中に於て斯くの如く顔面に辱を蒙る條、つれなき仕合なり」
(突発的な粗相は誰しもあることなのに、万座で恥をかかせるなんて、ひどいじゃないですか)


と口答えをしたため邦胤が激怒、座を立ち上がると万五郎を蹴飛ばし、刀に手をかけたのでした。
家臣たちが慌てて間に入り、万五郎を引き立てて、邦胤をなだめたため、この場は収まりました。

万五郎は別の家臣の屋敷にて謹慎することになりました。
数ヶ月後に邦胤の勘気は解け、万五郎は再び邦胤のそばに仕えることとなりました。
しかし万五郎は、万座で恥をかかせた主君への恨みを忘れずにいたのです。

同じ年の7月4日夜、万五郎は邦胤の寝所に忍び込むと、寝ている邦胤を短刀で2度刺して逃走しました。

「憎き小倅めが所為かな」
(やりやがったな、くそガキめ!)


邦胤が叫ぶと、宿直の者が駆けつけました。
邦胤は血だらけで倒れており、虫の息。

「・・・桑田面を脱さず討ち取れ」

そう言って息絶えてしまったのです。享年39歳といわれています。
万五郎は千葉家の追っ手によって捕捉され、斬首されたとも自害したともいいます。

邦胤亡き後の千葉家には嫡子・重胤がいたのですが、「若年のため家中をまとめきれない」として北条氏政が介入し、実子の直重を千葉家に送り込んで家督を継がせたのでした。





オナラ事件の舞台になった会所(書院)跡
その先は崖になっていて、



東山馬場(Ⅴ郭)を見渡すことができます。
現在は駐車場が整備され、城の間近まで車で来られます。便利な世の中になったものよのぅ。





城山を退去して、今度は奥ノ山へ。



通路ぎわは崖になっており、なかなかの深さ。



奥ノ山(Ⅱ郭)へ。



なかなかに広い郭です。



倉跡(Ⅲ郭)寄りにある土塁。
このあたりに妙見宮が祀られていました。
妙見宮は千葉氏の守護神とされ、当主が元服するときには妙見宮で儀式を行っていました。
もともと妙見宮は亥鼻(いのはな)の地(現在の千葉市中央区)にあったのですが、「小弓公方」足利義明やその同盟者・里見氏といった外憂が生じるようになると、妙見宮を城内に遷宮したうえで元服の儀式が行われたようです。





土塁で構成されていたと思われる虎口を抜けて、



倉跡(Ⅲ郭)に戻ってきました。



倉跡(Ⅲ郭)は本佐倉城最大の郭です。
ここでは発掘調査で炭化米が発見されており、倉庫群が建っていたと推定されています。





倉跡を奥ノ山ぞいに進むと、崖下へと通じる道が現れます。



進んでいくと、脇道から妙見神社の横に出ますが・・・



通路を下って、表から入ります。
小ぶりな鳥居をくぐり、



妙見神社で参拝。
奥ノ山に鎮座していた妙見宮は、奥ノ山の腰曲輪ともいうべき場所に移っています。

ここまではマムシ、イノシシ、カミツキガメといった危険生物には遭遇していません。
この先もこいつらには遭遇しませんように・・・と祈願し、本佐倉城の散策はまだまだ続きます。





本佐倉城リベンジ・第2章~Ⅵ・Ⅴ・Ⅳ・Ⅲ郭

2019-11-27 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 1 時 4 6 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

本 佐 倉 城 東 山 馬 場 跡





本佐倉城登城のスタートは、東山馬場跡から。
手持ちのパンフレットが推奨する順序にしたがって、馬場を見下ろしている城山に上ってまいります。

さて、最初のポイントは・・・東光寺ビョウ???



東光寺ビョウは本佐倉城の郭のひとつで、田園の広がる城の北側にあります。
東山馬場からですと、山を隔てた向こう側。
京成大佐倉駅からの登城口に位置しています。

なんだぁ、結局前回と同じところから始まるんじゃねぇか・・・と思いながらも、東光寺ビョウに移動します。



千葉家の家紋月星(げっせい)の描かれた楯が並ぶ空間の脇に入り、



東山虎口から出て、





東光寺ビョウ



大佐倉駅側からの登城口に至りました。
ここから改めて本佐倉城の登城、スタート!




午 後 1 時 5 9 分

千 葉 県 佐 倉 市

本 佐 倉 城 東 光 寺 ビ ョ ウ




最初のポイント、東光寺ビョウです。
郭名の「東光寺ビョウ」は、江戸時代幕末の書物の表記をそのまま借用しているそうです。
しかしながら発掘調査はここに寺院の痕跡はなく、まったくもって謎のネーミングなのだとか。
酒々井町に東光寺というお寺はあるので、それに関係があるとは考えられますね。

ちなみにこの東光寺ビョウの領域だけは、佐倉市に属しています。



東光寺ビョウから城内へは、登城口がふたつあります。
そのひとつである南奥虎口
前回の七夕の日の登城で、私を戦慄させた「マムシ注意」の看板が立っているところです。
しかし今回登城したのはまだまだ冷える時季、草も繁っておらず、マムシも冬眠から覚めてもいないでしょう。

ただ今回の登城では、本佐倉城さんがやたら「イノシシ」推しをしてくることが気になります・・・。
こんなところにイノシシなんて出るのかなぁ~? とは思いながらも、内心ビクビクしながら・・・



もうひとつの登城口・東山虎口を上っていきます。
正確には、先ほど出た虎口を再入場するんですけどね。





東山虎口の入口。



かつては、この階段を上がった先に門柵が設けられていました。



門柵を通過しても狭い通路へ。
両サイドは崖になっており、とても狭く感じられます。



さらに、狭い通路内にもうひとつの門柵が設けられていたそうです。
そのためこの虎口は、あたかも枡形虎口のような構造になっていました。
外の門を突破されても内側の門で食い止めて、頭上から矢石で攻撃するという、堅い守りとなっていたんですね。



東山虎口を抜けて、楯の並ぶ空間が見えてきました。
このまま城の内部へとは急がず、



東山虎口と東山馬場を見下ろしている東山に上ると・・・



印旛沼にかけて広がっている田園が一望できます。
天気が良ければ、常陸国の秀峰・筑波山も見渡すことができます。
この日は残念ながら曇天で筑波嶺を見ることはできませんでしたが、ちょうど京成電車が成田空港へと急ぐ姿を拝見できました。



見晴台の南側。
楯の並ぶ空間が2段になっています。
画像右の高い空間はⅣ郭、低い空間は東山馬場です。

「Ⅳ郭」というネーミングは、城の内側から数えて4番目・・・くらいの意味でしょうか。
他の郭はその用途や名称が推定あるいは判明しているのに対し、Ⅳ郭は不明点が多いため、便宜上番号で呼ばれているようです。
ちなみに東山馬場は「Ⅴ郭」、



東光寺ビョウは「Ⅵ郭」です。



東山虎口を見下ろした画。
非常時はここから敵軍に矢を浴びせることになっていたのでしょう。



東山馬場に戻り、



Ⅳ郭に上ります。



通路はゆるやかながらも狭い上り坂。
そしてⅣ郭側には塀が築かれていて、



坂を上りきったところには城門が構えられていたようで、ここにも虎口Ⅳ郭虎口)が形成されていました。



Ⅳ郭から隣の倉跡(Ⅲ郭)にかけては、なだらかな斜面が広がります。
片隅には鎮守の杜がたたずんでおり、



城山への道も、Ⅳ郭から伸びています。



枝には梅の花、地には水仙の花が咲き誇っています。春ですねぇ~。



その先には、広い空間である倉跡へと続きますが・・・



まず脇にある鎮守の杜へ。





諏訪神社が鎮座しています。
ここで登城完遂を祈願しました。



静かな城に咲く梅の花。
ここは・・・ゆるキャラ・勝ったネ!くん・・・じゃなくて、城主・千葉勝胤が編纂したという『雲玉和歌集』からの一首を。

かすがなる 野べの一木の 梅が枝は
行きかふ袖や あらしなるらん

(春の日の野原に生える一本の梅の枝にとっては、その脇を行き交う人々の袖が立てる風であっても、嵐のようなものであろうな)




下総千葉氏桓武平氏をルーツとする下総の豪族で、著名な人物としては源頼朝の旗揚げに助勢した千葉常胤がいます。
常胤は頼朝に功を認められて下総守護に任じられ、「千葉介」を名乗りました。
千葉家の当主は、以降代々「千葉介」を名乗っていきます。

千葉勝胤は、本佐倉城を本拠とする下総国の戦国大名でした。

このころの千葉氏は下総国での勢力が揺らいでおり、永正14年(1517年)には足利義明が突如現れて小弓城を乗っ取ってしまいました。
小弓城は現在の京成おゆみ野駅の近くにあった城ですが、ここは千葉氏の重臣であった原氏が守っていました。
この乗っ取りのときにまだ若かった原虎胤は逃亡を余儀なくされ、甲斐国の武田信虎を頼り、後世に「夜叉美濃」「鬼美濃」と呼ばれ「甲陽五名臣」に挙げられる猛将に成長するのですが・・・それは別の話ですね。
小弓城を乗っ取って本拠地とした足利義明は「小弓公方」を名乗り、本流である「古河公方」足利成氏とも対立するようになりました。

武勇に優れ、足利氏の血を引くという権威も持ち合わせていた足利義明に対し、千葉家は苦戦を強いられていました。
享禄5年(1532年)に勝胤は亡くなりますが、小弓城の奪還は、天文7年(1538年)の第1次国府台合戦で足利義明が戦死した後のこととなります。



・・・千葉勝胤の事蹟をまとめるつもりだったのですが、小弓公方の記述の方が長くなってしまいました。
勝胤さん、あまり勝ってないんじゃ・・・?



本佐倉城の登城、東光寺ビョウのⅥ郭、東山馬場のⅤ郭、名も無いⅣ郭、倉跡のⅢ郭まで来ました。
郭のカウントダウン、Ⅱ郭とⅠ郭は次回にて。





本佐倉城リベンジ・第1章~酒の出る井戸?

2019-11-10 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 5 4 分

千 葉 県 印 旛 郡 酒 々 井 町

京 成 電 鉄 酒 々 井 駅



京成大久保で二郎さんをガッツリ食らい、やってきたのはさらに東・・・



京成酒々井駅です。
京成酒々井のひとつ前の駅は、京成電鉄随一の秘境駅・大佐倉駅
いずれも、私が登城前に引き返した本佐倉城【国指定史跡】の最寄駅です。


平成最後の城攻め旅。
平成時代に中途半端で積み残してしまった城攻めを、ひとつずつ完遂する。
・・・・・・それは無理というほど中途半端で終わらせた城が多いので、今回は本拠地に近い千葉&茨城の城攻めを完遂していきます。

題して、「ちばらぎリベンジ」。

忌まわしきマムシやぶ蚊の大群がいない春先に、私は再びちばらぎの城に立ち向かうのです!





駅構内にある本佐倉城跡への進行ルートに従い、



下り立ったのは、京成酒々井駅の南口



駅ロータリーから進んで最初の信号を右へ。



交差点にはこのような道しるべが立っているので、迷うことなく登城できそうです。



その先の宗吾入口交差点で、本佐倉城に進むルートはふたつに分かれます。
水色の表示が「近道・平坦コース」
黄緑色の表示が「歴史散策コース」

この日は本佐倉城以外に登城する城もありません。
そして何より酒の井の碑というのが気になったこともあり、「歴史散策コース」をたどることとしました。


ふたつのコースの分岐路を過ぎると、上り坂へ。
進んでいる道は、成田山へと繋がるかつての成田街道
そして坂を上った台地に、街道の宿場町でもあった酒々井宿があったのです。



かつての街道の名残りである石碑で、下り松三山碑というそうです。
一番大きな右の石碑が出羽三山碑で、「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」と刻まれています。
この石碑は道路拡張工事でこの地に移されたものなのですが、かつては坂の下にあったようです。
宿場町のはずれにあったためにもの寂しい場所にあったようで、宿場町がそれほど発展していない黎明期には追いはぎがよく現れたとも。


街道沿いの小学校の隣りに鎮座しているのが、



麻賀多(まがた)神社です。
酒々井宿の下町(成田寄り)にあったことから、下宿麻賀多神社ともいいます。



「本佐倉城でマムシさんが出ませんように・・・」



神社のそばにある分岐路。
どっちをとっても本佐倉城跡?! ですが酒の井に立ち寄るために、そのまま街道を進みます。



酒の井へは、青い塀の道に入ります。
ここだけなぜか道しるべがない!



青い塀に沿って進み、



酒の井に到着。



どうやらこれがのようです。
おやおや、音声ガイダンスがありますなぁ・・・ポチッ。


むかしむかし、印旛沼の近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。
父親はたいそう酒好きでな、親思いの息子は毎日一生懸命働いて、父親に酒を買っておったんじゃ。
ところがある日、息子はどうしても酒を買う金が作れず、途方に暮れておった。
とぼとぼと歩いていると、道端の井戸からなんともよい香りがぷぅんとしてきた。
そこで井戸の水を汲んでなめてみると、それは本物のお酒だったんじゃ。
さっそく帰って父親に飲ませると、
「こりゃあうまい酒だ。ありがたい、ありがたい・・・」
とたいそう喜んだ。
息子はそれから毎日、毎日井戸から酒を汲んで、父親に飲ませたんじゃ。
ところがこの酒は、親子以外の人が飲んでも、ただの水になってしまうんじゃ。
「きっと孝行息子の真心が天に通じたにちがいない」
と、みながほめたたえた。
この酒の話が広まり、村もいつしか「酒々井」と呼ばれるようになったということじゃ。





井戸の中をのぞいてみると、水が湧いて出てくるではありませんか!
音声ガイダンスのボタンを押すと、湧き出るようになっているのだそうです。
さすがに酒が出てくることはありませんが・・・便利な世の中になったものよのぅ。



そしてこちらが酒の井碑
正しくは下総式板碑といい、鎌倉・室町時代に盛行した供養碑なのだそうです。
碑をよく見ると、蓮花と梵字が刻まれています。



春先に咲き誇る枝垂れの梅を眺め、酒の井を後にします。



下宿麻賀多神社付近まで戻りました。



先ほどの分岐路で、街道から脇道に入ります。



幅が2車線程度の道を進んでいくと、

 

道が狭くなり、下り坂へ。
酒々井の街がある台地を駆け下ります。
樹木の切れ目から・・・



本佐倉城【国指定史跡】が見えてきました!



水色「最短・平坦コース」と合流して、





本佐倉城の東山馬場跡に到着しました。
現在はこちらが駐車場になっており、



給水ポイントである自販機も設置されていて、本佐倉城登城の拠点となっています。
自販機に描かれているゆるキャラは、勝ったネ!くん
戦国時代の本佐倉城主・千葉勝胤(かつたね)をモチーフとしています。



本佐倉城の鳥瞰図。
本佐倉城は、台地の突端(舌状台地)の地形を巧みに活かした縄張りとなっていることがわかります。
台地の下は、現在は水田になっていますが、築城当時は湿地になっていて、南、東、北の三方からは攻めづらい構造になっていました。

なお、この案内板のところに本佐倉城のパンフレットが置かれています。
まぁ、私は前回の登城で手に入れたものがあったので、ここではもらいませんでしたが。



仮設のトイレもあります。
自販機ともども城内にはありませんので、ここで給水&用足しは済ませておきたいところです。



「イノシシ出没注意」?!
「カミツキガメを見た」??!!

せっかくマムシは出ないであろう時季にやってきたのに・・・危険のタネは尽きないものですなぁ。



ともあれ、今回ばかりは引き返すわけにはいきません。
本佐倉城リベンジ、ここに開幕!





ふたたび大久保二郎~はじめてのつけ麺

2019-11-09 | グルメ


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 3 月 1 6 日 ( 土 )

午 前 1 0 時 5 8 分

千 葉 県 習 志 野 市

京 成 電 鉄 大 久 保 駅



前年の七夕の日以来、



やって参りました、京成大久保駅
コリアンタウンの一切ない大久保で、今回もラーメン二郎に立ち寄ります。

上の画像の大久保駅は、下り線ホーム側(成田方面)の駅舎です。
駅を出て右へと歩き出しましょう。
(画像では、左側へとあるくこととなります)

京成大久保駅は、線路を挟んで上下線の駅舎が分かれています。
なので上り線ホーム側(上野・押上方面)で下車した場合は、駅を出て踏切を越えて進んでいくこととなります。




駅のすぐ近くの信号交差点をそのまま直進。



その先、県道と交差する信号もそのまま直進。



東邦大学への近道が現れたら、そちらに入ります。



そのまま進んで、突当りで左折。



ちょうどイタリアンレストランとゆで太郎の間に出ます。
 ※大久保にあったゆで太郎は、現在閉業しています。
イタリアンの隣りに、「ラーメン二郎」京成大久保店がございます。

開店は午前11時、そして私が到着したのは開店から8分後だったのですが・・・この行列です。
食券を買わずに、行列の最後尾へ。



列に並んでから30分弱で、ようやく店内へ。
店内に入ってはじめて食券を購入します。
食券を買ってからも、客席の背後でお立ちのまま、席が空くのを待つことになります。
これを背後霊というのだとか。


背後霊のまま待つこと10分弱、席が空いてようやく着座。
食券をカウンターに置いて着丼を待ちます。


大久保二郎は、二郎で唯一味噌ラーメンを食べられるお店です。
前回の訪問では味噌ラーメンをオーダーしましたが、大久保二郎さんにはもうひとつの「唯一」があるのです。
それは、味噌つけ麺

ラーメン二郎は、ラーメンのほかにつけ麺を供する店舗もあります。
わが本拠から最寄りの茨城守谷店でも、つけ麺を提供しています。
そして大久保二郎は、通常のつけ麺のほかに味噌つけ麺を出しており、味噌つけ麺を出す唯一の二郎なのです。



着席して程なく、



熱々のつけ汁がやってきました。
豚さんとゆで卵が見えますね。ゆで卵はつけ麺をオーダーしたときのみトッピングされます。
目立ちませんが、もやし&キャベツの野菜さんたちはつけ汁の中にダンクインされています。


さらに数分たって、



麺がやって参りました・・・あ、「呪文」は唱えていない・・・。
大久保二郎では、つけ麺のときは「ニンニク入れますか?」とは尋ねられないのです。
野菜増しなどのトッピングは着席と同時に伝えなければなりません。

ということで、デフォの味噌つけ麺を味わうことになりましたが、



ラーメン丼になみなみと重なっている、平打ちの二郎麺。
これでも「小」サイズなんですよぉ。
麺は水でしめられた、いわゆる冷盛りです。



味噌つけ麺、うまい!
濃厚なつけ汁が、麺を介して直にパンチを与えてきますねぇ。
味噌ラーメンとはまた違ったうまさを味わえます。
汗をあまりかかない時節ゆえか、味がかなり濃く感じられますね。
野菜増しをオーダーすればよかったです。



今回も、己の体に十分すぎるほどの栄養を取り込みました。
完飲? 無理です。





京成大久保駅に戻り、東へ向かう電車に乗り込みます。





特急りょうもうに乗って

2019-11-09 | 鉄道の旅


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 後 4 時 5 4 分

群 馬 県 太 田 市

東 武 鉄 道 太 田 駅



太田市内で上州太田焼きそばを味わい、東武太田駅に戻ってきました。
りょうもう攻城リベンジの旅、そしてりょうもう麺喰いの旅も、いよいよ終幕へ。

太田駅前で旅のシメを飾る手土産を買おうと思っていましたが、どうにも見つかりません。



だったら、もう少しこのきっぷに活躍してもらいましょう。




敢えて逆方向の伊勢崎へ。
太田駅から乗る電車は、16時56分発 東武伊勢崎線 普通電車 伊勢崎行きです。
東武伊勢崎線の終点・伊勢崎で、何かお土産でも買えたらいいなぁ~。



野田線・・・じゃなかった、東武アーバンパークラインでも見かけるタイプの車両だったと思います。
野田線・・・じゃなかった。東武アーバンパークラインでは6両編成ですが、こちらは半分の3両です。
こちらに乗車して、終点の伊勢崎へ。




17時22分、伊勢崎駅に到着。




【太田→伊勢崎の乗車記録】

T O B U 東武鉄道 [TI18]太田駅(株式会社SUBARU前) 3番線 16時56分発
[TI]東武伊勢崎線 普通 伊勢崎行き 3両ワンマン
[TI25]伊勢崎駅 1番線 17時22分着

*所要時間 26分
*移動距離 19.8km
*運賃 ふらっと両毛使用(使用しない場合、IC運賃 308円)  ※消費税率改定前(8%)の料金です。




午 後 5 時 2 6 分

群 馬 県 伊 勢 崎 市

東 武 鉄 道 ・ J R 伊 勢 崎 駅


伊勢崎までやってきましたが・・・近場にお土産物を買える場所はなさそうです。
そうであるならば、伊勢崎から千葉の柏に帰宅するのみ。
帰路は、できる限りゆったりと帰宅したいものです。



先ほど乗車した電車で折り返します。
今度の電車は、17時29分発 東武伊勢崎線 普通電車 館林行き



その前に、伊勢崎駅で指定席特急券を買います。
特急列車に乗車する区間は、太田駅から東武動物公園駅までで、料金は510円。
この区間の特急料金は、本来なら770円なのですが、群馬側の起点である赤城駅を17時以降に出発する列車については、「夜割」という割引料金が適用されます。

フリーきっぷを持っている場合は、特急券を購入するだけで特急列車に乗車できます。
帰りは特急列車でゆったりと戻りましょう。




午 後 5 時 5 5 分

群 馬 県 太 田 市

東 武 鉄 道 太 田 駅




再び太田駅へ。



ここで、桐生方面からやってきた特急りょうもう42号に乗り換えます。
りょうもう42号の停車駅は、足利市、館林、羽生、加須、久喜、東武動物公園、北千住、とうきょうスカイツリー、浅草です。
野田線・・・いや、東武アーバンパークラインの乗換駅である春日部は通過してしまうので、その直前の停車駅である東武動物公園駅まで同行していきます。



足利市駅で見た、こんな感じの車両に乗り込みます。

 

内装はこんな感じ。
じっくり車窓を楽しめそうですね・・・って、もう日が暮れてしまっていますが。



特急りょうもう42号 浅草行きは、定刻どおり17時57分に発車しました。


出発から約8分、足利市駅到着前。



強風の中渡ってきた中橋が、ライトアップされていました。


「城攻め」も抜かりなく行い、



18時15分、多々良駅通過前に高松城(栃木県足利市)を攻略。
こちらがこの日最後の攻略となりました。



18時47分、



東武動物公園前駅に到着。



特急りょうもう42号の次の停車駅は北千住駅なので、ここで列車を降ります。




午 後 6 時 4 7 分

埼 玉 県 南 埼 玉 郡 宮 代 町

東 武 動 物 公 園 駅


ここからはサクっと帰ります。



次の電車は、18時52分発 東武スカイツリーライン 急行 半蔵門線直通 中央林間行きです。



18時57分、春日部駅に到着。



この日のラストとなる電車は、19時07分発 東武アーバンパークライン 急行 柏行きです。
急行とは名乗っていますが、駅をすっ飛ばす区間は大宮駅から春日部駅までなので、これから乗る電車は実質各駅停車です。


そして・・・



19時37分、旅の出発地・江戸川台駅に無事帰還することができました。



【太田→伊勢崎の乗車記録】

T O B U 東武鉄道 [TI25]伊勢崎駅 1番線 17時29分発
[TI]東武伊勢崎線 普通 館林行き 3両ワンマン
[TI18]太田駅(株式会社SUBARU前) 3番線 17時55分着

[TI18]太田駅(株式会社SUBARU前) 4番線 17時57分発
[TI]東武伊勢崎線 特急 りょうもう42号 浅草行き 6両
[TS30]東武動物公園駅(日本工業大学前) 3番線 18時47分着

[TS30]東武動物公園駅(日本工業大学前) 3番線 18時52分発
[TS]東武スカイツリーライン(伊勢崎線) 急行 東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線直通 中央林間行き 10両
[TS27]春日部駅 1番線 18時57分着

[TD10]春日部駅 7番線 19時07分発
[TD]東武アーバンパークライン(野田線) 急行 柏行き 6両
[TD20]江戸川台駅 2番線 19時37分着

*所要時間 2時間08分 (移動時間 1時間51分  乗換時間 17分)
*移動距離 99.1km
*料金   運賃 ふらっと両毛使用(使用しない場合、IC運賃 1,059円)
      指定席特急券  510円(夜割。通常料金 770円)
    ※消費税率改定前(8%)の料金です。



【今回の「城攻め」成果】

[TI]東武伊勢崎線
16時56分 [TI18]太田駅   発車
17時03分 [TI20]木崎駅   下田島城(群馬県太田市)、三ツ木城(群馬県伊勢崎市)
17時18分 [TI24]新伊勢崎駅 那波城(群馬県伊勢崎市)
17時22分 [TI25]伊勢崎駅  到着

[TI]東武伊勢崎線 特急りょうもう42号
17時57分 [TI18]太田駅     発車
18時13分 [TI12](あがた)駅通過中   中野城(群馬県邑楽郡邑楽町)
18時15分 [TI11]多々良駅通過前 高松城(栃木県足利市)
18時47分 [TS30]東武動物公園駅 到着




午 後 7 時 4 0 分

千 葉 県 流 山 市

東 武 鉄 道 江 戸 川 台 駅


本日お世話になったこのきっぷ・・・



両毛地域に滞在すればあと2日間は有効だったのですが、そのまま千葉県に帰還してしまいました。
きっぷを自動改札機に通しますと・・・

哀れ、きっぷはそのまま自動改札機に呑まれてしまったのでした。



江戸川台の駅前にある、行きつけのお茶屋さんにて。



あずきのソフトクリーム! うまいっ!



日本100名城登城の旅・第20弾~「東武鉄道で行く両毛城めぐり」 完

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太田焼きそばもハシゴする

2019-11-04 | グルメ


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 後 2 時 5 2 分

栃 木 県 足 利 市

鑁 阿 寺 ・ 旧 足 利 氏 館



8年越しに鑁阿寺・旧足利氏館【国指定史跡】の登城、というよりもほぼ完全参拝を成し遂げました。



鑁阿寺の正面玄関ともいえる楼門・太鼓橋【栃木県指定文化財】前に戻りました。


今回の旅の目的は達成された格好になりますが、帰宅まではまだまだ時間があります。
出発前に、「夕食は外で食べてくる」と宣言しました。
それに一応、おみやげも考えないといけません。



「ふらっと両毛 東武フリーパス」をもう少し利用して、

 (東武鉄道のサイトより引用)

フリーパスエリア内で夕食を食べられそうな街・・・太田だ!
太田といえば太田焼きそばなるB級グルメがありました。
静岡県の富士宮、秋田県の横手と並んで「日本三大焼きそば」などとのたまっている太田焼きそば。
我が胃袋の許す限り、食べてやろうじゃないか。



鑁阿寺を出て、まず向かうは東武足利市駅
「市」のついてないJRの足利駅よりもやや遠くにあります。

 (足利市駅より撮影)

鑁阿寺や足利学校から足利市駅へは、この中橋を渡らなければなりません。
上の画像は足利市駅より撮影したものなので、向こう岸から渡ってきた格好ですね。
しかしこの日は・・・



風、強えぇ~!



アイフォンさんを落とさないように、恐る恐る渡良瀬川を撮影。
ちなみに下流の赤い橋は、田中橋というそうです。



やや急ぎ足で、東武足利市駅に到着。



今度の電車は、15時12分発 東武伊勢崎線 普通電車 伊勢崎行きです。



おお、なかなかに現代的な・・・この車両ではなさそうです。
こちらは特急電車 りょうもう号で、特急料金を追加しなければ乗車できません。
まぁ、この電車は反対方向の浅草行きなので、そもそも乗る必要はないのですが。



電車は定刻どおりに発車。
太田駅のひとつ前、韮川駅にて・・・



日本100名城・第17番、新田金山城攻略!



15時22分、電車は定刻どおりに太田駅に到着しました。



「株式会社 SUBARU 前」・・・スバルは太田に本社があるのか?!
そうではなく、スバルの自動車工場が太田駅前にあるのだそうです。
しかも、工場の所在地は「スバル町」というそうです。
ちなみに、スバルの本社は渋谷にあります。



【今回の乗車記録】

T O B U 東武鉄道 [TI15]足利市駅 2番線 15時12分発
[TI]東武伊勢崎線 普通 伊勢崎行き 3両ワンマン
[TI18]太田駅(株式会社SUBARU前) 3番線 15時22分着

*所要時間 10分
*移動距離 7.9km
*運賃 ふらっと両毛使用(使用しない場合、IC運賃 195円)  ※消費税率改定前(8%)の料金です。



【今回の「城攻め」成果】

[TI]東武伊勢崎線
15時12分 [TI15]足利市駅  発車
15時17分 [TI17]韮川駅   新田金山城【日本100名城・第17番】を攻略
15時22分 [TI18]太田駅   到着




午 後 3 時 2 4 分

群 馬 県 太 田 市

東 武 鉄 道 太 田 駅


太田駅に隣接する、太田市観光案内所へ。



こちらでレンタサイクルを借りることができます。
太田焼きそばのお店も、佐野ラーメンと同様に市内各所に散在し、しかも駅からそれなりに離れたところにあるようです。
焼きそばをハシゴするわけですから、今回もレンタサイクルの力を借りることとします。



車輪カバーに描かれているお嬢様は、たしか金山城由良家の姫だったか・・・?
すると観光案内所の職員さんは、「この方は妙印尼さんです」と教えてくださいました。


妙印尼は、揺れる由良家を支えた才女として知られています。
豊臣秀吉小田原征伐では、子の由良国繁が心ならずも北条家に従って小田原に籠城していた際に、国元の留守を預かりました。
そして秀吉や前田利家と通じて豊臣方につきました。
戦後に由良家は上州の所領を召し上げられてしまいますが、妙印尼の活躍により常陸牛久に所領を与えられ、由良家は明治維新まで高家として名を列することとなります。



さて太田市のレンタサイクルは、利用料は無料となっています。
当時レンタサイクルの存在を知っていれば、金山城まで4km近くも歩かずに済んだんですが、ともかく・・・



新田義貞脇屋義助兄弟に見送られ、太田駅を出発。



1軒目のお店は・・・



「もみの木」です。



太田駅からやや離れた場所、市街地を抜けて住宅地にある小ぢんまりとしたお店です。



メニューがいろいろあるようですが、今回は焼きそばハシゴ旅。
純粋に焼きそばだけをいただこうと思っていたのですが、「もみの木名物」と強調されては仕方がありません。
から揚げ焼きそば(当時税込540円)をオーダーしました。



上州太田焼きそば1皿目、うまい!
「昔ながらのソース焼きそば」という太田焼きそばらしく、ソースの味が直球でやってくる焼きそばです。
こちらのソースは甘酸っぱいタイプ、やや酸味が強いようにも感じました。
具材はキャベツと豚肉、それに紅しょうがといたってシンプル。
紅しょうがはあまり好きではないので、お残ししてしまいましたが・・・。

一方で、から揚げはあまり味が強くない感じ。
ソースの味が強かったせいでしょうか・・・それともから揚げもソースと絡めて味わえばよかったかもしれませんね。



足利で渡良瀬川を渡ったときにも感じましたが、やはり風が強い。
そんななかで住宅地をかいくぐり、



三角形の土地に店を構える、「清水屋」本店へ。



住宅地の中にぽつんとある、小さな商店のようなたたずまい。
小さいころ、父にたばこのお遣いによく行かされていましたが、そのタバコ屋さんのようにも感じました。懐かしいですねぇ。



こちらのメニューはいたってシンプル。
たい焼きやお好み焼きも売っており、飲食店というよりも軽食屋さんといった感じでしょうか。
オーダーは、焼きそば中盛り・肉入り(当時450円)。

太田焼きそばは、具材がキャベツ、青のり、紅しょうがの3つというのが基本なのだそうです。
肉が具に入っていない店も少なくないようで、清水屋さんも肉なし焼きそばがデフォとなっています。

あと、苦手な紅しょうがを入れないように注文して・・・



太田焼きそば2皿目、うまい!



先ほどの「もみの木」さんとは全く異なる、甘みがないあっさり目の味です。
ふんだんに散らばっている青のりがなんとも香ばしいです。
麺もさらに細いので、あっさり目の味ではありますが薄味ではありません。

2店の焼きそばが、味は180度異なるという面白さ。
定義が厳格ではない太田焼きそばならではの現象なのかもしれませんね。


さて私はここまで、佐野ラーメン3杯、太田焼きそば2皿をいただきました。
この日の食事はすべて麺類、うどん県以来の麺喰いぶりを披露しましたが・・・
ここに至って、ついに満腹中枢が起動してしまいました。
時刻も午後4時を回り、レンタサイクルの返却時間が差し迫っています。
りょうもう麺喰いの旅は、これにて終了・・・?



甘いものは別腹。
たい焼き(当時180円)をいただき・・・



さらに、オーナーご夫妻がりんごをご馳走してくださいました。
先にいらっしゃった常連と思われるお客さん(店前に車を停めていた方?)が、長野から送られてきたりんごをオーナーに贈ったようです。
そのりんごのおすそ分けを頂戴することとなったわけです。



大量の麺、たい焼きとりんごを胃袋に収め、私は太田駅に戻っていきました。





足利氏館リベンジ~鑁阿寺完全参拝

2019-11-03 | 城郭【日本100名城】


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 後 2 時 0 0 分

栃 木 県 足 利 市

足 利 学 校 入 徳 門 前





8年越しの足利学校に入学、そして卒業を果たした私。
足利にてやり残したことをひとつ成し遂げたわけですが、足利にはもうひとつやり残したことがあるのです。



まぁ、とりあえず一杯・・・酒ではなく、お味噌汁、うまい!
学校前に構える「銀丸」本店で、二条大麦味噌のお味噌汁を試飲させていただきました。


さて、入徳門を出て「銀丸」さんを左手にしつつ歩くと、鑁阿寺(ばんなじ)に通じる石畳の参道に当たります。
その参道を、8年前とは正反対の方向に歩いていきます。



征夷大将軍足利尊氏公像にもお会いしました。
・・・ちなみに足利は足利一族出身の地ではありますが、足利尊氏の出生地はここではないという説が有力です。


そして参道の先には、当然鑁阿寺・・・



太鼓橋【栃木県指定文化財】と、その背後に構える楼門【栃木県指定文化財】です。



100名城スタンプの絵柄、そのまんまです。



太鼓橋は江戸時代後期の建造物で、栃木県では唯一の屋根つき橋なのだそうです。
背後の楼門とのつり合いも素晴らしいですね。



鑁阿寺の三門である楼門
室町幕府13代将軍・足利義輝により再建されたものが現存しています。



楼門の扁額「金剛山」
鑁阿寺を略さずに称すると「金剛山仁王院法華坊鑁阿寺」というそうです。
この日は、楼門に多くの鳩が羽を休めていました。

 

境内を取り囲む水濠土塁
これらこそが、鎌倉時代に造成された武士の居館であったことを物語っているのです。



水濠には鴨。
多くの参拝客とともに、多くの鳥たちでにぎわう三門です。


12世紀半ば、足利氏の祖である源義康がこの地に居館を構えました。
義康は「八幡太郎」源義家の孫にあたる人物で、居館のある地から「足利」を名字としました。

建久7年(1196年)義康の子・足利義兼は、自宅である居館に持仏堂を建立しました。
義兼の戒名は「鑁阿」であり、このころに鑁阿寺の礎が築かれたといえます。
文暦元年(1234年)義兼の子・足利義氏が伽藍を整備し、足利氏の氏寺となりました。





午 後 2 時 0 6 分

鑁 阿 寺 境 内 へ


楼門をくぐって、まずは右側。



鐘楼【国指定重要文化財】です。
鐘楼ははじめ建久7年(1196年)に建てられ、後に再建されていますが、その時期はわかっていないのだそうです。



現在も梵鐘が吊るされている、現役の鐘撞き堂です。




楼門の先に建っているのが、本堂【国宝】です。
8年前当時は重要文化財でしたが、平成25年(2013年)8月7日に国宝に指定されました。

 

足利家2代当主・足利義兼が居館内に建立した持仏堂がはじまりで、現在の本堂は足利貞氏が正安元年(1299年)に再建したものです。
当時最新の建築様式であった禅宗様を取り入れたものです。
室町時代中ごろの修理で、屋根が瓦葺となりました。



本堂にてお守りを買うこともでき、100名城スタンプもこちらでもらえます。
スタンプは8年前にいただきましたので・・・



今回はご朱印を頂戴しました。



本堂の中では・・・おやおや、ここにも猫さまがおわしますなぁ。


鐘楼の向かい側・・・



多宝塔【栃木県指定文化財】と大銀杏【栃木県指定天然記念物】です。

 

多宝塔も他の伽藍と同様、はじめ建久7年(1196年)に建てられたとされています。
現在のものは、寛永6年(1629年)に5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院によって再建されたものです。
なおこの「多宝塔」は本邦最大のものとされており、これより大きいものは「大塔」と称されるようです。

 

2本の大木のようにも見え、実際に1本なのか2本なのかはよくわかっていないそうです。
樹齢は約550年と推定されています。


多宝塔&大銀杏の北側には・・・



経堂(一切経堂)【国指定重要文化財】が建ちます。



こちらは応永14年(1407年)に関東管領・足利満兼により再建されたものです。
宝永5年(1708年)には屋根の修理がなされています。
経典を収蔵する経堂としては大型の建造物であり、珍しく貴重なものとされています。


経堂と本堂の間には・・・



中御堂(不動堂)【足利市指定文化財】が鎮座しています。
文禄元年(1592年)足利国朝によって再建されたともいいますが、建物の組み物や彫刻のつくりから、江戸時代中期のものであろうと推測されています。


経堂のさらに北、旧居館の北西には・・・



西から順に御霊屋大酉堂宝庫が並んでいます。
宝庫から少し離れたところに、智願寺殿御霊屋が建っています。



まずは御霊屋【栃木県指定文化財】。
正面に棟門を設けて周囲を瑞垣(みずがき)で囲み、中に本殿が建っています。
ここには室町幕府の歴代将軍15代の像が安置されています。



隣りには、大酉(おおとり)
元々は足利尊氏公を祀るお堂として、室町時代に建てられたものでした。
しかし明治中期より足利尊氏逆賊の皇国史観が台頭すると、祀られていた尊氏公木像を他所へ移すこととなりました。
そして、鑁阿寺にゆかりある大酉大権現を本尊とすることとなったのです。
大酉堂は昭和61年(1986年)に解体修理されて、現在に至っています。



さらにその東には、宝庫(校倉・大黒堂)【足利市指定文化財】。
宝暦2年(1752年)再建の校倉造(あぜくらづくり)の建物です。
その名のとおり宝物倉だったのですが、42世住職の忍空上人により宝物が他に移され、足利氏伝来の大黒天をお祀りしたことから「大黒堂」となりました。



少し離れて東には、智願寺殿(ちがんじでん)御霊屋(蛭子(ひるこ)【足利市指定文化財】が建ちます。
某路線バスの大先生になぞらえて「えびすどう」と読みたくなるところですが、「ひるこどう」が正解です。
鑁阿寺の開祖である足利義兼の妻・時子をお祀りし、「智願寺殿」は時子の法名です。
そして時子は鎌倉初代執権・北条時政の娘であり、将軍の妻・北条政子の同母妹と考えられています。
しかしこのお堂、なぜ「蛭子堂」なのでしょうか?


夫の義兼が鎌倉にて奉公している間、足利の地で留守を守っていた時子は、ある日侍女が井戸から汲んだ生水を飲みました。
程なくして時子の腹は膨らんでいき、さながら妊婦のよう。
鎌倉から戻った義兼に対し、侍女は「時子が不義を働いた」と讒言し、義兼は時子を疑うようになりました。

時子は「死後わが身体をあらためよ」と言い遺して自害してしまいました。

遺言のとおりに時子の身体をあらためると、その腹からは大量のヒルが出てきたのです。
義兼は大いに悔み悲しんで時子を篤く弔い、井戸を塞いだうえで侍女を殺したのだそうです。



これより時子は「蛭子女尊」として、安産の女神として信仰されています。



鑁阿寺の伽藍をひととおり見たところで、鑁阿寺の周囲をひと回りしていきます。



まずは北門【足利市指定文化財】。



鑁阿寺の開祖である足利義兼の子・義氏は、水濠の外に12の支院を建て、その筆頭を千手院と定めました。
この門はその千手院の三門だったものを、大正7年(1918年)に移築してきたものです。
棟札の記載から、弘化2年(1845年)に建てられたと推定されています。
主扉の脇に小さな副扉を擁する薬医門形式となっています。


東へ回り、



東門【栃木県指定文化財】へ。



こちらは質素剛健な造りの四脚門で、鎌倉時代の建造と推定されています。


西門【栃木県指定文化財】をスルーしてしまいましたが・・・
入口の楼門(南門)に戻りました。



水濠にたたずむ鴨を眺め、足利氏館の登城・・・というよりも鑁阿寺の参拝は、これにて終了。





足利学校・後編~卒業なるか?!

2019-11-03 | 美術館・博物館


平 成 3 1 年 ( 2 0 1 9 年 ) 2 月 2 3 日 ( 土 )

午 後 1 時 1 1 分

栃 木 県 足 利 市

足 利 学 校



8年前は入学すら許されなかった足利学校



学校の門戸は開け放たれ、私は無事に入学できたのでした。



入学できたとあらば、今度は無事に卒業しなければなりません。
学校の勉学の場であった方丈にて・・・

卒業試験を受けるのです!




午 後 1 時 3 0 分

足 利 学 校 卒 業 試 験



問題一 漢字には、音と訓の二つの読み方があります。
    次のア~トの音をひらがなで(  )内に記入しなさい。
    音がない場合は、(  )内に×を記入しなさい。

 ア、山(   )  イ、川(   )  ウ、草(   )  エ、木(   )  オ、森(   )
 カ、雪(   )  キ、組(   )  ク、犬(   )  ケ、麦(   )  コ、屋(   )
 サ、笛(   )  シ、戸(   )  ス、林(   )  セ、炭(   )  ソ、糸(   )
 タ、札(   )  チ、束(   )  ツ、耳(   )  テ、竹(   )  ト、肉(   )


問題二 次のア~トの訓をひらがなで(  )内に記入しなさい。
    訓がない場合は、(  )内に×を記入しなさい。
 
 ア、雨(   )  イ、右(   )  ウ、円(   )い エ、月(   )  オ、子(   )
 カ、夕(   )  キ、千(   )  ク、先(   )  ケ、土(   )  コ、遠(   )い
 サ、会(   )う シ、楽(  )しい ス、記(   )す セ、市(   )  ソ、社(   )
 タ、太(   )い チ、直(   )す ツ、売(   )る テ、歩(   )む ト、育(   )つ


問題三 次のア~コの十字形(※原文ママ)の中央の□に、ある漢字一字を入れ、
    上下左右(※ここも原文ママ)の矢印の方向に読むと単語ができます。
    例を参考にして、□に一字を記入しなさい。

   (例)最・夢 → □ → 央・心
       上の□に「中」を入れると、「最中」「夢中」「中央」「中心」になります。

 ア、選・苦 → □ → 芸・紙   イ、天・長 → □ → 神・王   ウ、風・水 → □ → 輪・窓
 エ、役・注 → □ → 前・的   オ、木・起 → □ → 場・案   カ、見・絵 → □ → 立・気
 キ、作・注 → □ → 化・集   ク、満・遠 → □ → 音・場
 ケ、親・級 → □ → 人・達   コ、早・明 → □ → 日・顔


問題は50問で各2点、100点満点となっています。
60点以上80点未満で「初段」、80点以上で「二段」とされているようです。



さて私は・・・



100点中94点! 合格

私が間違えてしまったのは、音読み&訓読み問題です。
漢字の読み方が音読みか訓読みかということは、小学校を卒業して以降は気にも留めませんでしたからね。
いや、小学校の時でさえ音読み訓読みの区別は、それほど意識してなかったかも・・・。


まずは「戸」の音読み。
普通の読みは「と」だけど・・・他には読み方はなかったはずだよなぁ? だから「と」は音読みだ!・・・というのは誤りです。
「戸」は、「と」の他に「へ」とも読みます。青森県の八戸(はちのへ)のように。
しかし「と」「へ」はともに訓読みなのです。
「戸」はさらに「こ」とも読みます。戸籍(こせき)のように。
そして「こ」の読みが音読みとなるわけです。


次は「夕」の訓読み。
普通の読みは「ゆう」ですが、これを音読みと勘違いしてしまいました。
「夕」は「ゆう」の他に「せき」とも読みます。一朝一夕(いっせき)がいい例です。
私はすっかり忘れていた「せき」の読みが音読みで、「ゆう」は訓読みとなるわけです。


最後に「千」の訓読み。
「千(せん)」に限らず「一(いち)」「二(に)」といった数の呼称は、意外にも音読みであることは知っていました。
「一」は「ひと(つ)」、「二」は「ふた(つ)」といった呼称もあり、これが訓読みであることからも察しがつきます。
しかし「千」は・・・???
なので「千」に訓読みはない!と考えたのですが、これは間違い。
「千」は「せん」の他に千葉の「ち」という読み方があります。
そして意外なことに、この「ち」が「千」の訓読みになっているのです。


問題三はパーフェクト! まぁ、当然ですな。



これでも大学出てますから。



私の点数は94点なので、文句なしの卒業!といった感じですが・・・
足利学校の方針は「自学自習」で何年制という定めはなく、自分自身が納得いくまで学んだら卒業ということになっていたそうです。
なので点数の多い少ないに関係なく、自分はこのとおり音読み訓読みの復習をして納得いくまで学んだので、足利学校を卒業いたします!




午 後 1 時 4 4 分

学 び 舎 を 出 る


勉学に勤しんだ学び舎を後にします。



校舎の南庭園を眺めた後、



歴代校長の墓を詣で、



旧足利学校遺蹟図書館【足利市指定文化財】でさらに学問を深め、



足利学校を後にしました。



振り返ると、学校は新入生を多く迎え入れていました。



日本100名城登城の旅・第20弾~「東武鉄道で行く両毛城めぐり」第9話へ続く。