鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

仙台最終夜

2012-12-28 | 移動の旅

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 5 時 5 1 分

宮 城 県 宮 城 郡 松 島 町

松 島 海 岸



松島海岸も日が暮れ始めた。



遊歩道の一部は、津波の爪痕がくっきり残っていた。



伊達家の納涼・観月のための別荘であった観瀾亭
伊達政宗豊臣秀吉から拝領した伏見桃山城の一棟で、江戸品川の藩邸に移築したものを、二代藩主忠宗が一木一石変えず松島に移したものと伝えられる。
この日は東日本大震災による修復のため入れず。

松島をあとにする。


JR松島海岸駅1番線 18時05分発
  仙石線 普通 仙台方面・あおば通行き
  仙台駅9番線 18時42分着




午 後 6 時 4 7 分

J R 仙 台 駅 西 口

食 事 処 を 求 め さ ま よ う


仙台最後の夜。
最後の晩餐が牛丼ではあまりにも寂しい。
だが、懐具合も考慮する必要はある。

安そうな食堂を探す。
日本一のペデストリアンデッキを歩き、駅前通り、愛宕上杉通りを越えると、仙台朝市の商店街。
ここの斉藤惣菜店「じゃがじゃがコロッケ」はうまいんだよなぁ~今もやってるのかなぁ。

ま、夜は全くのシャッター街だったけど。


このままホテルの方へ歩き、東二番町通り(国道4号)を越えると、壱弐参(いろは)横丁の裏口が見えてきた。
アーケード街・一番町通り(プランドーム一番町)から分かれる、天井の低いレトロな横丁。

横丁にある「小十郎」という鉄板焼の店で食事した。
席が5つしかないカウンターだけの店で・・・何を食べたかは覚えていない。



何時にホテルに戻ったかは忘れてしまったが、この日は国分町に行くこともなく、早々に眠りについた。




散策・松島海岸

2012-12-26 | 公園・庭園

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 5 時 2 4 分

宮 城 県 宮 城 郡 松 島 町

松 島 海 岸



瑞巌寺をわずか5分で出た。
潮の香りが漂う寺前町の商店街を抜けると、眼前に広がる松島湾。





松島のシンボル・五大堂が見えてきた。

行ってみると係員とおぼしきおっちゃんが、橋を封鎖しようとしている!
無理を承知で頼んでみたら、少しだけなら待ってくれるという。
ただし「歩みを止めないこと」という条件?が課された。
そのため、五大堂の画像はいささか斜めに傾いている。

807年(大同2年)坂上田村麻呂が、奥州遠征の際に毘沙門堂を建立したのが始まりとされる。
その後、慈覚大師・円仁が瑞巌寺の前身・延福寺を創建した際に仏堂を建立し、五体の明王像(五大明王像)を安置したため「五大堂」と呼ばれるようになった。
現在の堂は、1604年(慶長9年)伊達政宗が瑞巌寺の再興に先立って再建した。
東北地方最古の桃山建築という。




五大堂の建つ小島へ続くすかし橋
橋げたから海が見えるのは、足元をあえておぼつかなくして参詣者の気を引き締めるためという。





日輪に輝く五大堂【国指定重要文化財】。



軒の欄干に十二支が彫られている。
五大堂は正方形の4面構造なので、各方位に3匹ずつ。



五大堂からの松島湾。
ゆっくり見たかったけど、おっちゃんが「足止めるな~」ていうもんだから、早々に退散・・・。




午 後 5 時 4 5 分

遊 覧 船 の り ば




観光客はすっかり消え、かもめが羽を休める遊覧船のりば。



振り返ると「松島城」がそびえ立つ。
旅館の展望室らしい。




(そもそも)ことふりにたれど、松嶋は扶桑第一の好風にして、(およそ)洞庭西湖を(はぢ)ず。
(よくいわれることだが、松島は日本第一の景色で、中国の洞庭湖や西湖に比べてもまったく遜色はないだろう)
東南より海を入て、江の中三里、浙江(せっこう)(うしお)をたゝふ。
(東南より海が入り込み、入り江は三里ほど、中国の浙江のように潮が満ちて美しい)




嶋嶋の数を尽して、(そばだつ)ものは天を指、ふすものは波に葡蔔(はらばふ)
(島は数えきれないほどあり、伸びるものは天に向かってそびえ立ち、平らかなものは波間に腹ばいになっているかのようだ)
あるは二重にかさなり三重に畳みて、左にわかれ右につらなる。
(二重三重に重なってみえているものもあれば、左の島に離れながらも右の島に連なってみえるものもある)
(おえ)るあり(いだけ)るあり、児孫愛すがごとし。
(人を背負っているようなものもあれば、抱っこしているようなものもあり、子供をあやしているような感じさえする)




松の緑こまやかに、枝葉汐風に吹たはめて、屈曲をのづからためたるがごとし。
(松は緑濃く、枝葉は潮風を受けてすっかり曲がってしまっているが、その曲がりようはまるで自分から曲がっていったかのように、美しく屈曲している)
其気色えん然として美人の(かんばせ)(よそほ)ふ。
(その松の木の景色の思わせぶりなことは、ちょうど美しい女性が化粧をした時の顔のようだ)




ちはや振神のむかし、大山ずみのなせるわざにや。
(神々のおわす大昔、山岳の神である大山祗(おおやまずみ)の神がお造りになったのであろうか)
造化の天工、いづれの人か筆をふるひ(ことば)を尽さむ。
(そうした神々の業であるこの景色の美しさを、誰が言葉で表すことができるだろうか)





できるだけ瑞巌寺

2012-12-26 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 5 時 1 9 分

宮 城 県 宮 城 郡 松 島 町

青 龍 山 瑞 巌 寺



「松島の月が見たい!」と江戸を発った松尾芭蕉が立ち寄った瑞巌寺

十一日、瑞岩寺に詣。
当寺三十二世の昔、真壁の平四郎 出家して、入唐帰朝の後 開山す。
其後に雲居禅師(うんごぜんじ)の徳化に依て、七堂 (いらか)改りて、金壁荘厳 光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。




かくいう私は、瑞巌寺を詣でることはかなわなかった。



「四寺廻廊」のご朱印帳は、不自然なスペースひとつを残すこととなった。
御印は、右上が関山中尊寺、左上が宝珠山立石寺、左下が医王山毛越寺

瑞巌寺は、もとは「延福寺」といった。
828年(天長5年)淳和天皇の勅願寺として慈覚大師・円仁が開山。
最初は天台宗の寺であった。

鎌倉時代、執権・北条時頼の命により、法身性西(俗名・真壁平四郎)を住職として臨済宗建長寺派となる。
このとき「延福寺」から「円福寺」に変わる。

戦国時代になると寺は困窮し、建長寺派から妙心寺派に変わる。
伊達政宗が領主となると、その師である虎哉宗乙のすすめで寺が復興。
このとき「瑞巌寺」となった。

政宗の死後招かれ住職となった雲居は、伊達家の保護のもと伽藍を整え、瑞巌寺は大いに隆盛した。


さてさて、瑞巌寺をできるだけ歩くとしよう。



杉並木の参道を出口に向かって歩く。
正規の参道はこのとおりまっすぐであるが、脇の参道に回ると・・・



石造りの仏像とともに、岩場を掘った洞穴が残る。
ここは仏法の修行の場であった。





石造りの仏像は、「西国三十三観音」各寺のご本尊を彫ったものである。




総門を出て、瑞巌寺はここまで。


※瑞巌寺の参道は、東日本大震災の津波による塩害で、杉並木の立枯れが目立ってきたため、2012年9月に大部分の杉が伐採されてしまいました。
※瑞巌寺は、2016年まで大修復中です。
 東日本大震災の被害による修復も行われているようです。





松島海岸の戦い

2012-12-25 | 移動の旅

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 2 時 5 2 分

山 形 市

J R 山 寺 駅



立石寺の参拝を終え、山寺駅に戻った。

時刻は午後3時前。
このままホテルに戻るのももったいない気がする。

「四寺廻廊」のご朱印も、毛越寺、中尊寺、立石寺がそろい、残すところはあと一寺。
となれば、目的地は松島・瑞巌寺しかないだろう。


JR山寺駅1番線 14時58分発
  仙山線 快速 仙台行き
  仙台駅7番線 16時09分着

仙台から松島へのアクセスは、東北本線と仙石線が考えられる。
だが松島海岸、瑞巌寺その他松島の観光地へは仙石線一択となる。
東北本線の松島駅からだと、だいたい2キロほど歩くハメになる。

JR仙台駅10番線 16時21分発
  仙石線 普通 高城町行き
  松島海岸駅2番線 17時00分着

東日本大震災の影響で、仙石線は高城町(たかぎまち)駅(松島町)から矢本駅(東松島市)まで不通になっていた。




午 後 5 時 0 1 分

宮 城 県 宮 城 郡 松 島 町

J R 松 島 海 岸 駅 ロ ー タ リ ー に て


松島海岸駅に降り立った私に、突如腹痛が襲う
駅近くの公衆トイレに駆け込む!

紙がねぇ!!!

忘れていたのである! 「用より紙」の格言を!

「もしトイレで神に見放されたら、自らの手で運をつかむべし!」

私は必死にカバンの中におわす神様を探す。
そして幸いノートの神様がいらっしゃった。
ノートの神様のお力で、この旅最大の危機を乗り切ることができた。


松島海岸駅から瑞巌寺までは、参道をショートカットするルートをとったため、走って3分もかからなかったが・・・



ノートの神様の御利益は、瑞巌寺には通じなかったようだ。




春の雪・立石寺其之弐

2012-12-25 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 1 時 3 7 分

山 形 市

立 石 寺 仁 王 門





仁王門が見えてくると、山道もいよいよ後半。
門の左右に配置された仁王像は、運慶の弟子による作といわれ、邪心を持つ者を拒むという。


立石寺は、860年(貞観2年)に天台宗3代座主の慈覚大師・円仁が開山したとされる。
鎌倉時代には、幕府の政策で禅宗に改宗されるが、14世紀半ば、羽州探題・斯波兼頼により再建され天台宗に戻った。

戦国時代には兵火を受けて一山焼失してしまう。
このとき比叡山延暦寺から分燈されていた「不滅の法燈」も消滅し、再度分燈されるととなる。
1571年(元亀2年)比叡山が焼討ちにあうが、その再建には立石寺から「不滅の法燈」が分けられた。

立石寺再興は、山形城主であった最上義守・義光父子によりなされていった。

松尾芭蕉が旅の途中で訪れたことは、あまりにも有名であろう。


仁王門をくぐると、ちょっとした難所あり。


(上から見下ろした画)

石段に雪が積もって、踏み固められてアイスバーン状態になっていた。
ここはロープを伝って上る。


仁王門の先は、雪が多く残っていた。



行く手の左を見上げると、岩壁の上に建つ伽藍。

行く手の右側には立石寺の支院が並ぶ。
順に観明院、性相院、金乗院、中性院
これらの支院には立ち寄らず、まずは上を目指す。




立石寺の最奥、奥之院(妙法堂)に到達。
天は春の雪を降らせる。
1015段の石段を踏破した私への嫌がらせか? 祝福であろうか。

ここで立石寺のご朱印をいただこう。
奥之院の坊主にご朱印帳を差し上げたところ、
「ここでは立石寺のご朱印ではなく、奥之院と大仏殿のご朱印ですよ」
「四寺廻廊」のご朱印帳は返されてしまった。

 

奥之院(左)と大仏殿のご朱印。
立石寺のご朱印じゃないならいらねぇとは言えず、ご朱印ふたつとも頂戴することとなった。




奥之院から見下ろす山内支院。



中性院は奥之院のすぐ下に建つ。


奥之院から石段を下りずにそのまま歩くと、

 

三重塔のミニチュア・三重小塔【国指定重要文化財】が安置されている。
手書きの案内表示によると、室町末期に作られ、本尊の大日如来が中に収められている。


ふと崖の向こうを見やると・・・



山内支院のさらに向こうの岩場は、釈迦ヶ峰という。
一般の参詣者は入れず、修験者のみが入れる。



釈迦ヶ峰の岩場に覆われた胎内堂
修験者のみ入れる。


雪積る道を進んでいくと・・・





がけっぷちに建つのは納経堂【山形県指定文化財】で、山内では最古の建築物。



立石寺の開基・慈覚大師の木像を安置する開山堂

開山堂の脇には・・・


(上から見た画)

ここにもちょっとした難所。
こちらはロープがないのでかなり難儀した。
そんで・・・



五大明王を祀る五大堂
立石寺随一の展望台となっている。







日いまだ暮ず。
麓の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。
岩に巌を重て山とし、松栢年旧(しょうはくとしふるく)、土石老て苔(なめらか)に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。
岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞(じゃくまく)として心すみ行のみおぼゆ。
閑さや 岩にしみ入 蝉の声

・・・この日は当然蝉など鳴いておらず、参詣者もそれなりにいたので閑かさもくなかったが、冷たい風がなんとも心地よかった。


立石寺は、五大堂でゴールというわけではない。
ほんのちょっと先がある。



のびる脇道から見た五大堂。



穿たれた巨岩の中に祀られる磐司祠
ここがもうひとつの最奥部だ。




午 後 2 時 3 4 分

山 を 下 り る


20分弱で山を下りた。
売店で荷物を回収し、あとは立石寺のご朱印を頂戴せねばならない。



登山道入口近い根本中堂へ。
しかしここではご朱印はもらえない。

売店のおばちゃんに尋ねると、下山口近くの本坊でもらえるようだ。
最初からおばちゃんにきいておけばよかったよ。




立石寺から外へ出る抜苦門
本坊はこの先にある。

本坊に入りご朱印を所望すると、
「ご朱印をしまうかばんを足下に置くのはいかがなものか・・・」
軽くお説教されてしまった。



立石寺のご朱印と「四寺廻廊」のご朱印を頂戴し、立石寺をあとにした。




残雪・立石寺

2012-12-25 | 寺院仏閣

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 後 1 時 0 2 分

山 形 市

J R 山 寺 駅



JR山寺駅から歩いて3分。



駅からの参詣者が必ず渡るであろう宝珠橋
正面にそびえるのが立石寺(山寺)【国指定史跡・国指定名勝】。

前方の丁字路を右折したところに・・・



山寺の登山口がある。
この日は春休みということもあり、参詣者がそれなりにいた。




登山口を上がるとすぐに根本中堂(本堂)【国指定重要文化財】に着く。
1356年(延文元年)最初の山形城主・斯波兼頼が再建したものが現存する。
ブナ材の建築物では日本最古のものという。




根本中堂に隣接する日枝神社拝殿
日枝神社は立石寺の鎮守。



日枝神社の神木




日枝神社の隣りには、芭蕉・曾良像がたたずんでいる。

山形領に立石寺と云 山寺あり。
慈覚大師の開基にして、(ことさら)清閑の地也。
一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。

芭蕉一行は、尾花沢(山形市の北)から最上川を経由して日本海へ出る予定であったが、地元の人々の勧めにより、この立石寺に寄り道したとある。


境内にある売店へ。
ここでは手荷物を無料で預かってくれる。



ふぅ~、あたたまりますなぁ~
山形名物・玉こんにゃく(1本100円)でした。




参詣者が自由に修行ができるという念仏堂



念仏堂の隣りには鐘楼

鐘楼の裏にあるトイレで用を足して・・・



山門をくぐると、いよいよ山道へ。
ここで巡拝料300円を納めることとなる。

なお、この先にはトイレはないので、鐘楼裏のトイレに立ち寄ることをお勧めする。



山道を上ると、まず現れる姥堂



奪衣姿の石像を本尊とする。
ここから上は極楽浄土とされ、そばの石清水で身を清め新しい衣に着替えるものとされた。
脱いだ衣はここに奉納するものとされていた。


山道の幅はだいたい2車線?くらい。



ところどころで残雪が行く手を阻む。
こういうところに限って手すりがない。

歩いていくうちに、山道が軽く渋滞しだした。
前の方からは、「ぜぇ~ぜぇ~ぜぇ~ぜぇ~ぜぇ~」
おじいちゃんがあきらかにヤバそうな息遣い
リタイヤした方がいいんじゃねぇか?



山道に迫る岩。



きざはしがわずか14センチという四寸道
このあたりも残雪ですべりやすくなっていた。

ぜんそくのような息遣いのおじいちゃんは、その歩みを止めない。
おいおい、ホントに休んだ方がいいって・・・

仕方ないのでスキを見て追い越す。
・・・無事でいてくれよ、ご老体。




岩壁に碑がいくつにも掘られている。
このあたりには弥勒洞といい、雨風の浸食により阿弥陀如来の姿が浮かんだという。
たぶん真ん中のところ・・・か??


山道を上ること約15分・・・



仁王門に到着。




Battle of Sweets 山形編?

2012-12-24 | 移動の旅

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 前 1 1 時 5 9 分

山 形 城 二 の 丸 南 大 手 門 跡



山形城を出て、次は山寺・立石寺
山形駅からは列車であっさり到着するのだが、発車時刻は12時42分とそれなりに時間が余る。
そうなれば、ここで昼食をとっておきたい。


山形駅に戻る途中で、BigBoyに入店。
何らかのハンバーグセットとサラダバーを注文。
「20分以内に出ますか?」と店員に尋ね、暗に20分以内に出すよう示唆。
ハンバーグは注文から12分で出てきて、問題なくガッツリ食べた。

ありがとう、山形の店員さん。




午 後 1 2 時 3 5 分

J R 山 形 駅


発車まで10分足らず。
おみやげ山形代表を急いで探す。

考えているおみやげは、ラフランスゼリーラフランスようかん
水曜どうでしょう「対決列島」山形対決の対決種目は、ゼリー1個、チーズ入りゼリー1個、玉ようかん5個。
対決のときにはまったく冷えてなかったため、大泉さんをして「まず~い、スッゲェまずいよ~」とテレビ的にあるまじきセリフを吐かせた逸品である。
(ちゃんと冷やして食べればおいしいそうです。念のため)

山形駅のおみやげ店を探したが、それほど広くない店内にあるのはゼリーだけ。
そしてゼリーが案外高価で、前日「萩の月」で18きっぷ2日分の費用を費やした身としては、これ以上おみやげにカネをかけたくない。

結局ご当地キティちゃん「直江兼続」「花笠音頭」を買って終了。


JR山形駅7番線 12時42分発
  仙山線 普通 仙台行き
  山寺駅1番線 12時58分着






山寺駅で列車から降りると、ホームから山寺(立石寺)【国指定名勝】が見える。
地上からあそこまで登らなきゃいけないのね。ふぅ~。




驍将狙撃!山形城其之弐

2012-12-23 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 前 1 0 時 4 9 分

山 形 城 二 の 丸 東 大 手 門





二の丸東大手門【復元】から、いったん霞城公園を出た。





二の丸堀もかなりの規模を誇る。



二の丸堀に沿って桜が植えられている。
山形城は桜の名所としても知られる。




午 前 1 0 時 5 4 分

最 上 義 光 歴 史 館


霞城公園から徒歩5分ほどで、最上義光歴史館へ。



最上氏関連の資料を保管・展示し、最上義光と最上氏を顕彰することを目的とした博物館。
入館料は無料。

受付でさっそく・・・



10番、山形城!
絵柄は二の丸東大手門。

最上義光歴史館へ来た理由は、スタンプだけではない。


最上義光は出羽国の大名で、最上義守の嫡男。
妹は義姫(保春院)で、隣国米沢の大名・伊達輝宗に嫁ぎ、政宗を産む。

家督を継ぐと、出羽の統一に乗り出す。
その過程で父や伊達と対立するが、これを乗り切り村山地方(山形盆地周辺)の領域を統一。
最上地方(新庄盆地周辺)を制し、庄内地方(庄内平野周辺)へ進出するが、庄内は越後の上杉景勝に先んじられる。

義光は調略を得意とし、敵の重臣を寝返らせて内紛を生じさせる策を多用した。
その謀将ぶりは、「出羽の驍将」と称される。

豊臣秀吉の政権下で、米沢の伊達政宗は陸奥国岩出山(宮城県北部)へ、上杉景勝は会津若松へ、上杉の陪臣・直江兼続は米沢へ移封となる。
庄内は依然として上杉領であり、最上領が上杉領を分断する格好になっていた。

1600年の関ヶ原の戦役では東軍につき、西軍に着いた上杉景勝を牽制する役を担う。
しかし、所領の状況から直江兼続率いる上杉軍は最上領へ攻め込む。(慶長出羽合戦
兵力では劣勢であったが、長谷堂城の戦いで防ぎ切った。
関ヶ原の戦後は庄内地方も所領に与えられ、出羽山形57万石の大名となった。

だが、最上家は一気に没落していく。
後を継いだ子・家親は若くして死亡、その後を継いだ孫・義俊の代でお家騒動が勃発。
義光の死後10年もたたず、最上家は改易となってしまった。




前話でも登場した最上義光公勇戦像
この像がかぶっている兜と、右手に握っている指揮棒が、歴史館に保存され展示されている。

兜は三十八間総覆輪筋兜(さんじゅうはちけんそうふくりんすじかぶと)【山形市指定文化財】。
最上義光愛用の兜で、織田信長より贈られたものという。
1600年の慶長出羽合戦で、義光は先陣を切って直江兼続の軍を追撃するが、直江勢の鉄砲隊に逆襲され狙撃されてしまう。
銃弾は左の額!!に飛んでいったが、この兜のおかげで助かった。
その時の弾痕が生々しく残っている

指揮棒は鉄製で重量は1,750グラム、刀の2倍ほどもある。
(長さは、銅像のものほどは長くないです)
義光は相当腕力のある人物だったといい、そういうエピソードも残っている。


はぁ~、撮影禁止&係員べったりのため画像はありません・・・。




午 前 1 1 時 4 1 分

ふ た た び 山 形 城 へ


城の北側に回る。
山形城もなかなかでかいのぅ。





北側では、民家のすぐ裏側が城の水濠(二の丸堀)になっている。





二の丸堀ぞいを歩いて、二の丸北不明門跡に着いた。
ここからもう一度霞城公園(二の丸)に入っていく。



西側の門、二の丸西不明門跡
石垣のならびが枡形を構成している。



二の丸沿いの土塁に上がり、西側を見る。


二の丸堀をほぼ一周し、スタート地点の二の丸南大手門跡へ。
山形城はここをゴールとして、城を出た。




驍将勇戦!山形城

2012-12-23 | 城郭【日本100名城】

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 前 9 時 5 6 分

山 形 城 ・ 霞 城 公 園





山形のランドマーク・霞城セントラルの展望室からの山形城。

大きな水濠に囲まれた霞城公園は、山形城の二の丸にあたる。
内側にある空堀に囲まれた部分は本丸
霞城公園の外側は三の丸にあたり、現在は埋め立てられた外堀までの曲輪である。






霞城セントラルから最も近い南大手門跡から入城。
水濠からも、山形城の規模の大きさがわかる。
しかし石垣は一部に造成されているのみ。


山形城は、羽州探題・斯波兼頼により築城される。
のち、斯波氏の一族・最上氏の居城となった。

戦国時代後期、最上家当主・最上義光(よしあき)は所領を山形県村山地方・最上地方に広げる。
関ヶ原の戦役では、上杉景勝・直江兼続軍の侵攻を受けるも、長谷堂城の戦いでこれに耐え抜き(慶長出羽合戦)、戦後に山形県庄内地方を獲得、57万石の領主となった。

上杉勢が陣を構えたところは山形城からそう遠いところではなかったが、山形城には霞がかかっており、上杉勢からは見えなかったという。
ゆえに山形城は霞城(かじょう)とも呼ばれる。


山形城は、57万石の領主にふさわしい大規模な城郭に整備された。

最上義光の死から9年で、最上家は改易。
代わって鳥居忠政が入城し、山形城の改修がなされた。
その後も領主がたびたび代わるも、その石高は減り、大きな山形城の維持もおぼつかなくなる。
幕末には、本丸が更地になり、三の丸の半分は田畑になっていたという。

明治に入ると、陸軍歩兵32連隊の兵営敷地となり、城内の櫓や御殿は破却され、本丸や三の丸の堀は埋め立てられた。
現在、二の丸の内側は霞城公園となっている。


内部はすっかり公園化してしまい、いろいろな施設が置かれている。
将来的には史跡として整備されるため、野球場などのスポーツ施設を中心に撤去される予定なのだとか。





本丸堀をはじめ、本丸は復元工事中。
往時は空堀ではなく水濠であった。





本丸一文字門も工事中。
堅固そうな枡形門が早く復元されるといいですなぁ。




霞城公園の南東部に移築された旧済生館病院本館【国指定重要文化財】。
1873年(明治6年)に私立病院として設立、当時の県庁そばに本館が竣工した。
建物自体は公園内に移築され、現在は山形市郷土館となっている。




もうしばらく本丸堀ぞいに歩き、二の丸の東側へ。






最上義光公勇戦像、むちゃくちゃかっこえぇ~。
ご覧のとおり、馬が二本脚で立っている。
この造型は、寄贈者である鈴木傳六でん六創業者)たっての意向であるという。





二の丸東大手門【復元】。
その大きさは、江戸城の大手門にも匹敵する規模である。



最上義光公勇戦像ちかくのベンチで休憩して、いったん霞城公園を出る。




秘境!仙山線

2012-12-23 | 鉄道の旅

2 0 1 2 年 4 月 1 日 ( 水 )

午 前 7 時 3 7 分

J R 仙 台 駅



仙台駅のスタバで軽く朝食をとり、この日は山形へ。
山形城立石寺を回る。



JR仙台駅8番線 8時15分発
  仙山線 快速 山形行き
  山形駅7番線 9時29分着

仙山線は、仙台から奥羽山脈を越えて山形へと続く。
その車窓をご紹介したい。



八ツ森駅通過中の場面。
列車が快速だからではなく、この駅には列車が停まらないのだ。
なんと、10年もの間1本の列車も停まっていない。
秘境駅の格付けではAAAクラスであろう。
なお、駅名標をよく見ると「八ツ森仮乗降場」とある。
八ツ森駅の所在地は仙台市青葉区である。



宮城・山形県境を越えたあたりの車窓。
4月であるのにこんなにも美しい銀世界。
(窓にうっすら映っているのは、朝食でテイクアウトしたスタバのソイラテ)



山形線(奥羽本線)に合流するころには、雪はもはや見えなくなっていた。




午 前 9 時 4 3 分

山 形 市

霞 城 セ ン ト ラ ル


山形駅に隣接するランドマーク・霞城セントラルから。



東を見ると、眼下に山形駅、山形市街、向こうに蔵王の山々。







北には、これから向かう霞城公園(山形城)の様子が手に取るようにわかる。


いざ、参らん!