鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

20年ぶりの磐越東線

2019-04-30 | 鉄道の旅


2 0 1 8 年 9 月 1 日 ( 土 )

午 前 5 時 2 9 分

千 葉 県 柏 市

J R 柏 駅



先週の沼田城&名胡桃城の登城に続いて、9月最初の土曜日も城攻めに赴きます。



旅の出発地は、おなじみとなってきましたJR柏駅
私自身、柏に引っ越してから1年がたち、すっかり生活の一部となってきましたね。
今回は東口から、柏高島屋ステーションモールを仰ぎつつ、駅へと入っていきます。



今回の旅最初の電車は、5時38分発 常磐線 快速電車 勝田行きです。
鬼ヅモ大会前に登城した土浦城笠間城と同じ方向ですが・・・今回はもっと先へとまいります。
笠間城のリベンジは、今回はしません。


リベンジといえば、私は様々な事情により登城を未完とせざるを得ず、涙を呑んで引き返す場面が多々ありました。
振り返ってみると・・・

姫路城・・・・・・2回登城したが、2回とも大修復期間だったため天守閣に入れず。
観音寺城・・・・・・夕刻だったため登城を見合わせ、スタンプのみゲット。
湯築城・・・・・・次に登城する今治城の登城時間を考慮し、スタンプゲットのみ・・・だったのに私のカン違いで列車の発車時刻を1時間以上早く見積もってしまう。(ホントはしっかり登城する時間があった。西条北条事件)
久保田城・・・・・・「北日本完全制覇」と銘打ったが旅行日数が足らず、通過を余儀なくされる。
本佐倉城・・・・・・スネークの大好きな私が、マムシにおびえて退去。
笠間城・・・・・・ヤブ蚊の大群を前に、あえなく撃沈。
唐沢山城・・・・・・携帯の気象レーダーを見て雷雨に遭いそうだったので取りやめ、忍城に転進。
岩櫃城・・・・・・到達予定時刻が夕刻になりそうだったので、登城を断念。

こういった城は必ずリベンジするのが義務というもの。
そして今回は・・・



城攻め旅第2弾「福島二千円の旅」にて門前払いを食らった白石城のリベンジを最終目標といたします。


昔話でやや尺を稼いでしまいましたが、進路を北にとり水戸方面へ。
そういえば水戸も久しぶりですね~、水戸の手前の友部まではよく来ていましたが。
友部から先の常磐線は、「城攻め」空白地帯。



この日最初の攻略は6時47分、内原駅加倉井館(水戸市)を攻略。
続いて6時51分、赤塚駅河和田城(水戸市)を攻略。



6時55分、偕楽園駅付近で見川城(水戸市)を攻略。
この日最初の浪人、佐竹義堅、佐竹義久、江戸忠通、車斯忠(つなただ)を登用しました。




午 前 6 時 5 7 分

J R 水 戸 駅




水戸駅に到着。
電車はひとつ先の勝田駅まで行くのですが、水戸駅から北へ向かう始発電車が出るので、ここで乗り換えます。



今度の電車は、7時03分発 常磐線 普通電車 いわき行きです。
発車標を見ると、「仙台」の表記が復活しています。
(平成26年に水戸城を訪れたときは、「仙台」の表記は隠されていました)
常磐線の不通区間は、福島県の富岡駅から浪江駅までを残すのみとなりました。
東日本大震災からの復興はまだまだ道半ばではありますが、常磐線の完全復活まではあと少しのようですね。

さて水戸駅では、



日本100名城・第14番、水戸城攻略!
さらに武熊城吉田城(いずれも水戸市)と勝倉城(ひたちなか市)も攻略できました。



水戸城主・佐竹義宣登用!
水戸の殿様といえばやはり「水戸黄門」徳川光圀があまりにも有名ですが、関ヶ原の戦い以前は佐竹氏が水戸のお殿様でした。
佐竹義宣は関ヶ原では石田三成に味方し、徳川家康に援軍を派遣しなかったため、戦後秋田に移されてしまいます。
その腹いせに、水戸の美人という美人を秋田に連れ去ってしまい、そのため秋田は「三大美人」、水戸は「・・・・・・・・」となってしまった、とか。


電車は水戸駅を定刻どおりに発車。



那珂川を渡り、水戸市からひたちなか市へ。


7時12分、佐和駅多良崎城(ひたちなか市)と南酒出城(那珂市)を攻略。
7時17分、東海駅石神城(那珂郡東海村)と額田城(那珂市)を攻略。


電車は日立市内に入り、7時24分に茨城屈指の難読駅・・・



大甕駅へ。


7時35分、日立駅助川城(日立市)を攻略。
7時49分、高萩駅松岡城(高萩市)を攻略、戸沢政盛を登用。
7時57分、磯原駅車城(北茨城市)を攻略。

戸沢政盛は角館(秋田県)の殿様でしたが、関ヶ原後、高萩に移されてしまいます。
その後山形で最上氏が改易になると新庄に移り、戸沢家は明治維新まで代々新庄を統治することとなります。


茨城県最後の駅・大津港駅を過ぎると、常磐線の車窓から太平洋が見え始めます。



景勝地・五浦(いづら)海岸を右手に眺め、



しばし海沿いを走り、トンネルを過ぎて海から離れると県境を越え、福島県いわき市内に入ります。



8時09分、福島県最初の駅は屈指の難読駅・勿来駅
「なこそ」・・・「勿」の字が「な」で、「来」が「こ」だとして、「そ」って何よ???

かつて国語の古文の時間に、「***」で「***してはいけない」という文法を習いました。
なので「なこそ」は、「来てはいけない」という意味があります。
朝廷の支配が東北地方に及んでいない奈良・平安時代においては、未開の地の入口であるこの地は、まさに「来てはいけない」地だったのです。


歴史と古典のお勉強にもなる勿来駅を後にして、電車はいわき市内を走ります。
かつては、日本一面積の大きな市であったいわき市。
(平成の大合併を経て、現在日本一面積の大きな市は岐阜県高山市。いわき市は12番目)
いわき市最初の駅・勿来駅から26分かかって、



8時35分、終点・いわき駅に到着しました。




午 前 8 時 3 5 分

J R い わ き 駅


先ほど述べたとおり常磐線はこの先に不通区間があります。
白石城のある宮城県に到達するには、ここで列車を乗り換える必要があります。



今度の列車は、8時41分発 磐越東線 普通列車 郡山行きです。
磐越東線は磐城・越後を結ぶ路線の東側、いわき駅・郡山駅間を結ぶローカル線。
乗車するのは大学生のとき以来・・・・・・時の流れは恐ろしや。



列車はキハ110系気動車というそうですが、大学のときもこんな感じの車両だった気がします。
なんとなく時代に取り残されてしまったような感じがします。


いわき駅でも「城攻め」

 

磐城平城高久の古館(いずれもいわき市)と真壁城(双葉郡富岡町)を攻略。
佐竹貞隆、岩城重隆、岡本顕逸、佐藤好信の4人を登用できました。



8時41分、磐越東線の気動車は定刻どおりいわき駅を後にしました。



はじめのうちはいわきの市街地を走る列車も、ものの数分で田園地帯に。



人家もまばらになっていきます。



9時01分、いわきから3駅目の江田駅
山川迫る小さな集落にある無人駅ですが、駅前のお食事処の寂れ具合を見ても、時代に取り残された感じを覚えます。



その先は人家も途絶え、渓流沿いを進んでいきます。
川の名前は夏井川というそうです。





車窓に見える夏井川渓谷



川を離れれば、田。



田を離れれば、川。
東北地方第2の人口を誇る市とは思えないような景色とともに、いわき市を脱出します。


「城攻め」は・・・9時20分、夏井駅小野城(田村郡小野町)を攻略しました。
このあたりはあまりお城がなかったのでしょうね。




なにやら川沿いに並木が立っているように見えます。
夏井千本桜という桜の名所なのだそうです。
ここを過ぎると小野新町(おのにいまち)へ。
小野新町からは徐々に乗客が増え、車窓にも町が見え始めます。



10時05分、



三春駅に到着。
白石に行く前にここで下車し、この日最初の登城へと向かいます。



【今回の乗車記録】

JR東日本 [JJ07]柏駅 4番線 5時38分発
常磐線 快速 勝田行き 10両
水戸駅 4番線 6時58分着

水戸駅 3番線 7時03分発
常磐線 普通 いわき行き 10両
いわき駅 2番線 8時35分着

いわき駅 6番線 8時41分発
磐越東線 普通 郡山行き 2両ワンマン
三春駅 2番線 10時05分

*所要時間 4時間27分 (移動時間 4時間16分 乗換時間 11分)
*移動距離 256.2km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、4,750円)





ゲリラ豪雨を駆け抜ける

2019-04-13 | 鉄道の旅


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 3 時 2 1 分

群 馬 県 利 根 郡 み な か み 町

水 上 温 泉 街 を 歩 く



水上温泉ふれあい交流館で日帰り入浴をした私は、JR水上駅へと歩いていました。



通りの横を駆け出していく機関車。
この日に走る臨時列車・SLみなかみ号です。
こういう機関車を条件反射的に撮ってしまうあたり、私も「鉄の者」の血が流れているのでしょうか。

 ※現在は「SLみなかみ号」ではなく「SLぐんま・みなかみ号」として運行されているようです。



JR水上駅に到着。
駅舎の頭上にかかる、怪しげな雲・・・余計な散策は控え、駅でじっと待つとしよう。
対面の土産物屋で何も買うことはなく、



帰りの電車を待ちます。
今度の電車は、15時53分発 上越線 普通電車 高崎行きです。
上りの電車は1時間に1本の割合で発車しますが、下りはなんと1日にたったの5本
関東地方屈指の地獄表が、この水上駅には存在するのですね。

 ※「地獄表」 みうらじゅん氏の造語で、はまったら地獄のように出られないほど本数の少ないダイヤの時刻表をいうそうです。




高崎行きの電車に乗り込み、水上駅を後にします。







ゲリラ豪雨、ついに襲来!





打ち付ける豪雨に耐えながら、電車は南へひた走ります。
そして沼田駅付近・・・



続日本100名城・第138番、沼田城攻略!
同時に小中城(利根郡片品村)も攻略し、



矢沢頼綱さんを家臣に加えました。

頼綱さんは真田頼昌の三男で、幸隆の弟、昌幸の叔父にあたります。
兄の幸隆とともに武田信玄に仕え、岩櫃城の攻略、沼田城の攻略を指揮したといいます。
沼田城の城代に任じられてからは北条氏邦などの侵攻を撃退し、真田の沼田領を固守し続けました。

そういう経歴もあって、知行は1万石ですが能力値はなかなか高めですね。

沼田城に登城したのに「城攻め」を忘れるというミスをしましたが、なんとか挽回できたようですね。






利根川とともに、南へ。



綾戸ダムを通過。


16時30分、渋川駅に到着。



先に水上駅を発ったSLみなかみ号が待避線に入っています。
渋川駅でSLを置き去りにして、電車は進んでいきます。



鉛色の雲は、赤城山の方へ向かっています。



前橋市内に入り、青空が見えてきました。
電車は豪雨の中を駆け抜け、ついに雨雲の下を脱出したようですね。
心なしか、向こうの群馬県庁舎も美しく見えますね。




午 後 4 時 5 6 分

J R 高 崎 駅


水上から約1時間、



16時56分に高崎駅に到着しました。
この先は「城攻め」も完了しているので、淡々と進みましょうか。



高崎駅からは、16時59分発 高崎線 普通電車 上野東京ライン・東海道線直通 小田原行きに乗車。
なんと群馬県の入口から、神奈川県の西の方まで乗り換えなしでいけるのじゃ、便利な世の中になったものよのぅ。



18時48分、上野駅に到着。



18時54分発 常磐線 快速電車 勝田行きに乗り込んで、



19時25分、旅の終着地・柏駅に着きました。
今回の画は南口の駅看板にしてみましたが・・・ブレてしまいました。



【今回の乗車記録】

JR東日本 水上駅 1番線 15時53分発
上越線 普通 高崎行き 4両
高崎駅 8番線 16時56分着

高崎駅 7番線 16時59分発
高崎線 普通 上野東京ライン東海道線直通 小田原行き 10両
[JU02] UEN 上野駅 7番線 18時48分着

[JJ01] UEN 上野駅 10番線 18時54分発
常磐線 普通 勝田行き 15両
[JJ07]柏駅 4番線 19時25分着


*所要時間 3時間28分(移動時間 3時間19分  乗換時間 9分)
*移動距離 189.6km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、IC運賃 3,024円)




午 後 8 時 3 0 分

本 拠 地 に て


駅前でラーメンを食し、女王様のもとへ戻りました。



今回の貢物はコチラです。



さっそく開封♪
吉本ばなな女史のメッセージカードとともに、まさに樫の木のごとく身の詰まったバウムクーヘンが登場。



ひっ、ひぃぃ・・・
卓上に置いてあったのは、この日に新調したというパン切り包丁です。
おおぅ、バウムクーヘンを割くになんぞ大包丁を用いんや・・・



日本100名城登城の旅・第17弾「上州の六文銭」 完

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水上温泉ふれあい交流館

2019-04-13 | 温泉・銭湯


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 2 時 1 5 分

群 馬 県 利 根 郡 み な か み 町

J R 水 上 駅





水上駅の外に出ました。



駅の対面にある土産物屋や飲食店をチラッと見て、スルー。
そのまま南へ進み、旅館街へ。


途中、利根川の流れる谷底への階段を下り、



渓流のそばを歩いてみました。









ご立派な旅館が見えてくるあたりで、遊歩道は終了。
階段を上がっていくわけですが・・・

りっぱな旅館がほとんど廃墟になっている・・・。



駅前の周辺図をよく見ると・・・
現在営業している旅館は、この図を見る限り「一葉亭」「聚楽」「松葉屋」「松乃井」の4軒だけのようです。
利根川の遊歩道から見える「Juraku(聚楽)」も廃墟になっていて、「聚楽」さんは隣りで規模を縮小して営業しているようですね。

水上温泉が一大温泉地であるというイメージの私は、軽い衝撃を受けましたね。


温泉街を南北に分断する利根川
その繋ぎとなっている湯原橋を渡ります。



眼下を流れる利根川。
向こうに見える建物のうち、営業している旅館はたったの1軒。



こちらは下流側。
ちょうどこの橋の下がラフティングのスポットとなっているのでしょう、続々とゴムボートが流れていきます。
見事な渓谷とともに、右岸には廃墟となった旅館がせり出しています。


橋を渡り、寂れた旅館街を進んでいくと・・・



日帰り入浴施設・ふれあい交流館に到着しました。



入口には足湯があり、こちらは無料。
そして中に入ると公衆浴場があって、こちらは入湯料570円。(小人260円・幼児無料)


荷物を入れるロッカーのカギの調子がよろしくない、などの小さいトラブルに見舞われはしたものの、旅の垢を洗い流すことができて心身をリフレッシュすることができました。





後閑駅へ走れ

2019-04-13 | 鉄道の旅


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 後 1 時 0 2 分

群 馬 県 利 根 郡 み な か み 町

名 胡 桃 城 址 案 内 所





名胡桃城の検分を終え、



荷物を預けていた名胡桃城址案内所へと戻り、ひとときの休息をしていました。


この日の群馬県の天気予報は、晴れのち曇り、ところにより一時雨、雷を伴い強く降るでしょうというものでした。
そして私のアイフォンさんにブックマークされている「気象庁・レーダーナウキャスト」によると・・・

強い雨が・・・激しい雷が・・・こっちに近づいている・・・・・・。

私は決断を迫られます。
案内所に留まって雷雨をやり過ごすか、案内所を出るか。

案内所の紳士の意見を参考にして、私は同じルートをたどってJR後閑駅に戻ることとしました。



案内所から駅までは、約2.7km。



そのうちの半分は下り坂となります。
傾斜は6%、これが約1.4kmも続くのです。
往路ではこの坂に苦しめられましたが、復路でも足に大きく負担をかけそうです。
そしてこの坂の間は雨宿りできるところはありません。

意を決して、歩きます。

後ろから迫り来る、いや~な感じの雲。

次第に早歩き、そして小走りに・・・・・・。




午 後 1 時 3 5 分

J R 後 閑 駅 に 到 着


空からしずくがぽつり、ぽつりと落ちてくる中、



雷雨にあうまえに、なんとかJR後閑駅に到着できました。

ゴロゴロゴロ・・・ザーーー

雷鳴とともに、大雨が降ってきたのです。



JR上越線の時刻表。
この駅も電光発車標がないので、これを見て次発の電車を確認。


群馬県の続100名城、残るは岩櫃城【東吾妻町指定史跡】のみとなりました。
岩櫃城の最寄駅は、JR吾妻(あがつま)群馬原町駅です。
そこで今度の電車は・・・14時32分発 上越線 普通電車 高崎行き・・・。

後閑駅で1時間近く待つことになります。
さらにこの先の行程は・・・

JR東日本 後閑駅 3番線 14時32分発
上越線 普通 高崎行き
渋川駅 2番線 14時58分着

渋川駅 1番線 15時37分発
吾妻線 普通 大前行き
群馬原町駅 16時22分着

乗換駅の渋川で40分の連絡待ちが発生し、群馬原町に着くのは夕方にしまいます。
岩櫃城は岩櫃山の中腹にある山城、夕刻の登城は危険です。



残念なことではありますが、今回は岩櫃城の登城、達成ならずということで、この旅は終了・・・・・・。



しかし、このまま帰路につくのも惜しい気がします。
そういえば、ここはみなかみ町
みなかみ(水上)といえば、水上温泉があります。

名胡桃城から速足で戻ったため、疲労した脚を癒し、汗ばんだ体を洗い流すには温泉が一番ですね。

そういうことで今度の電車は、14時00分発 上越線 普通電車 水上行きです。


画ではよくわかりませんが、夕立の降る後閑駅。



発車時刻に近づくにつれ、雨は弱まっていきました。



「城攻め」も忘れずに行い、5人の武将を登用しました。

沼田景義は、沼田城を築城した沼田顕泰(あきやす)の子で、沼田を巡って真田昌幸に謀殺されてしまった武将です。
真田信吉は、真田昌幸の孫で、真田信之の嫡男で、父が松代城に移った後も沼田に残り、沼田領を統治しました。
矢沢頼康は、真田昌幸、信之二代に仕え、沼田城の城代を務めました。
滝川益重は、織田家の滝川一益の甥で、一説によれば「花の慶次」前田慶次郎利益の父ともいわれています。
織田が武田を滅ぼし上州が一益に与えられると、益重が沼田城の城代に任じられました。

以上4名は大なり小なり沼田城に関係する人物なのですが、沼田祐光(すけみつ)だけは、一族が沼田氏らしいというだけ。
祐光は津軽の津軽為信の軍師となった人物で、弘前城の築城にもかかわっていたとか。
沼田城には関係の薄い人物ですが、この沼田の地で登用できました。


雨はすっかり止み、電車は定刻どおり後閑駅を発ちました。





夕立に洗われて、よりいっそう澄んだ空気。
田圃の稲が、まぶしく黄緑色に輝いています。





山に視線を転ずると、鈍い色の怪しげな雲が立ち込めています。



河岸段丘の底を流れていた利根川が、左側の車窓に見えてきました。



見えてきた吊り橋は、諏訪峡大橋
橋の中央にバンジージャンプ台がある橋で、この日も勇猛果敢な者たちが川に飛び込んでいました。





電車は利根川とともに北へと進み、



14時13分、定刻どおりに水上駅に到着しました。



【今回の乗車記録】

JR東日本 後閑駅 1番線 14時00分発
上越線 普通 水上行き 4両
水上駅 1番線 14時13分着

*所要時間 13分
*移動距離 12.5km
*運賃 18きっぷ使用(使用しない場合、240円)





名胡桃城・後編~天下統一の端緒

2019-04-13 | 城郭【続日本100名城】


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 0 5 分

群 馬 県 利 根 郡 み な か み 町

名 胡 桃 城 址 案 内 所



名胡桃城址案内所



通称「名胡桃倶楽部」の中でひとときの休息と、攻城の資料を得た私は、



いざ、名胡桃城址【群馬県指定史跡】へ。


まず私を迎え撃つのは、三郭(さんのくるわ)丸馬出です。



う~ん、脇に続く空堀が見事です。



じつはこのとき、すでに馬出に立っていたのです。
肌色の部分が馬出で、周囲は空堀
えんじ色の部分に木橋が架かっていたのだそうです。

名胡桃城は案内看板がかなり充実しているのですが、私のような文面をしっかり読まないおバカな旅人にかかっては形無しですね・・・。



少し先の三郭に進み、そこから振り返ったところ。
三郭丸馬出はこのようになっていました。
丸馬出の形式は武田軍の城郭でよく見られる構造で、かつては武田家臣だった真田家も武田流の築城術を承継していたんですね。


三郭に入ります。



三日月状の白いエリアは、丸馬出だったところです。
これを見て、私は「三郭丸馬出はここだ!」と誤解してしまったんですね。
ここは二郭南虎口丸馬出跡で、名胡桃城の増築の際に埋められてしまったそうです。
名胡桃城の増築前は二郭(にのくるわ)が前線にあった曲輪で、増築後に三郭ができたことが判明しています。
埋められた三日月堀の上には、なんらかの建物も設置されたそうです。



三郭と二郭をつなぐ二郭南虎口
通路を曲げることにより攻め手の勢いを削ぐ喰違い虎口の構造になっています。
二郭は周囲を土塁で囲われていて、虎口には櫓門が構えられていたそうです。

 

虎口両サイドの空堀もまた見事ですね。
この空堀は堀切、一枚の平地であったところを人工的に掘って空堀を造成して二枚に分けたものだそうです。
そのときの残土を土塁に用いたのでしょうね。
双方の空堀は幅が異なり、三郭から見て右側が広く掘られています。
これも喰違い虎口を形成するための工夫といえます。

 

二郭南側両サイドの土塁。
城の核心に近い二郭のほうが、傾斜が急になっていますね。
三郭から見て左側の土塁は見張台になっていて、上ることもできます。


沼田城を訪れたあとに名胡桃城を登城すると、「城に来た!」という感じをひしひしと覚えます。
復元された城ですが、なんとも気合の入った復元っぷり。
「来てよかったなぁ~」と思わせてくれる名城です。




二郭に入ります。



まずは見張台の土塁に上がってみます。



三郭の様子。
丸馬出跡の規模がなかなか大きく、出丸といっても差し支えないほどです。
虎口の通路が浅く土橋となっていて、その上に木橋を架けていたようです。



二郭左側に広がる、深い天然の空堀。
その向こうには般若郭が広がっています。
想像図では広い空間に建物が複数建っていることから、家臣の住居があった、あるいは平常時の生活の拠点だったのかもしれません。
現在は駐車場になっています。



二郭の様子。
3つのレンガ色のエリアは、奥から3号掘立5号掘立6号掘立を表しています。
名胡桃城の後期・・・北条が城を乗っ取った時期に存在したと思われる建物の位置を表しているそうです。
郭の中央には通路が整備され、郭の周囲と通路沿いには排水路が巡って、本郭側に排水される仕組みになっていたそうです。



二郭北虎口へ。
こちらは右側に見張台があります。



こちらも喰違い虎口になっています。
その先は本郭です。



こちらの見張台にも上ってみました。
通路沿いにや郭の周囲にあるくぼみは、排水設備を再現したものですね。



高いところから虎口を見ると、通路のカギ折れがよくわかります。
また両サイドに土塁が造成されていて、土塁と通路の交わる箇所には櫓門もあったそうです。
名称は「二郭」ですが、この郭が本丸の役割を担っていたように思えてきますね。



二郭・本郭間の堀切
三郭・二郭間のそれよりもさらに深いものになっています。



木橋からながめる堀切。
左の画像、二郭から見て左側の堀切は、その先で天然の空堀につながっています。
あんな谷に看板が立っていますが・・・誰か下りていく人がいるのでしょうか?
右を見ると、二郭側の堀の傾斜がかなり急峻なものであることがわかります。

なお、木橋を渡った先にも櫓門があったそうです。


いよいよ本郭(ほんぐるわ)へ。



本郭も周囲を土塁で囲われていたのですが、左側が大きく崩落していてコンクリートで補強されています。
こちらは大正から昭和初期にかけて史跡公園化が進んで、桜などの樹木が植えられたり石碑が立てられました。



「県指定史跡 名胡桃城址」の碑
こちらはもう少し時代が経過した昭和43年(1968年)、明治100年記念で立てられたものだそうです。
う~ん、とあるお方と同い年の石碑なんですねぇ~。



奥にある堂々とした石碑・・・



「名胡桃城址之碑」です。
地元で採石された一枚岩の安山岩が村人総出で運搬され、昭和2年(1927年)に立てられたものです。
碑文の揮毫は、戦前を代表する文筆家・徳富蘇峰によります。


名胡桃城は、入口から直線状に三郭、二郭、本郭と続いている連郭式縄張の配置となっています。
しかし・・・



本郭のさらに奥に、もうひとつの郭があります。



狭い空間と細い通路のみのささ郭です。
城の先が崖っぷちであるとはいえ、本郭が露出することを避けるために設けられたものだそうです。
両サイドに土塁が造成され、現在ももっこりとしたところがその名残となっています。
また、郭の先端には搦手門があったそうです。
背後を警戒するというのもありますが、もしものための退路を確保したのかもしれませんね。



ささ郭の先端部に、いつ建てられたかわからない小さなほこらがありました。
屋根のところに、真田のお城にあやかってか、五円玉が6枚並んでいました。



足元にある地図案内を参考に、ささ郭からJR後閑駅方向を眺めます。。
画像中央やや左にある大きな建物がみなかみ町役場です。
あのあたりからここまで、歩いてやってきたんだなぁ~という達成感に浸っていました。



沼田城の方向。
こちらからも沼田城はよくは見えませんが、沼田の城下町は見えるので、2つの城はそれほど遠くないことが実感できます。



ささ郭から戻り、恒例となりつつある、100名城スタンプの画角探しを行います。
二郭南側の見張台に立つと・・・

 

絵柄は「二郭南側見張台からの二郭」にちがいありません。
今回はわかりやすかったですね。



名胡桃城の検分を終え、ふたたび案内所で休息をとっていました。
その私に自然の脅威が迫っていることを、チキンな私は敏感に感じ取っていたのです。