鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

沼田の建もの探訪

2019-03-24 | 教会・洋館


2 0 1 8 年 8 月 2 5 日 ( 土 )

午 前 9 時 4 9 分

群 馬 県 沼 田 市

沼 田 公 園



沼田城の本丸から外れた、沼田公園の一画。

 

古民家の方は、生方(うぶかた)家住宅【国指定重要文化財】で、沼田の市街地から移築されたものです。
洋館の方は、旧土岐家住宅洋館【国登録有形文化財】で、こちらは東京の渋谷から移築されたものだそうです。

 (※旧土岐家住宅洋館は、沼田の市街地へ移築するため、平成30年9月に閉館しました)

入館料は、どちらも100円です。
生方家のほうは、別棟の資料館の入館料も込みとなっています。



まずは、旧生方家住宅へ。
生方家は、真田家が領主であった時代から続く沼田藩御用達の薬種商だったそうです。
商店街の街角に「ふぢや」という店を構えていましたが、街角の「ふぢや」なのでいつしか「かどふぢ」という屋号になったそうです。



まずは板の間
家族と、番頭などの上級使用人がここにたたずんでいたそうです。
通常の客との接待も、いろりをはさんだ場所で行われていたそうです。




隣りが下店
板張から畳が敷かれランクアップしています。
こちらは常連客の接待が行われていたそうです。



その隣りが上店
こちらは主人の部屋であり、また上級常連客の接待をしていた部屋だそうです。
表側にあって光が差し込んでくるのは、下店、上店のふたつだけ。

 

二の間・三の間
主人の家族や上級使用人が寝食する部屋だったようです。
ここまでは自然光が入ってきますが・・・

 

その奥の四の間・五の間
こちらは下級の使用人が寝食していたようですが、自然光はほとんど入ってきません。
それもそのはず、この家はぬりごめ壁の手法、すなわち部屋のすべてが土壁で覆われ窓がないのです。
ぬりごめ壁の手法は、寒さの厳しい東北地方によく見られるそうです。



2階には窓が1箇所しかなく、その窓も厳重な格子で覆われています。



古民家内の解説パネルですら、「住居よりむしろ牢獄を連想する」と表記している始末。
さらにさらに、ぬりごめ壁の手法が採られる意味として、防寒のほかに「嫁、使用人の逃亡防止の配慮」と記載されています。
使用人はともかく(これでも相当ブラックではありますが)、嫁まで逃亡するほどだったのでしょうか・・・。
なんとも闇の深い古民家です。





お次は、旧土岐家住宅洋館へ。
土岐家というのは、あの「美濃のマムシ」に国を盗られてしまった土岐さんの一族なのです。


土岐氏は清和源氏の血を引く名門で、鎌倉時代から戦国時代まで美濃守護の職にありました。
しかしその本家は、「美濃のマムシ」斎藤道三の下剋上にあって没落してしまいます。

支流のひとつに、明智氏があります。有名なのは明智光秀さんですね。
その一族の明智定明は、「マムシ」の国盗りによる動乱に巻き込まれ、美濃を追われることになります。
母が三河の菅沼氏の出であったことから、永禄7年(1564年)に三河の大名・徳川家康に仕えました。
天正18年(1590年)家康が関東に移ると定明もこれに続き、下総国守谷(茨城県守谷市)1万石の所領を与えられました。
定明は豊臣秀吉のすすめに従い、自家の姓を「明智」から本流の「土岐」に戻しました。

寛保2年(1742年)土岐頼稔(よりとし)が、沼田藩3万5千石の大名となりました。
以後、土岐氏は12代、約120年にわたり沼田を治め、明治維新を迎えました。



明治政府による版籍奉還により、土岐家は沼田を離れて東京に移住し、子爵に列せられました。
この住宅は、土岐章子爵が関東大震災後に渋谷に建てたものを、沼田に移築したものです。
震災後の建物であることから、耐震技術が施されているのだとか。



土岐家住宅洋館は、大正末期から昭和初期に見られるドイツ郊外の別荘風住宅だそうです。
どのへんがドイツ~なのかというと、2階の外壁とか、屋根から浮き上がっている半円の窓、俗にいう牛の目窓とかがそうなのだというのです。


1階テラスの重厚な石柱、玄関や三連窓の装飾、玄関ホールのステンドグラスなど、近代的な印象を受けます。



こちらは1階の応接室
3方向が窓になっている開放的な空間です。



応接室の暖炉
子爵の顔写真もひかえめに置いてあります。



2階への階段。
親柱にはぶどうをモチーフとした装飾が施されています。



2階には和室があります。
こちらはもっぱら私的な空間だったようです。


さてこの旧土岐家住宅なのですが、私が訪問した日より約1週間後の9月3日に、閉鎖されてしまいました。
老朽化による取壊し・・・などではなく、沼田公園から沼田の市街地へと移築工事をするようです。

この事実がわかったのは、沼田訪問から約半年後のこと。
当時は閉鎖直前で、訪問できたのがかなりラッキーだったということなど知る由もありませんでした。



ふたつの対照的な沼田の建物を探訪し、私は沼田公園を後にしました。





小樽運河散策・最終章~日本郵船

2017-10-04 | 教会・洋館


2 0 1 6 年 9 月 2 1 日 ( 水 )

午 後 2 時 4 8 分

北 海 道 小 樽 市

運 河 公 園



北運河(小樽運河北側)からほど近い運河公園



西日に輝く噴水の向こうにある建物は、



旧日本郵船株式会社 小樽支店【国指定重要文化財】です。
・・・・・・むむっ、タクシーがなかなかどいてくれない(T_T)

明治39年(1906年)建築、石造り2階建て。
この建物は、日本郵船株式会社が小樽支店として新築したものです。
設計は工部大学校(現在の東京大学工学部)出身の佐立七次郎工学博士で、当時としては最新の石造洋風建築でした。
新築後まもなく、ポーツマス講和条約による樺太国境画定会議がこの建物で開かれました。
昭和30年(1955年)小樽市が建物を譲り受け、小樽市博物館として使用していました。
昭和59年から62年にかけて保存修復工事を実施し、現在の姿となっています。
(小樽市の案内看板の記述を編集)


・・・・・・建物正面の画を撮りたかったのですが、このタクシーがどいてくれなかったので、仕方なくそのまま中に入りました。
入館料は、大人300円。
小樽市総合博物館「運河館」との共通券は500円でしたが、私はその存在をスルーしてしまいました(^_^;)
入口で履物をスリッパに履き替えて、入館します。



まずは1階、業務が行われていた営業室です。
外部とは木製のカウンターで仕切られていて、柱はギリシアの神殿建築に用いられたエンタシスを思わせます。
商業施設としての機能性と、会社の「顔」を担う優美性を兼ね備えた意匠は、小樽の建築物の「横綱」にふさわしいといえます。



営業室は海運資料の展示コーナーとなっています。
調度品、ブラケットライトなど、往時の会社の雰囲気が再現されているかのよう。



外来客との商談は、



応接室で行われていたのでしょう。


一般業務、一般顧客のフロアである1階から、

 

特別業務、重要顧客用のフロアであった・・・



2階へ。



階段正面の部屋は、貴賓室です。



壁紙、照明、カーテン、調度品、じゅうたん・・・1階の応接室とは比べるまでもない、豪奢な内装です。



2階で最も広い部屋、会議室です。
ここで、日露両国の代表による樺太国境画定会議が開かれました。
その結果、北緯50度を境として南側が日本領となりました。

第2次世界大戦後の日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)で、日本政府は南樺太の領有を放棄しました。
しかしこの条約では旧ソ連(現在のロシア)が締約国とはなっていないため、日本政府は「南樺太の領有権は宙に浮いている」という立場をとっています。

 

隣りの食堂室には、境界標のレプリカが展示されています。



再び1階に下りました。



玄関とは反対側の戸口から、渡り廊下でつながる附属舎へ。
会社の顧客の目が届かないこの質素なフロアは、もっぱら従業員のための空間で、宿直室倶楽部室球戯室(ビリヤード室)などもありました。

ここで無料ガイドに遭遇、しばし同行することに。



附属舎にある男性用トイレ
ですがここのタイルがなかなか凝っていて・・・と、たしかガイドさんがおっしゃっていたような???


附属舎から営業室に戻ります。
最後の部屋は、



金庫室です。



金庫です・・・・・・以上。



外に出ると、時計の針は午後4時を回っていました。



建物前に居座っていたタクシーもさすがにいなくなり、ようやく建物の全貌を目にすることができました。



隣りには旧日本郵船株式会社小樽支店 残荷倉庫【小樽市指定歴史的建築物・第54号】が建っています。
こちらは横目に眺めるにとどめ、小樽運河をめぐる街ブラはこれにて終了。





さらに元町を歩く~洋館探訪

2017-02-23 | 教会・洋館


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 後 4 時 1 9 分

函 館 市 元 町



バルコニーでコスプレしている♂♀。



こやつらをなるべく写らないようにして・・・



あらためまして、旧函館区公会堂本館【国指定重要文化財】です。


旧函館区公会堂は、明治42年(1909年)5月に起工し、翌43年9月に竣工した建物です。
明治40年8月の大火で町会所が焼失したため、費用約5万8千円で建築されました。
この費用のうち大部分の5万円は、函館の豪商・相馬哲平の寄付によるものでした。

明治44年8月、ときの皇太子殿下(大正天皇)の行啓の宿舎として、また大正11年(1922年)7月にはときの摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓のおりに御休息の場として用いられました。
昭和32年(1957年)からは函館市公会堂として使用されてきました。

本館は昭和49年(1974年)5月に、附属棟は昭和55年(1980年)に国の重要文化財に指定されました。
昭和55年から3年間の保存修復工事を経て、現在もコンサートホールとして利用されているそうです。



入館料は大人300円です。
私はこのあとにもうひとつ洋館に入るつもりでいたので、2館共通券を500円で購入しました。

それでは中へ。
観光客も多く、漢一匹が入るにはふさわしくない場所ですが・・・
そんなことは意に介さず普通に入ります。こっちははるばる千葉から来てるわけだし。


まずは1階、大食堂



シャンデリアは蘭?をモチーフにした、派手さは控えながらもかわいらしいもの。





どの部屋か忘れてしまいましたが、調度品は往時のものを使用しているのでしょうか。



階段を上って2階へ。



当時のトイレでしょうか。もちろん現在は使用できません。



階段の近くにある部屋、御寝室(貴賓室寝室)です。
大正天皇が皇太子であったおりに、この部屋が御寝所として使用されたそうです。
昭和天皇が摂政宮であったときに御休息をとられた部屋もこちらで、調度品は往時のものが配置してあるそうです。



その隣りは御座所(貴賓室)
こちらの部屋で、大正天皇も昭和天皇もおくつろぎになったそうです。

この2室だけは、シャンデリアのかたちが異なっているそうですが・・・私は気づきませんでした(^_^;)
また壁や天井には、植物文様(アールヌーボー)の外国製壁紙が貼られています。



現在も使用されるという大広間です。
こちらは白漆喰塗の質素な感じですが、かえって広々としているように感じます。
大広間からはバルコニーが続いています。



コスプレ♀に交じってバルコニーに出てみました。
眼下には元町公園、そして函館港が見えるなかなかの景色です。


別階段で1階に下りると・・・コスプレ準備中の♂♀が数人。
衣装レンタルは20分で1,000円、ヘアメイクも1,000円、しめて2,000円で明治の貴婦人になることができます。

私? できるわけないでしょう~漢一匹の旅だし。

・・・・・・ふたりだったら、絶対やってただろうな(^_^;)




午 後 4 時 3 4 分

元 町 公 園 へ


漢一匹ではいささかつらい旧函館区公会堂を出て、隣接する元町公園に足を踏み入れました。



函館の港がよりいっそう近くに見えます。
湾の対岸には、よく見ると五稜郭タワーも。



公園から見上げた旧函館区公会堂。画になります。



公会堂を見上げた地点の脇には、4体の銅像が立っています。
号して函館四天王像
函館の発展に尽くした漢たちで、右から今井市右衛門平田文右衛門渡邉熊四郎平塚時蔵です。
彼ら4人は元町公園から、函館の港町を見下ろしているんですね。



四天王像のすぐ近くには、同じような色彩の洋館が建っています。
旧北海道庁函館支庁庁舎【北海道指定有形文化財】で、明治42年(1909年)に建てられたものです。

ちなみに元町公園のある地には、19世紀初めから箱館奉行が置かれていました。
しかし開国後、海に近いこの地は防衛上不利ということで、箱館奉行は五稜郭に移転することになります。



旧函館支庁舎の前に立つ台座。
この台座を使って庁舎の写真を撮ると、いい画になるそうですが・・・



うむ、なるほど。



隣りにある赤煉瓦の建物は、旧開拓使函館支庁書籍庫【北海道指定有形文化財】。
明治40年の函館大火の際も類焼を免れ、行政文書を守り抜きました。

北海道は、はじめ開拓使(北海道開拓使)が置かれ、明治政府主導のもとで北海道の開拓が行われました。
明治15年(1882年)に開拓使は廃止され、札幌県・函館県・根室県の3県が置かれました。
しかし3県の統治はうまく機能せず、北海道庁を置くことで内務省の管轄下となり、3県はそれぞれ支庁となりました。



元町公園を出ました。



公園わきの基坂(もといざか)を挟んで向かいにあるのが、



函館市旧イギリス領事館【函館市指定文化財】に入ります。



芸人N氏の顔のような旧式の電話がお出迎え。



領事の家族が居住していた家族居室



領事執務室からは、リチャード=コックス領事が函館の港を観察しています。



2階から領事館のお庭を拝見。



お庭からの領事館。
画になる建物を拝見して、あっさりですが後にします。

・・・・・・ああ、やっぱり二人で歩きたかったな。




午 後 4 時 5 6 分

領 事 館 を 出 る


時刻は夕刻、午後5時前。
日没までの時間は約1時間、函館山の夜景を望むべく、ロープウェー乗り場へ向かいます。



旧相馬邸【伝統的建造物】は素通り。
相馬邸は、函館区公会堂の建設に多額の寄付をした豪商・相馬哲平の私邸です。
イギリス領事館のお隣さんで、坂の上に建てられております。
市民の私邸から外国の公邸を見下ろすことができるのは、この相馬邸だけだそうです。



狭いながらも雰囲気のある石畳の坂を通過。



東本願寺函館別院を右に見つつ、元町を後にしました。





元町を歩く~3つの教会

2017-01-31 | 教会・洋館


2 0 1 6 年 9 月 1 6 日 ( 金 )

午 後 3 時 4 6 分

函 館 市 元 町



宿屋に手荷物を置き、漢ひとりが街ブラに出かけます。



さっそく第一教会発見、函館聖ヨハネ教会です。
この教会は日本聖公会に属します。
日本聖公会は、イングランド国教会の系統に属する聖公会の日本における団体で、立教大学聖路加国際病院を運営している団体でもあります。

ちなみに「聖路加国際病院」は「せいかこくさいびょういん」と読むそうです。


明治7年(1874年)、宣教師・W.デニングが函館に来て伝道を始め、聖公会の北海道における活動が始まりました。
明治11年(1878年)海寄りの末広町に初めて聖堂を建てましたが、幾たびも火災に巻き込まれ、現在の地に再建されたのは大正10年(1921年)のことでした。
現在の建物は昭和54年(1979年)に完成したものです。
(案内看板を要約)



なにやら変なかたちの教会ですが、これは上空から見たら十字架の形になっているそうです。
ここの教会は中に入れそうもないので、次の教会へ。

ちなみにここで奉仕する聖職者は「牧師」さんです。



 

元町の小路を歩いていくと、大三坂という雰囲気のある石畳の坂へ。
この大三坂に面しているのが第二の教会です。



カトリック元町教会です。
正門正面に建っている聖堂は脇に鐘楼を従えた、いかにも教会って感じです。
う~ん、私は西洋建築には造詣がないので、この程度のコメントしかできません・・・(^_^;)

 

聖堂の脇に建っているのが司祭館
石造りの重厚な構えの頂きにおわすマリア像がいい感じです。


カトリック元町教会は、安政6年(1859年)フランス人宣教師・メルメ=ドゥ=カションが仮の聖堂を建てたことに始まり、日本の禁教令が解かれた後のキリスト教布教再開の先駆となった教会です。
明治元年(1868年)司祭ムニクーアンブルステルが現在地に仮の聖堂を建て、さらに明治10年(1877年)司祭マランにより最初の聖堂が建立されました。
以後3回の大火で焼失してしまいますが、大正13年(1924年)再建し、現在に至ります。
(案内看板を要約)



この教会も、敷地には入れましたが中までは入れない模様。
そそくさと立ち去ることに。



外の小路から見たカトリック教会。
聖堂の赤い屋根と、鐘楼の水色の屋根が対比的で、よりスタイリッシュに見えます。

ちなみにこちらの聖職者は「神父」「司祭」になります。
カトリックの聖職者一般を「神父」といい、「司祭」は聖職者の階級のひとつであります。



カトリック教会の向かいの敷地にあるのがこちら。



函館ハリトリス正教会です。
こちらは東方正教会(ギリシア正教)の系譜を引く日本正教会の教会です。
ここの聖職者も「神父」「司祭」です。



白を基調とした美しい主の復活聖堂【国指定重要文化財】。
東ヨーロッパの建築様式の影響を受けているようです。


函館ハリトリス正教会は、安政6年(1859年)初代ロシア領事館の敷地内に建立された付属聖堂から始まります。
文久元年(1861年)司祭ニコライがロシアから来函し、日本で最初にギリシア正教を布教しました。
明治40年(1907年)大火で焼失しましたが、大正5年(1916年)聖堂はロシア風ビザンチン様式で再建されました。
昭和58年、国の重要文化財に指定されています。



ちなみにハリトリス正教会の敷地は他の2教会よりも少しだけ高台にあるので、



聖ヨハネ教会や、



カトリック教会がよく見えます。



鐘楼の立つ西側がファサード(建物正面)であり、ここから聖堂の中に入ることができます。
入場料は大人200円、文化財保護のための献金という名目で支払うこととなります。



燭台のともしびで照らされた・・・ようにいささか暗めの聖堂内。
整然と並ぶ十数枚ものイコン(聖像画)と聖具は、堂内の雰囲気を凛としたものにしています。
イコンの配置は、下列中央の左が生神女マリヤ(聖母マリア)、右が救世主イイスス=ハリトリス(イエス=キリスト)です。

なお、堂内は撮影禁止となっています。
画像は堂内で購入した絵はがきより引用しました。


聖堂から出ました。
教会の敷地をもう少しぶらり。



聖ニコライの肖像碑です。
ニコライ神父は明治5年(1872年)に東京に転任、「ニコライ堂」を拠点に活動しました。
昭和45年ロシア正教会により「日本の亜使徒」として聖人に列せられています。



南側からの聖堂。画になります(*^_^*)

教会の敷地を一周したので、外に出ました。



大三坂からさらに西へ歩きます。

 

坂から見下ろした素晴らしい光景。
この坂は八幡坂といい、坂の街・函館を代表する坂だそうです。

ちょうど観光タクシーが停まり、観光客♂♀と運転手氏♂が降りてきました。
運転手氏のガイドによると、この坂は別名「チャーミーグリーン坂」というのだとか。
チャーミーグリーンはライオン株式会社製の台所洗剤で、そのCMの撮影現場となったそうです。

広々とした石畳の坂、港に停泊する船、さらに街が広がり、山がそびえ立つ・・・ぜいたくな光景です。


八幡坂には入らず、小路をさらに西へ。



とある雑貨屋さん。
観光名所ではありませんが、画になるので撮ってみました。

そこから少し歩くと、



バルコニーでコスプレしている♂♀。
なにやら変な場所に着いてしまったようです?!



・・・・・・ああ、どうせなら二人で歩きたかったな。