鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

中央線で帰宅

2011-01-16 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 7 時 2 5 分

J R 甲 府 駅



立ち寄る予定のなかった甲府で、



ほうとうを食し、



ぶら~り程度ではありましたが甲府城【山梨県指定史跡】を登城しました。
ここでおみやげの信玄餅でも買えばよかったのですが、残念ながら売店は閉まっておりました。



あとは東京へ戻るだけ、といったところです。

帰り道は、中央本線をひたすら東に進むだけ。
1本目の電車は、19時33分発 中央本線 普通電車 大月行きです。


外は真っ暗、車窓も楽しめない、さらに旅の疲れと相まって、ひたすら爆睡。


約1時間後の20時28分、大月駅に到着しました。
次の電車は、20時39分発 中央線 快速 東京行きです。
終点の東京まで乗り換えなしで行けます・・・が、まだ入線していませんでした。


待ち時間はそれほど多くはないのですが、大月駅の改札の外に出てみました。
駅前は・・・開店している店はなさそうでした。

そうこうしているうちに、東京行きの電車がやってきました。
編成は10両、ガッラガラです。
大月駅からの乗客が全員ロングシートでごろ寝したとしても、まだ席が余るくらい。
おかげで座席をめぐる争いはまったく勃発しないのですけどね。

悠々とした心持ちで、東京行き電車は発車しました。
私は早速居眠りを始めました。



大月駅から7駅目。
中央線では唯一の神奈川県、相模湖駅へ。
ここで男女の組がぞろぞろ乗ってきて、座席が埋まってしまいました。
どうもコチラからのお帰りのようですね。
むむむ・・・・・・



この後も電車は着実に乗客を増していき、目を覚ませばなかなかの混雑っぷり。
途中駅(立川? 国分寺? 三鷹?)で中央特快に乗り換えたほうが早く帰れるのですが、座席を手放したくない私は東京駅まで電車を乗り続けたのでした。



【今回の乗車記録】

JR東日本 甲府駅 3番線 19時33分発
中央本線 普通 大月行き
大月駅 4番線 20時28分着

大月駅 3番線 20時49分発
[JC]中央線 快速 東京行き
[JC01] TYO 東京駅 1番線 22時33分着

*所要時間 3時間00分 (移動時間 2時間39分 待ち時間 21分)
*移動距離 134.1km  *運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は2,210円)

※運賃は当時のものを掲載しています。



東京駅に着いた私は地下ホームに下りていき、総武線に乗り換えて拙宅(当時)へと帰っていきました。



拙宅にて私を待っていた者は・・・誰もいませんでした。



日本100名城登城の旅・第3弾「信州のクリスマス」 完

ホーム画面に戻る。


夜の甲府城

2011-01-16 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 7 時 0 5 分

J R 甲 府 駅 南 口



「甲斐の虎」と称される武田信玄公が鎮座する甲府駅南口ロータリー。



甲府市には、日本100名城がふたつ存在します。
ひとつは、信玄公が住んでいた武田氏館(躑躅ヶ崎(つつじがさき)【国指定史跡】。
もうひとつは、武田氏が滅んだ後に建てられた甲府城【山梨県指定史跡】。

ちなみに、ひとつの市区町村に複数の100名城が存在するのは甲府市のほかに・・・
 ・愛媛県松山市  松山城【国指定史跡】&湯築城【国指定史跡】
 ・滋賀県近江八幡市  安土城【国指定特別史跡】&観音寺城【国指定史跡】
の2ヶ所あります。

話はそれましたが、甲府駅の目の前にあるのは甲府城です。
正確に言うと、甲府城の城域のど真ん中をJR中央本線が走っているのです。


甲府駅南口から徒歩5分、甲府城址である舞鶴城公園に着きました。


天正10年(1582年)の甲州征伐により、信玄の子・武田勝頼織田信長に滅ぼされました。
しかし程なく、信長も本能寺の変で落命。
甲斐国は政治的空白地となりましたが、徳川家康が占拠し、このころ築城が始まりました。

豊臣秀吉が天下を統一すると、家康は関東へ転封となり、豊臣系大名が築城を継続。
浅野長政・幸長が領主のときに完成しました。

関ヶ原の戦いの後、甲斐国は徳川親藩の領地となります。
一時、5代将軍・綱吉の側用人を務めた柳沢吉保が領主となりますが、その子・吉里が大和郡山へ転封となると、天領となり甲府勤番という代官が入城しました。

戊辰戦争においては、板垣退助が無血開城をなしとげています。
明治になり廃城となりました。



都市公園になっている甲府城は、夜でも入ることができます。
園内はいたるところがライトアップされていて、



鬼門にあたる北東を守護していた稲荷櫓も見ることができました。
しかし夜であることから、櫓の中には入れませんでした。
100名城スタンプはこの櫓の中にあるということなので、甲府城はいつか再訪しなければなりませんね。


虚弱体質の当時のデジカメさんも、ここで終了を宣言なさいました。
今回の甲府城の画像は、この1枚だけです。



甲府城の散策は早めに切り上げ、午後7時25分、甲府駅に戻りました。





ほうとう鍋「小作」

2011-01-16 | グルメ


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 6 時 2 2 分

J R 甲 府 駅



甲府駅の改札を出ると、時刻はそろそろ午後6時半。
小諸で食したそばはすっかり我が胃袋を通り過ぎ、そろそろ何かを口にしたくなる頃。

ここで思い立つのが、甲府の郷土料理・ほうとう鍋
携帯さんでほうとう鍋が食べられる店を検索したところ、甲府駅北口から近いところに甲州ほうとう「小作」甲府北口駅前店があることをつかみます。



駅の北口から徒歩5分で、「小作」に到着しました。
いざ、入店。

メニューを拝見。
豚肉ほうとう、ちゃんこほうとう、きのこほうとうなど、意外にもラインナップは豊富にあります。
その中でも、もっともオーソドックスなかぼちゃほうとう(1,100円)をオーダーしました。

 (※料金は旅行当時のものです。現在は1,150円になっているようです)

注文してからあまり時間はたっていませんでしたが、かぼちゃほうとうがお目見え。



かぼちゃほうとう、うまい!!
かぼちゃ、ねぎ、白菜、人参、ぜんまい、ごぼう、そして丸々入っているじゃがいも、さといも。
肉、魚はひとつも入っていませんでしたが、温野菜の味が味噌に溶け込んでいるかのように味わい深いものでした。

しかし、ほかの客の料理を見て、私はちょっとした後悔をします。

鳥モツ煮・・・。
当時のB級グルメグランプリをにぎわせていた「甲府鳥モツ煮」をスルーしていたのです。
とはいえ、ほうとうだけでも十分満たされたので、ここはよしとしましょう。



店を出ました。
出発時間までまだ時間がありましたので、駅の反対側・南口へ。



南口のロータリー前には、「甲斐の虎」武田信玄公が腰を据えておりました。





小海線で戻る

2011-01-16 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 3 時 0 5 分

長 野 県 小 諸 市

J R 小 諸 駅



この日登城する予定の城は、すべて訪れました。
ここからは、拙宅の船橋へ戻る帰路となります。



立ち食いそばじゃない、本物の小諸そばをたらふく食べたこともあり、夜飯抜きでも問題なさそうなコンディションです。



手持ちの18きっぷを有効利用すべく、JRの在来線をたどって帰ることとします。
しなの鉄道? もう乗りません。

乗車する列車は、JR小海線 普通列車 小淵沢行きです。
小諸駅から千曲川と並走し、八ヶ岳の東山麓を通って、小淵沢駅中央本線に接続します。



15時13分、小淵沢行き列車は定刻どおり出発。
2駅目までの乙女駅までは、しなの鉄道線と並走します。
しなの鉄道線との相互乗入れができるのは小諸駅のみですが。

乙女駅からは進路を南方にとります。
そして乙女から4駅目は、佐久平駅
北陸新幹線(旅行当時は「長野新幹線」)に乗り換えることができます。
18きっぱーの私は、当然新幹線をスルーです。


小海線の名の由来ともいうべき小海駅を過ぎると、列車はいよいよ高地へお分け入ります。
小海線は、普通鉄道駅の標高ランキングで上位9駅を占めています。
そのため路線の愛称は八ヶ岳高原線というのだとか。あまり知られていないようですが。

小海駅の次は、標高967メートルの松原湖駅。標高は普通鉄道の駅で第9位です。
次は海尻駅、標高は1,034メートルで第8位。
次は佐久海ノ口駅、標高は1,039メートルで第7位。
佐久広瀬駅、標高1,073メートルで第5位。
信濃川上駅、標高1,135メートルで第4位。



てっぺんにある野辺山駅
あたりはすっかり暗くなり、さらに小雪がちらういていますが、しっかりとJR最高駅碑を収めました。
碑文には「JR線最高駅野辺山 標高一三四五米六七」とあります。
2を除いた数字が見事に並んでいます。
最後の「67」って、もしかして適当に数字を当てはめただけってことはないですよね?

JR線の本当のてっぺんは野辺山駅の先にあるのですが、こちらはスルーしてしまいました。
標高は1,375メートルとなっております、いちおう。


小海駅から終点の小淵沢駅までは、八ヶ岳の東側を進んでいきます。
ですがこの時間はもはや日没、名峰の姿を拝むことはできませんでした。




午 後 5 時 3 0 分

山 梨 県 北 杜 市

J R 小 淵 沢 駅


小諸駅から乗車して約2時間半、小淵沢駅に到着。
JR小海線を完全乗車しました。


次の電車は、17時36分発 JR中央本線 普通電車 塩山行きです。
乗換時間6分の後、電車は小淵沢駅を発ちました。

この電車の終点・塩山駅は、甲府駅より少し東へ進んだところにあります。
中途半端に東に進むよりは、始発電車の見込めるターミナル駅である甲府で下りようと考えていました。



18時19分、電車は甲府駅に到着。
次の電車まで時間がありそうだったので、甲府駅周辺を散策することとしました。



【今回の乗車記録】

JR東日本 小諸駅 4番線 15時13分発
小海線 普通 小諸行き
小淵沢駅 4番線 17時30分着

小淵沢駅 2番線 17時36分発
中央本線 普通 塩山行き
甲府駅 2番線 18時19分着

*所要時間 3時間06分 (移動時間 3時間00分 乗換時間 6分)
*移動距離 118.5km  *運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は2,210円)

※運賃は当時のものを掲載しています。





小諸城~穴城

2011-01-16 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 1 時 4 8 分

長 野 県 小 諸 市

懐 古 園 前



立ち食いそばじゃない、



本物の小諸そばをたらふくいただき、小諸城【国指定史跡】の登城へ。


小諸城は、しなの鉄道をはさんで北に大手門公園、南に懐古園と分かれています。


そばをいただく前、あらかじめ大手門公園に寄りました。
大手門公園は、駅から歩いて5分もかからないところにあります。
管理棟の様なものも一切見当たらない。
狭い空き地に、門がポツンとあるだけ。



しかししかし侮ってはいけません。
この大手門【国指定重要文化財】は慶長17年(1612年)建造で、小諸城で最も古い建物となっています。
建造主は仙石秀久、漫画「センゴク」の主人公です。
大坂に豊臣が残っていた当時、戦乱の火種はくすぶっており、華美な装飾が省かれた実践的な城門です。


戦国時代、佐久・小諸地方を治めていたのは大井氏であったが、甲斐の武田晴信(信玄)がこの地を攻め取りました。
晴信は、小諸の地を重要拠点と位置づけ、軍師・山本勘助に命じて小諸城を築城させたといいます。

武田家が滅亡すると織田、徳川の手に渡り、天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原征伐で大功を立てた仙石秀久が城主となりました。
秀久は曲輪に石垣を用いるなど、小諸城を近世城郭に変貌させました。
現在残っている小諸城は、このときの普請をもととしています。
また秀久は、殖産興業の一環として、小諸地方で採れるそばを特産物にしました。
領民にはそば切り(現在の麺としてのそば)を振る舞い、そばの普及に努めたそうです。

秀久の子・忠政上田へ転封となり、さらに2代後の政明は丹後国(兵庫県北部)出石に移ります。
上田のそば職人が出石に移ったため、出石でもそばが名産品となりました。

小諸城は、仙石家の転封以降は6氏16城主の居城となり、明治維新を迎えました。



大手門公園から、しなの鉄道を越えて徒歩約7分。
この日はしなの鉄道をくぐる地下道が工事中だったので、余計に時間がかかってしまいましたが・・・



懐古園の入口に到着しました。
シンボルである三の門【国指定重要文化財】に出迎えられます。
正面にある「懐古園」の額は、徳川慶喜の子・家達(いえさと)の筆によります。

そして三の門は、門の位置より高い道路から撮っています。
体感では、撮影場所の道路と大手門公園が同じくらいかな~、いや道路の方が少し低いかな~といった具合。
いずれにしても、三の門の高度は大手門の高度よりも低い位置にあります。
小諸城は「穴城」、すなわち本丸に行くにつれ高度が低くなるという珍しい城なのです。

そういう「穴城」なので、攻め落とすのはカンタン・・・というわけではありませんでした。
それは低い本丸に行けばわかります。


三の門をくぐると、料金所がありました。
入園料は300円。(※旅行当時の金額です)



入園券といわんばかりでしょうか、なかなか小粋な贈り物をもらいました。



三の門をくぐった先は、二の丸です。
園内をそぞろ歩くと、ところどころに野面積みの古石垣が残っています。
関ヶ原の戦いで別働隊を率いていた徳川秀忠の軍勢を城主・仙石秀久が迎え、小諸城の二の丸が本陣となっていました。
ここから秀忠軍は上田城へ出陣し・・・痛い目に遭うわけです。



こちらは二の門跡
二の丸と、北の丸および南の丸を隔てていました。

画像の石段をのぼったところは、二の丸の高台。
上田合戦前の徳川秀忠は、この高台の屋敷に逗留していたそうです。


さらに進むと、橋が架かっています。



断崖絶壁にかかっている黒門橋
戦時には橋を壊し、本丸への侵入を防ぎます。
また、橋の向こうには黒門という櫓門が建っていたそうです。



黒門橋を渡ると本丸
石垣に生した苔が、古城の雰囲気をかもし出しています。

黒門橋から右に回ると、城内唯一の井戸・荒神井戸と、天守台が残っています。



築城当初は3層の天守が建っていましたが、寛永3年(1626年)に落雷で焼失してしまいます。
その後、天守が再建されることはありませんでした。



天守台の向かいには、藤村記念館があります。
ふ~ん、ふじむらって誰だろう? 小諸地方の名士なのかな~。



もしかして、ヒゲDのことじゃないよね?
ヒゲDの記念館だったら展示物は・・・ドイツの道ばたで立てたテントとか・・・?

立て看板をよく見て、英語表記の部分から私は誤りを悟ります。

  × 藤村(ふじむら)記念館
  ○ 藤村(とうそん)記念館

小諸は、明治の文豪・島崎藤村が7年ほど居住していたそうです。
「藤村」=Dを連想した私は、かなりの病でしょうか?


小諸なる古城のほとり
雪白く遊子悲しむ



さて、天守台にのぼるには、黒門橋の方からから回りこむこととなります。



本丸の石垣に囲われた曲輪は、現在は懐古神社の境内となっています。
境内には「鏡石」という、山本勘助が鏡の代わりにしたという石があります。
私は見逃してしまったんですけどね・・・。

懐古神社には、ニシキゴイが回遊する池があります。
この日は気温1ケタの寒さ、池中のニシキゴイはま~ったく動いていませんでした。



小諸城の最奥へ。



水の手展望台という見晴台からのながめ。
はるか下を千曲川が流れています。
見晴台の真下は断崖絶壁、こんなところから攻め入るのはほぼほぼ不可能でしょう。



こちらは懐古園の裏口にあたる酔月橋
本丸は地獄谷とよばれる深い谷で隔てられています。


小諸城で籠城戦を行うことを想像すると・・・
背後が断崖絶壁で囲まれているので、守備する場所が前面の大手門に限られます。
援軍は大手門の横から現れるので、攻城軍は二正面作戦を強いられることにもなります。
また大手門を取られると城内が見渡せて不利なので、城兵は大手門を死守することとなります。いわば「背水の陣」の効果もありそうです。

小諸城が「穴城」であっても、難攻不落であることがよくわかります。



この日は城3つを攻略し、疲労がたまった私は早々に小諸駅へ戻ろうとしました。

100名城スタンプをもらってない!

小諸駅の手前で思い出した私は、あわてて懐古園に戻ります。
スタンプがもらえる懐古園事務所は、料金所よりも入口側にありました。
事務所の、さらに奥の事務室。
職場感が満ち満ちている空間の、デスクからスタンプが登場。



28番、小諸城!
絵柄は・・・おそらく三の門でしょうか。




それにしても危うくスタンプなしで小諸を発つところでした。
安堵したところで、三の門をくぐり小諸駅へ戻っていきました。





小諸そば「草笛」本店

2011-01-15 | グルメ


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 3 0 分

長 野 県 上 田 市

上 田 駅 前



上田城を後にして、上田駅に戻ってきました。
電車の発車時刻には少々時間があるので、駅前のMで待ち時間を過ごします。


さてさて次の目的地は、この旅のシメを飾る3城目。
上田からは近場にある小諸城【国指定史跡】です。
小諸城へのアクセスは、上田駅からしなの鉄道線で東に向かうこととなります。
しなの鉄道線は第3セクターなので、18きっぷが使えません。
あらかじめ券売機で小諸行きの切符を買うこととなります。
乗車する電車は、12時52分発 しなの鉄道線 普通電車 小諸行きです。


電車は定刻どおりに上田駅を発車し、わずか20分で終点・小諸駅に到着しました。



【今回の乗車記録】

Sしなの鉄道 上田駅 1番線 12時52分発
しなの鉄道線 普通 小諸行き
小諸駅 2番線 13時12分着

*所要時間 20分
*移動距離 18.0km  *運賃 390円

※運賃は当時のものを掲載しています。




午 後 1 時 1 5 分

長 野 県 小 諸 市

小 諸 駅 前



小諸駅を出ました。
駅前は少しさびしい感じもします。
新幹線が小諸を通らずに隣町の佐久へ行ってしまったのが、打撃になっているのかもしれません。

さて小諸城ですが、遺構はしなの鉄道を挟んで懐古園大手門公園に分かれています。
正確に言えば、しなの鉄道の前身・信越本線を敷設する際に、小諸城の城域を貫くかたちで通したのです。
長野新幹線(※現在は北陸新幹線)を敷設する際に、小諸を通ると懐古園を削らなければならず、そのため小諸市が通過に反対したともいいます。
もしそうならば、そのおかげで小諸城は守られたことになりますね。



まずは大手門公園へ。



公園にポツンとある櫓門
このオブジェのような櫓門こそ、現存する小諸城大手門【国指定重要文化財】なのです。


しばし大手門を仰ぎ見て、駅の反対側にある懐古園へ。


懐古園に入る前に、て多少遅い昼食をいただきます。
旅立つ前に調べておいた、懐古園の駐車場前にあるお蕎麦屋さんに入ります。



「草笛」本店
こちらではくるみそばが有名なのだそうですが、多少空腹であった私は、事前に調べた裏メニュー中もりそばをオーダーしました。
店員の淑女は、「量多いですよ」とご忠告くださいましたが、そば好きの私に迷いはありません。



中もりそば! うまい! そして多い!!
せいろはだいたい8センチくらいの高さで、直径が20センチ超といったところ。
そしてそばの盛り具合が半端じゃありません。
せいろいっぱいに盛られたそばは、せいろに遊びの空間がまったくありません。

香りが感じられ、味がしっかりしたそば。
のどごし、歯ごたえも言うに及ばず。
かえしは東京のそば屋で出る塩辛い一辺倒のものではなく、甘みも感じられる私好みのものでした。

そば好きの私も4人前近いそばを食べては腹いっぱいになってしまいます。
それでも完食し、そば湯をじっくり味わって900円を支払いました。
(ちなみに普通のもりそばは630円でした)

(※現在、「草笛」本店はリニューアルして営業しています)


腹いっぱいの身となった私は、このまま懐古園の散策におもむいたのでした。





上田城~真田の城?

2011-01-15 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 2 5 分

長 野 県 上 田 市

上 田 城 址 公 園



すっきりと晴れず、底冷えがする信濃路。
真田六文銭で彩られた上田市街を歩き、上田城址公園に到着しました。


上田城は公園化が進んでおり、二の丸には上田市民会館などがあります。
そんなこともあり、城跡ではあまり聞こえてこないはずのブラスバンドの練習音なんかも耳に入ってきました。


上田城【国指定史跡】は、天正11年(1583年)に真田昌幸により築城されました。
天正10年の武田家滅亡後、昌幸は上田地方一帯の領主として、織田、徳川、北条、上杉らの大大名とわたり合い、権謀術数をもって所領を拡大し「表裏比興の者」と賞賛されました。

天正13年(1585年)徳川軍が7,000の兵で攻め入ったときは、昌幸と長男・信幸らは1,200の兵で迎撃、上田地方の諸城で篭城戦を展開します。
このときは地の利を巧みに利用し、徳川軍に戦死者1,000人以上の損害を与え、撃退しました。(第一次上田合戦

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い前夜。
真田昌幸と二男・信繁(幸村)は西軍に、長男・信幸は東軍につきました。
これは、東西どちらが勝っても真田の家名がのこるように図ったのだといいます。
また、幸村は西軍についた大谷吉継の娘を、信幸は徳川家臣・本多忠勝の娘・小松を妻としていた、という事情もあったようです。

決戦に向けて徳川家康は軍勢を二手に分け、自らは東海道を西進し、三男・秀忠の軍勢38,000を中山道から進ませました。

秀忠西進の途上にある上田城。
真田昌幸・幸村父子が2,000の兵で篭城して待ち構えていました。
昌幸の計略、采配によって秀忠軍はもてあそばれ、城を落とせないばかりか、関ヶ原の本戦に間に合わないという大失態を演じてしまいました。(第二次上田合戦
一説によれば秀忠軍の目的は上田城攻略にあったのですが、状況が変わり家康が関ヶ原への急行を命じたため上田城を落城させないまま西進することとなり、結果本戦に間に合わなかったともいいます。
いずれにしろこの戦いで秀忠の武人としてのキャリアは傷ついたようで、秀忠本人もこの敗戦を相当意識していたそうです。

戦後、信幸とその義父・本多忠勝が嘆願し、昌幸・幸村父子は死を免れ、高野山(のち九度山)に幽閉されることとなりました。
徳川にとって忌まわしの上田城は破却されることとなったのです。
信幸は、父の所領を与えられ、徳川への忠誠の証として父から継いだ「幸」の名を削り「信之」と改名しましたが、2代将軍・秀忠のときに上田から松代へ転封となりました。
真田にひどい目に遭わされた秀忠さんが、嫌がらせのために転封を命じたといわれていますが、実際は信之の才略を見込んでの加増だったようです。

上田の地は、小諸から移ってきた仙石忠政が治めることとなり、このとき上田城が復興します。
現在の上田城は、仙石家が建てたものが残っているものです。
仙石家が出石に移ると、松平(藤井松平)家が藩主を務め、明治維新を迎えました。



上田城の歴史をよ~く踏まえたうえで、上田城の遺構がよく残っている本丸に入ってみましょう。



本丸への関門であった東虎口櫓門【再建】。
両脇を南櫓【長野県宝】と北櫓【長野県宝】が固めています。
これらの2基の櫓は明治維新後に民間に払い下げられ、一時期にはなんと遊郭!!になっていたそうです。
昭和前期に、移築されていた2基の櫓は元の位置に戻されました。



東虎口櫓門の「真田石」
上田城で一番大きな石だといいます。
真田信之が転封のさいに持ち去ろうとしたのですが全く動かず、そのまま残されたそうです。
しかし信之時代には城はなかったはずです。
この話はただの伝承に過ぎないものと思われます。

門をくぐると南櫓の入口があるのですが、この日は閉まっていたのでした。
たしか100名城スタンプはここにあるはず・・・。
まさかスタンプなしで終わるのでは??


さて、本丸へ入ると・・・



本丸の一画には真田神社が鎮座しています。
真田、仙石、松平家の歴代城主を御祭神として祀っています。
しかしもとは「松平神社」といい、松平家の当主のみを祀っていたそうです。

そんな神社の境内で、署名活動をしているおじさまがいらっしゃいました。
その内容は、「真田幸村を大河ドラマに!」とのことでした。
私も署名をしてきました。

(※この署名活動が実ったのか、平成28年の大河ドラマは「真田丸」が放映されましたね)

署名ついでにそのおじさまに、
「南櫓に入れないんですけど・・・」
と尋ねれば、
「冬の間は開いてないんですよ」
とのことでした。
じゃあ100名城スタンプはどこでもらえるの???

社殿の奥には、「真田井戸」があります・・・って、また真田かい!?
この城は真田さんじゃなくて、仙石さんが建てた城だっていうに・・・それはいいとして。
本丸にある唯一の大井戸で、城の北側へ抜け穴が通じていたという伝承があります。



本丸の西側、真田神社の境内からも見える西櫓【長野県宝】。
この櫓は唯一、上田城が再築城された江戸時代から現存しています。



いったん本丸から出て、お濠ぞいに歩いていきました。
どこぞの高校の陸上部の方でしょうか、半袖短パンで疾走しています。
元気ですねぇ~。



二の丸から見た本丸です。
北東の方角のみ、お濠とその上の土塁が切り取られた形をしています。
これは「鬼門除け」といい、北東の方角=鬼門の土地を削ることによって厄災を防ぐおまじないのようなものだそうです。



さて、100名城スタンプです。
スタンプ帳によると、上田城の櫓の中でもらえるとの記述がありましたが、冬季は櫓が閉鎖されています。
今回はスタンプをゲットできないのか?

スタンプ帳をよくよく確認すると、「冬季は博物館」とありました。
そこで二の丸にある上田市立博物館へ。



27番、上田城!
絵柄は東虎口櫓門ですね。

このまま博物館に入るのがスジというものですが、時間がなかったのでそのまま上田城を出たのでした。





しなの鉄道で上田へ

2011-01-13 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 9 時 1 5 分

長 野 県 松 本 市

松 本 城 を 出 る



400年の風雪に耐える「黒いカラス」。





何度見ても素晴らしい松本城を後にして、徒歩で松本駅へ戻ります。


ちなみに、松本城の最寄駅は松本駅ではなく北松本駅です。
しかし北松本はJR大糸線の駅なので、今回は利用しません。


松本の中心部と松本城を結ぶ本町通り
その一角に、牛つなぎ石というものがありました。



武田信玄が駿河の今川氏真と争ったとき、今川軍は内地の武田軍に対し「塩止め」をし、塩を甲斐に流通させることを禁じました。
今川軍と同盟を結んでいた北条氏康も、「塩止め」に同調しました。
信玄の領地は甲斐・信濃という「海無し国」、このままでは領民が困窮してしまいます。
信濃の北、越後国に領地を持っていたのは、川中島で信玄と死闘を繰り広げた上杉謙信
謙信は塩の取引による利益を重視したため、信玄に対して「塩止め」をすることはありませんでした。
このことが「敵に塩を送る」という言葉の由来になっています。

越後から塩を運んできた牛は、この路傍の石でつながれていたそうです。



途中にある湧き水で口をすすぎ、松本駅に到着しました。




午 前 9 時 2 5 分

J R 松 本 駅


次に登城するのは、真田の城郭でも名高い上田城【国指定史跡】です。
少数の真田軍が徳川軍を破った、二度の上田合戦の舞台でもあります。

次の目的地は上田ということで、JR篠ノ井線で北へ。
途中でしなの鉄道線で東へ進むこととなります。

はじめの列車は、9時35分発 篠ノ井線 普通電車「みすず」 長野行きです。
この電車はJR飯田線から篠ノ井線に乗り入れる快速電車で、松本から長野までは各駅停車となります。
しかし発車標を見ると、7分遅れとのこと。
乗り換えに影響しないだろうか、少々不安です。


発車標のとおり、約7分遅れで「みすず」がやってきました。
早々に発車します。



松本駅から7駅目、姨捨(おばすて)
ここは全国でも数少ないスイッチバックの駅になっています。
そしてこの駅は、「日本三大車窓」のひとつとされており、ここから見下ろす善光寺平川中島の戦いの決戦地となりました。

・・・・・・画像はありませんけどね。




午 前 1 0 時 3 5 分

長 野 市 篠 ノ 井

篠 ノ 井 駅 に 到 着


姨捨駅から2駅、篠ノ井駅に到着しました。
時刻は10時35分、2分遅れということでした。
松本から篠ノ井までで5分も巻いてくれました。

ここでJR東日本とは、いったんお別れ。
すなわち18きっぷは使えないことになります。
次の電車は、10時36分発 しなの鉄道線 普通電車 上田行きです。
乗換時間はほとんどありません。
幸いにして改札を経ることなく、しなの鉄道線のホームに進むことができました。

私がほぼ駆け込み乗車同然で乗り込むと、電車は間もなく発車しました。



篠ノ井駅から6駅目、テクノさかき駅
KQのYRPナントカばりにあれれ??な駅名ですな・・・。
このあたりには工業団地があるから「テクノ」なんでしょうか。

ちなみにこのようなひらがな+カタカナのみの駅名は、たまプラーザ駅(東急田園都市線)、りんくうタウン駅(JR・南海空港線)などの6駅しかないそうです。

(※現在は「とうきょうスカイツリー駅」が加わり7駅です)


車内で乗車券の精算を済ませ・・・
テクノさかき駅から2駅、電車の終点・上田駅に到着しました。




午 前 1 1 時 0 6 分

長 野 県 上 田 市

J R 上 田 駅


到着時刻からはわずかに遅れはしたものの、当初の予定通りの時刻に上田に着きました。
上田城へは、駅のお城口から向かうこととなります。

しかし、さすがは真田のまち。
駅を出る前から、真田一色で彩られています。

小国の主でありながら、上田城で徳川の大軍を2度破った真田昌幸
昌幸の次男で、大阪の役での活躍を「日の本一の(つわもの)と賞賛された真田信繁(幸村)
架空の人物であるが、猿飛佐助、霧隠才蔵らの「真田十勇士」

あれあれ?! 真田信之は?!
真田昌幸の長男で、関ヶ原の合戦では昌幸・幸村と別れ徳川方につき、幕末まで真田の家名を存続させた信之の功績が軽く扱われてはいないでしょうか!?
そんなツッコミを入れながら、駅から歩くこと約15分。



上田城址公園の入口に到着しました。



【今回の乗車記録】

JR東日本 松本駅 3番線 9時42分発(遅れ7分)
篠ノ井線 普通 みすず 長野行き
篠ノ井駅 3番線 10時35分着(遅れ2分)

Sしなの鉄道 篠ノ井駅 1番線 10時36分発
しなの鉄道線 普通 上田行き
上田駅 2番線 11時06分着(遅れ2分)

*所要時間 1時間24分
*移動距離 78.5km  *運賃 560円(JR線内は18きっぷ使用。18きっぷを使わない場合は950円)

※運賃は当時のものを掲載しています。





松本城~美しき天守

2011-01-10 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 6 時 5 5 分

長 野 県 松 本 市

国 宝 ・ 松 本 城



松本市内のファミレスを出た私は、松本城【国指定史跡】へと歩きました。
到着すると・・・真っ暗。
さすがに早朝では、ライトアップの照明は落とされているようでした。
松本城の入口前にあるコンビニで、週刊誌を立ち読みしながら夜明けをじっと待ちました。

そして6時55分ごろ、空が白く明るくなってきたので、城周辺を散歩することとしました。



まずは天守のほうには向かわず、二の丸のほうへ。



二の丸御殿跡
藩政が行われる場所で、かつ藩主の住まいであった場所が、御殿です。
もとは本丸に御殿があったようですが、焼失したため、二の丸に新たに御殿が建てられたそうです。
以後、幕末まで藩政が行われていました。

 

二の丸と三の丸を隔てる太鼓門【再建】。
二の丸の外を囲う外堀の土橋上にあって、一の門が高麗門、二の門が櫓門となっていて、一二の門の間の空間が包囲されている枡形構造となっています。
もとは太鼓楼が築かれており、時刻の合図、登城の合図などの発信源として重要な役割を果たしていたそうです。


そして・・・天守群とご対面。
天守群は本丸に建っていますが、早朝では本丸に立ち入ることができません。
二の丸から、内堀ごしに天守を仰ぎ見ます。



まずは、内堀南東から。



内堀真向かいからの天守群。
松本城の写真でよく見る画角ですね。



西側からの天守群。



内堀にかかる朱塗りの橋・(うずみ)の橋
ここからの天守群も、写真でよく見る画角とあって秀逸ですね。


天守閣をじっくり眺める以外にやることはありません。


1時間後・・・。



相変わらずの美しい天守。
天守群は5棟の建物から成っております。

一番右、赤い欄かんがついているのが月見櫓【国宝】。
その隣、2層の建物が辰巳附櫓【国宝】。
中央、高くそびえ立っている大天守【国宝】。
一番左にある、3層の建物が(いぬい)小天守【国宝】。
画像からは見づらいのですが、大天守と乾小天守の間には渡櫓【国宝】があります。

そしてこの天守群は、カラスが空を舞おうとする姿に似ていることからから、松本城は「烏城」とも称されます。
その美しさは、西の「白鷺城」姫路城のそれとは対になっているようですね。



本丸に入れる時刻は、8時半。
それまで、美しい天守を眺めつつ、信州の寒さとの闘いに身を震わせていました。




午 前 8 時 3 0 分

黒 門 が 開 門


松本城の黒門【再建】。



待ちに待った開門時刻。



松本城に到着して約1時間半、ようやく本丸に入ることができました。


松本城は、元を深志城といい、戦国時代には守護の小笠原氏の支配に属していました。
しかし当主・小笠原長時の代に、甲斐の武田晴信(信玄)が侵略してきました。
長時は追放され、深志城は武田氏の支配下となります。

武田信玄の死後、跡を継いだ子の勝頼長篠の戦いで大敗。
その後織田信長による侵略が始まり、天正10年(1582年)天目山の戦い(甲斐国)にて滅亡。
甲斐・信濃は一時的に織田領となります。

直後、信長が本能寺で斃れると、そのどさくさで徳川家康がこの地を攻め取り、小笠原長時の子・貞慶が城主に返り咲き、名を松本城に改めました。

徳川家康が豊臣秀吉に帰順すると、家康は関東に転封となり、小笠原氏もこの地を去りました。
後を受けたのは、もと家康の重臣・石川数正(かずます)でした。

石川数正と子の康長の代に、城下町・松本が形成され、「烏城」ともうたわれる天守が築かれました。
石川康長はのちに江戸幕府により改易されてしまいますが、その後の6氏21藩主の治世を経て、天守は400年の風雪に耐えて現存しています。




天守の中へ。
入場料は、松本市博物館との共通券で600円。(※旅行当時)
松本城は博物館との共通券しか売っていないようです。
時間の関係上、博物館はスルーしなければならないのですが・・・。


松本城は、戦乱の世がまだ完全には終息していなかった時代の城なので、優雅な姿とは裏腹に、内部はじつに実戦的な構造となっています。



急な階段に、低い天井。
特に4階から5階へ上がる階段は、傾斜が60度、1段の高さが約40センチと、かなり上りにくくなっています。
時間帯によっては、この急な階段を先頭に天守内の渋滞が発生するのです。
ただ、今回は早朝ということもあり、観光客が少なかったので、ゆっくりと城内を巡ることができました。

逆に、最上階へ続く階段は、重臣のみが上るものとされ、途中に踊り場があり傾斜も緩やかになっています。



3階は唯一窓がありません。
このため実際は6階建ての大天守は、外観では5層となっています。
この空間は外から見えないので、戦時にはここに兵を隠して敵を待ち受けるための構造でした。
天守の構造をさす時に「●層▲階」と表しますが、この数にズレがある場合はこういった武者隠しの階があることになります。



最上階の天井には、松本城を護る神「二十六夜神」が祀られています。



大天守の最上階から下りました。
こちらは月見櫓の内部。
他の棟が閉鎖的なのに対し、月見櫓は三面が開放できます。
この月見櫓と隣りの辰巳附櫓は、天下泰平の世となった江戸時代に増築されました。


天守の中では、鉄砲などの展示がありました。
当時の私にはあまり興味が湧くこともななかったので、割愛。
「馬上筒」という騎馬隊用の鉄砲も展示されていたのですが、案外馬上筒はデカかったです。
あれを扱う騎馬鉄砲隊はさぞ大変だったでしょう。



外に本出ました。



本丸には「清正公駒つなぎの桜」という桜の木が立っています。
城主・石川康長が、加藤清正に馬を贈るため、馬2頭を桜につないだといいます。

康長「貴殿に馬を贈るため、それがしが2頭選び申した。
  どちらか貴殿のお気に召すほうを連れて帰られよ」
清正「貴殿じきじきに選んだ馬をそれがしごときの眼で選ぶは無礼。
  2頭とも選ぶのが礼儀というものでござろう」

清正はチャッカリと、石川さんから馬2頭を譲り受けてしまったそうな。



100名城スタンプは、本丸の事務所にありました。



29番、松本城!
失敗してしまった・・・。





聖夜の旅立ち

2011-01-10 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 1 2 月 2 4 日 ( 金 )

午 後 1 0 時 4 8 分

J R 東 京 駅



「福島二千円台の旅」の城攻め旅から2週間。
3度目の城攻め旅を敢行いたします。

今季購入した18きっぷは、まだ4日分残っています。
そのうちの1日分を、あえてクリスマス・イヴで使用しちゃいます。
いや、正確にはクリスマス当日なんですけどね。

なんでクリスマス・イヴに城攻め旅に出かけなきゃならないのか!?

それは・・・・・・

信州に行くには、クリスマス・イヴが最適の日だったから。

信州・長野県といえば、本州の中央高地に位置する海無し県。
その気候は、とにかく冬が寒いのです。
最低気温が0℃以下の真冬日になることもあるという厳冬の地。

下はパンツ、ハーパン、ジーンズ、黒いチノパンの4枚。
上はタンクトップ、Tシャツ、長袖シャツ、ブラウス、カシミヤのコートの5枚。

万全の態勢で、冬の信州に挑みます!!



というわけで立ちの地、今回は東京駅です。
東京から長野県に向かうには、長野新幹線という手もあるのですが、この時刻では最終電車が東京を発っています。
もうひとつのルート、それは中央本線

中央本線でも、通常の電車では限界があります。
しかしこの時季は、新宿駅から夜行列車が出ているのです。
その夜行列車とは、「ムーンライト信州」です。
「ムーンライト」・・・最初の城攻め旅でも乗車した夜行列車です。
最初の旅の列車は「ムーンライトながら」、東海道線を進む列車ですが、「ムーンライト信州」はその中央線バージョン、とも言い表すことができます。

そして信州に行くのに聖夜を選ぶしかなかった理由。
それはこの年の「ムーンライト信州」の運転日が金曜日の夜に限られていたからなのです。
年末年始は麻雀大会やら帰省やらでNG、翌年にはさらなる旅の計画も練っていました。

この当時の私は、まぁ、いわゆる、その、ひとりだったので、聖夜に旅立つこととしたのです。

「ムーンライト信州」は、新宿駅を23時54分に発車します。
これが18きっぷユーザーにはくせもの。
新宿駅で乗車すると、0時00分を経過、つまり日をまたいでしまうので、18きっぷを2日分使ってしまうことになるのです。
0時00分を経過して最初に停車する駅は立川駅なので、普通の18きっぷユーザーはまず前日に立川まで行ってしまうのです。
あるいは新宿・立川間のきっぷを別に用意しておくようです。

そこで私も、夜行列車の最初の停車駅・立川駅をめざします。


東京駅から出ている中央線は、22時を過ぎても約4分に1本という過密ダイヤで運行されています。
また、電車は早朝深夜をのぞきすべて快速以上の速達電車です。
その中でもさらに停車駅の少ない、中央線特別快速電車「中央特快」に乗り込みます。

22時51分、最初の電車・中央線 中央特快 高尾行きに乗り込み、信州への旅が始まりました。

中央特快の停車駅は、神田、御茶ノ水、四ツ谷、新宿、中野、三鷹、国分寺、立川と、立川からの各駅です。
ちなみに快速は、神田、御茶ノ水、四ツ谷、新宿、中野と、中野からは各駅停車になります

立川まで行くのなら、中央特快に乗ってそのまんま行くことができるのですが・・・
今回は立川までまっすぐ行かず、2つ前の三鷹で下りちゃいます。



三鷹駅で中央特快を乗り捨てた私は、同じホームの向かい側で通過待ちをしている各駅停車 高尾行きに乗ります。
この各駅停車は、元は快速電車だったやつです。
この電車だと立川までは、武蔵境、東小金井、武蔵小金井、国分寺、西国分寺、国立の6駅に停車することとなります。

そしてこの電車でもそのまま立川へは行かず、三鷹の1駅先・武蔵境で下りてしまいました。



【12/24の乗車記録】

JR東日本 [JC01] TYO 東京駅 2番線 22時51分発
[JC]中央線 中央特快 高尾行き
[JC12]三鷹駅 4番線 23時21分着

[JC12]三鷹駅 3番線 23時22分発
[JC]中央線 各駅停車 高尾行き
[JC13]武蔵境駅 2番線 23時24分着

*所要時間 33分
*移動距離 25.7km  *運賃 450円

※運賃は当時のものを掲載しています。




午 後 1 1 時 4 5 分

J R 武 蔵 境 駅 前


武蔵境駅は、西武多摩川線の乗換駅。
ですが、西武多摩川線にはまったく用はありません。



武蔵境駅前のイルミネーション。
いや~、きれいですね~。
これを見に、わざわざ武蔵境に立ち寄ったんですよ~。
そんなわけはありません。

ではなぜ、武蔵境で下りたのか。
それは、交通費を限界までケチったため。

拙宅から東京駅までは通勤定期があるので、費用負担はありません。
しかし東京駅から先の中央線は、費用負担が発生します。
東京・立川間の運賃は、620円。(※旅行当時)

これをもう少し、もうちょっとでも節約できないか。
それは、夜行列車より1本先に立川に着く電車の、日付が変わって最初に停車する駅を調べ、日付が変わってから18きっぷを使えばいいわけです。
そこで時刻表とにらめっこしたところ、夜行列車(立川発 0時29分)の1本前の電車は立川駅 0時21分着の電車であることを割り出します。
そしてその電車が0時00分を経過して最初に停車する駅は、三鷹駅(0時01分発)と判明しました。
東京・三鷹間の運賃は380円、なんと3分の2になりました。(※旅行当時の運賃です)

しかし、三鷹駅での乗車には問題がありました。
日付が変わってから0時01分の発車までには、いくつかのプロセスを踏まなければなりません。
 (1)駅員検印の日付を 12/25 に変更する。
 (2)日付が変わったことを確認して、18きっぷを駅員に提示する。
 (3)駅員が 12/25 の検印を18きっぷに押印する。
 (4)改札から中央線快速電車のホームに移動する。
 (5)0時01分発の電車に乗車する。
これらの一連の動きを1分弱で完了しなければなりません。
もし駅員のミスで、検印の日付が 12/24 のままだったら、当然駅員に抗議の上で訂正をさせなければなりません。

ダラダラと述べましたが、要するに三鷹駅での乗車はリスクが大きいと判断しました。

よって三鷹の1駅先である武蔵境で、日付の経過を待ったわけです。
東京・武蔵境間は、450円。(※旅行当時)
交通費を4分の3に抑えることができました。




2 0 1 0 年 1 2 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 0 時 0 1 分

J R 武 蔵 境 駅


日付は変わり、イエスが復活したとされる12月25日になりました。

武蔵境駅の駅員さんに18きっぷを提示し、駅に入りました。
18きっぷには、しかと「12月25日 武蔵境駅」の検印が押されていました。


クリスマス最初の電車、0時03分発 中央線 各駅停車 高尾行きに乗車。
定刻どおり、立川駅には0時21分に到着しました。

・・・・・・定刻どおりじゃなかったらヤバかったんですけどね。



次の電車は、0時29分発 快速「ムーンライト信州81号」白馬行きです。
乗ってきた電車の1本後にやってくる夜行列車は、途中の塩尻駅(長野県)で中央本線を離れ、北アルプスのふもとにある白馬駅まで向かいます。

乗客は、私以上の重装備をしている者がほとんど。
この列車は行き先が行き先だけに、冬山登山に臨む強者どもがよく利用するのです。



外は真っ暗で車窓は楽しめないため、車内では眠るだけです。



・・・・・・あまり眠れねえなぁ。




午 前 4 時 3 2 分

長 野 県 松 本 市

J R 松 本 駅


早朝、松本駅に到着しました。
ホームに下り立つと、きりりと冷え込んだ空気とともに・・・

まつもと~~ まつもと~~~


お上品な声のおばさまが妙に低い声で「松本」と連呼する駅の自動放送で、私は目を覚ましたのでした。



松本といえば、松本城【国指定史跡】。
その天守は建造当時から残っていて、国宝に指定されています。

松本城に向かうべく、駅のお城口を出ました。


駅前の繁華街も、この時間はお休みといったところ。
電光掲示板の温度計は0℃を表していましたが、絶対に0℃以下だよねってくらいに寒いです。
手がかじかんで、痛かったです。
あの電光掲示板、単に0℃までしか表示できないんじゃねえの?とでも考えてしまいます。

松本は至る所に清水が湧いていますが、水めぐりなんてしようものならただじゃすまなさそうです。
ここは事前に調べておいた、朝4時半でも開いている「おはしカフェガスト」松本中央店に向かいました。
(※現在は「ガスト」松本中央店に変わっています。さらに24時間営業ではなくなりました)
終電を逃した時に用いた手段、ファミレスでポテトをオーダーし、食べずに眠り込む手をここでも使い、暖かい場所で夜明けを待ちました。



空が明るくなってきた午前6時半ごろ、店を出て松本城へ歩き出しました。



【12/25の乗車記録】

JR東日本 [JC13]武蔵境駅 2番線 0時03分発
[JC]中央線 各駅停車 高尾行き
[JC19]立川駅 6番線 0時21分着

[JC19]立川駅 6番線 0時29分発
中央本線 快速 ムーンライト信州81号 白馬行き
松本駅 5番線 4時32分着

*所要時間 4時間29分
*移動距離 209.7km  *運賃 510円(乗車券は18きっぷ使用(不使用時 3,570円) 指定席券 510円)

※運賃は当時のものを掲載しています。