2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )
午 後 1 時 3 7 分
山 形 市
立 石 寺 仁 王 門
仁王門が見えてくると、山道もいよいよ後半。
門の左右に配置された仁王像は、運慶の弟子による作といわれ、邪心を持つ者を拒むという。
立石寺は、860年(貞観2年)に天台宗3代座主の慈覚大師・円仁が開山したとされる。
鎌倉時代には、幕府の政策で禅宗に改宗されるが、14世紀半ば、羽州探題・斯波兼頼により再建され天台宗に戻った。
戦国時代には兵火を受けて一山焼失してしまう。
このとき比叡山延暦寺から分燈されていた「不滅の法燈」も消滅し、再度分燈されるととなる。
1571年(元亀2年)比叡山が焼討ちにあうが、その再建には立石寺から「不滅の法燈」が分けられた。
立石寺再興は、山形城主であった最上義守・義光父子によりなされていった。
松尾芭蕉が旅の途中で訪れたことは、あまりにも有名であろう。
仁王門をくぐると、ちょっとした難所あり。
(上から見下ろした画)
石段に雪が積もって、踏み固められてアイスバーン状態になっていた。
ここはロープを伝って上る。
仁王門の先は、雪が多く残っていた。
行く手の左を見上げると、岩壁の上に建つ伽藍。
行く手の右側には立石寺の支院が並ぶ。
順に
観明院、性相院、金乗院、中性院。
これらの支院には立ち寄らず、まずは上を目指す。
立石寺の最奥、
奥之院(妙法堂)に到達。
天は春の雪を降らせる。
1015段の石段を踏破した私への嫌がらせか? 祝福であろうか。
ここで立石寺のご朱印をいただこう。
奥之院の坊主にご朱印帳を差し上げたところ、
「ここでは立石寺のご朱印ではなく、奥之院と大仏殿のご朱印ですよ」
「四寺廻廊」のご朱印帳は返されてしまった。
奥之院(左)と大仏殿のご朱印。
立石寺のご朱印じゃないならいらねぇとは言えず、ご朱印ふたつとも頂戴することとなった。
奥之院から見下ろす山内支院。
中性院は奥之院のすぐ下に建つ。
奥之院から石段を下りずにそのまま歩くと、
三重塔のミニチュア・
三重小塔【国指定重要文化財】が安置されている。
手書きの案内表示によると、室町末期に作られ、本尊の大日如来が中に収められている。
ふと崖の向こうを見やると・・・
山内支院のさらに向こうの岩場は、
釈迦ヶ峰という。
一般の参詣者は入れず、修験者のみが入れる。
釈迦ヶ峰の岩場に覆われた
胎内堂。
修験者のみ入れる。
雪積る道を進んでいくと・・・
がけっぷちに建つのは
納経堂【山形県指定文化財】で、山内では最古の建築物。
立石寺の開基・慈覚大師の木像を安置する
開山堂。
開山堂の脇には・・・
(上から見た画)
ここにもちょっとした難所。
こちらはロープがないのでかなり難儀した。
そんで・・・
五大明王を祀る
五大堂。
立石寺随一の展望台となっている。
日いまだ暮ず。
麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。
岩に巌を重て山とし、松栢年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
閑さや 岩にしみ入 蝉の声
・・・この日は当然蝉など鳴いておらず、参詣者もそれなりにいたので閑かさもくなかったが、冷たい風がなんとも心地よかった。
立石寺は、五大堂でゴールというわけではない。
ほんのちょっと先がある。
のびる脇道から見た五大堂。
穿たれた巨岩の中に祀られる
磐司祠。
ここがもうひとつの最奥部だ。
午 後 2 時 3 4 分
山 を 下 り る
20分弱で山を下りた。
売店で荷物を回収し、あとは立石寺のご朱印を頂戴せねばならない。
登山道入口近い
根本中堂へ。
しかしここではご朱印はもらえない。
売店のおばちゃんに尋ねると、下山口近くの本坊でもらえるようだ。
最初からおばちゃんにきいておけばよかったよ。
立石寺から外へ出る
抜苦門。
本坊はこの先にある。
本坊に入りご朱印を所望すると、
「ご朱印をしまうかばんを足下に置くのはいかがなものか・・・」
軽くお説教されてしまった。
立石寺のご朱印と「四寺廻廊」のご朱印を頂戴し、立石寺をあとにした。