鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

会津の名勝・御薬園

2013-01-24 | 公園・庭園

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 1 時 0 8 分

福 島 県 会 津 若 松 市

御 薬 園



会津若松城の三の丸から市街地を歩いて約15分、会津の大名庭園・御薬園に着いた。



入園料は大人310円。
私はあらかじめ共通券(鶴ヶ城天守・茶室麟閣・御薬園)を購入していたので、そのまま入園。



会津藩主の別荘で、藩の薬草園があったため「御薬園」の名で呼ばれる。

もとは会津領主・蘆名氏のころに原形とされる庭園がつくられたという。

その後会津松平家2代当主・松平正経(保科正之の子)のころ、薬草園が造成された。
3代当主・正容(まさかた)のころ庭園が大幅に改修され、小堀遠州流の庭園が作庭された。

幕末では、藩主・松平容保が鳥羽伏見の戦いの後に会津へ戻った際、会津若松城に入城せず、御薬園に蟄居し恭順の意思を表した。
しかし会津戦争が起こると、御薬園は新政府軍(西軍)の野戦病院とされ、戦災を免れる。

現在も、薬草園では約400種の薬草が栽培されている。






しかし時季をおおいに外してしまい、薬草園はじつに寂しいものであった。

白い2階建ての建物は、重陽閣という。
昭和3年(1927年)秩父宮勢津子妃殿下のご一家が宿泊した旅館で、昭和48年にこの場所に移築したものである。

薬草園は1分で退場・・・。


そこで、御薬園の庭園部分(会津松平氏庭園【国指定名勝】)をじーっくり回った。
所要時間は20分とわりと大きくない庭園ではあるが、私は園内を2周し、だいたい50分ほど滞在した。




庭園の中を占める心字の池と、池に浮かぶ亀島、そこにたたずむ茶室・楽寿亭
この角度ではちょっと島に見えないかも。

とりあえず心字の池を時計回りに歩いてみた。



樹齢推定500年のハイゴヨウマツ
伊達政宗や上杉景勝、保科正之ら歴代の領主たちがこの松を観賞したのだろうか。



ハイゴヨウマツのところで振り返ってみた。
別の松の向こうにたたずむのは、御茶屋御殿
明治時代に里帰りした元藩主・松平容保が数年居住した。



ハイゴヨウマツから少し歩いたところ。
楽寿亭が島の上に建っているのがよくわかりますなぁ。



同じところから左を見ると、心字の池に注ぐ水流がある。
水流はみぎわで石組が組まれ、女滝をなしている。

画像左上の石塔は、三重塔【福島県指定文化財】。




女滝のあたりから心字の池をながめてみた。




橋を渡って楽寿亭へ。



案内によると・・・
藩主や藩の重役たちが、納涼・茶席・密議などのために用いた。
「楽寿亭」の名は、3代藩主・正容によって命名された。
北側の濡縁には戊辰戦争の際の刀傷が今も残る。

・・・というわけで半ば必死こいて刀傷を探してみた。



たぶん・・・上の削られたようなやつだよねぇ?




庭園内に祀られる朝日神社
近くには水流があり、この水流にも男滝がつくられ、心字の池に合流する。



池沿いを歩いて、庭園の南側へ。
池の向こうには御茶屋御殿と楽寿亭。



庭園の南側から。
こたびは御茶屋御殿と重陽閣。


御茶屋御殿に着いた。



いつもどおり、お茶を一服。



足下にはカモが羽を休め、あるいは水で遊ぶ。


一服ののち、私は心字の池をもうひと回り。



ここのおみやげ店で会津の民芸品・起き上がり小法師(1体200円)を買って、御薬園を出た。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第32話へ続く。

隠匿の麟閣?会津若松城・其之参

2013-01-19 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 1 2 時 1 4 分

福 島 県 会 津 若 松 市

会 津 若 松 城 本 丸





会津若松城の本丸南東にたたずむ茶室・麟閣


ときは豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたころ。
会津若松城の城主は名将・蒲生氏郷
中央政界では、氏郷の茶の師匠で、秀吉の茶の師匠でもあった千利休が健在であった。

しかし利休と秀吉は、茶の精神性をめぐって、あるいは政治のあり方をめぐって対立を深めていく。
ついに秀吉は、利休に切腹を命ずる。
切腹後、利休の首は京の市中にさらされ、犯罪人の扱いを受けてしまう。

利休は、子に長男・道安と次男(養子)少庵がいた。
道安は細川忠興が、少庵は蒲生氏郷が、それぞれ蟄居を引き受ける形で匿ったという。

麟閣は、蒲生氏郷のもとで匿われた少庵が、氏郷に感謝するために造らせた茶室であるという。

道安は、堺千家の祖となったが、現在は途絶えてしまった。
少庵も、利休の茶の道を受け継ぎ、武者小路千家・表千家・裏千家の三千家の祖となる。
千家は、少庵の孫の代で三千家に分かれることとなり、それぞれが現在に継承されている。





麟閣の敷地内に入ると、まず現れる寄付【移築復元】という建物。
茶会に先だって、客が待ち合わせをしたり、身支度を整えたりする、準備用の建物である。



寄付よりも簡易なつくりの建物は、腰掛待合【移築復元】という。
茶会の客が、亭主の迎えを待ったり、茶会の模様がえのときに客が待つ場所であった。



茶室の手前にある水場は、蹲踞(つくばい)という。
茶室に入る前に、俗世の穢れを洗い流し、清らかな心で茶に臨むものとされた。



蒲鶴亭(ほかくてい)は、茶室に隣接する書院。
茶室では一切の華美が許されないのに対し、書院ではある程度の華美は許されていた。



蒲鶴亭に上がろうとするとアラームが鳴るらしい!!



蒲鶴亭の裏手に回ったところが、茶室・麟閣躙口(にじりぐち)である。



茶室の柱には、少庵が自ら削った跡が残っているという。



ああ、茶がうまい~



会津若松城を出る前に、もう一度天守を仰ぎ見る。



そして東側から出た。





本丸と二の丸を隔てる石垣と水濠はなかなか見事。



二の丸から三の丸を分ける空堀もすばらしい。


このまま歩いて、次の目的地へと向かった。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第32話へ続く。

赤い??会津若松城・其之弐

2013-01-18 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 前 1 0 時 3 4 分

福 島 県 会 津 若 松 市

会 津 若 松 城 北 出 丸





北側の太鼓門跡からの復興天守



本丸に入って北西側からの復興天守。



太鼓門跡付近にたたずむ鶴ヶ城稲荷神社は、会津若松城の守護神として鎮座している。



天守の北東、本丸埋門跡
往時の会津若松城は、天守から南方向と北東方向に長櫓が設けられ、本丸が二分されていた。
北出丸から入ってきた者は、北東の本丸埋門か南の門かを通る必要があった。


天守の東南は、かつて御殿があり、また天守の入口があり、会津若松城の中核をなす部分であった。



天守への入口がある東側。
傍らにある券売所では、入城券(大人500円)とともに鶴ヶ城・茶室麟閣・御薬園の共通券(大人700円)が買える。
当然、210円お得な後者を選択。



天守への入口は、石垣のあいだから。



入口付近には、江戸時代初期に再建された当時の石垣が残る。


鶴ヶ城の天守内は、だいたいどこも同じだが、歴史資料館になっている。
そして、鶴ヶ城は主を何度も変えた城であるから、ゆかりの人物も多く、おのずと資料も豊富にある。
その中の展示物を紹介しよう。



黒い鎧具足は、名を紺糸(おどし)二枚胴具足(伝直江兼続所用)という。
関ヶ原の戦い以前の城主であった上杉景勝の家老・直江兼続が使っていたらしい。
直江兼続は、「愛」の文字を前立てにした兜が有名だが、「愛」の兜とセットで着用していたのだろうか。



模擬火縄銃
戦国時代の火縄銃をかたどったもので、もちろん発砲することはできない。
ただ、重さは本物を再現しており、持ってみると意外にずっしりと腕に重みがかかてくる。



会津の民芸品のひとつである会津ろうそく
ろうそくに彩色豊かな絵を描いてあるのが特徴。
会津では、武士階級の内職でろうそくが生産されていた。


天守の最上階から方々を眺める。



南には、天守から伸びる走長屋(くろがね)干飯櫓が本丸を分断している。



南東にたたずむのは、麟閣という茶室。



北東には、雪をかぶった会津磐梯山がそびえ立つ。



鶴ヶ城の建物には、赤瓦というあずき色の屋根瓦が使われている。
江戸時代の鶴ヶ城は赤瓦が使われていたという記録があり、



復興天守の瓦は、以前の灰色(左)から平成23年までの工事によって現在の赤瓦(右)となった。


100名城スタンプは天守にあるので、忘れずに確保。



12番、会津若松城(鶴ヶ城)!
絵柄はやはり復興天守。


天守を下りた。



南側から見た鉄門



さらに南側から見た鉄門と天守。



干飯櫓(左)はこんな感じ。



南東からの鉄門と天守。



鉄門をくぐって表側へ。



鉄門のそばにひっそりたたずむ、上杉謙信公仮廟所跡
上杉謙信は死後、甲冑姿で甕に収められ、越後の春日山城に葬られた。
後を継いだ上杉景勝が越後から会津に移封されると、この付近に仮屋を建て、上杉謙信の遺骸を安置したという。、
上杉家が米沢に移ると、謙信の遺骸も米沢に移っていった。


こんどは本丸の南東へ。



「荒城の月」の歌碑。
仙台生まれの歌人・土井晩翠は、青葉城(仙台城)と鶴ヶ城をモチーフにして作詞したという。
晩翠の自筆をもとにした歌碑で、晩翠夫妻を招待して除幕式が行われた。

春高楼の 花の宴
めぐる盃 影さして
千代の松が枝 分けいでし
むかしの光 今何處


歌碑のあたりには月見櫓が建っていた。



正規の役割は、武器の保管であったが、ここからの月がなかなか美しいということで月見櫓という名があったという。



現在は桜の名所とされている。
桜花につつまれる鶴ヶ城の天守を、心の眼でご覧くださいませ・・・。




主は変わる・会津若松城

2013-01-10 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 前 1 0 時 3 4 分

福 島 県 会 津 若 松 市

会 津 若 松 城 北 出 丸





会津若松城の登城は、北からスタート。





北の守りを固める北出丸
このあたりの石垣は300年以上前のものという。



北出丸大手門跡から入る。
石垣がクランク状に組まれていて、先が見通せない構造となっている。

北出丸に侵入した敵兵を、三方から攻めることができ、鏖丸(みなごろしまる)とも呼ばれていた。




北出丸から本丸へと通ずる太鼓門跡
往時は多聞櫓という城門と一体となった形式の櫓が建てられていて、大きな太鼓が備わっていた。



太鼓門は本丸へと通ずる大手門(表玄関)でもあったので、石垣に用いられる石がじつに巨大。



太鼓門の石垣には、本丸側にこのようなV字状の階段が備わっている。
これは武者走りといい、櫓への昇降がラクになる工夫だ。
階段の上の部分には石を積まなくてよいことから、石の節約にも一役買っている。




本丸に立っている案内看板。
会津若松城は、戦国時代から江戸時代初期までは、頻繁に主を変えた。

   1.葦名氏 1384年~1589年
   2.伊達氏 1589年~1590年
   3.5.蒲生氏 1590年~1598年、1601年~1627年
   4.上杉氏 1598年~1601年
   6.加藤氏 1627年~1643年
   7.8.保科氏・松平氏 1643年~1868年

会津若松城は、はじめ黒川城といった。
1384年、蘆名(あしな)直盛が建てた黒川館がはじまりとされる。
蘆名家は、当主が盛氏のときに奥州を代表する勢力になるが、その後は当主の若死ににより動揺していく。
家中は、常陸の大名・佐竹義重の次男・義広を養子に迎え当主に迎えた。

米沢城主であった伊達政宗は、奥州に覇を唱えるべく蘆名の打倒を目指す。
このころ、豊臣秀吉は関白に叙任され、惣無事令(私戦禁止命令)を全国の大名に発布する。
政宗はこれを無視し戦いを続行、1589年摺上原(すりあげはら)の戦いで蘆名義広を破る。
義広は黒川城を捨て実家の常陸に戻っていった。
伊達政宗が黒川城を手に入れ、ここを居城とした。
(ちなみに政宗は、黒川城で実母・毒を盛られ!! さらに弟・小次郎を自らの手で斬ることとなる)
(もうひとつ、蘆名義広はのちに佐竹家が関ヶ原の戦役後に秋田に移封となると、現在の角館一帯を治めることとなる。角館の街並みのルーツになった人物である)
伊達政宗は奥州に覇を唱えることに成功したが、秀吉は関東に大軍を送り天下統一を間近にしていた。
政宗はあっさり秀吉に降伏、秀吉の奥州仕置により会津を没収されてしまう。

次に黒川城の主となったのは、蒲生氏郷(がもううじさと)であった。
秀吉が恐れるほどの才略をもっていた氏郷は、奥州の伊達と関東の徳川家康の抑えを期待され、これに見事に応えた。
氏郷は城下の整備にも着手し、町の名を「若松」に改めた。
「若松」の名は、氏郷の故郷である近江国日野の地名に由来する。
また黒川城を改築し7層の天守を建造、城の名も「鶴ヶ城」と改めた。
「鶴ヶ城」は、氏郷の幼名・鶴千代に由来する。
蒲生氏郷は、現在の会津若松の基礎をなした人物として敬われている。

だが、蒲生氏郷は40歳の若さで亡くなってしまう。
氏郷の辞世の句は秀逸!!
氏郷の子・秀行が継ぐが、度量は父に劣るとされたため、宇都宮に移封されてしまう。
その石高、90万石から16万石の大減封!!

蒲生秀行の後を継いで会津の主となったのは、越後の上杉景勝であった。
上杉景勝は関ヶ原の戦役で西軍についたため、会津領を没収された。
会津は再び蒲生秀行の所領となった。

蒲生秀行の死後、蒲生家の家中はお家騒動を起こしたため、再び所領を没収されてしまった。
伊予松山から加藤嘉明(よしあきら)が新たな城主となった。

加藤嘉明の孫にあたる明成も、鶴ヶ城の改修に着手している。
北出丸が築かれたのは、明成のころである。
また、蒲生時代の7層の天守が地震により破損したため、新たに5層の天守を建てた。
現在の復興天守は、加藤時代の天守をモデルとする。

加藤明成が亡くなると、加藤家は後継ぎが絶えてしまい所領没収となった。
その後には、老中として初期の幕政を支えた保科(ほしな)正之が城主となる。
保科正之は、恐妻家の2代将軍・徳川秀忠の隠し子であったため、保科家に養子に出されていた。
正之は保科家に恩義を感じ、資格があるにもかかわらず松平姓を名乗らなかったという。
正之の子の代から松平を名乗り、幕末に会津戦争を戦う松平容保(かたもり)まで続くこととなる。


↑長い!!
文章をまとめる能力のなさがでていますなぁ(^_^;)
政宗なんて1年も城主務めていないのにやたら文章が長いですが、政宗公が好きなんで仕方がないですね。

この回は蒲生氏郷の辞世の句で締めましょう。

限りあれば 吹かねど花は 散るものの
心短き 春の山風


(花のいのちは元より限りあるもので、風がなくても散っていくものだ。
なのにどうして春の山風は、短気に花を散らしていくのだろう・・・)




ハイカラさんに乗り込んで

2013-01-07 | 移動の旅

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 前 9 時 4 3 分

福 島 県 会 津 若 松 市

J R 会 津 若 松 駅



会津若松駅に着いて、駅そばで小腹を満たし、駅の外へ出る。
駅から出たところにコインロッカーが並んでいたので、ここに荷物を預け会津を回っていく。



駅入口に立つ大きな大きな会津の民芸品・赤べこ

あるお寺のお堂を建てるとき、上流の村から大量の材木を寄進された。
しかし、水量の多い川だったので、材木を運ぶのは簡単ではない。
人々が材木を運ぶのに難儀していると、どこからか牛(べこ)の群れが現れ、材木の運搬を手伝ってくれた。
重労働で多くの牛が倒れる中で、最後まで働いたのが赤色の牛だったという。




白虎隊像も入口近くにたたずんでいた。


ところで、会津若松の周遊バスは、「あかべぇ」「はいからさん」の2本がある。
「あかべぇ」が、
JR会津若松駅 → 飯盛山 → 武家屋敷&東山温泉 → 御薬園
→ 会津若松城 → 野口英世青春通り → JR七日町(なぬかまち)駅 → JR会津若松駅
と、東回り(外回り)に市内をめぐる。
「はいからさん」は「あかべぇ」とは反対の西回り(内回り)。
時刻表によると、両バスが会津若松駅を15分ごとに出るようだ。

運賃は、目的地を問わず1回200円。
1日周遊券が600円で、こちらは会津若松城などの入場料に割引がきく。




午 前 1 0 時 0 7 分

は い か ら さ ん に 乗 車


はいからさんは、予定より5分程度遅れて出発。
観光案内所にいた私は、やや駆け込み気味に乗車。
急いで乗車したため、周遊券を買いそびれてしまった。

乗車して程なくすると、車内に歌謡曲が流れる。
南こうせつ氏の「AIZUその名の情熱」という曲で、会津若松駅の発車メロディにもなっている。

こじゃれた駅舎のJR七日町駅を通過。




午 前 1 0 時 3 0 分

北 出 丸 大 通 り


会津若松城のひとつ前である北出丸大通りバス停で下車。



西郷頼母(たのも)邸跡の碑。

西郷頼母は会津藩最後の家老。
幕末期、藩主・松平容保(かたもり)京都守護職に推挙されると、領内の負担増から強く反対し、家老職を罷免された。
倒幕後、家老に復帰、会津戦争を指揮した。
明治政府軍が会津の城下に迫ると、頼母は新政府への恭順を進言するが、藩士の多くは反対、事実上追放される。
このとき頼母邸にいた女子たちは、籠城戦の足手まといになることをおそれ、皆自害して果てた。



西郷頼母邸から歩いて3分ほどで、



鶴ヶ城(会津若松城)の入口に到着。




Battle of Sweets 福島編

2013-01-01 | 移動の旅
2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 前 6 時 0 0 分

J R 仙 台 駅



仙台最後の朝は実にあっさりしたものだった。
ホテルを出て、朝食を抜いたまままっすぐ駅へ歩き、そのまま列車へ。


JR仙台駅6番線 6時03分発
  東北本線 普通 郡山行き
  郡山駅4番線 8時23分着

船岡駅(宮城県柴田町)付近の車窓から。



こんなところに観音様は立っていたか??
大学時代から東北本線には何度も乗っているが、この観音様の記憶が一切なかった。
後で調べたら、この観音様は船岡観音といい、立っている場所は船岡城址ということだった。




午 前 8 時 2 3 分

J R 郡 山 駅


この日は会津若松を歩くことにしていた。
郡山駅で磐越西線に乗り換えるが、乗換時間は10分もない。

この短時間の間に、駅ナカのおみやげ館に駆け込む。

郡山のスイーツは、
 ・ままどおる(三万石)
 ・エクソンパイ(三万石)
 ・薄皮饅頭(柏屋)
さまざまあるが、私が目を付けていたのはもちろん・・・



奇襲の本家ゆべし(かんのや)!!

ゆべし1箱を速やかに購入すると、おまけのゆべしをもらえた。
またまたいいおやつですな。


JR郡山駅1番線 8時32分発
  磐越西線 快速 会津若松行き
  会津若松駅1番線 9時43分着





磐越西線の車窓からは、春なのに真っ白な世界が広がっていた。