鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

沈黙の陣容?旧滝沢本陣

2013-02-20 | 街並み

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 3 時 0 8 分

福 島 県 会 津 若 松 市

飯 盛 山 付 近



飯盛山を出て時計代わりに携帯を見ると、まだ終電まで時間がある様子。
そこで地図を見てみると、飯盛山から歩いていけるところに旧滝沢本陣【国指定史跡】があるようだ。

旧滝沢本陣は、会津戦争の際に藩主・松平容保が腰を据え、戦争の采配を執った所であった。
白虎隊はここで戦支度を整え、戦地へと赴いた。
戦線は徐々に悪化。
新政府軍が会津に攻め入ると、本陣を会津若松城北の丸に移すこととなる。





旧滝沢本陣に着いた・・・が、人が全く見当たらない。
どこから入ればいいのか?
受付はどこだ??



本陣に隣接する駐車場と民家。
どうやらここが受付らしい。
どうみても普通の民家だが、とりあえず呼び鈴を鳴らす。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・出ない。

何度呼び鈴を鳴らしても出ない。
なんだか居留守使ってんじゃねぇのか?
そう思ったが、出ないならば仕方がない。

黙って入ってしまえ。



旧滝沢本陣は、またの名を横山家住宅という。
横山家住宅母屋【国指定重要文化財】は、会津戦争前から現存していて、家屋内には当時の刀傷や弾痕が残っている・・・というんだけど、



残念な貼り紙。
これで一気に疲れが出てしまった。



旧本陣の正面に回って、ここもおしまい。



まだ時間はあったのだが、会津若松の周遊はこれにて終了。
バスの到着を待って、JR会津若松駅まで戻っていった。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第37話へ続く。

珍しいサザエ!飯盛山・後編

2013-02-19 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 2 時 4 5 分

福 島 県 会 津 若 松 市

飯 盛 山



白虎隊士の墓を拝み、飯盛山から下りた。



入口に戻ってきた。
今度は白虎隊記念館側に続く道を歩く。

白虎隊記念館に入らないで行くと、木造の建物がふたつ。



ひとつは宇賀神堂

会津松平氏初代・正容(まさかた)(保科正之の子)が奉納した堂で、宇賀神とは五穀の神である。
のちに飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置され、現在に至る。




もうひとつはさざえ堂。
正式名は旧正宗寺三匝堂【国指定重要文化財】という。

このさざえ堂、上りも下りも階段がない。
さらに一度通った所は二度通らないという、なかなか面白い造りになっている。
通路は上りが時計回り、下りが反時計回りになっており、左右合わせて3周すると背面の出口に出られることから、「三匝堂」の名がある。
(「匝」は「めぐる」という意味がある)

さざえ堂自体は、全国に何箇所かあるが、ここのさざえ堂は六角形をしているのも独特なんだとか。



横から見ると、なんだか補強している・・・?
出口からの誘導路を造ったのだろうか。

もともとは、中に西国三十三箇所の観音像が祀られており、西国に行くことのできなかったであろう庶民が会津にいながらにして三十三箇所を巡拝できるという礼拝施設であった。
明治の神仏分離により、観音像は撤去されてしまった。

さざえ堂の向かいにあるスーパーハウスで、ここの入場券を購入することとなる。
入場料は400円、券はそのまま本のしおりとして使えるようになっている。
お堂の前には職員はいないので、お堂を拝んでそのまま中に入ることとなる。



中は天井が低い、純然な木造の建物。
この中にいるときに地震が来たらかなり危険だろうな・・・と思ってしまう。





1周半したらあっさり頂上部へ。
ここから反時計回りの下りとなる。



大黒柱である中央の円柱を越して、向こう側をのぞくことができる。
こちらは下りなので、向こう側にいる人は数秒後・・・



この上のあたりに来るのだろうなぁ。

案内看板にも書いてあるが、2~3分で出られる建物である。
400円払ってあっさり出るのはくやしいので、あえて何回か戻ってみたりした。
建物の構造にそれほど関心がなかったので、いよいよ外へ。

6分の滞在に成功した。



さざえ堂のところから少し下ると、洞穴から水がたたえている。



水量豊富な戸ノ口堰洞穴

猪苗代湖からの疎水で、飯盛山の山腹約150メートルの間を掘削したものである。
会津戦争においては、白虎隊士20名がこの洞穴を通って飯盛山に到達している。
彼らは飯盛山より燃えさかる若松城下を目の当たりにし、蘇生して天寿を全うした飯沼貞吉以外の19士が、若くして散ることとなった。



さて私は、戸ノ口堰洞穴からの流れとともに、飯盛山を後にした。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第36話へ続く。

会津が嫌いなわけじゃないのです。

2013-02-19 | 日記

2 0 1 3 年 2 月 1 9 日 ( 火 )

午 後 1 1 時 4 8 分

拙 宅 に て



東北を旅行してもうすぐ1年にもなろうってのに、まだ旅日記が終わってません。
これもひとえに、私の怠惰と遅筆によるものであり、ここにお詫びを申し上げます。

・・・まぁ、私の遅筆は今に始まったことではありませんね。
反省などまったくしていないことが明らかなのですが。

しかし、この東北の旅第34話・飯盛山編だけは、いろいろ時間をかけました。


会津を取り巻く歴史は、会津若松城の城主がコロコロ変わるように、じつにボリュームがあるものです。
その分、楽しいエピソードも悲しいエピソードも多くなります。
しかしその悲しいエピソードの中には、相手方(ほとんどの場合は薩長)憎しなのか、会津を一方的被害者にせんと、史実をゆがめているものもある。



飯盛山は、白虎隊士が自害し、そして埋葬されている尊い場所であります。

旅日記で、あえて批判的な物言いをしたのは、こういった史実をゆがめる行為がむしろ白虎隊士を冒とくする行為ではないのか、と考えたのです。
そこで、飯盛山編の編集をするため、史実をいろいろ調べてみました。


こうして、いつもとは違う論調?で旅日記が仕上がりました。
言うまでもないことですが、会津という土地が嫌いであるわけではありません。
大学の4年間を(会津ではありませんが)東北で暮らした私にとっては、親戚が(会津ではありませんが)福島に住む私にとっては、むしろ近い土地でもあるのです。

それゆえの物言いです。



2013年の大河ドラマの舞台も会津ですが、どのような脚本になるのだろうかなぁ。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第35話へ続く。

悲劇と虚構・飯盛山

2013-02-17 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 2 日 ( 木 )

午 後 2 時 1 8 分

福 島 県 会 津 若 松 市

飯 盛 山



会津藩の少年部隊・白虎隊が自刃したという飯盛山。
入口には白虎隊記念館といった資料館がある。



右側にあるのは、「動く坂道」という名のエスカレータ的なものと思われる。
このエスカレータ、なんと有料である。

私は当然、自らの健脚で階段を上っていく。



こしゃくなエスカレータめ!!
某学校の鬼コース程度の階段で金を払うと思うてか!!

・・・こうして、会津屈指の悲劇の地であるにもかかわらず、私は早くも引き気味になっていた。




階段を上りきって、慰霊の地へ。
この右側に白虎隊自刃の地が、左側には白虎隊隊士の墓がある。




自刃の地方向へ歩みを進めると、まず目に入る異形の碑。
「ローマ市寄贈の碑」と呼ばれている。

案内板によると・・・

白虎隊士の精神に深い感銘を受けたローマ市は昭和3年にローマ市民の名をもって、この碑が贈られた。
この碑の円柱は赤花崗で、ベスピアス火山の噴火で埋没した、ポンペイの廃墟から発掘した古代宮殿の柱である。
墓石表面にイタリー語で
「文明の母たるローマは、白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為め、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の(まさかり)を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」
裏面に「武士道の精神に捧ぐ」と刻まれてあったが第2次世界大戦後占領軍の命により削りとられた。
(原文ママ)


とある。

齢60は超えているであろう翁が、
「占領軍は会津の武士道精神を恐れてこのようなことをしたのでしょう」
と結んだ。
この翁は飯盛山の語り部のようだ。

さて、この碑を寄贈した主体である「ファシスタ党」、歴史の授業を覚えている人なら、いかにもイタリーなお名前の独裁者・ムッソリ~~ニの政党である。
そして全体主義を表す「ファシズム」の語源となった悪名高い政党なのだ。

「自己の身を犠牲にして忠節を尽くす」という「会津武士道」なる精神は、残念ながらファシズムなどの全体主義にとっては極めて都合のいい考え方といえる。
戦時中の日本は断じてファシズムとは違うものであるが、国論をまとめるために「会津武士道」が利用されたことは否定できまい。

・・・と心中で語り部に反駁しながら、飯盛山を回っていく。




次は飯沼貞雄翁の墓

案内板によると・・・

白虎隊士自刃者中唯一の蘇生者、飯沼貞吉少年(後貞雄と改めた)は印出新蔵の妻ハツに助けられ、後逓信省の技師となり、仙台逓信局工務部長に進み、逓信事業に挺身し多大の貢献をなし、昭和6年78才で仙台市において歿した。
白虎隊の実録も飯沼貞雄氏によって知ることができた。
昭和32年9月戊辰戦役90年祭に財団法人前島会仙台支部の手によつて、ここに墓碑と顕彰碑が建てられた。
(原文ママ)





飯沼翁の墓碑から少し進んでいくと、見晴らしがひらけ会津若松市内が一望できる。
この場所こそ白虎隊自刃の地であるという。

自刃の地に立つ白虎隊士の像
その目線の先には・・・





往時は城下の火災で落城したように見えた鶴ヶ城の天守がある。

ここも案内板を借用・・・

慶応四年(一八六八)八月二十三日(新暦十月八日)、年齢が十六~十七歳で構成された士中二番隊の白虎隊士は猪苗代から十六橋を越えて進軍した西軍と戸の口原で交戦するも、敵の軍事力に圧倒されて退き、戸の口洞門をくぐってこの地に至った。
炎上する城下を前に、玉砕か帰城かを巡って、激論を交わした。
敵陣突入を提案する者もいれば、鶴ヶ城が簡単に落城するはずはないとして帰城を主張する者もいた。
しかし、最終的に「誤って敵に捕らえられ屈辱を受けるような事があれば、主君に対して大変申訳なく、祖先に対しても申訳ない。この場は潔ぎよく自刃し、武士の本分を明らかにするべき」との決断にはじめて、全員が同意し、一同列座し南鶴ヶ城に向かって訣別の意を表し、全員が自刃した。
後、一名が蘇生。その名は飯沼貞吉である。
なお、鶴ヶ城開城はその一か月後であった。
(原文ママ)


鶴ヶ城は新政府軍(西軍)から砲弾を雨あられと浴びせられていたが、落城することはなかった。
状況判断の誤り、それに基づく集団心理が、白虎隊士の悲劇につながる。



自刃の地とは反対側、白虎隊士の墓へ。





献香の煙が絶えない正面は、自刃した19隊士の墓。



正面に向かって右側は、会津戦争で戦死した31隊士の墓。



左側には、会津藩少年武士の慰霊碑が立つ。
白虎隊とは別部隊の少年兵の慰霊碑である。


このあたりから翁の語りは、悲哀が一層込められたものとなっていく。

「会津の城下は戦渦に巻き込まれ、西軍の兵により略奪された・・・」
「会津藩は降伏後、不毛の地である斗南(となみ)藩(現在のむつ市周辺)に国替えされ、会津の武士たちはひどく困窮した・・・」
「西軍は会津の戦死者を葬ることを禁じた・・・」

こうして、「会津ってかわいそう、明治政府(薩長)ひどい・・・!!」って感じてしまいがちですが、その手は桑名の焼きハマグリってもんだ。

たしかに会津城下で略奪はあっただろう。
しかし会津藩兵も本国に退却する際に、略奪行為を行っている。(『郡山市史』など)
略奪を受けた地の人が明治政府軍に加わっていたならば、同様の行為に及ぶことは想像に難くない。
こういったヴァンダリズムをすべて薩長のせいとするのは間違っている。

斗南に飛ばされたことについては・・・
会津藩は降伏後、国替地として猪苗代と下北のふたつを提示されている。
普通なら会津の近場の猪苗代を選ぶのに、会津藩の首脳はあえて下北半島への移住を選んだのだ。
その上での困窮であるので、領地の削減はともかく、必要以上に明治政府が会津へ仕打ちをしたとは言えない。
下北半島は青森ひばという材木資源があり、近隣の八戸藩はこれを有効に活用していたのに、斗南藩ではそれができなかった。
そもそも、斗南=不毛の地 と言うのは、下北半島の人々に失礼とは思わないのか。

会津藩士の戦死者埋葬を禁止したというのは虚構以外の何物でもない。(『会津若松市史』も埋葬禁止を否定している)
明治政府はむしろ戦死者埋葬が進まないので、死者埋葬を命じたくらいである。
なのになのに、翁は平気でこのようにのたまい、飯盛山の案内看板にも死者埋葬禁止が記載されているのである。
きわめて残念なことである。

・・・と翁の面前で、ほかの観光客の面前で、公然と論破!!・・・するべくもなく、
「はい、はい、冗談半分に聞いておきますね」
と思いながら立ち去っていったのだった。



日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第35話へ続く。
日本100名城登城の旅・第10弾「おくのほそ道」第34話編集後記へ続く。