2 0 1 8 年 8 月 1 5 日 ( 水 )
午 前 7 時 0 5 分
千 葉 県 柏 市
J R 柏 駅
この日は、
鬼ヅモ同好会の麻雀大会に参加すべく横浜へと出発します。
しかしどうせ交通費を使うなら・・・
青春18きっぷを買ってしまえ!
ということで、四国の旅以来じつに4年ぶりに18きっぷを購入したのです。
※2年前の「北日本完全制覇!?」では、18きっぷではなく
北海道・東日本パスを購入しています。
そして18きっぷを買うというのなら、この日1日を城攻めに費やそうという考えにつながっていきます。
最初の電車は、7時07分発
常磐線 快速電車 取手行きです。
今回も、横浜とは逆方向に進路をとります。
取手駅は、柏駅からわずか3駅です。
今回も、1駅目の
我孫子駅で下車。
おなじみ、
弥生軒の
唐揚げそば。
今回は唐揚げ1個のせ(400円)。
次の電車の発車時刻を考えてのことですが、1個だけでも十分なボリュームです。
ヘタな唐揚げ店のものよりも美味い唐揚げは、この日も健在です。
まるでうどんのような「そば」・・・ですが、私はこれでも満足。
城攻めの気力、体力を養い、
3分遅れてやってきた、7時27分発の
常磐線 快速電車 勝田行きに乗り込みました。
定刻から3分遅れの8時00分、最初の目的地・
土浦城【茨城県指定史跡】の最寄駅である
土浦駅に到着しました。
【今回の乗車記録】
JR東日本 [JJ07]柏駅 4番線 7時09分発
[JJ]常磐線 快速 取手行き 15両
[JJ08]我孫子駅 1番線 7時14分着
[JJ08]我孫子駅 1番線 7時30分発
(遅れ3分)
■常磐線 快速 勝田行き 15両
土浦駅 1番線 8時00分着
(遅れ3分)
*所要時間 51分 (移動時間 35分 食事時間 16分)
*移動距離 36.9km
*運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は、IC運賃669円)
午 前 8 時 0 3 分
茨 城 県 土 浦 市
J R 土 浦 駅 西 口
土浦駅に着いた私は、即座にバスプールに向かいました。
土浦駅から土浦城まで、歩いていくと15分ほどかかるというのですが、バスに乗るとで数分程度で着くというのです。
まだ朝であるとはいえ晴天の下を歩くのはつらい時季、ここはバスの力を借りたいところです。
バスプールの駅出口寄りに停まっていたバスに乗り込みます。
『このバスは土浦城には停まりますか?』という私の問いに対し、
「停まりませんよ」という運転手氏の非情なお返事。
不用意にもKitacaをタッチしてしまったので下車に手間取ってしまい、その間に
土浦城を通ると思われるバスが発車していきました・・・。
こうして数分の時間ロスを経て、観念した私は土浦城へと歩き出したのでした。
約15分後、
土浦城址のある
亀城公園に到着しました。
土浦城は室町時代後期、土浦周辺を支配していた豪族・小田氏に従っていた若泉氏によって築城されたとされています。
その後小田氏の部将・菅谷氏が城主となり、水戸の佐竹氏の攻勢を防ぎました。
戦国時代が終わると、結城の結城秀康(徳川家康の二男)の支配下に入り、小田氏も秀康の家臣に組み込まれることとなります。
関ヶ原以降、結城秀康は越前福井へ移封となると、藤井松平氏、西尾氏、朽木氏と城主が変わりますが、江戸時代中期に土屋氏が領主なり、明治維新まで続きました。
土屋氏のときに土浦藩は9万5千石となり、常陸国(茨城県)では水戸藩(35万石)に次ぐ所領となりました。
明治維新の廃藩置県で土浦城は多くを取り壊され、新治県において、土浦は県庁所在地となり、土浦城に県庁所在地が置かれました。
新治県が茨城県(利根川以南は千葉県)に編入された後は、新治郡の郡役所が置かれました。
昭和10年(1935年)に亀城公園が整備され、現在に至ります。
現在の亀城公園は、土浦城の
本丸と、
二の丸の一部から成り立っています。
それでは土浦城へ。
お濠を渡って、いきなり本丸に入ります。
亀城公園の表門ともいうべき
霞門【土浦市指定文化財】。
土浦城の本丸にとってはこの門は裏門で、貞享元年(1684年)
松平伸興が城主のときに建築されました。
門外で直角に曲がってこの門に至る
外枡形の構造をなしています。
本丸に入りました。
本丸は周囲を
土塁で囲まれています。
現在はだいぶ低くなってしまったようですが、それでも往時の構造を見て取ることができますね。
霞門のそばにそびえ立つ
東櫓【復元】。
西尾氏が城主であった時期に、本丸を囲む土塁の上に建造されたといいます。
明治時代の火災で失われてしまいましたが、平成10年(1998年)に当時の工法をもって復元されました。
そして、続100名城スタンプはこの東櫓の中でもらえます。
しかし開場時刻は午前9時ということなので、それまでの間は城内を散策していきます。
本丸の北西にひっそりと鎮座まします
土屋神社。
土浦の地を治めた土屋家代々の当主をお祀りしているようですね。
本丸の西に建つ
西櫓【復元】。
東櫓と同時期に建てられ、明治以降も存続していましたが、昭和24年(1949年)の
「キティ台風」で被害を受けたため、のちの復元を期して解体されました。
平成3年(1991年)に復元されています。
本丸の南側・・・
本丸と二の丸の間にそびえ立つのは、
櫓門【茨城県指定文化財】です。
往時は櫓内に太鼓を置いて、時を知らせていたので
「太鼓櫓」とも呼ばれています。
本丸にある櫓門としては、関東地方で唯一現存しているものです。
二の丸からの櫓門。
櫓門の足元にひっそり立っている「土浦城址」の碑。
斜めから見た櫓門。
二の丸に出ました。
すっかり公園化していますね。
二の丸を取り囲んでいる盛り土・・・おそらくは土塁かと。
二の丸を隔てる水濠。
護岸のための石垣が施されていますが、もともとは土塁だけだったそうです。
ふたたび二の丸に戻って、別の出口へ。
二の丸を隔てる
二之門跡。
現在は
旧前川口門【土浦市指定文化財】が移築されています。
江戸時代末期に建築されたもので、かつては武家屋敷があった
多計郭と
町屋を仕切っていました。
その後役場や寺院の門として転々と移され、昭和56年(1981年)に二之門跡に移築、現在に至ります。
画像左下に私の指が映っておりますが、門のそばに停めてあった車のナンバーを隠すための処置です。
二の丸の東側。
土塁が残っているようですね。
本丸の方を見やると、水濠の向こうにそびえ立つ
本丸土塀と
東櫓。
青空、水濠、城郭の画は、いつ見ても素晴らしいものです。
二の丸の東には、
聖徳太子を祀る
聖徳太子堂があります。
土浦の聖徳太子堂は、昭和11年(1936年)に市内を流れる
桜川の河畔に建てられましたが、河川工事のため昭和40年(1965年)に現在の地に移されたものだそうです。
太子堂のあたりから眺める本丸。いい天気です。
これより、本丸を取り囲む水濠を回っていきます。
本丸の北西側。水濠が幅広く横たわっています。
往時の土浦城は城域が
霞ヶ浦にまで及び、その豊かな水に護られた姿を湖に棲む亀になぞらえて
「亀城」と呼ばれるようになったそうです。
本丸の北西、
土屋神社の鎮座するあたり。
いわれてみれば、水に浮かぶ巨大な亀のように・・・見えますか・・・?
ん???
おや、あなた様は土浦城の守り神様ですかな?
本丸の西側、
西櫓が建っています。
水濠はこの先も続きますが、
土浦市立博物館の敷地内に入ってしまうので、ここで水濠を渡り本丸に入ります。
足元では、守り神様とカープ軍団が揉み合っています。
こちらのカープ軍団は、性格が少々貪欲なように思えます。
時刻は午前9時を回りました。
東櫓の入口が開いています。
こちらは土浦市立博物館の分館になっていて、入館料は大人が
105円。
ここだけは消費税が5%のままなのか? とも思いましたが、ここだけでなく博物館本館と共通で105円となっています。
開場時刻になってすぐに入ったので、受入態勢が調っていなかったようです。
職員の翁が「お金は帰りでいいですよ」とおっしゃいましたが、私は先にお支払いしました。
スタンプは、東櫓に入ってすぐのところにあります。
113番、土浦城!
絵柄は・・・たぶん
東櫓でしょうか???
東櫓では、土浦城の様子、土浦城を治めた領主の紹介などの資料が展示されています。
こちらは
櫓門の太鼓【土浦市指定文化財】の資料。
櫓門で時報を務めた太鼓は現存していて、市内の
八坂神社に奉納されているそうです。
太鼓櫓と太鼓が揃って現存している例は全国的にみても希少なのだそうです。
こちらがその太鼓のレプリカ。
本物の太鼓は明和7年(1770年)に製作されたものなので、このような姿はしていません。
最上階からの眺め。
東櫓自体がそれほど高いものではないので遠くまで見渡すことはできませんが、外からの涼風は感じられました。
9時10分前に亀城公園を発ち、
帰りはバスで
JR土浦駅に戻ってきました。