鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

学校だらけの水戸城二の丸

2014-03-31 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 9 時 1 1 分

水 戸 市 三 の 丸

弘 道 館 前



弘道館前で三の丸歴史ロードを曲がり、水戸城跡通りに入ります。
すぐ先に橋がかかっています。



この橋は大手橋で、三の丸と二の丸をつないでいます。



大手橋の下は深い空堀でしたが、現在はその堀を利用して県道が通っています。


大手橋の先には、かつて大手門がありました。

 (案内板の古写真より)

二階造りの大手門は、徳川氏の前の領主であった佐竹義宣(よしのぶ)が慶長元年(1601年)に建てたもので、徳川氏の代になってもそのまま用いられました。
楼上には太鼓や鐘が据えられ、時などを知らせたといいます。
水戸における戊辰戦役である弘道館戦争では、この大手門で銃撃戦があったそうです。
明治元年(1868年)に取り壊されました。



現在の大手門跡です。
スクールゾーンの交通標識が立っていますが、これが水戸城の恐ろしさを教える標識だとはこのとき気づいていません。

 

大手門跡に立っているのは徳川頼房(よりふさ)公像です。
徳川頼房徳川家康の十一男で、水戸徳川家の初代にあたり、光圀の父です。





大手門跡の両側には、当時の土塁が残っています。


大手門跡から進んでいくと、水戸市立第二中学校です。



校門の傍らに立つのは、「大日本史編纂之地」の碑です。



かつてここには彰考館(水戸彰考館)があり、徳川光圀以来の水戸藩の一大事業である大日本史の編纂が行われていました。
大日本史の編纂事業は光圀の代では終わらず、その完成はなんと明治36年(1906年)までかかりました。



水戸城跡には至るところにこのような案内があります。
水戸彰考館跡の案内の向こうにあるのは、水戸城跡二の丸展示館です。



大日本史のレプリカがあったり、



水戸城の縄張りがわかりやすく説明されています。
この図は左側が二の丸、空堀に隔てられた右側が本丸ですね。

この二の丸展示館、じつは水戸二中の施設のひとつです。
展示館の壁1枚隔てた向こうは二中の弓道場で、この日も弓道部の練習が行われていました。

展示館のそばにも1体の銅像があります。

 

国民的時代劇『水戸黄門』の「格さん」のモデルとされる安積澹泊(あさかたんぱく)です。
安積澹泊は、大日本史の編纂にあたっていた水戸藩士で、「助さん」のモデルである佐々宗淳(さっさむねきよ)とともに彰考館の総裁を務めていました。


水戸城跡通りを歩いていきますと、あたりから女子の黄色い声が聞こえてきます。
二中の女子ソフトテニス部でしょうか、なんだかわけのわからない、ある種の呪文とでもいいましょうか、へんてこりんな掛け声が絶え間なく飛び交います。
そのとなりのテニスコートは水戸三高(茨城県立水戸第三高校)のソフトテニス部が練習していて、やはり女声の呪文が飛び交っています。
奥の方では男子が練習していましたが、こちらはだまって球を弾き返します。
なんなんでしょ、あれは????

30男がひとりで学校地帯を徘徊していたら、いつ変質者に間違えられるかと思うとヒヤヒヤものです。
こっちはただただ城めぐりをしているだけなのに・・・・・・。

これが、水戸城の恐ろしさ
水戸城を訪れるのは、学徒が学校にいない日曜日が無難でしょう。


さてさて、水戸城跡通りの右側に水戸三高が現れたあたりに建っていたのが、三階櫓です。

 (案内板の古写真より)

二の丸に三階建ての物見を建てたのが始まりで、明和元年(1764年)の火災で全焼した後に、天守の役割をもつ櫓が建てられました。
(江戸城の天守が再建されなかったので、それに遠慮して「天守」ではなく「三階櫓」と呼ばれたといいます)
多くの城が取り壊された明治時代を乗り切ったのですが、残念ながら昭和20年の戦災で焼失してしまいました。



通りの左側には水戸城跡の大シイ2株【水戸市指定天然記念物】が生い茂っています。
戦国時代から自生していると伝えられ、樹齢は400年を超えるとされています。
このシイはスダシイという種類で、茨城県のあたりが日本列島の北限なのだそうです。



この大シイのところから「二中見晴らし台」というところに行けます。
思いっきり水戸二中の敷地内で、近くで野球部の男子が練習していました。
天覧記念碑もあり、観光客も自由に出入りできます。



見晴らし台からは、水戸城の守りの要であっただろう那珂川が悠然と流れていました。


今回のルートはこうなっています。




大して移動してませんが、水戸城の散策は続きます。




再登城・水戸城三の丸

2014-03-31 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 8 時 5 3 分

J R 水 戸 駅 北 口



9時前に水戸駅に到着。



黄門様ほどの健脚を持っていない私としては、歩く元気があるうちに、まずは城めぐりをしておきたいところ。

水戸駅の北口から徒歩10分程度で、水戸城の城跡にたどりつきます。
水戸城のあったところは、現在「三の丸」という地名になっています。

水戸駅から国道50号・黄門さん通りを歩くと、右手側に大きなイチョウの木があります。
ここを曲がると銀杏坂を上り、三の丸歴史ロードに入ります。




私はなぜか銀杏坂に入らず、国道118号へと遠回りをしてしまいました。


三の丸歴史ロードのあたりは、旧水戸城の三の丸にあたります。まぁ、そのまんまかな。
三の丸には、水戸藩の藩校であった弘道館が建ち、現在も残っています。



水戸城の跡地は、現在はおもに学校などの教育機関が建っています。
三の丸に建つのは水戸市立三の丸小学校
校門は冠木(かぶき)門があしらわれています。



校内外を分けるのは、フェンスではなく白塗りの城壁です。


三の丸小学校の次に現れるのは、弘道館【国指定特別史跡】です。



弘道館の正門【国指定重要文化財】は、水戸を襲った弘道館戦争や第二次大戦などの戦災を免れ、建造当時のものが残っています。

なお、100名城スタンプは弘道館の料金所でもらうことができます。



前回の登城は2012年の2月か・・・・・・2年ぶりの水戸城。


弘道館の前の交差点からは、水戸城跡通りが分かれています。



その交差点の近くに、弘道館を建てた徳川斉昭公(烈公)の像が立っていました。

 

像自体の大きさはだいたい50センチ強といった、人形のようなものです。


徳川斉昭は、水戸藩の第9代藩主で江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の実父です。

藩政では藩校・弘道館を設立し、家柄にとらわれず広く人材を登用することに努めました。
こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀(たてわき)、会沢正志斎、武田耕雲斎などの藩士が集まり、藩政改革を推進していきました。
また偕楽園を造園し、民衆に開放しています。

しかし、弘化元年(1844年)に改革の行き過ぎをとがめられ、幕命により家督を嫡男の徳川慶篤に譲った上で強制隠居と謹慎処分を命じられてしまいました。
その後守旧派の巻き返しがありましたが、斉昭を支持する藩士の復権運動などもあって、弘化3年(1846年)に謹慎を解かれました。

嘉永6年(1853年)6月のペリーの浦賀来航に際して、老中・阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わり、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張しました。
安政2年(1855年)に軍制改革参与に任じられますが、安政の大地震で藤田東湖や戸田忠太夫らのブレーン失いました。

斉昭は開国論に対して反対する姿勢を貫き、開国を推進する井伊直弼と対立します。
さらに第13代将軍・徳川家定の将軍後継では、徳川慶福(よしとみ)を推す井伊直弼に対して、息子である一橋慶喜を推して、直弼と争います。
しかしこの政争で斉昭は敗れ、安政5年(1858年)に直弼が大老となって日米修好通商条約を独断で調印してしまい、さらに将軍職も慶福(家茂)を第14代将軍としてしまいます。

このため、安政5年(1858年)6月に将軍後継問題及び条約調印をめぐり、越前藩主・松平慶永らと江戸城無断登城の上で井伊直弼を詰問したため、逆に直弼から7月に江戸の水戸屋敷での謹慎を命じられ、幕府中枢から排除されてしまいました。
安政6年(1859年)には、孝明天皇による戊午の密勅が水戸藩に下されたことに井伊直弼が激怒、水戸での永蟄居を命じられることになり、政治の世界から退くこととなりました(安政の大獄)。

万延元年(1860年)8月15日、蟄居処分が解けないまま心筋梗塞により水戸で急逝しました。享年61(満60歳没)。



斉昭像の先には・・・



彼を支えたブレーンが輩出した弘道館が建っています。




今回の目的地は水戸です

2014-03-31 | 鉄道の旅

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 7 時 2 5 分

千 葉 県 我 孫 子 市

J R 我 孫 子 駅 1 ・ 2 番 線 ホ ー ム









我孫子駅で重たい朝ごはんをいただいた私は、ふたたび常磐線に乗って北へと向かいます。



今回の目的地は、水戸です。

水戸といえば、日本三名園のひとつ・偕楽園
2月の中旬に何度か来園していますが、梅の開花が1割も咲いていないという閑散とした梅園を何度も見ています。しかも曇りとか雪とかの悪天候・・・・・・。
しかしこの日は気温が20度を超え、空は快晴。
梅の開花状況はもう散っているかもしれませんが、少なくとも消費税率以上の開花はあるでしょう。

ということで、茨城県の県庁所在地である水戸をパワープレイしていきましょう(#^.^#)


茨城県といえば、都道府県の魅力度ランキングで最下位常連。
毎年最下位になるもんだから、茨城県の関係者もついに「なめんなよ♥茨城」などと言う始末です。

「なめんなよ」なんて品のないことを言わずとも、茨城、水戸は魅力的な観光地だと思います。
ただ水戸を観光するには、普通以上の予習が欠かせないでしょう。

というわけで今回の旅は、品格をもって「あなどるなかれ♥水戸」と言っておきましょう。



JR我孫子駅 1番線 7時27分発
常磐線 快速 勝田行き
水戸駅 4番線 8時45分着
移動距離 84km 運賃 1,450円



春眠、暁を覚えず・・・・・・。
車内のボックスシートに座った私は、水戸まで惰眠をむさぼっていました。


水戸駅に到着。



水戸駅の案内標は、「仙台」「Sendai」の表記が隠されていました。
でも福島県内の常磐線はいつか復旧をするのでしょう。



改札を出て、水戸駅の北口へ。



水戸黄門・助さん格さん像から、水戸漫遊は始まります。



◆参考文献
『茨城県』「なめんなよ♥茨城」  http://www.pref.ibaraki.jp/namennayo




我孫子駅の唐揚げそば

2014-03-30 | グルメ

2 0 1 4 年 3 月 2 9 日 ( 土 )

午 前 7 時 1 4 分

千 葉 県 我 孫 子 市

J R 我 孫 子 駅 1 ・ 2 番 線 ホ ー ム



拙宅を出てから約1時間。
起きた直後にバナナを1本とリンゴジュース1杯を胃の中に入れてきましたが、ちゃんとした朝ごはんは食べていません。

いや、あえて朝ごはんを抑えたのです。




松戸から常磐線(快速電車)に乗った私は、2駅目の我孫子で下車。
到着した5・6番線ホームにあるという、駅そば界の有名店を捜します。



ありました! 降りた電車のすぐ近くに弥生軒(6号店)
休日の朝早い7時過ぎだというのに、人が入りきれないほどの大盛況です。

弥生軒の歴史は古く、戦時中から終戦直後の間には「放浪の天才画伯」山下清が働いていたそうです。
当時は駅弁販売が主力だったようで、その包装紙に画伯の絵が使われていたこともありました。

入口近くの券売機で食券を買い、食券を渡す順番を待ちます。
店内には食事スペースの6人を上回る人数の男が充満していました(^_^;)

「ぼくがはたらいていた弥生軒の
 おそばおいしいよ    山下清」


山下清ゆかりの立食いそば屋ということで、こんなメッセージの緑のプレートが懸けられていました。
(店内大盛況のため、プレートは撮影できませんでした)


食券を渡す順番が回り、「おそばをお願いします」と伝えて食券を渡しました。
弥生軒はそばとうどんの両方を選ぶことができます・・・って立ち食いそば屋じゃ普通ですね。




食券を渡して1分ほど、出ました! 唐揚げそば(2個入り)!!
でっかい唐揚げが2個入って480円です。(当時価格。2014/4/1より520円になりました)
なお、唐揚げそば1個入りは360円でした。(これも当時の価格。2014/4/1からは380円です)
この価格設定は駅そば界でも安いほうといえます。かき揚げそばも310円です。(2014/4/1からは320円)

実食してみますと、まずなにより唐揚げがデカい!! そしておいしいです。
そば1玉と唐揚げ1個がちょうどいいバランスのように思えます。唐揚げ2個はちょっと多いですね。
というわけで最初は唐揚げのみを味わうことにして、それからそばを食すことにしました。
そばはもみ殻を使わない白いもので、そばつゆは関東風の醤油ベースで甘みがあります。


唐揚げそばと言えば、常磐線の運行上の終着駅・仙台駅の立食いそば屋「杜」の唐揚げそばも有名です。



値段も360円(当時)とまったく同じですが、こちらのつゆは甘みがあまりありません。

私は甘党なので、我孫子駅の唐揚げそばのほうが合いますね。
でも仙台駅の唐揚げそばも嫌いじゃありませんよ。


唐揚げそば完食。なんというボリュームだったか。
これは昼飯抜いても問題なく旅ができそうです。


出発時刻まで時間があったので、ホームをうろついてみました。



弥生軒6号店の下り線寄りに、弥生軒7号店がありました。
7号店・・・ってホーム数より明らかに多い。
7号店は売店のようで、この時はまだ閉まっていました。



7号店のちょうど裏、さらに下り線寄りに弥生軒8号店
こちらは立ち食いそば屋で、もちろん唐揚げそばも食べられます。
なのに6号店とはえらい盛況に差がありました。
6号店は出口階段の近くにありますので、この差が出るのでしょう。


そうこうしているうちに勝田行きの列車が来ました。



◆参考文献
『桃猫温泉三昧』「JR我孫子駅ホーム、弥生軒の唐揚げそば」  http://yaplog.jp/momo-kimock/archive/3428
『我孫子のCB』「唐揚そばが人気です・・・我孫子駅構内の、立ち食いそば“弥生軒” 」  http://www.acoba.jp/21_abikoCB/09/yayoi/yayoi.html




旅に出ました

2014-03-30 | 旅立ち

2 0 1 4 年 3 月 3 0 日 ( 日 )

午 後 2 時 4 2 分

拙 宅 に て



タイトルのとおりですが、きのう旅に出ました。

これから2ヶ月かけて旅日記を・・・・・・というのがいつものパターンですが、
今回はなるべく急いで仕上げたいと思います。

なにぶんあのインパクトを新鮮なままお届けしたいので。



 ┌─┬─┬─┬─┬─┐
 │ 1│ 2│ 3│ 4│  │
 ├─┼─┴─┴─┘  │
 │ 6│   /▲.       │    
 ├─┤   ▼/.       │
 │11│   /▲.       │
 ├─┼─┐▼/.       │
 │16│17│/▲.       │
 ├─┼─┼─┬─┐  │        
 │21│22│23│24│  │      
 └─┴─┴─┴─┴─┘
 
「今日はある都市を当てていただきます」



◆参考文献
「鬼ヅモ同好会第2支部 Mind The Gap!!」  http://www.oak.dti.ne.jp/~woodbass/




三度目詣で・松虫寺

2014-03-13 | 寺院仏閣


2 0 1 4 年 1 月 7 日 ( 火 )

午 後 2 時 3 1 分

千 葉 県 印 西 市

摩 尼 山 松 虫 寺



神崎神社に参拝してちょっとばかりホッとした私は、拙宅に戻る途中にある松虫寺というおもしろい名前の寺をめざしました。


地図を見る限り、軽自動車がやっと通れるような道を上ったところにあるんだろうな~と考えていました。
そして実際、自分がたどった道は、ちょっと狭い道を上るというものでした。

鬼ヅモの大会にて会員の前で「行く行く」と言いつつ、立ち寄ることのなかった松虫寺。
その松虫寺を、ついにこの日、参拝するのだ・・・・・・



と自分の中で感慨に浸りつつチャリを押し進めていると、じつに突然に、あっさりと仁王門が目に入ってしまいました。
「あ、ここね・・・」
細い道の曲がり角を曲がると、すぐに仁王門が目に入った感じ。


松虫寺の由緒は、なんと奈良時代にまでさかのぼります。

時の帝は、奈良の大仏を鋳造させた聖武天皇
天皇には松虫姫という皇女さまがいらっしゃいました。
松虫姫のお身体は謎の病弱で、いかなる道士に加持祈祷をさせても治りませんでした。
(現在でいうところのハンセン氏病と考えられています)

ある晩、松虫姫の夢枕に薬師如来が現れ、姫にお告げを与えます。
「わたしは印旛沼のほとりの萩原郷におるので、わたしを捜して参られよ」

姫はそのことを天皇に伝え、下総国への下向を訴えました。
父である天皇はその願いを聞き届け、乳母の杉自、護衛役の権太夫と大勢の兵士、そして奈良時代きってのスーパー僧侶・行基をお供につけました。

病弱の身である姫にとってはとても大変な旅であったでしょう。
山賊に襲われた際には、権太夫らがねじ伏せました。
印旛沼が大水で渡れないときには、行基が祈って、モーセのごとく大水を鎮めて道を拓いたといいます。
護衛の兵士が次々脱落するという難儀な旅の末、松虫姫の一行は下総国の萩原郷に着くことができました。

姫はひっそりと祀られている薬師如来のお堂を見つけ、そこで勤行に励みました。
すると、誰もが治らないと思っていた姫の病は治っていきました。

村人たちは、姫の一行をたいそう温かくもてなしたそうです。
そこで一行は、都・奈良の文化を村の住民に教えてあげました。

姫は病が完治したので、都に戻ることになりました。
乳母の杉自は、村人に慕われていたこともあり、また年老いたためもう姫のお役には立てないと思い、この地に残って都の文化を伝えることに努め、この地で一生を終えたそうです。

聖武天皇は姫の完治をたいそうお喜びになり、行基に命じて薬師如来をお祀りする寺を建てさせたそうです。
(ちなみに行基が印旛沼の水を分けて道を作った場所は、現在土行(つちゆき)という地名がついています。)



千葉テレビの「お~いお話だよ」を参考にまとめてみました。



仁王門の脇に立つ石碑にはこうあります。


松虫寺は奈良時代、聖武天皇の天平十七年(七四五)僧行基の開創と伝えられ、始め三論宗、のち、天台宗、そして、真言宗に所属し今日に至っている。
寺伝によれば、聖武天皇の皇女松虫姫、(不破内親王)が重い病に患われた時、不思議な夢のお告により、下総に下向され、萩原郷に祀られていた薬師仏を祈り、重患が平癒したので、天皇は、行基に命じて七仏薬師を刻み一寺を建立し、姫の御名をとって松虫寺と名付けられたと言う。

現在の本尊、七仏薬師如来は榧材の一木造りで、平安後期の特色を伝える優作として、昭和三十四年、国の重要文化財に指定された。
南面する仁王門、薬師堂は江戸時代、享保三年に改築されたもの、山号額は儒者、佐々木文山、薬師堂の偏額は、釈雲照の染筆である。
西面する本堂は、寛政十一年の建立で、阿弥陀如来、不動明王、松虫姫尊像をまつる。
薬師堂の裏手の松虫姫御廟は、御遺言により分骨埋葬されたものと伝えている。


  ※享保3年=1718年、寛政11年=1799年
  ※榧材 ・・・ カヤの材木。碁盤・将棋盤などに用いられています。
  ※一木造り ・・・ その名のとおり、一本の木から採れた木材を彫り刻んで仏像を造る方法。
           それぞれの材木から仏像のパーツを造って組み合わせる方法は寄木造りといいます。
  ※佐々木文山 ・・・ 江戸時代前・中期の書家。
  ※釈雲照 ・・・ 幕末・明治期の僧。

石碑の記述をまるパクリしたので、少しばかり注を入れてみました。
不自然な句点(、)も、原文のままです。
しかもこの石碑、文章の禁則処理をしてないのか、行のあたまに句点がついてる・・・(^_^;)


それではさっそく参拝しましょうか。



まずは表玄関ともいうべき仁王門ですね。
石碑の記述によれば江戸時代の中ごろに造られたものです。
朱塗りが色あせているものの、味のある素晴らしい御門です。

左右に仁王像が控えており、それぞれ四角い穴、円い穴から仰ぎ見ることができます。





穴から仰ぎ見た仁王像は、「悪しき心の者を排除する」という迫力に満ちています。


仁王門をくぐると、すぐそばに薬師堂が建っています。





薬師堂も、仁王門と同期に改築されて、現在に続いているそうです。





扁額や絵はすっかり色あせてしまっているが、こういうのがいいんですよねぇ~。


薬師堂の裏手には、宝物庫と松虫姫御廟が静かにたたずんでいます。



宝物庫の中には、松虫姫がお祀りしたとされる御本尊・七仏薬師如来【国指定重要文化財】などの寺宝が保管されています。
七仏薬師如来は7体の像の総称であり、坐像(お座りになっている薬師如来)が1体、立像(お立ちになっている薬師如来)が6体あります。
実際には平安時代後期の作と考えられていますが、様式は平安前期に流行したものとなっており、東国への文化の伝来にタイムラグがあったことがわかります。



薬師堂の真裏にある松虫姫の御廟です。


千葉の民話ではか弱くやさしい皇女さまというイメージの松虫姫ですが、本名は不破内親王というそうです。
そしてこの皇女さまは、都に戻ってからも波瀾万丈の一生をおくるのです。

都に戻った不破内親王は、その後天武天皇の孫にあたる塩焼王(氷上(ひかみ)塩焼)に嫁ぎます。
そして氷上志計志麻呂(しけしまろ)とその弟川継という男子を産みます。

天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱で、夫の塩焼は藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)に天皇に擁立されますが敗北、殺されてしまいました。
このときは不破内親王は皇女ということで連座を免れました。

しかし神護景雲3年(769年)、今度は称徳天皇を呪詛したとの疑いをかけられ、内親王の地位をはく奪されてしまいます。
「改名女帝」こと称徳天皇は、不破内親王を「厨真人厨女(くりやのまひとくりやめ)」に名を改めさせて流罪にしました。
のち宝亀3年(772年)、疑いが晴れて内親王に復帰します。

しかししかし延暦元年(782年)、今度は次男の氷上川継が謀反を起こした疑いがかかり、不破内親王も淡路に流罪となってしまいました。
その後淡路から和泉に身柄を移され、そこで失意のうちに一生を終えたといいます。



松虫姫は死に際して、自らの遺骨の一部を下総の地に葬られることを望んだそうです。
波瀾万丈の一生を終えた松虫姫は、今となっては静かに眠っていらっしゃるのでしょうか。



この日は正月明けの平日。
神崎では晴天であった空は薄曇りになっていました。
境内には私以外の人はおらず、なおいっそうの静けさがあたりを包みます。



薬師堂のお隣には、松虫姫神社の御堂が建っています。



正面から入ります。







松虫姫を祀る神社らしく、御堂の意匠は色彩豊かなものになっています。
柱の両側にある彫像は、悪い夢を食べるというバクがかたどられているそうです。
夢枕によって下総まで下向した松虫姫ならではでしょうか。

画像の周りの白いモヤは、カメラのレンズが曇っているだけです。


ここで旅の無事を祈願して、松虫姫神社をあとにしました。



拙宅へ戻るべく、国道464号方面に進んだのですが・・・・・・
そのルートがきわめてあっさり見つかりました。
そしてそのルートはアップダウンがさほどなかったのです。

国道464号はアップダウンが多いから・・・などと考え、別ルートを検索しては道に迷い、挙げ句に参拝を断念した1月2日。


松虫姫は私に、あらためて旅のあり方を問うたのではないでしょうか。



第61回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記 完

だけどいちおう番外編も用意しました。

二度目詣で・神崎神社

2014-03-03 | 神社


2 0 1 4 年 1 月 7 日 ( 火 )

午 前 1 1 時 3 5 分

千 葉 県 香 取 郡 神 崎 町

神 崎 神 社



加藤洲十二橋から利根川まで進み、そのまま利根川沿いを西へ。


神崎大橋で利根川を渡ると、森に覆われた小高い丘が見えます。
鎮守の森の中に、神崎神社は鎮座しています。



表参道と思われる入口まで来ました。
ママチャリ「飛電」はとなりの空き地に留め置いて、参拝へ。

参道の階段を上りきると、



あれれ、下り階段です。



右側にはコンパクトな境内末社・金刀比羅宮が鎮座しています。

ゆるやかな下り階段を下りると、



今度は上り階段。なんなんじゃ~(^_^;)

階段に挟まれた谷間のところには、境内末社・三峯神社が鎮座しています。




神社の入口から階段を上って下りてまた上ると、ようやく神崎神社の拝殿に到着です。
ようやく、といってもまっすぐ進めば5分もかかりません。


神崎神社の起源はかなり古く、社伝にとれば白鳳6年(673年)に常陸国と下総国の境界にあった「大沼浦二つ塚」というところから移ってきたそうです。
前は「子松神社」という呼称でしたが、明治以降に神崎神社と改められ、県社に列せられています。

主な祭神は天鳥船神(あめのとりふねのかみ)です。
国譲り(葦原中国平定)の際に、鹿島神宮の武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)や香取神宮の経津主大神(ふつぬしのおおかみ)らの副使として派遣されました。
また、その名のとおり、神々が乗る船にもなれたそうです。
そのため、航行の神、交通の神として祀られています。





神崎神社拝殿で、本年二度目の参拝。
お祀りされているのは交通の神様ということなので、「ママチャリがパンクしませんように」と重々お願いしました。





拝殿の右隣に立っているたいそうご立派な大木は神崎の大クス【国指定天然記念物】で、「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれています。


某時代劇の影響で「副将軍」の役職をもっていたとか、老齢なのに日本全国を歩き回ったとか思われている「水戸黄門」こと徳川光圀
もちろんこれらはフィクション。
水戸藩主は江戸に最も近い徳川御三家の当主として、江戸に常駐していました。参勤交代の例外とされます。
徳川光圀は歴代水戸藩主の中では比較的よく外出したようで、領国の常陸にもよく戻っていました。
そのお出かけにぶらりと立ち寄ったのが神崎神社で、光圀は神崎の大クスを見て驚嘆し、「この木は何というもんじゃろうか」と自分に問うたそうな。






神崎神社の境内はそれほど広くないのに、「なんじゃもんじゃの木」はえらくデカいので、カメラに収めるのはなかなか難しかったです。



滞在時間は15分くらいでしたが、少しばかりホッとする神社でした。
正月も終わり参拝客が私だけでしたので、とても落ち着くことができました。



交通の神様のご利益があったのか、「飛電」に大きなトラブルもなく、私は利根川沿いを西進していきました。



「第61回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記」最終話へ続く