鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

参拝!カピバラ神社

2024-01-21 | 神社


令 和 5 年 ( 2 0 2 3 年 ) 1 月 3 日 ( 日 )

午 前 8 時 4 7 分

千 葉 県 柏 市

柏 諏 訪 神 社



とある休日、何気なく「カピバラ神社」という検索ワードをググってみました。
すると、グーグルさんは2つの神社を提示してきました。

ひとつは、文字通りカピバラ神社
こちらは、長野県須坂市にある須坂市動物園の中にあるようです。
サイトを見てみると、どうも動物園のいちアトラクションみたいな感じ。

そしてもうひとつが、



わが本拠地・柏に鎮座する柏諏訪神社
「カピバラ神社」がこんなにも至近な場所にあったとは!
この事実を女王様が見逃すはずはありません。





普段は寺院仏閣の類などには足を運ばない女王様も、今回ばかりは足取り軽く境内へ。



キイロが整列する手水鉢。



女王様とそのご家族をお護りください・・・。
女王様のカピバラ熱が、少しでも冷めますように・・・。


柏諏訪神社(正しくは単に「諏訪神社」)のはじまりは定かではないそうです。
鎌倉時代に関東や東北ではひろく諏訪神社が奉拝されていたので、柏諏訪神社の起源もそのあたりなのかもしれません。

時代は流れ、江戸幕府が開かれ、御三家のひとつが水戸に置かれると、江戸と水戸を結ぶ水戸街道が整備されました。
あたりに散らばって暮らしていた柏の人々は、水戸街道に集まって生活するようになり、街道の一里塚があった場所にて神社が創建されたといいます。

祭神は建御名方神(タケミナカタノカミ)です。



ところで、なんで「カピバラ神社」なのかというと・・・

ネズミをご祭神としているわけでもなく、ご神体となっているわけでもありません。
カピバラがデザインされたお守りや御朱印が製作されているので、“その筋”の人からは「カピバラ神社」と呼ばれるのだそうです。
カピバラをはじめとする動物たちのお守りなどが製作されたきっかけは、動物好きな宮司さんの趣味なんだとか。



わが女王様も初穂料を奉納し、絵馬と「なごみ御守」をいただきました。



令和5年も、よい1年になりますように。





素晴らしき縁結び

2023-12-26 | 神社


令 和 5 年 ( 2 0 2 3 年 ) 3 月 1 9 日 ( 大 安 )

午 後 1 時 0 9 分

千 葉 県 柏 市

廣 幡 八 幡 宮



「縁結び祈願のたび」から3年半がたちました。



この日は大安吉日、そして快晴。
地元の神社・廣幡八幡宮にお参りへ。



私の傍らには、カピバラの大好きな女王様
3年半たっても変わらぬ仲・・・と申し上げておきましょうか。

出雲の神々の御利益が、しっかりと顕れているかのようです。



 

拝殿の前にて天を指す御神木
それにしても、空が青青としていて気持ちいいですなぁ。





拝殿へ。

「私のことはどうでもいいので、女王様をお護りください・・・」

そして今回は、さらなるお願いを。



「この子が立派に育つよう、お護りください・・・」



令和4年の七夕の日。
出雲の神々は、第3王子お嫁ちゃんを導き、縁結びをされました。

そして令和5年のバレンタインデー。
第3王子お嫁ちゃん改メお妃さまとのあいだに、玉のような赤子が生まれました。
七夕に結ばれた縁は、より強固なものとなったのです。



そこなる読者様、余計な計算はしないように。



いや~、かわいいんですよぉ。
顔も真ん丸で、ほっぺも柔らかくって、それでいて両目はパッチリと開いているんです。
表情も豊かで、よく笑う。
そしてその笑顔たるや、何物にも代えがたい貴さすら感じてしまいます。
主観的にも、客観的にも、こんなにかわいい赤子はいないんじゃないかと。
街行く赤子の顔を見ながら、ふと、「ああ、うちの子はかわいいなぁ」と思っちゃうんですよ。うんうん。





この日はお宮参り。
赤子が無事に誕生したことを感謝し、健やかな成長を願うべく御祈祷を受けてきました。



そして私も、もうひとつの密やかな願いを。

「じいじ」と呼ばれたい!!
なんなら『じじい』でもいい!!



そのためには、出雲の神々の力を借りない「縁結び」をしなければなりませんね。
精進せねば・・・。





日御碕神社~夜の守護社

2023-06-26 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 壱 時 四 拾 六 分

島 根 県 出 雲 市

一 畑 バ ス ・ 日 御 碕 神 社 停 留 所





島根半島の北西の果て・日御碕(ひのみさき)へ。



バス停にあった案内図を借用して・・・
ここから歩いてすぐのところに、日御碕神社が鎮座しています。


奈良時代に編さんされた『出雲国風土記』美佐伎社(みさきのやしろ)と記されている、歴史ある神社である日御碕神社。
下の宮日沉宮(ひしずみのみや)と上の宮「神の宮」の二社からなり、両社を総称して「日御碕神社」といいます。
ご祭神は、日沉宮が天照大神(アマテラスオオカミ)、神の宮が天照大神の弟・素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。

素戔嗚尊は出雲の国づくりをした後、自らの鎮まる地を定めて占ったところ、現在の神の宮の裏手にある丘と出ました。
その5世孫にあたる天葺根神(アメノフキネノカミ)は、御魂をこの地でお祀りしたといいます。
また、天葺根神が神社近くの浜・清江の浜にお出かけになったときに、浜から離れてたたずむ経島(ふみしま)の松が輝くと、天からお言葉がもたらされました。
「私は日の神です。ここに鎮まり天下の人々に恵みを与えましょう。あなたはすみやかに私をお祀りなさい」
天照大神の御神勅をたまわった天葺根神は、ただちに経島に大神をお祀りしたといいます。

経島に鎮座する神社は、日の沈む西に立つことから「日沉宮」と呼ばれ、「日の本の夜を守る」神社とされています。







うまそうなイカですなぁ~。
神社を詣でた後に、1杯いただきたいですねぇ。




バス停から歩いて1分、もう着いちゃいました。
境内の入口・神の宮鳥居【国指定重要文化財】です。
寛永16年(1639年)に3代将軍・徳川家光が寄進したもので、昭和10年(1935年)に現在の地に遷されたそうです。




稲佐の浜の近くでも見たような感じのレリーフですねぇ・・・・・・なになに、和布刈(めかり)神事」


成務天皇13年(143年)1月5日早朝、一羽のウミネコが海藻を神社の欄干にかけて飛び去りました。
これを不思議に思った神主が海藻を水洗いして乾かすと、それはワカメになったといいます。

この故事に倣って行われる神事が、「和布刈神事」です。
近くにある宇龍港に浮かぶ権現島に鎮座する熊野神社で、毎年旧暦の1月5日に行われます。
権現島の岩場でワカメを刈り上げ、熊野神社にお供えして豊漁を祈願するものです。
日御碕のワカメ漁は、この神事が終わってから初めて行われるというしきたりとなっています。



手水舎でみそぎをし、



日沈宮楼門【国指定重要文化財】へ。
果てなく広がる青空、それと朱に染まる立派な門構えとのコントラストがなんとも素晴らしい!・・・んでしょうね。
残念ながら、空は灰色、曇り空。
それでも、海の近くならではの開放的な空間に建つ楼門は、朱がより際立っていたように感じました。



斜めから見た日沈宮楼門。
門から入って右側の高台に鎮座するのが神の宮です。
ちなみに「ひしずみのみや」の表記ですが、文化庁さんは常用漢字の「沈」を用いているようですね。




楼門をくぐると、境内末社が2社あります。
そのうち右側、神の宮寄りにあるのが、門客人社(かどまろうどしゃ)(1)【国指定重要文化財】です。
「(1)」って何じゃいと思われるでしょうが、文化庁さんがこう云っているんですから仕方ありません。



楼門をくぐって左側は、門客人社(2)【国指定重要文化財】・・・だってぇ~文化庁が、文化庁が・・・。
ご祭神は、(1)が櫛石窓神(クシイワマドノカミ)、(2)が豊石窓神(トヨイワマドノカミ)です。
2柱とも門を守る神様ですが、じつは名前を複数もっている同じ神様です。




楼門の正面に建っている日沈宮拝殿【国指定重要文化財】。
日御碕神社で最も大きい建物です。
日御碕神社の社殿は、神様がお住まいになる本殿、人々が神様をお祀りし参拝する拝殿と、この2つをつなぐ幣殿という3つの構造からなる権現造で構成されています。
権現造は江戸時代に流行した建築様式で、現存する社殿も江戸時代前期の寛永21年(1644年)に3代将軍徳川家光の命令により造られました。


それでは、日沉宮にてお祈りを捧げましょう。
こちらの神社は、通常通り二拝二拍一拝の作法によります。
夜の守護社ということですが、私は今宵に新たな旅立ちをしますので・・・

(ペコッ ペコッ)
パン! パン!

一路平安! 交通安全!
(旅立ちなのにもかかわらず)戦勝きが~~~ん!!!


(ペコッ)


さあ、これで安心してわが本拠の柏に帰れそうですな。ウム。





神の宮が鎮座する高台へ。
そこから日沉宮を見てみると、深緑の松にあざやかな朱色の社殿がとても映えて美しいですね。
「竜宮城」に喩えられるのも頷けます。




神の宮拝殿【国指定重要文化財】へ。
ここでは大社に続いて縁結び祈願を。


(ペコッ ペコッ)
パン! パン!

縁結び祈願! 縁結び祈願!
この旅最後の縁結びきが~~~ん!!!


(ペコッ)







朱色美しい神の宮本殿【国指定重要文化財】を垣間見て、神の宮を後にします。





あらためて日沈宮楼門



内側からの楼門も、まことによろし。



楼門の蟇股(かえるまた)に施されているのは、なぜか大根のお彫り物。
そういえば島根半島の東にある中海には、「大根島」とかいう島があったと思いますが、多分関係ないでしょうね。




最後に御朱印を拝領して、



バス停近くの鳥居とは別の神の宮鳥居【国指定重要文化財】より、日御碕へと歩き出しました。





出雲さんぽ・最終章~国譲りの舞台

2023-06-26 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 拾 弐 時 参 拾 壱 分

島 根 県 出 雲 市

稲 佐 の 浜



稲佐の浜



日本でもっとも神話に彩られた砂浜といっても過言ではないでしょう。

稲佐の浜は、神在月の出雲国にて、諸国の神々が最初に上陸する浜とされています。

稲佐の浜に上陸した神々は、「神迎えの道」を通って出雲大社にお越しになるそうです。
「神迎えの道」は、稲佐の浜の常夜燈の所から大社の勢溜(せいだまり)まで続く道が現在もあるのですが・・・当時の私はそのようなことは知らなかったのでした。
再び出雲大社を参拝する機会があったなら、今度は稲佐の浜から「神迎えの道」をたどってみたいですね。




稲佐の浜は、「国引き神話」の舞台でもあります。
これは奉納山公園の段で申し述べたとおりです。



南西の方を見ると、稲佐の浜と、神戸川の河口からその先に続く薗の長浜



北の方には、朝鮮半島から引っ張られてきたという日御碕(ひのみさき)・・・は見えませんね。




稲佐の浜のシンボルともいうべきこの岩は、弁天島といいます。
かつては湾のはるか沖にあったといい、昭和60年代までは島の前まで波が打ち寄せていたようですが、現在は砂浜の上にある岩のようですね。
神道と仏教とを足して2で割る信仰がまかり通っていた神仏習合の時代においては、弁財天がお祀りされていました。



そして稲佐の浜は、「国譲り神話」の舞台でもあります。


天上界・高天原(たかまがはら)の神である高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)は、自分の孫である天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホニニギノミコト)を可愛がり、地上界・葦原中国(あしはらなかつくに)の君主にしようとしました。
しかし地上界にも神々が多くいたので、このままでは瓊瓊杵尊を君主とすることはできません。
「私は葦原中国の邪神どもを平定したいと考えている。誰を派遣すべきか」
神々を集めて議論したところ、天穂日命(アメノホヒノミコト)を派遣することとなりました。
しかし天穂日命は、地上の神の長である大己貴神(オオアナムチノカミ)に従うようになり、3年たっても報告に戻らなかったのでした。


大己貴神は出雲大社の神様ですね。
百戦錬磨の大己貴神の計略に、天穂日命がまんまとかかってしまったようです。

高皇産霊尊はふたたび神々を集めて議論をし、天稚彦(アメワカヒコ)が派遣されることとなりました。
天稚彦は高皇産霊尊から天鹿児弓(あめのかごゆみ)天羽羽矢(あめのははや)を授かって、葦原中国へと下っていきました。
ところが天稚彦は任務を果たそうとせず、大己貴神の娘を娶ると、自らが葦原中国を支配しようと企むようになりました。

高皇産霊尊は報告が来ないことを怪しく思い、雉を遣わしました。
雉が天稚彦の屋敷前にあるカツラの木に止まるのを見た天探女(アメノサグメ)は、天稚彦にこのことを報告します。
すると天稚彦は、地上に下る前に授けられた天鹿児弓と天羽羽矢で雉を射殺してしまいました。
雉を射抜いた矢は、高天原の高皇産霊尊まで飛んでいきました。
「この矢はかつて天稚彦に授けたもので、血に染まっている。地上の神々と戦っていたのだろうか」
そう言って矢を地上に投げ返すと、矢は休んでいた天稚彦の胸を射抜き、彼は絶命してしまいました。


大己貴神の智謀再び、といったところでしょうか。
ちなみに天探女は、いわゆる天邪鬼(あまのじゃく)のモデルとされています。

高皇産霊尊はみたび神々を集め、今度は誰を地上に派遣すべきかを議論しました。
神々は経津主神(フツヌシノカミ)を推薦しました。
会議の場には武甕槌神(タケミカヅチノカミ)がおり、彼は進み出て抗議します。
「経津主神だけが丈夫(ますらお)で、私はそうではないというのか!」
武甕槌神が熱心に言うので、彼も経津主神の副使として派遣することとしました。


筆者の地元にかかわる2柱の神が登場しました。
経津主神は下総(千葉)佐原の香取神宮の神様、武甕槌神は常陸(茨城)鹿嶋の鹿島神宮の神様です。

2柱の神は出雲の五十田狭之小汀(いたさのおはま)に降り立つと、十握剣(とつかのつるぎ)を地面に逆さまに立て、その切っ先にあぐらをかいて座り、大己貴神を威圧しながら問いただしました。
「高皇産霊尊は皇孫を天から降そうとして、地上の君主にしようとなされている。その前に地上を平定すべく、我々を派遣された。あなたはどうなさる?」
大己貴神は、息子に尋ねてから答えを出すと応じました。
大己貴神の子・事代主神(コトシロヌシノカミ)は、
「父は去るべきでしょう。私もそれに反することはありません」
と答え、海の中にお隠れになりました。
息子が去ってしまったので、大己貴神も去ることとしました。

経津主神武甕槌神はその後も服従しない神々を討伐して回り、地上を平定して、天に戻っていきました。



以上は、『日本書紀』による国譲りの記述をかんたんにまとめたものです。
『日本書紀』はわが国最初の公式歴史書で、国譲り神話もしっかり収録されています。

同じ時代に成立したもうひとつの歴史書、『古事記』
こちらは公式ではないですが、わが国最初の歴史書です。
『日本書紀』が歴史を記録したものという性格なのに対し、『古事記』は日本国の歴史を記録しつつも文学作品のようなストーリーが展開されます。
その『古事記』によると、国譲りはこのようにすすめられたといいます。


高天原におわす天照大御神(アマテラスオオミカミ)は、「葦原中国は我が子の天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が治めるべき」と考え、命に天下りを命じました。
命は天から下界を見て、「葦原中国は大変騒がしく、私の手に負えません」と答えました。
そこで天照大御神と高御産巣日神(タカミムスビノカミ)は神々を集めて、「私は葦原中国の邪神どもを平定したいと考えている。誰を派遣すべきか」と問いました。
神々が議論を重ねた結果、天菩比命(アメノホヒノミコト)を派遣することとなりました。
しかし天菩比命は、葦原中国を統治している大国主神(オオクニヌシノカミ)の家来になってしまい、3年たっても報告に戻らなかったのでした。


このように『古事記』と『日本書紀』では、大まかなストーリーは共通していますが、細かい部分で違いが見られます。
登場する神様の表記(「天穂日命」と「天菩比命」、「大己貴命」と「大国主神」)もそうですが、『古事記』では国譲りを最初に考えた神様が天照大御神となっています。

天照大御神高御産巣日神はふたたび神々を集めて議論をし、天若日子(アメノワカヒコ)が派遣されることとなりました。
天若日子は天照大御神から天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)天之羽羽矢(あめのははや)を授かって、葦原中国へと下っていきました。
ところが天若日子は任務を果たそうとせず、大国主神の娘を娶ると、自らが葦原中国を支配しようと企むようになりました。

天照大御神は報告が来ないことを怪しく思い、雉を遣わしました。
雉が天若日子の屋敷前で大きな声をあげて鳴いていると、これを見た天佐具売(アメノサグメ)が「この鳥は鳴き声が不吉なので射殺しておしまいなさい」と天若日子をそそのかしました。
天若日子が地上に下る前に授けられた弓矢で雉を射殺すると、雉を射抜いた矢は高天原まで飛んでいきました。
高御産巣日神は地上からの矢が天若日子に授けたものであることを神々に示し、
「天若日子に邪な心があったならば、矢よ、天若日子を射抜け!」
そう言って矢を地上に投げ返すと、矢は休んでいた天若日子の胸を射抜き、彼は絶命してしまいました。


このあたりは『古事記』『日本書紀』あまり大きな違いはありませんね。

天照大御神はみたび神々を集め、今度は誰を地上に派遣すべきかを議論しました。
神々は建御雷神(タケミカヅチノカミ)を推薦しました。
さらに天鳥船神(アメノトリフネノカミ)を副使として派遣することとしました。


三度目の正直、国譲りを成し遂げる神の登場。
『古事記』には香取神宮の神様・経津主神が登場せず、鹿島神宮の神様が前面に出てきます。

2柱の神は出雲の伊那佐之小浜(いなさのおはま)に降り立つと、十掬剣(とつかのつるぎ)を地面に逆さまに立て、その切っ先にあぐらをかいて座り、大国主神を威圧しながら問いただしました。
「天照大御神はご自分の御子が地上を治めるべきとお考えだ。あなたはどうお思いか?」
大国主神は、自分の前に息子の事代主神(コトシロヌシノカミ)に尋ねてから答えを出すと応じました。
そこで2柱の神は事代主神に国譲りを迫ると、事代主神は国譲りを承諾し、海の中にお隠れになりました。

2柱の神が大国主神に事の次第を告げると、大国主神はもうひとりの息子である建御名方神(タケミナカタノカミ)にも尋ねるようにいいました。
ちょうどその時、建御名方神が巨大な岩を手の先で持ちながらやって来て、建御雷神に力比べを挑みました。
建御雷神は建御名方神の腕を掴み、いとも簡単にぶん投げてしまったので、建御名方神は恐れをなして逃げ出します。
建御雷神は後を追い、科野国(信濃国)の州羽(すわ)の海(諏訪湖)に追いつめました。
建御名方神はついに降参し、国譲りを認めること、天の神々に背かないこと、自らが科野国から出ないことを約束しました。


『古事記』オリジナルの物語が、建御名方神の登場、そして建御雷神と建御名方神の戦いです。
この2柱の神の戦いが、日本の国技である相撲の起源とされています。
なお建御名方神は諏訪大社の神様で、国譲りの後は信濃国の発展に力を尽くしたといいます。

建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再び尋ねました。
大国主神は「二人の息子が従うなら、私もこの国を差し上げます。その代わり、私の住まう所として、天から下る神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てていただきたい」
その後出雲の多芸志(たぎし)の浜に、大国主神のための大きな宮殿が建てられたといいます。

建御雷神は地上を平定すると、天に戻っていきました。


大国主神が求めた大きな宮殿こそ、現在の出雲大社です。





弁天島を照らす日輪。
空は快晴ではなく、雲がところどころを覆っていました。
どことなく神秘的で、高天原から神々が降臨しそうな雰囲気でした。




午 後 壱 時 六 分

一 畑 バ ス ・ 稲 佐 の 浜 停 留 所




稲佐の浜でしばし足休めをした後で、次なる目的地・日御碕へのバスの停留所へ。
発車時刻まではまだ時間がありました。
道を挟んでバス停の向かいに、



国譲りの談義を表したレリーフがありました。
歴史書では「剣の切っ先にあぐらをかいて・・・」などという記述がありますが、このレリーフでは杖を立てるように剣を砂浜に突き立てている、人間離れしていない神様が描かれていますね。
このレリーフの中央には、稲佐の浜にあった屏風岩という大岩が描かれています。
国譲りの談義はこの屏風岩の前で行われたといい、バス停からさほど遠くない場所に、屏風岩がなお残っているのだとか。

早速、参りましょう!




とある民家の裏手・・・



神々が国譲りを談義したという屏風岩・・・。
これって人の家の裏庭じゃないだろうねぇ?!



兎にも角にも、こちらが屏風岩でございます。
神代から時は流れ、稲佐の浜は狭くなり、屏風岩の周囲は住宅地になりました。
岩自体も風雨の浸食によって削られ、小さなものとなってしまいました。

「こんなところで国譲りの話でもしたのかな?」

国譲り神話と、他人の民家の裏にある土地と岩。
スケールがあまりにも違い過ぎる両者。
歴史上の大きな出来事というものは、案外こういった身近でちっぽけな場所から事が起こるものなのかもしれませんね。

・・・などといろいろ考えながら、稲佐の浜のバス停に戻っていったのでした。





出雲さんぽ・第2章~神様の会議室

2023-06-26 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 後 拾 弐 時 拾 九 分

島 根 県 出 雲 市

奉 納 山 公 園



出雲大社を出て、日本海をめざして出雲の街中をぶらり。



奉納山公園から、さらに西へ。



なんでしょうか、この空間。神社・・・?



質素な造りですが、こちらもれっきとした神社。
出雲大社の末社である大歳宮(おおとせのみや)です。

ご祭神は大歳神で、稲作の神様、五穀豊穣の神様とされています。
大歳神の父神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)で、出雲大社のご祭神・大国主神とは異母兄弟にあたります。



鳥居もない、社殿も小さいのですが、それに比べると境内は広め。
芝生も植わっていて、その周りを御垣が取り囲んでいて、ちょっと豪華?
そして社殿の前にある領域は、社殿を造りかえるときの新たな敷地であり、神聖な敷地つまりは入ることの許されない禁足地となっています。



大歳宮のすぐ近くに・・・



今度はなかなか立派な社殿が建っています。
こちらは出雲大社上の宮
出雲大社の摂社ということで、先ほどの大歳宮よりも格式が高い、こちらの神社。
ご祭神は素戔嗚尊、そして八百万神(ヤオヨロズノカミ)
八百万神とは、いろいろな神様、神様みんなということです。

この上の宮こそ、年1回開かれる「神様サミット」の会場なのです!
正しくは神議(かみはかり)といいます。



某ローカルタレント(だった御方)がいうように「神様の慰安旅行」「飲み会」の会場ではありませんよぉ~。



上の宮からさらに下っていくと・・・



出雲大社下の宮へ。
ご祭神は天照大御神(アマテラスオオミカミ)です。
神様の中の神様で、素戔嗚尊のお姉さまにあたります。

こちらの下の宮と先ほどの上の宮は、両方ともに参拝するのが正式とされています。
そんなことは露とも知らない私でしたが、図らずも双方のお宮を参拝させていただきました。





国道431号線に戻りました。
近くにあったバス停で、発車時刻を確認しておきましょう。



この後向かう日御碕(ひのみさき)へのバスは、1日8本とあまり多くはありません。
このときの時刻は午後12時29分でしたが、午後1時すぎのバスに乗り遅れないように注意を払いつつ、さらに出雲さんぽを続けます。





午後12時31分、国譲りの舞台・稲佐の浜に到達しました。





参拝!出雲大社・前編~縁結び祈願!!!

2023-04-09 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )

午 前 拾 時 拾 壱 分

島 根 県 出 雲 市

神 門 通 り ・ 宇 迦 橋 大 鳥 居



松江からばたでん(一畑電車)出雲大社参拝へ。



ばたでんの出雲大社前駅に到着した私は参拝前に、



旧大社駅に立ち寄りました。
かつての参拝客に思いを馳せつつ、これより大社詣でに参じます。



宇迦橋(うがばし)大鳥居【国登録有形文化財】を再びくぐります。



神門通りをひたすら北上。
通りの左右にあるお店や途中にある出雲大社前駅は通過し、



ついに神々の集う出雲大社にやってきました!



石製の「出雲大社」の社号標、そして二の鳥居にあたる勢溜(せいだまり)の大鳥居です。

鳥居の前にある広場は勢溜と呼ばれています。
「勢溜」の「勢」は軍勢のこと、つまり勢溜は本来兵士たちが集合する広場を指します。
かつてこの勢溜の鳥居の周辺には大きな芝居小屋があったといい、多くの人々が集まる場所であったといいます。
そのため「勢溜」という言葉が当てられたのだそうです。

また勢溜の鳥居は、平成30年(2018年)に新しく建てられたばかり。
先代の鳥居は昭和43年(1968年)に寄進された木製のものでしたが、老朽化のため、対候性鋼というさびに強い鋼材で建て替えられました。

そういえば「出雲大社」は「いずもたいしゃ」ではなく、「いづもおほやしろ」と読むのが正しいのだそうです。
「おほやしろ」の「ほ」は歴史的仮名遣いというやつだから、口語で読むと「いづもおおやしろ」ですね。
近年ぽっと出てきた感じのする「おおやしろ」という読み方・・・・・・かつての大社駅(たいしゃえき)大社町(たいしゃまち)って何だったのでしょう。
(出雲大社が鎮座する地域は、出雲市に組み込まれる前は大社町でした)

私自身少しばかりの違和感を覚える「おおやしろ」ですが、「大社」を「おおやしろ」と読むのは出雲大社だけなのだそうです。



同じ出雲国(島根県)にあるこちらの神社は「くまのたいしゃ」
紀伊国(和歌山県)の山奥にある本宮も「くまのたいしゃ」
石川県にあるのは、気比大社「けひたいしゃ」)です。
また同じ出雲大社でも、各地にある分社についてはやっぱり「いずもたいしゃ」と読むのだそうです。



それでは、出雲大社の境内へ。



勢溜の大鳥居をくぐると、木々に挟まれた下り参道へ。
右手には祓社(はらえのやしろ)があります。
この画だと木々の陰に隠れ、少し見えにくいですね。
こちらで祈りをささげ、心の穢れを祓い清めるのがよいとされていますが・・・当時の私はこの祓社を見逃してしまったのです。



心のみそぎをしないまま、祓橋(はらえのはし)を渡って神域へ。
橋の下には素鵞(そが)という川が流れています。
出雲大社の西を囲むように流れ、神聖な川とされています。



三の鳥居である松の参道の鳥居
昭和53年8月に寄進されたもので、幅10メートル、高さ9メートル、鉄でできています。



鳥居の先にのびている松の参道
「何が出るかな~、何が出るかな~」



本殿に向かって参道の右側・・・なにやらひとりの男が荒波に向かって元気玉を放った像
いや、逆?・・・荒波から何かの力を授かる男の像でしょうか。



この像はムスビの御神像と呼ばれています。
昭和61年(1986年)に寄進された銅像で、日本海の荒波に乗ってやってきた幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)大己貴命(オオアナムチノミコト)が授かる場面を主題としています。
大己貴命は長じて「ムスビの神」となったとされ、大国主神(オオクニヌシノカミ)として出雲の神様になったといいます。





本殿に最も近い鳥居・銅の鳥居【国指定重要文化財】。
周囲は荒垣という垣根で囲われており、神のおわす世界との境界をなしているようです。



銅の鳥居をくぐり縁結び祈願!・・・その前に、いったん境内を出ます。



巨大な神楽殿、やはり巨大なしめ縄を横目に・・・



時刻は午前10時45分と早いのですが、やっぱりお昼は出雲そばですね!
数あるそば屋さんの中から私が足を運んだのは、「八雲」さん。
めちゃくちゃ美味かった!!




午 前 拾 壱 時 拾 分

ふ た た び 境 内 へ




神楽殿の脇から境内へ。



ふたたび銅の鳥居【国指定重要文化財】。
造営は寛文6年(1666年)で、長州藩の2代藩主・毛利綱広の寄進によります。
現存する銅製の鳥居では、日本最古のものとなっています。

銅の鳥居の先にあるのは拝殿、そして本殿【国宝】が鎮座しています。
ふつう鳥居、拝殿と本殿は一直線に配置されるものなのですが、参道の石畳からもわかるように、出雲大社では道の鳥居と、拝殿、本殿の位置にズレがあるのです。
なぜなのか・・・それは謎とされているのですが。



拝殿へ。
拝殿のすぐ先に本殿があって、拝殿にてお祈りを捧げるのが一般的です。
出雲大社においては拝殿と本殿が離れているので、一般の参拝客はここではお祈りをしません。



拝殿からさらに進むと、玉垣【国指定重要文化財】という塀、それに囲われた社殿が見えてきます。
玉垣は2段の石積みの礎石に据えられたヒノキ材の塀で、江戸時代中期の寛文年間(1661年~72年)に造営されたものです。
一般の参拝客は、この玉垣から内側のエリアには入ることができません。



玉垣とともに内側を守護する八足門【国指定重要文化財】。
江戸時代の寛文年間に創建されたものが解体され、延享元年(1744年)の再建に際して現在の場所に移築されたものです。
八足門の先には瑞垣楼門【国指定重要文化財】による囲いがあり、その内側に本殿【国宝】が鎮座しています。



八足門の前に賽銭箱が据えられており、ここでお祈りを捧げます。
参拝の作法は、出雲大社独自の二拝四拍一拝
ということで・・・

(ペコッ ペコッ)
パン! パン! パン! パン!

縁結び祈願! 縁結び祈願!!
縁結びきが~~~ん!!!


(ペコッ)


ちなみに二拝四拍一拝は、出雲大社の境内にあるすべての社でするものだそうです。
大社の外の神社では、出雲国であっても、出雲大社の分社であっても、通常の二拝二拍一拝でよいとされます。



この旅行の大きな目的である縁結び祈願を成し遂げました。

拝殿の裏、すなわち八足門のお賽銭箱の向かいで御朱印がいただけるので、列に並びました。
出雲大社の御朱印のお代(初穂料)は定められておらず、あくまでも「気持ち」をお納めするというかたちとなっています。
全国の神社仏閣の一般的な御朱印の初穂料は300円なので、ここでも300円をお納めしよう・・・・・・そう考えて財布をのぞいてみました。

小銭・・・1円玉、10円玉多し、100円玉もあるものの明らかに300円には足りない。
お札・・・1万円札しかない。

普通の神社仏閣ならば、1万円札を出せば9,700円のお釣が返ってきます。
しかしここでは「お気持ち」というシステム、1万円を差し出して何も言わなければ、お釣は返ってきません。
ならば1万円を差し出して「9,700円の釣りを渡せ」などと言えるでしょうか。

「神社へのは初穂料は、神への感謝の気持ち。
 それを惜しむとは情けない」


・・・などと、ドラクエの教会の神父のようなセリフはおっしゃらないでしょうが、そう思われても仕方がありません。
ならば今回の初穂料は・・・ありったけの小銭を全部納める!



推定174円をお納めして、出雲大社の御朱印をいただきました。
右行に「参拝」の2文字、中央に「出雲大社」の印影、そして左行に日付のみ。
とてもシンプルではありますが、それでも「大社」の重みのある御朱印です。

「神社への初穂料は、神への感謝の気持ち。
 それを惜しむとは情けない」


・・・ぐぬぬぬぬ。





八足門から、玉垣の周囲を時計回りに歩いてみましょう。




屋根だけですが御本殿【国宝】が見えます。
屋根の造りは檜皮葺(ひわだぶき)で、檜の皮が約64万枚用いられているそうです。

左側は筑紫社(つくしのやしろ)【国指定重要文化財】。
創建は延享元年(1744年)と考えられています。
祭神は多紀理比売命(タキリヒメノミコト)
天照大御神素戔嗚尊(スサノオノミコト)との「誓約(うけい)」で生まれた女神で、海の女神として宗像(むなかた)大社にお祀りされています。




御本殿の左真横から。
画像左が筑紫社、その奥に御本殿

画像右手前は神饌所(しんせんじょ)【国指定重要文化財】。
神饌とは神様にお供えするためのお酒(お神酒)やお食事のことで、神饌所はそれらを準備する建物というわけです。

神饌所の奥には、わずかながら楼門【国指定重要文化財】が見えます。




玉垣の北西から。
画像左から御本殿楼門筑紫社



祭神・大国主神の御神体が奉安されている御本殿
ふつう御神体は御本殿の入口に向かって相対して奉安されているのですが、出雲大社だけは御神体が西向きで奉安されているそうです。
つまりこの画像だと、大国主神の御神体に相対しているというわけですね。
なぜ御神体の向きが入口に向かっていないのか、その理由は謎とされています。




御本殿の裏へ。



視線を地面のほうに移すと・・・おやおや、可愛らしいウサギさん。
出雲大社と何の関係があるのでしょうか?


出雲大社の神様・大国主神が、地上の神々のリーダーとなる以前のこと。
そのころの大国主神は、大己貴(大穴牟遅・オオアナムチ)と呼ばれていました。
大己貴には意地悪な兄弟がおり、彼らは総称して八十神(やそがみ)といいました。

ある日、八十神たちは美しいと評判の八上比売(やかみひめ)に求婚するために、因幡(いなば)国(鳥取県東部)へと旅をしていました。
このとき大己貴は荷物持ちをやらされ、一行の最後尾を歩いていました。

旅の途中の気多(けた)の岬(現在の白兎海岸)で、毛皮をはがされて泣いている白兎に出会います。
八十神たちは意地悪く、

「海に浸かれ。そして風に当たれ。そして山で寝ていれば治る」

と教えました。
白兎が言われたとおりにすると、症状は悪化してしまいます。
しばらくして大己貴が通りかかりました。
白兎が事情を話すと大己貴は、

「すぐに川の真水で体を洗いなさい。そしてガマ(蒲)の穂を敷いて寝ていなさい」

と教えました。
白兎が言われたとおりにすると、みるみるうちに回復していきました。
すると白兎は大己貴に告げます。

「八上比売と結婚できるのはあなたです」

果たして因幡国に先に着いた八十神たちは、八上比売に求婚を断られてしまいます。
後れてやってきた大己貴が求婚すると、八上比売はこれを受け入れたのでした。

これを聞いた八十神たちは激しく憤り、大己貴を2度も殺害!!してしまいます。
しかしその都度生き返り、力をつけていった大己貴は、逆に八十神たちを降伏させてしまったのでした。





「うわ~、大きいなぁ~」
出雲大社のウサギさんたちが、御本殿を見上げているようです。




御本殿の反対側、出雲大社の最も奥に鎮座するのは、素鵞社(そがのやしろ)【国指定重要文化財】です。
ご祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)で、大国主神の前世代の父神です。
素鵞社の創建年代は不明ですが、現在のお社の再建年代は延享2年(1745年)6月とわかっています。




玉垣の北東まで来ました。
見える建物は、右から御本殿御向社(みむかいのやしろ)【国指定重要文化財】、天前社(あまさきのやしろ)【国指定重要文化財】。
御向社と天前社は、御本殿の左側に鎮座する筑紫社とともに「脇宮三社」と呼ばれ、出雲大社の主祭神・大国主神と関わりの深い神が祀られています。




玉垣の東側。
画像右から天前社御向社、そして御本殿です。

天前社のご祭神は、蚶貝比売命(キサガイヒメノミコト)蛤貝比売命(ウムギヒメノミコト)の2柱の神々で、それぞれ赤貝、ハマグリを神格化した神々です。
2柱の神々は、大己貴が八十神の策略にかかって焼死してしまった際に、その身を削って大己貴を蘇生させたのだそうです。
御向社のご祭神は、須勢理比売命(スセリヒメノミコト)
素戔嗚尊の娘で、のちに大国主神の妻となります。


玉垣を時計回りに一周しました。
今度は外側の建物を見てみましょう。



玉垣の南東に、一棟の長い建物があります。
十九社(じゅうくしゃ)(東十九社)【国指定重要文化財】です。



扉が19枚あることから「十九社」というそうです。



玉垣の南西にも十九社があります。
こちらは西十九社【国指定重要文化財】です。



神無月になると、日本におわす八百万神は神議(かみばかり)と呼ばれる会議をするために、出雲大社にお越しになります。
そのため出雲地方では神無月といわずに「神在月」というのだそうです。
神議は7日間行われるそうで、その間神々はこの十九社にてお泊りになるのだそうです。

ちなみに神議は出雲大社で行われているのではありません。
出雲大社はあくまで神々がお泊りするお宿、某番組の表現を借りれば「ロイトン出雲大社」というわけですね。



出雲大社の境内をぐるりとひと回りしたので、



最後におみくじを引いて、出雲大社の参拝は終了!





意宇六社めぐり・第6章~あの世の境目・黄泉比良坂

2021-09-20 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 前 拾 時 五 拾 八 分

松 江 市 東 出 雲 町

揖 夜 神 社





揖夜神社を参拝し、意宇おう六社めぐり」は残る1社となりました。
最後の神社・熊野神社に向かう前に、1箇所だけ寄り道します。



前日の山陰本線からの車窓から見えた、気になる看板。



黄泉比良坂 Yomotsu-hirasaka 0.4km ⇒
黄泉比良坂って、たしかあの世との境目だったよな・・・・・・あの世の入口って、島根県にあったのか?


そしてこの日、「意宇六社めぐり」で揖夜神社を参拝するにあたり、この不可思議な黄泉比良坂なる場所にも行ってみようと考えたわけです。
看板にあるとおり、山陰本線の踏切をわたったら400メートルほど進みます。



要所要所に看板があるので、迷わずに行けます。



道中には、黄泉比良坂の御朱印所もあるそうな。


このまま道を進み、黄泉比良坂の伝説地・伊賦夜いふやに到着。

ちょっとした駐車場もあり、車が数台停まっていました。
神話の伝承地というだけあって、観光客もそこそこいるようだな・・・そう思っていたら、一台の車から釣竿を持ったおじさまが下りました。
どうやら黄泉比良坂に来たのではなく、すぐそばのため池で釣りをしに来たようでした。



【揖夜神社 → 黄泉比良坂伝説地 のルート】



揖夜神社 10時58分発
島根県道191号揖屋停車場線経由
黄泉比良坂伝説地 11時08分着

*移動距離 1.2km
*所要時間 10分  (平均の速さ 7.2km/h)




午 前 拾 壱 時 八 分

黄 泉 比 良 坂 伝 説 地 ・ 伊 賦 夜 坂


ママチャリさんを停め、伝説地に足を踏み入れます。



石柱2本にしめ縄が拵えられています。
神社の鳥居の原型のようなものでしょうか。
鳥居と同じく結界を示すものだと思われますが、ここのものはなんとも雰囲気がおどろおどろしいです。



「神蹟 黄泉平坂・伊賦夜坂伝説地」の石碑


国父の神・伊弉諾尊イザナギノミコトと国母・伊弉冉尊イザナミノミコトは森羅万象の神々を産みましたが、火の神・軻遇突智かぐつちを産んだ際に陰部を火傷したために、伊弉冉尊は死んでしまいました。
伊弉諾尊は激怒して軻遇突智を殺すと、伊弉冉尊の遺体を比婆山(現在の島根県安来市とされています)に埋葬しました。
しかし、伊弉諾尊が伊弉冉尊に逢いたい気持ちは日増しに募っていき、ついに伊弉諾尊は死者の世界・黄泉よみに向かったのです。

黄泉国で再会した二柱ですが、伊弉冉尊は「黄泉国の食事をとった」という理由で、伊弉諾尊のもとに戻ることをためらいます。
伊弉諾尊がなおも願うと、伊弉冉尊は了承して、
「黄泉国の神の許しを得るので、しばらく待ってほしい。その間、決して私の姿を見てはいけない
と告げました。
伊弉諾尊がしばし待っても、伊弉冉尊はその姿を現しませんでした。
待ちきれなくなった伊弉諾尊はついに伊弉冉尊のところへ向かうと、そこには最愛の妻が腐敗した姿があったのです。
驚いた伊弉諾尊は、あまりのことにその場から逃走しました。

変わり果てた姿を見られてしまった伊弉冉尊は、夫に恥をかかされたと激怒。
一飛びで千里を走るという泉津醜女よもつしこめ(黄泉醜女)や、黄泉国の軍勢に夫を追わせました。

伊弉諾尊が自らの髪飾りを投げると、ブドウが生えてきました。
泉津醜女はブドウの果実を食べるのに夢中になりましたが、やがて我に返り、再び伊弉諾尊を追い始めました。
伊弉諾尊が自らのくしを投げると、タケノコが生えてきました。
泉津醜女はタケノコを食べるのに夢中になり、その間に伊弉諾尊は逃げおおせました。
しかし黄泉国の軍が伊弉諾尊を追いかけてきます。
伊弉諾尊はその場に生えていた桃の実を投げると、その霊力により黄泉国の軍勢は撤退していきました。

しかしついには、伊弉冉尊自身が伊弉諾尊を追いつめていきます。
伊弉諾尊は辛くも黄泉比良坂まで逃れると、地上の出口を千引きの岩という巨岩で塞いでしまい、伊弉冉尊との離縁を宣言しました。
千引きの岩の向こうから伊弉冉尊は呪詛し、
「わたしはおまえの国の人間を1日1000人殺してやる」
というと、伊弉諾尊は、
「だったらわたしは、1日に1500の産屋を建ててやろう(人間を1日1500人産ませてやろう)」
と答えたのでした。



この世とあの世の境界・黄泉比良坂
『古事記』によれば、その黄泉比良坂は出雲国にある伊賦夜坂を指すのだといいます。



その伊賦夜坂があるのが、この地だというのです。



石碑の近くに横たわっている岩が、千引きの岩なのだそうです。
こんなところに千引きの岩が転がっているってことは、黄泉国との境界が塞がっていないということ・・・?



黄泉軍を追い払う?ためのヤマモモの木が植えてありました。



おどろおどろしいしめ縄の結界を出ました。



こちらにも桃の木が植わっているようです。


なれあれを助けしが如く、葦原中国あしはらのなかつくにに有らゆるうつしき青人草あおひとくさの、苦しき瀬に落ちて、うれなやむときに助くべし。
(桃の実よ、私を助けたように、この世の人々が苦しみに流されて、悩み事に呆然となっていたら助けてやってくれ)


虎口を脱した伊弉諾尊はこのように仰せになり、桃の実に意富加牟豆美命オオカムヅミノミコトの神名を与えられたのでした。




そしてこちらが、伊賦夜坂の入口。



いざ、黄泉国へ!



これは・・・水準点でしょうか?
国土地理院の職員さんは、黄泉国にまで測量のためにやってきているのでしょうか。



どこまでも続きそうな下り坂です。



大小の石がまとまっている箇所がありました。



こちらがさえの神なのだそうです。
「さえ」の神とはすなわち「遮る」神ということで、地域の境界にあって外界の悪霊や疫病を遮るものとされています。

・・・ん? ここでいう「境界」って?!





午 前 拾 壱 時 廿 弐 分

黄 泉 帰 り




無事に蘇った私は・・・・・・



黄泉比良坂の御朱印をいただくことのできる平賀公会堂へ。

まさか黄泉比良坂の御朱印があるとは思いませんでした。
伊弉諾尊と伊弉冉尊に関係するから、神社の御朱印帳に書き入れてもらうのかな?
そう考え、公会所におわす齢70ばかりと思われる媼に、300円を支払って御朱印帳を手渡しました。

私は媼の言うまま公会所の中に入り、御朱印帳の書入れを待っていました。

「どちらからいらっしゃったんですか?」『千葉県の柏です』
旅人の出身地の話を皮切りに、媼との会話が盛り上がっていきます。



神跡地、黄泉比良坂!
主祭神?の黄泉津大神ヨモツオオカミを中央に記してあります。
ご本尊を中央に筆記するお寺さんの御朱印に倣っているかのようですね。
桃の実の朱印も、また面白いですね。

こちらの御朱印だけ、なんと金墨汁で筆記してくださいました。
達筆なる媼曰く、「今日は即位の礼だから、特別ですよ」。



有難い金色の御朱印を頂戴したところで、公会堂を退出・・・・・・。

「映画のロケ地にもなりましてねぇ」「北川景子さんもいらっしゃったんですよ」

有難い金色の御朱印を頂戴したところで、公会堂を退出・・・・・・・・・・・・。

「私も80歳を超えましてねぇ」「もうそろそろ坂の向こうに行くかもしれませんけど」

話好きなる媼の口は止まず、私は40分ほど、公会堂で腰を下ろすこととなったのでした。





意宇六社めぐり・第5章~黄泉国の鎮護社・揖夜神社

2021-08-14 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 前 拾 時 拾 六 分

松 江 市 大 草 町

六 所 神 社 付 近 ・ 意 宇 川 沿 い







意宇おう六社めぐり」は4つの神社の参拝を終えました。
六所神社から意宇川を下って、次なる神社をめざします。





水鳥がくつろぐ意宇川を進み、



出雲郷橋という橋を渡ります。
バイパスじゃない方の国道9号に架かっている橋です。
ここからは、国道9号を東へ進んでいきます。



Adakae(あだかえ)???
「いずもごう」じゃないんですねぇ・・・これは初見じゃ読めませんね。


なぜ「出雲郷」が「あだかえ」と読むのかはさておき、



程なく進んだ歩道橋のある交差点で、県道153号線に入ります。



県道に入ってから次の信号交差点で、JR揖屋駅方向へ曲がります。
道なりに進んで10分ほど・・・



「意宇六社めぐり」第5社目・揖夜いや神社に到着しました。



【六所神社 → 揖夜神社 のルート】



六所神社 10時14分発
国道9号・島根県道153号経由
揖夜神社  10時44分着

*移動距離 5.5km
*所要時間 30分  (平均の速さ 11.0km/h)




午 前 拾 時 四 拾 伍 分

松 江 市 東 出 雲 町

揖 夜 神 社




「意宇六社めぐり」5番目の神社は、揖夜神社でございます。
太いしめ縄が掲げられた随身門です。
簡素な造りながら、重厚な感じを覚えますね。
そうそう、この日は今上陛下即位の礼が行われていました。


揖夜神社のおこりはよくわかっていませんが、『日本書紀』の斉明天皇5年(659年)の記述に、
「狗、死人まかれるひと手腎ただむき(腕)を言屋社いふやのやしろひ置けり」
とあり、この「言屋社」が揖夜神社を指すと考えられています。
また『古事記』では、死者の国・黄泉よみとの境目である黄泉比良坂よもつひらさかが、出雲国の伊賦夜いふやであると伝えています。
このことから、揖夜神社が古くから、黄泉国との境目を鎮護する神社だと考えられています。

主たる祭神は国母の神・伊弉冉尊イザナミノミコトです。
伊弉冉尊は黄泉国の神・黄泉津大神ヨモツオオカミとしての一面もあります。





それでは随身門をくぐって、境内へ。
参道には石畳が敷かれ、空間も開けています。
境内は明るく、黄泉国の鎮護社というおどろおどろしさは感じられません。




御神木は、樹齢推定600年のスダジイ
樹冠の枝が、蛇のとぐろを巻くように伸びているさまは、おどろおどろしさを少しだけ感じます。




重厚なしめ縄が掲げられている拝殿
随身門から始まる参道の終点にあるのではなく、参道に対して横を向いて建っているのは珍しい構造なのだとか。
わが地元の鹿島神宮と同様の構造ですね。




拝殿の横の小道を進って階段を上ると、本殿を間近に拝見することができます。
こちらの本殿も、意宇六社の例に漏れず大社造
そして本殿の中は、御神座が左奥にあり、御神体は右を向いて鎮座している女造めづくりとなっています。
主祭神の伊弉冉尊は女神であり、同じく伊弉冉尊を主祭神とする神魂神社も女造となっています。

女造の逆は、男造おづくり
こちらは本殿内の御神座が右奥にあり、御神体は左向きで鎮座しています。




本殿に向かって左脇に鎮座するのは、境内社・韓国伊太氐からくにいだて神社です。
祭神は素戔嗚命スサノオノミコトとその子・五十猛神イソタケルノカミです。

『日本書紀』によると、天界(高天原)を追放された素戔嗚命は、最初に朝鮮半島に降り立ち、五十猛神も付き従ったといいます。
しかし素戔嗚命が「ここにはいたくねぇ」とおっしゃり、船で出雲に渡ったそうです。
このおりに五十猛神は多くの樹木の種をもたらしたので、日本は緑豊かな国となり、五十猛神は林業の神として祀られることとなったそうです。


なるほど、それで「韓国」の語が社号にあるのですね。




本殿の反対側に来ました。
こちらには三穂津姫みほつひめ神社
天界(高天原)の神・高皇産霊尊タカミムスビノミコトの娘・三穂津姫神ミホツヒメノカミをお祀りしています。
三穂津姫神は、父神により出雲大社の神・大己貴命オオアナムチノミコト大国主神オオクニヌシノカミの妻となりました。




この日の出雲国は、このとおりの晴天。
黄泉国の鎮護社といわれる揖夜神社も、そうとは思えないほどに陽光を浴びていました。




奉拝、揖夜神社!
最後に御朱印(300円)を頂戴して・・・私はいったん冥府へ旅立ちます。





意宇六社めぐり・第4章~六所神社と国府

2021-08-14 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 前 九 時 五 拾 五 分

松 江 市 山 代 町

真 名 井 神 社 ・ 真 名 井 の 滝 付 近





真名井神社を参拝し、真名井の滝でちょっとした神秘的な体験をすることができました。




真名井の滝から公道に戻りました。
ここから田んぼ道を進んでいきます。



のどかな田園を進むこと約5分、



出雲国庁跡(出雲国府跡)【国指定史跡】にたどり着きました。



奈良時代に出雲国の政庁があった場所は、背後に神が隠れこもるといわれる茶臼山が横たわっています。
そして、出雲国庁跡に隣接するのが・・・



六所神社です。



【真名井神社(真名井の滝) → 六所神社 のルート】



真名井の滝 9時55分発
出雲国庁跡 10時00分着
六所神社  10時06分着

*移動距離 1.1km
*所要時間 11分  (平均の速さ 6km/h)




午 前 拾 時 六 分

松 江 市 大 草 町

六 所 神 社




境内には誰もいない・・・。
縁結び占いで全国的にも有名な八重垣神社、国宝&重要文化財を擁する神魂神社は、早朝にもかかわらず参拝客がそれなりにいました。
それに比べると真名井、六所の二社は、参拝客がひとりもいませんでした。
意宇六社めぐりって、あまりメジャー?な巡拝ではないのでしょうか。


六所神社は、かつての出雲国府の裏手に鎮座している神社です。
伊弉諾尊イザナギノミコト伊弉冉尊イザナミノミコト天照大神アマテラスオオミカミ月読尊ツクヨミノミコト素戔嗚尊スサノオノミコトと、大己貴命オオアナムチノミコト大国主神オオクニヌシノカミの六柱の神を祭神とすることから、「六所」の社号がついたといいます。
また異説では、神社を管理統括する「録所」から「六所神社」の社号となったともいいます。

六所神社は出雲国の総社、すなわち神々をまとめてお祀りする神社とされました。
出雲国府に赴任した国司は、政庁の裏手に鎮座するこの神社を参拝することで、出雲国すべての神社を参拝することに代えたのだそうです。
また、神在月に全国から出雲国に集う神々は、まずはこの六所神社にいらっしゃるのだといいます。





境内は決して大きくはないのですが、この拝殿はじつに圧倒的。
重厚なしめ縄も出雲大社のそれを連想させ、この神社も出雲大社に大いに関係しているのだと思い起こさせてくれます。



拝殿の背後に建つ本殿
八重垣、神魂、真名井の三社と同様、大社造です。



六所神社は玉垣がないので、間近に本殿を拝見することができます。
大社造の特徴のひとつである掘立柱が、ここではよく見えますね。
掘立柱が3×3の9本あって、本殿の床が正方形となっていることもわかります。



本殿の入口が右寄りであることもよくわかります。



六所神社では本殿をしっかり拝見できましたが、社務所のような建物は見つけることができず、御朱印などをいただくことはできませんでした。
あとでわかったのですが、御朱印は神社のそばにある宮司さんのお宅でいただくことができるそうです。





六所神社のすぐ近くを流れる意宇川



川ぞいを下って、次なる神社へと向かいます。





意宇六社めぐり・第3章~真名井神社

2021-08-14 | 神社


令 和 元 年 神 在 月 廿 弐 日 ( 即 位 礼 正 殿 の 儀 )

午 前 九 時 廿 分

松 江 市 大 庭 町

国 道 四 百 参 拾 弐 号 ・ 神 魂 神 社 付 近



八重垣神社神魂かもす神社と相次いで参拝し、意宇おう六社めぐりは早くも3社目へ。
とある神社の看板が見えましたが・・・
次は、近場にある真名井神社へ向かいます。



神魂神社から国道432号に出たところで、すぐに反対側の小道に入ります。
収獲を終えた田んぼを見ながら進んでいき、



案内看板に従って左折すると、



鶴岡八幡宮玉葛のように、公道に挟まれた参道がのびています。
突当りに見える山は茶臼山といい、『出雲国風土記』には「神の隠れこもる山」という意味がある神名樋かんなびと記されていました。
真名井神社は、この茶臼山の南東ふもと、この参道の終着に鎮座しています。



9時28分、到着。



【神魂神社 → 真名井神社 のルート】



神魂神社 9時20分発
島根県道248号神魂神社線・国道432号線経由
神魂神社 9時28分着

*移動距離 1.8km
*所要時間 8分  (平均の速さ 13.5km/h)




午 前 九 時 廿 八 分

松 江 市 山 代 町

真 名 井 神 社




意宇六社・第3番目のお社は、真名井神社でございます。


真名井神社の創建時期はよくわかっていないようですが、奈良時代に記された地誌『出雲国風土記』に「真名井社」、平安初期の神社リスト『延喜式神名帳』に「真名井神社」の記述があるので、その頃には創建されていたようです。
中世から近世では「伊弉諾イザナギ社」と呼ばれていたようですが、明治以降に社号が戻ったようです。
祭神は国父の神・伊弉諾尊と、天照大神アマテラスオオミカミの子である天津彦根命アマツネノミコトです。



鳥居から続く石段を上ると、



正面に拝殿、そしてその先に本殿【島根県指定文化財】が構えられています。
まぁ、この画は斜めの角度から写したものですけどね。

拝殿は昭和9年(1934年)に新築されたもので、高床式のように見えますが、土足のままで中に入れる土間床の造りとなっています。
この拝殿では、賽銭箱が据えられているところが「床」に当たります。
なるほど、土足で入っていることになりますね。



本殿は寛文2年(1662年)に建立されたもので、八重垣、神魂の両社に続いてこちらも大社造となっています。



屋根が「人」の字の形をしている切妻造、「人」の面に出入口がある妻入り、その出入口は右側に寄っていること、床が正方形となっていることなど、典型的な大社造です。


境内は私を除き、人影が見当たりませんでした。
厳かな空気の中で、参拝。

人がまったくいなかったからなのか、ここも社務所が開いていませんでした。
御朱印を頂戴することなく、境内を後にしました。





鳥居を出て、社号標の前に戻ってきました。
神社に向かって右方向へ移動します。



“Panasonic”の看板が目印の電気屋さんがある丁字路から、小路に入ります。



民家に挟まれた小路の坂を上り、突当りを左折します。



民家は次第になくなり、



舗装道から砂利道に変わったら、もう目の前。



木洩れ日の射す竹林に囲まれた空間に、小さな水場がひとつ・・・



これが真名井の滝です。
大量の水が落ち込む瀑布とはかけ離れた、水がチョロチョロと落ちていくだけの水場です。
そういえばゴォ~という水の音は全く聞こえませんでしたね。
落差は約2メートル、水がチョロチョロとしか出ておらず、古代より神水として神事に用いられていたといいます。



しばし立ち止まってみれば、なんとも落ち着く心地よい空間にも感じられます。



突如、一筋の風が吹いてきました。
地面に落ちていた木の葉が舞い上がり、しばし輪を描きながら舞っていました。



木の葉は3分ほど舞っていました。
なるほど、ここは神名樋かんなび山・・・神の隠れこもる山だと感じることができました。