鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

赤穂・大石神社

2016-03-22 | 神社


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 前 9 時 2 8 分

兵 庫 県 赤 穂 市

J R 播 州 赤 穂 駅





播州赤穂ばんしゅうあこうで下車した私が、この先向かうのは赤穂城【国指定史跡】。

駅の中にある観光案内所で、赤穂城までのアクセスを確認し、パンフなどの資料を入手。
そして、



この日もまたレンタサイクルの力を借りることとします。
赤穂の観光案内所では、なんと手荷物も預かってくれます。ありがたい限りです。

自転車を借りて駅の外に出てみると、



花壇を手入れしている女性、ではなくその向こうの背中・・・



やはりこの方、大石内蔵助くらのすけ良雄がさっそくご登場です。


赤穂といえば、「忠臣蔵」の舞台。
歴史上では赤穂事件と呼ばれる一幕の舞台です。


赤穂藩の殿様であった浅野内匠頭たくみのかみ長矩ながのりは、江戸で吉良上野介こうずけのすけ義央よしなかとともに、勅使饗応役という朝廷の使者を接待する役目を務めていました。
このとき吉良上野介は「指南役」つまりは浅野内匠頭の先生のような立場でした。

ですが、元禄14年3月14日(現在の暦で1701年4月21日)、江戸城本丸大廊下(松の廊下)で突然、内匠頭が「この間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで上野介に斬りかかったのです!
(遺恨の理由は不明ですが、「忠臣蔵」ではわいろを贈らない内匠頭に対し、上野介が陰湿な嫌がらせを繰り返したように描かれています)
上野介は背中に傷を負いましたが命に別状はなく、内匠頭は周りの者に取り押さえられてしまいました。

朝廷との関係を重視していた将軍・徳川綱吉は激怒、即日で内匠頭に切腹を命じ、赤穂藩の取り潰しを決めました。
いっぽう上野介は刀を抜いて応戦しなかったことから、何の罪にも問われなかったのでした。

内匠頭切腹、赤穂藩取り潰し・・・突然の悲報を受けた地元赤穂では、家臣たちが連日合議を繰り返していました。
幕府の命令におとなしく従うべきか、城に立てこもって討死すべきか、吉良上野介を討ち取って主君の恨みをそそぐべきか。
筆頭家老・大石内蔵助が採ったのは、吉良を討つことでした。
そしておとなしく赤穂城を明け渡し、内蔵助以下四十七名の浪士は江戸に移ったのでした。

江戸に入った四十七士は、町人に身をやつして吉良を討ち取る機会をうかがい、入念な作戦を立てていきます。

そして元禄15年12月14日、吉良邸討ち入り
大石以下四十七士は見事に吉良上野介の首級を上げると、泉岳寺にある内匠頭の墓前にその首を供えることができたのでした。

四十七士の討ち入りに対し、江戸の町民は拍手喝采を挙げましたが、幕府は「仇討ち」とは認めませんでした。
四十六名の浪士たちは身柄を拘束され、4つの大名家の屋敷に預けられることに。
(一人だけ、討入後に行方不明になった者がいます)
4大名家は、赤穂浪士たちを罪人ではなく客人のようにもてなしたといいます。
しかし幕府からの処分は切腹。
切腹して果てた浪士たちは、主君の眠る泉岳寺に葬られています。



それでは赤穂城へ向かいましょう。

駅前の丁字路から続く道を進むと、



大手隅櫓【復元】と、



大手門一の門【復元】に着きます。
一の門の前には車止めが据え付けてありますが、自転車は問題なく通れますので、このまま城内に入ります。



大手門の枡形虎口を通り抜けて進むと、



通路左手側に近藤源八邸跡長屋門【赤穂市指定文化財】が見えてきます。


近藤源八正憲は、浅野家時代の赤穂藩の家臣で、甲州流軍学を修めました。
ちなみに父の正純も甲州流軍学を修めており、その知識に則って赤穂城の設計を担当しています。
また源八の妻は大石内蔵助の叔母にあたり、大石家とは縁戚関係にあります。
赤穂藩取り潰しにおいては、はじめから内蔵助とは行動を異にし、討入には加わりませんでした。



ここの長屋門は中に入ることができるようですが、この日は時刻が早かったためか、入ることはできませんでした。


近藤源八邸跡長屋門の斜め向かいに、大石良雄邸址【国指定史跡】があり、



長屋門が構えています。
ここの長屋門からは中に入ることはできません。



大手門から続く道を進み、丁字路に差しかかったところの右手側に、大石神社は鎮座します。



参道の両脇に松の並木と、四十七士の石像が配置されています。



参道左手最初の石像は、寺坂吉右衛門信行
四十七士では唯一足軽の身分で、討入後に唯一脱走した浪士です。
脱走した理由は不明ですが、大石からの密命を受けてあえて隊を離れたといわれています。
そのため幕府による切腹の命令を受けることなく、天寿を全うしたといいます。

参道右手最初の石像は、片岡源五右衛門高房
幼いころから浅野内匠頭に仕えた側用人そばようにんです。
江戸城での刃傷を最初に知り、江戸の藩屋敷に知らせて事態の収拾に当たりました。
内匠頭の切腹直前にも顔を合わせましたが、両者の会話はなかったそうです。



左手側のかなり後方に、剣豪・堀部安兵衛武庸たけつね
赤穂藩に仕える前、高田馬場の決闘にて助太刀したことで名を上げました。
その後赤穂藩に仕えました。



右手側、安兵衛のさらに後方に、こちらは堀部弥兵衛金丸
高田馬場の決闘での顛末を聞いた弥兵衛は、安兵衛を高く評価し、自己の養子に迎え入れました。
刃傷のおりにはすでに隠居していましたが、討入には参加しました。

この石像を見ていたあるおじさんは、こちらが堀部安兵衛だと勘違いしていたようです。
(弥兵衛を「やすべえ」と読むのだと結論付けていました)



参道の終わりに構えている神門は、義芳門というそうです。

この門は明治5年、楠木正成を祀る湊川神社の神門として建てられましたが、昭和17年に大石神社に移築されたものです。
湊川神社の建造物は、空襲により焼失してしまいましたが、この門は移築のため焼失を免れました。



義芳門そばの右脇には、筆頭家老・大石内蔵助良雄



左脇には、大石内蔵助の子・大石主税ちから吉金
大石内蔵助は吉良邸討入りで表門隊の大将(いわば総大将)を務め、主税は裏門隊の大将を務めました。



義芳門をくぐって境内へ。



まず目を惹いたのが、身近な怒りの川柳コンクール大絵馬なる絵馬。

忠臣蔵の原点は、赤穂義士達の幕府に対する義憤公憤という「怒り」なのです。
この怒りが討ち入りとなり、本懐を遂げたのです。
赤穂は、皆様の身近な怒りを川柳としてお預かりし、怒りを鎮めて参ります。


忠臣蔵の原点って、「怒り」だったのかい?
それはともかくも社会風刺の川柳が多く連ねられていますねぇ。

もう少し 長生きします 悪しからず

おとなりの 旦那が家事を やりすぎる


社会風刺の川柳よりも、こういった川柳のほうが私は好きですね。


そのとなり、御守りなどを販売するところ。



大石内蔵助以下の四十七士、浅野内匠頭に、敵役の吉良上野介。
なんと赤穂では49種類のご当地キティを売っているのです!
ご当地キティのコンプリートはなかなかの行であることがわかります(^_^;)




拝殿でこの旅の無事を祈願し、あっさりと大石神社を後にしました。





それ魅力!瀬戸大橋線&赤穂線

2016-03-11 | 鉄道の旅


2 0 1 5 年 3 月 2 3 日 ( 月 )

午 前 6 時 2 8 分

香 川 県 高 松 市

キ ャ ン プ 地 ・ ホ テ ル フ ァ ー ス ト イ ン



松山城丸亀城今治城高松城湯築城と、日本100名城を5城制覇。
日本三名園に勝るという栗林公園を周遊。
そして1日でうどん6杯、まさにうどん地獄を味わい、四国での旅を満喫した私。

いよいよ四国をおさらばするときが来ました。



連日眺めていたことでん(高松琴平電気鉄道)琴平線越しの高松城うしとら【国指定重要文化財】も見納めです。
白漆喰の櫓は、旭日に照らされて輝いています。



6時50分、JR高松駅に到着。
わずかな時間でお土産物を買い、



7時07分発の快速マリンライナーに乗車します。




午 前 7 時 0 7 分

快 速 マ リ ン ラ イ ナ ー 1 0 号 発 車


定刻どおり発車したマリンライナー10号。
行先は岡山、もちろんそれ、魅力!でおなじみの瀬戸大橋を渡ります。

岡山から四国に渡る際は、当方の不手際のため「それ、魅力?」と疑問を投げかける結果となってしまいました。
しかし私という人間、同じ過ちは繰り返しません!
きっちり指定席券を買わずに乗車しました。

そんなわけで、マリンライナーからの車窓をどうぞ。



坂出駅付近。
「讃岐富士」の異名をもつ飯野山は、この日も山盛りのご飯のようなフォルムを見せてくれました。



瀬戸内海が見えてきました。



青い海のところどころに島が浮かぶ瀬戸内海。





いよいよ瀬戸大橋へ。



さすがは自由席、橋からの景色がちゃんと見えます!



橋の真下も見渡せました。



橋を渡り瀬戸内海から遠ざかっても、岡山駅までは意外と時間がかかります。


橋を渡り終えてから約40分後の8時15分、瀬戸大橋線の終点・岡山駅に到着しました。



高松では食べられなかった朝食を、岡山駅でとります。



かけうどん、うまい!



岡山駅からは赤穂線に乗り換えます。




午 前 8 時 3 0 分

播 州 赤 穂 行 き 普 通 電 車 が 出 発


ところで、読者の皆様はこの駅名が読めるでしょうか?

(1)邑久
(2)長船
(3)香登
(4)伊部
(5)日生
(6)寒河
(7)播州赤穂


(7)くらいは読めるわ!というお返事を頂戴しそうですが、意外と「播州」は間違って覚えているかも。
(ちなみに私は「はしゅう」だと思っていました)

ともかく午前8時30分、3両編成の普通電車とともに岡山駅を出発しました。


赤穂線は、岡山駅の隣・東岡山駅山陽本線と分岐します。
正確には東岡山が赤穂線の起点です。
そして赤穂線はより瀬戸内海に近いほうのルートをとるわけですが・・・





海からは離れているため、ひなびた田畑の風景が続きます。


午前9時07分。



長船(おさふね)駅に到着。
これは読めた方も多いのではないでしょうか・・・著名な刀匠にもおりますから。

ちなみに長船駅のひとつ前がおく(邑久)駅です。



長船駅の次の駅は香登(かがと)駅です。



その次は伊部(いんべ)駅

何駅か経由して、



日生(ひなせ)駅



海寄りの路線だと思っていた赤穂線は、むしろ山に近かったりします。



日生の次の駅は寒河(そうご)駅
岡山県の駅は、この寒河駅が最後となります。

なのになのに寒河駅の次は、備前福河となっています・・・??



兵庫県なのに「備前」なワケ・・・備前福河駅にその理由が記載された看板がありました。

簡単に言うと、このあたりはかつては岡山県(備前)だったので「備前福河駅」ができた。
その後隣の兵庫県赤穂市と合併し、兵庫県になった。
でも駅名はそのままになっている、ということでした。

その備前福河駅の次は、



天和駅です。
私も雀士の端くれ、この駅名標を見てなにかを感じずにはいられませんなぁ。



天和駅のそばにあった信号機には「鷆和駅前 Tenwaekimae」とありました。
この天和はイカサマ・テンホウなのでしょうか?

まず「鷆和」の地名の由来は、真木村と鳥撫村が合併し、両村の先頭の各一字をとり「鷆」、そして両村の村民が和することを願い「鷆和村」と名付けられました。
そして駅は鷆和駅・・・だと難しいので、「鷆和」を「天和」に変えちゃったのだそうです。

少々イカサマくさいテンホウですが、まぁいいでしょう。

天和駅の次は、終点・播州(ばんしゅう)赤穂駅です。





9時28分、播州赤穂駅に到着。



【今回の乗車記録】

JR高松駅・8番のりば 7時07分発
瀬戸大橋線(本四備讃線) 快速 マリンライナー10号 岡山行き 5両
8番のりば 8時15分着

JR岡山駅・4番のりば 8時30分発
[N]赤穂線 普通 播州赤穂行き 3両
2番のりば 9時38分着

【移動距離】126.0km  【運賃】18きっぷ使用(不使用の場合は2,460円)





二宮神社で初詣

2016-03-11 | 神社


2 0 1 6 年 1 月 5 日 ( 火 )

午 後 1 2 時 4 3 分

千 葉 県 船 橋 市

二 宮 神 社



正月三が日は終わり、新年の森羅万象が始動していた頃。
私たちは世に背を向けるがごとく、あっさり休日をとったのでした。


休日の晴天、家に籠るのももったいないということで、本年の初詣をすべく、船橋市内の二宮神社を訪れたのでした。



あっ・・・いきなり社殿。
裏手から来てしまったのか・・・。



神社の参拝は表参道を通るというこだわりのある私。
ここは仕切り直し、ということで・・・・・・







2 0 1 6 年 1 月 5 日 ( 火 )

午 後 1 2 時 4 6 分

千 葉 県 船 橋 市

二 宮 神 社



二宮神社の表参道に来ました。



二宮神社の境内は、一の鳥居をくぐって入ります。

鳥居の先は谷になっていて、参道はまず下り、そして上るという具合になっています。
そして谷には小川が流れています。



季節外れの赤いモミジがきれいでした。



参道を上り二の鳥居へ。
鳥居の間から社殿がじょじょに見えてきました。



二の鳥居の傍らに立つのは、ご神木の大いちょうで、樹齢は約400年といわれます。


二の鳥居をくぐります。
まずは手水舎でみそぎをします。



なんともかわいらしいツインテールの女の子が、手水の作法を教えてくれます。
小学校高学年くらいと思われる女の子、手水の作法を完全には覚えていなかったご様子。

左手で口元を隠しながら、すすいだ水を流す。
そしてひしゃくに残っている水で、その柄を洗う。

ここまでしっかりこなして、ようやくお参りです。




江戸時代中期の1730年ごろに建てられた拝殿【船橋市指定文化財】。
はじめは茅葺きでしたが、大正時代に屋根を銅葺きに改築されて、現在に至ります。

 

竜や唐獅子の彫り物が見事。



拝殿の奥にある本殿【船橋市指定文化財】。
当時の宮大工の仕事が光ります。


「私のことよりも、傍らの人をお守りください・・・」


お参りをしたところで、少々休憩。

二宮神社は船橋市内にあるため、「ふなっしー御守り」なども売っていました。
私たちはそのようなものには目もくれず、正統派?のおみくじ(100円)を引くことに。



さすがは私、みごと大吉を引き当てました!
傍らの方も、2番目によいとされる

私の引いたおみくじより・・・

恋愛  愛情を信じなさい

いっぽう傍らの方は・・・

恋愛  今の人が最上迷うな
縁談  人のことばに迷わず心を定めよ吉


しかし私のおみくじには・・・

縁談  急いでは破れる恐れあり 時を待つがよろし

100%ではないけども、とても嬉しい記述がありました。


おみくじを信じるわけではないけども、そばにいる人は信じたい。
もし神様がいるのなら、こう願いたい。

「私の自摸が悪くなってもいいから、そばにいる方をお守りください・・・」



・・・なんか、しっとりした記事になってしまいました(^_^;) 駄文失礼。



年末年始の私的旅 完

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秘境駅・十二橋

2016-03-08 | 鉄道の旅


2 0 1 6 年 1 月 3 日 ( 日 )

午 後 3 時 0 0 分

千 葉 県 香 取 市



新春ドライブで思いがけずうまい蕎麦を食べたたか氏、よね氏、私の三人。


食後は潮来市内をなんとなくドライブ。

十二橋めぐりの船着き場蜜に群がる蟻のようにワラワラ出てくるイタコ星人から逃亡。
加藤洲十二橋では、水曜どうでしょうの絵ハガキの旅で登場した橋を捜索。

いずれもせまい道で、またしてもペーパードライバーのたか氏に試練を与えたことは言うまでもありません。



さてこの日は、たか氏もよね氏もご自宅に戻らなければなりません。
熟達した乗り鉄のよね氏は、この日も鉄道で横浜に戻るのだといいます。

そこで、本日の解散の地はJR十二橋駅と定めました。


加藤洲の集落を通り抜けると、あたりは田んぼしかない開けた地へ。



北東からのJR十二橋駅。
「十二橋」の名を冠してはいますが、十二橋からの距離は2kmほどあり、十二橋めぐりの船着き場はもっと遠く、隣の潮来駅からのほうがずっと近いです。
このとおり集落からも離れており、当然あたりに商店などはなく、十二橋の名につられて下車した観光客を絶望の淵に追いやるのだとか。
関東地方では随一の「秘境駅」といわれます。


高架をくぐり、鹿島線の西側に出ました。
この鹿島線、このようななんにもないド田舎を通るにもかかわらず、ほぼ全線が高架になっています。



駅の西側にある、秘境駅にしては現代的な駐車場。
そして駅はというと、スーパーハウスのような小屋がひとつだけの簡素な駅です。
しかし高架の上にある、現代的な秘境駅です。



「十二橋駅 JUNIKYO STATION」
余計な文字などない、質素にして美しい駅名標。



乗降客は、階段を上り下りするだけ。
改札などは存在しません。



切符の券売機もありません。
乗客はこの乗車駅証明書発行機の発券ボタンを押して、乗車証明書を発行します。
ワンマンバスの整理券のようなもので、大きさもそれくらいです。



ホームにある駅名標。
JR東日本における標準的な形式・・・ですが、雨風に長くさらされているためか、文字が薄くなり塗装が剥がれかけているところもあります。



待合小屋はリニューアルして、より現代的になっています。



高架の駅とあって、眺めは格別。
ホームからは与田浦を見ることができます。



15時28分、別れの時刻。



潮来からやってきた上り電車に、よね氏が乗り込みました。



よね氏が乗った電車は、利根川の彼方へと消えていきました。



第66回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記 完

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「ロンロンしいなや」だと~?

2016-03-08 | グルメ


2 0 1 6 年 1 月 3 日 ( 日 )

午 後 2 時 2 6 分

茨 城 県 潮 来 市



ひょんなことから新年にドライブに行くことになったたか氏、よね氏、そして私。
(「ひょんなこと」を知ることができるのは鬼ヅモ同好会員だけです。申し訳ありません)

当初はとある場所で食事をする予定でしたが、なんらかの手違いもあり、我々は真剣に食事をする場所を探していたのでした。
(「なんらかの手違い」を知ることができるのも同好会員に限らせていただきます)


舌の肥えた両氏を満足させることのできる店・・・
そう考え私が提案した店は、鹿行地域ではナンバーワンの呼び声高いラーメン屋「純輝」



国道51号沿いにある「純輝」は、ご覧のとおり駐車場が満車。
このあたりの51号線は車幅が狭く、軽い純輝渋滞が起きています。
ペーパードライバーのたか氏に試練を与えてしまう結果に。


なんとか難局を切り抜けたたか氏の車。
すると「純輝」の向かいにある蕎麦屋を発見。



「ロンロンしいなや」だとぉ~?!
蕎麦屋にしてはなんともナメた屋号じゃないか~?!

しかし私は、その蕎麦屋の脇に立っているのぼりの文字を見逃しませんでした。

「常陸秋そば」

常陸秋そばといえば、茨城が誇るブランド蕎麦。
水戸より北方、旧金砂郷村(現在は常陸太田市)の地域でしか育たない、日本一とも目される、蕎麦好きに知らない人はいない存在です。

その常陸秋そばを使っているとあれば、下手な仕事の蕎麦を供してくることはないだろう・・・
そう考えて、昼食をここでとろうと提案したのです。





風変わりな屋号に一抹の不安を残しながらも、入店。



案内された座敷席に着座し、メニューを拝見。



「常陸秋そば」を前面に立てています。
おそらくはうまい蕎麦が出てくるであろう・・・と自分に言い聞かせます。しかし・・・



「国産牛手捏ねハンバーグ膳」(1,580円)!!
なんとメニューに蕎麦以外のものが・・・。
「蕎麦以外のものを出す蕎麦屋に期待してはいけない」という持論の私にとっては痛恨の一事。
こりゃダメかな・・・(?_?)


注文から10分後、我々が注文した蕎麦がやってきました。



よね氏はいつもどおりの天ざるそば
氏いわく、どこぞの食堂とは違って天ぷらがサクサクで、注文後に揚げたものだとすぐにわかる、と。



たか氏はかき揚げせいろ
やはりかき揚げの衣が細かく立っていて、揚げたてと一目でわかります。
そして野菜ばかりではなく小エビも程よく入っています。

そして私はせいろ



せいろ蕎麦、うまいっ!
常陸秋そばの味が色濃く出て、かつ噛みごたえある見事な二八蕎麦です。
薬味として供されているわさびも、おそらくはすりおろし。
ここはたぶん鹿行地域で一二を争ううまさではないか・・・そう実感しました。


そして、かき揚げも食っておけばよかった・・・だの、天ぷらも食べたかった・・・だの、後悔の念が沸き起こる・・・そんな蕎麦屋でした。





うどん巡礼・最終章~うどん本陣山田家

2016-03-01 | どうでしょうロケ地


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 後 3 時 3 2 分

う ど ん 県 高 松 市

玉 藻 公 園 東 入 口



高松城・玉藻公園をあとにして、残るはこの日最後の食事。
当然ながら最後の食事も饂飩です。

この日はすでにうどんを5杯食べたところ。
もううどんはいいかな~(^_^;)とは思っていましたが、最後のうどん屋はどうでしょう軍団御用達の「うどん本陣 山田家」讃岐本店です。



ここでうどん巡礼マイルール。
 ・注文するうどんは温かけうどん。せっかくなのでおなじかけうどんで食べ比べをします。
 ・うどんのサイズは小サイズ。何軒もハシコするため、胃袋に余裕を持たせます。
 ・天ぷらは頼まなくてもよしとしますが、食べるときはちくわ天とします。
 ・おでんは食べても食べなくてもよしとします。
 ・ネギはひとつまみ、天かすもひとつまみまで。あくまでメインはうどんとおつゆ。
 ・移動中にうどん屋を見つけたときは必ず立ち寄る。

このうち・・・



5軒目の「こんぴらや」さんでマイルール第1条を空文化してしまいました。



高松市内からは約10km弱離れているので、



レンタサイクル「45XY」にまたがって行きます。



玉藻公園に沿って東に進む瀬戸大橋通り



高松港の至近にある・・・たぶん風俗街



さらに進んだところにある高松競輪場
ここで勝って、タクシーで風俗街へ赴いて、パァ~っと遊ぶ・・・のでしょうか。


しばらく進んでいくと港町の風景は消え、なんとも風光明媚な景色に。



川の対岸は、おそらく屋島でしょうか。
源義経と都落ちした平氏が相まみえた屋島の戦いの戦場であるとともに、四国88箇所霊場第84番札所・屋島寺があります。


私とママチャリは瀬戸大橋通りを離れ、いったん国道11号・志度街道へ。


あ、うどん屋さんだ・・・

「うどん 麺こい」・・・・・・営業終了。
どうも午後3時前には終わってしまうようです。

・・・助かった・・・。

最後のうどん屋さんを「山田家」と決めていた手前、そこにたどり着く前の時間のロスと満腹感は避けたかったのでした。
この期に及んでマイルールの第6条を空文化することなく、私はママチャリを走らせます。




国道11号と八栗寺方面への分かれ道。
ここで香川県道36号に入ります。
「八栗 3Km」とあるので、「山田家」さんまではあと少し。



「八栗寺 3Km」



「世界の中心で、愛をさけぶ」のロケ地が近くにあるようです。
近くといっても、5Km先のようですが。
当時は愛のない生き方をしていた私は、「かがやくけん、かがわけん。」を鼻で笑いながら、そそくさと通過。



そのうち県道36号を外れ、眼前の山に通じているであろうせまい道へ。

山田家! 山田家! 山田家! 山田家! 山田家!

電信柱に巻きつくオレンジ色の広告表示
目に見える電信柱すべてに山田家!がくっついています。



どこぞの和菓子のように、鳴り止まぬ「山田家」コールが続きます。




午 後 4 時 2 3 分

本 陣 山 田 家 に 到 着


 

ついに伝説のうどん屋・「うどん本陣山田家」本店に到着しました。

駐車場はかなり広く、100台くらいは停められそうなスペース。
この日停まっていた車のナンバーは、周辺地域のものから、遠くは神戸ナンバーまでと、名声が遠方に及んでいるようです。



どうでしょう藩士であれば知らぬ者はいないはず。
四国88箇所を3周もしているどうでしょう班が、必ず立ち寄るいわば皆勤賞のうどん屋さん。
しかも本来の企画である霊場巡拝を差し置いてまで立ち寄るうどん屋さんです。





「本陣」という店名のとおり立派な構えの門構え。
実は文化財にも登録されていて、正式名称は山田家(旧清酒源氏正宗醸造元)長屋門【国指定登録文化財】なのです!
つまり山田家はかつては酒蔵だったのです。
そして長屋門の後ろにぽつんと見える煙突も、山田家(旧清酒源氏正宗醸造元)煙突【国指定登録文化財】です。



長屋門をくぐった先にある山田家(旧清酒源氏正宗醸造元)主屋【国指定登録文化財】。
この中で、あのどうでしょう班を唸らせたざるぶっかけうどんを食べられます。



こういったお座敷でのお食事ですから、さぞかし値段はするだろうと思いきや、この値段です。
普通のうどん屋さんではかけうどんにあたる「ぶっかけうどん」は310円。
お目当ての「ざるぶっかけうどん」は570円です。

(・・・スカイツリー店より300円近くも安いではないか!!
 東武(スカイツリーの運営会社)のヤツめ、テナント料をだいぶせしめているようだな・・・)


主屋に入ると、まずは座敷席テーブル席のどちらにするかを決めます。

この日ホテルを出てからほとんど靴を脱ぐ機会のなかった私は、靴を脱いで上がる座敷席を選択。



★のところに席を構えることにしました。


席に着いてさっそくオーダーです。
うどんの前座・おでん(690円)、そしてやっぱりざるぶっかけです。

なに? マイルール第1条だと? そんな空文化されているルールに拘束力などないっ!


まずは前座のおでん(大)から



牛スジ! ほろほろうまい! 味噌! 甘くておいちい!!
スカイツリー店で食して感銘を受けた味噌おでんが、再び私に衝撃を与えます。
相変わらずこの練り物がよくわからないのですが、それでもうまい。
味噌をつけてうまいのは当然ながら、つけなくともうまい。
そして牛スジが噛むまでもなくほろほろと崩れていくさまは、もののあわれを感じますねぇ~。


おでんが饗されてから4分後、真打ち登場。



うどん!!・・・ズルズルズルズルズルズルズル・・・うまい。
ここのうどんは、まず長いのです。だからズルズル・・・が多めです。
そして麺自体がうまい。
ぶっかけのつゆに浸すまでもなく、うどんだけで食べても旨味を感じることができます。


こうして大泉さんのごとく、うどんを賞味していたところ・・・私は大きな過ちをしていたことに気が付きます。
そう、どうでしょう藩士しかわからないであろう失敗・・・。

  

大泉さんと同じ席で食べればよかった・・・(ToT)

大泉さんがざるぶっかけうどんを召しあがった席をスマホさんで確認してみたところ・・・



私が座った席ではなかったことが判明します。


とりあえずトイレに行くフリして様子を見ると、いずれの席もほかの客が陣取っています。



ちなみにトイレは、主屋から外に出たところにある縁側を伝って行きます。



約30分後。
うどんもおでんも食べ終わり、なんとかねばってみたのですが、ついに席が空くことはなく、無念の退店をすることに。

 

庭の木々もよく手入れされています。



あのあたりに大泉さんが座っていたんだなぁ~。



午後6時ごろ、高松市街に戻ってきました。



ことでんの踏切を越え、ママチャリを返してきました。


そういえばことでんにはついに乗らなかったなぁ。





讃岐高松城・後章~大いなる海城

2016-03-01 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 2 日 ( 日 )

午 後 2 時 4 4 分

香 川 県 高 松 市

国 指 定 史 跡 ・ 高 松 城 址 ( 玉 藻 公 園 )





披雲閣庭園【国指定名勝】を出て、北の丸へ。



月見櫓【国指定重要文化財】、



水手御門【国指定重要文化財】と渡櫓【国指定重要文化財】です。

北の丸付近は、松平頼重徳川光圀の実兄)の代に埋立てがすすみました。
そして月見櫓は次代の頼常(光圀の実子で頼重の養子)の代に完成し、北の丸の隅櫓の役割を担うこととなりました。



月見櫓に入ります。
戦国時代の城郭建築に比べると、少しばかりですが傾斜が緩やかな階段。



櫓からの眺め。
北側は道路1本を挟んですぐに海、四国フェリーがなんとも間近に見えます。
高松城が海城であることを実感できます。



櫓の西側は野面積みの石垣と水路が続きます。
当時はこのあたりまでが海だったのですが、明治時代に埋立てがすすみ、石垣と道路の間に水路が残りました。
往時は海を隔てていた石垣、それにそって並び立つ松の木々もまた良し。



かつての海であった水路は、ここの水手御門で終わっています。
つまりここは海からの入城門、月見櫓は海からの出入りを監視する役割を担っていたのです。
高松城では、月見櫓は「着見櫓」とも表記されていたそうです。



前章で訪れた披雲閣【国指定重要文化財】と披雲閣庭園【国指定名勝】は、月見櫓からちょうど南側。




月見櫓から出て、水路近くまで来ました。
城外とあって、門と櫓はなかなかの威容を示しています。
月見櫓とその続櫓には第1階層に石落としが構えられ、またすべての櫓に鉄砲狭間が空いています。




続いて渡櫓に入ります。



ここでは城郭建築ではめずらしいのたぐり壁が見られます。

城郭建築では木造の壁板を土壁で覆う構造はよく見受けられます。
こうすることで建物の炎上を防ぐのですが、この波状の壁、そして露出している柱・・・?

櫓の外側は敵方の火攻めに備える必要があるので、壁板を土壁で完全に覆う必要がありますが、内側については出火のリスクはある程度下がります。
そのため土の量を節約するために波状の壁になっているそうです。
仮に櫓の中で出火しても、柱が燃え尽きることはめったにないそうです。

こののたぐり壁、城郭建築で現存している例はここと彦根城佐和口多聞櫓だけだそうです。




水手御門、月見櫓を背にして、



城の北西にある水門へ。

高松城の北側は、埋立てにより海とは接しなくなりました。
この水門を通じてのみ、海とのつながりがあります。





鉄門(くろがねもん)を通って、二の丸へ。



屋根付きの鞘橋(さやはし)を渡ると本丸に入ります。



鞘橋から見た本丸。
野面積みの石垣がひときわ高く積み上がります。



いよいよ天守台へ。



天守台から眺める内堀
濠の終末には水門が開いていて、その先の瀬戸内海に通じます。
左が二の丸、右が三の丸
二の丸の石垣が、三の丸のそれよりも少しばかり高いことがわかります。



二の丸と、そこから架かる鞘橋です。
二の丸の向こうはJR高松駅の駅ビルです。



天守台の南東方向には、(うしとら)【国指定重要文化財】。
「艮」は北東の方角を表します。
もともとは城の北東にあった隅櫓が、現在の地に移築されたものなので、玉藻公園の南東にありますが「艮」櫓の名称が残っています。



北東方向は月見櫓が・・・ちょいと見えにくいですなぁ。



お濠に泳いでいるのはクロダイ(チヌ)です。
クロダイは出世魚で、小さいものはチ●チ●、中くらいがチヌで、大きくなるとクロダイと呼ばれるそうです。


天守に到達したので、高松城の攻略、達成!!



ママチャリを停めた艮櫓付近に戻ります。



三の丸からの鞘橋



同じく三の丸から、天守台と鞘橋。



高松城のシンボル・艮櫓



ことでん越しの艮櫓を背にして、最後のうどん巡礼に旅立ちます。