鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

元町を歩く~3つの教会

2017-01-31 | 教会・洋館


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 後 3 時 4 6 分

函 館 市 元 町



宿屋に手荷物を置き、漢ひとりが街ブラに出かけます。



さっそく第一教会発見、函館聖ヨハネ教会です。
この教会は日本聖公会に属します。
日本聖公会は、イングランド国教会の系統に属する聖公会の日本における団体で、立教大学聖路加国際病院を運営している団体でもあります。

ちなみに「聖路加国際病院」は「せいかこくさいびょういん」と読むそうです。


明治7年(1874年)、宣教師・W.デニングが函館に来て伝道を始め、聖公会の北海道における活動が始まりました。
明治11年(1878年)海寄りの末広町に初めて聖堂を建てましたが、幾たびも火災に巻き込まれ、現在の地に再建されたのは大正10年(1921年)のことでした。
現在の建物は昭和54年(1979年)に完成したものです。
(案内看板を要約)



なにやら変なかたちの教会ですが、これは上空から見たら十字架の形になっているそうです。
ここの教会は中に入れそうもないので、次の教会へ。

ちなみにここで奉仕する聖職者は「牧師」さんです。



 

元町の小路を歩いていくと、大三坂という雰囲気のある石畳の坂へ。
この大三坂に面しているのが第二の教会です。



カトリック元町教会です。
正門正面に建っている聖堂は脇に鐘楼を従えた、いかにも教会って感じです。
う~ん、私は西洋建築には造詣がないので、この程度のコメントしかできません・・・(^_^;)

 

聖堂の脇に建っているのが司祭館
石造りの重厚な構えの頂きにおわすマリア像がいい感じです。


カトリック元町教会は、安政6年(1859年)フランス人宣教師・メルメ=ドゥ=カションが仮の聖堂を建てたことに始まり、日本の禁教令が解かれた後のキリスト教布教再開の先駆となった教会です。
明治元年(1868年)司祭ムニクーアンブルステルが現在地に仮の聖堂を建て、さらに明治10年(1877年)司祭マランにより最初の聖堂が建立されました。
以後3回の大火で焼失してしまいますが、大正13年(1924年)再建し、現在に至ります。
(案内看板を要約)



この教会も、敷地には入れましたが中までは入れない模様。
そそくさと立ち去ることに。



外の小路から見たカトリック教会。
聖堂の赤い屋根と、鐘楼の水色の屋根が対比的で、よりスタイリッシュに見えます。

ちなみにこちらの聖職者は「神父」「司祭」になります。
カトリックの聖職者一般を「神父」といい、「司祭」は聖職者の階級のひとつであります。



カトリック教会の向かいの敷地にあるのがこちら。



函館ハリトリス正教会です。
こちらは東方正教会(ギリシア正教)の系譜を引く日本正教会の教会です。
ここの聖職者も「神父」「司祭」です。



白を基調とした美しい主の復活聖堂【国指定重要文化財】。
東ヨーロッパの建築様式の影響を受けているようです。


函館ハリトリス正教会は、安政6年(1859年)初代ロシア領事館の敷地内に建立された付属聖堂から始まります。
文久元年(1861年)司祭ニコライがロシアから来函し、日本で最初にギリシア正教を布教しました。
明治40年(1907年)大火で焼失しましたが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建されました。
昭和58年、国の重要文化財に指定されています。



ちなみにハリトリス正教会の敷地は他の2教会よりも少しだけ高台にあるので、



聖ヨハネ教会や、



カトリック教会がよく見えます。



鐘楼の立つ西側がファサード(建物正面)であり、ここから聖堂の中に入ることができます。
入場料は大人200円、文化財保護のための献金という名目で支払うこととなります。



燭台のともしびで照らされた・・・ようにいささか暗めの聖堂内。
整然と並ぶ十数枚ものイコン(聖像画)と聖具は、堂内の雰囲気を凛としたものにしています。
イコンの配置は、下列中央の左が生神女マリヤ(聖母マリア)、右が救世主イイスス=ハリトリス(イエス=キリスト)です。

なお、堂内は撮影禁止となっています。
画像は堂内で購入した絵はがきより引用しました。


聖堂から出ました。
教会の敷地をもう少しぶらり。



聖ニコライの肖像碑です。
ニコライ神父は明治5年(1872年)に東京に転任、「ニコライ堂」を拠点に活動しました。
昭和45年ロシア正教会により「日本の亜使徒」として聖人に列せられています。



南側からの聖堂。画になります(*^_^*)

教会の敷地を一周したので、外に出ました。



大三坂からさらに西へ歩きます。

 

坂から見下ろした素晴らしい光景。
この坂は八幡坂といい、坂の街・函館を代表する坂だそうです。

ちょうど観光タクシーが停まり、観光客♂♀と運転手氏♂が降りてきました。
運転手氏のガイドによると、この坂は別名「チャーミーグリーン坂」というのだとか。
チャーミーグリーンはライオン株式会社製の台所洗剤で、そのCMの撮影現場となったそうです。

広々とした石畳の坂、港に停泊する船、さらに街が広がり、山がそびえ立つ・・・ぜいたくな光景です。


八幡坂には入らず、小路をさらに西へ。



とある雑貨屋さん。
観光名所ではありませんが、画になるので撮ってみました。

そこから少し歩くと、



バルコニーでコスプレしている♂♀。
なにやら変な場所に着いてしまったようです?!



・・・・・・ああ、どうせなら二人で歩きたかったな。





ハイソフト「日本の名城」10城目

2017-01-30 | 日記


2 0 1 7 年 1 月 2 9 日 ( 日 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



真冬の晴天の日曜日、おやつは当然森永ハイソフトです。

前話でも述べましたが、なぜか東日本のカードがやたらとダブる毎日。
五稜郭会津若松城が妙に出てきました。
姫路城なんかはレアカードで、出現確率が低く抑えられているのではないか?
なんて会話をしていました。なんら根拠はないのですが。


そして約3週間ぶりの新カード。



一目瞭然! No.16 首里城!!
最西端&最南端のカードをゲットして、残るカードは6枚となりました。


首里城の創建は13世紀から14世紀と考えられていますが、15世紀初頭に琉球を統一した尚巴志によって琉球王国の王城として整備されました。
琉球王国は中国や日本との交流があり、首里城は随所に中国や日本の建築文化の影響を受けています。

首里城は火災のために何度か焼失しており、現在の首里城は正徳5年(1715年)に再建されたときの姿をもとにしています。
明治12年(1879年)、首里城から国王が追放され「沖縄県」が置かれると(琉球処分)、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われました。
昭和20年(1945年)、太平洋戦争末期、上陸した米軍の攻撃により全焼してしまいました。
戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後に復元事業が推進され、首里城が復元されました。
平成12年(2000年)12月、首里城跡が世界遺産に登録されました。



私の100名城登城旅は、2016年秋に北をほぼ制覇しました。
北の次は南ということで、この次の登城旅は100名城最南端の首里城に行くのもありかな~と思っています。



今後の登城旅がどこになろうとも、当面のおやつは森永ハイソフトですな。





坂の上の宿屋

2017-01-28 | お散歩


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 後 3 時 1 1 分

J R 函 館 駅 前



午後3時すぎ、JR函館駅に到着。





函館に着いて第一に目指すのは、予約したペンションです。
街歩きをする前に手荷物を置いていくためにも、宿へ向かいます。

宿屋は函館駅から少々距離があるので、今回は函館市電を利用します。
そういえば函館駅の観光案内所で市電の一日乗車券(600円)を購入しましたが、この日は使いません。
市電の停留場はえんじ色のビルの下にある、と観光案内所の女性から聞いていたので、そちらへ向かいます。



大通りの中央に敷設されている函館駅前停留場
そうそう、函館市電はいわゆる路面電車なんです。
路面電車は岡山や松山でも見ましたが、実際に乗るのはかなり久しぶりです。

 

函館駅前停留場に入線している路面電車。
この電車は湯の川行きなので逆方向。
乗車した電車は、15時18分発 函館どっく前行き電車です。



路面電車も道路を通行するので、道路交通法の適用を受けます。
つまりは赤信号だったら止まらなきゃいけないのです。
この交差点のように路面電車専用の信号機が併設されている場合は、そちらの信号に従います。



函館駅前から3駅、十字街停留場で下車。
運賃は210円でした。



十字街停留場は、市電2路線(2系統路線・5系統路線)の分岐停留場となっています。
ちなみに、函館どっく前行きは5系統路線です。
今回の旅では乗車する予定ではなかった2系統路線の方は、とある理由でお世話になることとなりますが、それはまた別の話。



【今回の乗車記録】

函館市電 (DY17)函館駅前停留場 15時18分発
5系統路線 函館どっく前行き
DY20)十字街停留場 15時23分着

*所要時間 5分
*移動距離 1.3km  *運賃 210円



十字街からは、宿屋まで徒歩で向かいます。



二十間坂を上ります。



幅広な石畳の坂道は、「函館にやってきたな~(#^.^#)」という旅情に満たされます。



坂の上はあの函館山、といってもこの坂は山頂までは続いていませんけどね。



雰囲気ある街並みですが、この斜度!!
目測で計算するとざっと20%はありそう。
私の旅情はあっという間に消え失せていきました。



坂を上り始めてから約10分、予約したペンションに到着しました。

宿屋の扉を開けますが・・・・・・主人はなかなか出てこない。
「ごめんくださ~い」と呼びかけて・・・ようやくご主人登場。なかなか人の良さそうな方ですな。



私の部屋は1階の一番端っこ。
なんとも質素なお部屋です。ビジネスホテルではないので、内風呂はありません。
そしてストーブはあるのですが、冷房はありません。扇風機もなし。
最初は驚きましたが、高台にあるので風が涼しく、冷房はなくても問題なさそうです。
苦労したのが、コンセント穴の少なさ。携帯、PC、デジカメを所持している私は、充電のタイミングを考えなければなりませんでした。



ベランダからの眺め。
ここの売りは「夜景がきれい」ということでしたが、残念ながら樹木が邪魔しています。
もとよりじゃらんで予約した「ワケアリ物件」でもあるし、夜景はこれから外でたっぷり味わうので問題はありません。


手荷物を自室に置いた私は、近くにある元町教会群を散策すべく、いったん宿屋を後にしました。





はるばる来たぜ函館

2017-01-26 | 鉄道の旅


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 後 1 2 時 1 1 分

北 海 道 松 前 郡 松 前 町

道 の 駅 北 前 船 松 前





引き続き道の駅・北前船松前にて。

今後の行程をどうするか。
松前城の登城が思ったよりも早く終わってしまったことで、時間を持て余していました。

この日は函館で一泊の予定。
函館に行くのなら、やっぱり夜景は見てみたい。
当初の計画では、


松城停留所 14時30分発
函館バス 松前・木古内線 木古内駅前行き
16時00分着

道南いさりび鉄道 木古内駅 16時32分発
道南いさりび鉄道線 普通 函館行き
JR北海道 (H75)函館駅 17時31分着

*所要時間 3時間01分 (バス乗車時間 1時間30分  列車乗車時間 59分  待ち時間 32分)
*移動距離 97.1km(バス移動 55.9km  列車移動 41.2km)   *運賃 2,360円(バス運賃 1,250円  列車運賃 1,110円)


函館に到着するのが夕方、そのまま函館山に向かって夜景を見る予定でした。しかし・・・

「せっかく函館に行くのなら、函館の街も歩いてみたい」という考えが沸き起こり・・・
「早く函館に行きたい」と思うようになり・・・
「松前の散策は打ち切ろう」という結論に達しました。

そしてスマホさんで列車の時刻を検索したところ・・・


唐津停留所 12時40分発
函館バス 松前・木古内線 木古内駅前行き
14時10分着

JR北海道 木古内駅 14時24分発
北海道新幹線 はやぶさ13号 新函館北斗行き
(H70)新函館北斗駅 14時37分着

(H70)新函館北斗駅 14時47分発
[H]函館本線 快速 はこだてライナー 函館行き
(H75)函館駅 15時02分着

*所要時間 2時間22分 (バス乗車時間 1時間30分  列車乗車時間 28分  待ち時間 24分)
*移動距離 109.3km(バス移動 55.9km  列車移動 53.4km)   *運賃 2,560円(バス運賃 1,250円  列車運賃は北海道&東日本パス使用(不使用時 1,070円)  新幹線特急券 1,310円)


木古内駅での乗り換えがギリギリになってしまいますが、新幹線を使うとかなり早く到着することがわかりました。
そして今回は「北海道&東日本パス」を使っているので、新幹線には特急料金を支払うだけで乗車できます。



料金的にも大差がないこともあって、松前を早急に発つ決意が固まりました。

 

道の駅を出て、最寄りのバス停・唐津停留所へ。
ここで12時40分発 函館バス 木古内駅行きを待つこととしました。




午 後 1 2 時 4 0 分

木 古 内 駅 行 き の バ ス に 乗 車


木古内駅へ戻るバスに乗車。
今回も津軽海峡の景色を愉しむべく、進行方向右側の座席に着座しました。



相変わらずの佳景です。
道の駅での待ち時間で調べたところ、あの崖の先っちょに白神岬という北海道最南端の地点があるそうです。



松前の浜辺。多くのかもめが羽を休めていました。



白神岬が近づいてきました。



振り返ると、渡島大島(と思われる離島)はその姿が小さくなっていきます。





砂浜は少なくなり、荒々しい巌が目立つ海岸へ。
車内からの撮影のため、ときおり水平線が斜めになっています(^_^;)



白神岬展望広場を通過。
ここが北海道最南端・・・ということはなく、白神岬はもう少し先にあります。
ここはあくまで白神岬を展望する広場なのでしょうか。


実際の白神岬の撮影はうまくいかず、バスは隣町・福島町へ。





津軽海峡の佳景は程なく終わり・・・





バスは内陸の山中へ。




再び津軽海峡が見えてきたら、1時間半のバス旅もそろそろ終点。


時刻を見てみると・・・やはり木古内駅での乗り継ぎはギリギリになりそう。
引っかかる赤信号にやきもきしながらも、函館バスさんは定刻どおりに木古内駅前に到着しました。



【今回のバス乗車記録】

唐津停留所 12時40分発
函館バス 松前・木古内線 木古内駅前行き
6番のりば 14時10分着

*所要時間 1時間30分
*移動距離 55.9km   *運賃 1,250円




午 後 2 時 1 0 分

北 海 道 上 磯 郡 木 古 内 町

J R 木 古 内 駅 に 到 着




1時間半のバス乗車を経て、約5時間ぶりに木古内駅に到着しました。
ここでゆっくりしたいところですが、乗継時間がわずか14分。
この間に木古内・新函館北斗間の特定特急券を購入しなければなりません。
さらにこのバスプールは道南いさりび鉄道線寄りにあって、新幹線ホームまでは割と離れています



木古内駅で急遽購入した特定特急券
こいつと「北海道&東日本パス」を提示して、新幹線ホームへ。



今回乗車する電車は、北海道新幹線 はやぶさ13号 新函館北斗行きです。

 

またまた撮り鉄に失敗・・・方向幕でごまかしています(^_^;)
座席は、グリーン車(9号車)のすぐ後ろの8号車。ガラガラなので難なく席に座ることができました。




午 後 2 時 3 7 分

北 海 道 北 斗 市

J R 新 函 館 北 斗 駅 に 到 着




わずか1区間13分の新幹線旅は終わり、新函館北斗駅に到着しました。
ここで少しはゆっくりしたいところですが、そうは問屋が卸さない。



次の電車・函館本線 快速はこだてライナー 函館行きがすでにスタンバイしています。



駅名標を急いで撮影。



北海道名物?サッポロビール提供の駅名標も急いで撮影。
この駅名標は真新しいもののようで、私の知るものとは違いますなぁ~。いささか味がない。

 

私を函館へといざなうはこだてライナーのお姿をカメラに収め、慌ただしく出発しました。


・・・快速の次の普通列車(14時56分発)に乗ってもよかったんですけどね。


快速はこだてライナーの停車駅は、五稜郭駅と終点・函館駅。



五稜郭駅の駅名標・By サッポロビール。
サッポロビールの駅名標といえばやはりこの書体です(#^.^#)

なおこの五稜郭駅、あの五稜郭【国指定特別史跡】の近くにあるわけではなく、かなり離れています。
五稜郭に行くには、函館駅から市電で向かったほうがラクです。



そして15時02分。

 

旅行3日目、ついに函館駅に到着しました。
まったくありきたりな表現ながら、まさに「はるばる来たぜ~」と言いたくなります。


函館に到着したので、少しひと休み・・・せずに、まず向かったのは観光案内所
ここで函館市電の一日乗車券を購入しておきます。

係の女性はなぜかたどたどしい日本語です。
おそらくは中国系の方なのでしょう。
それはともかく、市電の一日乗車券はこの日ではなく翌日に使用するので、このまま手持ちのクリアファイルに収納しました。


函館駅の外へ。



観光客が多く、活気のある駅前。
2000年代に完成した駅舎はすっきりとしたフォルムで、観光都市・函館の玄関口にふさわしいと思います。



駅前の○| ̄|_orz
いちおう「OYAKO(親子)」という名前があるのだとか。
親子そろって土下座しているようにも見えてしまう私は、いささか心が病んでいるのでしょうか?



ひとまず予約した宿に向かうべく、駅前にある市電の停留場へと歩き出しました。



【今回の鉄道乗車記録】

JR北海道 木古内駅 12番線 14時24分発
北海道新幹線 はやぶさ13号 新函館北斗行き 10両
(H70)新函館北斗駅 12番線 14時37分着

(H70)新函館北斗駅 1番線 14時47分発
[H]函館本線 快速 はこだてライナー 函館行き 6両
(H75)函館駅 3番線 15時02分着

*所要時間 38分(乗車時間 28分  乗継時間 10分)
*移動距離 53.4km  *運賃 1,310円(乗車券は北海道&東日本パス使用(不使用時 1,070円)  新幹線特急券 1,310円)





道の駅・北前船松前

2017-01-26 | グルメ


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 前 1 1 時 3 0 分

北 海 道 松 前 郡 松 前 町

松 前 城 を 出 る



1時間ほど歩き回り、松前城を出ました。



時刻は正午前、少々早いですが食事処を探すこととしました。


松前で食事をすべく、松前城下通りを歩き回りますが、食事処が見つかりません。



小さな川沿いの小路を歩いて、海沿いの国道228号に出てしまいました。
おやおや、何らかの撮影でもやっているのでしょうか?
向こうに見えるのは横綱の里・福島町方面。
あの崖っぷちの道をバスでやって来たんだなぁ~(ToT)



本州方向。
それにしても松前の津軽海峡は本当に素晴らしい。


海を眺めつつ国道228号を歩いていくと、道の駅・北前船松前に到着しました。



よくよく見ると、道の駅から近いところにバス停が立っています。

 

道の駅から最寄りの唐津停留所
木古内駅へ戻るバスの時刻は12時40分、次が14時28分。
木古内駅到着時刻は、最速で14時10分ごろ、次のバスなら16時00分ごろになりそうです。

戻りの心配はともかく、道の駅へ。


中では松前産の海産物が販売されていますが、これらをスルーして「北前食堂」へ。
今回オーダーしたのは・・・



かにちらし重・大盛り(1,600円)です!!
いざ、実食!!



かにちらし重、うま~い!!



のれんに「人情と眺望が御馳走」とあったように、津軽海峡を眺めながら食事をすることができます。
海の家のラーメンがうまいように、海を眺めながらのかにちらし重も極めて美味なり。
いや、海の家のラーメンと並べて表現するのはちと違いますか(^_^;)

松前の佳景を味わい、松前の美味を味わい、かにちらし重をお新香を除いて完食しました。



この後は、松前の街を散策するわけでもなく、このまま道の駅で休憩。



道の駅にある北前船の模型
松前は北前船の寄港地であるとともに、アイヌ交易の拠点でもあり、江戸時代はこれらの利潤でおおいに栄えたそうです。
松前藩は米がとれないため、江戸時代中期の幕府は1万石格とみなしていましたが、実際の財力は10万石を超えるほどだったそうです。


みやげ物店を見て回りますが、お荷物になってしまうので購入はしませんでした。


もう少し小腹を満たしたかった私は、駐車場に面した出店でイカ焼きを買ってみました。
最初は真イカのイカ焼きを頼んだのですが、どうも真イカが不漁で出すことができないというのです。
そこで・・・



子持ちヤリイカ!・・・小さいけどうまい!



道の駅の眼下はそのまま津軽海峡。
潮風が吹きすさぶ中、美しい海を見ながら180円のイカを頬張るのでした。





松前城・後章~あっさりとした登城

2017-01-26 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 前 1 0 時 3 4 分

北 海 道 松 前 郡 松 前 町

国 道 2 2 8 号 ・ 松 城 バ ス 停



北海道最初の100名城は、松前城【国指定史跡】です。

松前城の最寄りとなるJR木古内駅から約1時間半。



松城停留所より、松前城の登城が始まります。



バス停のある国道229号から小道に入ります。
近くの案内看板と遠くの天守閣が道しるべとなって、松前城に導かれます。



おそらくは国道の旧道であろう松前城下通りから、松前城へと入ります。

 

城の入口。「史跡 福山城跡」の石標が植栽の陰にひっそりとたたずんでいます。
ここから正面の石畳を歩くのではなく、案内看板にしたがって右折すると・・・



あれ? ここは天守のすぐそばでは・・・?
あっさりと着いてしまいました。
垂れ幕の家紋は松前家の家紋ですが、似た家紋を見たことがあります。
山梨県のほうとか、あと八戸でもついこのあいだ目にしたような・・・。


松前城が築城されたのは幕末の嘉永2年(1849年)です。
それまでは福山館という陣屋が置かれていました。

松前城は、蝦夷地にロシアの艦隊が来航して以来、北方警備を目的として築城されました。
築城前は、函館山に新たな城を造ることも検討されましたが、交易の城下町・松前の衰退が危惧されたこと、そして築城の資金がまかなえなかったことから、福山館を改修して城郭にすることとなったのです。



いつもなら三の丸、二の丸と順を追って記述する登城記ですが、今回は道を進んでいっただけで本丸の手前まで着いてしまいました。
なんともあっさりとした登城記となっています。

そういえばこの日は受付の建物前でどこぞの学生がアンケートをしていました。
内容を見てみると、松前の観光振興のためのアンケートのようで、松前を観光してみた感想などを答えるもの。
たった今松前に着いたばかりの私が、このようなアンケートに答えるのは筋違いというもの。
アンケートに答えるなら松前城を出てからにすべきであろう・・・学生にはそのように伝え、アンケートは保留とさせていただきました。


ともかく受付へ。入城料は大人360円。
ほかに松前藩屋敷という江戸時代の松前城下を再現したテーマパークとの共通券が630円でしたが、今回は松前城のみの入場券を購入。

そして100名城スタンプも受付に置かれていました。



3番、松前城!
北海道最初の100名城スタンプ、絵柄は復興天守でした。


さて受付を通過すれば、城門があって、本丸に入って、天守があって、中に入っていく。
普通の城ならこのような順序ですが、松前城は違いました。
順路案内にしたがって進んでいくと、なにやら資料館のようなところへ。



アイヌが着用した「熊の爪つき冠」
この熊の爪がかなりの大きさ。
こんなのに襲われたらひとたまりもなさそうだなぁ~、そういえばこの旅で熊に遭うなんてことはないよなぁ~。



アイヌが着用した着物のようです。
「アツシ」という人物が着用していたのだとか。

松前の歴史、すなわち北海道の歴史は、先住民アイヌとの交流が主です。
そのためここの資料館はアイヌに関する史料が豊富に展示されています。



江戸時代中期の松前の様子を描いた松前屏風【松前町指定文化財】です。
このころは松前城はなく、福山館という陣屋がありました。
この屏風でもわかるように、また海のそばにあるバス停から歩いてきても実感しますが、ここは本当に海に近いです。
海から艦隊が攻め込んできたことを想定すると、並大抵の防御機構では防ぐことはできないことがわかります。



銅雀台の瓦硯(がげん)【松前町指定文化財】。
瓦硯とは、屋根の瓦を書道の(すずり)に転用したもの。
そして銅雀台は、三国志の英雄で魏の大王・曹操が建てた屋敷です。
こんなものがなんで松前にあるんだろうとは思いましたが、たぶん銅雀台というのはただの売り文句みたいなものなのでしょう。
この瓦硯はサハリン方面から伝来したものが、松前家の家宝となったものなのだそうです。


そういえばこの資料館は3階建てのようですな・・・まさか!?



最上階からはすぐ眼下に松前の海、はるか彼方には本州。



資料館の外に出ると・・・やっぱりここは天守【復興】でした。
ということは今いるところは本丸です。
本丸はなかなか広そうなのですが、工事のためか発掘調査のためか木塀で立入が制限されていました。





本丸側から城門をくぐります。すなわち退城。



福山城(松前城)本丸御門【国指定重要文化財】。
松前城で現存する数少ない遺構です。
文化財を所管する文化庁では、松前城ではなく福山城という名称で登録されています。
しかし広島県にも福山城があるので、お城業界では松前城という名称をよく用いています。



さきほどの資料館、福山城(松前城)復興天守は右隣に建ちます。



城門と天守の屋根は、銅葺きです。
通常の土製の屋根瓦だと、冬の寒さによる温度差に耐えられず割れてしまうため、銅を用いています。
この点は青森県の弘前城も同様です。

また石垣は、幕末当時最先端の切込接ぎという積み方です。
石をノミで丹念に成型し、隙間なく積み上げたものです。
松前は寒冷地なので、冬季には土が凍りついてしまいます。
温かくなって凍りついた土が解け、水とともに石垣の隙間から流れ出ることを防ぐねらいがありました。

石垣の石は、付近で採掘された緑色凝灰岩でできています。
凝灰岩は火山灰の堆積岩なので、柔らかく加工がしやすいという特徴があります。

そしてこの石垣ですが、じつは砲撃の痕がところどころにあるそうです。
私はスルーしてしまいましたが(^_^;)




受付前に戻ってきました。
アンケートをとっていた学生たちはいなくなっていました。まぁいいか~。



松前家の歴代当主が記載されている案内看板。
松前家のルーツは武田氏にあるそうです。


松前氏は、もとは蠣崎(かきざき)氏と名乗っていました。
蠣崎氏は下北半島の豪族でしたが、北海道に移住して居館を建て、アイヌとの交易を行っていました。
当時はそのような居館が12ほどあり、「道南十二館」と称されていました。

長禄元年(1457年)交易上のトラブルからコシャマインの戦いが勃発。
道南十二館のうちの10館が攻め落とされましたが、蠣崎氏のもとにいた武田信広の活躍で鎮圧されました。
この武田信広は若狭武田氏出身の人物で、この後蠣崎氏に婿養子として迎えられます。

戦国時代末期、蠣崎慶広(よしひろ)は上洛して天下人・豊臣秀吉に拝謁。
秀吉死後は徳川家康に接近し、命脈を保ちました。
慶長4年、姓を「蠣崎」からアイヌ語の「マトゥマエ」に由来する「松前」に改めました。



だから松前家の家紋は割菱なんですね。
甲斐武田氏は晴信(信玄)の代で最盛期を迎えますが、子の勝頼の代で織田信長に滅ぼされました。
若狭武田氏は織田信長に降伏していましたが、武田元明が本能寺の変で明智光秀についたため滅亡へ。
安芸武田氏も毛利元就によって滅ぼされましたが、傍流の松前家や南部家が現在も命脈を保っているのです。


戻りは別ルートで退城。



城の東側、搦め手を守護していた搦手二の門【復元】。
残っていた古写真をもとに復元されました。
高さ6.4メートルほどの高麗門だったそうです。



搦手二の門の前にはなかなか見事な三本松。
その前を水濠が通っていて、木橋で渡れるようになっていました。
そして木橋の脇に、通行人をチェックする番所が設けられていたそうです。



かつて番所があった所には、松前城の俯瞰図が配置されています。
外国艦隊の来航に対する警備のための城郭なので、海側に対しての備えは万全のように見えます。
実際に城内には、海に向けての砲台が多く備えられていました。
しかし・・・


松前城は幕末から明治維新までという短期間のみ機能した城郭なのですが、激しい戦闘を経験しています。
戊辰戦争で明治新政府軍は東北地方を平定し、榎本武揚らが率いる旧幕府軍の艦隊は蝦夷地まで落ち延びました。
榎本らは函館の五稜郭を占拠、さらに新政府に与する松前藩を攻撃しました。
榎本率いる艦隊が海から、そして新選組の生き残り・土方歳三率いる数百の兵が陸から攻めかかります。
松前城は海からの備えは万全でしたが、山側に対する備えは手薄だったので、わずか数時間で陥落してしまったのです。





帰りは天神坂門【復元】から出ました。



松前城にあった砲台のひとつ・五番台場



砲台が向いていたであろう海。
本州がよく見えます。



あっさりですが、これにて松前城の登城はおしまい。





松前城・前章~遥かなるバス旅

2017-01-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 前 8 時 5 7 分

北 海 道 上 磯 郡 木 古 内 町

J R 木 古 内 駅



北海道最初の下車駅は、JR木古内駅です。



この木古内駅は、これから登城する松前城の最寄駅。
これよりバスに乗って、松前まで足を運びます。





※今回の登城記は、「松前城・前章」と銘打ってはいますが、松前城はほぼ登場しません。
 単なる「バス旅日記」になっていますが、悪しからず。





さて今回乗車するバスは・・・



9時05分発 函館バス 松前出張所行きです。

車窓からの海を愉しみたい私は、前方の左座席に着席しました。
この日の乗客は私を除いてたったのひとり。
おそらくこの方も松前城へ行くのかな・・・そう思いつつ、ほぼ貸切状態のバスは定刻どおりに発車しました。



木古内駅を発ったバスは、しばらく木古内の市街地を走り、海沿いの国道228号・松前街道へ。



国道228号に入った直後の青看。
目的地の松前までは54Kmもあります。
ちなみに7Km先にあるのは知内町です。





左の車窓から津軽海峡がよく見えます。



木古内町の隣り・知内町に入り、海とはいったんお別れ。



知内川を渡り、バスと私は内陸の方へ。



名も知らぬ山のすそ野に広がる田園。



松前=海 というイメージとは裏腹に、行く先には山。
そしてカーブもそこそこ増えてくる道なのに、函館ナンバーの車が平気でバスを追い抜いていきます。
いちおうバスも気を利かせて、(というよりも時間調整?)無人のバス停で停車しているのですが・・・。



国道228号に架かる跨道橋。まぎれもなく北海道新幹線の線路です。
新幹線開業前は、ここに知内駅という津軽海峡線の駅がありました。



北海道新幹線の跨道橋からほどなく、知内橋を渡ります。
おや、向こうに見えるのは青函トンネルか!?

じつは青函トンネルではなく第1湯の里トンネルという、(北海道側からすれば)前座のトンネルだそうです。
ですがこの2つのトンネルは間隔がとても短くシェルターで覆われているので、画像のトンネルが事実上の青函トンネルの入口となっています。
「青函隧道」の扁額もあるそうです。




国道228号はさらに山中に入り、隣町・福島町へ。





福島町に入りしばらくは山の中を進みますが・・・



山を下って、街中へ。



青函トンネル記念館が進行方向左側に、



横綱千代の山・千代の富士記念館が右側に。
福島町は横綱を二人も輩出している「横綱の里」といえます。
そういえばここの手前にあった道の駅は、道の駅 横綱の里ふくしまなんてネーミングがされています。


福島町の市街地を過ぎると、車窓よりふたたび津軽海峡が見えてきました。















小さな漁港と集落を通っていきます。



集落もなくなり、津軽海峡に迫る断崖。
国道228号は断崖をぬうように、時として海に張り出すように通っています。
トンネル連続区間、というより断崖から落石を防ぐシェルターで覆われた区間に入り、いよいよ松前町へ。



松前町に入り、海の景色は荒々しさを増していきます。
このバスの車窓は見ていてまったく飽きません。









遥か彼方に見えるのは津軽半島か?



振り返ると先ほどの福島町。
山々がこんなにも張り出しています。



本州側を見やると、あのでっぱりはおそらく竜飛崎
(・・・だと当時は考えていましたが、地図と照らし合わせると、おそらくは小泊岬のようです)



今度はうっすらと見える島の影・・・あれは奥尻島か?
(これも当時の考えで、地図を見るとどうも渡島大島(松前大島)らしいです。奥尻島のわけがありません(^_^;))


断崖絶壁をぬうように進んでいた国道は大きくカーブし、海岸線が穏やかになってきました。



向こう側に松前の城下町が見えてきました。
松前城天守【復興】も心なしか見えてきたかな?





バスは相変わらず海ぎわを進んでいきます。



いよいよ素晴らしき車窓とお別れの時を迎えます。


午前10時34分、松前城の最寄となるバス停・松城停留所に到着。



海に張り出したバス停。
ここより、松前城の本当の登城は始まります。



【今回のバス乗車記録】

木古内駅前 1番のりば 9時05分発
函館バス 松前・木古内線 松前出張所行き
松城停留所 10時34分着

*所要時間 1時間29分
*移動距離 55.9km   *運賃 1,250円





ハイソフト「日本の名城」9城目

2017-01-17 | 日記


2 0 1 7 年 1 月 1 0 日 ( 火 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



ハイソフト「日本の名城」全16枚中、半分の8枚までをゲットしました。

No.1 五稜郭(函館五稜郭)
No.2 横手城
No.3 鶴ヶ城(会津若松城)
No.4 小田原城
No.5 越前大野城
No.6 上田城
No.7 松本城
No.8 犬山城

見事に東日本の城で占められています。
私がハイソフトを購入するのは、決まって某所のローソンなのですが、関ヶ原を越えることができません。
(越前大野城は関ヶ原を越えてはいますが・・・)

そしてついにこの日、待望の西日本の名城がやってきました。



この天守閣は書籍でよく見ます、なので即座に判明・・・No.14 松江城!

現存12天守のひとつで、姫路、彦根、犬山、松本に加えて平成27年に国宝に指定された天守です。


松江城は、関ヶ原の戦いでの功績により出雲国24万石を与えられた堀尾氏により築城されました。
所領にはかつて尼子氏の本拠地であった月山富田(がっさんとだ)がありましたが、山城であったので城下町を造成するには不向きでした。
そこで当主の堀尾忠氏は、宍道湖畔にあらたに松江城を築城することにしました。
しかし忠氏は築城前に急死、その子・忠晴はまだ幼かったので、隠居していた父の吉晴が当主を代行し、松江城の築城が始まりました。
完成目前に吉晴が急死するも、慶長16年(1611年)に落成しました。

寛永10年(1633年)堀尾忠晴没、嗣子がなかったため改易となりました。
次いで入封した京極忠高は松江城の造営を進め、完成させました。
忠高が没して嗣子がなく、京極家も改易となりました。
その後は松平直政が受け、明治維新まで続きました。



私事ですが、昨年の旅行では北海道とともに、松江城などの山陰が旅先の候補となっていました。
今年の旅先はどこにしようか・・・ハイソフトを口にしながら思案していました。





ハイソフト「日本の名城」8城目

2017-01-17 | 日記


2 0 1 7 年 1 月 8 日 ( 日 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



この日はともに食事をした知人のIさんからもらったカードです。



雪の天守閣、少しわかりづらいけど見たことがあるなぁ・・・おそらく、

No.3 会津若松城!
カードには雅称の「鶴ヶ城」とありますな。


会津若松城ははじめ「黒川城」といい、南北朝時代に蘆名氏が築城しました。
戦国時代から江戸時代にかけその城主は目まぐるしく変わり、伊達(政宗)、蒲生(氏郷)、上杉(景勝)、蒲生、加藤らが城主となりますが、それぞれ所領を失いました。
ちなみに「若松城」への改称は蒲生氏郷の時代で、彼の故郷の地に由来し、雅称の「鶴ヶ城」も、蒲生氏郷の幼名「鶴千代」から来ています。
加藤氏が改易されたのち、江戸幕府初期の名臣・保科正之が城主となって、以降討幕まで保科松平(会津松平)家の居城となります。

幕末、会津松平家の当主・松平容保(かたもり)は佐幕派の中心となったため「朝敵」とされてしまいます。
明治新政府軍による会津戦争ではその砲撃にさらされ、会津藩は降伏、会津若松城は廃城となりました。
昭和30年代に本丸が復旧され、天守閣も復興されました。



このカードの画は、おそらく天守の南東から撮ったものでしょう。
若松城の特徴である小豆色の屋根瓦が、雪のために見えにくいです。



この日は自分で買わずに、ほかの方からもらったのですが・・・
後日ダブリで若松城が出たので問題なし。

カードは16枚中8枚と、半分まで収集。
ダブリとの闘いが本格的に始まりますが、今日も明日もおやつは森永ハイソフト。





ハイソフト「日本の名城」7城目

2017-01-14 | 日記


2 0 1 7 年 1 月 6 日 ( 金 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



仕事始めから3日目。
正月休みはハイソフトもお休みだったので、ハイソフト始めからも3日目です。

この日ゲットしたカードは・・・



一目瞭然! No.1 函館五稜郭!

この絵柄の景色は、昨年の北海道旅行でも目にしました。
五稜郭タワーからの景色に相違ありません。

私はてっきりNo.1は弘前城だと思ったのですが・・・
現在の弘前城は石垣修復工事のため、天守が移転しているから、森永さんは採用を見送ったのでしょうね。


五稜郭(函館五稜郭)は、幕末に普請された星形要塞です。
幕末に欧米諸国がアジアに勢力を広げるにおよび、欧米の要塞建築を導入してできました。
城郭の中枢部分を中央に置くことで砲撃からの退避を図り、また外郭は各方面からの十字砲火が可能な造りになっています。

大政奉還から江戸開城におよんで江戸幕府が終焉を迎えたおり、これをよしとしない旧幕府軍は蝦夷地(北海道)に脱出。
五稜郭を本拠地として政権を樹立(いわゆる「蝦夷共和国」)、明治新政府に抵抗しましたが、函館は次第に新政府軍に包囲されていきます。
新選組の生き残り・土方歳三が戦死し、総裁榎本武揚は降伏し、戊辰戦争は終わりました。



ちなみに「五稜郭」とは本来五芒星(★←このカタチ)の要塞一般をいいますが、「五稜郭」といえば普通は函館の五稜郭を差します。
じゃあほかに「五稜郭」は・・・・・・長野県佐久市にも龍岡城(龍岡五稜郭)が存在します。

さらには「四稜郭」も存在します。
同じ函館市内に、五稜郭の支城的な存在だった四稜郭が、五稜郭の北東約3キロのところにありました。



そういえば北海道旅行の旅日記を長期休業しているなぁ・・・今月中にも再開しなければ。
もちろん休憩のおやつにはハイソフト・・・ですな。