鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

焼きそばを求めて

2010-09-20 | グルメ


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 後 4 時 1 0 分

J R 静 岡 駅



月曜の呪い のため、100名城スタンプをゲットできなかった駿府城
打ちひしがれたまま静岡駅へと戻りました。


(もうこんなアンラッキーなイベントは起こるまい。
気を取り直して、なにかうまいものでも食べて帰ろう!)



心機一転、静岡で名物的なものを食べるべく、飲食店を探します。
そういえば静岡は、静岡おでんなんてものがあったなぁ・・・。
そう思い、駅ビルをめぐって、静岡おでんを食べられそうなお店を探しました。

ない。

「静岡おでん」なんて表示すら見当たらないのです。
仕方なく静岡おでんをあきらめて、次なる食べ物を・・・。
そうだ! 富士宮焼きそばはどうだろう?
B1グランプリ殿堂入りのご当地グルメにして、B級グルメのキング。
これを食べて旅のシメにするのも悪くはなさそうです。

富士宮へ行くには、富士駅身延(みのぶ)に乗り換える必要があります。
この身延線は東海道線に比べると本数が少ないので、静岡駅の駅ビルで時間をつぶすこととなりました。

その間にも静岡おでんを探してはみましたが、見つからず。
なんとなく立ち入ったKALDI COFFEE FARM(カルディ・コーヒー・ファーム)で、なぜかプリングルズを買っていました。



待ち時間約30分の末、ようやく富士宮へ向かう電車に乗車。
まずは、17時10分発 東海道線 普通電車 沼津行きです。
35分ほどで富士駅に到着、ここで下車します。

次の電車は、17時49分発 身延線 普通電車 西富士宮行きです。
身延線は、富士駅と甲府駅を結び、ほぼ富士川の流れに沿って富士山の西裾を進みます。
途中の身延には、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺があります。

こんなふうに路線説明をしていますが、私が乗車したのは富士山の裾野にさしかかる富士宮駅まで。
富士駅からは20分弱で到着しました。



【富士宮駅までの乗車記録】

JR東海 静岡駅 17時10分発
東海道線 普通 沼津行き
富士駅 17時45分着

富士駅 17時49分発
身延線 普通 西富士宮行き
富士宮駅 18時07分着

*所要時間 57分(移動時間 53分 待ち時間 4分)
*移動距離 44.7km  *運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は820円)

※運賃は当時のものを掲載しています。




午 後 6 時 1 0 分

J R 富 士 宮 駅 を 出 る


急きょ富士宮へ来た私は、携帯で調べ上げた店Sへと向かいます。

地図を確認したところ、駅から徒歩5分程度ということもあり、この店を選んだのですが・・・なかなか見つからない。
携帯で地図サイトを確認すると・・・どうやら駅の出口を間違えたようです。

いったん駅に戻り、正しい出口からSへと向かいました。
すると、どうもお店が暗い。
そこに、たまたまおかみさんと思われる女性が店に入ろうとしたので、「これから開店かな」と淡い期待を胸にします。

「月曜はお休みなんですよ」

おかみさんは笑顔で、しかし残酷な現実を告知してきました。
駿府で受けた月曜の呪い は、この富士宮でも忌まわしき厄災をもたらしたのです。


せっかく富士宮まで来て、焼きそば抜きっていうのは悲しすぎます。
是が非でも富士宮焼きそばを食べて帰りたい、そう思い手持ちの携帯さんを駆使し、付近に別の店があることを突き止めます。
そして・・・



富士宮焼きそば! うみゃ~!

「鉄板焼ちゃん」というお店に入りました。
焼きそばを渇望していた私は、豚肉焼きそばミックス焼きそばという2皿食いを敢行。

紅しょうがを押しのけ、青のりをふりかけ、だし粉をこれでもかとまぶします。
麺は太くゴムのようにコシがあります。
富士宮焼きそばの定義のひとつに、「富士宮市内の製麺所で造られた麺を使うこと」が挙げられていますが、その麺の特徴にコシの強さがあるようです。
しかし居酒屋チェーン店によくある「ただのゴム」ではなく、麺と見事にマッチした大きな具が、「ゴム感」を消し去ってくれています。
「炒め油はラードを使う」という定義のとおり、脂分にも旨味が感じられます。
「いわしのだし粉をふりかけ」た豚肉、えび、いか、野菜は、味が美味く引き締まり、これにて完成する味は筆舌に尽くせません。。

紅しょうがを除いて、2皿完食。



ここで多少ゆっくりしていきたいところでしたが、時刻を調べると次の電車まで9分しかありませんでした。
その次の電車が約30分後。
待ち時間を過ごすのがイヤになっていた私は、満腹のまま立ち上がり退店、駅に駆け出しました。




午 後 6 時 5 9 分

J R 富 士 宮 駅


満腹のまま走ることを選んだ私。
その賭けは正しかったかどうかわかりませんが、わずか3分で駅に着きました。


ここからは一路、拙宅へと戻ります。

まずは19時03分発 身延線 普通電車 富士行きで富士駅に戻ります。

富士駅からは、東海道線を乗り継いで、東へ。

19時25分発 普通電車 熱海行きで、終点の熱海駅へ。
20時18分発 普通電車 東京行きに乗車。

途中の戸塚駅で下車します。
この戸塚駅は、同じホームで横須賀線に乗り換えができるという便利な構造になっているので、千葉県民の私はここで東海道線を乗り捨てます。

戸塚駅からは、総武快速線直通 千葉行きで、津田沼駅へ。

津田沼から新京成へと乗り換えて、はじめての登城旅は終幕となります。



【帰宅の乗車記録】

JR東海 富士宮駅 19時03分発
身延線 普通 富士行き
富士駅 19時20分着

富士駅 19時25分発
東海道線 普通 熱海行き
JR東日本 熱海駅 20時14分着

熱海駅 20時18分発
[JT]東海道線 普通 東京行き
[JT06] TTK 戸塚駅 21時26分着

[JO10] TTK 戸塚駅 21時32分発
[JO]横須賀線 普通 総武快速線直通 千葉行き
[JO26]津田沼駅 22時55分着

*所要時間 3時間52分(移動時間 3時間37分 待ち時間 15分)
*移動距離 186.5km  *運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は3,250円)

※運賃は当時のものを掲載しています。



日本100名城登城の旅 完

ホーム画面に戻る。


駿府城~月曜の呪い

2010-09-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 後 3 時 3 0 分

静 岡 県 庁



静岡駅から地下道と日陰の道を歩いて約10分、静岡県庁へ。



駿府城へ行く道を遮るかのように建っている県庁。
その脇道こそが駿府城への近道であり、かつ公式なルートとなっているのです。





駿府城(駿府公園)の入口に到達しました。
(当時は「駿府公園」でしたが、現在は駿府城公園となっています)


駿府城は、室町時代に駿河守護であった今川氏の築いた今川館をルーツとしています。
16世紀後半、武田信玄が今川との同盟を破棄し駿河に侵攻すると、今川館は廃棄されてしまいます。

信玄死した後、織田信長徳川家康は、武田を討伐して滅亡させ、駿河は徳川家康が領有しました。
家康は天正14年(1586年)駿府城を築城し、浜松城から本拠を移しました。
天正18年(1590年)に家康が関東に移封となると、のちに「三中老」のひとりとなる中村一氏が城主となります。

関ヶ原の戦い後に中村氏が伯耆(鳥取県)に加増移封となります。
慶長11年(1606年)家康が征夷大将軍を辞すると、駿府城は大御所の隠居城として大きく改修されました。
家康は隠居後も政治の実権を手放さなかったため、このころの駿府は江戸と並ぶ政治経済の中心でした。
家康の死後は、その十男・頼宜が城主となり、頼宜が和歌山へ移ると徳川秀忠の次男・松平忠長が城主となります。
忠長が処分されると駿府は直轄地となり、駿府城代が置かれました。



公園の入口からは、駿府城の二の丸となります。
二の丸は周囲を水濠で囲まれていましたが、このあたりは埋立てがあったところです。



近年復元された(たつみ)



同じく近年復元された二の丸東御門



東御門は、強大な権力を手にした戦国の覇者が居を構えるにふさわしい、堅固な枡形門となっています。
東御門と巽櫓に入るため、券買所へ向かうと・・・



あまりにも非情な現実。
東御門、巽櫓に入れないばかりでなく、駿府公園内にある紅葉山庭園にも入れませんでした。

こうなると気になるのは、100名城スタンプ。
手持ちのガイドブックを見ると、「東御門券買所」とあったのです。
券売所をよくよく観察しても、100名城スタンプは設置されていませんでした。

はぁ~~~~・・・
何が有給バンザイだよぉ(T_T)



仕方がないので、休業日に関係ないものを見ていくこととしました。



家康の隠居城とあって、駿府城にも徳川家康公銅像が立っていました。
駿府の家康像は、彼が生涯趣味としていた鷹狩りをしている様子をモチーフとしています。
それにしても、この日は家康の像を何体も見ています・・・まぁ、ほとんどが岡崎なんですけど。



「家康公お手植えのみかん」なんてものもあります。
家康像のすぐそばに植わっていて、フェンスで厳重に守られていました。
この2つは、少々見つけにくいところにありました。




天守があったところ。
現在は立て看板が立っているだけです。
天守は1635年に失火で焼け落ちたのち、再建されることはありませんでした。



100名城スタンプをあきらめきれない私は、なおも公園内をさまよいましたが、成果はありませんでした。
スタンプ帳の「駿府城」の欄はブランクのまま、駿府公園を後にしたのでした。



駿府公園を出て、かつての駿府城三の丸を歩きます。



二の丸と三の丸を隔てる水濠と、二の丸を取り囲う石垣。
平成21年(2009年)の地震で石垣が一部崩落したため、その部分の修復工事を行っていました。

お濠のそばにそびえ立つのは・・・



静岡県警察本部のビル。
まさに現代の駿府城なのかもしれませんね。





掛川駅所要事件

2010-09-19 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 後 2 時 2 0 分

静 岡 県 掛 川 市

J R 掛 川 駅



「海道の名城」掛川城を登城。



大満足のままJR掛川駅に戻ってきました。



さて、この日に登城する予定の城は、残すところ駿府城のみです。
「駿府」すなわち「駿河国の府」、現在の静岡市にあります。
徳川家康も浜松から駿府に移ったように、私も東の静岡へと向かいます。


さて電車に乗る前に、トイレに寄っておかなければ。
これから乗車する東海道線は、電車の中にトイレがありません。
乗車前に用を足しておかないと、途中下車するハメになりますからね・・・誰彼のように。



おみやげ入りの紙袋を、小便器の上のスペースに置いて・・・
所用をなしているときに、事件は起きました。


紙袋、便器に崩落!

紙袋の中に入れていた各城のパンフレットが、濡れてしまいました(>_<)
救いだったのは、おみやげが落ちてこなかったことです。
まさか便器に落っこちたおみやげを差し出すわけにもいかないでしょうし。

崩落してしまった岐阜城のパンフレットは、残念ですが掛川駅で処分させていただきました。



そんな掛川駅所用事件の衝撃の中、14時36分発 東海道線 普通電車 静岡行きに乗車。


車中、浜松駅で買ったうなぎの骨せんべいを食べてみました。

 (左が骨せんべい)

開封直後、しょうゆの香ばしいにおいが鼻に伝わってきました。
なかなかににおいの強い食べ物であることがわかり、車内で封を切ったことを少し後悔しました。
いや、封を切ってしまったんだから、においが充満する前に食べてしまおう!ということで・・・

骨せんべい、なかなかよろし!

ただ、食べ進むうちに単調な味に飽きてしまい、4分の1ほど残してかばんにしまったのでした。


途中、かつて途中下車するハメになった島田駅を通過。
15時20分、静岡駅に到着しました。



静岡駅からは、看板の案内にしたがい駿府公園へ歩いていきました。
そこで待っていたものは、家康公の心無い仕打ちだったのです。



【今回の乗車記録】

JR東海 掛川駅 14時36分発
東海道線 普通 静岡行き
静岡駅 15時20分着

*所要時間 44分
*移動距離 49.1km  *運賃 18きっぷ使用(不使用の場合は820円)

※運賃は当時のものを掲載しています。





掛川城~海道の名城

2010-09-19 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 後 1 2 時 5 6 分

静 岡 県 掛 川 市

J R 掛 川 駅



掛川駅からのびる駅前の通りを、ただただまっすぐ歩いていきました。
ものの10分もしないうちに、掛川城公園に到着しました。



四足門【復元】から中に入ります。
発掘調査で門の柱などの痕跡は見つかっていないそうですが、正保時代の絵図をたよりに復元されたそうです。


そういえばこの日は平日、観光客はほとんどいません。
掛川城をじっくり堪能できそうです。有給バンザイ!


管理所で入城料300円を支払います。(現在は410円になっています)
ここでの入城券で、天守閣と御殿の両方に入ることができます。




入口付近の隅櫓である太鼓櫓【復元】。
この櫓には大太鼓が据えられ、その音をもって時を知らせたといいます。
現在、大太鼓【掛川市指定文化財】は御殿の広間に移されて展示されています。
この櫓には入れません。

そして・・・



シャープなフォルムが特徴的な掛川城天守【復元】です。
その美しさはまさに「海道の名城」の名に恥じません。
天守は平成6年、当時の技術をもって木造で復元されました。
木造で復元された最初の天守なのだそうです。
掛川城の城主であった山内一豊は、関ヶ原の戦後土佐に加増移封された際、自分が建造した掛川城を模して高知城を築城したとされています。
そのため現存する高知城の天守を、復元の際に参考にしたそうです。


掛川城は、室町時代、駿河守護・今川氏が遠江への進出を狙って、家臣の朝比奈氏に築城させたところに始まり、以来朝比奈氏が代々城主を務めました。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦い今川義元が戦死し、子の氏真(うじざね)が継ぐと、今川領は武田信玄・徳川家康の軍勢に東西から挟撃されました。
掛川城は徳川軍に攻められますが、城主の朝比奈泰朝は半年間耐え抜き、和議で開城しました。
以後、徳川家康が天正18年(1590年)に関東に移るまで、徳川が領有し続けました。

家康が関東に移ると、豊臣秀吉の直臣・山内一豊が城主となりました。
一豊は掛川城を改修、拡張し、現在の掛川の礎を築きました。

関ヶ原の戦いののち一豊が高知へ移ると、譜代大名が何度も転封されてきました。
最終的には太田氏(江戸城を築城した太田道灌の子孫)がこの地を治めました。
幕末、安政元年(1854年)安政東海地震が発生、掛川城の建物は大半が倒壊し、多くの建物は再建されることなく、明治維新を迎えました。



天守の傍らには、「霧吹き井戸」が残っています。


桶狭間今川義元が戦死し、子の氏真が当主となると、西の三河では松平元康(徳川家康)が離反、独立しました。
家康は三河を掌握し、隣国の遠江に攻め込んできます。
さらには甲斐の武田信玄が同盟を破棄、駿河へ軍勢を進めてきました。
武田・徳川の東西からの侵攻を、今川軍は防ぎきることはできません。
氏真は本拠地の今川館(のちの駿府城)を放棄し、朝比奈泰朝が守る掛川城に逃れてきました。

そこに徳川軍が攻めかかります。
すると、城内の井戸より霧が出て、掛川城を徳川軍から護ったのだそうです。

掛川城は徳川軍の猛攻を半年間耐え、和議によって開城。
今川主従は同盟者・北条氏康のいる小田原へと退去したのでした。



天守に入らず城の周りを見ると、トゲトゲしい突起物があります。



忍びの者の侵入を防ぐ忍返しです。
そしてこの棟の微妙な出っ張りは・・・



中から石を落とす石落しです。
実際には石は落とさず、ここから鉄砲で射撃をしたといいます。


中に入ると、さすがは日本最初の木造復元天守です。
材木の香りがいまだ漂っていて、階段は傾斜が急で上り下りしづらいものとなっています。
現存の建造物ではないのですが、「城に来たのだなぁ~」という心持になれるのはとても素晴らしいです。




最上階より東の方向を眺めます。
天気がよければ、画像中央あたりに富士山が見えるようです。
それにしても、高楼を吹き抜ける涼風は心地よく、しばし旅の疲れを忘れさせてくれます。

・・・風を浴びてくつろいでいると、最上階に20名くらいの初老の男女が乗り込んできました。
すると、同じく高楼にたたずんでいた男性の老人がウンチクを披露し始めました。
この人、職員さんだったのか(~o~)。


掛川市は、早くから高齢者福祉を充実させる街づくりをしていたそうです。
ある日、ひとりの老女が掛川を訪れました。
その老女は掛川の市政に関心を寄せ、やがて掛川に移住してきました。
その頃、掛川城復元プロジェクトが立ち上がっていたのですが、資金が不足していました。
このときくだんの老女は、建設費11億円のうち6億円を寄付したのだそうです。

(職員さんのお話より)



次に、実際の藩政が行われた御殿へ向かいます。



掛川城二の丸御殿【国指定重要文化財】。
幕末の安政東海地震ののち、城主・太田氏が再建。
以来、現存しています。

靴を脱いで中に入ります。



奥の大書院は、城主の公的な政治の間。
城主と謁見する者は、手前の次の間で待機することとなっていました。



一方こちらは小書院
大書院の反対側にあり、城主のプライベート・ルームでした。



長囲炉裏の間の天井には、桔梗の家紋とかぶら矢の家紋が刻まれています。
いずれもこの御殿を再建した藩主・太田氏の家紋です。



御殿の裏方の廊下から天井を見上げます。
木柱を組み合わせる往時の技法にただただ感心。



御殿の縁側に座ると・・・
おやおや、先客がいましたな。



御殿から仰ぎ見る天守も、また見事!


最後に、御殿の受付職員にお願いして100名城スタンプをいただきます。



42番、掛川城!


掛川城二の丸美術館は月曜休館のため、城内を少し歩いた後、掛川城を後にしました。
当時の私は、掛川城についてあまり認識がなかったこともあり、正直あまり期待してはいませんでしたが・・・

「掛川城に来てよかった!」

心からそう思える、「海道の名城」でした。





家康と共に東国へ

2010-09-19 | 鉄道の旅


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 前 1 0 時 4 5 分

愛 知 県 岡 崎 市

愛 知 環 状 鉄 道 中 岡 崎 駅



徳川家康の生まれた岡崎城



はじめての城攻め旅。
これまで江戸城、小田原城、岐阜城、犬山城、名古屋城と見てきました。
そのほとんどが、家康にまつわるお城です。

江戸城は、江戸幕府の本拠地。
小田原城は、豊臣秀吉小田原征伐でともに攻め寄せた城。
犬山城は、秀吉に服従する前の小牧長久手の戦いで陣を構えた場所。
名古屋城は、家康の主導による「天下普請」で作り上げた城です。

岐阜城は・・・・・・。

そしてこの日向かう城は、掛川城駿府城

掛川城は、家康の今川攻めで最後に開城させた城。
駿府城は、将軍位を返上した家康の隠居城です。

家康は岡崎で起ち、東へ東へと勢力を伸ばしていきました。
私もこれに倣うかのように、東へと進んでいきます。



そういうわけで私は、朝の散歩で探り当てた中岡崎駅に来ました。
愛知環状鉄道線 岡崎行きに乗車します。
岡崎駅から、東海道線を東に進みます。



10時59分、わずか5分で岡崎駅に到着。
愛知環状鉄道のホームは0番線で、改札を通ることなくJR線へ乗り換えできました。

今度の電車は、11時04分発 東海道線 快速電車 豊橋行き
停車駅は、蒲郡、三河三谷、豊橋です。

名古屋方面からやって来た電車に乗車し、11時26分、豊橋駅に到着しました。



豊橋駅からは、11時40分発 東海道線 普通電車 浜松行きです。
豊橋から東は静岡県、各駅停車の電車のみが走る区間に入ります。
乗換時間は14分ということで、改札を出ることもなくそのまま電車に乗り込みました。
この日の18きっぷは、いまだに改札印が押印されていません。

豊橋駅を発って、



途中で浜名湖を通過。



浜名湖競艇も車窓からよく見えました。

12時15分、浜松駅に到着。



浜松といえば、浜松城
岡崎から領国を広げた徳川家康が元亀元年(1570年)に居城を移し、当時の地名「曳馬」から改名しました。
家康はのち天正14年(1586年)に駿府城に拠点を移すまでの16年間を、この浜松城で過ごします。

私はこの浜松城には・・・寄りません。100名城ではないのでスルーさせていただきました。
(平成29年4月9日付で、浜松城は「続日本100名城」に選定されました)

ただ、浜松駅では17分の待ち時間がありました。
ここでおみやげを買い、昼食で立ち食いそばをいただきました。



おみやげは、浜松ぎょうざせんべい
浜松は元祖「餃子の街」宇都宮に餃子戦争を挑み、ついに宇都宮を下し日本一の「餃子の街」にのし上がりました。
浜松といえば、「夜のおやつ」うなぎパイというキングがおりますが、これではあまりにもベタなので、ぎょうざせんべいにしてみました。

また、私自身のおやつとして、うなぎの骨せんべいも購入してみました。
賞味はのちほどということで・・・。



12時32分発 東海道線 普通電車 興津行きに乗車。
浜松から6駅目の掛川駅で下車しました。

改札口にて、この日の押印がない18きっぷを提示・・・。
愛知環状鉄道に乗って、岡崎からそのまま電車に乗った旨を申告して、問題なく出られました。
この時点でようやく、この日の18きっぷへの押印がなされたのでした。



掛川駅からは、掛川城まで歩いて向かうこととしました。



【今回の乗車記録】

(A) 愛知環状鉄道 (03)中岡崎駅 10時54分発
愛知環状鉄道線 普通 岡崎行き
(01)岡崎駅 10時59分着

JR東海 岡崎駅 11時04分発
東海道線 快速 豊橋行き
豊橋駅 11時26分着

豊橋駅 11時40分発
東海道線 普通 浜松行き
浜松駅 12時15分着

浜松駅 12時32分発
東海道線 普通 興津行き
掛川駅 12時56分着

*所要時間 2時間02分(移動時間 1時間26分 待ち時間 36分)
*移動距離 101.0km  *運賃 220円(JR線内は18きっぷ使用、不使用の場合は1,620円)

※運賃は当時のものを掲載しています。





岡崎城~家康乱舞

2010-09-18 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 前 8 時 3 6 分

愛 知 県 岡 崎 市

岡 崎 公 園



コンビニで朝食をとってからは、ふたたび岡崎公園に戻りました。



先ほどはスルーした神橋を渡り、この日最初の城・岡崎城へ登城します。




神橋から1分もかからず、天守に到着しました。



天守前には、亀が背負う「東照公遺訓碑」が立っています。
「東照公」とは徳川家康の神号です。(正しくは「東照大権現」

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し
急ぐべからず


岡崎城で生まれ、今川義元のもとでの人質生活、織田信長への従属、豊臣秀吉への臣従。
忍耐を重ね、ついに天下人となった家康その人が、その半生を振り返って語ったものと言われていますが、じつは偽作とされています。
この言葉は、家康の孫にあたる徳川光圀の遺訓がもとになっているそうです。


天守前にはさらに、「東照公遺訓碑」とはまた別の家康公遺言の碑や、小説『徳川家康』記念碑もあり、なんだか盛ってるかんじもします。
なお、天守の脇には、徳川家康と「徳川四天王」のひとり・本多忠勝を祀る龍城神社が鎮座しています。


天守は午前9時に開くということなので、岡崎公園内を散策することにしました。



徳川家康は、岡崎城主・松平広忠の嫡男として誕生しました。



東照公えな塚
母・於大の方の胎内にあって、家康を護っていた胎盤とへその緒。
これらの“えな”を埋めたところがこの場所なのだそうです。
古来日本には、えなを地中に埋めてその子の成長を祈願する風習があったそうです。



この井戸は東照公産湯井
家康は出生のさい、この井戸で汲まれた産湯につかったといいます。


徳川家康は、能を舞うことをひとつの趣味としていたそうです。。



岡崎城に能舞台があったわけではないのですが、家康が趣味としていたってことで、このような能舞台が設営されています。



この日は特に開演はありませんでしたが、先客がおひとりいらっしゃいました(*^_^*)



さてここからは、岡崎城内にある銅像・石像コーナー。



家康しかみ像

家康が数え年31歳、元亀3年(1572年)のこと。
「甲斐の虎」と称される武田信玄の軍勢が、家康の治める遠江国(静岡県西部)に攻め込んできました。
対する家康は軍勢が少なく、多勢でしかも名うての戦上手である信玄の進軍に、手も足も出ません。
しかし何を思ったか信玄、家康の籠る浜松城を素通りしていくではありませんか。

「敵軍に背を向けるとは・・・追撃して信玄をたたきつぶしてくれる!」

しかしこれは信玄の罠でした。
徳川軍が武田軍に追いつくと、武田軍は軍を返して徳川軍を待ち構えていたのです。
この三方ヶ原の戦いで大敗し、命からがら浜松城に逃げ戻ってきた家康は、無様な己を姿を絵師に描かせ、のちの戒めとしたといいます。


その肖像画を石像にしたもののようです。
ただ、このエピソードは岡崎城とはあまり関係がないかもしれませんね・・・(^_^;)




しかみ像のすぐ近くには、本多平八郎忠勝公銅像
あまり大きい銅像ではないのですが、めちゃくちゃかっこいいです・・・。

「徳川四天王」のひとりで、今川からの独立から姉川、三方ヶ原、長篠、小牧長久手、関ヶ原と、徳川家の主だった戦いに参戦し、武勲を挙げました。
名槍「蜻蛉切」を得物とし、57度の合戦に出陣し、一度も傷を負わなかったといいます。

家康に 過ぎたるものが 二つあり
唐の頭に 本多平八


敵として戦った武田軍からはこのように賞され、織田信長からも「花も実も兼ね備えた武将」豊臣秀吉からも「東国無双の侍大将」と評されました。
戦場では手傷ひとつ追わなかった忠勝ですが、晩年小刀を使用中に手元が狂って傷を負ってしまいました。
このことで忠勝は自分の死期を悟り、その数日後に亡くなったそうです。





水場のそばにあるのは、元康騎馬石像
「元康」は家康が今川から独立する前の名で、「元」の字は今川義元の「元」の字を拝領したものです。
今川義元の部将であった青年期の勇姿は、かくの如しといったところでしょうか。
桶狭間の戦いで義元が敗死した後、今川から独立すると、「元康」の名を捨てて「家康」と名乗ります。




最後に、徳川家康公銅像
戦国の世を生き抜き、泰平の世を創り上げた漢は、このような姿をしていたのでしょうか。





忠勝像の近くにはからくり時計と花時計があります。
時刻は午前9時になりました。



能の音響とともに、からくり時計が開きました。
金屏風の舞台に躍り出たのは・・・



イヨ~、ポン! イヨ~、ポン、ポン!
3分後、大御所様は舞い疲れたのか・・・
人の一生は~重荷を負うて~遠き道を行くがごとし~
人生訓を言い残して、沈んでいかれたのでした(^_^;)



もう少し岡崎公園を歩き回りました。



大手門【復元】は公園の北側にあり、大通りに面しています。



ふたたび園内に戻り、しかみ像のそばにある三河武士の館「家康館」に入ります。
そういえば前日泊まったホテルの翁は、ここを「外せない場所」と話しておられましたなぁ。
ここは午前9時に開館したばかり、入館者は私しかいないようでした。

1階、武具、甲冑のレプリカ、岡崎城の模型などを拝見。

地階、長イスのある最初のフロアに入ると、突然VTRが始まりました。

「わしは大久保彦左衛門忠教(ただのり)ぢゃ」

3代将軍家光に仕えた「天下のご意見番」大久保彦左衛門
その彦左どのが、『三河物語』を執筆しているっていう忙しいときに、私のためだけに家康以前の松平家について語ってくれるというのです。

・・・聞き入ってしまった。

すぐ隣に、徳川譜代の家臣を一家ずつ解説するVTRがありました。
酒井、大久保、本多、鳥居、榊原、etc...

・・・全部見てしまった。

さらに奥に「決戦・関が原!」のコーナー。
関ヶ原の大戦をジオラマで解説する、壮大なスペクタクル!
東の徳川家康、井伊直政、本多忠勝、福島正則、黒田長政・・・
西の石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘・・・
錚々たる武将たちがフィギィアになって出陣します!

 「西軍は鶴翼の陣だねぇ」
 「東軍も布陣したなぁ」
 「お、井伊が抜け駆けしたなぁ、福島怒っとる」
 「福島、宇喜多は互角だなぁ」
 「家康、前に進むぞ」
 「島津はちっとも動かねぇな」
 「ああっ! 小早川寝返りだ!!」
 「大谷が戦死した」
 「三成、敗れたな」
 「さあさあさあ、島津が正面突破して退却するぞぉ!」


フィギィアがそんなにめまぐるしく動くわけではありませんでしたが、(当時)30にもなる男がえらく盛り上がっていたのでした。


館内のアンケートに答え、ちょっとしたプレゼントをもらい、「家康館」を出ました。



「八丁味噌キャラメル」、美味い!





「家康館」に予想外の好印象をおぼえ、予想外の時間を費やした私は、急ぎ岡崎城天守に登りました。



岡崎城から望む「ビスタライン」

徳川家の菩提寺である大樹寺岡崎城を結ぶ、標高差を利用した約3kmの直線を「眺望ライン(ビスタライン)」というそうです。
3代将軍家光が、家康の17回忌を機に大樹寺の伽藍を整備しました。
寺の本堂から山門、総門、そして岡崎城天守が一直線になっていて、「祖父生誕の地を望めるように」という想いが込められているそうです。
現在大樹寺総門は大樹寺小学校南門となっていますが、このビスタラインの上では3階以上の建物は建てないという不文律があるそうです。


・・・ただ岡崎城からは、ビスタラインはあまり実感できなかったです。
(画面中央付近にちっちゃく写る赤い建物の付近に、大樹寺があります)



ついでに、前日泊まったホテルは、目と鼻の先にありました。


天守閣1階の係員と話し、100名城スタンプをもらいました。



45番、岡崎城!





悲喜こもごもの岡崎公園

2010-09-15 | お散歩


2 0 1 0 年 9 月 6 日 ( 月 )

午 前 7 時 5 5 分

愛 知 県 岡 崎 市

岡 崎 公 園



今回宿泊したビジネスホテルは朝食つきの所だったのですが、前日のチェックインで朝食を予約し忘れてしまいました。
仕方なく早々にホテルをチェックアウトし、朝食が食べられる店を探しに行きます。


ホテルからほどなく、岡崎公園に到着。
岡崎城への入口を確認しながら、まずは朝食の食べられるお店を探します。



岡崎城への入口である神橋
朝食を先にとるため、ここは後で渡ることとなります。

橋の真ん中にゴミが置いてあった・・・この橋はごみ集積所にでもなっていたのでしょうか?


お店探しのさなか、自転車通学の地元高校生とすれ違います。
この日は月曜・・・あらためて有給休暇のありがたみや優越感を実感します。




時節は9月に入ったばかり、朝から太陽の日差しが強く感じられます。
岡崎公園の向かいにある、大きな藤棚でちょいと休憩。
「五万石ふじ」【岡崎市指定天然記念物】というそうです。
もとは岡崎城内にあった藤が移植されたもので、樹齢は推定120年といいます。
岡崎を治めた大名の石高が江戸時代を通じてほぼ5万石だったことから、その名がついたそうです。

道路をはさんで向かいには、



岡崎から天下人となった徳川家康
その幼少期をモチーフにした「竹千代像」です。

ちなみに、傍らにある手形は寺島しのぶのものらしいです。



食堂を求め、竹千代像から歩いて5分。
大通りの国道248号にたどり着きましたが、そこの交差点で私をガッカリさせる表示がありました。

「中岡崎駅前」


たしかに交差点の先に視線をやると、中岡崎駅があります。
さらに気になった私は携帯で乗換案内を確認すると・・・中岡崎駅と岡崎駅は1本でつながっていた!!

前日、岡崎駅から歩いたりバスに乗ったりした行程が、まったくの徒労に過ぎなかったことが明らかになったのです。
もっと岡崎駅をチェックしておけばよかった・・・(T_T)



中岡崎駅の発見でテンションがガタ落ちしてしまった私は、食事する場所を探す気力も失せてしまい、近くにあったコンビニに入りました。
コンビニ弁当を買い、イートインコーナーで食事することとしました。
旅先の朝食とはとても思えない食事をし、岡崎公園へ戻っていきました。





迷走・岡崎市内

2010-09-15 | 移動の旅


2 0 1 0 年 9 月 5 日 ( 日 )

午 後 4 時 5 5 分

名 古 屋 城 東 門



蛍の光の音楽と共に名古屋城を追い出された私は、この日の宿がある岡崎へ向かうこととしました。
しかし私の不注意から、思わぬコストを計上することとなってしまったのです。


まず、その日泊まるホテルの電話番号をメモしていなかったのです。
電話番号案内104で調べ事なきを得ましたが、これにより105円の電話料金を計上。

ホテルに連絡して、チェックイン時刻が予定より遅れることを伝えました。
名古屋城にいることを告げると親切なフロントの翁は、ホテルまでのアクセスを教えてくれました。

金山駅から名鉄に乗って、東岡崎で降りてください。
 ・・・殿橋を渡って・・・(以下略)」

翁は名鉄でのアクセスを推奨していましたが、青春18きっぷを最大限利用して交通費を節約したいところ。
そこで金山駅までは地下鉄で移動し、そこからJR東海道線岡崎駅まで向かうこととしました。
そこから先は・・・まぁ、なんとかなるでしょう♪



じつは後で知ったのですが・・・私が金山駅を利用したこの日、通り魔事件があったそうです・・・・・・怖ッ(・_・;)




午 後 5 時 4 6 分

J R 岡 崎 駅 に 到 着


金山駅からはJR東海道線で岡崎駅へ。
岡崎駅からは、とりあえず徒歩で東岡崎駅方面へと移動します。
「東岡崎」というくらいだから・・・岡崎駅の東口から出てそのまま東に向かえばいいんだろうくらいの認識で歩き出しました。
駅の周辺地図をまったく見ずに。


岡崎駅から歩いて数分、大通りの国道248号線にたどり着きました。
ここでようやく、携帯電話で地図を確認すると・・・方向が違う。
「東岡崎駅」というくらいだから岡崎駅の東にあるんだろうと思っていましたが、実際は北の方向にあります。
なんという地名サギ・・・いや、地図をよく見なかった私が悪いのですが(^_^;)

軌道修正し、国道を北へと歩きます。


腹減った。
見知らぬ土地を手がかりもなしに歩き回るというのは、想像以上に体力を消耗するものです。

幸い国道248号沿いには飲食店も多く、目に入ってきたびっくりドンキーに入りました。
犬山で味噌煮込みうどんを食べて以来の食事。
空腹になっていた私は、1,600円くらいのハンバーグステーキをぺろり。
普段は旅先の食事を1,000円以内で済ます私も、今回ばかりは疲れていたのか、がっつり食べてしまいました。

お勘定で、ついでに東岡崎駅へのアクセスを尋ねてみました。
親切な店員の老女は、バスに乗って行くルートを教えてくれました。


店を出ると、腹いっぱいで歩く気力が失せてしまいました。
徒歩での移動をあっさり諦め、近くにあった名鉄バスのバス停へ。
待ち時間はほとんどなくして、バスがやってきました。


バスには乗りましたが、どこで下りればいいのか???
ホテルの翁が行っていた殿橋とかいうところで下りてみようか???

乗車時間20分弱、殿橋バス停で下車。
バスの運賃210円を支払いました。


殿橋は岡崎城のすぐそばにありました。
そして今晩宿泊するホテルも、岡崎城のすぐそばにあったのでした。




午 後 7 時 2 0 分

チ ェ ッ ク イ ン


フロントには、電話で話した支配人と思われる翁がいました。
チェックインのついでに、翌日訪れる予定の岡崎城について尋ねました。
翁はわが意を得たりと、岡崎の名所と徳川家康のことを語ってくれました。
支配人のお話を10分くらい拝聴して、観光マップをもらい、自室に向かっていきました。




さて翁のアドバイスに従わなかったため、今回の移動はこんな具合となりました。


【今回の移動記録】

名古屋市営地下鉄 (M07)市役所前駅 17時05分発
(M)名城線 左回り
(M01)金山駅 17時15分着

JR東海 金山駅 17時21分発
東海道線 新快速 豊橋行き
岡崎駅 17時46分着

名鉄バス 東戸崎バス停 18時56分発
市民病院行き
殿橋バス停 19時13分着

*所要時間 2時間08分(乗車時間 52分 乗換時間 6分 徒歩&食事時間 1時間10分)
*移動距離 推定45.6km(鉄道 41.1km 徒歩 約1.5km バス 約3km)
*運賃 440円(地下鉄 230円 JRは18きっぷ使用(使用しない場合は600円) バス 210円)

※運賃は乗車当時のものです。


かなりの時間を要してしまいましたが、仮に翁のアドバイスを受け入れていたら・・・


名古屋市営地下鉄 (M07)市役所前駅 17時05分発
(M)名城線 左回り
(M01)金山駅 17時15分着

MEITETSU 名古屋鉄道 (NH34)金山駅 17時21分発
[NH]名古屋本線 快速特急 豊橋行き
(NH13)東岡崎駅 17時47分着

*所要時間 42分(乗車時間 36分 乗換時間 6分)
*移動距離 38.9km
*運賃 820円(地下鉄 230円 名鉄590円)

※運賃は当時のもの。
 ダイヤは地下鉄は当時のもので、名鉄は現行のものを参考としています。


あっさり到着してました(・_・;)
それでたぶんムダな飲み食いをしなかっただろうから・・・・・・地元の方のアドバイスは、素直に受け入れるべきですね。





犬山城下町を放浪して名古屋へ

2010-09-14 | お散歩


2 0 1 0 年 9 月 5 日 ( 日 )

午 後 1 時 0 2 分

愛 知 県 犬 山 市

犬 山 城 下 ・ 本 町 通 り



前日の都内も暑かった・・・
そしてこの日も気温=体温という暑さ・・・。

前日は私の決断の遅さがたたって風呂に入れずじまい。
そしてこの日も朝から風呂に入れていません・・・。

風呂に入りたい。

犬山城の登城前に、観光案内所で聴取した入浴施設「さら・さくら」
そこへ向かうのが最善の策と思い定め、そのシャトルバスが出ているという犬山駅を目指すこととしました。




今思えばそぞろ歩きにふさわしい、風情ある町並み。
だがこの時は、そのような雰囲気を味わう余裕はまったくありません。



前を歩く男女二人につられるように、趣きのある古民家に入っていきます。
判断力も鈍っているのか、ひとときの休みがほしかったのか・・・暑さにヤラれ、完全に惰性で動いているかのよう。



この古民家、旧磯辺家住宅【国指定登録文化財】は入場無料。
中では、福助さんがひょっこりと鎮座しておられました。


旧磯辺家住宅から約10分、犬山駅に到着しました。
入浴への渇望にはやる私は、犬山駅の観光案内所にて「さら・さくら」行きシャトルバスの出発場所を問うたところ、

「日曜日はシャトルバスは出ていませんよ」

案内所の淑女、非情な現実を突き付けてきました。
案内所の地図を見てみると、駅から「さら・さくら」までは明らかに3キロ以上離れています。

すると親切なる案内所の淑女は、
『サンパーク犬山』でも入浴できますよ。歩いて12~3分くらいですね」

この状況下での徒歩12~3分は荷が重い・・・
とはいえ現時点では最善であろう、「サンパーク犬山」に向けてひた歩きます。


15分くらいかかって到着。
入浴料500円を支払い、

ねんがんのアイスソードを風呂に入れたぞ!

暑さに火照った肌を水で冷やし、汚れた体を洗い、コーヒー牛乳と飲むヨーグルトをがぶ飲みして、外に出ました。




午 後 2 時 5 2 分

名 鉄 犬 山 駅


風呂上がりのさっぱりした体も束の間、気温=体温という暑さに変わりはなく、駅に戻る前に汗びっしょりになってしまいました。
とはいえ、31時間かけて蓄積した旅の垢を洗い落とした私は、心持ちに余裕をもって名古屋城【国指定特別史跡】を目指します。

名古屋城の最寄駅は名古屋市営地下鉄・市役所駅です。
JR名古屋駅からだと距離がだいぶありそうなので、ここは素直に名鉄&地下鉄で向かうこととします。

まず、犬山駅からは名鉄小牧線に乗ります。
乗車した電車は、小牧線の起点・上飯田駅を越えて地下鉄上飯田線に直通する平安通行き。
犬山駅は小牧線の終点なので、小牧線を完全制覇することに。
さらに上飯田線は、上飯田駅と平安通駅の2駅しかない日本最短の地下鉄路線なので、乗車1回で2路線を制覇することができました。


平安通からは、名城線に乗り換えです。
名城線は環状路線で、東京では大江戸線に当たるような存在です。
環状路線ではあるのですが、金山駅名港線へと分岐しているので、行き先に注意して乗車する必要があります。

今回乗車した電車は、内回り電車で名港線に直通する名古屋港行き。
平安通駅から4駅目の市役所駅で下車しました。


地下鉄市役所駅から名古屋城は、目と鼻の先。
この日最後の登城に向かいます。



【今回の乗車記録】

名古屋鉄道 犬山駅 14時56分発
(KM)小牧線 普通 名古屋市営地下鉄上飯田線直通 平安通(K02)行き
15時31分着

名古屋市営地下鉄 平安通駅(M11) 15時34分発
(M)名城線 内回り 名港線直通 名古屋港(E07)行き
市役所駅(M07) 15時44分着

【移動距離】25.3Km  【運賃】670円

※運賃は乗車当時のものです。



日本100名城登城の旅・第12話へ続く。


国宝・犬山城

2010-09-13 | 城郭【日本100名城】


2 0 1 0 年 9 月 5 日 ( 日 )

午 後 1 2 時 0 4 分

愛 知 県 犬 山 市

犬 山 城 登 城 口





崖の上に建ち川の流れを見下ろすさまを長江中流の名城になぞらえ、「白帝城」と称される犬山城【国指定史跡】。

 
 
登城口前の店で味噌煮込みを賞味し、意気揚々として登城を開始します。



登城口から石段と坂を登れば、ものの数分もせず本丸への門へ。
ここで入城料500円を支払い、



犬山城天守【国宝】に到達しました。


犬山城は、はじめ織田信長の叔父・信康によって建造されました。
足下を流れる木曽川を天然の濠とするこの城は、対齋藤家の戦いにおいて最前線の要害でした。

時は流れ、豊臣秀吉が信長の後継者として天下統一に乗り出します。
その最大の障害は、信長の同盟相手でもあった徳川家康です。
両者が衝突した小牧長久手の戦いでは、秀吉が12万の大軍を率いて犬山城に入り、家康と対峙しました。

秀吉が亡くなり家康の天下が訪れると、尾張徳川家の付家老である成瀬正成が犬山城主となりました。
以後犬山城は、(あいだに明治政府の接収があったものの)なんと平成16年まで成瀬家が城主を務めていました。

犬山城の天守が建てられたのは、天文年間(信長の時代)と慶長年間(秀吉の時代)で学説が分かれているものの、その様式は日本最古のものとされています。



それでは天守へ。靴を脱いで、中に入ります。



入口には自然石をそのまま積んだ野面積みの石垣を見ることができます。



1階は納戸の間で、危急時に作戦を練り、武士が控える間。
2階は武具の間で、その名のとおり武具を格納していたところです。



狭く昇降しづらい急な階段。
天井も低く、油断すると頭をぶつけてしまいます。

 

3階、破風(はふ)の間
天守の装飾である破風を構成しています。
右画像の、屋根が弓なりになっている唐破風が、中からでは左画像のようになっています。

最上階、高欄の間



らんかんの高さは、成年男子のヒザ程度の高さしかありません。
そして長い年月を経た木床のきしむ音が、いささかの恐怖を呼び起こします。

しかし、眺望はとてもすばらしい。



西側。眼下にはライン大橋
対岸に見える山は伊木山といい、齋藤方の砦があったといいます。
空気が澄んでいれば、岐阜城も見えるそうです。



東側。木曽川に犬山橋が架かります。
道路橋と鉄橋の2本の橋がかかっていることから「ツインブリッジ」とも呼ばれます。
犬山城に登城する前に利用した名鉄犬山線がこの橋を渡っていて、橋の北端が新鵜沼駅、南端が犬山遊園駅になっています。

ところで、最上階だけはなぜかレッドカーペットが敷かれていました。


さて、国宝の天守を堪能し、100名城スタンプを探します。
しかしガイドブックには、「城郭内」としか書かれていません。
なんとアバウトな表記だろうか。
とりあえず天守閣入口の職員に尋ねると、

 

スタンプは、入場門の裏手から階段で入る事務所の中にありました。



43番、犬山城!



午後1時、犬山城を出ました。