鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

中央線完全走破・後編~夕刻の木曽路

2021-04-09 | 鉄道の旅


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 1 0 日 ( 山 の 日 )

午 後 3 時 1 4 分

岐 阜 県 中 津 川 市

苗 木 城 か ら の 帰 路



苗木城【国指定史跡】からの帰路、苗木遠山史料館のほど近くに、



「消火栓記念碑」という石碑が立っていました。
あまりにもどストレートな篆額ですが、なぜこのような石碑が立てられたのでしょうか?
このあたりは水の便が悪く、たびたび火災に見舞われていたため、住民が熱望していた消火栓だったからなのか・・・
その経緯はまったくわからないまま、歩き出しました。




ひたすら苗木城を目指した往路では、見向きもしなかった立派なお屋敷。
明治末期に建築された旧苗木遠山家住宅です。

苗木遠山家の当主は、明治維新により華族に列せられて東京に住んでいたのですが、明治22年(1889年)に故郷の苗木に戻ったそうです。
その後明治45年(1912年)に建築されたこの住宅に移り住んだようです。




15時35分、苗木バス停に戻ってきました。

バス停のそばにある食堂で、岐阜県の郷土食・五平餅を作っているようでしたが・・・
開店しているのかわからなかったので、そのままバスを待ちました。




15時51分、中津川駅行きのバスがやってきました。




バスは苗木を離れ、木曽川にかかる玉蔵橋を渡り、中津川市街へ。




16時03分、JR中津川駅に到着しました。



【今回のバス乗車記録】

苗木バス停 15時51分発
北恵那交通 (T)付知峡線 中津川駅前行き
中津川駅前バスプール 16時03分着

*所要時間 12分
*運賃 400円




午 後 4 時 0 4 分

J R 中 津 川 駅




帰りの電車の発車時刻までは1時間あったので、中津川の駅前をぶらり。



駅から徒歩3分ほどの近場にある「サクサクとんかつ 三遊司」さん。
帰りの道中では食事をとる時間がないので、早めの時間帯ですが、ここでいただくこととしました。
平成の御代によね先生が召し上がったとんかつを、令和の御代に私がいただこうではありませんか。

オーダーしたのはもちろんとんかつ定食(850円)。
ごはんのおかわり自由で、お値段もお手頃となっていますね。
オーダーから12分で、御膳がやってきました。



サクサクとんかつ、うまい!
屋号のとおり衣はサクサクです。
よね先生の後追いに、間違いはありませんね。



「三遊司」で休憩中に「城攻め」して、長谷川等伯さんを発見できました。
等伯さんはランダムで発見できる「異能の者」となっていて、このとき偶然苗木城にいたようです。



この機を逃さず登用しました。
等伯さんは狩野永徳らと並ぶ戦国時代を代表する画人で、代表作の「松林図屏風」は国宝に指定されています。
また肖像画では「武田信玄像」が有名なのですが・・・どうもその画のモデルは信玄ではないそうです。


涼しい「三遊司」さんの中でゆっくりさせてもらい、



JR中津川駅に戻りました。



帰りはひたすら中央本線を進んでいきます。
中津川から乗る最初の電車、名古屋からだと2本目の電車は、



16時49分発 特急しなの19号 長野行き・・・ではなく、



17時ちょうど発 普通電車 松本行きです。
座席のクラスは特急には劣るものの、今回も転換クロスシートなのでゆっくりと車窓を眺めることができます。
ここでもよね先生の旅行記を参考にして、進行方向左側の座席を確保しました。




午 後 5 時 0 0 分

J R 中 津 川 駅 を 発 車


発車してから3分後、



落合ダムのダム湖とともに、木曽川が見えてきます。
中央本線の西側・通称「中央西線」は、この木曽川に沿って進んでいきます。
木曽川の流れが造り出した景色を存分に味わいながら、東京へと向かいます。




中津川から2駅の坂下駅到着前。
このとき、木曽川は進行方向右側から見ることができます。
木曽川さんはたま~に右側に移ることもありますが、行程のほとんどは左側から見えます。
この画の川は、上から読んでも下から読んでも川上川というそうです。




坂下駅からさらに2駅の南木曽(なぎそ)
進行方向右側から木曽川が見えるのは、ここまで。
この先木曽川とお別れするまでは、ず~っと左側から見ることができます。
木曽の山々がぐっと迫ってきた感じがしますが、南木曽はいわば木曽谷の入口。
木曽路の絶景は、これからが本番といったところです。



はじめての中央西線、ここでも抜かりなく「城攻め」をしていきます。
南木曽駅では妻籠(つまご)【長野県指定史跡】を攻略。
「妻籠」というと中山道六十九次のひとつ・妻籠宿が有名ですが、江戸時代以前には妻籠にも城があったんですね。


南木曽駅を通過し、



木曽川とともに東京へ。
まぁ、途中でお別れするんですが。





木曽川によってできたV字谷も見事です。




沿線にある貯木場、おそらくヒノキの材木が置かれているのでしょうか。
木曽のヒノキ林は日本三大美林に挙げられています。
近年ヒノキの花粉症に罹ってしまった私にとっては、木曽路を進んだ季節が春ではなくてよかったです。




南木曽駅から3駅の大桑駅を過ぎたあたり。
左岸に見えるのは須原発電所です。
長野県に電気を供給する電力会社は中部電力なのですが、この須原発電所をはじめ木曽川にある水力発電所は関西電力が運営しています。

そんなことよりも、木曽谷の相変わらずの迫力です。






大桑駅の次の須原駅倉本駅付近。
飽きることのない、木曽川の車窓です。


倉本駅の次の駅、上松(あげまつ)到着前、木曽路の車窓はハイライトを迎えます。







木曽川随一の渓谷・寝覚の床【国指定名勝】です。
ああ、うまくカメラに収めることができなかった・・・。
特急列車では、近くを通過する際に車掌がアナウンスしたり、列車の速度を落として運転することもあるようですが、私が乗ったのは普通電車。
国指定名勝であっても、容赦なく進んでいきました。


18時05分、木曽谷の中心駅・木曽福島駅に到達。



ここでは木曽福島城を攻略。
木曽福島城は戦国大名木曽氏の本拠地ともいえる城だったので、



木曽義在(よしあり)・義康・義昌の木曽家三代と、その家臣・山村良勝を発見できました。

木曽義在は木曽谷の支配権を確立し、義康はこれを発展させますが、東から勢力を拡大させる武田信玄に帰順します。
その子・義昌は信玄の娘・真理姫を正室に迎えますが、信玄が没して勝頼の代になると織田信長に寝返り、勢力を保ちます。
信長薨去後は徳川家康につき、小牧長久手の戦い直前に羽柴秀吉に鞍替えするも、家康が秀吉に帰順すると、義昌は家康の下につけられてしまい、家康の関東移封とともに義昌も木曽谷から下総国阿知戸(千葉県旭市網戸)に移ることになってしまいました。
義昌の子・義利(よしとし)は行状不良のため領地をボッシュートされてしまい、家臣の山村らは徳川家康の家臣となりました。
関ヶ原の戦いで山村良勝らの木曽旧臣は、旧領の木曽谷から東美濃方面の攻略に功績を挙げ、戦後に木曽谷の所領を与えられて旧領に復帰することができました。




木曽福島駅から3駅の藪原駅を過ぎたら、木曽川とはお別れです。



木曽川と別れた後は、目をつむってリラックスタイム・・・・・・



目を覚ましてふと車窓を見ると、夕陽の朱に染まった紫雲が広がっていました。



あまりに見事な朱色だったので、しばし空を眺めていました。



後日談ですが、このとき柏にいた女王様も、見事に朱に染まった雲を眺めていたようです。
直線距離にして250キロ離れていたのですが、空と太陽は等しく美しいものなんですね。



18時50分、



塩尻駅に到着。
電車はこの先の松本駅まで行きますが、私はここで下車。




午 後 6 時 5 1 分

長 野 県 塩 尻 市

J R 塩 尻 駅


ここからはサクサク進みます。



今度の電車は、18時59分発 中央東線 普通電車 大月行き
この塩尻駅では中央線の運行系統が東西で分離するため、「中央東線」「中央西線」という表記がなされています。




21時26分、大月駅に到着。
中央線・ラストの電車は、21時31分発 中央特快 東京行きです。
「中央特快」という響き・・・関東に戻ってきた感が湧きたちますが、大月はまだ山梨県なんですよね。



23時12分、



東京駅に到着、すなわち中央線完全走破、達成!

「都内は通らねぇ」とか云いながら、東京のど真ん中に来てしまいました。
でも混雑はしていない夜の時間帯ですから、防疫の観点からは問題ないはずです、うん。





23時18分発 京浜東北線 各駅停車 大宮行きで、北上。




日暮里駅で下車し、23時32分発 常磐線 快速電車 取手行きにお乗り換え。
日暮里駅の京浜東北線&山手線ホームと、常磐線ホームとは少し離れているので、2分乗換はちょっとした冒険でもありますが、難なく乗換成功。



23時57分、



柏駅に戻ってまいりました。





中央線完全走破。
名古屋から塩尻までの西側部分は初めて乗車し、美しい車窓を味わうことができ、大満足。
そして1日で中央線を乗り通したという、わたしだけの達成感に浸っていたのですが・・・・・・

辰野支線は?

・・・・・・中央線ほぼ完全走破を成し遂げ、本拠へと帰っていきました。



【今回の鉄道乗車記録】

JR東海 [CF19]中津川駅 2番線 17時00分発
[CF]中央本線(中央西線) 普通 篠ノ井線直通 松本行き 2両
JR東日本 塩尻駅 6番線 18時50分着

塩尻駅 1番線 18時59分発
中央本線(中央東線) 普通 大月行き 3両
[JC32]大月駅 4番線 21時26分着

[JC32]大月駅 3番線 21時31分発
[JC]中央線 中央特快 東京行き 10両
[JC01] TYO 東京駅 2番線 23時12分着

[JK26] TYO 東京駅 3番線 23時18分発
[JK]京浜東北線 各駅停車 大宮行き 10両
[JK32] NPR 日暮里駅 12番線 23時30分着

[JJ02] NPR 日暮里駅 4番線 23時32分発
[JJ]常磐線 快速 取手行き 15両
[JJ07]柏駅 4番線 23時57分着

*所要時間 6時間57分 (移動時間 6時間35分 乗換時間 22分)
*移動距離 347.1km
*運賃 青春18きっぷ使用(使用しない場合、6,050円)



【今回の「城攻め」成果】

[CF]中央線

16時27分 [CF19]中津川駅前「サクサクとんかつ 三遊司」店内  放浪異能の者・長谷川等伯を登用。
(17時00分 [CF19]中津川駅発車)
17時18分 [CF23]南木曽駅   妻籠城【長野県指定史跡】を攻略。
18時05分 [CF30]木曽福島駅  木曽福島城を攻略。
            木曽義在・木曽義康・木曽義昌・山村良勝を登用。
(18時50分 塩尻駅到着)





ハイソフト「日本の美しい橋」第14橋

2021-04-09 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 3 月 2 9 日 ( 月 )

午 後 3 時 1 0 分

職 場 に て



3月第5週・月曜日のおやつタイム。
「令和2年度」はあと2日でおしまいです。



今週もハイソフト5箱を購入したので、連日同僚の皆様にお見舞いしていきますよぉ。


本日の「美しい日本の橋」カードは・・・



ここは「橋」というより、「駅」の方が有名ですね。



10番、大井川鐡道・奥大井レインボーブリッジ!




奥大井レインボーブリッジは、大井川上流の長島ダムのダム湖である接岨(せっそ)に架かる、静岡県榛原(はいばら)郡川根本町にある大井川鐡道井川線(南アルプスあぷとライン)の2本の鉄橋の総称です。
写真の右側が下流側の橋で、その長さは283メートル。
上流側の橋は、その長さは191メートルで、双方ともに幅は5.45メートルあります。
ふたつの橋の間、接岨湖に突き出た半島状の陸地に奥大井湖上駅があります。

大井川は険阻な山岳地帯を流れているので、早くから水力発電用のダムが建設されていましたが、洪水の防止を目的とするダムはありませんでした。
そこで昭和47年(1972年)にダム建設計画が立ち上がり、2年後にダム建設事業が正式に発足、昭和52年(1977年)に建設が始まりました。
このダム建設により大井川鐡道井川線が水没することとなり、その存続も危ぶまれましたが、昭和61年(1986年)に路線の付替工事が始められます。
平成2年(1990年)に新しい井川線が運行を開始し、奥大井湖上駅も同時に開業しました。
工事はその後も続き、平成14年(2002年)長島ダムが竣工しました。





計画から竣工まで30年の難工事を経た末の、この絶景。
自然の造形美だけでなく、人間の創造力の雄大さをも感じることができますね。

さてこのレインボーブリッジですが、カードの裏に「鉄道橋・歩道橋」とあるとおり、線路の脇に歩道が据えられています。
そもそもこの周辺の人々(いらっしゃるのでしょうか???)が奥大井湖上駅にアクセスする手段は、レインボーブリッジの歩道のみ。
奥大井湖上駅で降りた観光客も、この歩道を使わなければどこにも行けません。
そして写真左方向に進むと駐車場があり、そこから階段を上るとこの画が撮影できる展望台があるそうです。


大井川鐡道レインボーブリッジへのアクセス。
鉄道を主な旅の移動手段とする私にとっては、なかなかにハードなものになりそうです。

大井川鐡道の起点で、JR東海道線からの乗換駅となっている金谷駅
ここから大井川本線の終点・千頭(せんず)までは、普通列車が1日9本。
休日や行楽シーズンには、これに加えて急行列車が1日1本運行されるようです。
千頭駅からは、日本唯一のアプト式鉄道である井川線(南アルプスあぷとライン)にお乗り換え。
井川線の運行本数がかなり少なく、1日4本しかありません。
休日や行楽シーズンは、さらに1本多く運行されるようです。

列車は山岳地帯を進むのでスピードもそれほど出すことはできず、約50kmの行程に2時間半ほどかかります。
ただ車窓は抜群に素晴らしいものでしょうから、乗車時間の長さはあまり苦にはならないでしょうね。



それにしても、森永さんは大井川から2枚採用してきましたか。
意外でした。





ハイソフト「日本の美しい橋」第13橋

2021-04-09 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 3 月 2 6 日 ( 金 )

午 後 3 時 0 6 分

職 場 に て



3月第3週・金曜日のおやつタイム。



この週は5日連続で、同僚の皆様におすそ分けしていきます。


本日の「美しい日本の橋」カードは・・・



「日本三名橋」ですね、このメガネのような姿の橋は。



14番、眼鏡橋!




眼鏡橋【国指定重要文化財】は、長崎市内を流れる中島川にかかる石造りのアーチ橋です。
長さは22メートル、幅は3.65メートルあり、日本三名橋のひとつとされています。
琉球王国時代に架けられた天女橋【国指定重要文化財】を除くと、日本で最初の石造りアーチ橋です。

寛永11年(1634年)中国から来日した高僧・黙子如定(もくすにょじょう)の指導のもと、彼が招聘した中国の石工らの力により架橋されたといいます。
慶安元年(1648年)の洪水で損壊するも、その修復後は流失することなく、度重なる水害に耐えてきました。
昭和57年(1982年)の長崎大水害では大きく損壊したものの、流失は免れました。
その後の修復を経て、現在に至っています。

なお「眼鏡橋」という名称は通称ではなく正式名称で、文化財としての名称も「眼鏡橋」です。
また眼鏡橋はこの長崎市のもののほか、隣の諫早市にも存在します。



「眼鏡橋」というと、



皇居にあるこちらの橋を連想してしまいがち。
実際に若かりし頃の私は、この橋が「眼鏡橋」だと思っていました。
この橋は皇居正門石橋で、「眼鏡橋」と呼ばれることもあるようですね。
そうそう、こちらは「二重橋」ではありませんよ~。



ところで、女王様「あんたと旅行はしたくない!」との仰せ。
私は移動手段に鉄道を多用しますが、女王様は喫煙者なので、長時間の乗車は耐えられないらしいのです。
さらに私はビジネスホテルを宿泊地に指定しますが、女王様は旅館でゆっくりしたいタイプ。
両者の「旅行観」がことごとく対立しているのです。

異国情緒あふれる街を、漢一匹が闊歩・・・まったく画になりませんが、仕方がありませんね。





ハイソフト「日本の美しい橋」第12橋

2021-04-09 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 3 月 2 3 日 ( 火 )

午 後 3 時 0 3 分

職 場 に て



3月第3週・第2日目のおやつタイム。



この週は森永ハイソフトを5日分購入していたので、連日ながら、同僚の皆様におすそ分けしていきます。


本日の「美しい日本の橋」カードは・・・



「美しい橋」「名橋」を挙げるなら、この橋を欠くことはできませんね。



15番、錦帯橋!




錦帯橋は、錦川にかかる山口県岩国市の歩行者専用橋です。
長さは193.3メートル、幅は5メートルあり、日本三名橋日本三奇橋のひとつとされています。

関ヶ原の戦い後の領地替えで、吉川広家は伯耆国(鳥取県)米子から周防国(山口県)岩国へと移ることとなり、この地で岩国城を築きました。
当時はまだ世情が不穏であったこともあり、岩国城は横山の山上に、城下町とは錦川によって隔てられた場所に建てられました。
元和元年(1615年)に江戸幕府の一国一城令が発布され、岩国城は廃城となるのですが、横山のふもとに陣屋が建てられました。
岩国陣屋と城下町をつなぐ橋は架けられていましたが、錦川の洪水とともに幾度となく流失していました。

3代領主の吉川広嘉は、中国の名勝・西湖が島づたいに6つのアーチ橋が架かっていることから着想を得て、錦帯橋の建設に着手しました。
延宝元年(1673年)6月8日に工事は始まり、その間広嘉は近くに住居を構え、自ら工事の監督を行ったといいます。
同じ年の10月、錦帯橋は完成します。
翌年の洪水で橋脚が壊れ、橋も落ちてしまったため、橋脚を石垣で強化したうえで再建しました。
橋脚の改良により、錦帯橋は昭和時代まで276年間、定期的な架け替え工事はあったものの、洪水などで流失することはなかったのです。

昭和25年(1950年)9月14日、キジア台風により橋脚が崩壊し、錦帯橋はほぼ流失してしまいます。
再建に際しては、コンクリート製による案もありましたが、市民の求めにより木製での再建となりました。



名橋中の名橋ともいうべき錦帯橋。
日本100名城登城をライフワークとしている私にとって、この橋は必ず訪れなければならない場所です。
解説で述べたとおり、100名城となっている岩国城へと続く橋だからです。

錦帯橋の最寄駅は、JR岩徳(がんとく)線・錦川鉄道錦川清流線川西駅です。
岩国市の中心駅である岩国駅や、新幹線の停まる新岩国駅からだと5kmほど離れています。
岩国駅から川西駅までは、岩徳線に乗車して2駅、運行頻度はおおむね1時間に1本ほどです。
新岩国駅から川西駅に向かうとすると、錦川鉄道で1駅ですが、こちらは1~2時間に1本と運行本数が少ないことに注意が必要です。


今度の旅は、広島、山口方面もよさそうですなぁ~。





ハイソフト「日本の美しい橋」第11橋

2021-04-09 | 日記


令 和 3 年 ( 2 0 2 1 年 ) 3 月 2 2 日 ( 月 )

午 後 3 時 0 9 分

職 場 に て



3月第3週最初のおやつタイム。
第2週はハイソフトを買いそびれたので、1週間ぶりの森永ハイソフトです。



いつもながら、同僚の皆様におすそ分け。


本日の「美しい日本の橋」カードは・・・



これは・・・鉄橋か何かか???
う~ん、わからないから裏を見ると・・・



11番、南禅寺水路閣!




南禅寺水路閣は、禅宗の最高寺院・南禅寺の境内を通る琵琶湖疏水【京都府指定史跡】の一部を構成しています。
水路閣の長さは93.2メートル、幅は4メートルあります。

幕末の禁門の変による戦災と、明治維新後の東京奠都(てんと)により衰退していた京都。
3代目京都府知事・北垣国道は、復興策として琵琶湖から水を引く琵琶湖疏水の建設を計画しました。
そして工部大学校(現在の東京大学工学部)を卒業したばかりの田邉朔郎を主任技師に任じ、明治18年(1885年)に工事が始まりました。
南禅寺水路閣は明治21年(1888年)に建設され、琵琶湖疏水は明治23年(1890年)に完成しました。
明治時代に入ってから、大規模な土木工事は外国人技師が設計監督をしていましたが、琵琶湖疏水は日本人が設計監督した初めての大型土木工事でした。



このカードを同僚の淑女さまにお見せしたところ、「ここはサスペンスドラマの撮影場所」と教えてくださいました。



水路閣は橋脚がアーチ構造になっているだけでなく、橋脚の内側にもアーチ構造が施されています。
その内側のアーチを覗き込むと、あたかも万華鏡を覗き込んでいるかのような画が見られます。
その画が、サスペンスドラマのワンシーンによく採用されているのだそうです。
このカードからはわかりにくいのですが。


私はかつて、修学旅行で南禅寺を訪れたことがあります。

絶景かな 絶景かな
春の宵は値千両とは 小せぇ 小せぇ
この五右衛門が眼から見れば 値万両 万々両
日 もはや西に傾きて
雲と棚引く 桜花
あかね輝く この風情
ハテ うららかな眺めだナァ


歌舞伎の楼門(さんもん)五三桐」の名科白で有名な、南禅寺の三門【国指定重要文化財】。
春うららかな千年の都の絶景を、私も眺めてきました。
しかしこの水路閣は完全にスルーしていました。
当時高校生だった私はそれほど寺社仏閣に興味はなく、また知見もそれほど深くはなかったので、境内の隅の方にある水路閣を見逃していたのでしょう。



季節は春・・・そうだ、京都へ行こう。
京都へ、行きたいなぁ。