令 和 元 年 神 在 月 廿 参 日 ( 水 )
午 前 拾 時 拾 壱 分
島 根 県 出 雲 市
神 門 通 り ・ 宇 迦 橋 大 鳥 居
松江から
ばたでん(一畑電車)で
出雲大社参拝へ。
ばたでんの
出雲大社前駅に到着した私は参拝前に、
旧大社駅に立ち寄りました。
かつての参拝客に思いを馳せつつ、これより大社詣でに参じます。
宇迦橋大鳥居【国登録有形文化財】を再びくぐります。
神門通りをひたすら北上。
通りの左右にあるお店や途中にある
出雲大社前駅は通過し、
ついに神々の集う
出雲大社にやってきました!
石製の
「出雲大社」の社号標、そして二の鳥居にあたる
勢溜の大鳥居です。
鳥居の前にある広場は
勢溜と呼ばれています。
「勢溜」の「勢」は軍勢のこと、つまり勢溜は本来兵士たちが集合する広場を指します。
かつてこの勢溜の鳥居の周辺には大きな芝居小屋があったといい、多くの人々が集まる場所であったといいます。
そのため「勢溜」という言葉が当てられたのだそうです。
また勢溜の鳥居は、平成30年(2018年)に新しく建てられたばかり。
先代の鳥居は昭和43年(1968年)に寄進された木製のものでしたが、老朽化のため、対候性鋼というさびに強い鋼材で建て替えられました。
そういえば「出雲大社」は「いずもたいしゃ」ではなく、
「いづもおほやしろ」と読むのが正しいのだそうです。
「おほやしろ」の「ほ」は歴史的仮名遣いというやつだから、口語で読むと
「いづもおおやしろ」ですね。
近年ぽっと出てきた感じのする
「おおやしろ」という読み方・・・・・・かつての
大社駅(たいしゃえき)や
大社町(たいしゃまち)って何だったのでしょう。
(出雲大社が鎮座する地域は、出雲市に組み込まれる前は大社町でした)
私自身少しばかりの違和感を覚える
「おおやしろ」ですが、「大社」を
「おおやしろ」と読むのは出雲大社だけなのだそうです。
同じ出雲国(島根県)にあるこちらの神社は
「くまのたいしゃ」。
紀伊国(和歌山県)の山奥にある本宮も
「くまのたいしゃ」。
石川県にあるのは、
気比大社(
「けひたいしゃ」)です。
また同じ出雲大社でも、各地にある分社についてはやっぱり
「いずもたいしゃ」と読むのだそうです。
それでは、出雲大社の境内へ。
勢溜の大鳥居をくぐると、木々に挟まれた
下り参道へ。
右手には
祓社があります。
この画だと木々の陰に隠れ、少し見えにくいですね。
こちらで祈りをささげ、心の穢れを祓い清めるのがよいとされていますが・・・当時の私はこの祓社を見逃してしまったのです。
心のみそぎをしないまま、
祓橋を渡って神域へ。
橋の下には
素鵞川という川が流れています。
出雲大社の西を囲むように流れ、神聖な川とされています。
三の鳥居である
松の参道の鳥居。
昭和53年8月に寄進されたもので、幅10メートル、高さ9メートル、鉄でできています。
鳥居の先にのびている
松の参道。
「何が出るかな~、何が出るかな~」
本殿に向かって参道の右側・・・なにやら
ひとりの男が荒波に向かって元気玉を放った像?
いや、逆?・・・
荒波から何かの力を授かる男の像でしょうか。
この像は
ムスビの御神像と呼ばれています。
昭和61年(1986年)に寄進された銅像で、日本海の荒波に乗ってやってきた
幸魂・奇魂を
大己貴命が授かる場面を主題としています。
大己貴命は長じて
「ムスビの神」となったとされ、
大国主神として出雲の神様になったといいます。
本殿に最も近い鳥居・
銅の鳥居【国指定重要文化財】。
周囲は
荒垣という垣根で囲われており、神のおわす世界との境界をなしているようです。
銅の鳥居をくぐり縁結び祈願!・・・その前に、いったん境内を出ます。
巨大な
神楽殿、やはり巨大な
しめ縄を横目に・・・
時刻は午前10時45分と早いのですが、やっぱりお昼は
出雲そばですね!
数あるそば屋さんの中から私が足を運んだのは、
「八雲」さん。
めちゃくちゃ美味かった!!
午 前 拾 壱 時 拾 分
ふ た た び 境 内 へ
神楽殿の脇から境内へ。
ふたたび
銅の鳥居【国指定重要文化財】。
造営は寛文6年(1666年)で、長州藩の2代藩主・
毛利綱広の寄進によります。
現存する銅製の鳥居では、日本最古のものとなっています。
銅の鳥居の先にあるのは
拝殿、そして
本殿【国宝】が鎮座しています。
ふつう鳥居、拝殿と本殿は一直線に配置されるものなのですが、参道の石畳からもわかるように、出雲大社では道の鳥居と、拝殿、本殿の位置にズレがあるのです。
なぜなのか・・・それは謎とされているのですが。
拝殿へ。
拝殿のすぐ先に本殿があって、拝殿にてお祈りを捧げるのが一般的です。
出雲大社においては拝殿と本殿が離れているので、一般の参拝客はここではお祈りをしません。
拝殿からさらに進むと、
玉垣【国指定重要文化財】という塀、それに囲われた社殿が見えてきます。
玉垣は2段の石積みの礎石に据えられたヒノキ材の塀で、江戸時代中期の寛文年間(1661年~72年)に造営されたものです。
一般の参拝客は、この玉垣から内側のエリアには入ることができません。
玉垣とともに内側を守護する
八足門【国指定重要文化財】。
江戸時代の寛文年間に創建されたものが解体され、延享元年(1744年)の再建に際して現在の場所に移築されたものです。
八足門の先には
瑞垣、
楼門【国指定重要文化財】による囲いがあり、その内側に
本殿【国宝】が鎮座しています。
八足門の前に賽銭箱が据えられており、ここでお祈りを捧げます。
参拝の作法は、出雲大社独自の
二拝四拍一拝。
ということで・・・
(ペコッ ペコッ)
パン! パン! パン! パン!
縁結び祈願! 縁結び祈願!!
縁結びきが~~~ん!!!
(ペコッ)
ちなみに二拝四拍一拝は、
出雲大社の境内にあるすべての社でするものだそうです。
大社の外の神社では、出雲国であっても、出雲大社の分社であっても、通常の二拝二拍一拝でよいとされます。
この旅行の大きな目的である
縁結び祈願を成し遂げました。
拝殿の裏、すなわち八足門のお賽銭箱の向かいで御朱印がいただけるので、列に並びました。
出雲大社の御朱印のお代(初穂料)は定められておらず、あくまでも
「気持ち」をお納めするというかたちとなっています。
全国の神社仏閣の一般的な御朱印の初穂料は300円なので、ここでも300円をお納めしよう・・・・・・そう考えて財布をのぞいてみました。
小銭・・・1円玉、10円玉多し、100円玉もあるものの
明らかに300円には足りない。
お札・・・
1万円札しかない。
普通の神社仏閣ならば、1万円札を出せば9,700円のお釣が返ってきます。
しかしここでは
「お気持ち」というシステム、1万円を差し出して何も言わなければ、お釣は返ってきません。
ならば1万円を差し出して
「9,700円の釣りを渡せ」などと言えるでしょうか。
「神社へのは初穂料は、神への感謝の気持ち。
それを惜しむとは情けない」
・・・などと、ドラクエの教会の神父のようなセリフはおっしゃらないでしょうが、そう思われても仕方がありません。
ならば今回の初穂料は・・・
ありったけの小銭を全部納める!
推定174円をお納めして、出雲大社の御朱印をいただきました。
右行に「参拝」の2文字、中央に「出雲大社」の印影、そして左行に日付のみ。
とてもシンプルではありますが、それでも「大社」の重みのある御朱印です。
「神社への初穂料は、神への感謝の気持ち。
それを惜しむとは情けない」
・・・ぐぬぬぬぬ。
八足門から、
玉垣の周囲を時計回りに歩いてみましょう。
屋根だけですが
御本殿【国宝】が見えます。
屋根の造りは
檜皮葺で、檜の皮が約64万枚用いられているそうです。
左側は
筑紫社【国指定重要文化財】。
創建は延享元年(1744年)と考えられています。
祭神は
多紀理比売命。
天照大御神と
素戔嗚尊との「
誓約」で生まれた女神で、海の女神として
宗像大社にお祀りされています。
御本殿の左真横から。
画像左が
筑紫社、その奥に
御本殿。
画像右手前は
神饌所【国指定重要文化財】。
神饌とは神様にお供えするためのお酒(お神酒)やお食事のことで、神饌所はそれらを準備する建物というわけです。
神饌所の奥には、わずかながら
楼門【国指定重要文化財】が見えます。
玉垣の北西から。
画像左から
御本殿、
楼門、
筑紫社。
祭神・
大国主神の御神体が奉安されている
御本殿。
ふつう御神体は御本殿の入口に向かって相対して奉安されているのですが、出雲大社だけは御神体が西向きで奉安されているそうです。
つまりこの画像だと、大国主神の御神体に相対しているというわけですね。
なぜ御神体の向きが入口に向かっていないのか、その理由は謎とされています。
御本殿の裏へ。
視線を地面のほうに移すと・・・おやおや、可愛らしいウサギさん。
出雲大社と何の関係があるのでしょうか?
出雲大社の神様・大国主神が、地上の神々のリーダーとなる以前のこと。
そのころの大国主神は、大己貴(大穴牟遅・オオアナムチ)と呼ばれていました。
大己貴には意地悪な兄弟がおり、彼らは総称して「八十神」といいました。
ある日、八十神たちは美しいと評判の八上比売に求婚するために、因幡国(鳥取県東部)へと旅をしていました。
このとき大己貴は荷物持ちをやらされ、一行の最後尾を歩いていました。
旅の途中の気多の岬(現在の白兎海岸)で、毛皮をはがされて泣いている白兎に出会います。
八十神たちは意地悪く、
「海に浸かれ。そして風に当たれ。そして山で寝ていれば治る」
と教えました。
白兎が言われたとおりにすると、症状は悪化してしまいます。
しばらくして大己貴が通りかかりました。
白兎が事情を話すと大己貴は、
「すぐに川の真水で体を洗いなさい。そしてガマ(蒲)の穂を敷いて寝ていなさい」
と教えました。
白兎が言われたとおりにすると、みるみるうちに回復していきました。
すると白兎は大己貴に告げます。
「八上比売と結婚できるのはあなたです」
果たして因幡国に先に着いた八十神たちは、八上比売に求婚を断られてしまいます。
後れてやってきた大己貴が求婚すると、八上比売はこれを受け入れたのでした。
これを聞いた八十神たちは激しく憤り、大己貴を2度も殺害!!してしまいます。
しかしその都度生き返り、力をつけていった大己貴は、逆に八十神たちを降伏させてしまったのでした。
「うわ~、大きいなぁ~」
出雲大社のウサギさんたちが、
御本殿を見上げているようです。
御本殿の反対側、出雲大社の最も奥に鎮座するのは、
素鵞社【国指定重要文化財】です。
ご祭神は
素戔嗚尊で、大国主神の前世代の父神です。
素鵞社の創建年代は不明ですが、現在のお社の再建年代は延享2年(1745年)6月とわかっています。
玉垣の北東まで来ました。
見える建物は、右から
御本殿、
御向社【国指定重要文化財】、
天前社【国指定重要文化財】。
御向社と天前社は、御本殿の左側に鎮座する
筑紫社とともに
「脇宮三社」と呼ばれ、出雲大社の主祭神・
大国主神と関わりの深い神が祀られています。
玉垣の東側。
画像右から
天前社、
御向社、そして
御本殿です。
天前社のご祭神は、
蚶貝比売命と
蛤貝比売命の2柱の神々で、それぞれ赤貝、ハマグリを神格化した神々です。
2柱の神々は、
大己貴が八十神の策略にかかって焼死してしまった際に、その身を削って大己貴を蘇生させたのだそうです。
御向社のご祭神は、
須勢理比売命。
素戔嗚尊の娘で、のちに
大国主神の妻となります。
玉垣を時計回りに一周しました。
今度は外側の建物を見てみましょう。
玉垣の南東に、一棟の長い建物があります。
十九社(東十九社)【国指定重要文化財】です。
扉が19枚あることから「十九社」というそうです。
玉垣の南西にも十九社があります。
こちらは
西十九社【国指定重要文化財】です。
神無月になると、日本におわす八百万神は
神議と呼ばれる会議をするために、出雲大社にお越しになります。
そのため出雲地方では神無月といわずに
「神在月」というのだそうです。
神議は7日間行われるそうで、その間神々はこの十九社にてお泊りになるのだそうです。
ちなみに
神議は出雲大社で行われているのではありません。
出雲大社はあくまで神々がお泊りするお宿、某番組の表現を借りれば
「ロイトン出雲大社」というわけですね。
出雲大社の境内をぐるりとひと回りしたので、
最後におみくじを引いて、出雲大社の参拝は終了!