鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

皇居東御苑

2013-07-04 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 1 6 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 3 1 分

千 代 田 区 大 手 町

大 手 門



大手門【復元】から皇居東御苑へ。



一の門が高麗門



二の門が渡櫓門枡形構造になっている。
・・・って同じ流れの記述を何回も繰り返している・・・。
それぐらい江戸城は規模が大きく、そして堅固なのだ。



大手門の石垣は、石が整形されて隙間なく積まれている。
こういう石積みは切込接(きりこみはぎ)という。


大手門をくぐると管理事務所があり、ここでプラスチック製の入場札を受け取ることになる。
入場料は無料であるが、入場管理を札で行っており、皇居東御苑を出るときは、札を返却することになる。
つまり、札をなくすと後々面倒かも。
(私は札をなくしたことはないので、どうなるかは不明)

皇居東御苑には、宮内庁病院などの重要施設があったり、宮中へ通じる通路があったりするので、進入禁止のところがある。

また、皇居の一部とされているので、公園でありながら管理は宮内庁が行う。
そのため、御苑内の現存遺構はのきなみ文化財指定の対象外になっている。





大手門から中に入ると、皇室の財宝が収蔵されている三の丸尚蔵館があり、そのとなりに休憩所(大手休憩所)がある。
普段以上の距離を歩いたため、足が悲鳴を上げていた私は吸い込まれるように入っていった。

ここでは絵はがきなどの皇居みやげのほか、アイスを売っている。
種類は少なく、ロッテの「モナ王」がやたら多い。
小腹を満たしたかった私は「モナ王」(120円)を買って食べた。

休憩所で放映している天皇・皇后両陛下の被災地行幸啓のビデオを拝見して、私は立ち上がる。


大手休憩所のすぐ近くに、枡形構造の跡と思われる石垣が並ぶ。
・・・江戸城、堅すぎ。



そして枡形のところにある同心番所【現存】。
警備の任務を負う同心の詰め所で、同心とは庶務・警備の仕事をしていた下級役人の総称。

ここをカゴや馬に乗ったまま通れるのは尾張・紀伊・水戸の御三家だけで、それ以外の大名はカゴや馬から降りて検問をうけた。
伴の者はここで主人の帰りを待ち、他家の者と情報の交換をしていて、これが現在の「下馬評」の語源になったという。


枡形を出ると、広い空間に出る。
ここは二の丸と本丸の分岐となっており、ここにはさらに大きな百人番所【現存】がある。
その長さ、50メートル超(*_*)!!



根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組の4組が交代で詰めていた最大の検問所。
各組とも与力20人、同心100人が配置されていたところから百人番所と呼ばれたという。


百人番所の目の前に、中之門跡



本丸に通じる門はこちら。
この先から坂が急になるあたり、城を攻める側からすればいやらしい縄張りだ。


その先にまたまた番所、大番所【復元】。



他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたという。
本丸へ続く最後の番所で、「最後の砦」として警備上の役割はきわめて重要だろう。


本丸への最後の門であった中雀門跡



ここを過ぎればようやく江戸城本丸

幕末の薩長軍はホントにこんな城を攻めようとしたのだろうか?
最後の将軍・徳川慶喜が恭順しなかったら、戊辰戦争はこう着状態になっていただろうなぁ。



本丸を回っていきたいところだが、携帯のバッテリーがもたない・・・。
行けるところまで行くとしよう。


桔梗門(内桜田門)付近の桔梗濠からちらりと見えた富士見櫓【現存】。



(↑ こちらは桔梗濠越しの富士見櫓)



本丸側から見た富士見櫓。
門扉に閉ざされており、近づくことはできない。

こちらは三階建ての三重櫓であり、天守が焼失した江戸時代中期以降は天守の代用となっていた。

江戸城は、はじめは五重の天守が建っていたが、火災による焼失が相次ぎ、財政状況からついに再建されなかった。
この影響は各地の城郭に及んだ。
「将軍様がお住まいの江戸城に天守がないのに、ウチの城で天守を造るのはちょっとね・・・」
ということで、実質的には天守の役割をなしている建物が、「御三階櫓」などという名がついたりした。



参考までに、こちらは福島県白河市の白河小峰城
天守「的」建物は御三階櫓という。


さて話を江戸城に戻そう。
本丸には広大な本丸御殿が建っていた。



その一角、松の大廊下跡
本丸御殿の大広間から将軍との対面所までの廊下で、廊下に沿ったふすまには松の並木と千鳥の絵が描かれていた。
元禄14年(1701年)浅野内匠頭長矩がこの廊下で吉良上野介義央に斬りつけた事件で有名。



うぅっ、スマホさんが勝手にシャットダウンしたか・・・本日はここまで。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第8話へ続く。

お濠散歩

2013-07-03 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 3 年 6 月 1 6 日 ( 日 )

午 前 1 0 時 0 5 分

千 代 田 区 皇 居 外 苑

桜 田 門 二 の 門 前



皇居を1周。
顔本にしてしまった公約をまがりなりにも果たし、顔本上で報告したところで・・・

あとは皇居をま~ったり歩くとしようかねぇ。
やっぱり俺には走るよりも歩く方が性に合うわい。





桜田門【国指定重要文化財】から、また歩き出す。



桜田門の一の門は、高麗門という形式の造りになっている。
高麗門は、シンプルな屋根(横から見たら「へ」の字のような屋根;切妻屋根)で、脇の柱にも小さな屋根がついている。



二の門は、頭上から攻撃できる櫓と一体になっている渡櫓門

桜田門は、正しくは外桜田門という。
かつては小田原方面への街道の起点であり、桜田門は「小田原口」とも呼ばれていた。


桜田門から水濠ぞいに歩くと、皇居のシンボル登場。



桜田濠と、その先の二重橋濠にかかる二重橋
手前のめがね橋は正門石橋、奥の橋は正門鉄橋といい、橋が二重に架かっているから二重橋の名があるとされる。





正門石橋の向こうに構える門が、皇居正門
正門前には皇宮警察職員の詰所が設けられ、正門石橋には障害物が置かれて渡ることはできない。



正門石橋から二重橋濠を望めば、鉄橋が濠からかなりの高さに位置することがわかる。
江戸時代には低い橋を架け、その上にもう1本橋を架ける必要があった。
そのため二重橋の名称があった。

鉄橋の先にある櫓は、伏見櫓【現存】という。
もともとは京都の伏見城から移築したものといわれるが、本当のところは違うらしい。
関東大震災で破損したが、修復される。
装飾性の高い二重櫓が印象的だが、その脇に多聞櫓(城壁に櫓の機能をつけたような、横長の櫓)がついている。





二重橋からそのまま二重橋濠に沿って歩けば、皇宮警察の警備が厳重な坂下門【復元】。



かつては桜田門と同じく一の門・二の門が存在する枡形構造であったが、現在は二の門が復元移築されて残る。

江戸時代には、坂下門外の変という事件が起きている。
桜田門外の変で暗殺された井伊直弼の後を継いで幕政を指揮した老中・安藤信正
幕府は、14代将軍・徳川家茂の正妻に孝明天皇の妹・和宮を迎えようと動いており、その主導的立場であった安藤は、尊攘派の浪士に襲撃されてしまう。
安藤は命を取り留めたが、幕府の重臣が相次いで襲撃されるという事実は、幕府の権威失墜を早めてしまった。

現在は宮内庁の正面玄関となっている。


二重橋濠は坂下門で止まり、その先は(はまぐり)となる。



蛤濠のむこうにわずかに見えるのは、三重櫓である富士見櫓【現存】。


蛤濠はすぐに終わり、次いで桔梗濠



両者の濠を隔てる桔梗門【復元】。
こちらは一の門が高麗門、二の門が渡櫓門枡形構造となっている。
桜田門が外桜田門というのに対し、こちらが内桜田門

この門は皇居参観のスタート地点になっている。
いつか行きたいねぇ。

 ※皇居参観の申込み : 宮内庁 http://sankan.kunaicho.go.jp/


走ったほぼ歩いた桔梗濠ぞいを再び歩いて・・・



立派なお姿の桜田二重櫓((たつみ)櫓)【現存】を仰ぎ見つつ・・・



すでに開門していた大手門【復元】の中に入っていった。



日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第7話へ続く。