沼田駅の待合室で、味噌パンとバウムクーヘンを頬張りながら、電車を待っていました。
沼田駅はLED発車標がないのでわかりづらいですが・・・
こんどの電車は、11時12分発 上越線 普通電車 水上行きです。
電車は定刻どおりに発車し、
後閑駅で下車しました。
駅名標でもわかるとおり、沼田からたったの1駅。
沼田城から見ればまさに目と鼻の先のところに、今回登城する名胡桃城があったのです。
【今回の乗車記録】
JR東日本 沼田駅 3番線 11時12分発
■上越線 普通 水上行き 4両
後閑駅 1番線 11時17分着
*所要時間 5分
*移動距離 5.2km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、190円)
無人駅のわりには駅舎が立派な後閑駅。
1日平均乗車人数も785人(2017年度)もおり、後閑駅を管理しているはずの水上駅の2倍以上なのです。
(ちなみに水上駅の2017年度の1日平均乗車人数は、385人)
私以外にも、夏休み中の学生と思われる者どもが多く下りて行きましたが、それらは皆路線バスに乗って行ってしまいました。
どうやら、後閑駅から歩いて名胡桃城へ向かおうというのは私一人だけのようです。
後閑駅から名胡桃城へ行ける路線バスは存在しないようなので、意を決して足を踏み出します。
河岸段丘の高台にある後閑駅からの眺め。
ここからあっちへ向かうんだというのが一目でわかります。
駅ロータリーからの道路と、駅前を進む幹線道路・群馬県道61号との交差点には、みなかみ町役場があります。
この交差点を過ぎると、河岸段丘を下る坂へ。
後閑駅から約150メートル。
「月夜野」を示す青看が立っていますが・・・
小さいながらも存在感のある案内看板があります。
名胡桃城への道は、基本的にこの看板に従って進んでいきます。
なので青看を無視して、交差点を左へ曲がります。
しばらくは道なりです。
わき目を振ると、向かいの山肌に立っている看板が見えます。
ああ、あの山の方に向かっていくんだな・・・なかなかキツそうだ・・・。
それにしても、どこまでこの道を歩いていくんだろう・・・不案内な非地元民の私が不安を感じ始める頃、
あと1.9kmの案内看板が立っています。
不安を払しょくする、じつに絶妙なタイミングです。
看板は赤地に真田の六文銭。
名胡桃城さんも、沼田城さんと同様、真田の城であることを前面にアピールしているようですね。
先ほどから見えていた高規格そうな道路が、眼前に現れます。
ここにもしっかり案内看板が立っているのでこれに従い、ガード下を通らずに右折します。
100メートルほどで、次の分かれ道。
案内看板を見てもちょっとばかり迷うかもしれませんが、細い上り坂の方を進んでいけば正解です。
名胡桃城まではあと1.4kmともう少しですが、ここからがちょっとキツいです。
国道17号・月夜野大橋に合流します。
対岸の河岸段丘へと上っていくため、この橋は終始上り坂になっています。
向こうに見えるのは沼田の街と、赤城山。
眼下には利根川が流れています。
道は上りでキツいですが、心地よい眺望を楽しむことができます。
対岸から見えていた看板、やはり名胡桃城のものだったようですね。
月夜野大橋を渡り終えても、上り坂は続きます。
道路は崖と森に挟まれ視界は不良、もうひと踏ん張りといったところです。
この日の気温は31℃、水分補給が欠かせませんね。
月夜野大橋から名胡桃城までは民家も自販機も一切ないため、夏場の水分は必ず確保しておきたいところです。
進行方向右側の森が開け、名胡桃城の曲輪と思われる空間が見えてきました。
向こう側には真田六文銭ののぼりも立っていますね。
あと少しです!
月夜野大橋から続く長い坂を歩くこと20分弱。
右手に、復元された名胡桃城址【群馬県指定史跡】が現れました。
そしてそのそばにある、なんだかモダンな建物・・・
名胡桃城址案内所に到着しました!
【今回の移動記録】
JR後閑駅 11時19分発
国道17号・月夜野大橋経由
名胡桃城址案内所 11時59分着
*所要時間 40分
*移動距離 2.7km
※GoogleMapさんは奇怪なルートを表示していますが、町道(白い道)から国道17号(黄色の道)へは直接進入できます。
距離もそれほど大きくはないのですが・・・・おかしいですね~。
炎天下を40分近く歩いた私は、まずは涼を求めて案内所の中に入ります。
案内所は名胡桃城を「天下統一のきっかけとなった城」として紹介する資料館になっております。
名胡桃城自体はそれほど歴史の長くない、小城といっても差し支えないくらいのものなのですが、それでもコンテンツはなかなかに力が入っております。
100名城スタンプも案内所にあるので、まずは押印させていただきましょう。
115番、名胡桃城!
今回の絵柄はどの画角なのでしょうか、それを確かめながら登城するとしましょう。
名胡桃城は、天正7年(1579年)武田勝頼の家臣であった真田昌幸によって築城されました。
当時武田家は、内紛の末に家督を継いだ上杉景勝と同盟を組んだばかりであり、その過程で敵対関係となった北条氏政の領有する沼田城を攻略するための前線基地として名胡桃城は築かれたのです。
その後昌幸は、調略をもって沼田城の攻略に成功します。
武田家の滅亡後に独立した真田家は、沼田城奪還をめざす北条家の軍勢をことごとく退けていきました。
天正15年(1587年)関白となった豊臣秀吉は、大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発布しました。
さらに天正17年(1589年)いわゆる沼田裁定がなされ、沼田城を含む沼田領の3分の2が北条家、名胡桃城を含む3分の1が真田家の所領とされました。
このとき真田昌幸は、「名胡桃が祖先墳墓の地であるから、せめてこの地だけでも真田に残してほしい」と偽りの主張をしたといいます。
そしてその狙いは、「沼田の者たちは、目の鼻の先にある名胡桃城を目障りに感じ必ず手を出してくるので、そこで堂々と戦を仕掛けて沼田ごと奪い返す」というものだったそうです。
裁定後、北条家は沼田城に猪俣邦憲を、真田家は名胡桃城に鈴木重則を、それぞれ城代として配置しました。
11月3日、猪俣は鈴木の配下を調略し、偽の伝令で鈴木をだまして上田城へと誘導し、その間に名胡桃城を占拠してしまう事件が起きました。
鈴木は岩櫃城に着いたところで計略にはまったことを覚り、恥じて自害してしまいました。
この名胡桃城占拠事件は、猪俣が独断で行ったといわれていましたが、最近では猪俣の上官にあたる北条氏邦の意向があったというのが有力となっています。
真田昌幸はただちに徳川家康を通じて豊臣秀吉に訴えました。
秀吉は天正18年(1590年)3月に軍勢を出立させ、北条家を降伏させました。
沼田領はすべて真田家のものとなったため、不必要となった名胡桃城は廃城となりました。
名胡桃城の資料、パンフレットなどもひと通り頂戴し、
小粋なクリアファイルもいただきました!
名胡桃城さんの好感度もググッと上がってきております!
名胡桃城攻略記念ということで、スタンプをおふたつ。
ちょっと薄くなってしまいましたが・・・ひとつは本郭にある名胡桃城址之碑。
もうひとつは・・・ゆる~い真田六文銭ですねぇ。
最後に、涼しい案内所の中で・・・「城攻め」!
名胡桃城攻略!
さらに小川城(みなかみ町)と、浅貝寄居城(新潟県南魚沼郡湯沢町)も攻略できました。
名胡桃城占拠事件の当事者、猪俣邦憲さんと鈴木重則さん。
あと、沼田城を築城した沼田
・・・・・・沼田城で「城攻め」するの忘れてた!
ここまで来てようやく己のミスに気付いたのですが・・・それは置いといて、まずは名胡桃城をじっくりと検分しましょう。
この案内所にはコインロッカーはなかったのですが、係の紳士に尋ねたところ、手荷物を預かってくださいました。
名胡桃城さんの好感度がまたも上昇したところで、城址を検分すべく、暑い暑い外へと出ました。