鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

今治へ移動

2015-12-26 | 鉄道の旅


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 後 2 時 2 0 分

J R 松 山 駅





松山駅の正面にあるこじゃれた店で食事をした後は、みたび松山駅に向かいました。


今度の電車は、14時32分発の伊予西条行き。
間違いなく、伊予西条行き。
伊予北条の先の、伊予西条行き。

電車に間違いのないことを確認して、松山のおみやげを探します。



愛媛県の銘菓といえばコレ、一六本舗「一六タルト」



路面電車の広告にも載っていた、コレです。(左側の看板。よ~く見ればわかる?)
これは持ち帰り用のおみやげにして・・・あとは自分用になにか欲しいところ。

すると土産物店のご婦人が試食に勧めてきたじゃこ天。



ご婦人に勧められるがまま、おがた蒲鉾じゃこ天(5枚入り)を購入してしまいました。
持って帰るのもいいんだけど・・・小腹がすいたとき用にしておこう。




午 後 2 時 3 2 分

松 山 駅 を 発 つ




電車は定刻どおりに発車。
車両はワンマンカーで、なんと1両。
四国唯一の50万都市を走る電車にしてはなんともこぢんまりした感じもしますが、とにかく次の目的地・今治城へ向かうべく、予讃線を東上します。
松山から数えて15駅目の今治駅までは、約1時間の電車旅です。


そうそう、電車旅のお供に欠かせない飲み物も、キオスクで買っておきました。



さすがは四国、このへんで売っているナントカ茶の5.5倍「八十八茶」なんてものがあるのです。




午 後 3 時 3 9 分

今 治 駅 に 到 着


松山から今治まで、ほぼ寝てました~。
なにせこちとら朝4時起きなものでねぇ。

朝の8時45分に高松からの電車が一時停車して以来、この日2度目の今治駅です。
そして2度目にして、今治駅の外に出ました。



今治駅の南口。
ここから、本日3つ目の今治城へ向かいます。



【今回の乗車記録】

JR松山駅(Y55)3番のりば 14時32分発
[Y]予讃線 普通 伊予西条(Y31)行き 1両
今治駅(Y40)1番のりば 15時39分着
【移動距離】49.5km  【運賃】18きっぷ使用(不使用の場合は950円)





市川の聖夜の夜景

2015-12-25 | 夜景


2 0 1 5 年 1 2 月 2 4 日 ( 聖 夜 )

午 後 8 時 0 3 分

千 葉 県 市 川 市

J R 市 川 駅 南 口





駅前ロータリーのクリスマスツリーがなかなか美しい市川駅南口。
そこから直結している45階建てのI-link タウンいちかわへ。


エレベータを出て展望室へ入ると、1基のクリスマスツリー、そして広がる夜景。

 

聖夜は展望室内と屋外展望フロアの照明を落としていて、いちだんと夜景が美しく観られます。


















Merry Christmas and Happy New Year!!




急遽松山でランチ

2015-12-24 | グルメ


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 5 2 分

道 後 公 園 ・ 湯 築 城 址







湯築城道後温泉の滞在時間はわずか20分
湯築城は登城したともいえず、道後温泉に入浴しないまま、JR松山駅に戻らねばなりません。

次の目的地・今治城に向かうには、13時34分発の伊予西条行きの電車に間に合わなければならないのです!!

道後公園・JR松山駅館は、伊予鉄道の路面電車一本で行き来できるのですが、



今回はレンタサイクル「174号」にまたがって、わき目も振らずJR松山駅に急行します。



しばらくは路面電車とともに「174号」を走らせます。
このポイントは、路面電車と普通電車が平面交差するめずらしいものらしいです。


路面電車とお別れして、JR松山駅への近道を進むことにしました。

この人、本当に観光客なのか?
道歩く学生が引いちゃうくらいちゃりんこをぶっ飛ばし、JR松山駅へ。




午 後 1 時 1 6 分

J R 松 山 駅




チャリで爆走したおかげか、思ったよりも早く駅に到着。
駅近くにあるレンタサイクルステーションで、「174号」さんをお返しします。

忘れ物、ナシ! 鍵パク、ナシ! と。


時間に余裕ができたから、おみやげでも見ながら電車を待つか・・・そう思って駅構内に入ると、



「伊予条ゆき 13時34分」

ファッ!? 伊予西条行きではない?? どこだ、伊予北条って??


[Y][U]予讃線 停車駅のご案内】

[U28]宇和島 ・・・・・・ [U00][Y55]松山 → [Y54]三津浜 → [Y53]伊予和気 → [Y52]堀江 →
[Y51]光洋台 → [Y50]粟井 → [Y49]柳原 → [Y48]伊予北条 ・・・ [Y40]今治 ・・・ [Y31]伊予西条 ・・・ [Y00]高松


この電車に乗っても、今治には行けない!
時刻表検索をしても、伊予北条から今治に続く電車がない!!

ここにおいて、時間がない時間がないといっていたのはまったくの幻想であったことが明らかになります。


だったら今治に行ける電車は・・・14時32分発伊予西条行きがありました。



予讃線を旅するときは、伊予西条伊予北条のちがいにはくれぐれもご注意ください・・・(T_T)




午 後 1 時 2 4 分

J R 松 山 駅 を 出 る


想定外の1時間待ちが出たので、駅周辺で昼食をとることにしました。
とはいえ「174号」はとっくに返してしまったので、駅にほど近いところで探します。

某ログサイトで検索したところ、松山駅から徒歩2分のところに★3つ半の店を発見。



「SOH SOH」なるこじゃれたお店。
「早々」? メシが早く出てくるのか?
「曹操」? 武将のコスでお出迎えしてくるのか?

ではなく「草草」、菜食の献立による料理が食べられるお店のようです。


中に入店すると、すでに私の前に3人1組の女性が順番待ちをしているようです。
ただランチを食べに来たにしてはエライ着飾っている女性3人組。
年甲斐もなく自己を「女子」などと名乗りそうな・・・そんな3人組ですねぇ。「女子」じゃなくて「女史」なら許しますが。

席に案内されると・・・おおぅ、女史3人組の隣だ・・・。
おや、女史3人組の所に女傑1人が追加されたぞ・・・。

さてとランチをいただきましょうかねぇ。
お魚の日替わり献立をオーダー、と。
ご飯は五穀米のとろろご飯、なんとおかわり自由です。



なかなかよろしゅうございますな~
食事を駅のうどんで済ますこの旅ではなかなかの優雅なお食事です。

隣の女史4人組がいなければ、もう少し落ち着いていただけだであろうに・・・(^_^;)
私にとっては聞きなれない、彼女たちの伊予弁の話し声がいやでも耳に入ってきてしまいます。
どうやら結婚式の披露宴に出席するようで、スピーチの練習をしていました。

そうか、だからどぎついメイクしてたり、見せなくてもいいのに露出の高いファッションだったのか・・・。
「馬子にも衣装」だの「豚に真珠」だのいろいろな慣用句が脳裏に浮かんでは消えていく時間・・・(^_^;)



午後2時16分、「SOH SOH」を後にしました。





道後温泉でサイコロを振る?

2015-12-22 | どうでしょうロケ地


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 4 5 分

道 後 公 園 ・ 湯 築 城 址



道後公園をわずか7分で出て向かった先は、「日本書紀」にも登場する古くからの温泉・道後温泉です。



道後公園を出た途端、観光客でにぎわう道後の街並みへ。
「道後」と掲げられたアーケード街の前には、坊っちゃんカラクリ時計なる時計があります。

しかし松山駅13時34分発の伊予西条行き電車に乗る予定の私は、わき目も振らず、目的のあの建物へ急行。



夏目漱石「坊っちゃん」で、作中の主人公が風呂場で泳いだ(そしてそれを学徒に見られ、学校でからかわれた)という・・・



道後温泉本館【国指定重要文化財】です。


水曜どうでしょうの最初の旅企画「サイコロの旅」で、どうでしょう班が最初に来た地が松山。
深夜バス「オレンジ号」に乗せられてやってきた彼らは風呂に入りたかったらしく、ここ道後温泉の本館にやって来たのでした。



不条理に松山まで運ばれた若かりし日の大泉さんは、本館わきの「写るんデス」の自販機の前で豪快にころび、
「帰してくれんかぁ」
と心からのボヤキを披露します。



大泉さんがころびボヤいた現場は「夢蔵人」なるこじゃれた雑貨屋さんになっていました。



道後温泉に浸かって「ぬぅわぁ~」と雄たけびをあげることなく、早々に道後を後にしました。

次に向かうは、謎のまち・石仏のまち 臼杵!
ではなく、急いで松山駅に戻ります。





湯築城登城?

2015-12-21 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 後 1 2 時 2 3 分

勝 山 公 園 ・ 松 山 城 三 之 丸



松山城からの退路を誤り、思わぬ時間を食ってしまいました。
とりあえずレンタサイクル「174号」のもとにたどりつきました。



さて松山市内にはもうひとつ日本100名城が存在します。
それは湯築ゆづき
現在はすでに建物はなく、道後公園となっています。

「道後公園」ということは、あの有名な?道後温泉も近くにあるということです。

ともかく「174号」を駆って、湯築城へ急ぎます。



この日の予定もあいまって、松山に滞在できる時間は限られています。
13時34分発の伊予西条行きの電車に間に合うようにするためにも、残り時間は約1時間。


伊予鉄道の路面電車とともに、松山市内を急いで走り抜けます。



松山城三之丸内にある愛媛県庁舎・本館です。
昭和4年に落成し、今もなお現役の庁舎です。
現役の都道府県庁舎では3番目に古いもので、映画「世界の中心で、愛をさけぶ」ではヒロインが入院している病院のシーンでロケ地として使われたそうです。



愛媛県庁舎からほどなく近くにある大街道商店街のアーケード。
ここいらでランチやおみやを・・・なんて余裕はありません。

いよてつの路面電車とともに、道後方面をめざしひた走ります。




午 後 1 2 時 3 6 分

道 後 公 園 に 到 着




いよてつの道後公園電停の向かいに、

 

道後公園・湯築城址があります。


湯築城は、1335年ごろに伊予の守護大名河野通盛みちもりにより築城されたといいます。

戦国時代の1535年ごろ、河野弾正少弼通直みちなおにより外濠が設けられ、縄張りが現在のかたちとなりました。

弾正少弼だんじょうのしょうすけ」は通直が任じられた官位です。
弾正少弼通直の孫は伊予守通直と同じ名を名乗っています。

弾正少弼通直の代には、近隣の村上水軍と縁戚関係を結びますが、のちに離反されてしまいます。
また家中では後継争いなどが勃発し、勢力が弱まってしまいます。

伊予守通直の代になると、周囲が騒がしくなります。
隣国の土佐からは四国統一をもくろむ長宗我部元親ちょうそがべもとちかが攻め込んできます。
このときは瀬戸内海の向こうの毛利氏からの援軍を得て、なんとか自立を保ちました。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国攻めが始まると、毛利一族の小早川隆景の軍勢の前に降伏を余儀なくされます。
ここに大名としての河野家は滅亡しました。

河野氏のあとは、小早川隆景が城主となりますが、隆景はその後筑後国へ移ります。
その後は福島正則が城主となりましたが、天正15年(1587年)居城を国分山へ移したため廃城となりました。



というわけで、松山城に比べると経歴もパッとしない湯築城。
城主の河野氏は、「信長の野望」シリーズでも、瀬戸内海を越えてきた毛利家に攻められて滅亡したり(史実通り?)、土佐の長宗我部元親に滅ぼされたり、まれに豊後水道を越えてきた大友宗麟に攻められたりと、やられ役になってしまいがち。
しかしながら・・・

河野氏の隆盛は、まず源平合戦の時代にさかのぼります。
河野通信みちのぶは源氏方につき、屋島の戦い壇ノ浦の戦いに参戦し、その恩賞として伊予国の守護に任じられました。
しかし通信は、源氏将軍滅亡後の承久の乱では朝廷方(後鳥羽上皇方)についてしまい没落の憂き目を見ます。
通信のひ孫である通有みちありは、元寇(弘安の役)で活躍し、河野氏の復権につながりました。
南北朝時代、室町時代を通じ、足利将軍家や、大内氏、大友氏、毛利氏などの有力大名と同盟して伊予国の支配を守ってきましたが、やがて勢力は衰えていきました。

なお、鎌倉時代に時宗を興した一遍上人は、通信の孫にあたります。



うんうん、河野氏はなかなか頑張ったんだねぇ~。
「信長の野望」ではあっさり滅亡しちゃうけど(^_^;)


それでは湯築城登城開始。

まずは道後公園入口から連なる土塁
おそらくは水濠の盛り土から成るのでしょうか。

 

西側から登城しましたが、本来こちら側は搦め手(裏手)にあたります。



そして弾正少弼通直のころに設けられた湯付堀とよばれる水濠。


近くには資料館復元武家屋敷があるのですが・・・時間がない。



というわけで、観音寺城登城のときも使った手段で・・・



80番、湯築城!!



12時43分、滞在時間わずか7分にして、私は湯築城を後にしました。




午 後 1 2 時 5 2 分

ふ た た び 道 後 公 園


少しだけ時間がありそうだったので、道後公園の中を歩いてみました。

 

 



内側の水濠に沿って歩くと、日本庭園のような趣きを感じました。



12時55分、湯築城を退去。





松山城・最終章~意地悪すぎる天守

2015-12-10 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 5 年 3 月 2 1 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 2 7 分

松 山 城 天 守



松山城を登城して1時間経過。

たかだか1時間のことなのに、3話も使ってしまうほどに奥の深い松山城です。
今回で松山城は最終話です。約束しましょう!!



さて本丸に入った足軽(妄想中)の私は推定35機ほど討ち取られ、ようやく最奥の場所に着きます。



う~ん、敗因は・・・
カマこうげき!!を捨てて竹槍を取っちゃったり、大根を食べて異常にスピードが上がっちゃったりしたから・・・

そんなわけはなく、天守群の守りが厳重すぎて四方八方から狙撃を受ける格好になっているためです。




天守【国指定重要文化財】の足元にある入口・穀倉【国指定重要文化財】から、内部に入ります。


靴を脱いで入ると、さっそく100名城スタンプが置いてあります。



81番、伊予松山城!
絵柄はもちろん天守群ですね。

ちなみに「伊予」と(この期に及んで)つけましたが、100名城にはもうひとつ備中松山城が岡山県にあるのです。
そしてこちらも現存12天守のひとつを擁する名城です。


天守から、まずは内門【復元】に入ります。



内門から天守広場を望みます。
ここから女の子敵兵を狙い撃ちしたわけです。



反対側の窓からは仕切門内塀【国指定重要文化財】と、その先には松山の街が見えます。
こちら側は天守の裏手にあたります。


天守群の内部は資料館になっています。
松山城に限らずたいていの城はそうですが・・・ここで目を惹く1領の具足が。



よく展示されている名の知らぬ誰それの具足と思っていたら・・・
角頭巾形鳥尾飾兜すみずきんなりとりおかざりかぶと漆塗佛胴六間草摺素懸威鎧うるしぬりぶつどうろっけんくさずりすがけおどしよろい加藤嘉明着用と記されているではありませんか!
ただあくまで「加藤嘉明着用と伝えられる」とあるので、いわばホンモノかどうかはわかりません。

ただこのクソ意地悪い天守を考案した本人の具足と思うと、わくわくするものがあります。


内門から北隅櫓【復元】へ。



左から乾門いぬいもん東続櫓【復元】&乾門【復元】、乾櫓【国指定重要文化財】、やや手前に野原櫓【国指定重要文化財】。
松山城の搦め手を守る防衛ラインが一望できます。
つまりは、乾門を突破した足軽をここから狙撃するわけです。



今度は反対側の窓。
天守広場と、左から天守の一部、筋鉄門【復元】、小天守【復元】です。


続いて南隅櫓【復元】に移動。



南隅櫓からは本丸の様子がまるわかりです。
つまりは本丸に立った時点でここから狙われてしまうわけです!!

手前の平屋の建物が券売所です。
その先の二階建てのやぐらが馬具櫓【復元】。おそらく馬具を格納していたのでしょうか。
さらに先の左右のやぐらが、それぞれ太鼓櫓【復元】(右)、太鼓門北続櫓【復元】(左奥)です。
太鼓門北続櫓の手前には、伝承多い井戸がたたずんでいます。



南西方向を見やると、この日は入れなかった二之丸(二之丸史跡庭園)、その向こうに自転車を停めた三之丸



三之丸のさらに先には、松山市街が広がっています。
ぼんやりして見えにくいですが、中央に見える円は「くるりん」という観覧車で、そこに伊予鉄道松山市駅があります。


小天守に入りました。



小天守からの眺望その壱。
右下の一ノ門【国指定重要文化財】から入って、中央の三ノ門南櫓の裏にある二ノ門【国指定重要文化財】を通り、左の三ノ門【国指定重要文化財】をくぐって、左下に続く仕切門【国指定重要文化財】から天守広場に行けます。
しかしその通路のほとんどが小天守からの射程圏内。
しかも狭い通路とあって、通過には相当の犠牲を払う必要がありそうです。



小天守からの天守広場
北隅櫓玄関から内門が続きます。



小天守の窓からの天守
次はいよいよ天守に登ります。



天守に登る階段。
現存天守らしく傾斜は45度を超える急なものとなっています。
女性の方はスカートを防衛する策を講じなければなりませんなぁ(*^_^*)



天守内にある石落とし
「石落とし」という名称ですが、実際にはここから石を落とすのではなく、鉄砲を突きだして狙撃をしていたようです。


天守の最上層に着きました。



天守から東を望みます。
次に行く湯築城道後公園はあのあたりかな?



天守の北側。
松山の街は大きいですなぁ。



天守の南側は本丸の様子がよくわかります。
本丸にいるだけで天守からの射程圏内というわけです。



天守からの眺望を愉しみ、天守群から戻ります。



帰りは仕切門【国指定重要文化財】から出ました。

・・・記述がずいぶんあっさりですが、出ました。



天守群入口に、城主のこの御方がいらっしゃいました。



松山城公式マスコットキャラクター「よしあきくん」です。


松山城を築城した加藤嘉明(かとう よしあきは、豊臣秀吉の子飼いの部下のひとり。
柴田勝家と秀吉との間で起きた賤ヶ岳の戦いで活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられるほどの武功を挙げました。
その後は四国征伐朝鮮出兵で活躍。
伊予正木(現在の松山周辺)6万石の大名となりました。

そのころ宇和島には藤堂高虎が7万石の大名として統治していました。
嘉明と高虎は領地が隣接していたためいさかいを繰り返し、また熾烈な戦功争いを繰り広げます。

秀吉死後は、徳川家康に与し、関ヶ原の戦いでは西軍の首魁石田三成本隊と交戦し、戦功を上げました。
戦後は20万石に加増。
高虎も今治などの領地を与えられ、同じく20万石の大名となります。

嘉明は家康の許可を得て居城を移転し、「松山」と改称しました。

松山城がひとまず完成した直後の寛永4年(1627年)、蒲生氏の減封にともない、所領が伊予松山から陸奥会津若松に移ることとなりました。
石高は倍増の43万石。
この移封には、長年のライバルであった藤堂高虎が将軍徳川家光に薦めたことにより実現しました。
長年いがみ合っていた嘉明と高虎は、この件により和解し、以後は親しく接したといいます。

寛永8年(1631年)江戸在住のおりに死去。享年69。



藤堂高虎は戦国時代で一二を争う築城の名手とされますが、いやいや加藤嘉明も負けてはいません!!
それはこの松山城を歩けばすぐにわかるでしょう。





帰りはルートを変えて、搦め手にあたる乾門から退出しました。