大手門【復元】から皇居東御苑へ。
一の門が高麗門。
二の門が渡櫓門の枡形構造になっている。
・・・って同じ流れの記述を何回も繰り返している・・・。
それぐらい江戸城は規模が大きく、そして堅固なのだ。
大手門の石垣は、石が整形されて隙間なく積まれている。
こういう石積みは
大手門をくぐると管理事務所があり、ここでプラスチック製の入場札を受け取ることになる。
入場料は無料であるが、入場管理を札で行っており、皇居東御苑を出るときは、札を返却することになる。
つまり、札をなくすと後々面倒かも。
(私は札をなくしたことはないので、どうなるかは不明)
皇居東御苑には、宮内庁病院などの重要施設があったり、宮中へ通じる通路があったりするので、進入禁止のところがある。
また、皇居の一部とされているので、公園でありながら管理は宮内庁が行う。
そのため、御苑内の現存遺構はのきなみ文化財指定の対象外になっている。
大手門から中に入ると、皇室の財宝が収蔵されている三の丸尚蔵館があり、そのとなりに休憩所(大手休憩所)がある。
普段以上の距離を歩いたため、足が悲鳴を上げていた私は吸い込まれるように入っていった。
ここでは絵はがきなどの皇居みやげのほか、アイスを売っている。
種類は少なく、ロッテの「モナ王」がやたら多い。
小腹を満たしたかった私は「モナ王」(120円)を買って食べた。
休憩所で放映している天皇・皇后両陛下の被災地行幸啓のビデオを拝見して、私は立ち上がる。
大手休憩所のすぐ近くに、枡形構造の跡と思われる石垣が並ぶ。
・・・江戸城、堅すぎ。
そして枡形のところにある同心番所【現存】。
警備の任務を負う同心の詰め所で、同心とは庶務・警備の仕事をしていた下級役人の総称。
ここをカゴや馬に乗ったまま通れるのは尾張・紀伊・水戸の御三家だけで、それ以外の大名はカゴや馬から降りて検問をうけた。
伴の者はここで主人の帰りを待ち、他家の者と情報の交換をしていて、これが現在の「下馬評」の語源になったという。
枡形を出ると、広い空間に出る。
ここは二の丸と本丸の分岐となっており、ここにはさらに大きな百人番所【現存】がある。
その長さ、50メートル超(*_*)!!
根来組、伊賀組、甲賀組、二十五騎組の4組が交代で詰めていた最大の検問所。
各組とも与力20人、同心100人が配置されていたところから百人番所と呼ばれたという。
百人番所の目の前に、中之門跡。
本丸に通じる門はこちら。
この先から坂が急になるあたり、城を攻める側からすればいやらしい縄張りだ。
その先にまたまた番所、大番所【復元】。
他の番所よりも位の高い与力・同心によって警備されていたという。
本丸へ続く最後の番所で、「最後の砦」として警備上の役割はきわめて重要だろう。
本丸への最後の門であった中雀門跡。
ここを過ぎればようやく江戸城本丸。
幕末の薩長軍はホントにこんな城を攻めようとしたのだろうか?
最後の将軍・徳川慶喜が恭順しなかったら、戊辰戦争はこう着状態になっていただろうなぁ。
本丸を回っていきたいところだが、携帯のバッテリーがもたない・・・。
行けるところまで行くとしよう。
桔梗門(内桜田門)付近の桔梗濠からちらりと見えた富士見櫓【現存】。
(↑ こちらは桔梗濠越しの富士見櫓)
本丸側から見た富士見櫓。
門扉に閉ざされており、近づくことはできない。
こちらは三階建ての三重櫓であり、天守が焼失した江戸時代中期以降は天守の代用となっていた。
江戸城は、はじめは五重の天守が建っていたが、火災による焼失が相次ぎ、財政状況からついに再建されなかった。
この影響は各地の城郭に及んだ。
「将軍様がお住まいの江戸城に天守がないのに、ウチの城で天守を造るのはちょっとね・・・」
ということで、実質的には天守の役割をなしている建物が、「御三階櫓」などという名がついたりした。
参考までに、こちらは福島県白河市の白河小峰城。
天守「的」建物は御三階櫓という。
さて話を江戸城に戻そう。
本丸には広大な本丸御殿が建っていた。
その一角、松の大廊下跡。
本丸御殿の大広間から将軍との対面所までの廊下で、廊下に沿ったふすまには松の並木と千鳥の絵が描かれていた。
元禄14年(1701年)浅野内匠頭長矩がこの廊下で吉良上野介義央に斬りつけた事件で有名。
うぅっ、スマホさんが勝手にシャットダウンしたか・・・本日はここまで。
日本100名城登城の旅・第5段「皇居 ランナー ウォーカー」 第8話へ続く。