鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

一面の雪原!一乗谷・其之弐

2012-10-31 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 後 2 時 2 5 分

福 井 市 一 乗 谷

タ ク シ ー の 車 内 に て



吹雪の中で出会ったタクシーで、一条滝から戻る。



上の地図の南側から、復原町並へ戻った。


タクシーの料金メーターは4,000円くらいだったか?
支払ってから降りようとしたら、運転手氏は復原町並の出口で待つという。

雪に次ぐ雪にやられていた私は、断固拒絶する気力もなく、なし崩し的に運転手氏の言われるがままに。


復原町並は、入場料210円。
そして、入城券売り場で100名城スタンプがもらえる。



37番、一乗谷城!・・・には行ってないんだけどね、山の中だし。


朝倉氏は、朝倉孝景(英林)の代に一乗谷に本拠を構えたとされる。

英林は、応仁の乱に参戦して西軍から東軍に寝返り、その過程で越前守護・斯波氏や守護代・甲斐氏と争い、越前国に覇を唱えた。
越前平定戦は英林の子・氏景、孫・貞景の代まで続いた。

貞景の代で越前は平定され、加賀の一向一揆とも和睦し、越前国内は貞景の子・孝景の代まで戦乱とは無縁であった。
そのため公家などの文化人が、戦乱を避けて越前に移り、一乗谷には今日にも劣らない華やかさを誇ったという。

しかし朝倉義景の代になると、一向一揆衆が再び蜂起。
織田信長との戦いにも消耗し、1573年の刀根坂の戦いで朝倉軍は壊滅。
義景は一門の裏切りにあい自害、一乗谷の城下は織田軍の焼き討ちにあい灰燼に帰する。





一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査に基づき、原寸大に復元されたという街並み。



こんな悪天候の日にもかかわらず、観光客のために雪かきがなされていた。





こちらは戦国時代の武家屋敷。





中では将棋を指してたり、食事の支度をしていたり。



一乗谷は、某・つながらない携帯一家の故郷でもあるらしい。


復原街並みを出ると、くだんのタクシーが私を待ち構えていた。

・・・料金メーターが順調に増加しているようだ。



次は、一乗谷朝倉氏庭園【特別名勝】で下車。タクシーはメーターを止めず待機

一乗谷のシンボル・唐門



唐門は、豊臣秀吉が朝倉義景の菩提寺を建てた際に造られた。
現存の唐門は、江戸時代に再築されたもの。



唐門の裏には豊臣家の家紋「五七の桐」が掲げられている。

唐門をくぐった先が、義景館跡



建物の礎石などは、すべて雪の中に埋もれてしまっていた。



朝倉義景墓は、白一色の空間とは別の空間をなしていた。合掌。



小高い所に上がってから、義景館跡を見下ろす。

このあたりに位置するのが、湯殿跡庭園









雪が深すぎて、庭園を味わう余裕がない・・・

そして、一時は弱まっていた雪がまた吹雪いてきて、
またまた雷鳴が轟く

私は固まってしまった。

5分ほどフリーズしていたが、とりあえず動かなきゃということで雪中を歩き回り、別の庭園にたどり着いた。



諏訪館跡庭園は、朝倉義景の側室・小少将の館にあった庭園。







朝倉義景は小少将を溺愛し、毎日毎夜・・・と記録に残っているそうな。



一乗谷城!? 行けねぇよ、あんな雪山!




遭難!一乗谷

2012-10-30 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 後 1 2 時 3 3 分

J R 福 井 駅




福井駅前で食事をして、次の目的地・一乗谷へ。


JR福井駅 12時49分発
  九頭竜線(越美北線) 普通 九頭竜湖行き
  一乗谷駅 13時05分着


なんと・・・一乗谷駅で降りたのは私だけ。



一乗谷駅は、ホームが1本たたずんでいるだけ。
駅舎もなく、山に囲まれた田園に民家とともにぽつんと存在する。

駅のそばにある家の犬がうるさい。



(↑クリックすると拡大地図に飛びます)

まずは駅の近くにある一乗谷朝倉氏遺跡資料館に寄った。



こちらは入館料100円。

展示されている出土品はほとんどが【国指定重要文化財】らしい。
後から知った。ちゃんと見ておけばよかった。
(資料館の展示物の写真はない)



展示品の一つに将棋の駒があった。

現存最古の駒で、現在にはない酔象(すいぞう)というのがある。
動きは、真後ろに下がれない王将、といったところ。
しかし敵陣に入ると「太子」に成り、王将を取られても負けとならないのだという。

一乗谷はとにかく歩くので、ここのコインロッカーに手荷物を預けた。


一乗谷散策開始!!

ここでいきなり道を間違える。

資料館から遊歩道(地図上のオレンジ色の道)が始まるのだが、これをスルーして県道(地図上の赤い道)をたどってしまう。

この県道は歩道が十分確保されていない。
人通りもない上に雪が積もっていてきわめて歩きづらい。


風は強くなり吹雪いてきた!
さらに恐怖の雷鳴が轟く!!


ようやく商店を見つけ、そこの軒下で待機。

10分ほど待ったが、天候の回復する気配がまったく見られない。

すると、1台のタクシーが通りかかったではないか!
私は迷わずタクシーを停めた。


タクシーに乗車し、「一乗谷復原町並までお願いします」と言ったが、
運転手氏は「近くに一条滝という滝がありますよ、佐々木小次郎で有名な・・・ここから3キロくらいですよ」

とにかくタクシーがこんな山の中でつかまえられたことが嬉しかった私は、判断力が明らかに弱くなっていたのだろう、二つ返事で快諾してしまう。


このページの地図からははずれてさらに南、タクシーで考えたら近いとは言えない距離
料金メーターはみるみるうちに上昇。

そして一条滝まであと少しというところ。

車は全く通らないのか、除雪が全くされていない。
積雪は30~40センチほどであろうか。

運転手氏はこの道を強行突破!
タクシーは雪に阻まれ、前輪を左右に振りながら雪をかき分け進んでも、秒速10センチといったところ。



俺、生きて帰れるのだろうか・・・?
車窓の後ろに続く雪面の(わだち)は、運転手氏の強行突破の跡である。

そしてその間も料金メーターは右肩上がりであった。
運転手氏もこのことには気づいており、「この分は値引きするから」とは言ってくれた。


ある程度坂を上ったところで、タクシーを下車。

足下には40センチの雪が積もっており、一歩足を踏み出すにも一苦労。




滝の入口に立つ佐々木小次郎像にもどっさりと雪が積もっていた。

その奥に、佐々木小次郎が秘技「燕返し」をあみ出したとされる一条滝が流れる。


私はそのままタクシーに戻った。
だって~ムリだよ~あんな雪道なんて~


運転手氏は、上ってきた坂道を雪の轍に沿ってバックで下っていくのだった。




福井市中迷走

2012-10-30 | 移動の旅

2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 前 1 0 時 4 5 分

福 井 県 坂 井 市

丸 岡 城



壮健な天守が蒼天に映える丸岡城に感動!

丸岡城を退去してからは、バスでJR北陸本線の森田駅へ向かい、そこから福井駅へ行くつもりであった。


京福バス 城入口バス停 10時52分発
  [31系統]丸岡線 福井駅前行き
  森田駅前停 11時08分着

JR森田駅  11時13分発
  北陸線 普通 福井行き
  11時18分着



・・・の予定であった。時刻表の上では。

忘れていたのである、
地方のバスは10分程度遅れるのが当たり前であることを!


京福バス 城入口バス停 10時52分発
  [31系統]丸岡線 福井駅前行き
  森田駅前バス停 11時16分着(遅れ8分)


バスに電車ほどの精密な操業を求めてはいけなかったのだ・・・。

北陸本線は、森田駅を11時13分に出る。
雪かなにかで遅延していることを祈って、「とまります」ボタンを押した。

するとすると・・・
森田駅前のバス停は、駅から300メートルほど離れていた!
しかも森田駅の方向を示す案内看板もない!


雪が積もった道をダッシュすることはできず、さらに2分ほど駅を探すのに右往左往したこともあり、電車には乗れなかった。

次の電車は1時間後だった。
バス停に戻ると、次のバスは30分後。

バスの運賃を最小限にとどめ、なるべく18きっぷを使っていく。
かくのごとく、交通費を節約しようというたくらみは裏目に出てしまったのである。


当時は京福バスをメチャクチャ罵っていたなぁ。
「なんのためにバス降りたんだよ!」

森田駅前には時間をつぶせそうな飲食店はなく、寒空の下、次のバスを待った。


京福バス 森田駅前バス停 11時38分発
  [31系統]丸岡線 福井駅前行き
  福井駅前バスプール 11時56分着(遅れ5分)


このときも5分程度遅れていた。
でもバスで遅れ1ケタは、私の実家のバスよりだいぶマシかも!?



一乗谷への列車は12時49分に出るので、福井駅前で食事をすることに。



福井でチェーン展開している「小川家」のソースかつ丼と越前おろしそばをいただいた。 




越前丸岡城~武骨

2012-10-29 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 前 9 時 4 4 分

福 井 県 坂 井 市

丸 岡 城



現存12天守のひとつ、丸岡城【国指定史跡】に着きました。
金沢を発ったときには白かった空が、丸岡城に着いたころには澄みきった蒼天になっていました!

入城料は300円。
そしてここでも、受付で手荷物を預かるサービスをしていました。とても有難かったです!!



北陸の大雪に耐えてきた天守は、華美な意匠もほどほどで、まさに武骨という言葉がふさわしい。


丸岡城は、1576年に柴田勝家の甥・勝豊により築城されました。

築城以来、丸岡城はめまぐるしく主を変えていきます。

まず本能寺の変の後、清州会議(信長の家臣による領地配分)により、柴田勝豊は長浜城(近江国)に移ることとなり、丸岡城は勝家が城代を置くことになります。
しかし、柴田勝家と羽柴秀吉は鋭く対立、勝豊が移った先の長浜城は対立の最前線となります。
このとき勝豊はあっさり秀吉に降伏。勝家も賤ヶ岳の決戦に敗れ、北ノ庄城(現在の福井市)で自害。

越前国は丹羽長秀の所領となり、丸岡城には青山宗勝を城主として配置しました。
丹羽長秀死後、丹羽家は所領を大幅に削られ、青山はそのまま大名として独立します。
しかし関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易となります。

代わって越前国を治めたのは、徳川家康の次男・結城秀康でした。
丸岡城は、その家老であった本多成重が城主となります。

秀康を祖とする結城松平家は、1624年に秀康の子・忠直の不行跡で改易となってしまいます。
本多家は大名として独立し、丸岡藩が成立しました。

1695年、本多家はお家騒動により改易。
その後は有馬家(キリシタン大名の有馬晴信を祖とする)が藩主となり、明治維新まで続きました。

明治維新後は、天守を残してすべて取り壊されました。
天守のみは、旧丸岡町が買い取ったため保存されます。

その天守も、1948年の福井地震で倒壊してしまいました。
再建にあたっては、もともとの部材を組みなおして修復されました。



現存最古の天守とされる丸岡城天守【国指定重要文化財】。

外観だけでなく中もあっさりしたものでした。
天守の中はたいてい資料館のように刀剣や文書などが展示されていますが、ここ丸岡城ではそのような類のものはありません。
1層目にほかの100名城の写真があったほかは、展示物はまったくありません。

 

上層階への階段?
あまりにも急なため、ロープが備え付けられています。



瓦は石でできています。
積雪で割れないようにするためといいます。



屋根から下がっているのは、懸魚(けぎょ)です。
火災の防止を祈念して懸けられる魚型の飾りをいいます。
丸岡城の天守で装飾らしいものはこの懸魚くらいなのですが、染色していないため華美さがおさえられているようです。




北陸の風雨に400年耐えた天守は、松本や姫路と比べると大きくはありませんが、戦国の城としての風格を感じます。


天守から出ました。



天守入口の近くにあるお静慰霊碑

丸岡城の普請が難航したため、人柱を立てることになりました。
このときお静という女性が、自分の息子をさむらいにするということを条件に、人柱になることを志願しました。

丸岡城は建ちましたが、その後柴田勝豊は長浜へ移ってしまったため、お静との約束は守られませんでした。
お静はこれを恨み、濠の藻を刈るころになると春雨を降らせ、城を水ひたしにしたといいます。





天守から少し下ったところにある井戸

柴田勝豊が丸岡城を築いたころには、まだまだ越前国は平定されておらず、一向宗の勢力が跋扈していました。

あるとき柴田軍は、一向宗の門徒らに丸岡城を囲まれてしまいました。
このとき井戸から大蛇が現れ、霞を吐いて丸岡城を護ったといいます。


この逸話から、丸岡城は「霞ヶ城」とも呼ばれます。




天守のそばにぽつんと立っているのは、「一筆啓上の碑」

一筆啓上 火の用心
お仙泣かすな 馬肥やせ

「日本一短い手紙」ともいわれますが、これは本多作左衛門重次長篠の戦いの時に妻に出したものであるといいます。


本多重次は、徳川家康の最古参の家臣。
家康が岡崎城主のときは、「岡崎三奉行」のひとりとして「鬼作左」と称されました。
とても剛毅な性格で、誤りがあれば、相手が家康であっても直言したといいます。

豊臣秀吉が天下統一を進めているころ、秀吉は家康を臣下に加えようとして、大政所(秀吉の母)を人質に送り込んできました。
これにはさすがの家康も折れて、秀吉のもとに出向くこととなりました。

重次はこのとき留守を任されましたが、大政所のいる屋敷の周りにまきを並べ、「家康の身に何かあったら母を殺す!!」という姿勢を表したそうです。
大政所に話を聞いた秀吉も、これにはさすがに不快感を示し、これがもとで重次は蟄居の身となりました。
謹慎先は取手(茨城県)に変わり、そこで病死しました。


「お仙」とは仙千代、のちの本多成重です。



さて、この日はもう1ヶ所行かねばならないところがありました。
次行くところがなんとも交通の便が悪いところなので、丸岡城を早々に切り上げなければなりませんでした。

駆け足でみやげ物(絵ハガキ)を買い、資料館には一応寄りましたがチラ見程度で出ます。

受付で手荷物を回収し、



36番、丸岡城!


武骨なる名城・丸岡城を後にしました。





金沢を発つ・・・福井へ

2012-10-29 | 移動の旅
2 0 1 1 年 1 2 月 2 6 日 ( 月 )

午 前 7 時 3 0 分

J R 金 沢 駅



金沢最後の食事も、ホテルのブレッドバイキングでした。

供された4種類のパンを一通り食し、オレンジジュースとコーヒーとコーンポタージュ何杯かをいただきます。
この日は荷物を持ちながらの移動なので、食事を多めにとりました。

手荷物は、衣類系を詰めたバッグと、ノートPCや本などを入れたかばん。
それに、前日に購入した栗ようかん「月読み山路」、しょうがせんべい「柴舟小出」と、不室屋の加賀麩が、新たに手荷物に加わります。


7時過ぎにホテルを後にし、徒歩数分で金沢駅へ。
この日は金沢を発って南下し、福井をまわっていきます。


JR金沢駅 7時40分発
北陸線 普通 福井行き
芦原温泉駅 9時00分着


1年9か月ぶりに福井県へ。
前回の旅行もこの芦原温泉駅で下車しましたが、今回も芦原温泉駅です。


芦原温泉駅からはバスに乗って移動。
当然、18きっぷは使えません。


京福バス 芦原温泉駅バス停 9時20分発
[87系統]永平寺線 永平寺門前行き
丸岡城・城入口バス停 9時40分着


こうして最初の目的地・丸岡城に到着。
そういえば久しぶりの城攻めです。



このとき空は、雲一つない晴天でした。





茶屋街めぐり・第3章~宵闇

2012-10-29 | 街並み

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 後 4 時 4 4 分

石 川 県 金 沢 市

ふ た た び ひ が し 茶 屋 街 へ



夜の茶屋街の雰囲気を味わいたいがため、私は寒空の下、建物の中には入らず、雪道を歩き回っていました。

そしてついに・・・日は暮れ始め、ひがし茶屋街にぽつぽつと明かりが灯ります。





対岸の主計町茶屋街にも。





暗がり坂はその名のとおり、暗がりに染まり始め、



明かり坂はその名のとおり、明かりが灯ってその姿を変えていきます。



そして、あたりはすっかり宵闇に覆われていきました。







身体はすっかり冷え切ってしまっていたが、茶屋を灯す明かりは心持ちを温めてくれます。



心温まる茶屋を見届け、私は宿に戻る・・・はずでした。



金沢駅へ戻るバスに乗り込んだ私を、闇に浮かぶ城門が引き止めます。
兼六園と金沢城を隔てるお堀通りでバスを下ります。



ライトアップされた金沢城石川門【国指定重要文化財】。
積もっている雪が、あたりの雑音をかき消すかのようで、なかなか幻想的です。

そして石川門の足下にある目立たない位置に、なんと!



明らかに人通りの少なそうな場所に、加賀藩祖・前田利家の像が立っていたのです。
なんでまたこんなところに・・・雪は積もり、像のもとに着くまで一苦労。

そして、この日も靴がびしょ濡れになってしまったのでした(-_-;)



同じバス停から再び金沢駅行きのバスに乗り、ホテルに戻っていきました。
途中、金沢駅のエキナカで吉牛。
これが金沢最後の夕食となりました。





茶屋街めぐり・第2章~小説の舞台・主計町茶屋街

2012-10-29 | 街並み

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 後 3 時 5 2 分

石 川 県 金 沢 市

浅 野 川 沿 い



ひがし茶屋街から、浅野川沿いにそぞろ歩きました。

浅野川大橋

3つのアーチが印象的な浅野川大橋【国指定登録文化財】。

此岸側、画像の左側向こうがひがし茶屋街
そして彼岸側、画像の右側に主計町茶屋街

主計町茶屋街

向こう岸へは、中の橋という歩行者・自転車専用の橋を渡ります。

中の橋

あまり人が通っていなかったのか、橋には雪が積もったままです。
橋は細く、そして滑りやすく、なかなか怖い橋です。


主計町茶屋街

中の橋を渡ったところにある主計町茶屋街。
川沿いの道から入った脇道が細く、雰囲気がすばらしい。

細い脇道を歩いていくと、とある階段へと出ます。

主計町茶屋街・暗がり坂

この坂は暗がり坂といいます。

主計町茶屋街・暗がり坂

暗がり坂を上ると、

久保市乙剣宮

久保市乙剣宮.jpg

久保市乙剣宮という神社の裏側に出ます。
(読み方は「くぼいちおとつるぎのみや」。そのまんまでした)
かつては、神社の境内の裏側から旦那衆がこっそりと花街へ遊びに行くための通路だったそうです。

主計町茶屋街

主計町茶屋街

まだ日は沈んでいませんが、いささか薄暗い。

暗がり坂とは違うもうひとつの坂。

主計町茶屋街・あかり坂

こちらはあかり坂という名がついています。

主計町茶屋街・あかり坂

暗がり坂と違い、こちらの坂にはずっと名前がありませんでした。
そこで住民が、金沢ゆかりの作家・五木寛之氏に名付けを依頼しました。
氏は自身の小説の中でこの坂を記述し「あかり坂」と命名したのです。



外は寒いし、雪も積もっています。

しかし、茶屋街は夜にこそその真の姿を見せてくれます。
その姿を目にするため、日没まで茶屋街をぶらついていました。





茶屋街めぐり・第1章~ひがし茶屋街で芸者遊び?

2012-10-29 | 街並み

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 後 2 時 1 0 分

石 川 県 金 沢 市

ひ が し 茶 屋 街



ひがし茶屋街にやってきました。

ひがし茶屋街(昼)

「茶屋」というのは、道端で団子とお茶を売っているようなのではありません。
しんみりとしたお座敷で、芸姑遊びをする・・・というところ。

ここは江戸時代の吉原、現在の先斗町のようなところでした。
現在は観光地てしての面が強く、特殊浴場のようなたぐいのところは一切ありません。


ひがし茶屋街「志摩」

ひがし茶屋街のメインストリートに面している茶屋「志摩」【国指定重要文化財】。
江戸時代に建てられた茶屋が現存しています。

「志摩」・前座敷

「志摩」の中に入ります。
まずは前座敷です。

座敷にやってきた客は、床の間を背にして座り、酒を飲み肴を食べます。

「志摩」・前座敷控え

すると、向かいの控えから芸姑さんが登場(#^.^#)
唄を謡い、曲を弾き、舞を舞って客を楽しませます。

「志摩」・はなれ

こちらははなれの間
「志摩」には客座敷が3つあり、前屋敷からは文字通り離れたところにありました。
密談をする際や、お忍びで来る客のために用いられたそうです。

「志摩」・台所

華やかな座敷から隠れるようにたたずむ台所
豪華な料理を作るにはとても手狭です。

じつは、茶屋は基本的に料理を作ることはなく、仕出屋などから取り寄せるのが普通でした。
つまり、遊ぶ場所を提供する「貸し座敷」の役割を果たしていたのです。

そして茶屋の勘定はその場で払うものではなく、後日払いが普通でした。
たしかに、気分よく遊んですぐに「金払え」では興ざめです。
そのかわり、客の信用がとても重視され、「一見さん」が茶屋に入ることはきわめて稀でした。

お茶屋でお茶@ひがし茶屋街「志摩」

お茶屋で一服。なかなかよろし~



「志摩」の向かいにある、もう1軒の茶屋・「懐華楼」【金沢市指定保存建造物】。

ひがし茶屋街「懐華楼」

現存する茶屋で、こちらは今もなお茶屋として営業しているのです。
(「アルバイト募集」なんて貼り紙もあった!)
つまりはここには現役の芸姑さんがいるってことなのです(#^.^#)

「懐華楼」入口

受付は、芸姑さんと思われる着物を着こなした女性。
まだ夜ではないので、おしろいは塗っていませんが、艶っぽさが感じられます。

「懐華楼」朱塗りの階段

朱塗りの階段を上り、

「懐華楼」朱の間

朱色を基調とした朱の間
画像では、座敷と控えの間にあるふすまは外されています。

「懐華楼」群青の間

「懐華楼」群青の間

群青色を基調とする群青の間
落ち着いた雰囲気のあるこの間は、身分高い者のための座敷であったそうです。

「懐華楼」市松の間

朱の間と群青の間のあいだに設けられた市松の間
互いの座敷からの話が聞こえないようにするため設けられました。
そのため、通常は使用されない部屋です。

「懐華楼」裏階段

互いの座敷の客が鉢合わせしないように、群青の間の客は裏階段から出入りしました。

「懐華楼」離れ控室

この向こうは芸姑さんの控室
芸姑さんは・・・いませんでした。
現在は別の部屋が控室になっているのでしょうか。

「懐華楼」1階の客座敷

いささか暗い1階の客座敷で、

お茶屋でお茶@懐華楼.jpg

またまたお茶屋でお茶。
この日は抹茶を3杯飲んだことになります。

「懐華楼」では、入場のときにお茶を申し込む必要があります。



「懐華楼」を出て、もうしばらく茶屋街をぶらりとします。

・・・ついに芸姑遊びはできませんでした。





寺島蔵人邸

2012-10-29 | 公園・庭園

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 後 1 時 3 0 分

石 川 県 金 沢 市

寺 島 蔵 人 邸



ぎゅうぎゅう詰めの周遊バスから、乗客をかき分けたったひとり途中下車。
橋場町金城楼前バス停から向かったのは、寺島蔵人(くらんど)【金沢市指定文化財】という武家屋敷でした。
この日はやたら武家屋敷を訪れていますねぇ。

寺島蔵人邸

1年9か月前の金沢の旅では、茶屋街をうろうろしてからやって来たのですが、午後5時の閉館時刻に阻まれていたのでした。
そしてこの日、いわばリベンジを果たす格好となったのです!


寺島蔵人(1777~1837)は、加賀藩に仕えた中級武士です。

藩の農政、財政の実務で手腕を発揮しました。
12代藩主・前田斉広(なりなが)が藩政改革のため教諭方という機関を置くと、その一員に抜擢されました。
蔵人は剛直な性格で、藩政改革をめぐって藩の重臣とも鋭く対立したといいます。

しかし斉広が急死すると、教諭方は解散してしまいます。
蔵人は重臣の対立が仇となり、能登島に流刑となってしまいます。
その年に失意のうちに死去しました。

蔵人は画家としても知られ、優れた作品を遺しています。



入口で入場料300円を支払い、靴を脱いで中に入ります。

屋敷は、往時のそれと比べるとだいぶ縮小してしまいましたが、それでも現存部分は中級武家屋敷の旧態をよく伝えています。

寺島邸座敷

寺島邸座敷

庭先の寺島邸

そして寺島邸も、庭園が秀逸だといいます。しかし・・・

寺島邸庭園

寺島邸庭園

寺島邸庭園

雪がかなり積もっていて、庭園の様子がすっかり変わっています。
ただただ真っ白な空間。

備え付けのサンダルで庭園を回ることができるのですが、この積雪では足が埋まってしまいそうです。
軒先近くまでしか見ることができませんでした。

寺島邸庭園・ドウダンツツジ?

ここの庭園では、ドウダンツツジの名木が有名なのだそうです。
しかしこの雪では、どれがドウダンツツジなのか、さっぱりわかりませんでした。


こうして消化不良気味ながら、寺島蔵人邸をあとにしました。
これではとてもリベンジとは言い難いですね。



寺島邸を出て、徒歩で約15分。
(雪道のため、筆者の歩行速度は半分になります)

浅野川@浅野川大橋

浅野川大橋【国指定登録文化財】付近にはひがし茶屋街主計町(かずえまち)茶屋街があり、浅野川の両岸にそれぞれ位置しています。

ひがし茶屋街(昼)

まずは浅野川を渡って、ひがし茶屋街へと歩いていきました。





金沢・海鮮を食らう!

2012-10-29 | 移動の旅

2 0 1 1 年 1 2 月 2 5 日 ( 日 )

午 前 1 1 時 5 0 分

石 川 県 金 沢 市

近 江 町 市 場



長町武家屋敷街からKOHRINBO109へ歩いて国道157号線に出ました。

国道157号線は金沢のメインストリートのひとつです。
しかしGoogle検索の候補では「国道157号 落ちたら」なんて物騒なキーワードが続きます。
この道は酷道業界では有名な国道で、「落ちたら死ぬ!!」という有名な?立て看板がかかっています。
起点は岐阜市で、ほぼまっすぐ北上して金沢まで至るのですが、両白山地を貫いているので険しい道になっているようです。

国道157号の終点・武蔵が辻方面へ歩き、その途上にある近江町市場へ向かいます。

前日は正午を過ぎてから行ったので、北陸の魚が食べられる食堂はどこも行列をなしていました。
仕方なく、B級グルメの「チャンピオンカレー」を食べたのでした。

そこでこの日は早めに近江町市場に入ります。
着いたのは正午前でしたが、それでも遅かったような感じがします。
ともあれ、この日ぐらいはどんなに並ぼうとも海鮮ものを食べようと決意していたので、海鮮食堂を探しました。


本日最初の昼食、「近江町食堂」さんの海鮮丼です!

海鮮丼@近江町食堂

うま~い!


これが本日最初の昼食です。ということは・・・またどこかで2度目の昼食を食べたわけです。


1年9か月前に初めて金沢を旅行する前に、「金沢は回転寿司のクオリティが高い」という話を上司(当時)から聞いていました。
その人によると、金沢駅の駅ビルにある回転寿司がおいしかったそうです。

2度目の金沢の旅に出る前、その回転寿司のお店をあらかじめ調べました。
その店に行こうではないか!と。

ということで本日2回目の昼食で入ったお店が「もりもり寿し」(近江町市場店)です。
ここで気の赴くままに回転寿司を食します!

さっき海鮮丼を食べたばかりなのに、しかも大盛りを食べたというのに、寿司は順調にわが胃袋に収納されていきました。

うまかった。そして食べすぎた。

ここでも2,000円近く食べてしまいました。
そこらへんにあるような1皿100円の店ではなく、私はなるべく安い皿を選んでいたのにこの金額です。
かなりの枚数を平らげたことがわかります。おそらく2桁は食べてます。

こうして私は、己の容積を増していくのです。



午後からは、ひがし茶屋街のある橋場町へと向かう予定でした。
近江町市場からは1Kmほどの距離で、頑張れば歩いて行けないわけではありません。

しかし、金沢はこの日も雪。
雪道は歩きにくいし、雷は怖いし、外は寒いし。
さらに近江町市場での暴食が加わり、まったく歩く気力を失っていました。

こうなることは先刻承知。
出発前に金沢駅東口のバスプールで、1日フリーパス(北陸鉄道バス・600円)を購入していたのです。


まっすぐ向かえばすぐの距離にあるにもかかわらず、近江町(武蔵が辻バス停)からいったん金沢駅東口へ戻りました。
そしてそこから乗り換えて、橋場町へと向かうこととしました。


金沢駅で待ち受けていたバスは、周遊用のレトロ風なかわいいバス。
こいつは普通の路線バスより小さく、当然座席も少なくなっています。

いざ乗車してみると、私だけ立つはめになってしまいました。

胃の中では、海鮮丼と大量の寿司が残っていて、じわじわと私を苦しめます。
周遊バスで、ただひとり「お立ち」という現状が、じつにバツの悪い思いをさせてくれます。
小さなバスなので、立つ場所というのがほどんどありません。これにも苦しめられた。
私は仕方なく一番後ろで立ったのですが、天井が低いので豪快に頭をぶつけてしまいました。
その様子を見聞きしていたのか、すぐ前で座っていた女がクスクス笑いやがった。おのれぇ!!


バスはひがし茶屋街最寄りのバス停・橋場町交番前に着きました。
私はまっすぐ茶屋街へは行かず、その次のバス停で降りようと考えていました。

金沢のメインとなる観光地の最寄りですから、乗客が大勢降りるものと計算していましたが、その予想に反し、前の座席から何人かが降りただけでした。
そしてそれをはるかに上回る大量の観光客が流入してきたのです!


そして次のバス停・橋場町金城楼前では、降りた乗客は私だけ。
一番後ろから、たくさんの立ち乗客を押しのけて降りることになりました。なんともバツが悪い。



こうして周遊バスに幾度となく仕打ちを受け、旧寺島蔵人邸に到着しました。