鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

うどんどんどん

2021-01-26 | グルメ


令 和 元 年 神 在 月 廿 壱 日 ( 月 )

午 後 六 時 五 拾 分

松 江 ア ー バ ン ホ テ ル レ ー ク イ ン



月山富田城【国指定史跡】を登城した私は、午後5時ごろにホテルに帰ってきていました。



白バラ牛乳、うまい!
白バラコーヒー、まったり甘い!


シャワーを浴びて旅の垢を洗い落とし、白バラ軍団を飲みながらま~ったり過ごしていました。


本来ならばこの旅の4日目は、さらに米子城【国指定史跡】を登城する予定でした。
しかし前日、私のミスで若桜鬼ヶ城【国指定史跡】の登城を断念したおりに米子城に登城してしまったために、この日の夕方の予定は空白になっていたのです。

それならばどこかに出かけようか・・・・・・
4日連続で山城を登城した私に、そのような気力は残っておりません。

・・・まぁ、のんびりするか。

こうして旅行4日目の夜は出かけることもなく、ホテルの客室にただただ引き籠ることとした私。



しかし、晩メシがこれじゃあ・・・
というわけで、とりあえず外へ出かけることにしました。



キャンプ地としているホテルが国道9号線沿いだったので、なんとなく9号線を東に歩いていきました。
沿道にはラーメン屋さんや、マック、すき家などがありましたが、その土地土地のものを食べるというテーマを考え、そのまま通過。
ホテルから歩くこと1km強のところで・・・



吉野家 うどんのどんどん 松江西津田店が目に入ってきました。
うどんのどんどん・・・東国の人間である私は聞いたことのない屋号。
おそらく山陰地方、中国地方のうどんチェーン店なのだろう。
これも土地土地のものと考えられなくもない。

これ以上歩きたくない私は、「土地土地のもの」を拡張解釈したうえで、そのまま入店していきました。




午 後 七 時 拾 九 分

ど ん ど ん 松 江 西 津 田 店


店に入ると・・・ここはレジで先に勘定するようですね。
どんどんについて全くの予備知識もない私は、とりあえずかつ丼セット(当時税込670円)を注文することにしました。
(令和3年1月現在は760円)
ちなみにどんどんの一番人気は、肉うどんなのだそうな。

勘定を済ませると、レジの店員からプラスチックの札が手渡されました。
「食券」だそうです・・・ちょうどラーメン二郎の食券のようなやつですね。
この「食券」を、店員に見えるように座席に置いて待つのだそうです。
客のオーダーが一目でわかるように、「食券」はメニューごとに色分けされています。
ちなみに一番人気の肉うどんは、ピンクの長方形だそうな。


オーダーから5分ほどで、



かつ丼セットがやってきました。
丼の蓋を開けると、



かつ丼さん、ご開帳。
もうひとつは、丼いっぱいのネギが入っています。
これらのネギは、当然ながら取り放題。
丼すべてのネギを入れてもいいのですが、私はスプーン1杯だけいただきます。



かつ丼&かけうどん、うまい!
こちらのかけうどんには、わかめとかまぼこがもれなく入っているようですね。


いつもどおり、香の物を除いて完食。
食べ終わった食器を下膳口に戻す・・・必要はありません。
店員さんが片づけてくれます。



どんどんを出ると、とくに寄り道することもなく、そのままホテルに戻っていきました。



松江で、2泊!





月山富田城登城・最終章~七曲りを上る

2021-01-26 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 壱 日 ( 月 )

午 後 弐 時 廿 九 分

島 根 県 安 来 市

月 山 富 田 城 山 中 御 殿 址





月山富田城【国指定史跡】の登城は、中枢の郭である御殿(なり)まで到達しました。



城全体からみたら、このあたり。
残るは山の上にある郭だけ、といったところです。



さあ、眼前に迫る七曲りを上っていきましょう。



坂の中腹に到達。
このあたりには山吹井戸という水源があり、現在もこんこんと水が湧いています。
ここで山ろくへと振り返ってみると・・・



先ほどまで立っていた御殿平ひとつ名も知らぬ郭があって、小屋が復元された花の壇まで見ることができます。



山上まであと少し。
七曲りは、ふもとから山上まで約100メートルの標高差を約550メートルで上っていきます。
観音寺城竹田城鳥取城と、山城を連日踏破してきた身。
両脚に疲労がたまっているものの、昨日までの登山に比べたら高さもそれほどないし、なにより道が整備されているので、難なく上ることができました。



上り始めてから約10分、

 

七曲りを踏破し、山上の西袖ヶ平に到達しました。



ふもとに振り返ると、山下の郭群から飯梨川、そして広瀬の城下町まで見渡すことができます。



北側に目をやると、菅谷口にある集落が見えます。
私は最初、ここが新宮谷だとカン違いしていましたが、新宮谷はこの画像の右側、もう少し山あいにあります。
新宮谷は、尼子家の精鋭部隊・新宮党の居館があったところです。
新宮党は尼子経久の二男・国久が率いていましたが、その武勇をかさに着て傲慢な振る舞いが多かったため、尼子晴久(経久の孫)によって粛清されてしまいます。



西袖ヶ平にそびえ立っている三ノ丸
郭は段々の石垣によって囲まれ、段丘のようになっています。
戦時に通路として利用したり敵を待ち構えるために、段状になっていると考えられています。
あるいは、高石垣を築く技術がまだ伝わっていなかったからだとも。



七曲りを踏破してすぐそばに見える、三ノ丸への入口。
七曲りから来た攻め手は、左へ少し進んで回り込むようにして入る必要があります。
攻め手の勢いを削ぐ構造になっていますね。

階段を上って、三ノ丸、そして二ノ丸へと進みます。


  (楕円は三ノ丸と二ノ丸)

三ノ丸に到達。
なにやら鳥居がありますね。



飯梨川の下流方向を眺めます。
川が合流する中海島根半島まで見えます。
天候に恵まれれば、境港の街と弓ヶ浜半島日本海、そして隠岐島まで見えるそうです。
月山富田城が難攻不落の防御力とともに、宍道湖・中海の水運を抑えるのに適していたことがわかります。



月山富田城を攻めた大内義隆が布陣した京羅木(きょうらぎ)
どの軍勢も、月山富田城を力攻めで落とすことはできませんでした。



一段高くなっている郭は、二ノ丸です。
発掘調査では建物や柵、塀の柱穴の痕跡が確認されており、建物1棟が復元されています。
そこからは、備前焼の世紀末大革命恋愛大皿瓶が3つ出土しており、攻城戦の際に水を貯蔵しておくための建物だったと考えられています。

 

二ノ丸と本丸を隔てる大堀切
深さは約10メートル、幅は約20メートルとかなりの規模。
二ノ丸から本丸へは、直接進むことはできません。




西袖ヶ平に戻り、階段を上らずにふちを進んでいきます。



さきほどの大堀切を上り、

 

本丸に到達しました。



本丸から二ノ丸を見ると、こんな感じです。
堀切の両岸には石垣が施されています。




本丸の眺望のよさそうなところには、山中幸盛塔が立っています。
明治時代に立てられた、山中鹿介幸盛の慰霊塔だそうです。



その先には、勝日高守神社が鎮座しています。
出雲大社の神様・大国主命(おおくにぬしのみこと)をお祀りしていて、尼子時代においては城の祭神でもありました。
神社が鎮座するこのあたりが、月山の山頂にあたります。

山中公は、三日月に「七難八苦を与えたまえ」と祈願しましたが・・・
軟弱者の私は、七難どころか一難もないよう神社にお詣りしました。



それでは、本丸まで到達したということで・・・「城攻め」!



日本100名城・第65番、月山富田城攻略!

 

尼子の精鋭部隊が居住した新宮党館跡【島根県指定史跡】と、毛利元就が月山富田城を攻略する際に築いた陣城・勝山城も攻略できました。



「出雲の謀聖」尼子経久



「毛利両川」・軍略の吉川元春



「山陰の麒麟児」山中鹿介



合計12名の武将を発見、全員登用しました。
時代順に、一気に紹介していきましょう。


尼子久幸は経久の弟で新宮党を最初に率いた人物ですが、天文9年(1540年)から10年までの吉田郡山城の戦いで、退却する際にしんがりを務めて戦死しました。
尼子晴久は経久の孫で、経久の後を継いで尼子家を盛り立て、その最盛期を現出しました。
しかし晴久は急死し、その後を継いだ尼子義久は台頭してきた毛利家に追いつめられ、ついには居城の月山富田城に攻め込まれてしまいます。
重臣の宇山久兼は斜陽の尼子家を献身的に支えましたが、毛利の離間の計にかかった義久によって殺されてしまいます。
その後義久は降伏を余儀なくされますが、山中鹿介立原久綱らはこれをよしとせず、新宮党の遺児・尼子勝久を担ぎ出して尼子再興軍を結成します。
再興軍は出雲国を席巻し月山富田城に攻めかかりますが、このとき城将を務めた天野隆重は奮戦してこれを撃退。
最終的に尼子再興軍は、毛利家の山陰方面総司令官となった吉川元春により滅ぼされました。
元春の後を長男の吉川元長、次いで二男の広家が継いでいくこととなります。



 

月山富田城の本丸で、しばしの休息。
対岸に拓けた、広瀬の城下町をゆっくりと眺めていました。




午 後 参 時 参 拾 六 分

安 来 市 歴 史 資 料 館 前


本丸から約20分ほどで、ふもとの安来市歴史資料館前に戻りました。



資料館の裏手にある、ちょっとした広場。
千畳(なり)の足元に、安来市が設置した石碑が立っています。


月山富田城の築城時期はわかっておりませんが、保元・平治年間(1150年代後半)に平景清が築城したとの伝承があります。
鎌倉時代、承久3年(1221年)の承久の乱の戦功により、佐々木義清が出雲・隠岐2国の守護となり、月山富田城に入っているので、このころには月山富田城が存在していたことになります。

室町時代に入ると佐々木道誉(京極高氏)が出雲国の守護となり、出雲国は京極氏の領国となります。
山名氏に領国を奪われていた時期もありましたが、元中8年(1391年)以降は京極氏が守護となりました。
明徳3年(1392年)尼子持久が出雲の守護代に任じられ、以後尼子氏が守護代を歴任していきます。

戦国時代になると尼子経久が台頭し、出雲国は次第に尼子氏の領国となっていきます。
その後を継いだ経久の孫・晴久は、天文12年(1543年)大内義隆率いる大軍を撃退し(第1次月山富田城の戦い)「八ヶ国守護」とうたわれるまでに勢力を拡大していきます。
天文23年(1554年)晴久は専横甚だしい精鋭部隊・新宮党を粛清し、支配体制の刷新を図ります。
しかし晴久はその途上で急死、後を継いだ義久は体制固めの最中で、台頭してきた毛利元就との闘いを余儀なくされてしまいます。
元就は巧みに調略の手を伸ばして領内の国人(在地の武士)を次々に寝返らせ、永禄8年(1565年)義久はついに月山富田城に追いつめられてしまいました。
第1次月山富田城の戦いに参陣して惨敗した経験のあった元就は、時間をかけてじっくりと兵糧攻めを行い、さらには重臣に調略の手を伸ばします。
永禄9年(1566年)尼子義久はついに降伏、月山富田城は毛利家の支配下となったのでした。

永禄12年(1569年)尼子勝久山中鹿介らが率いる尼子再興軍が出雲国を席巻し、月山富田城も落城の危機に陥りました。
城代の天野隆重はよく持ちこたえ、元亀元年(1570年)毛利軍本隊が援軍に来たため、尼子再興軍は敗退しました。
その後は吉川元春が城主を務め、その死後は吉川広家が継ぎました。

豊臣秀吉が天下統一を果たすと、広家はあらためて東出雲、隠岐、西伯耆に領地を与えられました。
広家は山に近い月山富田城から、海に近い米子城【国指定史跡】への移転を計画します。
しかし慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで宗家の毛利輝元が敗れると、広家は岩国へと移ることとなりました。

広家の後を受けて領主となった堀尾吉晴も、はじめ月山富田城に入りましたが、宍道湖のほとりに松江城【国指定史跡】の築城を始めます。
慶長16年(1611年)吉晴の死後、孫の忠晴の代になって松江城が完成すると、月山富田城は廃城となりました。





この広場にも、月山富田城の模型があります。
資料館の中の模型よりも広範囲で、城域の地形がよくわかります。



今回の月山富田城の登城ルートは、こんな感じです。
そういえば大土塁など、見ていない遺構も少なからずありますね。





帰りは富田橋を渡り、



安来市民病院へ。



安来市コミュニティバス「イエローバス」に乗車して、



JR安来駅へと戻っていきました。



【今回のバス乗車記録】

安来市広域生活バス 市立病院前 16時01分発
広瀬=米子線 安来駅経由 吉佐入口行き
安来駅構内バスのりば 16時25分着

*所要時間 24分
*運賃   200円





月山富田城登城・第2章~月に祈る

2021-01-26 | 城郭【日本100名城】


令 和 元 年 神 在 月 廿 壱 日 ( 月 )

午 後 壱 時 四 拾 九 分

島 根 県 安 来 市

安 来 市 歴 史 資 料 館



 

安来市歴史資料館にて、100名城スタンプと御城印をいただきました。
パンフレットももらったので、これより月山富田城へ討ち入ります!



当時の月山富田城の登城口は3つありました。
ひとつは赤い矢印御子守口で、月山富田城の正面口にあたります。
もうひとつは北側にある黄色の矢印菅谷口
いまひとつは南側の黄色い円一帯からつづく塩谷口です。

永禄8年(1565年)からの第2次月山富田城攻防戦では、御子守口を毛利元就、菅谷口を小早川隆景(元就の三男)、塩谷口を吉川元春(元就の二男)が攻め立てました。
いっぽう御城印に描かれる山中鹿介幸盛は、塩谷口の防衛を担当していました。




歴史資料館の裏にある1基の墓。
尼子経久の三男・塩冶(えんや)興久のものと考えられています。

尼子経久の出雲支配に対する大きな壁となっていたのが、西出雲に勢力を保持する塩冶氏でした。
経久は塩冶氏に対し三男の興久を養子に送り込むことに成功しましたが、興久は反尼子勢力に取り込まれてしまいます。
享禄3年(1530年)ごろ、ついに興久は父・経久に反旗を翻し、内乱は出雲国一帯に広がりました。
不利な状況に追い込まれた経久は、敵対している大大名の大内義隆に援軍を要請。
大内軍はこれに応えたため、興久の陣営は次第に追い詰められていきます。
興久は妻の実家である備中(岡山県)甲山(かぶとやま)へ逃れるも、天文3年(1534年)に自害してしまいます。



 

伝・塩冶興久の墓から続く登城口から、中に入ります。
史実上の3つの登城口とは異なるルート・・・史跡整備にあたって貫通された道でしょうか。

 

最初の坂を上って分岐点を曲がると、馬乗馬場が広がっています。



高台から馬場全体を眺めます。
切り立った崖の上に整備された、広くて平らな土地。
月山富田城の広大さを物語っていますね。


 

馬場の反対側は、千畳平
最も城下に近い郭です。



よく見ると、斜面に石垣が施されていますね。



千畳平からの眺望。
現在は飯梨川(富田川)の川向うに市街地が形成されています。
月山富田城があったころは飯梨川の手前側に城下町があり、また川は広瀬寄りを流れていました。
月山富田城の廃城後に川手前の城下町は荒廃し、江戸時代に発足した広瀬藩の城下町が新たに川向うに形成され、現在に至っています。


 

次の郭は、太鼓壇
尼子氏が城主のときは、太鼓を打ち鳴らして合図を送る場所だったといいます。
現在では桜の木々が植わっており、花見の名所になっているのだそうです。



ここから眺める馬乗馬場は、なかなかに端整ですね。



桜の木に囲まれて立つ山中鹿介幸盛像


山中鹿介幸盛は、天文14年(1545年)ごろに現在の島根県安来市広瀬町に生まれたと考えられています。
鹿介の前半生や出自は不明な点が多いのですが、山中家は尼子家の家老を務め、尼子家の一門衆だといわれています。
鹿介の幼少期は、父が早世していたために生活は貧しく、母一人の手で育てられたといいます。
若いころから尼子家に仕え、戦いに従軍。
16歳ときには菊池音八という豪傑を一騎討ちで討ち取るなどし、武名を挙げていきました。

このころ毛利元就は弘治3年(1557年)に大内義長を滅ぼして周防・長門国(山口県)を攻め取りました。
いっぽう尼子家は、尼子晴久が永禄3年(1561年)に急死して、子の義久が跡を継ぐも、毛利家が次第に尼子家を圧迫していきました。
元就は月山富田城までの経路にある拠点を確実に押さえていき、また月山富田城の周囲の城郭をしらみつぶしに落としていき、永禄8年(1565年)月山富田城は孤立。
ついに毛利軍の総攻撃が始まりますが、すべて退けました。
元就は力攻めから兵糧攻めに切り換え、また謀略を仕掛けて内部分裂を図りました。
鹿介は品川大膳との一騎討ちに勝利するなど気勢を吐きましたが、戦況を好転させるには至りませんでした。
永禄9年11月(1567年1月)尼子義久は毛利元就に降伏、大名としての尼子家は滅亡しました。



「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」
鹿介は三笠山にかかる三日月に祈り、尼子家再興を誓ったといいます。

永禄11年(1568年)京都で僧となっていた尼子新宮党の遺児・尼子勝久と出会い、還俗させます。
ここに尼子家再興の闘いが始まります。

永禄12年(1569年)毛利元就が九州へ出兵している隙を狙って、石見・出雲(島根県)で挙兵。
かつての尼子家の家臣団も集結し、奪われた月山富田城へと攻めかかりました。
難攻不落の月山富田城は容易に攻め落とせませんでしたが、尼子再興軍の勢力は山陰地方一帯に広がっていきます。
元亀元年(1570年)元就は大軍を送り込み、さらに直属の水軍も派遣し、翌年ついに最後の拠点を陥落されてしまいました。

鹿介は捕らえられますが、但馬国(兵庫県北部)へ逃亡。
但馬山名家の支援の下、勝久とともに尼子再興軍を再結成し、因幡国(鳥取県)へと攻め込みます。
一時は名城とうたわれる鳥取城若桜鬼ヶ城を勢力下におさえます。
しかし山名家はここで毛利家と盟約を結んでしまい、尼子再興軍は因幡で孤立してしまいます。
毛利の大軍に若桜鬼ヶ城を攻められ、今度は織田信長のもとに逃亡します。

鹿介らは織田家の武将として戦い、明智光秀丹波攻略戦などで戦功を挙げました。
そして羽柴秀吉のもとで中国攻めに従軍することとなり、よたび毛利軍と対峙することとなります。
鹿介らは播磨国(兵庫県)西部の上月(こうづき)を拠点とします。
しかしここで別所長治が信長に謀反したため、秀吉軍団は播磨国に孤立してしまいます。
そんな中で、毛利軍が大挙して上月城を攻めてきました。
秀吉は信長に上月城への援軍を乞いましたが、信長はこれを拒絶して別所の鎮圧に援軍を充てるように厳命しました。
信長の方針に逆らうことのできない秀吉は、上月城への援軍を退くこととなり、上月城は孤立無援となってしまいます。
天正6年(1578年)4月、上月城は降伏。
「七難八苦」そのものであった鹿介の生涯はここに終わり、尼子家の再興は夢と散ったのでした。



鹿介の生涯に想いを馳せつつ、

 

太鼓壇の先にある奥書院平へ。



現在は広瀬町戦没者慰霊塔が立っています。




奥書院平からは下り坂と上り坂を繰り返します。
月山富田城の散策路は全般的に整備されていて、山城ではありますが行き来しやすかったです。
足元を照らす昭明も、ところどころに設置されています。



郭の案内看板も要所要所に設置され、手元に地図がなくとも迷うことはないでしょう。
そうそう、ここは花の壇という小規模な郭への分岐点です。

 

花の壇に入りました。
多くの花が植わっていたということから、この名があります。
ここは御殿に近く、また外敵の侵入を監視するのに適している立地から、ここには重臣が居住していたと考えられています。

急峻な山頂への道が、ついに我が眼に入ってきました。
郭の先端にある小屋は・・・なにやら見覚えがありますねぇ。



この小屋は、発掘調査の結果をもとにして復元したものだそうです。
この小屋と背後の山こそ、スタンプの絵柄に相違ありません。

 

足場ギリギリの場所から、スタンプの画角を捉えることができました。
本当にギリギリの場所です・・・滑落には十分にご注意を。



花の壇から眺める御殿平
月山富田城の中枢まで、もう少しです。




花の壇あたりから、郭に石垣が施されるようになります。
ここからいったん下って・・・

 

御殿のあった御殿平です。



場所はコチラ。



郭の周囲に造成されている石垣は、秀吉が天下統一した後に城主となった吉川広家、そして関ヶ原の戦いの後に城主となった堀尾吉晴の手によるものと考えられています。



雑用井戸というそうです。
御殿があった場所からは離れているので、御殿居住者のための井戸ではなかったのでしょうか。



その近くにあったのが、菅谷口門
菅谷口から登城した場合は、ここから御殿平に入ることとなります。




こちらが御殿跡。
山中御殿と呼ばれていました。
「やまなかごてん」ではなく、「さんちゅうごてん」です。


御殿平から本丸へは・・・



菅谷口門の近くから始まる月山軍用道から進むこともできますが、



山中御殿付近の石垣からも上ることができます。
いずれのルートも七曲りに続き、月山富田城の登城は佳境へ。