鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

笠間城・後章~天敵多数!

2018-09-17 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 前 1 1 時 2 9 分

茨 城 県 笠 間 市

笠 間 藩 城 主 下 屋 敷 跡



この日訪れるお城、2ヶ所目は笠間城です。
笠間城は、標高約200メートルの佐白山に築かれた山城。



佐白山の山麓にある城主下屋敷跡
ここから本丸への登山道が続いていると、井筒屋のおじさまがおっしゃっていました。

しかし観光案内所のおばさまは、先に進んだところにある駐車場からの道を推奨していました。
そこで・・・・・・



きつい山道をちゃりんこで進んでいきます。
その途中にあるのが九ちゃんの家



今にもつぶれてしまいそうな廃墟ですが、この家はかつて坂本九の一家が川崎から戦時疎開して住んでいたそうです。



すぐ近くには「上を向いて歩こう」の歌碑も立っています。


さらにきつい山道を進んでいくと、



路上に落っこっている巨石、大黒石です。
伝承では、鎌倉時代に佐白山の僧兵が攻め込まれたとき、この石を転がして難を逃れたといいます。
しかし・・・

・・・・・・ぶ~~ん・・・・・・


立ち止まってたったの2秒、蚊の羽音が耳に入ってきたのです。
これから登るのは山城、そして私の手持ちの荷物に虫よけスプレーはありません。


大黒石から少し進み、千人溜駐車場に着きました。



落ち葉や枯れ枝がそのままになっていて、あまりきれいな駐車場ではありません。
もう少し清掃なり手入れをした方がいいんですけどね・・・。

それよりも、登山道の入口を阻んでいるバリケード!
これって、ここからは入れないということでしょうか・・・?
城攻め旅で私の行く手を幾たびも塞いできた天敵・「立入禁止」。
観光案内所の職員どもは、こんなところを勧めてきたのか?!

・・・いやいや、そんなはずはない。
よくよく見れば「車両進入禁止」とあるではないか。
「立入禁止」のバリケードは、車両進入禁止をさらに強調するために置かれているのだ、そうにちがいない。
だいいち、観光案内所の職員さんが、立入禁止の場所を案内するのはおかしいし、立入禁止の事実を把握していないのもおかしい。
ということは、車両は入っちゃいけないが、歩行者は入っても構わないということになるんじゃないか?

そう解釈して、強行突入。




ほどなく、大手門跡に到着。

・・・・・・ぶ~~ん・・・・・・


立ち止まって2秒も立たないうちに、耳に入ってくる不快な羽音。



大手門から続く道を阻むかのように造営されている石垣
大手門を突破した敵軍勢は、この石垣の出っ張りのために曲がって進むことを余儀なくされ、進軍の勢いを削がれてしまうという仕掛けです。

・・・・・・ぶ~~ん・・・・・・




笠間城は、関東では珍しく石垣をふんだんに用いた城郭であります。
笠間の地は、現在でも御影石の採石が行われているくらい、採石に適した地。
江戸城のように、他の地域から石を取り寄せることもなく、石垣を造成することができたのでしょう。

・・・・・・ぶ~~ん・・・・・・


もうガマンならん! ヤブ蚊の大群め!!




午 前 1 1 時 5 8 分

笠 間 稲 荷 神 社




せっかく笠間に来たので、笠間稲荷神社でお参りをすることにしました。



楼門をくぐり、



右側にある立派な藤棚は八重の藤【茨城県指定天然記念物】で、樹齢は400年なのだとか。



拝殿の裏に回り込んで、本殿【国指定重要文化財】。



この日は暑く、境内ではミンミンゼミが盛んに鳴いていました。



・・・・・・笠間城にはヤブ蚊がいなくなる冬に登るとしましょう。





笠間城・前章~天敵襲来?!

2018-09-15 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 前 9 時 2 0 分

茨 城 県 土 浦 市

J R 土 浦 駅



土浦城【茨城県指定史跡】を登城し、



JR土浦駅に戻ってきました。
時刻は午前9時を回ったばかり、順調な滑り出しと言っていいでしょう。


次に訪れる城は、同じ茨城県の笠間城



そこで今度の電車は、9時36分発 常磐線 普通電車 勝田行きです。
先発の電車は9時17分発の特急電車ですが、18きっぷでは特急に乗ることができません。

9時17分発の電車!?



おおぅ、横須賀線が遅延ですか・・・
そんなことではなくて、東海道線、宇都宮線、高崎線に加え、常磐線までもが遅延のオレンジ色に染まっているではありませんか!
そういえば土浦に到着する前、車内の電光掲示板にこのような情報が表示されていました。

【東海道線 運転見合わせ Tokaido Line operation stopped】東海道線は、7時39分に平塚駅で発生した人身事故の影響で、運転を見合わせています。

上野東京ラインにより常磐線が品川まで直通するようになったため、東海道線の人身事故が常磐線にまで及んできたのです。
18きっぷで旅する者にとって、運行トラブルは天敵そのもの。
これから笠間に向かうには、水戸の手前の友部駅水戸線に乗り換える必要がありますが、水戸線は常磐線ほど本数は多くありません。
友部駅での乗継時間は数分程度なので、ダイヤの乱れによって乗継ぎができなくなる恐れがあったのです。
そこでまずは土浦駅の駅員さんに確認。

『ダイヤが乱れていますが、友部駅で水戸線は接続を待ってくれますかねぇ?』
駅員「数分程度なら接続を待つとは思いますが、10分以上遅れている現状ではなんとも言えませんねぇ」

そこでひとつの決断を迫られます。



自腹を切って、先にやってくる特急に乗り、水戸線への乗継ぎを確実なものとするか。
あくまで18きっぷにこだわり、後からやってくる普通電車に乗り、水戸線が接続を待つことに賭けるか。




午 前 1 0 時 2 7 分

茨 城 県 笠 間 市

J R 友 部 駅




普通電車が友部駅の2番線に到着。
その隣りの3番線に、水戸線の電車がスタンバイしています!

・・・勝った。

土浦駅に23分遅れで到着した普通電車は、なんと遅れを取り戻していき友部駅には14分遅れで到着。
10時21分発 水戸線 普通電車 小山行きは接続を待ち、8分遅れで出発したのでした。


10時37分、



8分遅れとはなりましたが、予定外の出費をすることなく笠間駅に到着したのでした。



【今回の乗車記録】

JR東日本 土浦駅 1番線 9時59分発(遅れ23分)
常磐線 普通 勝田行き 10両
友部駅 2番線 10時27分着(遅れ14分)

友部駅 3番線 10時29分発(遅れ8分)
水戸線 普通 小山行き 5両
笠間駅 2番線 10時37分着(遅れ8分)

*所要時間 38分 (移動時間 36分 乗換時間 2分)
*移動距離 41.9km
*運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は、IC運賃756円)




午 前 1 0 時 4 0 分

J R 笠 間 駅


駅から出て右側にある観光案内所



笠間駅から笠間城の入口まではおよそ2kmほどありそうだったので、ここでレンタサイクルを借りることにしました。
自転車は、普通のママチャリ(1日300円)と電チャリ(1日500円)の2種類。
笠間城に行くことを伝えると、本丸最寄りの駐車場までは山道がキツイというので、今回は電チャリを借りることとしました。


観光案内所のあたりからまっすぐ伸びる道を進みます。
この道も少~しだけですが上り坂、電チャリが威力を発揮していきます。



かたわらに笠間稲荷神社の灯籠が立つ交差点で右折、門前通りに入ります。



笠間稲荷神社の大鳥居の前を素通り。



門前通りの突当りにある井筒屋
続100名城のスタンプはこの中でもらえるというので、こちらに立ち寄ることとしました。
それにしても、この日はとても暑かったです。



中に入ると・・・いや~、涼しい!
お話し好きと思われる係員のおじさまからスタンプを預かり、



112番、笠間城!

井筒屋は明治から続く老舗の旅館でしたが、東日本大震災の被害を受け、そのまま廃業に追い込まれてしまいました。
その後建物は改修がなされ、「かさま歴史交流館 井筒屋」として生まれ変わりました。
井筒屋の2階には、笠間の歴史についての資料が展示されています。


笠間城は、宇都宮氏の一族であった笠間時朝により、嘉禎元年(1235年)ごろ築城され、以降笠間氏が歴代の城主を務めていきます。
天正18年(1590年)豊臣秀吉小田原征伐で、主家の宇都宮氏は豊臣方についたのですが、笠間氏は主家に反して北条氏についたため、主家に攻められて没落しました。
その後は宇都宮氏の家臣が城主を務めましたが、宇都宮氏が領地を没収され、宇都宮城に蒲生秀行が入ると、その家臣・蒲生郷成が城主となりました。
郷成は笠間の城下町を整備し、笠間城の改修も行いました。
関ヶ原合戦の後は、松平康重が初代笠間藩主となりました。
元和8年(1622年)から正保2年(1645年)までは、浅野長重(豊臣五奉行のひとり・長政の三男)と長直の父子が笠間を治め、現在の町割に引き継がれる城下町が形成されました。
延享4年(1747年)に牧野氏が藩主となり、そのまま明治維新をむかえました。





江戸時代に書かれたとされる笠間城絵図



江戸時代当時の笠間城のジオラマ模型で、これから登る城の情報を頭に叩き込んでおきます。



笠間城の建築物は、市内の3ヶ所に移築されて現存しているようです。


笠間城のパンフレットはありません。
リーフレットが1枚、裏面には地図がありますが・・・おそらくは国土地理院発行の地形図をそのままコピーしたものらしく、わかりづらいです。

職員のおじさまに笠間城への道順を尋ねると・・・
「ここ(井筒屋)から出て右にすぐ丁字路があるので、ここを曲がってください」
うむうむ、観光案内所で聞いたとおりですな。
「そこから近くのところに公営の駐車場があって、そこから登山道があります」
なにぃ?! 観光案内所とおじさまとで意見が分かれているではありませんか!
どちらの案を採るか・・・それは後で考えることとしましょう。

おじさまのお話によると、笠間城の八幡台櫓が近くにあるようです。
まずはそこに向かうとしましょう。



井筒屋前の道をそのまま北へ約700メートル。



真浄寺というお寺。





境内の高台にあって、寺の本堂の役割を担っているのが、八幡台櫓(笠間城櫓)【茨城県指定文化財】です。
八幡台櫓は、笠間城本丸にあった3基の櫓のひとつです。
「旧笠間城櫓」として文化財登録されています。

数少ない笠間城の現存建物を拝見したら、再び井筒屋の方に戻ります。



井筒屋近くの丁字路を曲がり、いよいよ笠間城へと登っていきます。



丁字路に入って進むと、程なく大石邸址が見えてきます。
浅野長重・長直父子のころ、山上の本丸にあった御殿が城下町近くに移されました。
浅野家の家老を務めた大石氏の屋敷も、御殿の近くに造られました。
浅野氏の後に就いた藩主も、ここを家老の屋敷としたようです。

大石、浅野といえば、「忠臣蔵」でおなじみ赤穂の主従。
笠間の城下町を整備した浅野長直は、その後赤穂へと移封になります。



長直の孫・長矩(内匠頭)の刃傷沙汰がきっかけとなった赤穂事件
討入りを指揮した大石内蔵助良雄の銅像が立っています。
しかしながら内蔵助は万治2年(1659年)に生まれていますので、内蔵助本人と笠間の地との関係はありません。


笠間日動美術館に入る分かれ道に入り、きつい上り坂を進んでいくと・・・



公園があり、そこが城主下屋敷跡です。
ここから本丸への登山道があるらしいのですが・・・・・・続きは後編へ。





土浦城~亀の棲む城

2018-09-10 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )

午 前 7 時 0 5 分

千 葉 県 柏 市

J R 柏 駅



この日は、鬼ヅモ同好会の麻雀大会に参加すべく横浜へと出発します。
しかしどうせ交通費を使うなら・・・



青春18きっぷを買ってしまえ!
ということで、四国の旅以来じつに4年ぶりに18きっぷを購入したのです。

 ※2年前の「北日本完全制覇!?」では、18きっぷではなく北海道・東日本パスを購入しています。

そして18きっぷを買うというのなら、この日1日を城攻めに費やそうという考えにつながっていきます。



最初の電車は、7時07分発 常磐線 快速電車 取手行きです。
今回も、横浜とは逆方向に進路をとります。

取手駅は、柏駅からわずか3駅です。
今回も、1駅目の我孫子駅で下車。



おなじみ、弥生軒唐揚げそば
今回は唐揚げ1個のせ(400円)。
次の電車の発車時刻を考えてのことですが、1個だけでも十分なボリュームです。
ヘタな唐揚げ店のものよりも美味い唐揚げは、この日も健在です。
まるでうどんのような「そば」・・・ですが、私はこれでも満足。
城攻めの気力、体力を養い、



3分遅れてやってきた、7時27分発の常磐線 快速電車 勝田行きに乗り込みました。





定刻から3分遅れの8時00分、最初の目的地・土浦城【茨城県指定史跡】の最寄駅である土浦駅に到着しました。



【今回の乗車記録】

JR東日本 [JJ07]柏駅 4番線 7時09分発
[JJ]常磐線 快速 取手行き 15両
[JJ08]我孫子駅 1番線 7時14分着

[JJ08]我孫子駅 1番線 7時30分発(遅れ3分)
常磐線 快速 勝田行き 15両
土浦駅 1番線 8時00分着(遅れ3分)

*所要時間 51分 (移動時間 35分 食事時間 16分)
*移動距離 36.9km
*運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は、IC運賃669円)




午 前 8 時 0 3 分

茨 城 県 土 浦 市

J R 土 浦 駅 西 口


土浦駅に着いた私は、即座にバスプールに向かいました。
土浦駅から土浦城まで、歩いていくと15分ほどかかるというのですが、バスに乗るとで数分程度で着くというのです。
まだ朝であるとはいえ晴天の下を歩くのはつらい時季、ここはバスの力を借りたいところです。

バスプールの駅出口寄りに停まっていたバスに乗り込みます。
『このバスは土浦城には停まりますか?』という私の問いに対し、
「停まりませんよ」という運転手氏の非情なお返事。
不用意にもKitacaをタッチしてしまったので下車に手間取ってしまい、その間に土浦城を通ると思われるバスが発車していきました・・・。

こうして数分の時間ロスを経て、観念した私は土浦城へと歩き出したのでした。



約15分後、



土浦城址のある亀城きじょう公園に到着しました。


土浦城は室町時代後期、土浦周辺を支配していた豪族・小田氏に従っていた若泉氏によって築城されたとされています。
その後小田氏の部将・菅谷すげのや氏が城主となり、水戸の佐竹氏の攻勢を防ぎました。
戦国時代が終わると、結城の結城秀康徳川家康の二男)の支配下に入り、小田氏も秀康の家臣に組み込まれることとなります。
関ヶ原以降、結城秀康は越前福井へ移封となると、藤井松平氏、西尾氏、朽木くつき氏と城主が変わりますが、江戸時代中期に土屋氏が領主なり、明治維新まで続きました。
土屋氏のときに土浦藩は9万5千石となり、常陸国(茨城県)では水戸藩(35万石)に次ぐ所領となりました。
明治維新の廃藩置県で土浦城は多くを取り壊され、新治にいはりにおいて、土浦は県庁所在地となり、土浦城に県庁所在地が置かれました。
新治県が茨城県(利根川以南は千葉県)に編入された後は、新治郡の郡役所が置かれました。
昭和10年(1935年)に亀城公園が整備され、現在に至ります。




現在の亀城公園は、土浦城の本丸と、二の丸の一部から成り立っています。




それでは土浦城へ。
お濠を渡って、いきなり本丸に入ります。



亀城公園の表門ともいうべき霞門【土浦市指定文化財】。
土浦城の本丸にとってはこの門は裏門で、貞享元年(1684年)松平伸興が城主のときに建築されました。
門外で直角に曲がってこの門に至る外枡形の構造をなしています。



本丸に入りました。



本丸は周囲を土塁で囲まれています。
現在はだいぶ低くなってしまったようですが、それでも往時の構造を見て取ることができますね。



霞門のそばにそびえ立つ東櫓【復元】。
西尾氏が城主であった時期に、本丸を囲む土塁の上に建造されたといいます。
明治時代の火災で失われてしまいましたが、平成10年(1998年)に当時の工法をもって復元されました。

そして、続100名城スタンプはこの東櫓の中でもらえます。
しかし開場時刻は午前9時ということなので、それまでの間は城内を散策していきます。



本丸の北西にひっそりと鎮座まします土屋神社
土浦の地を治めた土屋家代々の当主をお祀りしているようですね。



本丸の西に建つ西櫓【復元】。
東櫓と同時期に建てられ、明治以降も存続していましたが、昭和24年(1949年)の「キティ台風」で被害を受けたため、のちの復元を期して解体されました。
平成3年(1991年)に復元されています。


本丸の南側・・・





本丸と二の丸の間にそびえ立つのは、櫓門【茨城県指定文化財】です。
往時は櫓内に太鼓を置いて、時を知らせていたので「太鼓櫓」とも呼ばれています。
本丸にある櫓門としては、関東地方で唯一現存しているものです。



二の丸からの櫓門。



櫓門の足元にひっそり立っている「土浦城址」の碑。



斜めから見た櫓門。




二の丸に出ました。
すっかり公園化していますね。



二の丸を取り囲んでいる盛り土・・・おそらくは土塁かと。



二の丸を隔てる水濠。
護岸のための石垣が施されていますが、もともとは土塁だけだったそうです。




ふたたび二の丸に戻って、別の出口へ。



二の丸を隔てる二之門跡
現在は旧前川口門【土浦市指定文化財】が移築されています。
江戸時代末期に建築されたもので、かつては武家屋敷があった多計郭たけくるわ町屋を仕切っていました。
その後役場や寺院の門として転々と移され、昭和56年(1981年)に二之門跡に移築、現在に至ります。

画像左下に私の指が映っておりますが、門のそばに停めてあった車のナンバーを隠すための処置です。



二の丸の東側。
土塁が残っているようですね。



本丸の方を見やると、水濠の向こうにそびえ立つ本丸土塀東櫓
青空、水濠、城郭の画は、いつ見ても素晴らしいものです。



二の丸の東には、聖徳太子を祀る聖徳太子堂があります。
土浦の聖徳太子堂は、昭和11年(1936年)に市内を流れる桜川の河畔に建てられましたが、河川工事のため昭和40年(1965年)に現在の地に移されたものだそうです。




太子堂のあたりから眺める本丸。いい天気です。
これより、本丸を取り囲む水濠を回っていきます。



本丸の北西側。水濠が幅広く横たわっています。
往時の土浦城は城域が霞ヶ浦にまで及び、その豊かな水に護られた姿を湖に棲む亀になぞらえて「亀城」と呼ばれるようになったそうです。



本丸の北西、土屋神社の鎮座するあたり。
いわれてみれば、水に浮かぶ巨大な亀のように・・・見えますか・・・?
ん???



おや、あなた様は土浦城の守り神様ですかな?



本丸の西側、西櫓が建っています。
水濠はこの先も続きますが、土浦市立博物館の敷地内に入ってしまうので、ここで水濠を渡り本丸に入ります。



足元では、守り神様とカープ軍団が揉み合っています。
こちらのカープ軍団は、性格が少々貪欲なように思えます。



時刻は午前9時を回りました。



東櫓の入口が開いています。
こちらは土浦市立博物館の分館になっていて、入館料は大人が105円
ここだけは消費税が5%のままなのか? とも思いましたが、ここだけでなく博物館本館と共通で105円となっています。

開場時刻になってすぐに入ったので、受入態勢が調っていなかったようです。
職員の翁が「お金は帰りでいいですよ」とおっしゃいましたが、私は先にお支払いしました。



スタンプは、東櫓に入ってすぐのところにあります。



113番、土浦城!
絵柄は・・・たぶん東櫓でしょうか???

東櫓では、土浦城の様子、土浦城を治めた領主の紹介などの資料が展示されています。



こちらは櫓門の太鼓【土浦市指定文化財】の資料。
櫓門で時報を務めた太鼓は現存していて、市内の八坂神社に奉納されているそうです。
太鼓櫓と太鼓が揃って現存している例は全国的にみても希少なのだそうです。



こちらがその太鼓のレプリカ。
本物の太鼓は明和7年(1770年)に製作されたものなので、このような姿はしていません。



最上階からの眺め。
東櫓自体がそれほど高いものではないので遠くまで見渡すことはできませんが、外からの涼風は感じられました。



9時10分前に亀城公園を発ち、



帰りはバスでJR土浦駅に戻ってきました。