鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

再訪!十二橋はどうでしょう

2014-02-14 | どうでしょうロケ地


2 0 1 4 年 1 月 7 日 ( 火 )

午 前 9 時 3 5 分

茨 城 県 潮 来 市

J R 潮 来 駅



ちょいと某所へ寄り道したのち、JR潮来駅前に来ました。

潮来駅の近くには、あやめの名所・前川あやめ園があります。
6月になると100万株ものハナショウブが咲き誇り、多くの観光客がやってきます。
あやめ園のそばを前川が流れ、すぐ近くで常陸利根川に合流します。



そして潮来駅から歩いて5分ほどのところに、常陸利根川に面した名所十二橋めぐり案内事務所なる舟着き場に到着します。
この舟着き場こそ、水曜どうでしょうマニアにとっては奇跡が炸裂した場所なのです。


スタッフ陣が選別した50枚の絵ハガキの中から1枚選び、引いた絵ハガキの画を実際に撮影するという「日本全国絵ハガキの旅・第2弾」
50枚の中には、出発地・札幌の絵ハガキ「雪の時計台」も含まれています。
大泉さんが最初に引いた絵ハガキは、茨城県潮来「十二橋を行く娘舟頭さん」でした。

どうでしょう班、「地味だ」「ぜんぜん昂らない」などとさんざんにボヤキながら、千歳空港から羽田空港へ。
羽田空港からは京急線、都営浅草線、京成線を乗り継いで京成成田駅へ。
京成成田駅からはタクシーに乗って、ようやく潮来の十二橋めぐりの舟乗り場に到着します。



ちなみに東京からであれば、東京駅八重洲中央口から高速バス「かしま号」(鹿島神宮駅行き)に乗車し、水郷潮来バス停で下車してタクシーを使う方が、時間面からも金銭面からもやさしいです。


藤村「聞いてみようか? おばちゃんに」
そして藤村Dは、タクシーに反応して出ていたおばちゃん2人に聞きこみをします・・・・・・



鈴井「ああっ、連れて行かれる
大泉「ああっ、いっぱい出てきたよ、なんか。あらららら」
鈴井「おおっ、すげぇ・・・・・・」

藤村Dはたちまち、おばちゃん6人ほどに取り囲まれてしまいます。



こういう光景をすでに熟知していた私は、おばちゃん包囲網を警戒しつつ、舟着き場に近づいていきました。

 

おばちゃんが藤村Dに行程を説明していた案内板は、色あせてはいますが現役です。
料金表もありますが、・・・・・・かなりのお値段
ひとりで舟に乗ると、一番短いコースでも4,500円(・_・;)・・・やはり団体じゃないと乗れません。


「十二橋を行く娘舟頭さん」の絵はがきを手にした娘舟頭のみなさん。
娘舟頭「あぁ、これ4橋目の・・・」
娘舟頭「キヨちゃんが若いころだ」「そうだわwww」
藤村D「おキヨちゃんかい?」
娘舟頭「キヨちゃん。みんなお友達で名前呼びっこしてるから」
娘舟頭「休みなの」「」「」「」「」「」
娘舟頭さんの談話が続いて、ミスターがおもむろに一言。



鈴井「何星人ですか?」
大泉「よくわからないと思ってムチャクチャ言ってるけど」



料金表を撮っていると、私の存在を感づいたイタコ星人娘舟頭さんが3人ほどワラワラと出てきました。

「いかがですか」「乗っていきませんか」
「どちらからいらっしゃったんですか」

もともと舟に乗る気のなかった私は二、三会話して、イタコ星人娘舟頭さんがこれ以上出てくる前に退散しました。



十二橋めぐりには加藤洲十二橋めぐり前川十二橋めぐりがあります。
どうでしょう班が行ったのは、加藤洲十二橋めぐり。
番組内で「十二橋を行く娘舟頭さん」の絵ハガキは茨城代表のようになっていて、「茨城の旅」というセットに入っています。



船着き場のある常陸利根川の対岸は千葉県



そして、十二橋のある水路に入る水門は千葉県にあり、加藤洲十二橋も「十二橋を行く娘舟頭さん」も本来は千葉県のものなのです!
「茨城の旅」という絵はがきセットが、千葉県のものを勝手に茨城県のものにしているうえに、どうでしょう班もそれを真に受けているのです。


十二橋めぐりの舟が発着する舟着き場。



笹葉(さっぱ)舟が多く停泊しています。
この舟着き場で、ミスターが奇跡を起こします。


どうでしょう班が笹葉舟を降りて、次の絵ハガキを引く場面。
ですが羽田から3時間もかかる行程に、あやめの咲いていない時季ということで華もなく・・・



藤村「百戦錬磨のどうでしょう軍団もね、今もううんざり
やる気が失せるくらいヤラれてしまいます。
そんな中で、次に絵ハガキを引くのはミスターです。

鈴井「これはいい。これはね、ツルツルしてて」
鈴井「私が選んだのはこちらでございます」



!!!!!!!!!!!!!wwwwwwwwwww(どうでしょう班一同、爆笑&困惑)

藤村「これっ・・・・・・これ、どこですか?」
鈴井「これっ・・・・・・日本じゃないですね」

藤村「僕いま、頭の中がまっ白ですけども」
大泉「ど、どうだい藤村君」
藤村「6年目にしてはじめて・・・次の展開がわからなくなってしまった
大泉「どうするつもりなんだい藤村君、真っ白になってる場合じゃないよ、君どーするのって」
藤村「(僕は)ディレクターですから」
大泉「彼はこれ引いちゃったんだ」
藤村「僕さっき言ったよね、これ引いたらもう一週目で終わるぞって言ったよね」
大泉「しゅーりょーって、これどこだかすぐわかるよ、どっから撮ればいいのか、これ」
大泉「おい、しゃべろって、真っ白になってる場合じゃないんだって、ほら。どーすんだよ? 大変なことになってるんだ、こっちは」
藤村「どうでしょうさん6年目にして、ついに・・・・・・」
大泉「なんで入れとくんだよこれ、こんな真っ白になるぐらいだったら。
   引く人がいるんだから。50枚あったって引く人は引くんだ。
   ツルツルしてるんだって。ツルツルしてるから引いちゃったんだって、この人は」
大泉「(ミスターに)ほら、アンタも考えな。構成やってんだから」
藤村「(ミスターに)ほら、あ、あ、あ、アンタも企画やってんだから、考えなよ」
大泉「こういうことも考えてたんでしょ、企画やったときに」

鈴井「いや、これ別にでもね、札幌でゴールってことじゃないですから」
大泉「えっ!? それ何・・・?」

このまま続行。

大泉「だってこれ、いぇ、行くんですか!? ゴールじゃないってことは」
鈴井「ただの中継地点のひとつ・・・」
大泉「いやー厳しい!」

藤村「じゃぁ・・・帰りますか」
大泉「えっ!? ふぇ!!?? そんなバカな!!」
藤村「か、か、帰りますかじゃないね、札幌行きますか」

そして潮来に来ただけのどうでしょう班は、彼らが普段から見ている絵はがきの景色を見るために、札幌に戻るハメとなったのでした。



札幌に戻ったどうでしょう班は、一時解散。



翌日、大泉さんのご尊父より「なんとかインチキできんのか」の名言が出たのでした。




一方、私は橋を渡って対岸の千葉県へ。



常陸利根川にかかる潮来大橋から。
左側奥の舟着き場から笹葉舟が出ます。



対岸に渡って潮来側を見るとこんな具合。
舟着き場の右側は前川の水門で、前川十二橋めぐりの舟はこの水門に入っていきます。



加藤洲十二橋めぐりの入口である加藤洲水門



常陸利根川からの水門に入った笹葉舟を、もうひとつの水門が待ち受けます。
奥の水門から十二橋水路に進むと、水門から1mも離れていないところに1橋目の行々子(よしきり)が架かっています。
(奥側の水門の画像に欄干が写っています)



それから10mほどで、2橋目の十六夜(いざよい)

十二橋は、民家を隔てる水路の間に架けた12の橋の総称です。
民家と民家を繋いでいるに過ぎないので、ほとんどの橋は舟に乗るか私有地に入らないと見ることができません。

3橋目の想い出橋の次は、いよいよ「十二橋と娘舟頭さん」の絵ハガキになっている4橋目。



4橋目の子育ての橋は、脇の細い公道からなんとか見ることができます。

5橋目の水仙橋は見えませんでした。
6橋目の見返り橋も見えず。
7橋目の藤見の橋も上に同じ。
8橋目の金宝樹の橋もダメ。
9橋目の偲ぶ橋も・・・。
10橋目、憩いの橋
11橋目、黄門橋



途中をすべてすっ飛ばして、12橋目の思案橋



橋は異なるが「十二橋と娘舟頭さん」の絵ハガキの構図に近いと思います。



思案橋からさらに水路を進んだところ。
(画像奥側から舟がやってきます)



13番目(十二橋ではない)の橋をくぐった先は、与田浦川に合流します。
コースによっては与田浦川のところでUターンしたり、そのまま進んで別の水路で常陸利根川に戻ってきます。



こちらが与田浦川。
このあたりにも笹葉舟の舟着き場がありますが、こちらにはイタコ星人が群がっていません。


千葉寄りにもう少し進んで、

 

どうでしょう班を乗せたタクシーの運転手が聞き込みをしたセブンイレブン与田浦店です。
私もここで買い物をして・・・拙宅のある西をめざします。



ママチャリの旅「自宅、実家、そして自宅」第7話へ続く

再訪!初詣・鹿島神宮

2014-02-12 | 神社


2 0 1 4 年 1 月 6 日 ( 月 )

午 後 3 時 0 4 分

茨 城 県 鹿 嶋 市

常 陸 国 一 ノ 宮 ・ 鹿 島 神 宮



長い連休明けの仕事始めであるこの日、世の動きに背を向けるがごとく、私は初詣のために鹿島神宮にやってきた。



2011年3月の震災からもうすぐ3年がたとうとしているが、震災による崩壊の危険から撤去された白い石の二の鳥居はいまもない。

そしてそれをいいことに(!?)テキヤの連中が境内入口のそばまで露店を構え、そして社号標の前にトラックを停めやがった!!

まったく民度の低い連中である。
境内で露店を構えさせてもらっているのに、神宮に対してこの不敬な振る舞い。
観光客相手の商売であろうに、その観光客が写真を撮るであろう社号標の前に車を停める短慮。

こうして私は、鹿島地域一帯の祭りにわいて出るテキ屋の輩にはびた一文払わないと固く誓うこととなる。



・・・・・・取り乱して失礼しました。



手水舎でみそぎをした私は、初詣客のためにほんの少しだけ装いを加えた楼門【国指定重要文化財】をくぐる。



寛永11年(1634年)水戸徳川家初代当主・徳川頼房光圀の父)により奉納されたもので、筥崎(はこざき)八幡宮(福岡県)、阿蘇神社(熊本県)とともに日本三大楼門のひとつとされる。
また「鹿島神宮」の扁額は、東郷平八郎元帥の書によるものという。


楼門をくぐると、杜の参道からひらけた空間があらわれる。



参拝者でにぎわう拝殿【国指定重要文化財】。
朱色の目に映える楼門に対し、落ち着いた色調の拝殿である。

仕事始めのこの日は、地元の企業や営業所の従業員とおぼしき黒服の連中が昇殿していた。
中から聞こえる祝詞をかたわらに、私も5円を賽銭箱に入れて二拝二拍一拝。


拝殿の奥には、本殿【国指定重要文化財】と御神木がたたずんでいるが、



この日は初詣用の造作が多く、向こうの本殿はよく見えなかった。

もとは伊勢の神宮のように、20年ごとに社殿を建て替えていた。
現在の社殿は、元和5年(1619年)2代将軍・徳川秀忠により奉納されたものだ。



拝殿から右向かいに建つ仮殿【国指定重要文化財】。
拝殿とは対照的に、参拝客にはあまり見向きもされないのであるが、本殿の修復などの際に、祭神の仮のすまいとされた。


また、拝殿の向かいには宝物殿がある。入館料は300円。
直刀・金銅黒漆塗平文拵(ちょくとう こんどうくろうるしぬりひょうもんごしらえ)【国宝】という奈良時代の刀が奉納されている。
ほかに源頼朝が奉納した乗馬の鞍(梅竹蒔絵鞍【国指定重要文化財】)もある。



神宮の杜はさらに続く。




鹿島神宮は、下総国一ノ宮・香取神宮、神栖市の息栖神社とともに「東国三社」にかぞえられる。
「東国三社」は、出雲の大国主命(おおくにぬしのみこと)国譲りにかかわる神が祀られている。

御祭神は、武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)

地上では、出雲の大国主命により国づくりがすすんでいた。
高天原の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、地上の国は神の子孫によって治められるべきと考え、国を献上するよう何度も使いを送った。
しかし大国主は、のらりくらりとかわして、なかなか前進しない。

ついに天照大御神は、武力に秀でた武甕槌大神と経津主大神(ふつぬしのおおかみ)(香取神宮の祭神)を使者として送り込んだ。

二神は、出雲の浜に剣を突き刺し、国譲りを強く迫った。
大国主は、「息子たちが同意したら、自分も同意する」と返事する。
大国主の長子・事代主命(ことしろぬしのみこと)は承知したが、末子・武御名方命(たけみなかたのみこと)は承服しなかった。

そこで武甕槌と武御名方は、力比べをすることとなり、武甕槌は武御名方をぶん投げてしまった。
これが相撲の起源とされている。

なおも追う武甕槌、逃げる武御名方。
現在の諏訪湖で追いつめられた武御名方は降伏。
武御名方は諏訪の地から離れないこと約束、その後は信濃国の発展に尽力した。
(武御名方神は、諏訪大社の祭神として祀られている)

こうして国譲りは完了する。
武甕槌と経津主の二柱の神は、以後も東国に留まって経国に力を尽くしたという。

武甕槌大神は、のちに熊野で東征中の神武天皇布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)を授け、その窮地を救っている。


なお古事記や日本書紀の記述では、香取神宮の経津主大神よりも鹿島神宮の武甕槌大神の活躍が目立っている。
これは一説によると、中臣鎌足の父の出自が鹿島神宮の神官であったためであるともいわれる。
そして武甕槌大神は藤原氏の氏神でもある。




拝殿からだいたい200mほど歩くと、少しばかりかぐわしいにおいとともに鹿園があらわれる。



「鹿島」という地名だけあって、鹿とのゆかりは深い。
もともとは「鹿島」ではなく「香島」であったという。

祭神である武甕槌大神のもとに、鹿の神である天迦久神(あめのかくのかみ)が天照大御神の命令を伝えにきた。
奈良の春日大社の創建に際しては、鹿島の鹿が多く奈良まで行ったとされる。
奈良公園の鹿は、元をたどれば鹿島の鹿がルーツである。
鹿島の鹿は、長い歴史の間に何度か新たに導入されており、現在飼われているのは奈良の鹿の系統を受けている。


鹿園の脇には、さざれ石が鎮座している。



小さな石の集まりが、降雨により石灰質が溶け、再び固まって岩のようになったものである。

我が君は 千代に八千代に さざれ石の
巌となりて 苔のむすまで

(古今和歌集巻七・賀歌巻頭歌、題知らず、詠人知らず)



鹿園からさらに進むと、摂社奥宮本殿【国指定重要文化財】。



楼門、拝殿や本殿とは趣を異にする質素で、まるで神宮の杜に溶け込んでいるような。
慶長10年(1605年)徳川家康により奉納されたもので、元はこちらが本殿であった。
秀忠が本殿を奉納するにあたり、こちらの旧本殿は奥宮として移された。

時刻は午後3時半を回ろうとしていた。
参拝客が多かったからなのか、閉園時刻?が近づいているからか、職員が賽銭を回収していた。
(画像の賽銭箱右に職員のジャンパーが写ってます)



鹿島神宮の奥宮からは、坂を下る道と細い脇道に分かれている。

まずは坂を下らない道を奥に進んだ。
武甕槌大神が大ナマズの頭上に立っている石像が据え置かれていて・・・







パワースポットとしてすっかりメジャーとなった要石
大地震を起こすという大ナマズの頭を押さえつけているという。
「鹿島の七不思議」のひとつであり、水戸の徳川光圀が要石を掘り起こそうとしたが、領民が7日7晩掘り続けても底が見えなかったという。



次いで、坂を下った道を進み、



清らかな水を絶えることなくたたえる御手洗池
本来の参拝は、この池に全身を浸しみそぎをする。
その水位は、大人小人によらず、みそぎをする者の乳を超えないという。
底なしの要石とともに、「鹿島の七不思議」のひとつとされる。





震災後にはなかったナゾのがけ崩れが起きていた。




御手洗側にそびえ立っていた鳥居も、いまだ撤収されたままだった。




午 後 3 時 4 7 分

も と の 参 道 を 戻 る


もとの参道を逆に戻る。
御手洗池から奥宮にかけての坂道がえらくキツい。





空は朱色に染まり始め、神宮の杜は暗がりに包まれつつある。



楼門をあたたかい陽ざしが包む。



私のすさんだ心をも温めるかにみえたが・・・



二の鳥居の跡地。
邪魔なテキ屋どもが撤収準備を始めて、ようやく見ることができた。


なっ! まだトラックをどけてないのか!!
神宮の厳かな雰囲気をぶち壊す・・・というより社号標のちゃんとした画像を撮影できなかったことに、またも怒りがこみ上げたまま神宮を後にする。




午 後 4 時 3 5 分

茨 城 県 鹿 嶋 市

国 道 5 1 号 新 神 宮 橋


実家に帰るべく、私はママチャリ「飛電」を駆って国道51号を疾走する。



北浦を照らす陽光は・・・



鰐川のほとりに立つ鹿島神宮の一の鳥居を照らしていた。




正月のママチャリ帰省

2014-02-10 | 移動の旅

2 0 1 4 年 1 月 2 日 ( 木 )

午 前 8 時 3 0 分

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



毎年正月の帰省は高速バスを使うのが私の中での慣例だが、今回は途中で初詣を済ませてしまおうと思い、あえて冬場のママチャリ帰省を敢行することとした。


私がまだ行ったことのない寺社で、行程の途中にあるところ・・・・・・


ひとつは印西市(旧印旛村)にある松虫寺
ロードマップを眺めるたびに私の心に引っかかっていた「松虫」というおもしろい寺号。


いまひとつは利根川のそば、神崎町にある神崎神社
拙宅・実家間のママチャリ移動はもはや両手で数えられないくらいの回数を重ねているが(2進法方式で数えた1023回にはまだまだ足りませんが)そのたびにスルーしてきたところだ。


時間があれば佐原の街並みも行こうかな、小見川にある善光寺ってところも気になるな、やっぱ地元の息栖神社かな、などいろいろ行程を考えていた。




午 前 9 時 3 0 分

拙 宅 に て


拙宅から実家まではだいたい6時間くらいかかるだろう。
それで寄り道2箇所でだいたい1時間半くらいだろうか。

拙宅の片づけとかもやらなきゃいけないし。
朝風呂にゆっくりつかりたいし。
ご飯も食べて・・・。




午 前 1 1 時 3 0 分

拙 宅 に 滞 留


ゆっくりしすぎたかな。

神崎神社は寄るのをやめて、寄り道の時間は1時間と考えても、実家に着くのは18時半ごろか。
まぁ、ちょうどいい時刻だろうな。




午 後 1 2 時 3 0 分

ま だ 拙 宅


三国志11やってしまった。
時間が過ぎてるなぁ。

でも拙宅・実家間の6時間というのも利根川沿いの道を行けばという話だ。
この時季は風向きも北西、基本的には追い風になるだろう。
それにスマホさんを使って最短経路を行けば、これも時間短縮につながるはずだ。




午 後 1 時 1 5 分

よ う や く 出 発


そろそろ行くとするか。
夜のサイクリングロードは案外怖いから、少しは急いでおくか。

スマホを見てみると、途中まではいつもと同じ行程だ。余裕余裕。




午 後 4 時 1 3 分

千 葉 県 印 西 市

印 旛 沼 湖 畔


印旛沼を照らす斜陽。







いやぁ~すばらしい・・・
おびただしい数の黒点はすべて鴨。

なんて哀愁に浸っている暇はない!
太陽の位置からして、1時間後には日没を迎えるだろう。

もちろん松虫寺などの寄り道は取消し。

日没寸前で残りの行程50km超とは、まさに危機的状況。
街灯のない川沿いのサイクリングロードをひたすら走行するのは、なかなか厳しいものがある。



スマホで最短経路を検索したのであったが・・・

最短経路を突き詰めると、複雑で細い道を進むこととなり、曲がり角のたびにスマホをチェックすることになった。
八千代緑が丘、ユーカリが丘などのアップダウンにやられた。
道に迷ったために後戻りを余儀なくされた。

こうして、通常たどる行程よりも1時間近く遅れることとなった。

教訓 最短経路は最短時間ではない!!




皇居外苑

2014-02-09 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 元 日

午 前 1 1 時 3 3 分

東 京 都 千 代 田 区

桜 田 門





皇居ランナーの出発地でもある桜田門【国指定重要文化財】に到達した私とママチャリ「飛電」は、このあたりで休憩をとった。



皇居外苑にある楠公レストハウスで一時の休憩をとったあとは、鎮座する楠公像(楠正成像)を拝見する。





楠木正成(楠正成)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将で、鎌倉幕府からは悪党と呼ばれる大阪河内の豪族であった。
後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の挙兵に応じ、鎌倉幕府の大軍を千早城で迎え撃ち、ゲリラ戦法や糞尿攻撃(!!)で撃退。足利高氏(尊氏)らとともに鎌倉幕府打倒の立役者となった。
だが、後醍醐天皇の指導する建武の新政は破たんを迎え、足利尊氏が離反する。鎮守府将軍・北畠顕家(あきいえ)らとともにいったんは尊氏を破るも、勢力を盛り返し九州から西上する尊氏の大軍と戦うこととなる。
正成は尊氏の実力を認め、これと和睦すべきと進言するが拒否される。絶対的な劣勢のもと、嫡子・正行と今生の別れをしたうえで(桜井の別れ)、兵庫の湊川で尊氏軍と戦い、自刃した。
その事績は「忠臣の鑑」とされ、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。





皇室を護るという意味合いから、楠公像は甲冑に身をまとい皇居にはせ参じる騎馬像となっており、像の正面から見て顔が反対側を向いているという珍しいつくりになっている。



臣の祖先友信伊豫(いよ)別子(べっし)山に銅坑を開きてより、子孫業二百季を継ぐ。
(臣の祖先である友信が伊予国の別子山に銅坑を開いてより、子孫が200年にわたり事業を継いでまいりました)

亡き兄友忠深く国恩を感ぢ、その銅を用ゐ楠公正成像を鋳造しこれを闕下に献ぜんと欲すれども、家允いまだ果たさず。
(臣の亡き兄である友忠は国恩に深く感じ入り、別子の銅を用いて楠正成公の銅像を鋳造し、天皇陛下の御前に献上しようと望んだのですが、志半ばで没し後継ぎもこれを果たせないでおりました)

臣その志を継ぎ、(わづ)かに工事し、竣工するに及び、謹みて献ず。
(そこで臣がその遺志を継ぎ、わずかに手を加えて竣工の運びとなりまして、ここに謹んで献上いたす次第です)

明治三十年一月  従五位 臣 住友吉左衛門 謹みて記す


碑文にあるとおり、楠公像は住友財閥第13代当主・住友友忠の発案により鋳造が始まり、第15代当主・友純(ともいと)のときに完成し、皇居に献上された。
なお「吉左衛門」は、住友家当主が代々襲名する名である。(片倉小十郎の「小十郎」と同じ)
このとき製作を担当したのは、楠公の像が東京美術学校(現東京芸術大学)教授であった高村光雲、馬の像が後藤貞行である。










楠公の銅像はどの角度で見てもすばらしいですなぁ。



さて私と「飛電」は、皇居外苑のお濠に沿って歩みを進める。



祝田橋から国道1号に沿って進む。

 (画像の左隅が祝田橋)

祝田橋は、皇居外苑を縦断する「凱旋道路」(現在の都道301号)を通すにあたり造成された土橋で、もともとは桜田門からの水濠が続いていた。
日露戦争の勝利を記念して道路が造成され、もとの水濠は二分された。
桜田門から祝田橋までの水濠は凱旋濠と呼ばれるようになる。

そして日比谷濠は、祝田橋から日比谷通りに沿ったところをいう。
楠公像のあるあたりは、日比谷濠の向こう側になる。





日比谷濠の石垣はまっすぐな区画ではなく、ところどころに凹凸が仕組まれる横矢懸りの構造となっている。





日比谷濠の終着となるところに存在した馬場先門
この門内にはかつて馬場があったので、馬場先門と呼ばれるようになった。
この門も大手門や桜田門と同様に枡形門の構造であったが、日露戦争勝利の提灯行列がこの門にはばまれて大勢の死傷者を出したため、明治39年(1906年)に撤去された。

馬場先門から北側は馬場先濠となる。


日比谷通りと行幸(みゆき)通りとの交差点。
馬場先濠はここで尽き、この北側は和田倉濠となる。



行幸通りは、皇居正門と東京駅を結んでいる。
通りの中央は普段歩行者天国となっているが、行幸や外国大使の信任状捧呈の際に車馬が通行するときのみ専用道となる。






和田倉濠にかかる橋の先にはかつて和田倉門があった。




お濠にたたずむ冬鳥たち。
だがこの白鳥はいつまでたっても北に帰らない。
夏には白鳥だけがお濠をぽつんと漂流している。



私はいつまでも皇居あたりで漂流しているわけにはいかない。
新年祝賀の儀は元日ではなく1月2日なので、いつまで待っても皇居に入ることはできない。

ということで、寄り道することなくそうそうに自宅に戻ることとした。




官庁訪問?

2014-02-06 | 街並み

2 0 1 4 年 元 日

午 前 1 1 時 2 0 分

東 京 都 千 代 田 区

霞 が 関 中 央 官 庁 街



私と「飛電」は、ママチャリの最もふさわしくない霞が関を進む。


某国立大学の法学部にあっさり入学したが、公務員になろう!とはあまり考えたことがなかった。
私が宮仕えに向かない人間であることは十分わかっていたためだ。
というわけで、霞が関はママチャリ「飛電」はもちろんのこと、私にとっても初めての地であった。

こうなると私はただの観光客と化す。



まずは文部科学省文化庁
こちらは旧文部省庁舎【国指定登録文化財】で、昭和9年(1933年)に建てられたもの。
現在は文化庁がこの庁舎に入っており、文科省はこの奥にある合同庁舎に移っている。



次は財務省、そして財務省・国税庁庁舎
霞が関の省庁の中では庁舎が複数に分かれていることが多いが、財務省はこの1棟のみ。
意外なほど警備があっさりしているような。



財務省の向かい、経済産業省
こちらの建物は経済産業省本館
前2省と比べるとガードが堅い印象。というのも・・・



わけのわからん輩が付近に陣取っているからなぁ。



日陰のソーラーパネルが失笑を誘う。


もう少し皇居方向に進み・・・



お次は外務省
通りから玄関までの距離が遠い外務本省庁舎
他国の外交官の安全を配慮して、玄関口まで公用車でドアツードアができるようになっているのか。



省庁再編でできた大きな官署・総務省
(総務省=旧総務庁(旧総理府)+旧自治省+旧郵政省+消防庁など)
こちらは中央合同庁舎第2号館で、中に総務省と国家公安委員会(内閣府)が入っている。


公安当局は「脱」の輩を公道不法占拠で排除できないのだろうか?
届出かなんかがあってデモ扱いになっているのだろうか?


桜田通りを進んでもうすぐ皇居というところ。



皇居にいちばん近いところに構えるのは、通称「桜田門」と呼ばれる警視庁、そして法の執行を担当する法務省
ひときわレトロな建物は旧法務省本館(赤れんが棟)【国指定重要文化財】で、明治28年に完成したもの。
現在は法務資料館となっており、法務省は赤れんが棟の裏手にあるビルに入っている。





桜田門【国指定重要文化財】が見えてきたところで、桜田通りは内堀通りに合流。


ちいさな官庁訪問はこれにて終了。




元日の東京タワー

2014-02-02 | 移動の旅

2 0 1 4 年 元 日

午 前 1 1 時 0 7 分

東 京 都 港 区

慶 應 義 塾 大 学 付 近



第一京浜をひたすら北上していた私とママチャリ「飛電」は、元日の混雑が予想される銀座・築地方面を避け、東京タワーが真正面に見える三田通りへと入った。



三田通りは途中で国道1号・桜田通りに合流する。



桜田通りに面する慶應義塾大学三田キャンパス東門
そういえば慶大に来たのは初めてだ。
早大には国家試験を受けるのに何回か行ったことがある。そしてそのたびに教室内の酷い座席にやられ己の知識の無さを嘆いたものであった。





晴天を貫く東京タワーは、私の憂鬱をも砕いてくれた。


国道1号は、テレ東のある虎ノ門、そして官庁街の霞が関を進む。